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No.34. 紐と結びの文化

No.34. 紐と結びの文化



明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
1988年も、日本人会広報委員会並びに本会報の読者の皆さんに、「もういいからやめなさい」と云われない限り、何とかこの「新ベルギー物語」を書き続けて行きたいと考えています。もっともその前に、自分の会社がなくなったら書けなくなりますので、そうならないように頑張らなければなりません。昨今は、油断をしていると、会社があっと云う間になくなりますので、気をつける必要があります。
 ベルギー暮らしの長い私ですが、それでも所用があって、少なくとも年に一度ぐらいは日本に帰ってます。日本に帰る度に新しい発見があったりして面白いのですが、最近帰った時、又ひとつ新しい発見をしました。それは新宿駅構内にあるホームレスの人達の集落です。集落を構成している家々が、段ボールを巧みに組み立てた実に立派な住いであることに感心しました。あの段ボールの家に住んでいる人達は、一応ホームレスのカテゴリーに入るのでしょうが、ベルギー及びヨーロッパのホームレスの人達の状況に比べたら、その生活環境には雲泥の差があります。
 現場では、通りがかりの欧米人グループが盛んに写真を撮っていましたが、私も写真を撮る価値が十分にあると思いました。出来れば内部を拝見したかったのですが、さすがに頼む勇気がありませんでした。そこで考えたのですが、あの段ボール製住居の作り方を海外に広められないものか、と云うことです。あれだけしっかりした作りであれば、寒さから身を守ることは十分に可能だと思います。そうすれば、毎年厳冬期にベルギーやフランスで発生するホームレスの人達の凍死という、痛ましい問題の解決に必ず役に立つと思います。
 私の観察によれば、段ボール製住居は、厚手の段ボールを何枚も繋ぎ合せて作るのですが、その繋ぎ方は、繋ぐべき両段ボールに無数の穴をあけ、そこに紐を通して結んでいくのです。整然と並んでいる結び目は、日本人ならではの技能を感じさせるものがありました。紐はいろいろな所から集めてきたらしく、材質、色などに違いが見られましたが、それらをきっちりとまとめ上げているのが、統一の取れた美しい結び目なのです。
 私は新宿駅構内を通過する膨大な人の渦の中で、しばしこの段ボール製住居の観察にわれを忘れてしまいましたが、その間、何度も通過する人々に突き飛ばされそうになりました。皆さんも経験があると思いますが、しばらくこちらにいて日本に里帰りすると、自分の歩くリズムと日本の人達の歩くリズムとの間に、どうもズレがあるような気がするのです。大都会の人混みの中を歩いていると、必ず人にぶつかりそうになったり、突き飛ばされそうになったりします。私など、地下鉄の切符を買うのにどうやってコインを入れたらいいのかさえも分からず、自動販売機の前でオロオロしてしまいます。
 私は、通行人から胡散臭い目で見られたり、突き飛ばされそうになりながら、段ボール製簡易住居建設に関するテクノロジーの海外移転につき、しばし考えをめぐらせました。その結果、ひとつ重大な問題があることに気がつきました。それは、このテクノロジーのキイポイントである紐の結び方についてです。皆さんは気がついているかどうか知りませんが、こちらの人は紐が結べないのです。結べるには結べるのですが、われわれ日本人から見たら、幼児にも等しい紐の結び方しか知りません。こんな結び方では、段ボールの繋ぎ目の安全度は極端に低下し、家屋倒壊の危険さえあります。従って、ブリュッセルのミディ駅や中央駅のベンチで寝ているホームレスの人達にも、日本の紐の結び方を習得してもらわなければなりません。技術の海外移転には、それなりの準備が必要であることが、この事例をもってしても明かだと思います。
 作家の堺屋太一さんが書いてましたが、西洋人が作って、日本人が作らなかったものとして、手錠があるということです。日本では犯罪人を取り押えるのに捕り縄を使ってきました。そして、この捕り縄を使って如何に迅速に、且つ効果的に容疑者や犯罪人を縛り上げるかの技術が、縄術として発達してきました。日本では悪いことをして捕まると、手が後に回ると云いますが、これはこの捕り縄の伝統から来ているのでしょう。一本の縄で、相手をあっと云う間に高手小手に縛り上げるあの縄術は、世界に例のない高度な技術だと思います。
 日本史の授業の最初の方に出てくる縄文文化を引き合いに出すまでもなく、日本には古来縄の文化がありました。縄の文化は紐の文化となり、これが結びの文化を生み出してきたのだと思います。紐と結びを抜きにして和服を語ることはできません。紐と結びの伝統を最も美しく表現したものが、女性の和服に欠かせない帯じめでしょうか。そしてもっと美しいのは、和服の女性が愛する人の前で帯を解き、紐を解いていく姿だそうですが、残念ながら私はこれまで一度もそう云う場面に居合わせたことがありません。
 こうしていろいろ考えてみると、新宿駅の段ボール家屋群は、日本の長い伝統文化の裏付けなしには存在し得なかったのではないかと思われます。あの住居を建設したおじさん達(おばさん達の姿は見えませんでした)は、設計図こそ描かなかったでしょうが、材料を吟味し、紐を選び、数え切れない程の穴をあけ、そこに紐を通して、ひとつひとつ丁ねいに結んで行ったのです。そしてその結び方は、縄文文化以来の日本の伝統に根ざした結び方だったのです。何を隠そう、あのおじさん達も、実は堂々たる日本文化の担い手だったのです。今度あそこを通る時は、日本文化の担い手のおじさん達に、ご苦労さまのひと言も云って通ろうか、などと考えています。
 おじさん達が日本文化を担っているのはいいのですが、彼らが段ボールの家を作って住んでいる場所は公共の場所であり、そこを不法占拠している事実は消しようがありません。厳密に法を適用するなら、おじさん達を追い出すべきなのでしょう。しかしその結果、彼らの中に凍死者でも出るとなると、これは人道上の問題になります。この辺が行政の難しいところです。私個人としては、冬の間だけでも黙認してあげたらいいと思ってますが、皆さんはどう思いますか。
 西洋にはネクタイがありますから、結びの文化がない訳ではありません。しかしわが日本の多彩にして複雑多岐に渡る紐と結びの文化と比べれば、とても比較にはなりません。ヨーロッパに組み紐の美しさがありますか。しめ縄の清々しさ、熨斗についている結び目の華かさはどうですか。ただ、ひとつだけ私にもよく分からない西洋の結びの文化があるようです。それは緊縛というものだそうです。世界中に愛好者がいるように聞いています。その方面に詳しい方がおられましたらご教示下さい。

