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No.187 むかしむかしのベルギ-では

No.187  むかしむかしのベルギ-では

 皆さん、明けましておめでとうございます。
 といっても、大震災の被災地の皆さんには、とてもおめでとうございますなどと申し上げることはできません。
 でも、2012年が少しでもよい年でありますようにとの願いを込めて、敢えておめでとうございますをいわせていただきます。
 2011年の1月元旦に、誰が3月11日の巨大地震と津波を予測したでしょうか。誰が福島原発の問題を予測したでしょうか。
 運命論とか宿命論に従えば、その人はそうなる運命だったのだということになるのでしょうが、それでは大震災の犠牲になった方や、今も生まれ育った故郷に帰れない方々に申し訳が立ちません。人間に自由意志がある限り、運命論や宿命論に組するわけにはいきません。祖国、日本の人々は 困難に打ち勝ち、困難を乗り越える叡智をもっていると信じてます。新しい年が希望のもてる年でありますよう、心から祈りたい気持ちでいっぱいです。

 2012年も、大多数の在留邦人の方々は、このベルギ-という国にお世話になりながら生活をしていくことになるでしょう。
 大きな自然の災害こそありませんが、この国もなにかと大変なことが多いですね。
 この稿を書いている現在、ベルギ-にはまだ正式な政府がありません。総選挙の結果がでてからもう515日もたっています。みんな慣れっこになってしまったのか、最近はマスコミの扱い量もぐっと減ってしまいました。
 政権に参加するフラマン語圏とフランス語圏の政党間で、重大な障害になっていた選挙区の問題と裁判権の問題でなんとか合意にこぎつけたので、国民はもう大丈夫と思っているのかもしれません。

  ベルギ-の政治危機は忘れたころにやってくる自然災害ではなく、季節の変わり目に顔を出す身体の不調みたいなものです。
 わたしがベルギ-に来てから経験した政治危機は、両手の指では数え切れません。わたしがベルギ-のル-ヴァンに着いたときは、ルーヴァン大学分離問題の余韻がまだ残っていました。
 昔、本欄に書いたことがありますが、ル-ヴァン大学分離問題はベルギ-のフラマン語圏とフランス語圏の対立が先鋭化し、現在の政治危機まで続く一つの起因となった大事件でした。
 1830年にベルギ-が独立したときのベルギー国憲法は、フランス語でしか書かれていませんでした。独立以来、ベルギ-の高等教育の言葉はフランス語だけでした。フラマン語で勉強できたのは、小学校までです。
 ですから、ベルギ-の上流階級、財界、政府、軍隊の将校、教会の高位聖職者などの指導階層はフランス語で教育を受け、フランス語しか話しませんでした。フラマン語は完全になおざりにされていたのです。
 今のベルギ-では考えられない話しですが、当時のベルギ-で最もきれいなフランス語を話していたのは、ゲントのフラマンの上流階級だったといわれてます。

 1425年創立のルーヴァン大学は、昔は授業はラテン語で行われていましたが、近世に至り授業の言葉はフランス語になりました。
 自分たちの言葉をなおざりにされていたフラマンの人たちが、黙っていたわけではありません。フラマン語の権利回復運動は年々活発になり、特に第一次大戦を契機にしてフラマン語の高等教育機関が次々と生まれました。
 これは、ベルギ-に侵攻したドイツの軍政が、同じゲルマン系の言葉であるフラマン語の地位を高める政策を採ったためです。
 ルーヴァン大学にもフランス語と並んでフラマン語の学科が併設されました。このドイツの占領軍政策に対して、当時のベルギ-のカトリック教会の最高位にあったメルシエ枢機卿はカトリック大学であるル-ヴァン大学の理事長でもありましたが、「フラマン語は学問の言葉としてふさわしくない」と発言して、フラマンの民族主義者の憤激をかったのは有名な話しです。
 面白いのは、当時のフラマンのインテリ階層のなかで、メルシエ枢機卿の発言に同調する人がかなりいたという事実です。

 メルシエ枢機卿は学問の世界でも世界的に知られた碩学でした。そして、ドイツ軍の占領政策からベルギ-国民を守るため、断固として占領軍に抵抗した硬骨の人でもありました。占領軍にとって、メルシエ枢機卿はまさに目の上のたんこぶ的存在でしたが、同じキリスト教国であるドイツは、カトリック教会の枢機卿がどれほど重要な地位であるかを知っていましたので、メルシエ枢機卿に手を出すことができませんでした。
 「フラマン語は学問…」の発言でミソはつけたものの、メルシエ枢機卿は大戦後、国民的な英雄としてベルギ-国民の声望をにないました。
 ブリュッセルのサンミッッシェル教会の横に枢機卿の銅像が立ってますので、今度通るとき見てください。

 ル-ヴァン大学にフランス語とフラマン語の学科ができて、めでたしめでたしで行けばよかったのでしょうが、そうは行きませんでした。
 フランドル地方の経済的な発展とあいまって、フラマンの人たちの権利回復運動はつに言語法の成立にまで至りました。
 言語法とは、簡単にいえば言語境界線を定め、境界線の中では司法、行政、教育などは定められた公用語で行うというものです。
 ベルギ-国内を車で走ってると、言語法の存在がよくわかります。道路標示の言葉が変わりますから。それにしても、MonsをBergenと表示するのはやめて欲しいですね。Monsに行きたい外国人にはいい迷惑です。もちろん、AntwerpenをAnversと表示するのもまずいでしょう。
 ま、お世話になってる国にあまり文句はいわない方がいいでしょうが、困ることは困りますね。

 言語法で問題になるのがル-ヴァン大学です。大学のあるル-ヴァンの町は言語法で定められたフラマン語圏にあります。そこで15000人以上の学生がフランス語で教育を受けているのは、明らかな法律違反です。
 言語法成立のとき、ル-ヴァン大学は特例としてフランス語での教育を認めるという妥協案が認められました。
 しかし、フラマンの民族主義運動、権利回復運動はこの妥協案をも葬り去りました。
「ワロン出て行け !!」の叫びと共にフラマン系学生デモが連日繰り返され、これに対抗するフランス語系学生のデモ隊との衝突により、ついに学生の死者まで出る事態になりました。内閣は総辞職し、ルーヴァン大学の分離が決まりました。
 この事件はベルギ-の国民の間に越え難い溝をつくり、人々の心にトラウマとして残りました。

 わたしがル-ヴァンに着いたときは分離が決定した後でしたが、フランス語系の新ル-ヴァン(La Louvain-la-Neuve)は工事が始まったばかりでしたので、古いLeuvenで勉強してました。一緒に使ってたのは、中央図書館と学食ぐらいで、大学事務局や教室は完全に分かれていました。さらに、学生がビールを飲むカッフェもフラマン系学生の行くカッフェとフランス語系学生の行くカッフェははっきり分かれてました。
 もっとも、わたしの場合日本人なので、両方のカッフェに出入りしてましたが、フラマン系のカッフェではさすがにフランス語を話せる雰囲気ではありませんでした。

 総選挙のあと一年以上も政府がなかったり、二つの言語圏の対立でベルギ-国そのものの存続さえ危ぶまれたり、ベルギ-という国はなにかと大変なことの多い国です。
 でも、この国の人たちは昔ながらの生活スタイルを守り、ヴァカンスはきちんと取り、食べたり飲んだりすることが好きで、おいしいレストランはいつも満員です。
 しかも経済成長率ではEU加盟国の中でも優等生です。政治家がいなくても、国民はちゃんとやっていける見本のような国がベルギ-ではないか。フランスもベルギ-を見習ったらどうかとは、フランスの新聞が皮肉っぽく書いていた言葉でした。

 ベルギ-という国は、今から180年前にオランダから独立してできた国です。歴史的には比較的新しい国です。
 しかしこの地に住んでいた人々の歴史は、他のヨ-ロッパ諸国の民族の歴史と比べても、いささかも遜色のない長い歴史をもってます。
 昔からこの地に住んでいた人たちは、どんな生活をしていたのでしょう。
 まず、昔の人たちはみんな早起きでした。日の出で前に起きるのが普通でした。日の出前に起きて身支度をし、太陽の光が出るとともに働きに出ました。人々は朝が待ち遠しかったのです。中世の夜は本当に闇の世界でした。
 ローソクは貴重品でしたので、太陽が沈み夜の闇がおし寄せてくると、人々は寝るしかありませんでした。朝の太陽の光が、どれほど人々の心を明るくしてくれたか、現代人の私たちの想像をはるかに超えるものがありました。
 キリスト教の復活祭が春に祝われるのも、昔の人々の光への飢えを満たすためだったのではないでしょうか。
 寒くて暗い冬をじっと耐えるだけではなく、食料不足による飢えとの闘いがありました。パンを焼くための小麦は底をつき、秋に仕込んだ豚の塩漬け肉もなくなってきます。人々の春を待つ気持ち、光への渇望がキリストの復活を祝う気持ちと結びついたとしても、不思議はないでしょう。

 中世の人々は何を主に食べていたのでしょうか。
 戦争や天候不順による飢餓が珍しくなかった時代に、食べるということは生活の上で最も重要な要素でした。
 ただ、同じ食べるという事象をとりあげても、王侯貴族の食卓と一般庶民や農民の食卓の間には大きな差がありました。
 一般庶民や農民の常食は、パンとそら豆えんどう豆などの豆類をいれたス-プでした。特にパンをたくさんべました。パンをス-プに浸して食べるのが一般的な食べ方です。われわれ日本人のご飯と味噌汁みたいなものです。
 パンをたくさん食べる伝統は今でも続いてます。皆さんはこちらの人と会食するとき、彼ら或いは彼女らがよくパンを食べると思いませんか。
 テ-ブルに着くと、ボ-イさんが持ってくるパンをちぎってむしゃむしゃと食べ始めます。食事中もパンを食べ、デザ-トの後、パンとチ-ズで残っているワインを楽しみます。よく胃袋に入るものだと感心します。
 他の言葉ではどういうか知りませんが、仏語に関していえば、「ス-プを飲む」とはいいません。「ス-プを食べる」といいます。この言い方は、昔からの伝統的な食事の仕方から来ているのでしょう。

 領主や貴族、都市の富裕層の食卓はパンとス-プがメインではありません。
 堀米庸三先生の本に、中世のパリの裕福な市民の正餐メニュ-がでてましたので引用します。
 第一コ-ス:牛の脂および骨髄を刻み込んだ子牛のパテとうなぎのパテ、ブダンノワ-ル(豚の血と脂で作った一種のソーセ-ジ)とソーセ-ジ腹にひき肉をつめた木ひばり、  ノルマンディ-産のパテ。
 第二コ-ス:兎のシチュ-(玉ねぎ、葡萄酒入り)、うなぎのシチュ-、そら豆 の濾し汁、牛と羊の大ぶり塩漬け肉。
 第三コ-ス:去勢鶏、兎、子牛、山うずらの焼肉、淡水産、海水産に焼き魚。
 第四コ-ス:辛子ソ-ス入り鯉のス-プ、脂肪とパセリのパン入りス-プ添え肥えた去勢鶏のパテその他。
 第五コ-ス:豚の脂肉入りス-プ、米、うなぎ、海水、淡水の焼き魚、肉だんご、クレ-プ、砂糖。
 第六コ-ス:プリン、花梨の実のサラダ、煮梨、糖菓、肉桂入り甘葡萄酒他。

 いくら正餐のご馳走とはいえ、本当にこんなに食べたのでしょうか。普通の日本人なら、ひとつのコ-スだけでお腹がいっぱいになってしまうでしょう。
 かねがね、欧米の人の健啖ぶりには感心することが多かったのですが、中世の人たちの方がすごかったようですね。
 皆さんは、このメニュ-の中で、是非食べてみたい、おいしそうと思われる料理がありますか。わたしは残念ながらありません。
 この中に、一つだけ何度か食べたことのある料理があります。
 それは、第一コ-スにある「ブダンノワ-ル」です。ブダンにはブダンノワ-ル(黒)とブダンブラン(白)の二種類があります。黒は豚の脂と血がべ-スで、白は豚の脂と肉がベ-スです。いずれも、材料を腸詰めにしてゆでたものです。
 中世の人々にとって、豚は貴重な食料源でした。豚は肉の利用だけでなく、ハムやソーセージ、サラミ、ブダンといった多彩な加工品を生み出してくれます。スペインのパタネグラやイタリアのサンダニエルといったすばらしい生ハムを味わえる幸せは、もちろん材料となる豚のおかげですが、絶え間ない創意工夫をこらして、おいしいハムを作ってきた中世以来の人々のおかげです。
 豚は捨てるところがないといわれますが、ブダンの材料として、まさに血の一滴までも利用してました。
 皆さん、もしブダンを食べてみたかったら、ス-パ-で買うより専門の肉屋さんで自家製のブダンを買った方がおいしいです。
 ベルギ-では昔、新年に白ブダンを食べる習慣がありましたが、今はこの習慣は廃れてしまったみたいです。

