.


No.194 マジャルの風

No.194  マジャルの風

 皆さん、明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。

 なにがめでたいのかと聞かれれば、正直自分でも返事に困ります。生きながらえて新しい年を迎えることができるのがめでたいのでしょうか。或いは、新しい年にすこしでも希望をもつことができるのなら、やはりめでたいというべきなのでしょうか。

 もう去年の話しになってしまいましたが、晩秋に一週間ほどハンガリ-に行ってきました。目的はハンガリ-で乗馬をするためでした。
 ご承知のとおり、ハンガリ-はアジアから来たマジャル人がつくった国です。マジャル人は優秀な騎馬民族でしたので、その伝統を受け継いだハンガリ-にはいい馬がたくさんいます。かねがね一度はハンガリ-の馬に乗ってみたいと思ってました。 

 ブリュッセルからブダペストまでは空路2時間の距離です。ブダペストは5-- 6年前に行ったことがあります。前回行ったときのブダペストの印象は、オーストリーハンガリー帝国としてハプスブルグ の栄華を色濃く受け継いだ華やか街、という印象でした。
 しかし、今回の印象は“あれ、こんなもんだったけ”という意外感でした。勿論、市の中心を流れるドナウ河の両岸にみられる王宮の丘や、世界に類がないほど美しいといわれる国会議事堂の建物、聖イシュトバーン大聖堂などの文化遺産は変わらずに多くの人々をひきつけています。

 自分の感じた違和感は、ブダペスト市内の古びて修理もされてない建物や清掃の行き届いていない道路、そしてなんとなく活気のない街の雰囲気からきているのかもしれません。EU加盟前後のあの高揚感が感じられません。
 ハンガリーの経済は低迷しています。また、行政府の長が政敵を政治的に抹殺するため、司法の独立権に介入できるような法案を準備してEU委員会から警告をうけたりもしています。
 どんなに立派な文化遺産をもっていても、国民として誇りをもてるような国でないと、国民のあいだに活気は生まれてこないのではないでしょうか。
 わが祖国日本は、長い歴史と世界に誇れる洗練された文化、世界のだれもが認める高度な科学技術をもつ国です。日本のノ―ベル賞受賞者の数はアジアでダントツです。でも今の日本で、国民の間に閉塞感、沈滞感が漂っているのはなぜでしょうか。国家百年の大計を胸に、高い理想を掲げて国を引っ張っていく優れた指導者がいないからでしょうか。皆さんは、日本の総理大臣その他の政治家の演説をきいて、深く心をうたれる言葉に出会ったがありますか。
 外国暮らしが長くて、祖国を見る目が優しくなっているのかもしれませんが、自分の国、日本は素晴らしい国だと思ってます。でも、国と同じぐらい素晴らしいといえる政治家がいないのは寂しいことです。ハンガリーに来て、祖国日本のことを考えてしまいました。

 ハンガリーに来たのはブダペスト見学が目的ではありませんので、翌日は乗馬の目的地にむかいました。というか、乗馬クラブの人がブダペストのホテルまで迎えにきてくれました。場所はブダペストから北東に向かって、車で約1時間30分ぐらい走ったVanyarc-Salospusztaという村です。
 現場に着いて、われわれが乗馬をして宿泊する場所を、乗馬クラブと呼ぶのは間違いであることに気がつきました。そこには馬が120頭も飼われているのです。大半の馬は広大な牧場で悠々と草を食んでいす。ここは馬の牧場と呼ぶべきところです。
 牧場はロシュカ家の家族経営でオ-ナーのヤノシュさんと奥さん、それに25歳の娘、エステルさん、他に使用人が4人います。エステルさんが馬術指導員のライセンスをもっていて、われわれの外乗、遠出の案内をしてくれます。

 牧場に着くとすぐ奥さんの手料理の昼食がでました。これがなんと、まことに結構な味で感激しました。正直にいうと、ハンガリ-での食事は期待してませんでした。前回来たとき、本当においしいと思う食事に出会わなかったからです。しかし今回は、昼と夜の食事が何よりも楽しみになりました。
 奥さんの料理の腕はまさに玄人はだしで、ブダペストで行った一流といわれているハンガリ-料理のレストランよりもはるかにおいしい料理を毎日味わうことができたのは、望外の幸せでした。
 ハンガリ-の伝統料理、グヤ-シュ(パプリカを使った煮込み料理)も出ましたが、われわれ外国人の味覚を尊重してか、パプリカをひかえめにし、その代わりに煮込みのス-プの味に工夫をこらし、肉や野菜にス-プの旨みがたっぷりとしみ込み、みんながお代わりする絶品でした。
 さらに、夕食時には5種類ぐらいのハンガリ-ワインを食卓に並べて、その日の料理に合ったワインを選ばせてくれました。いずれもいいワインばかりでした。
 ハンガリ-のワインといえば有名なトカイぐらいしか知らなかったので、最初は適当に選んでました。しかし飲んでみてわかったのは、カベルネソヴィニョンやメルロといった伝統的なセパ-ジュ(ぶどうの種類)にハンガリ-固有のセパ-ジュを組み合わせて作ったワインが一番おいしいということでした。

 毎日、午前と午後の二回エステルさんの案内で遠出をしました。草原、丘陵、森が巧みに配置されたすばらし環境の中を、馬を駆って走れる喜びは、ブリュッセルのソワ-ニュの森ではとうてい味わえない幸せでした。
 一番楽しかったのは、草原を駆け抜けて牧草地になっている丘陵に至り、その丘陵をまっしぐらに駆け上がるときでした。馬も嬉しいのでしょう。抑えるのに苦労するほどのスピ-ドを出して丘陵を駆け上がります。風を切って走るという感じです。
 わたしに割り当てられた馬がまたすばらしい馬で、滞在中ずっとこの馬に乗ってました。エステルさんは、うちの馬はどれもいい馬だから毎日馬を取り替えて乗ってみたらといってくれましたが、わたしは昔から“一筋派”なので、自分が惚れ込んだ馬から別の馬に乗り換えることはしませんでした。

 ある日の午後の遠出のとき、わたしたちは忘れ得ない素晴らしい光景を目にすることができました。
 遠出する地域の森には鹿がたくさん住んでいます。ブリュッセルのソワ-ニュの森でも馬上からよく鹿を見ますが、せいぜい2ー3頭です。ところがこのあたりの鹿は20頭から30頭単位で群をなして住んでます。
 鹿たちはよく森から草原に出てきて草をたべてます。午後の乗馬の終わりに近いころ、行き先に鹿の群がいました。わたしたちが馬を駆けさせて近づくと、鹿の群はさっと駆け出して、丘陵の一番上まで行って立ち止まり、わたしたちを見下ろすかたちになりました。夕日が丘陵の向こう側に沈まんとするときでした。鹿の群は沈まんとする夕日のあかね色を背にうけ、まるで絵のようなシルエットをつくりだしたのです。
 わたしたちは、しばし鹿たちがつくりだした幻想的なシルエットに見とれてしまいました。

 ハンガリ-人の祖先、マジャル人はアジア系といわれてます。
 紀元前4000年ごろから、ウラル山脈の東側に“Finno-Ougriens(フィン.ウゴル語族)”と区分される複数の部族が住んでいました。このうちフィン族から派生したのが現在のフィンランド人とエストニア人で、騎馬遊牧民族だったウゴル族がハンガリ-人(マジャル人)だといわれてます。
 ウラル山脈はユーラシア大陸をヨ-ロッパ側とアジア側に分ける境界線の役割を果たしています。山脈の西側がヨロッパで東側がアジアになります。
 ハンガリ-人とフィンランド人がアジア系といわれるのは、ウラル山脈の東側、つまるアジア側からきたためです。

 ご承知のとおり、現在のハンガリ-人もフィンランド人も顔つきは完全な西洋白人の顔で、そこからわれわれアジア人の顔つきの痕跡をみつけることはできません。
 しかし、彼らの伝統のなかにアジアの習慣かと思われるものがあります。それは名前の書き方です。わたしたちが乗馬でお世話になった牧場の名前はロシュカ.ヤノシュ牧場といいます。これは牧場オ-ナ-、ロシュカ.ヤノシュさんの名前です。ここで注意したいのは、“ロシュカ”が姓、つまりファミリ-ネ-ムで“ヤノシュ”がファ-ストネ-ムであることです。これがハンガリ-の正式な名前の書き方なのです。
 ただ最近は、欧米社会の習慣に合わせてファ-ストネ-ムを書いてからファミリ-ネ-ムを書く習慣が広まっているそうです。
 ハンガリ-住所の書き方もわれわれと同じで、最後に番地がきます。
 嘘か本当か知りませんが、フィンランド語に“酔っ払った”に似た発音の言葉があるそうです。その意味がまさしく“酔っ払った”なのだそうです。ま、眉につばをつけて聞いたほうがいいかも知れませんが。

 われわれ日本人は横文字の文章や欧米の人たちとの付き合いで、本来の伝統的な姓名の書き方をせず、こちら風にまず名前、それから姓を書いてます。これは明治維新後の日本人が、西欧の文物の導入に一生懸命だった文明開化の名残りなのでしょうか。
 この点、中国や韓国の人は自分たちの伝統を遵守して、欧米との付き合いでも堂々と伝統的な姓名の書き方の順番を守っています。この点、中国や韓国の人たちは立派だ思ってます。

 話しは変わりますが、ハンガリ-には「KANTO」という姓が存在します。この名前のせいで人違いをされたことがあります。この話をむかし本会報に書いたことがありますが、今回のハンガリ-乗馬旅行を機会にもう一度書いてみます。 
 わたしがまだルーバンの学生だったころの話ですから、かなり昔のことです。
 ある日、アパ-トに電話がかかってきました。
 「もしもし、Kantoさんですか」
 「はい、Kantoです」
 「突然お電話して申し訳ありません。でもどうしてもお聞きしたいことがありましてお電話しました」
 「はあ、なんでしょうか」
 「Kantoさんは、もしかしてハンガリ-人ではありませんか」
 (非常に驚く)
 「いえ、わたしは日本人ですが」
 「日本にもKantoという名前があるのですか」
 「われわれの名前は漢字表記なので、こちらの人の名前の表記と単純比較はできませんが、Kantoと発音する名前はありますよ」
 「わたしはベルギ-に住んでいるハンガリ-人です。わたしの両親は1956年に起きたソビエト軍のブダペスト侵攻(ハンガリ-動乱)のとき、ハンガリ-を逃れて難民としてベルギ-にきました。わたしの従兄弟はKantoというファミリ-ネ-ムですが、かれも両親とかれの妹と一緒に国を脱出したことはわかってます。でもヨ-ロッパのどの国に行ったのかわかりません。その後、まったく連絡がとれないのです。このあいだ、たまたまベルギ-の電話帳をみてたらKantoという名前があったので、もしやとおもってお電話をしたのです」
 「そうですか。でも残念ですがわたしはあなたの親戚ではありません。純粋の日本人です。ご親戚のKantoさんが見つかることをお祈りしてます」
 といった次第です。

 ウラル山脈のアジア側にいた騎馬民族マジャル人は、紀元5世紀ごろ西方への移動を始めました。そして9世紀の終わりごろ、現在のハンガリ-、カルパチア地方の先住民を征服して住みつくようになりました。
 部族連合的な集合体に過ぎなかったマジャル人を国家という統合体に引っ張りあげたのは、ハンガリ-建国の祖、イシュトヴァ-ン国王です。
 イシュトヴァン(Istvan)はハンガリ-語の名前ですが、仏語ではEtienne又はStéphane、英語ではSteveになります。かれはキリスト教を国教と定め、神聖ロ-マ帝国皇帝オット-二世のバックアップのもとに、紀元1000年に国王の地位に就きました。
 かくしてハンガリ-は西欧のキリスト教国の一員としての歩みを始めたわけです。イシュトヴァン国王は熱心なキリスト教徒として、キリスト教的修徳に励み、没後にハンガリ-の聖エチエンヌとして聖人の位にあげられた有徳の国王でした。
 建国の祖にして聖人の位にまであげられたイシュトヴァン国王は、ンガリ-で最も人気のある歴史上の人物です。従って、ハンガリ-には男の子の名前に“イシュトヴァン”をつける親はたくさんいます。

