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童謡「ぞうさん」に関する一考察

童謡「ぞうさん」に関する一考察

先般亡くなられた詩人、まど.みちおさん作詞の童謡、「ぞうさん」の歌を知らない人はいないでしょう。

  ぞうさん ぞうさん おはながながいのね
  そうよ かあさんも ながいのよ

  ぞうさん ぞうさん だあれがすきなの
  あのね かあさんが すきなのよ

問いかけと答えの、わずか四行のこの詞に、人類の歴史への深い思索、哲学的な考察がふくまれていると考えるのは、わたしの思いこみでしょうか。

問いかけているのは幼い女の子という印象をうけます。象のはなをみて、こういう新鮮な問いかけがでてくるのは、幼児の感性がいかに豊かで純粋であり、清らかであるかのあかしではないでしょうか。通常の大人の感性からは、“象のはながながいのあたりまえ”的な、平々凡々たることばしかでてきません。

ギリシャの哲人、アリストテレスは「哲学の始まりは驚きである」といってます。
この「驚き」ということにばの原語には、見とれるとか、感嘆するという意味も含まれています。
幼児が、ぞうさんのはなを見て「ながいのね」と驚き、感嘆するこの精神こそが、哲学の始まりなのです。「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね」という問いかけには、自然界の森羅万象の奥にある真なるものを追求する精神がかくされていると、わたしはおもいます。
幼い女の子は、自分が哲学的な思考をしているなどと考えてはいません。
云うならば、子供はみんな哲学者なのです。大人になるにしたがって、驚きがなくなり、感嘆が当たり前にになっていくのです。これは精神の退化なのです。

幼児の問いかけにこどもの象が答えます。
「そうよ かあさんも ながいのよ」と答えるこどもの象の答えには、みずからの身体的特徴がおかあさん象からきている事実に、いささかの疑いも抱いていないことがわかります。
象のはながどのような進化の過程をへて現在のように長くなってきたのか、といった詮索は見られません。こども象のおかあさん象にたいする純真無垢なる信頼のことばに、心洗われるおもいがしませんか。おかあさんとおなじはなをもつことへの、こども象うれしそうな感情が伝わってきませんか。
こども象の素直な返事には、「こんなへんてこな顔に生んでくれてどうしてくれるのよ」などという、罰当たりな逆切れは微塵も感じられません。

ここにきて、ふと疑問がわいてきます。
なぜ、お父さん象が登場してこないのでしょうか。お父さん象のはなだって長いのにです。象の世界は母系社会なのでしょうか。違うとおもいます。
ケニアや南アフリカの国立公園で何度か象の群れをみたことがありますが、群れを統率するのはいつもひときわ身体の大きいオスの象でした。

作詞をしたまど.みちおさんは、対象をおかあさん象にしぼることによって、人類の歴史のある重要な部分を伝えたかったのではないかと推測します。
それは人類の歴史に見られる母系社会の存在です。人類の歴史の初期は母系社会であったといわれてます。中国の雲南省や四川省の奥地には、いまでも母系社会の伝統を守っている集落があるそうです。集落によって認められた男性のみが、妻問い婚的に女性のもとをおとずれることがゆるされますが、集落に住むことはゆるされないそうです。

日本の最も古い神様はだれですか。天照大神です。日本の最も古い政治的権力者はだれですか。邪馬台国の卑弥呼です。みんな女性です。
日本の天皇も、推古天皇(6世紀-7世紀)から後桜町天皇(18世紀)まで8人、10代(二人が皇位を二度継いでます)の女性天皇がいます。
男性がどんなに権力をにぎっても、女性には絶対に勝てないものがあります。それは命を生むことです。女性は命を生み、命を持続させる重要な役割をになっています。
これが母系社会発祥のいわれではないでしょうか。

余談ですが、ユダヤ民族では正当なユダヤ人として認められるためには、母親がユダヤ人でなければなりません。父系の血筋は認められません。
それはそうですよね。子供はお母さんの胎内から生まれるわけですから、これほど確かな血筋はありません。