 中世の人々は豆類をたくさん食べてました。
 豆のお話では旧約聖書創世記に、エサウが狩りに失敗して弟のヤコブにレンズ豆の煮物を食べさせてもらった代償に、自分の長子権を弟に譲る話が有名です。
 豆は良質のたんぱく質を豊富に含み、コレステロ-ルを減らす働きがあり、抗酸化にもいいそうですね。昔の人たちは豆の科学的分析結果などは知らなくとも、身体にいい食べ物を本能的に知って食べていたのでしょう。
 日本人の好きな枝豆にビ-ルも身体にはいいのでしょうか。わが「ベルギ-痛風友の会」のメンバ-に限っていえば、枝豆はよくてもビ-ルは飲まないほうがいいのです。ビ-ルには、痛風を引き起こす原因となるプリン体なる物質が豊富に含まれているからです。枝豆もこれが乾燥大豆になると、プリン体がぐんと跳ね上がりから不思議です。ま、痛風持ちでない方には関係のない話しではありますが。

 飲み物は地方によってワインだったり、ビ-ルだったりしまたが、現在のベルギ-の辺りではもっぱらビ-ルが飲まれてました。ビ-ルを飲んでたのは、健康上の理由が大きかったのです。水の質が悪く、また浄化装置などない時代ですから水の汚染が結構大きな問題でした。水分をビ-ルから取るというのは、生活の知恵でもあったわけです。
 ところでお父さん、お父さんがビ-ルを飲むのは水分補給が目的ではありませんよね。仕事の後や、汗をかいた後に飲むビ-ルがおいしいからでしょう。ほろ酔い気分もいいですね。今年も、ビ-ルのおいしいベルギ-で暮らせる幸せをかみしめ、ベルギ-の皆さんに感謝しながら元気に行こうではありませんか。    (かんとう)



No.188 フランス料理の危機

188.フランス料理の危機

 最近、ちょっと面白い経験をしました。
 それは、2週間の日本出張で体重が2.5キロも減ったことです。日本滞在中に食を抑えたわけではありません。仕事がうまくいかなくて、悶々と眠れぬ夜を過ごしたわけでもありません。食欲が衰えたわけでもありません。
 それどころか、ベルギ-にいては食べられない日本のおいしい料理や珍しい料理を片っぱしから食べあるき、夜ごと取引先や日本の知人や友人とおいしい酒をたっぷりと飲んできました。

 居酒屋大好き人間なので、東京の居酒屋名店紹介本を片手に次々と居酒屋制覇を試みてきました。中にはミシュランの一つ星をもらってる居酒屋もありました。
 居酒屋の醍醐味は、カウンタ-に座って店のご主人や板前さんとしゃべりながら一杯やることだと、自分では思ってます。しかし大東京のど真ん中で、一見の客である自分の話し相手になってくれる奇特なご主人や板前さんはそんなにはいません。 
 話しのきっかけをつかむためにまずやったことは、店に福島の酒があるかどうかを聞くことでした。福島の酒がなければ、せめて東北の被災地の酒があるかどうかを聞きました。お陰で福島の酒をおいてる店では結構話がはずみました。自分が福島県の出身であることや、流れ流れてベルギ-までたどり着いた話しなどをすると、店のご主人や板前さんとの会話は結構盛り上がりました。

 日本に行って、なぜ体重が減ったのか考えてみました。
 思い当たることは二つあります。一つは日本の食べ物です。純粋な日本料理は世界で最も健康的な食べ物であると確信しています。この料理を食べていれば太るはずがありません。日本人のメタボは、日本料理の伝統から外れたものを食べることによって起こると考えてます。
 先日、日本の新聞に出ていましたが、人口に対する肥満体の割合のトップがアメリカで、なんと人口の34.30%もの人が肥満体なのです。これに対して、日本人の肥満体率はたったの3.40%です。この数字を見ても、日本食がどれだけ健康的であるかがわかります。

 個人的な好みとして、脂っこいものや揚げ物はあまり食べません。もともと日本料理に脂っこい食べ物はないので、自分にはぴったりの食べ物です。
 天麩羅は揚げ物ですが、本職の天麩羅職人が、ごま油などの良質の植物油を使ってからりと揚げた天麩羅は、胃にもたれたり、肥満の原因になることはありません。
 ベルギー名物のフリッツの揚げ油には動物性の脂が入ってます。これで揚げたフリッツにマヨネ-ズをべちゃりとかけて食べ続ければ、身体に与える影響がどんなものか、わが天麩羅との違いは明白です。
 トンカツとかカツレツは日本食には入ってますが、もともと外来の料理で正統派日本料理ではないと思います。
 わたしの友人でイベリコ豚のカツドンやカツカレ-はまって、毎日のように食べた結果、ついに糖尿病になった男がいますので気をつけましょう。

 ところで、天麩羅は純粋な日本料理なのでしょうか。どうやら天麩羅の起源は西洋料理にあるようです。
 16世紀にポルトガル人が初めて日本に渡来してから、西洋の文物が日本人の生活に入りこみ始めました。その中に天麩羅があったようです。
 日本に来ていたポルトガル人たちが、毎年春先のある時期になると、あれほど好きな肉食をぴたりとやめて、魚やえびなどを溶いた粉にいれて、油で揚げて食べるのを日本人たちは見ていました。
 好奇心に駆られた日本人がその料理は何かと問うと、ポルトガル人は“クワトロテンポ-ラ”と答えました。ポルトガル人がいいたかった本当の意味は、カトリック教会の暦にある四旬節(Quatro Tempora)のことでした。
 カトリック暦では、復活祭前の40日間は肉食を避け、魚や穀類を食べたり断食をしたりして、身の精進潔斎をはかることになってます。
 クワトロテンポ-ラという カトリックの四旬節から来たことばが、天麩羅の語源みたいです。
 ポルトガル人が食べていた単純な揚げ物料理を土台にしながら創意工夫を重ね、天麩羅という洗練された日本料理を作り上げた日本人の料理感覚は、世界誇るべき日本人の資質の一つではないでしょうか。

 日本に行って体重が減ったもう一つの理由は、ひたすら歩いたことです。東京の地下鉄、JRを利用する際に歩く距離は半端ではありません。駅の階段の上り下りも減量に多大な効果があったと思います。日本にはまだまだ多いエスカレ-タ-のない駅をそのときは呪ったものですが、今となっては感謝しなければなりません。
 とにかく、車を多用するブリュッセルの日常生活とは比べものにならない運動を日本では毎日やったわけですから、体重が減ったのも当然なのでしょう。
 今度ベルギ-の皆さん向けに、「日本減量ツア-」、「日本料理を食べてダイエットしよう」「2週間で3Kg減保証ツア-」など作って売り出したら成功するかも知れません。もっとも、昨今の超円高、ユ-ロ安が改善されないと無理でしょうが。

 標題とは関係のない話しを書いてしまいましたが、標題に戻ります。
 イタリアにイタリア語勉強で一ヶ月間行ってた時、日頃読みたいと思っていた本を何冊か持って行きました。その中に現在のフランス料理が直面する問題を扱った本が2冊ありました。一冊は「La Cuisine Française, un chef-d’œuvre en péril(危機に面している傑作、フランス料理)」という本でMichael Steinbergerというアメリカで最も有名な料理並びにワイン評論家が書いた本。もう一冊は「Le Livre Noir de la Gastronomie française(フランスの美食についての黒書)」という本でAymeric Mantouxとmmanuel Rubinの共著の本です。二人ともフランスの著名なレストラン、料理雑誌の編集長で、食味評論家でもあります。
 二冊の本は、ユネスコの世界遺産に登録されたフランス料理が実は危機的状況にあるという点で共通の認識を示しています。

 日本もそうですが、今や世をあげてのグルメ、料理ブームです。
 フランスのテレビTF1の「Masterchef」(セミプロ級の料理愛好家が技を競う番組。この番組で優勝して一流のシェフになった人もいる)やRTLの「Dinner presque parfait(殆ど完璧なディナ-)」(友人、知人を家に招いての食事で、料理を作る段階から番組が始まり、食後に料理の評価の点数がでる)などの人気番組 を始め、どこのテレビ局でも料理やグルメの番組をやってます。
 テレビだけではありません。フランスのインタ-ネット上には、料理のレシピに関するブログが1200件はあるそうです。料理やグルメについての出版物は数が多すぎてて見当もつきません。それでもフランス料理は危機的状況にあるのでしょうか。

 1970年代には、どんなに有名なシェフでも表舞台に出ることはありませんでした。料理人がキッチンから出ることはありませんでした。
 それがヌベルクイジンヌの旗手、ポ-ルボギュ-ズ、ジョエルロブション、アランシャペルなどの料理人が世に出るにおよんで、状況が変わってきます。
 それまでは料理人の名前より、どこそこの料理という基準でレストランを選んでいた客層が、シェフの名前でレストランを選ぶようになってきたのです。さらに、雑誌やテレビが有名シェフを取り上げて記事や番組を作るようになると、彼らは一躍スタ-扱いされるようになりました。
 こういう社会現象を銀行や投資家が黙ってみてません。そのシェフに投資することが商売になるとわかれば、地方の小さなレストランを改装して豪華レストランにしたり、都会の富裕な客層に来てもらうためのヘリポ-トを作ったりする資金を融資するようになります。

 そして、有名シェフが料理よりも自分の事業拡大に熱意を傾けるようになってきます。ポ-ルボギュ-ズ、ジョエルロブション、ジョルジュブランらがフランス以外にニュ-ヨ-ク、東京、香港などに次々とレストランを開き、一大料理帝国を築いていきます。彼らにとって、料理の質より事業の拡大がより大事の目標になってきます。
 冷凍食品に有名シェフの名前をつけるだけで、売り上げが30%は伸びるといわれてます。勿論、シェフは自分の名前をつける冷凍食品の品質には責任をもつのでしょうが、そのために支払われる名義料は通常70万ユ-ロ以上だそうです。
 皆さんはス-パ-でベルギ-の有名シェフの名前や写真入りの冷凍食品を見たことはありませんか。二つ星や三つ星レストランのシェフが出ています。ただベルギ-の有名シェフは、自分のレストランの料理に専念する人が大部分なのでまだいいほうでしょう。一人だけ某二つ星レストランのシェフが、他にレストランを二つ経営してますがベルギ-では例外です。

 これは実話です。
 フランスのある雑誌が某有名シェフを取り上げ、彼が料理する姿を写真にとることになりました。ところがこのシェフはある料理の手順をどうしても思い出せなくて、自分の弟子の料理人を呼んで助けてもらったそうです。
 ポ-ルボギュ-ズの後、現代フランス料理界の大御所といわれるアランデュカスが、「大多数の有名シェフはこの20年間自分で料理を作ったことがない」とはっきりいってます。当然、アランデュカス自身も作ってないのでしょう。
 パリの三つ星レストランのシェフ、ヤニクアレノが料理人を目ざす動機となったのが、ある日、有名シェフがパリの高級ブティックに真っ赤なスポ-ツカ-で乗りつけるのを見たからだそうです。
 パリの某有名シェフが、ある雑誌のインタビュ-で収入を聞かれた時の答えが、「芸術に値段はありません」でした。ちなみにこのシェフがテレビの料理番組に出る時の謝礼が、一回15万ユ-ロだそうです。
 世界遺産にまでなっているフランス料理の担い手が、料理もせず金儲けと事業の拡大に走り回っている姿は、確かに危機的状況と捉えてもいいのかも知れません。

現代のフランスの平均的家庭が料理に費やす時間は38分だそうです。かつてのフランス人家庭は、料理に平均3時間は使っていたそうですから大変な違いです。世の中がこれだけ忙しくなり、共働きが当たり前になっている現代社会で、料理に3時間もかける余裕がないのは当然です。
 しかし美食の国フランスの国民が料理に38分しか使わないというのは、ちょっと寂しい気がします。フランスの有名シェフが一様にいってるのが、子供の時から台所で料理をするお母さんの姿や、お母さんの作る料理の味が自分の料理の原点だということです。
 冷凍ピザをチンして食べさせられてる現代の子供たちが、どうやって料理人を目ざすのでしょうか。お母さんが時間をかけてよく煮込んだ料理や、たんねんにソ-スをかけながら焼いた鴨料理など、今の子供たちには無縁の食べ物になってしまったのでしょうか。

 皆さんはマクドナルドの店がフランスに何件あるかご存知ですか。今のところ11000件あります。フランスはアメリカに次ぐマクドナルドの巨大市場なのです。そして、フランスマクドナルドはアメリカの倍のスピ-ドで売り上げを伸ばしています。
 フランスの農業関係者も、マクドナルドのフランス農業への貢献度を認めざるをえなくなっています。フランスマクドナルドの食材の75%はフランス産の農産物や畜産物を使っているからです。
 美食の国フランスの人たちがこんなにマクドナルドを利用している事実は驚きです。
フランス人は平均年に150回は外食をするという数字が出てます。フランス全土で16万件軒のレストランがありますが、その中で60ユ-ロ以上の料金を取るレストランは全体の2%しかありません。
 安くて早いマクドナルドが伸びる理由は、フランス人の食への考え方が変わってきたということでしょうか。
 昔からいわれているフランス人の食に対する考え方は次のようなものです。
 「食事は身体を維持するだけの行為ではない。それは社会的な行為である」
 「よくないワインを飲み、まずい食事をしてる時間はない。なぜなら人生は短かすぎるから」