 わたしはこのIstvan KANTOさんおかげで、ベルギ-の税務署から人違いをされた経験があります。この話しも前に会報に書きましたが再録してみます。
 ある日の午前10時ごろ、会社にいたわたしのところに電話がかかってきました。
 「Kantoさんですか」
 「はい、そうですが」
 「あなたのイニシアルは“I.KANTO”ですね」
 「そうです」
 「こちらはベルギ-財務省のTVA(付加価値税、日本の消費税)局です。」
 「はあ?」
 「あなたは2年以上TVAを払ってませんね」
 「いやあ、うちの会社はTVAを払ってると思いますが」
 「あなたが払ってないからこうして電話をしてるんですよ。たびたびの督促状にもまるで返事をしないのはどういうことですか」(かなり攻撃的)
 「いやあ、おっしゃることがどうもよくわからないのですが」
 「あなたはブリュッセルのアンデルレヒト区でエピスリ(街角の小さな食料品店)をやってるでしょう」
 「いや、わたしはブリュッセルのイクセル区で旅行代理店をやってます。住んでいるところもアンデルレヒトではありません」(相手は一瞬ひるんだようす)
 「あなたの名前はIstvan KANTOさんですよね」
 「いいえ、わたしの名前はIsamu KANTOです。わたしは日本人です」
 (相手はちょっとうろたえてるようす)
 「すみません。もう一度こちらで調べてからお電話します」
 (相手はあたふた電話を切る)
 しばらくして又電話がかかってきました。
 「こちらはTVA局ですが、先ほどは大変失礼いたしました。TVA滞納はまったく別人でした。お名前だけで判断してしまい、本当にもうしわけございませんでした」
  自分の非をなかなか認めない傾向のあるこちらの人にしては、意外と素直に謝ってきました。

 アンデルレヒトの食料品店経営者、Istvan KANTOさんは、名前からしてハンガリ-出身の方でしょう。ス-パ-におされて食料品店の経営も楽ではないのでしょうが、早くTVAを納めてほしいものです。
 まあ、でもなんですね。どうせ間違われるなら、税金の滞納者ではなくもっと格好いい人と間違われたいですね。
 「あたしがいなかったらこのシトだめになる。養ったげる」とかいう粋筋の女性に、人違いでもいいから追いかけられてみたいです。
 或いは、「凸凹さまの資産運用は是非弊行にお任せ下さい」とかいって、銀行の支店長さんが日参してくるような資産家に間違われたらどんなに気持ちがいいでしょか。

 ところでお父さん、お父さんはこれまで人違いをしたこと、或いは人違いをされた経験はありませんか。なに、初デ-トの時、相手の後ろ姿を見間違えて、別のお嬢さんに声をかけたのが今のお母さんですって。そういうのこそ運命の出会いというのでしょうね。                           (かんとう) 

No.195 ベルギ-あれこれ(その一)

195.ベルギーあれこれ(その一)

 最近、当地の新聞にでていた記事です。
 「長びく不況や経済危機の影響で、ベルギ-の離婚率が急激にさがっている。離婚したくても経済的理由で離婚できず、やむなく一緒に住んでいるカップルが増えている」
 この記事がでたあと、ベルギ-国営放送フランス語局(RTBF)のラジオ放送で、時事問題を扱う聴取者参加番組が同じ問題をとりあげました。
 数人の聴取者が電話で番組に参加しました。いずれもカップルとして事実上の離婚状態にあるのに、経済的理由で別れることも、別居もできないという男女でした。
 ある男性は、「自分の配偶者への愛情は完全になくなっている。早く分かれて住みたいが、自分の給料で新しいアパ-トを借り、3人の子供と無職の配偶者の養育費を払うことは不可能である。お互いの合意の元に離婚を決めてからもう5年になる。17歳の長男をはじめ子供たちは、両親がしかたなしに一緒に住んでいることを知っている。家の中の雰囲気は非常に悪い。子供たちが成人して働くようになるまで、この地獄のような状態で生きていくのかと思うと絶望的になる」と語っていました。
 またある女性は、「回りの人たちは、自分たちのことを仲のいいオシドリカップルだと思っている。自分たちも外部の人たちに対してそのように振舞っている。まだ幼い2人の子供たちは、両親の関係には気づいてないと思う。子供たちの前では、自分たちの冷え切った関係をみせないように努力している。自分は子供たちを連れて早く夫の元を離れたい。しかし勤めていた会社が倒産し、失業者の身で家をでても経済的にやっていけない。しかたなしに夫と同じ家に住んでいる。本当に辛い」と語ってました。

 これまでベルギ-の離婚率は50%を越え、EU加盟国の中でトップクラスでした。
たまたま通りかかった教会の前で、結婚式を終えてみんなに祝福されてる幸せいっぱいの新郎新婦をみると、“この二人いつまで続くのかな“などと、ちょっと意地悪な思いが頭をよぎります。なにしろ、二組に一組は離婚するお国柄ですから、結婚式を見て不埒な思いが頭をよぎるのも仕方がないのかもしれません。
 それが今や、経済的な理由から分かれたくても分かれられないカップルが増えて、ベルギ-の離婚率が急落しているのです。しかしこれは、離婚統計にでてこない「隠れ離婚組」が増えているわけで、この人たちは状況がかわれば正式な離婚統計にでてきます。ですから、ベルギ-の人たちが離婚そのものをしなくなったとは云えないわけです。

 もう一つ離婚率統計に出てこないのが、事実婚カップルが別れるケースです。皆さんの回りにもいると思いますが、法的な婚姻届をださないで事実上の結婚生活をしているカップルがこの国では非常に多いのです。
 しかも事実婚カップルは、ただ一緒に住んでいるだけではなく、二人で家を建て、子供までつくります。 統計によれば、1980にベルギ-で生まれた子供のなかで、婚外子の比率は4%でした。これが2009年には、10倍以上の45%になっています。ベルギ-で生まれる子供の約二人に一人は、法的結婚をしていない事実婚の親から生まれていることになります。
 こうなると今のベルギ-の社会で、法的な枠組みに入っている結婚と法の枠組みに入らない結婚の違いが かなり希薄になっており、事実婚が社会的に十分に認知されていると考えていいのではないでしょうか。“婚外子”などということば自体が意味を失いつつあると思います。
 もし、事実婚のカップルの“離婚”を統計に入れたら、ベルギ-の離婚率の数字はさらに大きくなるのは間違いのないところです。

 皆さんもご覧になってるように、こちらの人たちの愛情表現はわれわれ日本人よりずっとはっきりしてますよね。夫婦の間でも「愛してる」、「きみはとても素敵だ」なんていうことばを照れもしないでいいます。食前食後とまではいかなくても、朝の出勤時や帰宅時には夫婦で必ずキスをします。
また、奥さんが自分の旦那さんを「Mon petit chou(かわいいキャベツちゃん)」とか「Mon petit lapin(かわいいうさぎちゃん)」などと呼んだり、旦那さんが奥さんを「Mon bébé」とか「Ma puce(訳せば“ぼくの蚤ちゃん”ですが、可愛い何々ちゃんぐらいの意味でしょうか)」などと呼んだりします。

 皆さんの会社のベルギ-人スタッフもそうでしょうが、こちらの人は仕事が終わればまっすぐ帰宅して家庭サ-ビスに努めるのが一般的です。
しかし日本のサラリ-マンの場合、会社帰りに近くの飲み屋、又は駅前の焼き鳥屋や居酒屋で一杯やりながら、職場でのストレス解消や、職場での人間関係の円滑化を図るといのが、一種の文化になっています。
 「課長のオレに対するあの言いかたはないよな。今度の阿武隈川護岸工事の入札で、落札に失敗したのは課長にだって責任があるんだぜ。オレのチ-ムが作った見積もりを見て、これなら勝てる、これで行こうと言ったのは課長だろう」
 「サイトウ部長の態度、何だよあれは。ヨシダ専務の腰ぎんちゃくじゃないか。いい大人がよくあそこまで卑屈になれるもんだな。あんな無能部長が役員になるようじゃ、ウチの会社も終わりだよ。もっとも切れ者のヨシダ専務が、あんな役立たず部長を役員に引っ張りあげるとは思わないけどな」
 「こんどウチの課に配属になった新人のツカモトな、あいつどうしようもないぜ。今朝も遅刻してきやがったから、オレが理由をきいたら、何って云ったと思う。家にいたときはお母さんが起こしてくれたけど、今一人で住んでるので、だれも起こしてくれる人がいないんです、だとよう。てめえで起きろってんだ、あの野郎。しかも“お母さんが”じゃなくて、“母が”だろう、ったく」
 「オレんとこの新人のハヤシな、こいつはわが社始まって以来のアホだぜ。今日な、ファックスのとこにいつまでも立っているから何やってんだろうと思ったらさ、送信しようと思う書類をファックス機入れると、書類が戻ってくるので何度もやり直してましただとさ。あり得るかよ。小学生以下だぜ、あいつ。そのうち、お得意さんの担当の人から電話がかかってきて、同じファックスを10枚も20枚も送るなって怒られたよ。ああいうバカがどうやって入社試験を通ったんだろうな。人事にきいてみたいいよ」
 一杯やりながらのこういう話しは、ストレス解消に一番ですよね。

 日本では珍しいことではない単身赴任も、こちらの人にとってはあり得ないことのようです。これまで数多くのベルギ-人の友人、知人に単身赴任の可否について質問しましたが、可と答えた男性がちょっといましたが、女性は100%ノーでした。
 女性の場合、自分の夫が単身赴任を申し出たら、それは即離婚の申し出と同じと考える、という答えが殆どでした。
 日本の夫婦の場合、子供の受験、配偶者の仕事の都合、親の介護など、どうしても乗り超えなければならない家族の問題に直面したとき、自分たち夫婦の関係より、家族の幸せや周囲の都合を優先させるのが普通ではないでしょうか。
 「お父さん、この間のベルギ-転勤の話しだけどね、いろいろ考えたけど家族みんなで行くのはちょっと難しいと思うわ。だって、来年はショウタの大学受験でしょう。アズサもショウタと同じ高校に入りたいって頑張ってるし、この時期に二人の転校なんて絶対無理よ。悪いけどお父さん一人で行ってくれる」
 「そうだな、ショウタもアズサも今が一番大事な時期だしな。ベルギ-の学校に転校するなんて問題外だよな。子供達も、お母さんにそばにいて欲しいいだろう、きっと。いいよ、オレ一人でいってくるよ。同期のアベがブリュッセルの店にいるし。ま、夏休みにみんなで遊びにこいよ」
 といった具合で、離婚の話しなどどこにも出てきません。

 これが、こちらのカップルになると状況はがらっと変わってきます。
 「ねえ、イザベル、今日社長から来年東京支社の支社長として、3年間日本に行ってくれないかと言われたよ」
 「まあ素敵、わたし一度は日本に行ってみたかったのよ。3年も住めるんだったら日本のいろいろな所に行けるはね。わたし、日本語も勉強するわ」
 「でも子供たちをどうするかだね。ヴァレリ-は来年ル-ヴァン大学の医学部を希望してるだろう。パトリックはサンミッシェル高校の一年に進級したばかりだし」
 「ヴァレリ-は下宿させて、パトリックはわたし達と一緒に日本へ連れて行けばいいでしょう。東京にはLycée Français(フランス政府が世界133ヶ国に設けているフランス語の教育機関)があるはずよ」
 「でも、20歳前の女の子を一人でおいておくのはどうかな。パトリックだってサンミッシェルの中学から一緒に進級してきた友達も多いし、いまさら友達もいない東京のLycée Françaisに入れるのはかわいそうだよ。きみが子供達とブリュッセルに残った方がいいと思うけど」
 「それではなに、あなたは一人で日本に行って暮らすわけ。わたしが一緒じゃ、なにか都合の悪いことでもあるの。どなたか他の女性と一緒じゃないんでしょうね」
 と、話しはどんどん険悪になっていきます。

 同じ夫婦が、洋の東西で夫婦のあり方、家族に対する考え方でかくも大きな違いがあるのは、民族の違い、国民性の違い、世界観の違い等々、いろいろな違いが絡み合ってるからでしょう。
 西洋の夫婦はまず夫婦ありきで、子供や家族はその次にくる感じがします。
 例えば、子供を大学に行かせるかどうかを決める基準は、夫婦の老後の生活を支える経済的な基盤があるかどうかによってきまります。自分達の老後の生活の経済的基盤を犠牲にしてまで、子供の教育にすべてをつぎ込むようなマネはしません。
子供のために夫婦の生活を犠牲にするという考えは希薄だと思います。
 これに反して、日本の夫婦は子供や家族のために自分達の生活を犠牲にすることをいといません。お父さんの単身赴任などその典型的な例でしょう。
 「母はいきますこの子のために」的な思考形態は日本では珍しくありません。子供のために親が犠牲になることは、一種の美徳として考えられてます。   