No.35.おらが自慢のベルギーだ、文句あっか!

No.35.おらが自慢のベルギーだ、文句あっか!



 何やら騒々しいタイトルで恐縮ですが、云いたいことは、ちょっとベルギーのお国自慢をしてみようかな、と云うことです。皆さんの中には、ベルギーのお国自慢などどうやったら出来るのかしら、と本気で心配する方がいるかも知れません。確かに、ベルギーと云う国は、お国自慢などと云う概念から一番遠い国、と云った印象を与えている国かも知れません。
 ベルギー人自身の中にも、自分の国の悪口を言う人が結構います。又、フラマンやワロンの各民族主義者の中には、はっきりとベルギー国の解体を主張する人達もいます。対外的にも、ベルギーは華々しい印象を与える国ではありません。むしろ、地味で目立たない国です。皆さんはベルギー転勤を申し渡された時、すぐにベルギーが何処にあるか判りましたか。あわてて地図を広げて、場所を確かめたりしませんでしたか。
 フランスのシャンソニエ(漫談家)が好んでやる演目に、”ベルギー小咄し”と云うのがあります。先日当地で講演をしたパリ日本文化会館館長の磯村さんも、このベルギー小咄しを2、3披露してましたが、要するにベルギー人をバカにしたりからかったりした笑い話です。私も小咄しの類が大好きなので、シャンソニエのやるベルギー小咄しをケラケラ笑いながら聞いてますが、ヨーロッパ各国民の中でベルギー人程小咄しの材料にされている国民はいないのではないかと思ってしまいます。
 私の知っている小咄しにこんなのがあります。ある日、キリストが地上におい出になりました。キリストの行く手に1人の女性がいて、泣いていました。それはブリジット・バルドーでした。キリストがブリジット・バルドーに「どうして泣いているのか」と尋ねました。すると彼女は、「見てください。私は年をとってもう昔のように美しくありません」と答えました。するとキリストは「心配することはない。昔のようにしてあげよう」と云って奇跡を起こして、たちまち若くて美しいバルドーが出現しました。キリストがさらに道を続けて行くと、ロックフェラーが泣いていました。キリストがどうしたのか尋ねると、ロックフェラーは「私は財産を失い無一文になってしまいました」と答えました。キリストは「心配することはない。昔のようにしてあげよう」と云って奇跡を起こし、ロックフェラーを又昔のように大金持にしてくれました。キリストがさらに道を続けて行くと、1人の男が泣いていました。キリストがどうしたのか尋ねると、男は「私はベルギー人なのです」と答えました。するとキリストは、その男と一緒に泣き出しましたとさ。
 私の経験では、一般的ベルギー人は意外と愛国者だと思います。一部の過激な民族主義者は別として、大多数のベルギーの人達は、フラマン、ワロンを問わずベルギーに対して愛着をもっており、列強の手から独立して200年足らずでこれだけの高度な生活水準の国をつくり上げたことに、誇りと自身をもっています。ベルギーの人達がフランスのシャンソニエのベルギー小咄しを聞いて笑っていられるのは、余裕の現れなのです。
 私は一度ベルギーの知人に、フランス人があんなにベルギー人をバカにしているのを聞いて腹が立たないのか、と尋ねたことがあります。すると彼は、「いや全然。だってフランス人はベルギー人に対して嫉妬しているからあんな小咄しを一生懸命してるのさ。彼らがどんなに頑張ったってわれわれの生活水準には及ばないんだから」と、軽く答えました。私はこれを聞いて、成程大変な自信だなと感心しました。確かにフランスから車でベルギーに入ってくると、走っている高級車の数がぐんと増えるのは事実です。