またまた余談ですが、現在ヨーロッパで王室のある国で、王位継承権に男系主義をとっている国はありません。
ベルギ-のフィリップ国王の長女、エリザベートちゃん、オランダのウィレムアレクサンダ-国王の長女、アマリアちゃん、スペインで王位に就いたばかりのフェリペ国王の長女、エレオノ-ルちゃんなど、みんな10歳前後のお嬢ちゃんですが、いずれも未来の女王様です。

ヨ-ロッパの王室の王位継承権は長いあいだ男系主義でした。
古い話しですが、4世紀から6世紀にかけて現在のベルギ-のあたりで勢力をもっていたフランク族の支族、サリ族がそれまでの慣習法を成文化したサリ法典をつくりました。ヨ-ロッパの歴史で、王位継承権がはっきりと男系主義に定められたのは、このサリ法典が起源とされてます。
まあ、200年も300年もかけてカテドラルをつくってきたヨ-ロッパの人たちですから、サリ法典もしっかりと守ってきたのでしょう。

童謡「ぞうさん」の詞を、母と子の会話とする解釈があるようです。
でもわたしは、その解釈には賛成できません。なぜなら、次の詞がひっかります。

 ぞうさん ぞうさん だあれがすきなの 
 あのね かあさんが すきなのよ

「だあれがすきなの」という子供の問いかけに、母親が「かあさんがすきなのよ」と答えるのは、一方的すぎて不自然ではありませんか。
こどもの象が「かあさんがすきなのよ」と答えるのが自然だとおもいます。

実際に象の群れを見ていると、こどもの象はいつもおかあさん象といっしょです。
おとうさん象は、群れの統括と群れのメス象をねらって近寄る他のオス象の排除が大切な仕事なので、こども象のめんどうはおかあさん象に任せきりのようです。
テレビで見たのですが、深い溝に落ちてはい上がれなくなったこども象を、おかあさん象がはなをつかって引き上げようとするのですがうまくいきません。すると、近くにいた他のおかあさん象たちよってきて、 3本のはなでこども象を引き上げることに成功しました。この間、おとうさん象は姿を見せませんでした。

 「ぞうさん ぞうさん だあれがすきなの」という問いかけに、同じ群れのなかにいる遊び友だちのこども象のなまえをだして、「花子ちゃんがすきなの」とか「太郎ちゃんがすきなの」と答えるのが、こどもの世界では一般的かとおもいます。
しかしここで、「あのね かあさんがすきなのよ」とこども象は答えます。
「あのね」ということばに、ことも象のおかあさん象へのおさえ切れない愛情が感じられます。

まど.みちおさん詩には、いきものや自然、ひとにたいする深い愛情と透徹した観察の目が感じられます。
わたしの「ぞうさん」の詞に対する解釈が、とんだこじ付けといわれればそれまでですが、一応感じたままを述べてみました。

ところでおとうさん、おとうさんのおはなはながいですか?
なんと、はなの下がながいのですか。でしょうね。       (かんとう)


恋の町、ベロ-ナ留学の記

恋の町、ベローナ留学の記

この夏もまた、イタリアに語学の勉強に行ってきました。
 飲み友達から、「イタリア語なんてそれだけやっても上達しないんだから、もうそろそろやめれば」というあたたかい忠告もいただいてます。
 自分でも、これだけやっても進歩がみえない現状に対して、飲み友達だけではなく、世間さまに顔向けができないという思いもあります。
 しかし、夏がちかずくとイタリアに行きたくなるのです。
 “予もいづれの年よりか片雲の風にさそわれて漂白のおもいやまず….。”といった松尾芭蕉先生のような 高尚な精神からイタリアに行きたくなるわけではありません。ま、一種のイタリア中毒、イタ中といってもいいかもしれません。