 それでは、愛情表現を欠かさず、家庭サ-ビスに努め、夫婦第一で単身赴任もしないベルギ-の人たちの離婚率が高くて、ろくな愛情表現もせず、家庭サ-ビスよりも飲み会を優先し、単身赴任をものともしないわれわれ日本人の離婚率がベルギ-より低い理由は何でしょうか。
 ポジティブな見方をすれば、日本の夫婦は深く強い絆で結ばれており、夫婦の間には強固な信頼関係があるからと言えるでしょうか。この信頼関係をぬきにして、日本の夫婦のあり方を理解するのは難しいのかもしれません。

 わたしがこちらの親しいカップル数組にした質問と平均的な答えです。
 「旦那さんの単身赴任はどうしてだめなの」
 「夫婦が一緒に暮らすのは当たり前でしょう」
 「でも、子供の学校の問題とか、親の介護の問題とかを考えて、旦那さんが一人で行った方がいろいろと都合がいいこともあるんじゃないの」
 「子供とか親の問題とわたし達夫婦の問題は別よ。子供や親の問題はそれはそれの解決法を別途考えればいいことでしょう。そのためにわたし達夫婦が2年も3年も別れれて暮らすなんて、絶対にあり得ないわ。どうしてもと言うなら、はっきりと別れた方がいいと思う」
 皆さん、どう思いますか。 

 閑話休題。
 これも最近のブリュッセルの新聞にでてた記事です。
 ベルギ-名物、フリッツのブリュッセル市内名店ランキングがでました。
 一位:“ La Maison Antoine”
Place Jourdan
1040 Bruxelles(Etterbeek)
 このフリッツ屋さんはEU関係の建物が多いエッテルベ-ク区のジュルダン広場に   あります。フリッツファンならだれでも知っている名店です。ここ数年トップの座を守ってます。あの辺をぶらぶらすことがあったら、ランキング一位の名店のフリッツを食べてみてください。    

 二位:Chez Clémantine
Place St.Job
1180 Bruxelles(Uccle)
お金持ちの住民が多いといわれるユックルで、フリッツの立ち食いをする人などいるのか思うのですが、サンジョブ広場の辺りは同じユックルでも庶民的な場所です。個人的にはこのフリッツ屋さんは知りませんが、ユックルにお住まいの方は一度お試しの上、評価をお聞かせください。

  三位:Chez Fernand
Avenue Georges Henri 187
1200 Bruxelles(Woluwe St.Lambert)
ウオリュエサンランベ-ルには在留邦人の方が多いので、商店街になってるこの通りをご存知お方もいるでしょう。飲み友達が集まるとき、ひとっ走り行ってランキング三位の店の揚げたてのフリッツを買ってきて、ビ-ルのつまみにするのも悪くないですね。

 ところで、フリッツの発明者はベルギ-人でしょうか、あるいはフランス人でしょうか。ベルギ-人もフランス人も、フリッツの起源はわが方であるといって譲りません。問題は、双方とも決定的な証拠を提示できないことです。
 ベルギ-側の言い分:1781年に書かれた記録によれば、ナミュ-ル地方の住民がム-ズ河で釣った魚を油であげて食べていたが、冬場は魚が釣れないので代わりにジャガイモを揚げて食べていた。これは100年以上前から続いている習慣である。。
 フランス側の言い分:ベルギ-人にフリッツを教えたのは、ナポレオン三世のク-デタとそれに続く皇帝即位をきらってベルギーの亡命してきたフランス人達(Victor Hugoもこのとき亡命してきてグランプラスに住んでました)である。
 かれらはパリでいつも食べてたフリッツを、ベルギ-でも作って食べるようになった。ジャガイモがナミュ-ル地方に入ってきたのは1700年代の中頃である。その100年前の1600年代からジャガイモを食べていたという説はあり得ない。

 どちらが正しいのかはおいといて、フリッツという食べ物は、フランスの風土よりベルギ-の風土に合ってるような気がします。焼きたてのバゲット(棒状のフランスパン)を抱えて歩くより、揚げたてのフリッツを入れたコルネット(円錐形の紙の容器)を持って歩く方がベルギ-に雰囲気に合ってると思いませんか。それに、ベルギ-人ほどフリッツを愛してる国民はいないでしょう。パリの新聞がフリッツ屋のランキングをだしますか。

 ところでお父さん、お父さんは単身赴任も経験してますね。お母さんとは強い信頼の絆で結ばれてますか。信頼の絆があればこそ今日まで手を携えて歩んでこれたのでしょう。なに、今となってはお互いに空気みたいなもので、もうどうでもいいという感じですと。それを云っちゃおしまいよ、お父さん。たとえ、本当でも。(かんとう)

No.196 ベルギ-あれこれ(その二)

196.ベルギーあれこれ(その二)

3月13日(水)の夕方、19時05分にバチカンのシクスチナ礼拝堂の煙突から白い煙が立ち昇りました。
 これは266代目の新しいロ-マ法王が選出されたことを告げる煙でした。この白い煙を見て、サンピエトロ広場を埋め尽くしていた大群衆は歓声をあげ、記録的といわれる数の各国テレビ局のカメラがこの瞬間の映像を世界中に流しました。
 しかし、誰が新法王に選ばれたのかを知るまでは、大群衆も各国テレビ局も1時間以上待たなければなりませんでした。

 前法王ベネディクト16世は、教会史上600年ぶりといわれる生前退位をしました。これを受けて、次の法王を選ぶコンクラ-ベ(法王選挙)が発令され、選挙権並びに被選挙権を持つ全世界の枢機卿がロ-マに参集しました。その数は155人でした。
 枢機卿というのは、各国の首都や大都市のカトリック教区を統治する大司教の中から、ロ-マ法王が直接親任して与える名誉称号です。枢機卿は教会のプリンスとも呼ばれます。枢機卿のみが法王を選ぶ権利と法王に選ばれる権利を有するからです。
 今回のコンクラ-ベに日本人の枢機卿はいませんでした。以前に東京大司教が枢機卿に親任されたことがありますが、現在は日本に枢機卿はいません。

 3月13日、20時20分にサンピエトロ大聖堂のバルコ-にコンクラ-ベの責任者を務めた枢機卿が現れ、法王に選ばれた枢機卿の名前と新法王が選んだ法王名を発表しました。
 法王に選ばれたのは、アルゼンチンのブエノスアイレス大司教、ホルヘ マリオ ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)枢機卿でした。そして法王名としてフランシスコ一世を名乗ると発表しました。
 これを聞いた大群衆はサンピエトロ広場を揺るがす大歓声をあげました。しかし、群集に間には一種の戸惑いの空気が広まります。なぜなら、アルゼンチンのベルゴリオ枢機卿は法王候補の下馬評にのってない人だったからです。

 コンクラ-ベ下馬評の圧倒的な有力候補は、ミラノ大司教のアンジェロ スコラ枢機卿でした。この下馬評を過信したイタリア司教協議会は、大変な早とちりをして世界中のプレスにからかわれる大恥をかきました。
 シクスチナ礼拝堂の煙突から白い煙がでた段階で、イタリア司教協議会はスコラ枢機卿の法王選出を確信しました。そして、司教協議会の事務局長クロクラタ司教の名前でスコラ枢機卿の法王選出を祝う声明文を用意しましました。
 この声明文がイタリアのプレス各社に送られたのが、新法王フランシスコ一世がサンピエトロ大聖堂のバルコニ-に姿を現した時とほとんど同時でした。
 イタリア司教協議会は大慌てで訂正とお詫びの文を送りましたが、時すでに遅しでした。

 新法王フランシスコ一世は、いくつかの史上初のタイトルをもつ法王です。まず初の南米出身の法王であること。法王名として初めてフランシスコを名乗ったこと。初めてのイエズス会出身の法王であること。
 フランシスコの名前はアシジの聖フランシスコからきています。皆さんのなかで、イタリア旅行でアシジに行ったことのある方も多いでしょう。聖フランシスコはカトリックの聖人のなかでも非常に人気のある聖人です。
 裕福な家庭に生まれ、放蕩三昧の生活をしていた青年フランシスコは、ある日、「崩壊に瀕している教会を建て直せ」という神の声を聞きました。13世紀のカトリック教会は本来清貧、貞潔を守るべき聖職者の堕落がはびこり、聖職者の妻帯や奢侈な生活が横行し、教会は人々の信頼を失い、まさしく崩壊の危機に瀕していました。
 フランシスコは財産を持たず、食べるものは托鉢によっのみ得る徹底した清貧の生活を実践しながら、貧しい人や病める人の救済に尽くしました。

 フランシスコのもとには、彼の生き方に共鳴するたくさんの弟子が集まりました。フランシスコは彼らと一緒に自分の理想を実現するため修道会の設立を意図し、ロ-マ法王の認可を求めてロ-マに赴きました。
 そのころ、時の法王ホノリウス三世は、倒れるかかっている教会を支えている二人の修道僧の夢を見ました。夢は正夢となり、時期をたがえて二人の修道僧が法王のもとにそれぞれの修道会設立の認可をもとめて現れました。一人は聖フランシスコでもう一人は聖ドミニコでした。 
 聖フランシスコと聖ドミニコが設立した修道会は短期間にヨ-ロッパ各地に広まり、13世紀のカトリック教会改革に大きな役割を果たしました。

 余談ですが、東京は世田谷、二子玉川にある聖ドミニコ幼稚園はニコタマ族と呼ばれるちょっとハイソな奥様方に人気で、“うちの子は聖ドミニコですの”といいたくて、願書取りに並ぶそうですね。ま、どうでもいいことではありますが。

 新法王がフランシスコの名前を選んだのは極めて象徴的でした。法王はブエノスアイレスの大司教時代、大司教の館には住まず、市内の質素なアパ-トに住み、公用車を使わずにバスや電車を使って大司教館の執務室に通ってました。
 ちなみに、カトリック国の大司教の館の豪華さは半端ではありません。ベルゴリオ枢機卿が派手なこと、豪華なもの、儀礼や形式的なことが嫌いな人であることを物語るエピソ-ドです。
 ベルゴリオ枢機卿は、イエズス会の神父時代、司教から大司教になってからも、ブエノスアイレスの貧民街に通い続けました。

 フランシスコ一世はこれまでの法王とは一味違う人柄で世界のカトリックの心を掴みました。法王として始めてサンピエトロ大聖堂のバルコニ-から挨拶したときの第一声が“皆さん、今晩は”でした。そして、挨拶の終わりが“おやすみなさい、ゆっくり休んでください”でした。これまで、こういう日常会話的な平易なことばで挨拶した法王は一人もいません。
 ホルヘ マリオ ベルゴリオはイタリア移民の子供としてブエノスアイレスの庶民街に生まれました。お父さんは北イタリアのピエモンテ出身の鉄道員です。たのは

 法王選出の翌日、新法王はコンクラ-ベ出席のために宿泊していたロ-マ市内の聖職者用の宿泊施設に、置いてきた自分の荷物を取りにいきました。これも法王としてはありえないことです。誰かを行かせればすむことです。しかもフランシスコ一世は、バチカンの法王専用車に乗らず枢機卿たちのミニバスに便乗していきました。そして宿泊費をきちんと払ってきたそうです。

 フランシスコ一世の前には、聖職者による児童の性的虐待問題、バチカン内部の権力闘争、これに関連すると思われるバチカンの機密文書の漏洩事件、信徒の教会離れ、バチカン銀行の不明朗な資金運用等々、問題が山積しています。
 13世紀の聖フランシスコや聖ドミニコのように、教会を建て直すことができるのでしょうか。新法王の人柄に魅了されたのか、ヨ-ロッパのプレスは期待感を含んだ好意的な論評をしてます。

 ベルギ-からコンクラ-ベに出席したダンネルス枢機卿は法王選挙後の記者会見で、フランシスコ一世の選出に非常に満足していると述べています。多分、ベルギ-の一票はベルゴリオ枢機卿に行ったのでしょう。
 3月19日の法王就任式には、ベルギ-からアルベール二世国王夫妻、ディルポ首相、レインデル及びドゥクレム両副首相が出席しました。
 これに対してベルギ-世論の一部に、国家元首や首相がカトリック教会の首長の就任式に出席するのは政教分離の原則に反するのではないか、といった意見が見られました。こういう意見をいう人は、ロ-マ法王がカトリック教会の首長であると同時に、バチカン市国の国家元首である事実を忘れているようです。
 法王就任式に世界各国から国家元首や首相32名を含む123ヵ国からの代表団、EUのバロ-ゾ委員長ら12の国際機関からの代表団が出席した事実は、ロ-マ法王が一宗教の指導者を越えた存在であることを物語っています。

 今回の法王選挙、それに伴う新法王の誕生は、われわれ日本人にはあまり縁のない出来事かもしれません。しかし、ヨ-ロッパだけではなく、世界中が注目する出来事を知っておくのも無駄ではないでしょう。何故なら、好むと好まざるとに拘わらず、ヨ-ロッパの文化、文明の地下水はキリスト教なのですから。