 その国に長く住んでいると、どうしても住んでいる国を贔屓したくなるのは人間の自然な感情でしょう。私などもこの国が長いですので、外国、特にフランスなどに行ってベルギーの悪口を云われたりすると、とたんに反撃したくなります。以前にパリで買物をした店のキャッシャーで、私のフランス語を聞いたフランス人のおばさんがさもバカにしたような口調で、「あら、あなたベルギーでフランス語を習ったわね。アクセントと数の数え方ですぐに判るわよ」と云いました。私はムカッときて、「アクセントならマダムのパリ訛りもひどいもんですね。語尾をアーンと上げるのは実に耳障りですよ。それに数の数え方はベルギー人やスイス人の方が正しいじゃないんですか。70はベルギー人が云うようにSeptanteが正しいのです。フランス人の云うようなSoixante-dix(60+10)の方がおかしいとおもいますよ」と云ってやりました。私は今流行っているパリのアクセントが大嫌いですので、おばさんの言いぐさが余計我慢がなりませんでした。
 ベルギーの何もかもがいいなどと私は云いません。悪い点、厭な処も勿論あります。ただ総体的に、この国に住んでいて生活環境は悪くはないと思っています。皆さんは如何ですか。滞在期間の長短によって意見は異なるかも知れませんが、私の思っている限り、在留邦人の方々のベルギーでの生活に対する評価はまずまずが好意的、との印象をもってます。
 住宅事情のよさはヨーロッパ各国の中でもトップクラスです。高速道路夜間照明をしているのはベルギーだけです。都市の周辺に広がる広大な森や畑や牧場には心が安まります。アルデンヌの豊かな自然とそこに点在する古城、それにフランドルの昔日の栄光を今に伝えるゲント・アントワープ・ブルージュと云った歴史のある都市の数々。小国でこれだけ多岐に渡る豊かな観光資源をもっている国はそう多くありません。それなのに、ベルギーが目立たないのはどうしてなのでしょう。宣伝が下手なのです。これまでは見ていて情けなくなる程宣伝が下手でした。それでも最近は、日本でもベルギーが少しずつ知られるようになってきたようです。前回に日本に行った時、東京のド真中でベルギーの有名な白ビール、Hoegaardenの看板を見ましたし、至る所でベルギーワッフルの文字を見ました。アントワープのファッションディザイナー、若手7人衆も日本では知る人ぞ知る存在になっているようです。一方、ニューヨークではベルギーの国民食、ポンムフリッツが流行しつつあるそうです。
 先日講演した磯村さんが、いくらベルギーに住んでいてベルギー贔屓になっているからと云って、ベルギーのフランス料理がフランスより上と云うのは如何なものか、と云ったニュアンスの話しをしました。つまり、そんなことがある訳ないでしょう、と云ったニュアンスでした。これは磯村さんのジャーナリストとしての客観性よりも、身についてしまったフランス贔屓が云わしめた言葉だと思います。磯村さんには申し訳ないのですが、ベルギーのフランス料理がフランスのそれより上であっても少しもおかしくはないのです。Comme Chez SoiのWynantsさんやDe KarmelietのVan Heckerさんをフランスのどのシェッフと比較しても全く遜色がないばかりか、大多数のフランスの有名シェッフの上を行くことは間違いのない処です。 
 おらが自慢のベルギーにも一つ泣き所があります。それはお天気です。皆さん、ベルギーの国技が何だか知っていますか。それは、雨の間をぬって走るスラローム競技だそうです。