 今年は、北イタリアベネト州に所在するベロ-ナに行ってきました。
 ベロ-ナときけばだれでも思い出すのが、シェ-クスピア原作の「ロメオとジュリエット」の悲恋物語です。結ばれなかった恋の舞台なのに、ベロ-ナはなぜか恋の町という印象を世界中に与えているようです。
 下宿から学校まで通うのに、毎日ジュリエットの家の前を通りましたが、まさしく恋人たちのメッカという雰囲気でした。
 ジュリエットの家の庭は現在無料で入れます。時間帯によっては身動きもできないほどの人がいます。掏りの稼ぎ場でもあります。
 地元紙によれば、ジュリエットの家の庭入場を有料にする計画がある由です。

 ブリュッセルからベロ-ナまでは直行便がありませんので、ミュンヘンかフランクフルトでイタリアの航空会社エア-ドロミテに乗り換える必要があります。
 ベロ-ナの空港から下宿となるアパ-トまでタクシーで20分ぐらいでした。アパ-トは、市内を蛇行して流れるアディ-ジェ河にかかる数多くの橋のひとつ、ポンテナ-ビ橋の近くにあり、中心街まで徒歩5分という至便の場所にありました。

家主のマリ-ニ夫人がアパ-トでまっていてくれました。マリ-ニさんは若いころ両親とアメリカのカリフォルニアで働いていたそうです。今はベニスで働いており、ふだん使ってない自分のアパ-トを語学学校にくる外国人生徒に貸しているようです。
これまで、イタリアで何度もアパ-トを借りましたが、建物にエレベ-タ-ついていたのは今回が初めてでした。しかも建物の右側と左側にそれぞれエレべ-タ-ついている豪華版でした。
 マリ-ニさん綺麗好きらしく、アパ-トは床からなにからぴかぴかに磨きたてられ、すべての調度が完璧にそなわっていて、一人で住むのにはもったいないような立派なアパ-トでした。

 荷物を整理した後、翌月曜日から授業を受ける学校の場所をさがしにいきました。いつものことですが、初めての町では必ず道にまよいます。地図を頼りにうろうろしていると、町内会の会長さん風のおじさんが通りかかりました。おじさんに道をきくと、自信たっぷりに学校への行き方を教えてくれました。
 しかしどう考えても、おじさんの教えてくれた方角は違っているとしか思えません。それで、おじさんの姿が見えなくなるまでまって、犬をつれて通りがかったマダムに改めて道をききました。マダムは親切に学校への行き方を教えてくれました。教えられた方向に歩きはじめてちょっとすると、マダムが犬といっしょに走って追いかけてきました。
 「ごめんなさい。反対方向を教えちゃったわ」というではありませんか。そしてマダムは途中まで一緒にきてくれました。町内会の会長風おじさんよりマダムの方が良心的です。
 学校の近くまできているのに学校が見つかりません。通りがかったちょっとインテリ風のおじさんに3度目の道をききました。おじさんは「おやすい御用。いっしょに学校までいてあげる」といっていっしょに歩きはじめました。
 ところがこのおじさん、酒気ふんぷんたる匂いをはなっているのです。午後の4時ごろですから、夕方の一杯にはまだ早い時間です。
 おじさんはイタリア人ながら英、独、仏語を話すのが自慢らしく、ことばを変えてはなしかけてきます。ただ各ことばのレベルがかなり低いので、イタリア語で話してくれた方がよっぽどわかりやすいのにと思いました。でも親切な酔っ払いおじさんのおかげで、やっと学校にたどりつきました。

 授業開始の初日にはクラス分けの試験があります。
 毎度のことで、自分では試験を受けようと受けまいとどのクラスに入れられかわかってます。中級の上クラスです。試験の結果は案の定そのクラスでした。上級クラスには永遠に入れないということです。 
 クラスは生徒6人でスタ-トしました。以下に紹介します。
 ジョルジア:イギリス人の女子大学生。イタリア美術史専攻。内気で声がちいさく  て聞き取れない。イタリア語のレベルは初級程度。

 シジ:インド人のカトリックシスタ-。インドのケララ州にある修道会から派遣され、ミラノの老人ホームで働いている。イタリア人のお年寄りと話すためにベロ-ナにイタリア語の勉強に来た。微笑みを絶やさない優しいシスタ-。