 料理は文化です。文化は伝承されるものです。文化伝承の歴史のなかで、他文化の影響を受け、これを自文化のなかに取り入れることによって、文化はより豊かになっていきます。顕著な例がフランス料理における日本料理の影響です。
 今や、フランスの名のある料理人で、日本料理の影響を受けてない料理人はいないと断言してもいいでしょう。洗練された日本料理をみて、且つ味わいながら何も感じない料理人は一流とはいえません。優れた料理人の感性は、優れた料理に対して敏感でなければなりません。
 ジョエルロブションは自分の事業のためよく日本に行きますが、彼の訪日時の最大の楽しみは、東京銀座の三つ星鮨店「すきやばし次郎」で、店主の小野二郎さんが握る鮨を食べることだそうです。

 わたしが読んだ本の著者は、フランス料理を駄目にしている原因の一つがミシュランの星だといいます。彼らの厳しいミシュラン批判を紹介します。
 かつてのミシュランは比較的公平な目でレストランの格付けを行ってきたが、今や独裁者ミシュランになりさがった。星が欲しいレストランは、ミシュラン好みの料理、ミシュラン好みの内装、照明、サービスをして媚を売ろうとしている。星をもらえばもらったで、ミシュラン好みスタンディングを維持するため過分な経費をかけなければならず、倒産にいたったレストランさえでている。
 元ミシュランの調査員、パスカルレミが暴露しているように、一部の三つ星レストランは手を触れてはならない聖域化している。調査員の数は圧倒的に不足しており、各レストランの公平な調査は不可能である。
 また、ミシュランに受けがいいジョエルロブションの弟子が開店数ヶ月で星をとっているのに、GaultMillauやフランスの名だたる食味評論家が最高点をつけているウィリアムルドゥイは最初の星を取るのに8年もかかっている。

 独裁者ミシュランへの反逆者が出てくるのは当然である。パリの三つ星レストラン、ルカカ-ルトンのシェフ、アランサンデレンは、「ミシュランの星を維持するために一人400ユ-ロもする料理を作るのはおかしいし、異常だと思う。これから簡単でおいしい料理を作っていきたい」といって、ミシュランに三つ星を返上した。面子をつぶされたミシュランは、サンデレンが新たに開いたレストランに、いきなり二つ星をつけるという子供じみた報復を行った。
 専門家の厳しいミシュラン批判にも拘わらず、星がつくのとつかないのとではレストランの評判も売り上げもがくん違ってきますから、されどミシュランなのでしょう。

 ところでお父さん、お父さんもこれからはミシュランの星などに頼らずに、自分の舌でおいしいレストランを探したらどうですか。人生は短いんですよ。(かんとう)


No.189 イサクとイスマイルの末裔は今

189.イサクとイスマイルの末裔は今

 すべては、ある男が神の声を聞き、その声に導かれて故郷を出たときからはじまりました。その男の名前をアブラハムといいます。アブラハムはメソポタミア地方のウル(現在のイラク南部)という町に住んでいたセム族の族長でした。神はアブラハムに、一族をつれてカナ-ンの地(パレスチナ)に向かうように命じました。
 アブラハムの旅が、後世の世界の歴史に大きな足跡を残すことになろうとは、まさに神のみぞ知り給うところでした。
 旧約聖書の創世記によれば、アブラハムはノアの箱舟で有名なノアの三人の息子の一人、セム(Sem)の子孫とされてます。現代の反ユダヤ主義のことを“Antisemitisme”といいますが、この言葉はノアの息子“Sem”から来ている言葉です。
 アブラハムはユダヤ民族とアラブ民族の祖であり、ユダヤ教の父、キリスト教の祖父、イスラム教の預言者として4000年後の今も尊敬され続けています。

 75歳だったアブラハムは、一族と家畜の群を率いて神の約束の地、カナ-ンに向かいます。カナ-ンの地に入ったアブラハムに神が再び現れ、この地を末代までアブラハムの子孫に与えると約束しました。現在のパレスチナ紛争の起源は創世記にまで遡るのです。
 ところが、カナ-ンの地は飢饉に見舞われ、アブラハムは一族と共にエジプトに避難します。飢饉が終わってカナ-ンに戻った時、アブラハムの妻サラは自分に子供ができないことから、自分の召使いアガ-ルを夫にさしだし、世継ぎをもうけるようにすすめました。こうして生まれたのがイスマイルです。

 イスマイルが13歳になった時、すでに99歳になっていたアブラハムに、神は自分とアブラハムの民との間で契約を結ぶように申し渡します。神はアブラハムの子孫を偉大な民族とし、この民族より多くの国々が派生することを約束します。
 この神とアブラハムの民の契約が旧約聖書の旧約にあたり、ユダヤ民族の選民意識の源になっています。契約の後、神はアブラハムとサラに現れ、二人の間に男子の生まれることを告げ、その子供をイサク(喜び)と名付ける様に命じました。100歳近いアブラハムとサラに子供が生まれることは有り得ないのでしょうが、ま、そこは神様のなさることですから、立ちどまらずに素直に創世記を読み進みましょう。

 イサクの誕生は、イスマイルと母のアガ-ルの運命に大きな変化をもたらすことになります。要は、日本の時代劇によく出てくるお家騒動みたいなものです。
 アブラハムの場合、正妻のサラに子供が生まれないため、サラがすすめて側室に子供を生ませたわけです。しかし、神様のお取り計らいで正妻に長男が誕生しました。
長子権をイスマイルに奪われることを恐れたサラは、夫アブラハムにイスマイルとアガ-ルの追放を迫ります。ひどい話しですが,わが子を得たサラの心情もわからないことはありません。
 アブラハムは自分の息子であるイスマイルを砂漠に追放することに躊躇します。すると神がアブラハムにいいます。「サラの願いを聞いてあげるがよい。汝の民はイサクから出るであろう。さらにイスマイルからも偉大な民が生まれ出るであろう」と。
 こうして、イスマイルを祖として生まれたのがアラブ民族といわれてます。ということは、ユダヤ民族もアラブ民族もアブラハムを祖とする兄弟民族ということになります。
 旧約聖書の内容をおとぎ噺として一笑に付すことは簡単です。しかしその旧約聖書から、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教が出ている事実は、一笑に付せない厳然たる事実です。

 わたしは個人的に旅行が好きなので、これまで世界中を旅しました。数え切れないほど行った国々のなかで、どこが一番印象に残っているかと聞かれれば、答えはイスラエルです。
 実は昨年の暮れに、会社の企画ツア-「イスラエルとヨルダンの旅」の添乗員として3回目のイスラエル訪問を果たしました。
 初めてイスラエルに行ったのは今から10年ほど前のことです。最近では一昨年に行きました。わたしの個人的な経験からいいますと、今のイスラエルは世界でも最も安全な国だと思います。イスラエルの治安対策は半端ではありません。国家の存続と国民の安全に関して、イスラエルほど徹底した対策をとっている国は世界でも珍しいでしょう。
 三たび聖なる都市とよばれるエルサレム、世界中のユダヤ教徒が来て祈りを捧げる嘆きの壁、預言者モハメッドが天に昇った場所とされる岩のド-ム、イエスの故郷ナザレトやイエスが教えを述べたガリラヤ湖周辺、悲劇のマサダ要塞、それに何もしなくても身体が浮かんでしまう塩分濃度が36%の死海(地中海の塩分濃度は3%)等々、イスラエルへの興味はつきません。

 わたしは、なぜかユダヤ民族の歴史に魅かれます。聖書の話しは別にして、一民族の歴史として見た場合、ユダヤ民族の歴史ほど人を引付けてやまない歴史はないと、自分では思ってます。
 旧約聖書を史書としてみるなら、アブラハムから数えて2000年後、紀元70年にユダヤ民族は国を失います。紀元66年に、ロ-マ帝国領だったパレスチナのユダヤ民族はロ-マに対して独立反乱の戦いを起こします。最初は優勢だったユダヤ軍も、
陣容を立て直し、兵力を増強したロ-マ軍に抗する術もなく、ついにはエルサレムを包囲されてしまいました。
 後の皇帝ティトウス率いるロ-マ軍はエルサレムを徹底的に破壊し、ユダヤ教の聖所、神殿に火は放ちこれを破壊します。現在のエルサレムには神殿のほんの一部が残ってますが、これが有名な「嘆きの壁」です。
 エルサレム陥落後、反乱軍は死海の西南岸にそびえるマサダの要塞に立てこもりますが、3年後には力尽きて全員自決してユダヤ戦争は終わります。
 現在はマサダ要塞跡にケーブルカ-で往復できます。要塞から見る周辺の景観は、緑の全くない荒涼たる砂漠地帯です。ユダヤ民族の精神の拠り所であるエルサレムの神殿を破壊され、迫り来る死を前にして、マサダ要塞に立てこもった反乱軍とその家族の心は、朝な夕なに眺めていたであろう周辺の砂漠のように、荒涼たる絶望感に満たされていたのでしょうか。

 ローマのフォロロマ-ノの中にティトウス帝の凱旋門があります。この凱旋門はローマ市内に現存する最古の凱旋門だそうです。面白いのはこの凱旋門に刻まれている浮彫りの内容です。
 凱旋門の壁には、エルサレムの神殿からロ-マ軍が戦利品として供えのパン台、七つの黄金の燭台、銀のラッパなどを運び出している様子が彫られているのです。
 皆さんも今度ロ-マに行くことがあったら、日頃はあまり注意を払わないティトウス帝の凱旋門レリ-フを見てください。そしてこの時以来、世界の流浪の民の運命を背負うことになるユダヤ民族の数奇な歴史に思いを馳せてみてください。

 世界の歴史で、ユダヤ民族ほど迫害や虐殺を受け続けた民族はいません。「ショア」とか「ポグロム」といったユダヤ人虐殺を意味する言葉ができているほど、迫害と虐殺の歴史は長いのです。
 ではなぜユダヤ人は迫害や虐殺の対象になったのでしょうか。責任は中世の教会の神学者にあるという説があります。中世の神学者の見解は、「ユダヤ人には救い主キリストを十字架につけて殺した責任がある」というものです。
 とんだいいがかりです。キリストは人類の罪を贖うため、十字架上で死んで復活するために父なる神が遣わした存在のはずです。
キリストに最終的に死刑判決を下したのはロ-マの総督、ポンシオピラトです。
ピラトはキリストへの死刑判決を回避したかったのですが、ユダヤ教の大祭司らの声に押されて死刑判決を降し、手を洗って後は知らないよと逃げました。
キリストも敬虔なユダヤ教徒でした。彼が殺されたのは自分を神の子といったからです。

 「人類は常に生贄を必要とする」とは、誰の言葉だったでしょうか。人は自分の不幸や自分が属する共同体の問題を、誰かのせいにしたがります。
 学校のいじめや職場のパワハラなども、生贄を求める人間の悲しい習性から来ているのではないでしょうか。
 ヨ-ロッパの歴史においては、この人間の習性にぴったりの相手が不幸にもユダヤ人でした。「キリスト殺し」のレッテルは、生贄として格好の口実でした。ユダヤ人から土地を取り上げたり、財産を没収して追放したり、キリスト教への改宗を強制したり、虐殺したりすることが、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの教えに矛盾しないという不可思議な精神構造が、中世以来のヨ-ロッパ人の間に根付いたのです。
 ユダヤ人迫害のもう一つの理由は、彼らがユダヤ教の教えや戒律を厳密に守り、周囲のキリスト教徒との融和を頑なに拒んできた点にもあると思います。
 別の見方をすれば、彼らのユダヤ教遵守の一貫性こそが、2000年に及ぶ流浪の歴史の中で民族としての一体性を保ってこられた秘密ではないでしょうか。