 さて、話しをベルギ-に戻しましょう。
 最近、ベルギ-の雑誌で「ベルギー人の伝説的な食欲」という記事をよみました。それによりますと、ベルギ-人一人当たりの卵、肉、ジャガイモ、バタ-、脂肪分の消費量はEU加盟国の平均をかなり上回るそうです。ベルギ-人はフランス人よりパンの消費量が多く、ドイツ人よりもジャガイモの消費量が多いそうですから、たいしたものです。
 皆さんも気づいてると思いますが、この国の人は本当によく食べますね。地元のビストロやブラッスリで食事をするとき、出てくる料理の量の多さに驚きませんか。自分にはとても無理と思われるあの分量を、こちらの人はぺろりと平らげて、デザ-トにまで手を出すのですから脱帽です。

 どうでもいいことですが、“ビストロ”という言葉はコサック兵が広めた言葉だそうですよ。コサック(またはコザック)人はスラブ族とトルコ族の混血種族でロシア南西部に住んでました。コサック兵は勇猛で馬術に優れているため、ヨ-ロッパの領主や王侯から傭兵として重宝されてました。
 コサック兵は雇われた国の飲み屋にはいるとすぐに“ビストロ、ビストロ”と叫んだそうです。かれらの言葉で“ビストロ”は“早く、早く”という意味なのだそうです。

 「ベルギ-人の伝説的な食欲」は、どちらかというとフランドルの伝統からきているようです。ブリュッセルの王立古典美術館やウィ-ンの歴史美術館が所蔵するピ-タ- ブリュ-ゲルの絵の中には、フランドルの農村や農民の生活を描いた絵があります。
有名な「村祭り」や「村の結婚式」の絵をみると、16世紀のフランドルの農民の宴会好き、食べ好き、飲み好きの様子がよくわかります。

 しかしブリュ-ゲルは、農民のどんちゃん騒ぎを描くことによって、当時の農民の厳しくて辛い日々の生活を暗示したかったのです。
 農民が日々の生活で直面していたのは、貧困、疫病、凶作とそれに伴う食料不足、そしてある日突然わが身にふりかかるかもしれない異端尋問の恐怖などでした。
 ブリュ-ゲルが描くヘドを吐くまで飲んで食べる農民、卑猥な踊りを踊る農民は、日々の生活の苦しさや明日からの野良仕事の辛さを、祭りや結婚式の日だけでも忘れたかったのです。

 一方、フランドルの農民は非常に勤勉だったと書かれてます。
 フランドルの農民は、当時のヨ-ロッパで最も優れた肥料を使っていたそうです。それは、鳩の糞と泥炭を焼いた灰をまぜて作った肥料で、極めて効率の高い肥料だったそうです。ベルギ-の伝書鳩は現在世界的に有名ですが、16世紀ごろから鳩がたくさんいたのでしょうか。
 またフランドルの農民は、農地の疲弊を防ぐ方法もしゃんと知っていたようです。記録によれば、穀類、蚕豆、エンドウ豆、芥子、菜種を交互に栽培して農地の疲弊を防いでいました。農学など知らない農民が、優れた肥料や農地の疲弊防止策をきちんとしっていたのは、経験に基づくとはいえ特記すべきことだと思います。

 「フランドルの村祭り」と聞くと、どうしても忘れられないお話しがありあります。むかし、どこかに書いたような気がしますが、もう一度書きます。
 このお話しは、「フランドルの英雄的村祭り」として語る継がれているお話しです。
 16世紀のフランドルはスペインの統治下にありました。
 ゲント生まれでメヘレンで教育を受けたカール五世は、太陽の沈むことなき大帝国であるスペインの全盛時代を築き、神聖ロ-マ皇帝となった世界史上の重要な人物です。カール五世は自分が生まれ故郷である、フランドルを愛し、民衆の言葉であったフラマン語も話したました。しかし後継者の息子、フェリペ二世はフランドルに興味を示さず、総督を派遣してフランドルを統治させました。

 フェリペ二世の総督アルバ候は徹底した弾圧政策をもってフランドルを統治しました。スペインの圧政に耐えかねたフランドルの民衆はたびたび反乱を起こしますが、圧倒的な兵力をもつスペイン駐留軍に鎮圧されるばかりでした。
 そんとき、フランドルのある村でスペイン駐留軍に一大打撃を与える奇策が話し合われました。
 奇策というのは、間もなくやってくる村祭りにスペイン兵を招待して、これを皆殺しにしようというものです。手筈は次のようなものです。
 祭りにやってくるスペイン兵に村の地酒のビ-ルをたっぷり飲ませる。ビールを飲ませる役は村の年ごろの娘と若妻が担当する。スペイン兵が飲んでいる間に、男ども、年寄り、子供は姿を隠す。
 頃合いをみて、娘さんたちと若妻たちは兵士を各家に誘う。兵士が無防備の状態(どういう状態でしょうか)になったところで、女性軍はこっそり家の近くに隠れている男性軍に決められた合図をする。これを受けて男どもは各家に乗り込み、スペイン兵を殺してしまう。
 この作戦で重要な役割を果たさなければならない村の娘たちと若妻たちは、村の英雄として悲壮な決意をもって村祭りの日に臨みました。

 村祭りの日、奇策は作戦通りに進みました。たっぷりのビ-ルと若い女性の接待にスペイン兵はすっかり気をゆるし、誘われるままに女性の家に入りました。
 隠れていある男性軍は今か今かと女性からの合図を待っていました。しかし、いつまで待っても肝心の合図がありません。
 そうこうするうちに、スペイン兵たちは満足げな顔で各家から出てきて、ゆうゆうと村を出て行きました。
 結局、英雄と称えられて作戦に参加した女性たちは、スペイン兵の情熱に翻弄され、大事な合図を忘れてしまったのです。
 その後、村には髪の毛の黒い情熱的な顔立ちの子供が少なからず生まれたそうです。

 ところでお父さん、お父さんは自分の人生で大事な決め事を必ず実行してきましたか。場合によっては、諸般の事情で実行できないことだってありますよね。ですから、フランドルの村の女性たちを一概に非難できないんじゃないですか。
 なに、それとこれは別だとおっしゃる。それもそうですね。   (かんとう)

No.197 ベルギ-あれこれ(その三)

197.ベルギーあれこれ(その三)

 フランドルのさる地方都市の市議会で、議場に酩酊状態の議員が遅刻して入ってきました。この議員に対して議長が、定例議会に遅刻した上、酩酊状態で議場に入場するとは何事かと、注意喚起を行いました。
 すると酔っ払い議員はこう言いました。遅刻したのは申しわけないが、自分は決して酩酊状態にあるわけではない。議会にくる前にビールを7杯飲んだだけであると。
 いくらビールの国ベルギ-でも、ビールを7杯も飲んで議会にくるのはやっぱりまずいんでしょうね。新聞種になったのが、何よりの証拠です。

 ベルギ-のフランス語圏の公務員に行った飲酒に関する調査があります。
 昼食時を含めて一日に職場で許されるビール、ワイン等のアルコ-ル飲料の摂取量についてのアンケ-トです。
 74%の公務員は一日4杯までは飲んでもよいと答えてます。20%の公務員は一日5杯までは許されると答えてます。少数の公務員は限度無しで何杯飲んでもよいと答えてます。
 アンケ-トの結果を受けて、公務員の監督官庁は次のような指針を出しました。
 仕事の場でアルコ-ルの度数が6%を越えるアルコ-ル飲料を飲んではならない。昼食をとるカンティンやカフェテリアでは、食事と一緒ならばビ-ルやワインを提供してもよい(何杯までとは書いてません)。職場でのアルコ-ル飲料は一日2杯までが望ましい。

 われわれ日本人から見ると、この国のお役所はアルコ-ル飲料に対して驚くほど寛容ですね。職場で2杯までは飲んでもいいと公的に認めるのですから驚きです。昼食と一緒ならビ-ルもワインも好きなだけ飲んでもいいというのは、さらに驚きです。
 わたしもこちらの人と仕事上のランチを共にすることがありますが、みんな本当によく飲みます。午後から仕事になるのかしらと、こちらが心配してしまいます。
 われわれ日本人にとって、結婚式等の特別な機会を除いて昼酒はあり得ませんよね。仕事中や職場では一滴も飲まないのが当たり前でしょう。

 その代わりといっては何ですが、多くの日本人は仕事帰りの一杯を楽しみにしてよく飲みます。ただ欧米の人にとって、日本の駅や路上でス-ツにネクタイ姿の人が酔ってうろうろしてるのを見るのは、驚くべきことなのです。
 欧米の社会で、ス-ツにネクタイをした人が、人前で酔った姿を見せることはあり得ないからです。そのような振る舞いは、社会的に恥ずべき行為とみなされます。
 こちらの人が職場や仕事中の飲酒に寛容であるのに対して、日本人は仕事の後の飲酒、しかも大いに飲むことに寛容という構図ができてるようです。どちらがいいのか悪いのかはおいといて、酒を飲んで人に迷惑をかけたり、最悪のケ-スで人を死傷させたりすることは断じて許されないことです。

 ベルギ-で最近問題になっているのが、若年層の飲酒と交通事故です。ベルギ-には飲酒の年齢制限がありませんので、14,5歳から飲み始めます。小さい子供にもお祝いの席などではワインに水をさして飲ませます。
 月曜日の新聞には週末の交通事故の記事がでます。多くは、週末にディスコや仲間同士のパ-ティ-などで朝方まで飲んで騒いだ若者の車の事故です。
 この稿を書きながら読んだ今朝、月曜日の新聞にも若者の痛ましい交通事故の記事が載っていました。

 友達の誕生パ-ティ-を祝った若者達が小さなオペルのコルサ(定員4人)に7人で乗り込み(一人は後ろのトランク)、土曜から日曜にかけての深夜の道路を飛ばしました。全員そうとう飲んでいたそうです。
 運転していた若者は酔いとスピ-ドの出しすぎのため、最近道路によく設置されているスピ-ド殺しの障害物に気づかず、スピ-ドを緩めなかったため、車が跳ね上がって横転し樽のように転がってガ-ドレールに激突しました。小さな車に7人も乗ったため、車の重心が失われたのも横転の原因のようです。
 結果は、誕生日の主人公で車を運転をしていた19歳の若者と彼の恋人の17歳の少女が死亡、他は重軽傷を負いました。
 17歳や19歳で人生を終えるなんて、あまりにも理不尽です。でも、こういう事故が毎週起きているのです。ベルギ-のどこかで、毎週のように若者が短い人生を終えているのです。

 若者の飲酒や交通事故が問題になる度に、槍玉にあげられるのがアルコール飲料の会社です。
 自社製品の売り上げを伸ばすために、アルコ-ル飲料の会社はあの手この手で新製品を市場に出してきます。今一番問題になっているのが、一見ソフトドリンク風のアルコ-ル飲料です。こういう飲料は飲み口がいいのですいすいと飲んでしまいます。
 実際にはウオッカやジンといった強いアルコ-ルが入ってますので、酔うスピ-ドも早いのです。ある分量を越して飲めば、当然交通事故の原因になります。

  酒は楽しく飲みたいですね。飲んで人にからんだり、人を不愉快にする酒飲みは本当の酒飲みではありません。ロシアに、「ワインに罪はない。罪があるのは飲んだ人間だ」という諺があります。またモンテ-ニュは、「酔っ払いがいるからといってワインを非難するのは間違っている」といってます。
 ペニシリンを発見したフレミングは、「ペニシリンは人の病気を治してくれる。しかしワインは人を幸福にしてくれる」といってます。
 ラテン語の諺に「In Vino Veritas」というのがあります。直訳すれば、ワインの中に真理があるという意味ですが、本当の意味は、ワインを飲めば心が開かれ、本根で話しができてお互いの絆が深まるという意味のようです。

 ワインは西洋の文化を構成する大切な要素です。ワイン抜きの西洋文化はありえません。聖書にもワインはでてきます。カナの婚姻で、イエスが水をワインに変えた奇跡は有名です。カトリック教会のミサはワイン無しには成立しません。
 ローマ軍は征服地に必ずブドウの木を植えて、ワイン造りをしました。中世の修道院でもワイン造りは重要な仕事でした。
 日本で一本百万円はするというブルゴ-ニュの銘酒、ロマネコンティは、シト-会(日本では北海道の函館に修道院があります)の修道士たちがこのワインを産するVosne-Romanée村の現在の畑に最初のブドウの苗を植えたのが始まりです。
 この畑に行ったことがありますが、想像以上に小さい畑です。年間に5400本ぐらいしか生産量がない上に、世界最高クラスのワインときてますから、高いのは仕方がないのでしょう。
 中世ヨーロッパの領主や王様はいいワインを造ることに熱心でした。ベルギ-にも関係の深いブルゴ-ニュ公は、領内のブドウの種類を選別してワインの質を向上させる努力をしています。たとえば、ブルゴ-ニュ公、フィリップ大胆公は1395年にそれまで栽培されていたGamay種のブドウの栽培を禁止し、Pinot Noir種のみの栽培を命じました。
 これは現在まで守られており、ブルゴ-ニュのワインはピノノワ-ル種のブドウでしか造られません。ガメ-種のブドウは現在ボージョレ地方で栽培されています。早出しで有名なボージョレヌボ-はガメ-種のブドウで造られてます。