 セルマ:ブラジル人女性。サンパウロの大学職員。ワ-ルドカップでブラジルがドイツに7-1で惨敗した翌朝、彼女になんといえばいいかクラスのみんなが困ってた。でも彼女は「これですっきりしたわ。ワ-ルドカップなんて早くおわればいいのよ」という。負け惜しみなのか、本音なのかはわからない。

 へディ:ミュンヘンからきたドイツ人女性。年金生活の趣味でイタリア語をやっている。趣味のハープの演奏で、今も室内楽グル-プに属し演奏会をひらいている。イタリア語は中の上レベル。

 みほ:日本人女子大生。松山出身で大阪の外国語大学でイタリア語専攻3年生。ベロ-ナで6ヶ月勉強する予定。日本人らしく文法に正確なイタリア語を話す。会話も上手。偉いのは、わたしとの会話で一度も日本語を使わなかったこと。

 先生は二人の女の先生で、40に手が届くかなという感じのラウラ(LAURA)先生と30代前半のサラ(SARAH)先生です。ラウラ先生が主任教授でサラ先生が副主任教授でした。特記すべきことは、この二人の先生がすばらしい先生であったことです。

 自分がイタリア語をはじめてから沢山の先生に出会いましたが、この二人の先生ほどのすばらしい先生に出会ったことがありません。
 「語学の基本は話すこと」という学校の方針の下に、会話を授業の中心に据え、会話に関係がある場合のみ文法の説明をするという、自分が最も必要としていた授業でした。毎日の授業が楽しかったです。
 ベロ-ナで3週間、イタリア語を生活用語として暮らしてきましたが、これまでのどこの学校よりもイタリア語が身近になったような気がします。
 もう決心しました。来年もベロ-ナにきます。これまでのように、毎年イタリアの町を変えて学校も変えるやりかたはしません。やっと恋するひとに出会った思いです。

 毎朝の通学の途中で朝食をとります。バ-ル(Bar)でコ-ヒ-とブリオッシュまたはパスタとよばれる一種の菓子パンを一個食べます。これで2.50ユ-ロです。
 いきつけのバールのマダムはせっ江省温州出身の中国人です。15年前にイタリアにきて、中華料理店で下働きや給仕の仕事をしながらお金をためてバ-ルの権利を買ったのだそうです。
 イタリア語は全然できなかったけれど、耳から覚えて今は仕事上のイタリア語は話せるけど、間違いの多いイタリア語だというのは自覚しているといってました。
 毎朝行くのでマダムとも親しくなり、小銭のないときなど、「明日でいいわよ」といってくれようになりました。ベルギ-に戻る日の朝、今日が最後の日というので話がはずみ、わたしは「来年またくるよ」といって店をでました。
 しかし、途中まできて朝食代を払ってないことに気ずきました。急いで店に戻り「ごめん、ごめん。朝食代を払わず出ちゃった」というと、マダムは「あ、そうだったの。ま、今朝の朝食代はプレゼントするわ」といってくれました。

 去年ベニスで勉強したときも感じましたが、イタリアにおける中国人の進出ぶりのすごさです。ベニスのバ-ル、レストラン、お土産屋等が中国人の経営になっている店の多さに驚きましたが、まさかベロ-ナみたいな小さな町にまで彼らが進出しているとは思いませんでした。
 朝食のバールのマダムによれば、イタリアには温州出身の中国人が多いそうです。マダムの旦那さんは近くのトレントの町で「スシゲン」という日本レストランを経営してるそうです。
 正直、中国の人にはかなわないと思いました。徒手空拳でことばもわからない外国の国にきて、刻苦精励、ひとの何倍も働いて店をもつまでになるなんて、われわれ日本人にはなかなかできないことでしょう。