 イスラエルを旅行すると、ホテルの各部屋のドアの右手上に、5-6センチぐらいの棒状の木片がついていることに気がつきます。一般の家やアパ-トのドアにも付いてるそうです。この木片は、旧約聖書の出エジプト記から来ているユダヤ民族の伝統です。モ-ゼは神の命により、エジプトで奴隷状態にされているイスラエルの民をつれて約束の地カナ-ンに向かう決心をします。しかし、貴重な労働力を失いたくないファラオンはユダヤ人の出国を許しません。
 これに対してヤーウェの神は、エジプトにさまざまな災害をもたらしますが、ファラオンはユダヤ民族の出国を許しません。
 ついにヤ-ウエの神はファラオンとエジプトの民に最も重い罰を下します。それは、ファラオンの長男も含め、エジプト人の家庭の長男に死を与えるというもののです。
 イスラエルの民がこの罰を避けるために、神はイスラエルの民に一つの命令を下します。それは、子羊か子山羊を殺してその血を家の壁に塗ることでした。この血のついている家には死の天使は寄りません。
 自分の長男を失ったファラオンはついに、イスラエルの民のエジプト出国を許します。後は映画でおなじみの紅海が割れたりする場面になります。
 わたしが感心するのは、3000年以上も前の出来事(史実かどうかは別にして)を今でも忘れないで、血の代わりに木片を扉の上に付けている事実です。
 ユダヤ民族の神との契約への忠誠心、強烈な選民意識はわれわれ日本人には理解し難いものがあります。“人の噂も75日”とかいって、物事をあっさり忘却の彼方へ追いやってしまうわれわれ日本人の思考形態では理解は無理かもしれません。

 イスラエルで面白い経歴の人に出会いました。
 その人はわれわれのグル-プの女性ガイド、ラシェルさんです。ラシェルさんの名前の由来は旧約聖書にあります。言葉によって発音は変わりますが、日本語訳の創世記ではラケルです。ラケルはアブラハムの孫に当たるヤコブの奥さんの名前です。
 ラケルの美貌に心を奪われたヤコブは、ラケルのお父さんに結婚の許しを求めました。するとお父さんは、お前がうちで7年間ただ働きしたらラケルとの結婚を許すといいました。ヤコブは7年間ただ働きをして、ついにラケルとの新婚の初夜を迎えます。しかし、ベッドにいたのはラケルのお姉さんでした。
 抗議をするヤコブに対してお父さんは、姉をさしおいて妹が結婚することはわが部族では許されないといいます。7年もただ働きさせておいてひどいはなしです。
 このひどいお父さんは、どうしてもラケルと結婚したかったらもう7年間働けといいます。ヤコブはさらに7年間ただ働きをしてやっとラケルと結婚できました。都合14年かかったわけです。ラケルはそのぐらいすばらしい女性ということになります。
 ガイドのラシェルさんにその話をすると、わたしは夫を10ヶ月待たせただけだわと、笑いながらいいました。

 ラシェルさんの説明を聞いていると、彼女が敬虔なユダヤ教徒であることがわかります。しかし彼女の話しを聞いて驚いたのは、彼女はもともとユダヤ人ではなく、スイスのプロテスタントの家庭に生まれた生粋のスイス人キリスト教徒だったということです。彼女は高校生のころからユダヤ教に関心をもち、ベルンのユダヤ教のシナゴグに通って教義やヘブライ語の勉強を始めました。そしてユダヤ教への改宗の思い絶ちがたく、ついに20歳の時、両親や家族の猛反対を押し切り一人でイスラエルに移住してきました。
 ラシェルさんは自分のことを、ユダヤ人よりもユダヤ的と表現するほど、ユダヤ教の教えに通暁しています。異教徒がユダヤ教に改宗するのは、殆どがユダヤ教徒との結婚が理由で、ラッシェルさんのように、純粋にユダヤ教の教えに傾倒しての改宗は、イスラエルでもきわめて珍しいケ-スだそうです。

 さて、砂漠に追放されたイスマイルの子孫はどうなったのでしょうか。神は、イスマイルをして偉大な民の祖とするという約束を守ったのでしょうか。
 イスラムの解釈に従えば、神はアラビア半島のメッカに生まれたモハメドを通じて、アラブ人を偉大な民族にする道筋をつくりました。モハメドは610年、40歳のとき神の啓示をうけて宣教を開始します。イスラムの教えは燎原の火のごとき勢いでアラビア半島から北アフリカ、イベリア半島を席巻し、西側キリスト教世界を脅かす一大勢力になりました。そして、哲学、医学、天文学、数学、化学など多くの分野でキリスト教世界を凌駕する高度な文化を築きあげました。 
 しかし、イスラム世界は内部分裂と抗争の果てにキリスト教勢力に屈し、近代化の波に乗れず、西側の植民地となっていきます。

 1970年代にベルギー政府はモロッコ人労働者を大量に導入し始めたました。当地在住のお年寄りのモロッコ人は、ブリュッセルの地下鉄は俺たちが作ったと自慢げにいいます。そのころは、被り物をしているモロッコ人女性は殆どが年配の女性で、若い女性が被り物をしている例はまれだったそうです。 
 しかし今やジ-パンに被り物をした若いモロッコ系女性など珍しくもなんともありません。この現象をイスラムへの回帰、あるいは彼女たちのアイデンティティ-を求めての外的証左と見るべきなのでしょうか。
 わたしの友人のモロッコ系ベルギー人の中には大酒飲みがいます。しかしこの大酒飲みも、ラマダン(一ヶ月間、日の出から日没まで食事はおろか水一滴さえも飲んではならないイスラムの戒律)はきちんと守り、その間はアルコ-ルを一滴も口にしません。締めるところは締めているとう感じです。

 こういう現象をみていると、回帰するところや依って立つ思想をもっている民族は強いという印象を受けます。われわれ日本民族は回帰するところや、依って立つ思想をもっているのでしょうか。なにをもって日本人としてのアイデンティティ-の証左を示すことができるのでしょうか。
 ところでお父さん、この質問にどう答えますか。なに、着物をきて歩いてみてはどうかですって。考えが浅はかすね。お母さんに本気でバカにされますよ、そのうち。
                              (かんとう)

No.190 ベルギーのセレブとお偉い方々

190.ベルギーのセレブとお偉い方々



 皆さんは日本へ里帰りしたとき、家族、親戚、友達、知人その他からベルギ-のことをいろいろと聞かれませんか。
 ベルギ-語ってあるの、気候は、主な産業は、近隣の国はどこ、国の大きさは、政治の体制は、大統領はいるの、義務教育は何年、大学入試は大変なの、生活水準は、家賃は、食べ物は、治安は等々、いろいろな質問に答えるのは結構大変ですよね。
 同様に、こちらの人から日本についてのさまざまな質問を受けても、答えられないことはありませんか。
 自分の国や自分が住んでいる国について、わたし達は意外と知らないことが多いと思いませんか。自分をふり返ってみても、紅顔の美少年(?)のころベルギ-の大学で勉強した経緯があり、その後のベルギ-在住が非常に長いですのでが、今でもこの国について分からないことがあります。

 分からないことの一つが、ベルギ-という国の豊かさの秘密です。
 誰がいったのか知りませんが、“おお、可哀想な小国ベルギ-よ、しかし汝は豊かだ“ということばがあります。このことばは、ベルギ-という国の性格をよく言い表していると思います。
 ベルギ-の国土、人口は日本の12分の1程度です。歴史上、絶えず他民族や近隣の大国の支配を受けてきました。独立後もフラマン語圏とフランス語圏の言語紛争、民族対立、それに伴う数え切れないほどの政治危機を経験してきました。
 国民は21%の消費税を払い、EUでもトップクラスの重税を払いながら、暴動も起こさずに暮らしてます。暴動どころか、大多数のベルギ-人はバカンスをしっかりと取り、国外のリゾ-ト地に出かけます。そして、「ベルギ-人はお腹にレンガをもって生まれてくる」といわれるほど、ベルギ-人の持ち家率は高いのです。

 ベルギ-の統計局の数字によれば、ベルギ-の一家族が所有する財産は、平均30万ユ-ロだそうです。この数字の大きな部分は不動産、つまり持ち家が占めてます。
 一方、ベルギ-中央銀行の統計では、ベルギ-人一人当たりの貯蓄高は18000ユーロになってます。また、10家族に1家族は平均70万ユーロの財産を所有してます。これが2017年になると、6家族に1家族が100万ユーロの財産を持つに至るそうです。確かに貧乏ではないですね。
 ベルギ-で250万ユーロ以上の財産を持つ富裕層は人口の1.3%を占めています。イギリスのバ-クレ-銀行の分析によれば、ベルギーの富裕層の財産は10年以内に倍増する見込みとのこと。思わず、「どうやって?」と聞きたくなります。

 どんな人がお金持ちなのでしょうか。
 ベルギ-には、資産と名声の両方を兼ね備える伝統的なブルジョア階級が存在します。この階層には大企業の大株主が多いことでも有名です。このひと達は、いくら控え目にしていても家族の名前を聞いただけでお金持ちと分かります。
 他のお金持ちとしては、先祖から受け継いだ資産の運用に成功した貴族階級(没落したり貧困化した貴族も多い)とか、企業の経営者、成功した起業家などがいます。
 ベルギ-のお金持ちの特徴は、非常に控え目なことです。金持ちであることを外部に現さないように気をつけて暮らしているので目立たないのです。
 アメリカの某有名女優さんのように、専属の美容師に毎週15、000ドルも払う生活はしないのが、この国のお金持ちのようです。
 とはいっても、お金持ちが住む場所はだいたい決まってます。UccleやWaterlooは昔からお金持ちの多いコミュ-ンですが、最近、お金持ちの住むコミュ-ンとして売り出してきたのが、ブリュッセル郊外のランヌ(Lasne)というコミュ-ンです。日本人会の会員の方でランヌに住んでる方はいませんか。もしいたら、あなたはベルギ-の金持ち階級に入るひとです。
 他には、昔から有名な海辺の保養地、クノック(Knokke)やゲント郊外のラ-テンサンマルタン(Laetem-Saint-Martin)などがお金持ちの多い場所です。

 この国の本当の上流階級を構成するのは、やはり伝統的ブルジョアの名家、富裕な名門貴族です。彼らは排他的なクラブを構成し、ビジネスの面でも互助の精神によって助け合います。また、婚姻によって姻戚関係を結び結束を強めます。
 ベルギ-で“本物“の上流階級に属するひとは5、000人に満たないそうです。このひと達は、ブランド品で身を飾ったりすることを好みません。C&AやH&Mで買った洋服なども平気で着ます。

 かつて、舞踏会は上流階級の大事なイベントでした。しかし今や、時代の波に抗し難く、舞踏会は激減の一途をたどっているそうです。「ベルギ-王国貴族協会」(
Association de la Noblesse du Royaume de Belgique)が、若い貴族のために開いている舞踏会向けのダンス教室は、近年閑古鳥が鳴いている由です。
 これに反して、上流階級の家族同士のホ-ムパ-ティ-が盛んになってます。親は息子や娘をこの種のホ-ムパ-ティ-に積極的につれていったり、年頃の娘や息子のいる家族を招んだりして、若者同士が知り合う機会を作ります。これは、子供達が親の知らない所で、自分達の階級に属さない相手と恋に落ちたりしないようにする、つまり変な虫がついたりしなようにする、一種の予防措置でもあるようです。
 こういう方々のパ-ティ-には、一流の仕出し屋の料理が並びます。個人的にどこの仕出し屋が一流かなど知らないのですが、ロリエ(Loriers)という仕出し屋が王室ご用達だそうです。皆さんも今度、家でホ-ムパ-ティ-をする時、ロリエの仕出しを試してみてはどうですか。

 上流階級の親にとって、子供を通わせる学校の選択も大切です。
 フランス語系の学校では、ブリュッセルのサンミッシェル(Saint-Michel)校が有名です。この学校はカトリックのイエズス会の学校です。同じくイエズス会の学校でフラマン語系のシントヤンベルクマン(Sint Jan Berchmans)校には、未来のベルギ-国女王エリザベ-トちゃんほか、王族の子供達が通ってます。
 先日、エリザベ-トちゃんが初めて公的な場でフラマン語のスピ-チをしたのをテレビで見ましたが、彼女はフラマン語を完全に自分の言葉にしているのがわかりました。
 他には、ビ-ルやチ-ズでも有名なベネディクト会のマレツ修道院付属サンブノワ(Sant-Benoit)校も、フランス語圏のいいとこの坊ちゃんやお嬢さんの行く学校です。

 皆さんはカンブルの森にある “ジュディベ-ル”(Jeux d’Hiver)という、レストラン、バー、サロン、ディスコを備えた総合社交場をご存知ありませんか。もしご存知で、常連だなどという方は当地のセレブの仲間入りをしている方です。
 まず、ジュディベ-ルには誰でも入れるわけではありません。門番が入場希望者の人品骨柄、服装などを厳しくチェックします。
 自分も一度行ってみたいのですが、入り口で門番にはねられるのが怖くて行く気になれません。常連のひとと一緒に行けば入れるようです。ベルギ-人の友達でここの常連がいるので、連れて行ってもらおうと思ってますが、なかなか機会がありません。
ジュディベ-ルのことを教えてくれたのもこの友達なのですが、連れて行ってくれないところをみると、ベルギ-のセレブやEUその他の国際機関のエリ-ト官僚などが行く場所で、アジア人は浮いてしまうからなのかなどと、僻み根性を持ってしまいます。
 ま、そのうち友達をつついて一度は行ってみるつもりですので、その節は別途報告します。