No.36. ボクのキッチン

No.36. ボクのキッチン



 「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」。この文章は、読んだ方はご存じの通り、吉本ばななさんのデビュー作「キッチン」の書き出しの文章です。私は最近、娘が貸してくれた小説「キッチン」によって、初めて吉本ばななさんの読む機会を得ました。そして、吉本ばななという作家は日本語の天才だと思いました。書き言葉としての日本語を、こんなに美しく表現できる作家はそんなに多くはないのではないかと思いました。しかもあの若さです。
 「新ベルギー物語」で文芸評論をするのは私の本意ではありません。又、そんな能力もありません。「キッチン」を冒頭にもってきたのは、私もキッチン、台所が好きだからです。「男子厨房に入るべからず」、と昔は云ったそうですが、今時こんな言葉を本気で云う男子がいたとしたら、実にかわいそうな人と云うべきでしょう。私の持論ですが、人は台所に立つ喜びを知らずして、人生を十分に生きていけるとは云えません。
 料理は創造の世界です。硬直した思考の持主いい料理はできません。いい料理人は、柔軟で創造性に富んだ思考の持主でなければなりません。そして、食べることを無上の喜びとし、人生を楽しく、前向きに生きている人こそいい料理人なのです。
 私は料理人ではありませんが、食べることは大好きです。飲むことも大好きです。女性も大好きです。諸賢の誤解のないように申しておきますが、私の云う女性大好きと云うのは、決して失楽園的意味合いではありません。云うならば、生きとし生けるものへの広大無辺なる愛情の発露として、女性が好きと云う意味です。くれぐれもお間違えないようにお願いします。
 私の子供の頃の夢は、板前になることでした。古い歌ですが、「包丁一本晒しに巻いて」、の世界に憧れていました。すぐれた板前が、研ぎ抜かれた包丁の手さばきも鮮やかに、魚をさばいていくその流れるような動きは、まさに芸術家の動きと云ってよく、美しく仕上がった刺身の盛付けは芸術品の名に値いするものがあります。そして、板前さんは何故か女性にもてるのです。女性の方が追いかけてくる設定が多いのは何故なのでしょうか。私の子供の頃の夢に、この女性に追いかけられる職業への憧れが、少しは入っていたのかも知れません。
 さて、かく云う私の得意な料理は何でしょうか。それはラーメンなのです。「何だラーメンか」と侮ってはいけません。日本人の食生活に於いて、ラーメンがどれ程重要な地位を占めているか、皆さんもよくご存知の通りです。この重要なる食物であるラーメンに、私は毎週のように挑戦しています。何故なら、わが家の日曜日の昼は、私の作るラーメンが定番になっているからです。
 私のラーメン作りは土曜日の夜から始まります。まず野菜です。玉ネギ、人参と云った主役の野菜は勿論、冷蔵庫に残っているありとあらゆる野菜を取り出します。セロリ、パセリ、クルジュット、キャベツなどもいいでしょう。これに西洋長ネギ、エジャロット、きゅ
うり、大根のしっぽなどがあると、さらに結構です。きゅうりをラーメンのスープに入れるアイデアは私のアイデアではありません。このアイデアは、かつてベルギー最高の料理人と云われたピエール・ローマイヤーさんから得たものです。Overijsの森の中にあった三ツ星最高級レストラン「Romayer」のオーナーシェッフだったローマイヤーさんが、きゅうりのコンソメを世に出したとき、それはベルギーのグルメの間でかなり話題になりました。野次馬根性旺盛な私は、直ちにこのコンソメを味わいに出かけました。そして、ひと口コンソメを口に含んだ時、「むむ、おぬし出来るな」と心の中でつぶやいたものでした。
 ただひとつ、いくら冷蔵庫に残っていても入れてはならない野菜があります。それはトマトです。トマトとラーメンの相性の悪さ、対立関係は未だ解決されていません。いずれ天才的料理人が、トマトラーメンなる一品を創り出す日まで、われわれは待ちたいものです。
 勢揃いした野菜を、それぞれの性格に応じて、むいたり洗ったりした後、きざんで鍋に入れます。一つの鍋に入れられ、水にひたされた野菜達は、ここに至り各々の役割を自覚することになります。これまで同じ冷蔵庫に住んでいたとは云いながら、お互いに無関心だったり、場合によっては反目し合っていたかも知れません。しかし彼らは、今やおいしいラーメンを作ると云う共通の目的意識に目ざめます。力を合わせていい味を出そうと、連帯の精神に奮い立つのです。
 野菜をさらに奮起させ、全体の味を向上させる為に、ここでもう一つ加える物があります。それは"Lard fume"(くん製にした豚の脂身)です。この異質の素材を加えることにより、野菜達の傲りをたしなめなければなりません。野菜達は、自分達の力だけでいい味のハーモニーができると思い上がっているかも知れないからです。鍋の中に、豚の脂身を迎えて、野菜達は一時混乱しますが、それはすぐに収まります。野菜達はおいしい料理の為にわが身を挺する教育を受けてますので、この素材の役割を直ちに理解するからです。Lard fumeも又、野菜達の連帯の輪に入り、コトコトと鍋の中で合唱を始めます。
 鍋が煮立ってくるとアクが出てきます。これは各野菜達がこれまでに経験してきた苦しかったこと、悲しかったこと、辛かったことへの思いが、一気にふき出してきたものなのです。ですから、火を弱火にして、「そうか、辛かったろう、悲しかったろう」と慰めの言葉をかけながら、アクを取ってやらなけらばなりません。アクを出すことによって、野菜達の心は開放感に満たされ、持てる限りのよい味を出してくれるのです。その後、2時間ぐらいトロ火で煮た後、火をとめて野菜達とLard fumeに静かな眠りの時を与えます。彼らは今や満足し切っています。「いい味を出した」、「生まれて来てよかった」との思いにしみじみとひたりながら、彼らは眠りにつくのです。
 翌日、お昼の1時間ぐらい前に再び鍋に火を点じます。ここで、長すぎた眠りの為、やや緊張感に欠けつつあった各素材に注意を喚起することになります。彼らは最後の力をふりしぼって、ふつふつとわき立ってきます。そして、いよいよラーメンを投入します。ラーメンはインスタントの「日清出前一丁」でも、「サッポロラーメン」でも何でもかまいません。すでに土台がしっかりできてますので、市販のどんなラーメンを入れても間違いはありません。ラーメンの出自を問題にするようでは、まだ修行が足りないと云うべきでしょう。
 「おいしい、おいしい」と云う家族の賞賛の声を聞きながら、私もラーメンを食べます。そして、いい仕事をし終えた料理人のような満足感にひたりながら、私は一首、歌をよむのです。「人参のあかきやわ肌ふれもみず、さびしからずやキッチンの外に立つ君」。字余りです。