 恋の町、ベロ-ナは人情の町、ベロ-ナでもあります。ベロ-ナの町の人は万事におおらかなのです。
 わたしは世界中の町で、タクシ-代をまけてくれる町はベロ-ナしかしりません。最初にタクシ-代を20セントまけてくれたときは、その運転手さんの個人的な好意かと思い、チップをあげました。
しかし、その後も毎回、20セントとか50セントの端数をまけてくれるのです。一番多くまけてもらったのは、帰りの空港までのタクシ-代で、1ユーロもまけてくれました。もっとも、このときの運転手さんは偶然にも、わたしがベロ-ナについたとき空港から乗ってタクシ-の運転手さんでした。お互いに相手を覚えていて、けっこう話しがはずみました。それで1ユ-ロもまけてくれたのかもしれません。

 人情の町ベロ-ナでタクシ-以外にも人々の優しさを経験しました。
 下宿から学校までは町の中心街をとおります。ジュリエットの家の前を通り、町の中心にあるエルベ広場を通って学校にいきます。
 エルベ広場には毎日市がたちます。野菜、果物、衣類、お土産などの屋台が並びます。朝の登校時にはまだ屋台の準備はできてませんが、帰りにはすべての屋台が商売をしています。
 数ある屋台の中でおいしい果物屋さんをみつけました。学校の帰りに毎日その屋台で果物のマセドアン(フル-ツサラダ)を買って食べてました。一個3ユ-ロです。
 そのうち、ちょっと色っぽい屋台のマダムが、「あなた、毎日きてくれるから2.50ユ-ロでいいわよ」といって、50セントまけてくれました。以後、最後の日まで2.50ユ-ロでした。
 最後の日に、「今日が最後です。毎日おいしいマセドアンが食べられてうれしかったです」というと、マダムは「まあ、残念だわ。来年もきっとベロ-ナにきてね」と優しい笑顔で見送ってくれました。

 週末によその町を見学にいった帰りに、ベロ-ナの駅を間違えて下車したときです。ベロ-ナに駅が二つあることをしらず、ひとつ手前の田舎駅でおりてしまいました。
 タクシ-どころか人っ子一人いない駅前で困ってしまいました。するとそこに自転車をひいたおじさんさんが通りかかったので、困っている事情を話しました。
 するとそのおじさんは「歩いてベロ-ナの町まで行くのは大変だよ。ちょっとまって」といいながら、自分の携帯を出し、手帳をみながらタクシ-会社に電話をしてくれるではありませんか。なんて親切なおじさんなんだろうと感激しました。

 毎週、月曜日にはクラスのメンバ-の入れ替わりがあります。
 2週目の月曜日には、ブラジル人のセルマとドイツ人のヘディがいなくなり、替わって次の3人がクラスに加わりました。
 オイテック:ポ-ランド人の数学教師、と本人はいうが、どうみてもその辺のお兄ちゃん。髪の毛を3色染めにして野球帽をかぶって教室にくる。宿題をやってきたためしがない。支離滅裂なイタリア語を堂々とはなす。根は素直で気のいい男。

 カロリ-ナ:イタリア人。16歳の女子高校生。イタリア人がイタリア語を勉強にきてるのはカロリ-ナがボルザ-ノ(BOLZANO)というドイツ語圏出身だから。金髪に碧い目の彼女はどうみてもイタリア人にはみえない。

 アラン:オ-ストラリア人。元大学教授。若いころ日本に長期滞在したことがあり、日本語がわかる。四国で八十八箇所お遍路さんめぐりをしたことがあるとか。イタリア語の文章はそこそこ書けるのに話すのはたどたどしい。

 休み時間に、教室でカロリ-ナと話しました。彼女は、わたしがノ-トに書いておいたクラスメ-トの名前をみて、自分の名前が違ってるといいました。Caroline ではなくてKarolineなんだそうです。やっぱりドイツ語圏なんですね。
 カロリ-ヌの話しをきいて彼女の郷里ボルザ-ノに行ってみようと思い、週末に一人ででかけました。
 ベロ-ナからトレント経由ボルザ-ノまで1時間30ぐらいです。オ-ストリ-国境の方にむかいます。途中のトレントは,歴史上有名なトレントの公会議があった場所なので途中下車しました。
ルタ-による宗教改革後の、カトリック教会の建て直しを協議したのがトレントの公会議(1545-63年)です。1549年にフランシスコ.ザビエルが鹿児島に到着してますから、これはちょうどトレント公会議の開催中だったわけです。
 トレントのブオンコンシリオ城や司教区博物館に、公会議関係の文書や関連資料が陳列されているかと期待していったのですが、何もなくがっかりしました。