 ここで、西洋の人々がどれだけワイン文化を大切にし、ワインを愛してきたかを示す言葉を書いてみます。
 「ワインは悲しみを癒し、老人を若返らせ、若者に勇気を与え、不安と苦しみの重荷を軽くしてくれる」
 「一本のワインのボトルには万巻の書物より多くの哲学と知恵がつまっている」
 「ワインはこの世でもっとも進んだ文明の印である」
 「この世のすべての武器は無用である。ワインの栓抜きをのぞけば」
 「ワイングラスの間では、争いことは沈黙する」
 「ワインは食事のなかの知的な部分である。肉や野菜は物にすぎない」
 「ワインは食欲を増し、食事をおいしくし、会話を楽しくし、人々を幸せにしてくれる。ワインは単純な食事を忘れがたいディナ-に変える力を持つ」
 「ワインは友情と同じである。初めはぎこちなくとも年と共に熟成していく」
 「大きな宴会の席で、参加者の視線は二つの方向に向かう。一つの視線は美しい女性の胸に向かい、もうひとつの視線はワインボトルのラベルに向かう」
 「いいワインは聖人に満ちた教会より多くの奇跡をおこす」
 「ワインのない一日は太陽のない一日と同じである」
 「疲れきった男にワインを一杯飲ませなさい。彼の目が生き生きとしてくるのがわかります」
 「ワインなしの日々は毎日死んでいくようなものである」

 まだまだありますが、このぐらいにしておきましょう。
 どうですか。なるほどと納得のいく言葉はありますか。わたしなどいちいち納得のいく言葉ばかりです。
 わたしは、生まれながらとは云いませんが、物心ついたころからなぜかお酒が好きでした。子供のころ、お正月に神棚に供えられたお神酒のお流れをもらって飲むのが楽しみでした。
 世界に数あるお酒の中で、最も奥が深く、ときにはこ惑的にひとを誘うかと思うと、本性を現さずに近寄るものを冷たく拒否し、神秘的でさえあるお酒は、わたしの場合ワインです。生涯をかけて挑んでも、ワインを極めることはできないという、一種の悟り境地に達しています。

 話しはがらっと変わりますが、ベルギーの就活に関する話しを一つ。
大分前になりますが、会社の近くの路上で知り合いのバス会社の運転手、エリックにばったり会いました。
 エリックはスーツにネクタイ姿で、ドライバ-時代とはまるで別人のようないでたちでした。近況を尋ねると、彼はちょっと恥ずかしそうに、しかし誇らしげに自分の名刺を差し出しました。
 名刺には、某大臣官房の部署名と事務官エリック何某と印刷されてました。私はドライバーのエリックしか知らなっかったので、彼の名刺を見て驚きました。
 エリックは私の反応を待ってたように、現在の職務についた経緯を説明してくれました。彼は某大臣の出身政党の党員なのなのだそうです。彼のお父さんも党員で、選挙のときは、お父さんと一緒に大臣の選挙運動を手伝い、ビラ張りなども積極的やってきたそうです。

 エリックがバスのドライバ-をやりながら、公務員試験を受ける勉強をしていた事実は知りませんでした。彼がどういう試験を受けて、どういう経緯で大臣官房の公務員になったのか、詳しくは話してくれませんでしたが、だいたい想像できます。
 ベルギ-の就活には政党がからんでいる場合が多いのです。大学の卒業証書を手にした学生がまずやるべきことが二つあります。
 一つは失業保険の申請手続きをすること。もう一つは政権与党の党員加入申し込みをするか、有力政治家の後援会メンバ-になることです。
 ご参考までですが、こちらの大学は卒業生の就職にまったくダッチしません。企業も大学に求人依頼を出したりはしません。就職は学生の個人の責任において行うものと考えられてます。

 ご承知のように、ベルギ-の失業保険制度は日本などに比べてまことに手厚い制度になってます。学校を出て、一度も働いたことがなくても一定の条件を満たせば失業保険を受給できます。ですから学生は、卒業と同時に失業保険の申請手続きをするのです。
 ベルギ-の社会でコネは非常に大事です。勿論、コネは日本でも大事でしょうが、ベルギ-ほど露骨ではないと思います。この国の官庁人事は政党抜きには語れません。
省庁の幹部の人事異動の度に、政党別のポストの割り振り表が新聞に出るぐらいです。
国鉄、郵政などのトップ人事も政党色が色濃くでます。
 親子二代に渡る忠実な党員で、自分の選挙運動も一生懸命手伝ってくれるエリックを大臣官房に入れることは、大臣にとってそんなに難しいことではないのかも知れません。

 ヨーロッパの言葉にNepotisme(閥族主義、同族任用、縁故採用)という言葉があります。各国語によって語尾はちょっと変わりますが、本質は同じです。これはイタリア語のNipote(甥っ子)が語源です。
 昔、ローマ教皇が自分の甥や親族を要職につけた悪しき慣例からきています。教会史上最悪の教皇と云われているボルジア家出身のアレクサンドル六世(在位1492年-1503年)は、甥っ子どころか自分の18歳の息子を枢機卿に任命しています。
生涯独身の筈の教皇なのに、かれには認知しただけで6人の子供がいました。ネポティスムというとこの悪徳教皇アレクサンドル六世がでてきます。
 エリックの例を引くまでもなく、ベルギ-にはネポティスムが隠然と存在します。
最近新聞でたたかれた当国某大臣の話しですが、この大臣は自分の役所のあるプロジェクトを息子が経営する会社に丸投げさせました。  

 余談ですが、昔息子が小学校に入るとき、家の近くにある区立の小学校に入れました。しかし三ヶ月もしないうちにその学校をやめさせ、私立の小学校に入れ直しました。理由は、区立小学校の女性校長のおばさんの態度が、とうてい教育者とはいえないひどいものだったからです。そのおばさん校長の態度の下品で粗野のことは驚くべきものでした。聞くところいよると、そのおばさん校長は、教員時代に当時の区長で国会議員を兼ねる有力政治家の忠実な支持者で、献身的なビラ張り要員だったのです。
 論功行賞はどこの世界にもあることです。自分のために一生懸命働いてくれたひとにご褒美をあげたいと思うのは、人間の自然な感情です。ただ、ご褒美をもらうひとがそのご褒美に相応しいひとならいいのですが、ご褒美に値いしないひとがもらうと問題が起こります。

 アメリカの大統領選挙とその後の論功行賞も有名ですね。当選した大統領からのご褒美は大使ポストが多いようです。今回、某国大使に任命されたアメリカのさる実業家は、7歳のとき両親とモロッコからアメリカに移民してきたひとです。この実業家は、選挙戦中オバマ大統領陣営に450万ドルの寄付をしたそうです。大使ポストはこのぐらい出さないと無理みたいですよ。

 ところでお父さん、お父さんはお母さんからご褒美をもらったことはありますか。
なに、一緒に居てもらえるだけでも大変なご褒美ですと。そうでしょうね、今のお父さんなら。    (かんとう)

No.198 最後のイタリア留学の記

198.最後のイタリア留学の記

 この夏もまたイタリアに行ってきました。
 本会報に毎年夏のイタリア留学記を書いてもう何年になるのか、いうのも恥ずかしいほど書いてきました。
 しかし今回をもって、正真正銘最後のイタリア留学の記とさせていただきます。たとえまたイタリアに行くことがあっても、会報に書いて皆さんのお目を汚すようなマネはいたしません。ちょっと多すぎますよね、いくらなんでも。

 今年は7月の3週間、ベニスに行ってきました。
 イタリアはおろか、世界屈指の観光都市であるベニスで勉強ができるのかと、行く前から人にいわれました。
 確かに、ベニスの観光名所には歩くのも大変なほどの観光客がいました。しかし、どんなに観光客が押しよせようと、常に勉学を志す高潔なる志をもった人間は必ずいるのです。例えば不肖わたくしのような人間が….、とはいいませんが。

 皆さんの中でベニスに行ったことのある人は多いでしょう。ヨーロッパにいる間、見ておきたい場所はたくさんあると思いますが、ベニスはその中で10位以内には入りませんか。
 個人的にはベニスには過去に2度ほど行ってます。何度行ってもベニスの壮麗さ、偉大さ、ヨ-ロッパ文化の華、キリスト教文化の奥深さを感じさせられます。いわゆるラグ-ン(潟)の上に、水と闘いながらよくあれだけの都市をつくったものと、行くたびに感心させられます。 

 インタ-ネットで調べると、ベニスには外国人向けイタリア語学校が何校かあります。わたしはその中で一番小さい学校を選びました。1クラスの最高人数が6人というのが気に入りました。また、学校の場所が本島の中心部にあるのも気にいりました。
 学校の責任者ディエゴさんとメ-ルのやりとりをして入学を決め、学校から紹介してもらった下宿用フラットの家主フィリポさんともメ-ルのやりとりをして入居を決めました。準備万端整い、7月第一週の週末にベニス行きの飛行機に乗りました。
 ベニスのマルコポ-ロ空港に到着、ターンテ-ブルで荷物を受け取り出口向かう所で税関につかまりました。ぞくぞくと出口に向かう人々の群れのなかで、アジア人は自分一人だけだったのでいやな予感がしたのですが、案のじょう税関の係官に呼び止められました。

 おきまりのパスポ-ト拝見から始まり、高額の現金をもってないか等いろいろ聞かれました。苦学生が高額な現金をもってるわけがないでしょう。こっちの姿かっこうを見ればわかりそうなものです。
係官の様子から、トランクを開けさせるという雰囲気を感じたので、とっさに次のようにいいました。
 「わたしはイタリア語を学ぶためにベニスにきました。今あなたが話していることばは世界で最も美しいことばの一つだとわたしは思っているのです」と。
 途端に係官の態度が変わりました。しかめっ面がにこにこ顔になり、「そう、イタリア語の勉強にきたの。しっかり勉強しなさいよ」と、握手までしてくれて通してくれました。言ってみるものですね。

 マルコポ-ロ空港から本島のバスタ-ミナル,ロ-マ広場(Piazzale Roma)まではノンストップのシャトルバスで20分で着きます。
 ここまでは順調に来ましたが、下宿の住所にたどり着くまでが一苦労でした。何度も何度も道をききながらやっと住所の場所につきました。
 歩きながら気がついたのですが、ベニスに来るときはリュックをしょってくるのが一番いいということです。ベニスは運河が縦横に走っている街です。運河には橋がかかっています。ベニスの本島だけで橋の数が600以上あるそうです。極端な云い方をすれば、数メ-トル歩けば橋にぶっつかるという感じです。

 運河はさまざまな船やゴンドラの通行路です。橋は船の航行を妨げないように、中央部が高くなっているいわゆる太鼓橋形式になってます。従って橋には階段がついてます。小さな橋で片側8段、両サイドで16段、ちょっと大きい橋だと片側22段、両サイドで44段あります。次から次と現れるこれらの橋を、重いトランクを引っ張りあげ、引きずりおろしながら通るのは大変な労力を必要とします。
 炎天下でこの作業を繰り返したわたしも、目的地に着いたときはへとへとになってました。

 ベニスの住所表示は非常に大雑把です。例えば、わたしの借りたフラットの住所はDorso Duro 3048でした。でも、このDorso Duroというのはベニスの6つの行政区分の一つなのです。通りの名前ではありません。ブリュッセルに当てはめれば、Ixelles 3048とか、Woluwe-Saint-Lambert 3048と書くのと同じなのです。
 来る前に、家主さんからメ-ルでいろいろと説明は受けてました。サンタマルゲリ-タ広場までくればすぐだからとの説明を信じて来たのですが、まるでわかりりません。
結局、家主さんの携帯に電話をして迎えにきてもらいました。
 品のいい年配の女性が迎えにきてくれました。家主、フィリポさんのお母さんでした。フィリポさんはリアルト橋の近くででチ-ズの専門店を経営してるので代わりに来ましたとのことでした。
 下宿は確かに広場の近くでしたがちょっと路地を入ったところで、わたしが一晩探してもわからなかったと思います。ベニスの郵便配達さんはどうやって配達先をみつかるのか、不思議に思いました。