 上流階級やセレブの若いひと達が行くディスコその他の社交場は他にもありますが、お父さん達はどこに行くのでしょうか。
 ブリュッセルには二つの有名な会員制のクラブ、レストランがあります。一つはフラマン系のクラブで「De Warande」といいます。フラマンの財界人のクラブで、現在1500人の会員がいるそうです。場所はベルギ-国防省大臣官房のすぐ近くです。 
 前に、アントワープで会社社長をしているベルギ-人の知人の招待で、このクラブのレストランで食事をしたことがあります。料理、サ-ビスともに、そんじょそこいらフランス料理店など足元にも及ばないレベルの高いフランス料理でした。
 やっぱりお金のあるクラブなので、料理人も一流の人を雇えるのでしょうね。

 もう一つは、知ってる方もおられるでしょうが、ブリュッセル公園の中にあるクラブで「L e Cercle Gaulois」というクラブです。ベルギ-財政界の有力者や各国の大使、国際機関のトップなどがメンバ-で、現在1200人ぐらいの会員がいます。 
 昔、知り合いの大使のお相伴でこのクラブで食事をした経験がありますが、やはり一流のシェフの料理でした。

 日本の料亭政治は有名ですね。大事な話はまず一杯の飲みながらという、この日本的感覚はよく理解できます。料亭政治も時の首相の好みでだいぶ変わります。
 わたしは新聞に毎日載る首相の動静欄を必ず見ます。首相が、何時何分に誰に会ったかといった記録も興味がありますが、もっと興味があるのが、首相がどこで誰とメシを食ったかを知ることです。
 連日連夜の高級料亭通いで叩かれた首相がいました。その後フランス料理好きの首相だったり、居酒屋系が好みの首相もいました。現首相の野田さんは一升酒を飲む大酒豪だそうですから、多分フランス料理には行かないでしょう。
 ゴルフ場も、政治やビジネスの根回しの場として知られてます。でもこれは当事者同士が、ある程度のゴルフの腕がないと難しいのではないですか。毎回玉探しで走り回ってるようでは、根回しの話しどころではないでしょう。

 さて、料亭政治もゴルフ場での根回しも習慣にないベルギ-の政財界の有力者は、物事の事前協議や決定などを、議会や会社の役員会でしかやらないのでしょうか。
 違うんですね、それが。ちゃんとあるんですよ、根回しの場所が。
 上記した「De Wande」のメンバ-の中には、フランドル独立を党是とする政党N-VAの元幹部が 会員になっているのはよく知られてます。また、西フランドルの大企業の経営者もこのクラブのメンバ-の名を連ねており、N-VAの有力な支持者といわれてます。ベルギ-が500数10日も政府ができない政治危機の間、「De Wande」のメンバ-の間で話し合われたことが、ベルギ-の政治危機にどれだけの影響を与えたか、計り知れないものがあるといわれてます。
 このクラブの中核をなすメンバ-にはフランドル経営者連盟、フランドル中小企業連盟、フランドル農業協同組合連合などの幹部、フラマン至上主義を掲げる政党幹部などたといわれてます。

 あまり目立たないフラマンのクラブがあります。
 アントワ-プに本部がある「Ordre van den Prince」というクラブです。クラブの綱領にはオランダ語の擁護、フランドルの領土保全で、クラブは非政治的、非宗教的となってます。しかし、クラブのメンバ-にはフラマンの旧キリスト教社会党(現CD&V)系の党員がかなりいます。現EUの“大統領”で俳句の愛好者Herman Van Rompuy氏もメンバ-ですし、同氏の弟で政治家の Eric Van Rompuy氏は同クラブのZaventem支部長です・

 一方、フランス語系の偉い方々はどこに集まっているのでしょうか。。
 ワロンの財界人のクラブとしてナミュ-ルに「Le Cercle de Wallonie」があります。このクラブはどちらかというと、ワロン地方の中小企業の経営者のクラブ的色彩が濃く、政治的に大きな影響力を行使しているクラブではないようです。
 フランス語系のクラブで政財界に影響力を持っているのは, 上記した「Le Cercle Gaulois」と、もう一つは仏蘭語両方が会員になっている「Le Cercle de Lorraine」またの名を「Club van Lotharingen」でしょうか。後者、「Le Cercle de Lorraine」は徹底したエリ-ト主義で、入会条件が厳しいのでしられてます。クラブの建物は、ブリュッセルの最高裁判所の近くにあります。
 皆さんのお知り合いのベルギ-人で「Le Cercle de Lorraine」の会員の方がいたら、その方ベルギ-財界の相当な有力者と思っていいと思います。

 この国の偉い方々の特徴は“偉ぶらない”ことでしょう。
 国王、首相、閣僚、有力政治家、大企業の経営者等々、社会的に高い地位にある人達の謙虚さ、親しみやすさにはいつも感心させられます。
 書類を抱えて颯爽と国会内の階段を駆け上がるこの国の首相の姿など、日本の政治家も見習って欲しいものです。
 日本の閣僚が、自分で書類を持って歩いているのを見たことがありません。“カバン持ち”という言葉があるぐらいですから、秘書官などに持たせるんでしょう。
 それに、閣僚になると警護官がつきます。わたし個人としましては、あの警護官ぐらい国民の税金をムダ使いしているケ-スは無いと思ってます。
 国民が名前と顔を覚える間もなく首がすげ変わっていく大臣など、誰が襲うんですか。国会答弁も満足にできない大臣に、警護官をつける必要などありますか。

 原稿を書いている今日は4月1日、エイプリルフ-ルの日です。
わたしはこの日が大好きです。自分でもこの日にずいぶんひとを騙してきました。
 何よりも楽しみなのは、4月1日のベルギ-の新聞、テレビです。記事や番組の中に、必ずエイプリルフ-ルが紛れ込むのです。
 今年一番面白かったのは、RTBF (国営フランス語テレビ)の番組でした。
 内容は、ベルギ-政府は5月1日を祝日のリストから外し、この日を平日とすることを閣議決定した。理由は、労働者の祝日である5月1日に働くことこそ、労働の価値を高め、労働者の地位に敬意を表することになるからである。
 この閣議決定に対して、社会党系の労組の連合体であるFGTB(ベルギ-労働者総同盟)は断固反対を表明し、閣議決定の撤回を要求してゼネストも辞さないという声明を発表した、というものです。
 面白いのは、レインデルス副首相兼外務大臣やオンクリン副首相兼社会厚生大臣などの大物閣僚が堂々とテレビに出て、5月1日を平日にするという政府の決定がどれだけ意義のあることか、真剣な表情で説明することです。
 これに対してFGTBの書記長がこれまたテレビに出て、政府決定に断固反対の説明を真面目な顔でやるのです。
 大物閣僚も労組の大物も、みんなエイプリルフ-ルに協力してテレビに出て、真剣な表情で嘘をつくこのユ-モアのある風土が好きです。他のテレビでも閣僚が出て、真面目に嘘をついてました。日本で、4月1日にNHKに閣僚が出て嘘をつくなんて、ちょっとできないでしょう。たちまち、不謹慎の非難がでるんじゃないですか。

 ところでお父さん、ベルギ-の日本人社会のセレブが行く社交場や会員制クラブはあるのでしょうか。聞き及ぶところでは、入会条件が厳しいB会とか、さる病いを持つ者のT会とか、ワイン愛好家のI会とかあるようです。お父さんはどれかに入ってますか。なに、日本レストランで同僚と焼酎のお湯割りを飲むのが、唯一の社交ですと。それはそれでいいんじゃないですか、楽しければ。    (かんとう)


No.191 パンパの風

191.パンパの風

 ひとには夢があります。
 一生に一度、これだけはやってみたいという夢をもつことは、とてもいいことだと思います。それが実現してもしなくても、夢は人生に彩を添えてくれます。
 夢は、ひとそれぞれであり、内容は千差万別です。夢に客観的な価値を求めるのは愚かなかなことです。夢の価値は、夢を追うひとがけが知っているのです。
 皆さんの子供のころの夢は何でしたか。野球やサッカ-の選手、プロゴルファ-、宇宙飛行士、アイドルやモデル、歌手等々を夢見るのは、よくあることです。或いは、クラスのだれも持っていないクワガタを手にいれることなども、子供にとっては立派な夢です。珍しい蝶の標本に大枚のお金をはたく蒐集家も、自分の夢を追っているひとなのでしょう。貝殻や小石を集める子供にとって、それは宝物であり、夢なのです。 
 わたしも子供のころ切手をあつめてました。今見たら、たいした価値のない切手ばかりなのですが、あのころは宝物でした。ベルギ-に来てからは、カッフェのビ-ルのコスタ-を集めてました。これは夢というほどのものではないのですが、集めたコスタ-がダンボ-ル箱に一杯ありましたので、飲んだビ-ルの量も相当なものだと思います。今の痛風の遠因かもしれません。

 切手集めやコスタ-集めとは別に、わたしにも長年の夢がありました。その夢を、今年に入ってついに実現することができました。
 それはアルゼンチンの大草原、パンパを馬で疾駆するという夢です。乗馬をする人間にとっての夢は、世界の三つの場所で馬に乗ることです。
 一つはモンゴルの大草原、一つはアメリカ西部の大平原、一つはアルゼンチンのパンパです。モンゴルの大草原をジンギスカンの時代と同じ蒙古馬で走った経験は、本会報に書きました。また、アメリカ西部のワイオミングで、本職のカウボ-イと馬を駆って牛の群を追った体験も本会報に書きました。
 そしてこの度、正確には今年の3月、ついに三番目の夢、アルゼンチンのパンパを馬で疾駆するという夢を実現することができました。ま、大袈裟にいえば、これで思い残すことはないという心境でしょうか。

 アルゼンチンは、思っていたよりずっと遠い国でした。
 ブリュッセルからブエノスアイレスまでの直行便はありませんので、わたしの場合、ブリュッセルのミディ駅からTGVでパリシャルルドゴ-ルまで行き、そこからブエノスアイレス行きの直行便に乗りました。
 皆さんよくご承知おとおり、パリ-東京間は通常11時間30分ぐらいですよね。これが、パリ-ブエノスアイレスは14時間もかかるのです。アルゼンチンがこんなに遠いとは思ってませんでした。
 それと、アルゼンチンの国土が世界で八番目に大きいという事実も今回知りました。知ってるようで知らない国、アルゼンチンというのは正直な感想です。

 パリを夕方出たフライトは翌日の朝9時00ごろブエノスアイレスに着きました。ベルギ-との時差は5時間です。西に行くので5時間遅れます。
 ブエノスアイレスはラテンアメリカのパリとか呼ばれてるそうですが、ちょっといいすぎかなという気がしないでもありません。
 人口は538万人ですから確かに大都会です。でも滞在中、ブエノスアイレスがスペインのどこかにある都市という意識から抜け出せませんでした。この意識というか、固定観念は郵便局に行って切手を買った時、もろに出ました。
 ベルギ-までの切手の値段ガ日本までの切手の値段と同じなのです。わたしは愚かにも窓口の職員の女性に、値段が間違っていませんかと聞きました。職員の女性はにこやかに、この値段は正しいですよと答えました。
 ここでやっと自分の愚かさに気がつきました。自分の頭のなかでは、スペインからベルギ-に出す切手の値段という意識があったのです。飛行機に14時間も乗って来た遠い国という意識が消えていたようです。

 せっかくこんな遠い国まで来たので、馬に乗る前にアルゼンチンの有名な場所を見ないで帰るわけにはいきません。
 ブエノスアイレス市内にも見どころはいくつかありますが、一番おもしろいと思ったのはボカ地区です。ここは昔港があったところで、ヨ-ロッパからの移民が初めてアルゼンチンの土を踏んだところです。他に港湾労働者や出稼ぎ労働者が住んでいたところで、ブエノスアイレスで最も貧しい地区でした。赤や青や黄色の原色に彩られた当時の建物が、今やすっかり観光名所になってます。
 さらに、ボカ地区はアルゼンチンタンゴ発祥の地でもあります。観光客目当てなのでしょうが、路上で何組かの男女がタンゴを踊ってました。
 それにしても、アルゼンチンタンゴとは実に官能的な踊りですね。起源は、娼婦が客の気を引くために踊った踊りだそうです。わたしも路上の踊り子さんに誘われましたが、股下の長さが外人離れしているこの体型で、タンゴなど踊れるわけがありません。急いで逃げました。