 ボルザ-ノでは、世界的な有名人に出会うことができました。
 ボルザ-ノ考古学博物館で、5000年以上もの間氷河に埋もれて眠り続けてきた凍結ミイラ,エッツィ(Oetzi)氏と対面してきました。特別な装置の部屋に横たわるエッツィ氏とは小さな窓から対面できます。
 ただちょっと気になったのは、1991年にミイラが発見されて以来、発見関係者、写真家、研究者、ミイラを運んだ人などが3年間で7人も亡くなっていることです。
 ミイラの祟りがささやかれたそうです。かれが横たわっていた氷河に戻すべきではという議論もあったとか。
 わたしはエッツウィ氏に、「自分ははるか東洋の国からきた旅行者である。貴殿にお目にかかれて大変光栄に思っている。ついては、わが身に祟りなどなきようにご配慮いただきたい」と、お願いしてきました。

 週末にもう一つの有名な町、パドヴァ(PADOVA)に行ってきました。目的は二つありました。一つは長い間の願いだったスクロヴェ-ニ礼拝堂のジョットの作品を見ることでした。普通は予約しないと入れないのですが、ダメもとでいってみたらすんなりと入れました。入場者は礼拝堂の気温に合わせるため、別室で20分ぐらい待機させられます。このお陰で保存状態のすばらしい絵をみることができます。
 礼拝堂壁面いっぱいに描かれたジョットのフレスコ画、「キリストの生涯」と「聖母マリアの生涯」には圧倒されました。行った甲斐がありました。

 パドヴァ訪問のもう一つの目的は、聖アントニオを祭った大聖堂拝観でした。聖アントニオは13世紀の大聖人で、お墓ののあるこの大聖堂には世界中から巡礼者が集まります。実に壮麗な聖堂です。
 聖アントニオ様にお願いすると、失った物がみつかるという言い伝えがあります。わたしも最近、物忘れがひどいので聖アントニオ様のお墓の前で、記憶力喪失防止をお願いしてきました。

 学校の課外授業でベロ-ナのワイナリ-見学に行きました。
 町から車で20分ほど行った丘陵と谷間でおいしいワインが作られてます。代表的なワインはアマロ-ネ(AMARONE)とヴァルポリチェッラ(VALPOLLICELLA)です。
 実は、ベロ-ナにこんないいワインがあるとは知りませんでした。特に、アマロ—ネはすばらしいワインです。テ-スティングのとき、各自がワインの感想をのべます。自分の番がきたとき、わたしは「アマロ-ネは美しい貴婦人のようなワイン」と表現しました。ワイナリ-のご主人が、「初めてきいたけどいい表現だ。アマロ-ネと特徴をよく表現している」と誉めてくれました。
 誤解のないように申し上げますが、わたしはイタリアで美しい貴婦人のテ-スティングなどしたことがありませんので。

 3週間の勉強期間中は苦学生の生活に徹しました。粗食に耐え、禁酒を励行しました。クラスの食事会やワイナリ-訪問を除いて、ワインはおろか、ビ-ル一杯も飲みませんでした。
 お陰で体重が2キロ減りました。これを聞いた知人の女性が、「わたしもベロ-ナに行って2キロやせようかしら」といいました。考えが甘いんですよ、こういう人は。
 行けばやせるわけではないのです。日夜勉学にいそしみ、苦学生の厳しい生活環境を自らに課すことによってやせられるのです。
 もっとも、ベルギ-に帰ってきて元の生活に戻ったら、体重も元に戻りました。

 ところでお父さん、お父さんは聖アントニオ様にお願いして見つけたいものがありますか。なに、失った恋をとり戻したいですと。そういうバカなことをいってると、お母さんに年金離婚されますよ。目を覚ましたらどうですか。  (かんとう)