 フラットは内装、調度品などが想像以上にきれいで上品で、しかも近くの広場の騒音が全然入ってこない静かな雰囲気が気に入いりました。
 さらに、タオルや洗剤、台所用品などが完備しているばかりか、卓上の大きな皿にはいろいろな果物が用意されており、冷蔵庫にはベネトの白ワインまで入っているという歓迎ぶりです。これまでイタリアでいろいろな下宿を経験しましたが、こんな下宿は初めてです。場所によっては、タオルはおろかトイレットペ-パ-も用意されてない下宿もありました。

 荷物の整理が終わったところで、翌日、月曜日から始まる学校に行ってみることにしました。地図を片手に、何度も道を聞きながら迷路そのもののベニスの街を歩くこと約1時間、やっと住所の場所に着きました。大きな教会のある広場が住所でした。   しかし、学校らしき建物は見当たりません。学校に電話しましたが、日曜なので誰もでません。ま、月曜になれば他の生徒もくるのでわかるだろうと考え、再度迷いながら下宿に戻りました。
 夕方、店を閉めたフィリポさんがフラットに来てくれて、テレビの操作や電子レンジの使い方などいろいろと説明してくれました。40歳前後の若い家主さんです。
 彼の店ではチ-ズの他にカラスミなども売ってるそうで、日本人の観光客がよく買っていくといってました。滞在中に彼の店をのぞいたことがありますが、ものすごく流行っている店で、“やあ、こんにちわ”といっただけで話もできませんでした。

 月曜の朝は余裕をもって下宿を出ました。途中また迷いながら学校の住所に着きました。しかし学校は見つかりません。近くのカフェに入って住所を見せながらききましたがわかりません。店にいたカフェの常連らしきおじさんが二人、外に出て探してくれましたが見つかりません。
 結局、学校に電話をしたらすぐに迎えに行くからそこにいなさいという返事。間もなく若い男性がやってきました。彼は授業を担当するロベルト先生でした。
 わたしのために学校を探してくれたおじさん二人が、ロベルトさんに「この辺に学校なんかないじゃない」というと、ロベルトさんは「学校は別の場所なのですが、今改装工事中で、夏の間だけこの教会の集会室を借りて授業をするのです」と答えました。
 おじさんたちは「何だ、最初から教会の集会室と書いておけばすぐにわかったのに」といいました。全くそのとおりです。学校なんて書くから生徒が迷い、ご近所のおじさんたちにもご迷惑をかけるのです。

 出だしはつまずきましたが、授業内容は非常に満足のいくものでした。まず、クラスが極端な少人数であること。わたしのクラスはアメリカ人の男性トムとスイス人の女性エリザベ-トとわたしの3人でけです。
 トムはフィラデルフィアの元証券会社社長で今は引退して悠々自適の身。外国語の勉強が趣味で、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語を話す、アメリカ人には珍しい人。
 最初会ったとき、相当きつい英語訛りで、しかもたどたどしい感じのイタリア語を話すので、かれのイタリア語の力をやや過小評価したのですが、これはとんだ間違いでした。トムのイタリア語の語彙の豊富なこと、文法の知識の正確なこと、わたしなど足元にも及びませんでした。ベニスの方言やベニスの若者の間ではやっている独特の言い回しまで知ってました。
 トムは銀髪の紳士で、どんなに暑くても必ずジャケット着用で学校にきます。彼は毎晩ベニス独特の居酒屋、バカラで一杯やってから、旅行者用ではないいいレストランを見つけて食事をするのを楽しみにしていました。
 バカラとはその店特製のつまみを食べながら、いろいろなワインを楽しむベニス版居酒屋でワインの販売もしてます。

 スイス人のエリザベ-トは高校生の娘、ゼリ-と一緒にイタリア語の勉強にきてます。ゼリ-は初心者なのでクラスは別でした。スイスのフリ-ブルグに住んでおり、フランス語系スイス人です。
 われわれ3人のなかで、イタリア語が最も上手なのがエリザベ-トでした。14歳の時、両親とイタリア旅行に来てイタリア語に魅せられ、以来イタリア語の勉強をしてるといいますから年季がはいってます。
 一番下手なのはもちろんわたしです。これだけ長いことイタリア語をやってるのに情けない話しです。それでも虚仮の一念というのでしょうか、イタリアで暮らす上での日常会話はなんとかなるところまでは来たようです。

 今回の学校のよかった点は会話が中心だったことです。しかも生徒が3人しかいないので、各自がどんどん話さないと間がもちません。非常にいい経験でした。
 先生は二人いて、前半と後半で交代します。前半はロベルト先生で後半はシモ-ネ先生でした。
 ロベルト先生は身なりもきちんとしており、いかにも先生という感じのひとです。一方のシモ-ネ先生は、タンパンにTシャツ、サンダル履きに無精ひげといういでたち。二人ともそれぞれに持ち味があって楽しい授業をしてくれました。
 ロベルト先生は、イタリア語習得用のいろいろなゲームやクイズをさせてくれたり、映画をみせて感想をいわせたり、生徒を飽きさせませんでした。
 シモ-ネ先生は、まずわれわれ生徒の名前をイタリアの名前に変えることから始めました。トムはトマゾ、エリザベ-トはエリザベ-タ、わたしはサムエ-レになりました。授業中、ずっとこの名前で呼ばれました。
 シモ-ネ先生は非常に活発な先生で、話し方も機関銃みたいに早くて最初は戸惑いましたが、慣れると聞き取れるから不思議です。イタリアの時事問題をテーマにした討論や作文をよくさせられました。

 討論の教材にあったちょっと面白い内容を書きます。
 それは、「イタリアの男性が嫌う女性のことば」という内容です。
 「ねえ、今なに考えてるの?」:彼女にいいたかったら最初からいう。いわないのは自分の思考範囲に留めておきたいから。
 「わたしを愛してる?」:愛してるとしても何度いえば気がすむのか。愛してないなら本心をさらけ出すわけにいかない。
 「あなたっていつも同じね。ちっとも変わらないんだから」:じゃあ、別の人間になれというのか。自分だってちっとも変わらないくせに。
 「あなたって、あなたのお母さんよりひどいは」:おれを批判するなら直接云え。お母さんを比較の対象として持ち出すな。(イタリア語にMammone、お母さん子ということばがあるぐらい、イタリアの男性は自分のお母さんの非難を許さない) 
「わたしのこの服、あなたどう思う?」:女性の服装はあまりにけばけばしいとか、へんてこでなければいい。女性の服装に判断をくだすのは、この上ない冒険である。

 学校に往復とも迷わずに行けるようになるまで、4日ぐらいかかりました。迷わずに行けば片道20分の距離です。外国の街でこんなに迷った経験はありません。
 通学路には運河、橋、人がやっとすれ違えるぐらいの細い路地などがあり、退屈しません。道々いろいろな情景や人々の生活に出会えます。
 運河を見ながら気がついたのは、ベニスにはパトカ-や救急車、消防車、ごみの収集車、タクシ-等が無いという事実です。すべて船です。パト船、救急船、消防船、収集船、タクシ-船、あるいは宅急便の配達船等々、車なるものは自転車さえありません。唯一車がついてる物は、手押し車か荷車だけです。
 本当に緊急の事態が発生した場合、船で行って間に合うだろうかと心配になりますが、ベニスの人々は長い間こういう生活をしてきたわけで、外来者が考える以上にうまく機能しているのでしょう。
 一度、患者さんを救急船に移す現場に出会ったことがありますが、車輪付のベットで運ばれてきた患者さんを揺れる船に移すのは結構大変そうでした。誤って患者さんを運河に落としたら大変だろうな心配しました。

 同じ場所に3週間もいると、ご近所の皆さんと顔なじみになります。
 毎朝コ-ヒ-を飲むカフェのおねえさん、学校の行き帰りに通る広場で果物と野菜を売ってるバングラデッシュ出身の青年、広場に午前中だけ屋台を出して飛びっきり新鮮な魚や貝などを売っている魚屋のおじさん、同じ広場にあるレストランのボーイさんたちなど、みんな声をかけてくれます。

今年は、週末を利用して息子夫婦がブリュッセルからベニス見物に来たので、フラットに泊めてベニスを案内してあげました。息子たちがいる間は、バカラでベニス名物の食前酒スプリッツを飲んだり、食事の時はベネト産のワインやプロセッコなどいろいろ飲みましたが、ひとりの間は禁酒を貫きました。夕食がカップラ-メンに水一杯という日もあり、文字通り苦学生の生活でした。

 というわけで、今年も勉強だけではなく、いろいろな経験や思い出を胸にしてイタリア留学を終えることができました。

 ところでお父さん、イタリアの男性が嫌う女性のことばというのは世界共通ではないですか。お父さんは特にどのことばが嫌いですか。なに、お母さんからああいうことばをいわれたことがないですと。相手にされてないんですか、もう。 (かんとう)

No.199 モテ男に関する考察

199.モテ男に関する考察


変なタイトルですが、この夏ベニスに行った時に思いついたタイトルです。
 ベニスで、有名なカザノバについての話しを聞いたり、かれが閉じ込められていた牢獄を見学する機会があり、カザノバという人物についてちょっと調べてみたのです。
 カザノバの正式な名前は、Giacomo Girolamo Casanovaです。Casanovaは直訳すれば新しい家ですから、日本風にいえば新家さんでしょうか。
 カザノバは1725年4月2日にベニスで生まれ、1798年6月4日にボヘミアで亡くなっています享年73歳でした。日本でいえば、八代将軍吉宗から十代将軍家治の時代です。
 73歳という年齢は、当時としてはかなりの長寿というべきでしょう。生涯にたくさんの女性を愛し、またたくさんの女性に愛されたうえに長生きまでするなんて、神様もずいぶん不公平な配剤をすると思いませんか。

 カザノバといえば“女たらし”と同義語にされるの一般的です。確かに、かれがフランス語で書いた自伝「わが人生の歴史(Histoire de ma vie)」の中で、自分が生涯に関係をもった女性は正確に142人であると述べてますから、対女性関係ではただ者ではないことがわかります。
 かれは少年のころから女性を愛する才能に恵まれていたようです。かれは15歳のとき自分の家の女中と関係をもちますが、女中さんの方が「あんなに激しい愛を交わしたことがない」と感激の証言をしてます。「栴檀は双葉より芳し」とは、こういう場合にはいわないですよね。 
 カザノバが誘惑した女性のなかには貴族夫人や貴族令嬢に加えて修道女までいます。最もひどい例は、人妻となっていた自分の娘と関係を持ち子供までうませてます。
 かれは18世紀のヨ-ロッパ社会の道徳や倫理、教会の教えなどから隔絶した思想の持ち主だったといえるでしょう。

 カザノバの学業成績は極めて優秀でした。イタリア北部のパドヴァの大学で勉強しましたが、科目は哲学、法学、数学、化学と多岐にわたり、いずれも優秀な成績を残しています。さらにかれは、法学と教会法の博士号も取得しています。
 余談ですが、パドヴァの聖アントニオは失せ物発見で有名な聖人です。大切な物が紛失して、どうしても見つからないときは聖アントニオ様にお祈りをすると不思議と失くした物が見つかるそうです。今、紛失物でお困りの方は試してみてください。
 もうひとつ余談ですが、パドヴァには、数あるイタリアの名画の中でも必見といわれうジョットの「キリストの生涯」24枚を納めたスクロヴェーニ礼拝堂があります。
 この礼拝堂はスクロヴェーニという金貸しが、罪滅ぼしに寄進したもので内部はジョットの作品で埋め尽くされてます。拝観条件は非常に厳しくて、一人15分のみです。しかも入場まえに身体の条件が礼拝堂内の気温等に合致するまで、別室でまたされます。その代わり、絵画の保存状態はすばらしいです。

 女好きのカザノバにどういう心境の変化があったのか、かれはある時期から聖職者への道を志します。めでたく神父になったカザノバは、生まれ故郷のベニスの聖サムエ-レ教会に勤務します。
 かれはこの教会の近くのマリピエロ通り(Calle Malipiero)で生まれてます。わたしはベニス滞在中にこの場所を探したのですが見つかりませんでした。見つかったら、もうちょっと女性にモテるようなりたいのですがよろしくお願いしますと、カザノバさんにお願いするつもりでしたが適いませんでした。