 広大な草原、パンパをもつアルゼンチンは、世界有数の牛肉の生産国であり輸出国です。アルゼンチンに来て評判のアルゼンチンビ-フを食べずに帰ることはできません。地元の人に教えてもらったブエノスアイレスの評判のレストランに行ってみました。T-Boneと呼ばれる骨付き肉のステ-キを注文して食べました。確かにおいしい肉でした。配合飼料ではなく、大自然の草を食べてそだった牛の肉は違いますね。いわゆる味わいのある肉とでもいうのでしょうか。一見ではなく、一食の価値のある肉です。たまに、ス-パ-デレ-ズにアルゼンチンビ-フが出ますので試してください。  
 ただ、どんなにおいしい肉でも、一人前が400から500グラムもあると、とても食べきれるものではありません。
 一つ不満だったのは、肉の焼き方でした。わたしは血のしたたるようなステ-キが好きなのでそういう注文をしたのですが、自分の好みからすればちょっと焼きすぎでした。後で、アルゼンチンに詳しい人に聞いたら、アルゼンチンでは血のしたたるような肉の焼き方はしないのだそうです。

 アルゼンチンの肉にはやっぱりアルゼンチンワインです。皆さんはデレ-ズやカルフ-ルのワイン売り場で、アルゼンチンワインを見たことがありますか。あまり見ませんね。アルゼンチンは世界第五位のワイン生産国なのですが、輸出に向けられるワインは生産量のわずか5%だそうです。アルゼンチンワインはアルゼンチンの国民の皆さんが飲んでしまうということのようです。
 アルゼンチンワインの特徴は、Malbec種のブドウ一種類だけで作られることです。このブドウは南フランスのワインよく使われるブドウで、たくさんの太陽を必要とします。ワインはブラックワインとよばれるぐらいの濃い色で、タンニン分が強く骨太で個性の強いワインです。Malbec種のワインをベルギ-で味わいたかったら、ス-パ-でフランスのCahorsのワインを買って飲んでみてください。

 アルゼンチンの来て、ここは外せないというウシュアイア(USHUAIA)まで行きました。ウシュアイアは地球上で人間が住む最南端の町です。南極へ最も近い町でもあります。また、1520年10月にポルトガル人マゼランが大西洋から太平洋へでる航路を開いたマゼラン海峡のある町でもあります。
 ブエノスアイレスから3250Km、飛行機で3時間半以上かかります。ウシュアイアに見るべきものはそんなにありません。かつては流刑地でしたのでその牢獄が博物館になってます。また、船でビ-グル海峡を行くとアシカの一種オタリアやペンギンがみられます。お天気は、これ以上の不順な天候はないというほど不順です。雨、風、晴れ間、突然の雪などめまぐるしく変わります。
 ま、“はるばる来たぜ函館”ではなく、“はるばる来たぜウシュアイア”というところでしょうか。

 アルゼンチンで、ウシュアイアの他に外せないところがもう二箇所あります。一つはウシュアイアから飛行機で1時間半ぐらい飛んだところにあるエルカラファテ(EL CARAFATE)です。エルカラファテの町そのものはわざわざ行く価値はありません。この町は世界遺産に登録されているロス.グラシアレス国立公園に行くための前線基地として成り立っています。
 ロス.グラシアレス国立公園は山梨県と同じくらいの面積をもち、47の氷河があります。そのなかで最も有名なのがペリト.モレノ氷河とウプサラ氷河です。
 わたしは、これまでいろいろなところを旅行してきたので、滅多なことでは感動しなくなっています。そんな自分を寂しいと思うことがあります。しかし今回は正真正銘感動しました。
 ペレト.モレノ氷河を眼前に見たときは、思わず嘆声をあげました。その迫力、雄大さ、自然の造化の美しさを文章に書き表すことはできません。自分の目で見ないことには、どんな名文を読んでもその素晴らしさはわからないでしょう。

 ペレト.モレノ氷河は表面積だけで196Km2もあります。眼前にそびえ立つ氷の壁の高さが60mから100mあり、幅が5Kmという迫力です。
 見る者を圧倒するようにそびえ立つ氷河は、数万年に及ぶ旅路の終わりの姿でもあります。時々聞こえるド-ンという腹のそこに響くような音は、旅路を終えた氷河が崩壊する音です。それは長い長い旅路を終えた氷河の安堵のため息にも聞こえますし、崩壊して水に帰る悲しい叫びにも聞こえます。

 ロス.グラシアレス国立公園のもう一つの名所がウプサラ氷河です。この氷河に近づくためにはクル-ズ船に乗ってアルヘンティ-ノ湖の奥まで行きます。
 氷河そのものはペレト.モレノ氷河の方が圧倒的にすばらしいですが、ウプサラ氷河の美しさはその色です。崩壊した氷河は氷山となって流れてきます。その氷山の色の美しさは筆舌に尽くしがたいものがあります。うすいコバルト色なのですが、氷山の形や太陽光線の変化でコバルト色は多彩な変化を見せます。
 クル-ズ船のガイドさんの説明によれば、氷河にはさまざまな鉱物質が含まれており、氷河が崩壊して氷山となって流れる間にコバルト色が出てくるのだそうです。
 そういえば、クル-ズ船が航行するアルヘンティ-ノ湖の水の色もコバルトがかっていました。

 エルカラファテは観光で生きている町ですので、お土産屋とレストランがたくさんあります。ここの名物はなんといってもパタゴニアの羊の炭火焼きです。通りから見える場所に炭火を盛り、肉だけになった羊の四肢を鉄の焼き棒に張り付けて焼いているレストランに入ってみました。
 炭火でこんがりと焼きあげた羊の肉は美味でしたが、焼く前にかなりの塩を肉にすり込むらしく、ちょっと塩味が勝ってるのが残念でした。

 ウシュアイア、ロス.グラシアレス国立公園を回って、アルゼンチンの三つ目の必見の場所、イグアスの滝に向かいました。エルカラファテから飛行機で3時間飛ぶとブエノスアイレスに着きます。ここでイグアス行きに乗換え、2時間でブラジル国境に近いイグアスの空港につきます。ウシュアイアでは雪が降ってたのに、ここは気温30度でティ-シャツです。アルゼンチンは本当に大きな国です。

 皆さん、イグアスの滝って聞いたことがありますか。ナイヤガラの滝に比べると、かなり知名度が低いです。正直にいって、わたしもアルゼンチンに行く準備をするまで、イグアスの滝の存在さえも知りませんでした。
 行ってびっくりです。イグアスの滝は幅4Km、最大落差80M、毎秒6万5000トンの水量を誇る世界最大級の滝群なのです。世界遺産に登録されてます。
 滝はアルゼンチン側とブラジル側の両方からみられます。滝のある一帯は国立公園になっています。滝をめぐる遊歩道には、縞模様の大きなしっぽをたてたハナグマが餌を求めて歩いてます。本来野生のハナグマが観光客に寄ってくるようになったのは、
かれらに餌を与える観光客の罪です。周囲のジャングルには500種以上の鳥や動物が棲息しているそうです。
 自分の人生でこんなに巨大な滝の群を見たことがありません。その水量と轟音に圧倒されます。代表的な滝には名前がついており、一番有名なのが「悪魔ののどぶえ」という滝です。この滝の滝つぼ近くまで船でいくツア-がありますが、ずぶ濡れ覚悟で行くことになります。
 イグアス名物はスルビ(Surubi)という魚で、ナマズに一種らしいです。その土地の名物は一応食べてみることにしてますので、揚げ物にしたスルビ料理も食べました。白身の淡白な味で、まあ、話の種にはなるでしょう、というのが正直な感想です。

 イグアスから夜中着の飛行機でブエノスアイレスに戻り、一泊した後、いよいよ最終目的地、パンパにあるエスタンシア(Estancia)と呼ばれる牧場に向かいました。
 パンパにはたくさんのエスタンシアがあり、規模の大きいエスタンシアの中には、宿泊設備を持ってビジタ-を受け入れるところがあります。牧畜が仕事のエスタンシアに馬は欠かせません。どこのエスタンシアにも、馬に乗って広大な草原で牛の群の世話をするカ-ボ-イ、ここではガウチョ(Gaucho)が必ずいます。
 ブエノスアイレスから車で1時間ちょっとの所にあるエスタンシアに行きました。この牧場のオ-ナ-は、スペインから来た最初の入植者から数えて数百年は経つという由緒ある家系だそうです。

 いよいよ長年の夢を実現する時がきました。
 空は雲一つなく晴れ渡り、どこまでもどこまでも続く草原からは、日本の5月の薫風をおもわせる風が心地よくふいてきます。暑くなく寒くなく、絶好の乗馬日和です。
馬は中型で気質がおだやかです。それに、意外と丸顔です。馬にもいろいろな顔があるのです。目が大きくて鼻筋の通った美女系小顔の馬は純血種のアラブ馬です。スペイン人が南米に持ってきた馬は、アラブ種の血が入ったイベリア馬だったのですが、アルゼンチンの馬からアラブ馬の痕跡を見ることはできません。
 乗馬は宿泊客の希望者を集め、ガウチョの先導で出かけます。ここで自分の誤算に気づきました。乗馬を希望するひとは、そこそこ馬に乗れるひとばかりと思ってました。ところが、グル-プに乗馬の初心者が混じっているのです。ガウチョは初心者に配慮して、馬を並足かせいぜい速足でしか歩かせません。これでははるばるパンパまで来た意味がありません。パンパを疾駆するという夢は果たせません。

 わたしはガウチョに相談をもちかけました。初心者組をもう一人のガウチョに任せて、ついて来これるものだけでギャロップ(疾駆)をしないかという相談です。幸いガウチョは快諾してくれました。同僚のガウチョに何かいったかと思うと、いきなり馬を走り出させました。わたしは欣喜雀躍、ガウチョの馬を追いかけました。10人ぐらいいたグル-プから2-3人が追いかけてきました。
 以後は毎回ガウチョに頼んで、パンパを疾駆しました。一度はだれもついて来るひとがいなくて、ガウチョと二人きり走りました。さすが本職、みごとな手綱さばきで疾駆します。最後にかれは、「よくついてきたな」と誉めてくれました。本望です。

 ところでお父さん、お父さんが実現したいと思っている夢はなんですか。ゴルフのスコアを80台にもっていくことですか。違うでしょう。夢はもう実現してるではありませんか。お母さんにプロポ-ズした時、お母さんに「あなたと結婚することがぼくの人生の夢です」っていったでしょう。忘れてはダメですよ。  
(かんとう)

No.192 こっそり行ってきたイタリア留学の記

192.こっそり行ってきたイタリア留学の記

 いくらなんでも恥ずかしいので、イタリア留学の記はもう書くまいと思っていたのですが、なにぶんにも夏枯れのネタ不足、やっぱり書くことにしました。

 今年も去年と同じ町、イタリアの古都、シエナに3週間ばかり行ってきました。例年と違うのは、今年は初めてシエナの一般家庭にホームステイをしてきたことです。ホームステイなどというものは、通常若い大学生や高校生がするものですが、世の中にはこんなおじさんでも暖かく迎えてくれる家庭があるのです。
 
 7月最初の週に、ブリュッセルから飛行機でまずフィレンツェまで行きました。フィレンツェの空港に降り立った時、その暑さに息がつまりそうな感じをうけました。気温14度のブリュッセルからいきなり気温35度の場所に行ったのですから、身体がついていけません。
 汗だくになりながらバスを乗り継ぎ、シエナの長距離バスの発着所、グラムシ広場に着いた時はへとへとでした。そこからタクシ-でホ-ムステイ先に向かいました。ブリュッセルの家を出てから、かれこれ9時間ほどかかって、この度のホームステイ先、ヴィルディス夫人宅に到着しました。
 にこやかに迎えてくれたヴィルディス夫人の家は、建物の4階にあり寝室が5室もある大きなアパートでした。ただエレベーターがないので、重いトランクを運び上げるのに苦労しました。
 場所はシエナの中心街からはずれた閑静な住宅街です。蝉の声がうるさいぐらいに聞こえ、オリ-ブ畑やぶどう畑、それに糸杉がみえる典型的なトスカナの風景の中にあります。
 
 これから自分が使わせてもらう部屋に案内してもらい、いろいろ話していると、どうもヴィルディス夫人は一人住まいのような感じです。
 ここでわたしは、寅さんシリーズ、「男はつらいよ」の何作目だったか忘れましたが、“寅次郎真実一路”の話しを思い出しました。
 旅から帰った寅さんが上野駅近くの焼き鳥屋で、隣にいた証券会社の若き課長さんと意気投合しておおいに飲みます。そして課長さんの家がある茨城県の牛久沼までついて行き、酔いつぶれて 泊り込んでしまうのです。翌朝目が覚めた寅さんは課長さんの奥さん(大原麗子)と初めて言葉を交わすのですが、その奥さんの美しさに呆然とします。
 課長さんは会社に行くためすでに家を出ており、寅さんは奥さんと二人きりで家にいる事実に気がついてあわてます。そしてこういうのです。
 「奥さん、わたしがご厄介になってましては世間様の目がうるそうございます。今日のところはこれでご免なすって」と、奥さんのすすめる朝食も取らずに家を飛び出していきます。
 わたしの場合、これから3週間の勉強がまっており、寅さんのように「ご免なすって」と、かっこよく家を飛び出すわけには行きません。
 そうこうするうち、「チャ-オ !!」という元気な声が聞こえて、26,7歳とみえる若い男性が家に入ってきました。青年はカテリ-ナさんの息子、ファビオさんでした。トスカナ地方のアグロツ-リスモ(農家を改造して宿泊施設を整えた民宿)で働いているそうです。これで「ご免なすって」の話しは終わったわけです。