No.37. 涙降る降る善光寺

No.37. 涙降る降る善光寺



いや、泣きました。泣かされました。長野の冬季オリンピックのテレビ中継を見て、或いは新聞の記事を読んで、皆さんは泣きませんでしたか。オリンピックの期間中に日本中で流された涙の量は、おそらく史上最多ではなかったかと想像しています。
 新聞の書き方がまた涙を誘うのです。スピードスケート500mで、清水宏保選手が金メダルを取った時、「母にもらった金の足」、「母さんが作るみそ汁がのみたい」。女子モーグルの里谷多英さんの場合は、「父の遺影胸に急斜面一気」、「世界一の母さんだ」。原田雅彦選手が二度目のジャンプで団体優勝を決めた時、「原田選手が泣いた。ただただ、泣いた」、と云った具合です。
 選手たちは、常人にはとうてい耐えられない厳しい練習に明け暮れた年月の後に、オリンピックと云う最高の舞台で、これまた耐え難い周りからの心理的重圧を受けながら、すばらしい栄誉を手にしました。そう云う場面を見て、私たちが選手と一緒になって感動の涙を流すのは人間の自然な感情だと思います。しかし、ちょっと冷静になって、他の国の選手や関係者を観察してみると、これがまた泣かないのです。特に欧米系は泣きません。勿論、勝ったときの喜びの表現を大いにするのは世界共通ですが、後は実にあっけらかんとしています。実況中継のテレビのアナウンサーも、自国の選手がいい線を行きそうになると、やや興奮した口調になりますが、「会場の片隅で、○○選手のお母さんが祈るような眼差しで、我が子の背中に声援をおくっています」、などと云ったアナウンスは決してしません。新聞の書き方もしかりで、メダルを取った選手に対して「やったあ」、「ブラボー」ぐらいの表現をすることはありますが、選手のお母さんや家族のことが記事に出ることはまずありません。
 同じ現象を前にして、われわれ日本人は泣き、欧米の人は泣かない。このちがいはどこから来ているのでしょうか。菜食系と肉食系のちがいなのでしょうか。ざるそばや茶づけを食べて食事をした気になる人種と、皮をはがれて丸裸になったうさぎを料理してご馳走にする人種のちがいなのでしょうか。私の考えでは、私たち日本人の精神構造は、「情」が先に来て、「理」が後から来る構造になっており、欧米の人たちのそれは、これが逆になっているのではないか、と云うことです。
 長野のオリンピックで日本中が泣いたのは、日本人の持つ情の価値観を、みんなで共有する喜びと安心感にひたったからではないでしょうか。そして、日本人のこの情の世界には必ず母なるものが登場します。清水選手と里谷さんの場合、お父さんを亡くされていましたので、特にお母さんの姿が大きく投影されました。清水選手が「お母さんの作るみそ汁がのみたい。手料理を食べたい」と云った時、このことばにわれわれは深い共感を覚えるのです。未だかつて、「父さんの作る塩辛が食べたい」などと云った選手はいません。ここでは、どうしてもお母さんに登場してもらわないと、私たち日本人の心は納得しないのです。
 話しはそれますが、冬季オリンピック中継のテレビを見てて、一つ心配になったことがあります。それはフィギュアスケートのカップルの選手の間柄はどうなっているか、と云うことです。公衆の面前で、あんなにお互いの身体を密着させて演技をするのですから、二人は夫婦か恋人同士でないとまずいのではないでしょうか。事実、そう云う間柄のカップルもいるようですが、必ずしも全部のカップルがそうではないらしいです。勝てそうな優秀な男女二人がカップルをつくって競技に出場するケースも少なくない由です。そして、競技の後は、相手の演技がよくなかったと云って、お互いに口もきかなくなるカップルもいるとか、私には理解の外です。ま、こんな心配は余計なお世話ですかね。
 フィギュアスケートから話しを元に戻しますが、日本には日本固有の泣きの文化、「涙の文化」があるのではないでしょうか。商談などで、厳しい条件をのまざるを得ない時など、「じゃ、ここは我が社で泣きましょう」と云った表現をします。又、日本人の間には「泣き上戸」と呼ばれる酒飲みがいます。先日の日航名人会で三笑亭夢楽師匠がこの泣き上戸を見事に演じてくれました。私の知っている限りでは、こちらの人でワインやビールを飲んで泣いている人を見たことがありません。別の例ですが、会社の経営が破綻し、多数の社員を路頭に迷わせることになってしまった日本の経営者が、記者会見で泣きました。この件を扱ったこちらの新聞は、この経営者について、「彼は何故泣くのか」と、たった一行で片付けていました。欧米の経営者が同じ立場に立たされたとしても、絶対に泣かないでしょう。それどころか、とうとうたる弁論を展開して、自分の立場を弁護するに違いありません。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、情に重きを置く民族と、理に重きを置く民族のちがいかと思います。
 日本人の好きな「国際化」の分野でも、東西文化に於ける「泣きの文化」、「涙の文化」を研究する必要があると思います。情の日本人が理の欧米人と付き合って行かなければならないのですから、行きちがいや誤解が生ずるのは或る程度仕方のないことでしょう。その行きちがいや誤解が大きくならないように、われわれ日本人が情の人間であることをこちらの人たちに知ってもらう必要があります。その為には、私たちは恥ずかしがらずに、大いに泣き、涙を沢山流す姿をこちらの人たちの前にさらけ出したらいいのではないでしょうか。欧米の人たちだって泣く時には泣くのです。何の為に泣くかという点で、多少ちがいがあるようです。
 イタリアに「Lacrima Christi」と云う名前のワインがあります。これは「キリストの涙」と云う意味です。イタリアでこのワインを飲んだことがありますが、味は覚えていません。名前が面白かったので覚えています。又、イタリアの或る教会には、決まった時期になると涙を流すマリア様の像があります。宗教画にも涙を流すマリア様の絵が多数あります。キリスト教文明のヨーロッパでも涙は大切な意味をもっていると考えていいのではないでしょうか。
 涙はただ流せばいいと云うものではありません。どこでどう云う風に流すかが大事なのです。女性に泣かれるのは、男にとって辛いことです。この場合、女性にギャーギャー泣き叫ばれるより、じっと見つめる目から、ぽろりと一粒の涙が流れ落ちる方が男の胸にはよっぽどにこたえるのは先刻ご承知の通りです。ただし、同じことを男が女性に対してやった場合、同じ効果が期待できるかどうか、私はやや疑問に思っています。