 やがてカザノバ神父は聖サムエ-レ教会を追い出される事件を引き起こします。それはべろんべろんに酔っ払って説教台に上ったためです。
 それでも高位聖職者の庇護のおかげで、ベニスの他の教会や、ナポリ、ロ-マの教会で神父として働くことができました。さらに有力枢機卿や教皇ベネディクト14世にも気にいられ、高位聖職者への出世間違いなしと思われていました。
 しかし聖職者の身で女性を囲っていた事実が明らかになり、教会を追放されます。この後、かれはいろいろな職業を経験しながら女性遍歴を続けていきます。
 かれが経験した職業はバイオリ二スト、博打うち、詐欺師、図書館司書、スパイ、軍人等々ですが、まるで一貫性がありません。手当たりしだいという感じです。

 1755年にカザノバはベニスで逮捕されます。理由は例によって女性問題、その他、金銭問題、ベネチア共和国への反逆罪、無神論、邪教信仰、フリ-メ-ソン会員等々多彩なものです。
 かれはサンマルコ広場に立つあの有名なドゥカ-レ宮殿の中にある牢獄につながれます。ベニスに行かれた方はこの宮殿を必ず見てるはずです。
 わたしはベニスにいる間、ドゥカ-レ宮殿特別ツア-に参加する機会がありました。このツア-は、一般に公開されていない宮殿内の秘密の場所を見せてくれるツア-でした。

 宮殿内の秘密の場所で一番興味があったのは、カザノバが入れられていた牢獄でした。牢獄の場所は宮殿の屋根裏に近い場所にありました。狭場恐怖症の人にはさぞかしつらいであろうと思われる部屋で、扉の作りの頑丈さが目をひきました。
 どうやってもこの牢獄から脱出することは不可能とおもわれますが、カザノバは見事に脱獄に成功してます。ド ゥカ-レ宮殿の牢獄から脱出に成功したのは後にも先にもカザノバ一人です。
 この脱獄には、カザノバを慕うベネチア共和国の貴族夫人が手をかしたという話しがありますが、真偽のほどはわかりません。
 カザノバは脱獄後にサンマルコ広場の有名なカフェ、フロリアン(1720年創業)でゆうゆうとお茶を飲んでから姿を消したという話しも残ってます。

 どうでもいいことかもしれませんが、カザノバが入れられていた牢獄は、ドゥカ-レ宮殿から「溜息の橋」を渡って行く向こう側の地下牢ではありません。
 地下牢に入れられたら生きては戻れないので、囚人は橋を渡るとき溜息をついたという「溜息の橋」はベニスの観光名所になってますので、ベニスに行った方はご覧になってるでしょう。
 わたしも「溜息の橋」を渡って地下牢を見学してきましたが、満潮時には水浸しになるという地下牢より、カザノバがいた宮殿内の高い場所にある牢獄の方が何倍も居心地がいいことがわかります。

 カザノバは死ぬまで女性を愛し続けました。亡くなる 3年前にも、ベネチア共和国の大使令嬢を誘惑してます。
 カザノバはどうしてこんなにモテたのでしょうか。残っているかれの肖像画を見ても、当時のヨ-ロッパのどこにでもいた普通の男の顔です。特にセクシ-な感じもありません。なぜ, かくも多くの女性がかれに魅せられたのでしょうか。

 ベルギ-南部のエノ-州にベロイ城(Château de Beloeil)というお城があります。
 このお城は14世紀来ベルギ-の名門貴族リーニュ公(Prince de Ligne)の居城になってます。リーニュ公 は、ベルギ-独立の際、初代のベルギ-国王の候補になったこともあるヨーロッパでも有数の名門貴族です。
 ベロイ城はベルギ-のシャトーの中でも最も美しいシャト-といわれてます。まだ訪問したことのない方は、一度行ってみてください。週末のドライブにちょうどいいです。

 カザノバと同時代に生きた何代目かのリ-ニュ公がカザノバについての記録を残してます。
 「かれは醜くはない。むしろ好男子といってよい。背は高く体格がいい。皮膚のいろはやや浅黒い。目はいきいきとしており、才気煥発な印象を与える。ただ、疑い深く物事を悲観的にみる傾向がある。自分は笑わないがひとを笑わせるのが上手。気のきいた冗談や機知に富んだ話しがうまい。幅広い教養をもち、話題が豊富である。かれの頭の中にはつねに女性がいる。かれは、女性について不可能なことはないと信じている。かれと出会った女性は、かれのことが忘れられなくなるようである。しかしかれは、一人の女性にまとわりつかれるのを嫌う。時には冷酷に関係を絶ってしまう」

 どうですか。少しは参考になりますか。
 「女性について不可能なことはない」なんていう自信は、どこからくるのでしょうか。自分の場合、「女性について可能なことはなにもない」という自信ならあるのですが。
 出会った女性がかれのことを忘れ難くなるなんて、どういうことなんでしょう。こちらは、会ったことのある女性に、「どこかでお目にかかりましたかしら」なんていわれるのが普通なのにです。
 ま、カザノバには女性をひきつける天性のオーラがあったのでしょう。そういう結論にしておかないと、モテない男が可哀想です。

 一般論として、モテる男とモテない男の違いはどこにあるのでしょうか。
 まず外見ですか。こればっかりはどうしようもないですよね。だれもが福山雅治さんや堺雅人さんになれるわけではありませんから。
 人間は平等ではありません。美男, 美女に生まれるひとそうでないひと。頭のいいひととそうでないひと。お金持ちとそうでないひと。世の中は極めて不公平にできてます。これを恨んでも意味のないことです。自分に与えられた素材を生かしていくしかありません。

 せめて、ひとに不快感を与えないだけの外見を整えましょう。
 不潔な髪の毛、伸びた鼻毛、耳の穴から飛び出している毛、ひげの剃り残し、汚い爪、口臭、昼に食べたニラレバの韮がはさまった歯、襟垢のついたシャツ、袖口がほころびてるシャツ(捨ててください)、よれよれでシミまでついてるスーツ、ひざが抜けて折り目が消えてしまっているズボン、スーツやシャツとまったくマッチしてないネクタイ、結び目が擦り切れているようなネクタイ(捨ててください)、いつ磨いたかわからないような靴、歩くときの猫背、ずれてるカツラ等々に気をつけないひとは、モテる男の範疇には入りません。
 生まれながらの外見に自信がない場合、せめて清潔感にあふれ、着こなしに気をつけ、常にすっきりとした姿勢を保つことなどに注意をしたいものです。
 別の云い方をすれば、幾つになっても“他人の目を意識した外見”を保つことです。

 外見の次に大事なのはなんでしょうか。
 それは女性とのコミュニケ-ションの力、或いは会話力でしょうか。外見にいくら注意を払っても、話しの面白くないひと、退屈なひとはモテません。
 女性の男性に対する好感度の調査で、「話していて楽しいひと」という項目がいつも上位を占めてます。ですから、しんねりむっつり型の男性は努力が必要です。
 話しがおもしろいというのは、男性が一人でしゃべりまくって食事の間ずっと女性が笑っていた、ということではありません。こういう男を相手にするのは疲れます。
 女性が笑っているからといって、喜んでいると思ったら大間違いです。心の中で「このバカいい加減にやめないかしら」と思っているかもしれないのです。

 それから、自分のことばかりしゃべる男も嫌われます。会話の一方通行は男女の間だけでなく、仕事の場や交友関係でも評価されません。
 わたしの個人的経験では、自分のことしか話さないひとは日本人に多いような気がします。こちらのひととの交友関係では、自分のことばかり話すひとに今まで出会ったことがありません。
 これはヨーロッパの教育の伝統のなかに、ディベ-ト(討論)の伝統があり、こちらのひとの話し方の基本になっているからでしょうか。
 日本のキリシタン時代に、九州の天草にあったイエズス会のコレジオ(学校)でDisputatio(討論)が教科に入っていました。その後のキリシタン禁制で、日本の教育からこの伝統が断ち切られてしまったのは残念です。

 会話で自慢ばかりする男も女性に嫌われます。自分を価値ある人間に見せたくて自慢するのは逆効果です。本当に価値ある男性は自慢などしません。
 十の知識のなかから、女性が興味を持ちそうな話題を一つだけ取り出して話す男性が奥ゆかしいのです。逆に、知識が一つしかないのに十の話題をくり出そうとする男性は、空虚な話ししかできないバカ男として、女性から軽蔑されます。
 要は、日ごろから文化や教養、或いは雑学の引き出しを増やす努力を怠らないことです。そして、相手の女性が何に興味をもっているのかを、話しながらいち早く見抜く力を養うことです。

 モテ男は聞き上手です。相手の女性の話しを興味をもって聞き、その話題を広げ、深めていくだけの引き出しを備えている男性がモテ男なのです。
 例えば、こんな会話しかできない男性はモテません。
 女:「モンゴルの草原でみた満天の星空はすばらしかったわ」
 男:「電気がなくて不便だろうね」

 女:「香港の夜景がとてもきれいだったわ」
 男:「香港の電力事情はどうなんだろう」

 外見、コミュニケ-ション力の次に大事なことは、やはり相手に対する気配り、気遣いでしょう。これは女性に対する尊重の念が基本になります。
 車に乗るとき、女性側のドアをあけてあげることなど、気配りの初歩の初歩です。
 せっかく食事の約束をしておきながら店の予約もせず、行き当たりばったりで適当な店に入る男性は、相手の女性を尊重してません。気配りゼロ男です。万死に値します。店の予約はしたものの、店に入るやいなやさっさと上席に座る男性は、これも気配りゼロ男です。万死に値します。
 メニュ-の選択で彼女が決めかねている場合、適当な助言をしてあげるのも相手に対する気遣いです。
 例えば、「ここのシェフの得意料理があるから試してみたら」とか、「この料理の材料は今が旬だから試してみたら」とか、それとなく勧めてあげることです。
 一方メニュ-を決められず、うじうじと5分も10分もメニュ-をながめる男性は見苦しいです。嫌われます。今時、インタ-ネットでレストランのメニュ-を調べることなど子供でもできます。事前にメニュ-を調べておくのも気配りの一つです。
 もう一つモテない男のやることは、相手の女性の食事のぺ-ス考えず、自分だけさっさと食べて退屈そうに相手の食べるのをみてることです。これも万死に値します。

 BS時代劇の「よいどれ小藤次」の主人公、赤目小藤次は、なぜ色っぽい美人女将のおこうや、旗本の奥女中でこれまた美人のおりょうなどに、次々と惚れられるのでしょうか。かれはといえば、破れ笠に伸びた月代、着古した着物をまとった貧乏浪人なのです。竹中直人演ずる小藤次はお世辞にもいい男とはいえません。私見ですが、美女が小藤次を慕うのは、かれの生き方が誠実で、他人への思いやりに満ちているからではないでしょうか。

 ところでお父さん、お父さんはモテ男ですか。或いはモテ男でしたか。
 ま、お母さんが結婚してくれたのですから、モテたんでしょうね、昔は。つまり、お父さんはお母さんの心に響く何かをもっていたのでしょう。優しさですか、誠実さですか、思いやりですか。なに、いまさらどうでもいいですと。それをいっちゃおしまいよ、お父さん。                       (かんとう) 

No.200 ベルギ-に住んで思うこと

200.ベルギーに住んで思うこと 

 2014年になりました。
 慣例に従えば、“新年おめでとうございます”というべきなのでしょう。何故新年がめでたいのかと聞かれると、ちょっと答えに困ります。
“今年こそおめでたい年でありますように”という願いのこもった“おめでとう”なのだと、勝手に解釈してます。そうでも思わなければ、とても“おめでとう”などと云えないケ-スが多すぎます。
 福島の原発は汚染水流失をはじめ、人間の手で本当に解決できるのかと思われるような問題が次々と現れ、依然として危機的状態を脱していません。福島に住む家族は庭の立ち木を全部切り倒しました。雨や風とともに飛来する放射能が、立ち木の葉に蓄積するからです。
 次々と襲来する台風やそれに伴う豪雨で、アジアの国々や日本国内でどれだけ多くの人命や家屋が失われたことでとしょうか。いまや、異常気象が異常ではなく当たり前になってます。
 世界を見ても、国家間の紛争、武力衝突、テロ、民族や宗教の対立、貧困や飢餓等々、とても“おめでとう“といえる状態ではありません。

 でも、でもです。歴史をふり返ってみれば、人々は常に戦争や飢餓、病気、特に疫病、自然の災害に苦しみ、闘ってきました。
 疫病の最たるものは、ご存知のペストです。14世紀にヨ-ロッパで大流行したペストはヨ-ロッパの全人口を3分の1まで減らすほどの猛威をふるいました。
 医学の進歩した現代社会ではありえないことです。わたし達はこれだけでも幸せと思うべきでしょう。
 中世のある哲学者が、「自然の災害で被害を蒙ったものが、自然を恨むのは間違っている。そこに家を作って住んだり、そこを通ったものに責任がある。その場所に誰もいなければ、自然がおこした現象は災害とは呼ばれない」といってます。ま、理論的にはその通りでしょうが、心情的にはちょっとですね。
 