 わたしは礼儀を守って”Signora Virdis”と呼びかけ、話し方も“Lei”で始まる丁寧語を使ってました。しかしヴィルディスさんは、わたしのことはカテリーナと呼んでいいわよ、お互いに“Tu”で話しましょうといってくれたので、親しいもの同士の話し方に変わりました。夕食の席で聞いたのですが、カテリーナさんは6年前に離婚しているのです。別れた旦那さんは医者でシエナ大学医学部の教授だったそうです。彼女自身は同じシエナ大学の法学部出身の弁護士といいますから、二人は絵に描いたようなインテリ夫婦だったのです。
 離婚の原因はどうやら旦那さんの浮気みたいです。いま旦那さんは、相手の女性とアドリア海側のリミニに住んでいることまで話してくれました。カテリーナさんも辛い思いをしたのでしょう。わたしのような初対面の人間にまで離婚のことを話すのは、まだ心の傷の痛みが残っており、ひとに話すことによって少しでも癒されたかったのでしょうか。

学校は去年のシエナ国立外語大ではなく、私立のダンテ.アリギエリ校を選びました。皆さん、ダンテの名前はご存知ですね。でもダンテのファミリーネームがアリギエリだというのはご存知でしたか。わたしは知りませんでした。
 寄宿先から学校までは、バスで15分、そこから徒歩で20分ぐらいかかります。朝は日中の暑さが嘘のように爽やかで、本当に気持ちよく通学ができます。反対に学校の帰りはできるだけ日影を探してあるきます。平均気温が35度、場合によると40度を越しますから、ベルギーから行った人間には大変です。赤ちゃんみたいに、首に汗もができてしまいました。
 
 シエナ滞在中は、勉強のため毎日イタリア語の新聞を買って読む努力をしました。新聞の中に暑さについての面白い表現を見つけました。その日の気温によって、“スキピオ(紀元前2世紀のローマ帝国執政官)がイタリアを炎上させる”とか、“ミノス(ギリシャ神話に出てくるクレタ島の王)がイタリアを炎上させる“、そして気温が40度を越えた日は”悪魔がイタリアを炎上させる“という表現が新聞に出ました。悪魔はわかる気がしますが、どうしてスキピオとかミノスが出てくるのか、学校の先生もカテリーナさんも答えられませんでした。

 学校の初日は試験があって生徒のレベルに応じてクラス分けがあります。自分で予想してた中級の上のクラスに入りました。上級クラスに入ることは、まあ永遠にないと思ってます。
 最初のクラスは全員で7名という少人数のクラスです。先生は30代後半とおぼしきラウラ先生、妖艶という形容詞がふさわしいイタリア美人です。このような先生に教えていただけるのであれば、こちらの勉学の意欲も向上しようというものです。
 しかし、ラウラ先生は1週間だけで、その後はエンゾという男の先生になりました。エンゾ先生は、生徒に寸劇をやらせたり、テレビのトークショウの真似をさせたりして、イタリア語をしゃべる機会をたくさん作る授業をしてくれました。ベルギーでイタリア語を話す機会が殆どない自分には本当に役にたちました。

 毎日の通学で乗るバスは座席数が10程度の小型バスです。シエナは中世の古い街ですので道路が狭いです。従って、市バスやごみ収集の車などは全部小型になってます。バスに乗っていて感心したのは、お年寄りが乗ってくると、座っているひとの誰かが即刻席をゆずることです。これが100%実行されるのです。ためらったり、知らん顔をするひと皆無です。
 朝のバスはなぜかお年寄りが多くて、特に水曜日の朝はシエナの旧城砦跡に朝市が立つので、バスはお年寄りでいっぱいになります。はなしを聞いてると、水曜の朝市がお年寄りたちの社交場になってる感じです。ま、東京は巣鴨のとげぬき地蔵みたいなものでしょうか。
 わたしもカテリーナさんに誘われて、ある水曜日の朝ちょっと早く家を出て二人でバスに乗り朝市へ行きました。朝市はかなり大規模で、果物、野菜、チ-ズ、畜産加工品、花、衣類、台所用品等々なんでもあります。鮮魚だけがありませんでした。
 どこの国でもそうですが、市場はその国のひとの生活を知る上で最良の場所なので、市場めぐりは大好きです。特に食べ物関係をのぞくのが好きです。この朝は、トスカナ名物、猪のサラミを試食させてもらいました。

 カテリーナ家の朝食はパスタ(クロワッサンやブリオッシュなどもパスタといいます)一個、オレンジジュ-スに濃いイタリアコーヒーです。ブリュッセルにいても、朝はバナナ一本かりんご一個ぐらいしか食べませんので、これで十分です。お昼は学校の帰りに切り売りピザを一個食べます。シエナの高級食材店がやってるピザが一番おいしいので、毎日種類を変えて食べてました。
 夜はカテリーナさんの手料理がでます。元弁護士さんなので料理は期待できないかと勝手に思ってましたが、どうしてどうして毎晩おいしいトスカナの家庭料理が出て大変満足しました。最初によくパスタがでます。初めは、パスタが今晩の夕食かと思い、おいしいのでお代わりをしたら、その後にメインが出てきました。そうか、ここはイタリアなんだとあらためて認識した次第です。
 夕食をとりながらカテリーナさんといろいろな話しをしますが、これが非常にいい勉強になりました。わからない単語や言い回しは丁寧に説明してくれます。時々、早く帰ってきたファビオさんが食卓に加わることもありましたが、3人で食べる夕食は一段と楽しいものでした。

 寄宿先で最初の2週間はわたし一人でしたが、3週間目に、ミネソタからきたアメリカ人のポールが隣の部屋に入りました。ポールは法学部を出て弁護士になったのですが、感ずるところあり神父になる決意をした神学生です。シエナで一ヶ月間イタリア語を勉強した後、ローマで4年間神学の勉強をする予定です。
 わたしはこのポールがすっかり好きになり、4年後にかれが神父になる叙階式には必ず行くからという約束をしました。ポールのような好青年には久しぶりに出会いました。明るく気さくで、神父を志すという自分の人生の選択を極めて自然な形で話してくれました。イタリア語はまだたどたどしいのですが、絶対に英語を使いません。
 カテリーナさんもポ-ルのことが大のお気に入りになりました。ポールが来てからの夕食の席はさらに楽しいものになりました。

 2週間目にクラスに新しい生徒が入ってきました。ここでクラスメートの紹介をします。全員は無理なので印象に残った生徒を紹介します。
 カスパレ:スイス人。バチカンのスイス衛兵をたくさん出しているスイスドイツ語圏出身。但し、彼に衛兵は無理。相撲をやらせたら幕下ぐらいまでいくかと思わせる巨体。ヨーロッパ人には珍しく目が細いのもお相撲さん似。休み時間には学校近くのピザの切り売り屋に飛び込む。イタリア語は上手。

 カチア:リヒテンシュタイン人。カスパレと反対に目が大きい上に、いつも何かに驚いたように目を見開いている。自己紹介の時、リヒテンシュタイン人はみんなお金持ちと思うのは偏見ですという。でも、いろいろ聞いてると彼女はやっぱりお金持ちのお嬢さん。

 ナディア:ブラックアフリカ系ドイツ人。普通は、自分はドイツで生まれましたが、両親はアフリカの何々国出身ですとかいうものながら、彼女は自分はドイツ人としかいわない。途中から別のクラスに移って行った。

 アンナ:ロシア人。モスクワの病院に勤務する女医さん。イタリア語はいまいちながら非常に真面目な勉強家。学校の帰りに彼女と二人で話した時、ロシアでは正しい道を歩いていたらお金は入らない。国立病院の勤務医の給料は500ユーロ。患者からの付け届けのお金がなかったらやっていけないと、寂しそうに話してくれた。

 ジョー:アメリカ人。ニューヨーク出身の大学1年生。アメリカ人であることの幸せを瞬時も疑ったことがないという感じ。純粋な心の持ち主で誰にでも好かれる。イタリア語はかなりの英語なまりながら文法は強い。聞けば高校でスペイン語をやった由。授業で世界の歴史についてのクイズ問題で、12問中10の正解を出し“天才ジョー”の名をほしいままにする。

 シャンタル:スイス人。ドイツ語圏出身ながら完璧なフランス語と英語を話す高校3年生。クラス一の美人。イタリア語も上手。明るく笑い声が絶えないクラスの人気者。“天は二物を与えず”というのはシャンタルに関しては嘘。

 マテオ(マチュ-):アメリカ人。ワシントンDC出身。よくしゃべる。マテオがしゃべりだすと止まらないという評判あり。ポールと同じ神学生。好青年。ローマの
Collegio Americanoにはアメリカ人の神学生が250人もいる由。

 コージ:日本人。千葉県出身。1年間の予定で語学留学中らしい。こちらが話しかけてもしゃべらないので詳しいことは不明。たぶん大学生。イタリア語は殆ど話せないが、文法は少し知ってる模様。

 謎の日本人:突然クラスに入ってきて1時間だけいて消えた。両耳にピアスを三つぐらいつけ、腕にはミサンガをいくつも巻きつけている。清潔感漂うという表現があるが、この日本人の場合不潔感漂うとい表現が似合う。ぼそっと話した言葉が日本語だったので日本人とわかる。

 週末はシエナの街を散策しました。シエナの狭い路地は中世そのものの雰囲気があります。観光客の来ない路地の散策は自分の好みにぴったりでした。
 観光客といえば、街で出会う東洋人の観光客の90%は中国人でした。日本人の観光客は微々たるものでした。
 一度、ワインで有名なキアンティ地方で乗馬をしてきました。地元の乗馬クラブが送り迎えをしてくれるので行ってみました。シエナやフィレンツェに来ている乗馬希望の観光客を集めてるようです。
 初心者が混じっているグループと行くのだったら乗馬はやめて帰るつもりでしたが、幸いグループの到着が遅れるというので、わたしと案内役の青年と二人だけで出ることができました。
 案内役の青年がわたしに、自分の馬は若いのでけっこうスピ-ドをだすけど大丈夫かときくので、好きなように走らせていいよと答えました。ぶどう畑の間の小道を思いっきり馬を走らせるのは爽快でした。

 授業で「Mammone」という言葉が出ました。意味はマンマ(お母さん)崇拝の男性、お母さんべったりの男のことをいいます。イタリア人男性のマンマ崇拝は有名です。独り者の間はどれだけマンマを崇拝してもいいでしょうが、結婚後はまずいですよね。
 奥さんがせっかく作ったパスタのトマトソースに対して、旦那さんが「マンマのソースの方がやっぱりおいしい」なんていったら奥さんはどう思いますか。
 ことある度に、「マンマだったらこうした」、「マンマならこんな作り方はしない」、「マンマの話し方はもっと優しかった」等々いわれたら、奥さんだって「マンマの所に帰れ !!」といいたくなるでしょう。事実、イタリアの離婚の原因として、この「Mammone」が非常に大きな比率を占めているそうです。

 ところでお父さん、お父さんはいちいち「おふくろの味」なんて持ち出していないでしょうね。なに、お母さんの味に飼いならされて、おふくろの味はもう忘れましたか。結構なことではありませんか。                                           (かんとう) 

No.193 完全犯罪、亭主の殺し方

193.完全犯罪、亭主の殺し方
  ちょっと物騒なタイトルですが、これは永六輔さんがいったことばです。
 昔、日本の某航空会社が海外の在留邦人向けに何年かおきに文化講演会や落語の公演会を開催してくれました。
 これは、われわれ海外の在留邦人にとってとて大変有難い企画でした。わたしの記憶で一番豪華だった講演会は、阿川弘之、遠藤周作、北杜夫という当代切っての人気作家三人の揃い踏み講演でした。日本にいたってこの三人が一堂に会して講演をするなど、まずありえないことだったでしょう。それが、ブリュッセルのホテルの会場で一度に三人のお話しが聞けたのですから、この航空会社の企画には本当に感謝したものでした。   
 また、ホテルのバンケットルームにしつらえた仮設高座での落語公演も楽しいものでした。文楽や円生のような名人は来ませんでしたが、中堅や若手の落語家が一生懸命高座をつとめてくれました。わたしは落語が大好きで、日本に行ったとき、時間を見つけては上野鈴本や新宿末広へ駆けつけてますので、ブリュッセルでの落語公演はとても楽しみでした。
 
  かなり昔ですが、永六輔さんがこの航空会社主催の文化講演会でブリュッセルにきたことがあります。永さんの場合は独演会でした。お話し上手な永さんの講演で、会場は爆笑の連続でした。そのとき永さんが標題の「完全犯罪、亭主の殺し方」を教えてくれたのです。
 ま、当地の在留邦人の奥さま方で「亭主の殺し方」を研究してる方はいないと思いますが、ご参考までに永六輔さんのお話しを紹介してみましょう。文章には若干わたしの脚色が入ってますが、本筋は永さんのお話しのとおりです。