No.38.夜明けのくろうた鳥

No.38.夜明けのくろうた鳥



5月の声を聞くと、いつも思い出す鳥がいます。それはくろうた鳥という鳥です。
 今から20数年前、私は青雲の志を抱いて、このベルギ-の地、ル-ヴァンにやって参りました。私がル-ヴァンに第一歩を印した日は、初秋のすばらしいお天気の日でした。ブリユツセルからル-ヴァンへは電車で来ましたが、その車窓から見た風景の美しさに、私は大変感動したものでした。遠くまで続く黄金色の麦畑と、その麦畑一面に、鮮やかな赤の絵の具をまき散らしたかのように咲き乱れるコクリコの花、麦畑の向こうに見える森や牧場、そして集落の中心にすっきりと立つ教会の尖塔、やわらかなパステル調のブル-の空にぽっかり浮かぶ雲等々を見て、私は、自分は何と美しい国に来たのだろうと、心の底から思いました。後年、ブリユ-ゲルやマグリツトの絵を見た時、彼らの絵の中に、私がベルギ-で最初に感動した風景を見出し、再度感動する幸せを得ました。
 9月にル-ヴァンに到着して以来、下宿探しや大学への入学手続きなどで、あっという間に1ヶ月がたち、10月からいよいよ講義が始まりました。しかし、講義に出れば出る程、私の青雲の志は急速にしぼんでいきました。先生のいっている事が、まるで分からないのです。先生の口から機関銃の弾のような勢いで飛び出すフランス語を、私は呆然と聞き流すだけでした。講義のノ-トを取ることなど、夢の又夢でした。私が辛うじて1行のノ-トを取っている時、先生はもう20行先ぐらいをしゃべっているのです。
 思えば大それたことをやったものです。フランス語といえば、日本の大学で第2外国語で週1回、6ケ月やっただけでした。初級文法も終わってない状態で留学し、世界的に有名なル-ヴァン大学の碩学の講義を聞いたのですから、理解できる筈がありません。11月、12月と月が進む程に、ベルギ-の空は暗く、太陽の光はまれになり、私の心も暗く打ち沈んで行きました。しかし、一方では、負けてなるものかという意地もあり、自分でいうのも何ですが、猛烈な勢いでフランス語のマスタ-に力を注ぎました。幸い私は、日常フランス語を話さないと生活できない学生寮に身を置いてましたので、他の日本人留学生よりも早いスピ-ドでフランス語を身につけることができました。
 大学に入った翌年の6月には、最初の期末試験がありました。学生は5月に入るとブロキユスと称する試験勉強を始めます。私も試験勉強を開始しましたが、悲しいかな、私のノ-トは全く試験の役には立ちません。そこで、友達のノ-トを借りて、これを写すという大変な作業を、毎日毎日やらなければなりませんでした。こちらの人の手書きの文字を読んで書き写すというのは、至難の業です。友達も試験勉強をしなければなりませんので、ノ-トを借りておく時間は限られています。試験勉強中は、度々徹夜をしなければなりませんでした。
 私が最初にその鳥の声を聞いたのは、徹夜の勉強に疲れて、机にうつ伏せになってうたた寝をしていた時でした。鋭く、そして明るい鳥の鳴き声で目を覚ましました。外は暁闇という言葉がぴったりの、日の出前のほの暗い初夏の朝でした。その鳥は、力強くそして楽しそうに鳴き続けるのです。私は田舎育ちですので、いろいろな鳥の鳴き声を聞いてましたが、その鳥の声は初めて聞くものでした。どんな鳥が鳴いているのか姿を見たいと思って、部屋の窓から外を見ても、暗い木立ちのどこかで鳴いている鳥の姿を見ることはできませんでした。
 その時以来、私は徹夜明けには、その鳥の鳴き声を心待ちにするようになりました。不思議なことに、その鳥の鳴き声は、私のその時の心の状態によっていろいろと違って聞こえてくるのです。勉強が進まなくて気持ちが落ち込んでいる時は、力強い声で私を励ましてくれるように聞こえてます。試験がうまく行って、勢いに乗っている時は、明るく楽しそうな鳴き声で一緒に喜んでくれるように聞こえるのでした。私のル-ヴァンでの大学生活の思い出は沢山ありますが、鳴き声だけで、ついに一度も姿を見たことのない謎の鳥も、大切な思い出の一つになっていました。
 あの時から20数年を経て、私は遂にこの謎の鳥の正体を知ることができました。それは、昨年6月にブリユツセル近郊のガ-スベ-ク城で行われた探鳥会に参加させて頂いた時でした。この時期は、樹木の葉影が濃く、鳥の姿をとらえるのが難しいので、この探鳥会は、鳥の鳴き声を聞くのが主たる目的でした。そこで私は、あの懐かしい鳴き声を耳にしました。さっそく教官の新谷先生にお尋ねしましたところ、その鳥の名前は「くろうた鳥」であると教えて頂きました。さらに、双眼鏡でその鳥の姿をとらえた時、私はびっくりしてしまいました。何故なら、くろうた鳥は私がベルギ-で一番よく知っている鳥だったからです。フランス語で「Merle Noir」(メルル ノワ-ル)という名前も知っていました。メルル ノワ-ルはこの国のどこにでもいて、庭先や公園の芝生と生垣の境目などを、ちょこまかと動きまわっているあの愛嬌のある鳥ではありませんか。ル-ヴァンでもよくこの鳥を見ていました。寮から教室に行く途中に通る、サン・ドナトウス公園に必ずいた鳥でした。講義が理解できず、暗い気持ちでこの公園を通る時、こちらの気持ちなど頓着なしに動きまわるメルル ノワ-ルを、小憎らしいと思ったことさえありました。
 まさかあの鳥が、夜明け前に鳴く謎の鳥だったとは夢にも思いませんでした。人は見かけによらないといいますが、くろうた鳥などは、見かけによらない鳥の代表格ではないでしょうか。お世辞にも美しいとはいえないあの姿で、あんなに澄んだ美しい鳴き声を出すのです。考えてみれば、このくろうた鳥こそ、私たちが住んでいるこのベルギ-に一番似合っている鳥なのかも知れません。ベルギ-は外から見ると余りパッとせず、国際的な知名度もいま一つです。皆さんは、日本の知人や親戚の方に、ベルギ-がどこにあるのかを説明した経験はありませんか。ヨ-ロッパの中でさえ、ベルギ-は十分に認識されていると思えません。昔、イギリスのエジンバラ公が、ベルギ-の勲章とザイ-ルの勲章を取り違えて佩用してくるという事件があったぐらいですから。
 でも、くろうた鳥が美しい鳴き声をもっているように、ベルギ-も中味はどうしてどうして、素晴らしいものを沢山もっている国です。この国のいいところを認めて、楽しく在任期間を過ごすのがいいのか、不平ばっかりいいながらベルギ-滞在を終えるのがいいのか、くろうた鳥に尋ねなくても、答えははっきりしてると思います。