 当たり前のことですが、人類の歴史で完全な平和や苦しみのない時代などありませんでした。現象の大小や事の強弱はあっても、人々はいつも災害や苦しみを乗り越えて生きてきました。
 人間はどうして困難や苦しみを乗り越える力をもっているのでしょう。それは言い古されたことですが、やっぱり「希望」という2文字に秘められた力だと思います。
 植物が太陽に向かって生きるように、人間は希望に向かって生きてきました。
 19世紀初頭のデンマ-クの哲学者、キェルケゴ-ルは「人間の死にいたる病いは希望を失うことである」といってます。
 人間が一番死の近くにいるのは、絶望の淵に立っていときではないでしょうか。

 希望の形は人それぞれ、千差万別です。遠足の前の日に子供が、「明日、いいお天気になりますように」と願うのが希望なら、宝くじ売り場に並ぶ人々の心は「当たりますように」という願望と希望に満ちています。
 2014年が希望に満ちた年でありますように、皆さんとともに祈りたいものです。

 故国日本で過ごした年月よりもベルギ-で過ごした年月の方が長くなってから、もうどのぐらいになるのか、数えるのも面倒なほどこの国に住んでいます。
 今は「青年老いやすく学成り難し」の心境です。若き日に、期待と不安をない交ぜにした気持ちを胸にベルギ-の土を踏んだのが、昨日のことのようです。
 学はいまだに成っておりません。もう永久に成らないでしょう。今となっては、いたずらに齢をかさねてきただけ、というのが正直な心境です。

 これだけ長く住めば、ベルギ-という国には愛着が生まれるのは当たり前かもしれません。ベルギ-に来たばかりのころに感じた嫌なことは、不思議と忘れてしまってます。外国人がベルギ-の悪口をいうと、知らず知らずのうちにベルギーを弁護している自分がいます。
「こんな国のどこがいいの」とおっしゃる方もいるでしょう。日本のように便利で、治安がよくて、清潔で、サ-ビスの行き届いた国は、世界中にそうそうあるものではありません。
 自分達が世界で最も幸せな国のひとつに住んでいる事実を、日本の皆さんはあまり自覚していないかもしれません。自分のように外国に長く住んでいる人間が、自分の祖国を素晴らしい国だといえるのは、実に有難いことです。
 そういう素晴らしい国、日本から来きたら、どこの国に行っても文句がでるのは当たり前です。ベルギ-に来た当座は、いろいろなことで日本と比較して不満をもったり、文句をいったりするのは仕方のないことです。
 
 皆さんはベルギ-に来て受けた最初のカルチャ-ショックはなんでしたか。
 ラッパのような音をだして鼻をかむ紳士ですか。ベルギ-人のお宅におよばれして行ったとき、いきなりほっぺたにキスされたときですか。
 わたしの場合のカルチャ-ショックは、警察官とアイスクリ-ムでした。
 ル-バン大学の仲間と車で出かけたとき、ドライブインのセルフサ-ビスのレストランに入りました。そこでわたしはある光景に出くわしたのです。
 それは、立派な髭をたくわえた堂々たる体格の制服姿の警察官が、てんこ盛りのアイスクリ-ムの入った器を大事そうに抱え、さもうれしそうに自分の席に戻る姿でした。いい年をした男が、公衆の面前でうれしそうにアイスクリ-ムを食べる姿は、日本では見られない時代でした。今でもあまり見られないでしょう。日本で、アイスクリ-ムの有名店に行列をつくる人の列は、殆ど女性陣が占めてますよね。
 
 わたしはそのとき、ベルギ-人の仲間に警察官とアイスクリ-ムの話しをして、自分は一種のカルチャ-ショックを受けたといいました。しかし彼らは、理解できないと答えました。デザ-トにアイスクリ-ムを食べることが、なぜカルチャ-ショックなのか理解できないというのです。デザ-トは男も女も食べるものなのに、なぜショックなのかといわれました。
 わたしは亡くなった父の影響だと思うのですが、甘いものは男の食うものではないという意識がありました。甘いものをうれしそうに食べるのは、大の男のすることない恥ずべきことという偏見がありました(甘党の方、申し訳ありません)。
 もっとも今では、デザ-トに平気で甘いものを食べますから、父の影響はもうありません。

 赴任当時は文句たらたらでも、時間がたつとベルギ-のいいところが見えてきませんか。
 高速道路はタダ。高速道路の夜間照明度は世界一。都市の緑地面積の比率が世界のトップクラス。住宅事情のよさはEU加盟国のなかでトップクラス。日本と比べて信じられないほど安い教育費。食事のおいしさ。高級、中級、一般を合わせておいしいレストランの多いこと。日本にまで知れわたっているチョコレ-トやビ-ル等々、いくらでも例がでてきます。

 皆さんが合意されるかどうかわかりませんが、わたしは客観的にみてベルギ-の生活環境は日本より優れていると思ってます。
 わたしが好きなのは、ベルギ-の良質な住宅と緑地の多さ、それにおいしい食べ物です。年間の降雨日数が200日を越える国ですから、緑が多いのは当たり前といえば当たり前ですが、その緑地を大切に守っているのがこの国の人々の偉いところです。
 最もいい例がブリュッセルのソワ-ニュの森です。100万都市ブリュッセルのすぐ近くに、今でも野生の鹿が住む広大な森があるのです。
 
 わたしは毎週日曜日の朝、2時間ほどソワ-ニュの森で乗馬をしてます。春夏秋冬を通じてもう20数年この森に通ってますので、森のあらゆる表情を知ってます。馬なので、散歩の人が行かれない森の奥の方まで行くことができます。また、馬上からは歩いていては見えない遠くの風景まで見えます。森は四季を通じていろいろな表情を見せてくれます。なんど行っても新しい発見があります。
 新芽が萌え出す春、森は淡いパステル調の緑になります。初夏の新緑の下をギャロップする爽快感は、森でしか味わうことができません。夏の濃い緑の中を人馬一体となって走ってくると、身体中に酸素が満ち溢れる気分になります。
 秋は、日本の錦秋の美しさとは比べられませんが、それでも木々の葉の色づきにはこの国らしい秋の美しさを見せてくれます。
 秋がすすむと落葉樹の葉が落ち、木の間からながれてくる木漏れ日が心を和ませてくれます。秋口に赴任した人が嘆くベルギ-の暗いお天気も、森に行くとちょっとは心が和むかもしれません。
 冬は雪の日でも森にいきます。馬の蹄鉄に滑り止めとして一種のスパイクようなものをはめて森にでます。森の雪景色の美しさはなんといったらいいでしょう。
 
 森に行くたびに感じるのは、これだけの森を守ってきたこの国の行政と市民に対する尊敬の念です。デベロッパ-の開発攻勢や利権から森を守るのは、けっしてやさしいことではなかったはずです。
 日本のどこを探しても、都市の近郊に野生の鹿が住むような広大な森はありません。もっとも、日本にはヨ-ロッパ的な森はありません。白雪姫や森の小人が住むような深い森は日本にはありません。
 日本で人々の住む場所の近くにあるのは里山でしょう。この里山が日本の田舎の風景を限りなく穏やかで、美しくみせてくれます。
 
 ベルギ-は食事がおいしいといわれますが、皆さんもそう思いますか。わたしは近隣の国、特に北の方の国にくらべてベルギーの食べ物は確かにおいしいと思います。
 理由はなんでしょうか。食材ですか。食材だったらお隣の国とそう変わらないと思うのですが。
 わたしが考える理由は、ベルギ-の人々の性格が影響しているのではないかということです。
 ベルギ-人の性格をあらわす言葉として、 “ベルギ-人は文句ばかり云う“、”文句言いのベルギ-人“という言葉があります。これはベルギ-人自身が認めてる言葉です。
 お腹がいっぱいになれば満足する国民性のある国は、食事のレベルが向上しません。反対に、おいしいくないと文句をいう国民性のある国は、食事のレベルが高くなります。ベルギ-でレストランを維持していくのは大変な努力がいるとは、知り合いのベルギ-人オ-ナ-シェフがいつもいってることです。 
 
 まずいとすぐ文句をいうお客さんの多いこの国では、料理人は腕を磨かないと商売になりません。おいしい食事を楽しませていただいているわたしたち在留邦人は、文句云いのベルギ-の皆さんに感謝すべきでしょう。
 ベルギ-のいいところは、別に有名でもない街角のレストランに結構腕のいい料理人がいることです。そして、そういう店が地元の人々で賑わってることです。食べに来る人の舌も確かということでしょう。ひょんなところでいい料理人に出会う幸せは、ベルギ-に住む者の喜びの一つです。
 
 高級フランス料理はおいといて、皆さんはベルギ-料理ではなにが好きですか。
 ムール貝とフリッツですか、カルボナ-ドフラマンですか、ワ-テルゾ-イですか、アルデンヌの生ハムですか、メヘレンの白アスパラですか、同じメヘレンの地鶏ですか、ベルギー特産高級食肉ブル-ブランですか、ポ-ペリングのホップの新芽ですか、ナミュ-ルのエスカルゴですか、リエ-ジュの肉団子ですか、はたまた庶民の味スツンプですか、あるいは北海産の小エビ入りエビコロッケですか。
 いずれも、気取りのないベルギ-らしい味のある食材や料理です。皆さんもベルギ-在任中に、365日、毎日飲んでも飲みきれないベルギ-ビ-ル全種類制覇と共に、ベルギ-料理、ベルギ-食材の制覇してみたらどうですか。ベルギ-生活の思い出になりますよ。

 有名なム-ル貝は皆さんも食べたでしょう。定量の一人1キロのム-ル貝を平らげる日本人はあまりいないようです。
 最近、駐在員の飲み友達から聞いた話しですが、当地駐在員諸氏の間にム-ル貝の正しい食べ方、ベルギ-人の伝統的なム-ル貝の食べ方なるものが云い広まっているる由です。
 それは、ム-ル貝を食べた後のス-プにフリッツをぶち込んで食べるのがベルギ-人がやっている正しい食べ方なんだそうです。
 申し上げますが、ベルギ-の人はそんな食べ方はしません。日本で、鍋をやった後、鍋に残ったお汁にうどんやご飯を入れて〆に食べますが、上記の伝統的なム-ル貝の食べ方を喧伝している駐在員の方は、鍋とム-ルを一緒にしているような気がします。
 カリッと揚がったフリッツを、だれがス-プに入れてぐちゃぐちゃにして食べますか。ベルギ-人の友達にこの話しをしたら、ばかばかしいと一笑に付されました。

 おいしければいいだろうという意見もあるでしょう。でも外国人のお客さんが、刺身にトマトケチャップやウ-スタ-ソ-スをかけて食べいるのを見たら、日本人としてどう思いますか。イタリアの高級生ハム、サンダニエルにイチゴジャムをつけて食べたら、イタリアの人はどう思うでしょうか。
 その国の料理には、その国の人々が長い年月をかけて作り上げてきた伝統がこもってます。伝統には人々の思いもこめられています。それを無視するような食べ方は、その国の人々に対して礼を失する行為だと思います。

 日本で大きな話題になった“食材虚偽表示”或いは“食材偽装”には、驚くと共にがっかりしました。やってたのが一流のホテルや百貨店、レストランですから問題です。いくら儲けが大事でも、店や料理人のプライドを捨てて大切なお客様を騙す行為は本当に情けないです。フランス料理の一流シェフの口から“ダシ”とか“ウマミ“といった言葉がポンポンと出てくるほど日本料理の評価は高いのです。世界に冠たる日本料理に泥を塗らないでほしいものです。
 食材虚偽表示や食材偽装はベルギ-にもあるでしょうか。やりたくてもかなり難しいでしょう。ム-ル貝は無理ですね。スペイン産のム-ル貝を使ったらすぐにわかります。白アスパラは収穫の解禁日と終了日が決まってますので、その時期以外に出てくるのはアスパラは他所から来たとわかります。
 ベルギ-の肩を持ちすぎると云われるかもしれませんが、長いこと住んでみて、この国の人が自分たちが大事にしてきた食材を誤魔化すとはどうしても思えません。

 ま、自分はベルギ-に住んで幸せだと思ってます。日本のような繊細で高度な文化を持つ美しい国に生まれ、今こうしてベルギ-という愛すべき国に住んでいるのですから、幸せ者ですよ、本当に。
 ところでお父さん、長いあいだ「新ベルギ-物語」ご愛読頂きありがとうございました。今回で200回になったのを機に、一旦筆を擱くことにいたします。
 また機会があれば、折にふれて寄稿させていただきます。ありがとうございました。
                               (かんとう)