 これは完全犯罪ですので証拠を残してはいけません。また、ことを急いてはいけません。時間をかけて周到にことを運びましょう。
 手段は実に簡単です。必要とするものは塩だけです。やり方は、旦那さんの食事の塩分を少しづつ増やしていくというものです。この方法を続けることにより、旦那さんの身体は濃くなっていく塩分に適応して、次第に塩分の濃い食事を求めるようになっていきます。
 まず旦那さんの好きな食べ物の塩分を増やしていきます。酒の肴に塩辛が大好き、なんていう旦那さんはいいですね。塩辛の塩分を微量ながら増やしていきます。時々
塩辛の産地や銘柄を変えるといいです。一番いいのは奥さん手造りの塩辛を食べてもらうことです。これなら塩加減は自由自在です。でも、ベルギーで自家製塩辛を作るのは材料の関係で難しいでしょうね。
 アジの干物など魚の干物も食べてもらいましょう。塩分を薄める大根おろしなどつけてはいけません。刺身の醤油は薄口醤油をたっぷりと使ってもらいましょう。薄口だからといって塩分も薄いと思ったら大間違いです。
 味噌汁の味噌にも細工が必要です。味噌は、“手前味噌”という言葉あるぐらい、なれ親しんだ味噌の味にこだわるひとがいますが、塩分には意外と無頓着なひとが多いので細工がしやすいです。

 日本食だけでなく洋食にも工夫が必要です。
 こちらの食べ物で塩分が多いのはハムとチーズです。前菜にハムを出しましょう。ハムもスペインのパタネグラやイタリアのサンダニエルなどの生ハムがいいです。
 ちょっと高かったけど、あなたにおいしいものを食べていただこうと思って、とかなんとかいって勧めれば、旦那さんは喜んで食べるはずです。
 前菜に燻製の魚類もいいです。こちらのス-パ-では、サーモンの他におひょうなどいろいろな魚の燻製が売られてます。いずれもかなりの塩分がはいってます。
 メインはトマトソースを使った料理でいきましょう。トマトソースは塩分を隠す役割ではトップクラスですので効果が期待できます。
 その後は、ワインがまだ残っているからといって、チーズを勧めます。チーズは塩分多めのブルーチーズなどがいいのですが、これは好き嫌いがあります。でもそこは腕の見せどころです。ワイン屋さんがいうには、にこのワインにはブルーチーズがすごく合うんですって、とかいえばいいのです。

 ときどき“チン食”をだすのもいいでしょう。チン食というのはチンすれば食べられる既製食品のことです。忙しいときには便利な食べ物です。最近は有名シェフの写真入りのチン食がス-パ-の売り場にたくさん並んでいます。
 有名シェフが既製食品を直接作っているとは思いませんが、商品作成時にアドヴァイスをしたり、相談を受けたりして顧問料みたいなものをもらっているのでしょう。
 いま、このチン食の塩分含有量がヨ-ロッパ各国で問題になっています。家庭で一般に作る食事にくらべて、既製食品の塩分含有量がかなり高いからです。

 こういった食事を繰り返しているうちに、旦那さんが塩っけの多い食事を好むようになってきたらしめたものです。
 頃合いを見計らって奥さんは旦那さんにいいます。「あなた、最近顔色が悪いわね」、「寝ているときいやな咳をするわよ」、「よくうなされてるわよ」、「皮膚につやがなくなってきたわね」、「どこか悪いんじゃないの」等々旦那さんの健康不安をあおることばをささやき続けるのです。
 塩分増加と健康不安のささやきを続けることによって、旦那さんは塩分摂取過多による高血圧、そして健康不安のストレス等が重なり、やがて心筋梗塞や脳梗塞、心不全や狭心症などを発症してころっといくそうです。後には証拠としてなにも残りません。完全犯罪です。

 永六輔さんのお話しは勿論冗談ですが、塩による完全犯罪という発想がおもしろいと思いました。私事で恐縮ですが、わたしの母は塩で亡くなったようなものです。母は漬物が大好きで食事のときは勿論、お茶請けにも漬物を欠かさないないひとでした。
 傍で見ていても塩分の取り過ぎはあきらかだったので、漬物を控えるようにいっても、好きだからといって食べ続けました。結果は高血圧を患い、最後は脳梗塞で亡くなりました。永さんのいうとおりでした。

 塩は人間を含む動物の生命維持に不可欠の要素です。塩が人間の生命維持にどれほど大切であるかの一面を物語るお話しがあります。
 ヨーロッパ中世の法典に、犯罪人の刑罰として塩抜きの食事を与え続けることを禁止する条項がありました。何故なら、それは余りにも残酷な刑罰だからです。塩抜きの刑をうけた犯罪人が、死に至るまでに耐えなければならない苦しみは言語に絶するものがあったそうです。残酷な刑罰が多かった中世に於いても、塩抜きの刑罰がひときわ残酷だったということでしょう。

 塩はひとを生かしひとを殺します。ひとを生かす塩の適量は、国連の保健機構によれば1日5gだそうです。自分が1日にどのぐらいの塩の量を摂取しているのか、皆さんは把握してますか。なかなか難しいですよね、これは。自分が食べる食事の中にどれだけの塩分が含まれているかを計量する術がないかぎり、だいたいのカンで推し量るしかないでしょう。自分の場合、夜の就寝前とか夜中にのどの渇きを覚えたら、その日の食事は塩分が多めだった考えてます。もっとも、夜中にのどが渇くのは飲み過ぎという場合もあるかもしれません。
 
 ところでベルギ-のひとたちの塩の摂取量はどうでしょうか。統計によれば、平均10gだそうです。適量の倍ですね。しかもベルギー人男性の23%は12gの塩を摂取しています。一方、ベルギー人女性の5%がやはり12gの塩を摂取しています。
 23%ものベルギー人男性が過度な塩分摂取をしている事実は、結構大きな問題だと思いますが、原因はなんでしょうか。
 原因として思い当たるのは、ベルギー名物フリッツです。街のフリッツ屋さんでは、お客さんの希望に応じてフリッツにマヨネーズやケチャップ或いは塩をかけてくれますが、見てるとマヨネ-ズやケチャップの量も多いですし、塩も盛大に振りかけてます。マヨネーズやケチャップには相当な塩分が含まれているそうですから、塩分摂取過多のベルギー人男性がフリッツ愛好家であったり、フリッツ常食者ではと想像するのは、あながち荒唐無稽なことだはないと思うのですが、どうでしょうか。

 
 聞いた話しですが、飛行機の機内食は地上で食べる食事よりちょっぴり塩分を多めにしてあるそうです。実験で、ポテトチップスを機内で食べてもらうと、食べたひとはどうも塩気が足りないと感じるとか。真偽のほどはわかりません。
 今度飛行機に乗るとき、乗る前にポテトチップスを食べて、機内でもう一度同じポテトチップスを食べてみてください。

 現在、EU加盟国の厚生省、保健省が取り組んでいる大きな課題は、国民の塩の摂取量をどうやって減らせるかという問題です。各国の塩分摂取量の平均は10g前後で、適量といわれている5gからは程遠い状態なのです。
 ここでやり玉にあげられているのがチン食を含む既製食品です。トマトを含むさまざまな既製のソース類、子供が好きなチップス、揚げればすぐに食べられるコロッケやカツレツ等々に含まれる塩の量が、各国の国民の塩分摂取過多の大きな原因になっているのです。しかも子供のときから食べているので、身体が過度な塩分を要求するようになってしまいます。
 
 それでは、なぜ既製食品メーカーは製品の塩の量を増やすのでしょうか。一番大きな理由は、塩気が多いことにより食べるひとはおいしいと感じるからなのです。塩の量を減らすと、味気がないといわれ売り上げが落ちてしまうのです。
 お隣りのフランスの国民の塩分摂取量の平均はやはり10gです。この結果、毎年約75、000人が高血圧からくる心臓関係の病気になり、25、000が亡くなっています。こうしてみると、永六輔さんのお話しはかなり真実に近いのではないでしょうか。

 塩は宗教的な役割や、歴史上の役割も果たして来ました。
 日本では、塩は清めの役割を担ってきました。お相撲さんが土俵上でまく塩は、神事に由来する清めの塩と聞いてます。また、好ましくない来客が帰った後、うしろ姿や玄関に塩をまくのも一種の清めでしょう。塩をまかれた経験のあるひとは気をつけましょう。
 お客がくる前の水打ち清められた高級料亭の玄関に置かれた盛り塩は、なかなか風情がありますね。などというと、そういう高級料亭にいったことがあるみたいですが、本当は写真で見ただけです。
 盛り塩の意味は、魔よけ、厄除け、それに人寄せの縁起担ぎだそうです。人寄せ縁起について面白い記事を読んだことがあります。
 秦の始皇帝の後宮には三千人の女性がいたそうです。こんなにたくさんの女性がいると、皇帝も一々女性を選ぶのがめんどうになり、女性選択を牛にまかせるようになったのだそうです。つまり、皇帝の乗った牛車を引く牛が停まった家の女性のところでその晩は泊まることにしたのです。
 後宮には賢い女性がいて、自分の住まいの前に牛の好きな塩をおいて牛が停まるように仕向け、皇帝の寵愛を受けたという話しです。

 清めの塩に関して、子供のときの思いでがあります。
 実家の横が、一遍上人開祖の時宗(本山は藤沢の遊行寺)のお寺でした。お寺はわれわれ子供の絶好遊び場所でした。ある日、遊び相手がいなくてお寺の裏手にある墓地で一人で遊んでいたときです。知らないおじさんが墓地に穴を掘ってるのを見つけました。檀家の誰かが亡くなって、お葬式の埋葬準備だったのでしょう。
 好奇心にかられて穴堀りを見ていると、おじさんが、ちょっと手伝ってくれないかといって、もう一本あったシャベルをよこしました。小学生の力で何ほどの手伝いにもならないのですが、おじさんは話し相手が欲しかったのでしょうか。
 家に帰って母に墓穴堀りお手伝いのことを話すと、母は怒ってわたしをこっぴどく叱りつけました。そして、いくら頼まれてもそのようなことをしてはいけないといって、わたしの頭に塩をふりかけました。  

 ローマ帝国が次々と征服地を広げ、版図拡大に成功した秘訣のひとつが、塩の安定供給にあったのは歴史的な事実です。ローマ帝国が征服地でまず行ったのは塩の補給路の独占でした。
 ローマ軍の兵士の給料が塩で払われた事実が、“サラリー”の語源になったとの説がありますが、この説は正しくないようです。ラテン語のSalariumは塩を買うためのお金の意味だそうです。“サラリー”の本当の語源は、塩購入のために兵士に支給されたお金のようです。ま、どうでもいいことかもしれませんが。
 
 シーザーの遠征軍は常に塩漬けの肉や魚を携行していました。この携行食糧のお蔭でローマ軍は征服地での略奪を最小限に抑え、被征服民族の抵抗を少なくすることに成功したのです。そして、ローマ帝国領民になった被征服民族は、ローマ人から塩による食料の保存技術を学ぶことによって、食料事情が改善され、食料の安定供給が可能になりました。
 塩による食料保存の技術がなかったなら、世界地図は別の姿になっていたかもしれません。スペイン人やポルトガル人は南米まで行くことはできなかったはずです。コロンブスの新大陸発見もなかったでしょう。フランシスコザビエルは日本に辿りつけなかったかもしれません。

 インド独立の父、マハトマガンジーが塩の生産、販売の独占権を握る宗主国イギリスに対して、1930年に抗議の行進を行いました。この行進はインド独立への重要な一歩となったのは、よく知られている事実です。インドの独立には塩の助けがあったとは、いい過ぎでしょうか。

 さてここで、塩にまつわるヨーロッパ各言語の言い回しを見てみましょう。
 「塩の入ってないス-プみたい」:面白くもなんともない話題や活動。
 「塩の粒をいれる」:議論の際に自分の意見をいう。
 「傷に塩をのせる」:すでに問題を抱えているひとにさらに問題を与える。
 「塩辛い請求書」:高い請求書。
 「塩のきつい冗談」:性的話題における下卑た冗談。
 「塩みたいな奴」:自分の価値を弁え、他人が自分を必要としていることを知って 行動する人間。
 「人生の塩」:人生の魅力。
 「鍋にたくさんの塩を入れるより自分の皿にちょっと塩を入れるほうはよい」:遠くの利益より目の前の利益の方がいい。
 最後に聖書のことば:
 「あなたがたは地の塩である」:新約聖書 マタイによる福音書第5章13節

 ところでお父さん、夕べ食べた塩さばはおいしかったですか。なに、塩気が足りない感じで醤油をたっぷりかけて食べた………。                     (かんとう)