No.39. 娘のワイン

No.39. 娘のワイン



 皆さんもベルギ-に駐在するようになってから、こちらのフランス料理のレストランに行く機会など、時々あるかと思います。こちらのレストランに行って一番困るのは何でしょうか。私が思うには、それはメニュ-の選択ではないかと思います。高級レストランで、ブラックタイ姿のボ-イさんからうやうやしく手渡されたメニュ-を開いた時のあの絶望感は、誰しも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
 当地のさる日本企業の支店長さんは、本社からお偉いさんが来られると云うので、かなり前から予約したレストランのメニュ-を取り寄せて、これをベルギ-人のスタッフに頼んで英訳してもらい、それから自分で日本語に直し、メニュ-の日仏対訳表を作ったそうです。そして、支店長さんはこの対訳表を徹底的に暗記しました。いよいよ当日、お相伴の社員をつれて、本社のお偉いさんとくだんのレストランに行きました。名の通った一流のレストランですので、入口で丁重な出迎えを受け、給仕長の先導で予約されたテ-ブルに案内されます。型通りに着席すると、ブラックタイのボ-イさんがメニュ-をもってきて各ゲストに配り、同時にアペリテイフの希望などをききます。ここではまあ、特に好みがなければアペリテイフ・メゾンぐらい注文しておけばまず無難かと思います。本社のお偉いさんだって、アペリテイフの習慣のない日本から来たのですから、アペリテイフ・メゾンなどと云われたって、何のことかさっぱり判らないのが普通です。
 支店長さんは勇躍メニュ-を開きました。本社のお偉いさんも、支店長さんがベルギ-に3
年以上在勤しているので、メニュ-などすらすら説明してくれるものと期待しています。ただ、お相伴の若い社員の方だけが、やや不安気な眼差しで支店長さんを見ています。そして、この若い社員の方の不吉な予感は的中しました。何故なら、メニュ-を目で追っている支店長さんの顔色が、みるみる青くなっていくではありませんか。
 支店長さんが青くなったのは、対訳表まで作って暗記したメニュ-がすっかりかわってしまっていたからです。一流のシェフは、季節に応じてメニュ-をかえると云う事実を、支店長さんが知らなかったことから、この悲劇が起こりました。しかし、こう云う場合あわてることはありません。しかるべきレストランのボ-イや給仕長は、メニュ-の説明をきちんとした英語でやる程度の語学力をもっていますので、率直に尋ねればいいのです。
 どうにこうにかメニュ-のチョイスが終わると、今度はワインを選ばなければなりません。ブド-の実のバッジをつけたソムリエ氏から、皮張りのワインリストなどを重々しく差し出されると、こちらもつい緊張してしまいます。人によっては赤と白の区別だけして、後は値段しか見ないと云う人もいます。これはこれで、一つのポリシ-だと思います。ちゃんとしたレストランなら、低めの料金のワインを選んでも、まずいと云うことはない筈です。ただ、選んだ料理とのかね合いもありますので、ソムリエ氏のアドバイスを受けるのもいいかと思います。彼は、ワインの栓を抜くためにだけいるのではありませんから。
 メニュ-が決まり、ワインが決まると、次に第三の関門、ワインのテ-ステイングが待っています。私の個人的見解ですが、日本人でこのワインのテ-ステイングを上手にやる人は余り多くないと思います。私もこれまでの人生で数え切れない程のワインのテ-ステイングをしていますが、依然として苦手意識が残っています。それは、ソムリエ氏が原因になってます。ワインについての知識では、ソムリエ氏の方が自分の何10倍も上なのはよく判っているのですが、彼に対峙していると、どうも劣等感に襲われてしまいます。
 ワイングラスに注がれたワインを、型通りの作法に従ってテ-ステイングしている私を見ながら、ソムリエ氏が、「ワインなんか分かりもしないくせに恰好つけて、このバカ」とか、「そんな低い鼻でワインの香りをかいだって分かる訳ないのに、このバカ」などと、考えていやしないかと想像すると、気持ちがいじけてしまいます。「この道何10年」のソムリエ氏を前にすると、「客をバカにして何10年」になるのかしら、と考えが飛躍するのは、一重に私の個人的ひがみ根性によるものです。ソムリエ氏は、決して客をバカになどしていませんので念の為。
 私は一度でいいから、一流レストランのソムリエに闘いを挑んでみたいと思ってます。闘いとは、テ-ステイングの後で、ソムリエにワインを取りかえるように命ずることです。一番可能性があるのは、テ-ステイングしたワインにコルクの味が入ってしまっている場合です。いわゆる”ブジョネ”と云うやつです。しかし、一流レストランではまずその機会はないと思うべきでしょう。何故なら、ソムリエ氏が栓をあけた時にまずこれをチェックします。そしてブジョネしてたら即刻ワインを取りかえてしまいます。
 私の知人がマドリッドのレストランで、ソムリエならぬ店のボ-イさんに闘いを挑み、あっさりと敗退した話しがあります。マドリッドの街角のレストランに入った時のことです。ボ-イさんが注いでくれたワインにコルクの破片が沢山浮いていました。知人は直ちにワインを取りかえるように命じました。するとボ-イさんは、「かしこまりました」と云って奥に引っ込むと、スプ-ンを持ってきました。そして、そのスプ-ンでコルクの破片をすくい取り、「さあ、どうぞ」とにっこり笑って行ってしまったそうです。これは明らかにボ-イさんの勝ちです。
 ワインの話しが出ると、私は時々、上の娘にすまないと云う気持ちにさせられます。それは娘のワインを全部飲んでしまったからです。昔、学生時代にベルギ-人の友達の結婚式に招待された時、とてもいい光景に出会いました。それは宴もたけなわの頃、花嫁のお父さんが、地下室からほこりにまみれたワインのボトルを数本持ってきました。そして説明してくれました。そのワインは、今日花嫁となった娘さんが生まれた時のワインだったのです。20数年地下室で眠りついていたワインは、その日晴れの舞台に登場したのです。
 私はその時、深く心に誓いました。自分にも娘が生まれたら、きっとその年の極上のワインを買って保存しよう。そして娘の結婚式の日、地下室からほこりだらけのワインのボトルを持って華々しく登場しようと。私はやがて結婚をして、娘が生まれました。私は華々しいその日を夢見て、ワインを買いました。ただし、買ったワインは極上とは云えませんでした。何しろ、学生の身分だったのでお金がありませんでしたから。
 娘のワインは、それでも5年間ぐらいは保存されていました。しかし、1本、又1本と私が飲んでしまい、今では1本も残っていません。最初は、味を見ておく必要がある、という口実で1本、次いで、今一つ味がはっきりしないと云う理由で又1本、と云った具合で、結局12本を全部飲んでしまいました。最終的な口実は、そんなにいいワインじゃないから、20何年間ももたないだろう、と云うものでした。これは本当かも知れません。でも、例えそのワインが酸っぱくなっていたとしても、1本ぐらいは残しておけばよかったなと、反省しています。娘はこのワインの話しを知りませんので、この文章がどこかで娘の目にふれたりしないことを切に祈っています。  

No.40. 私はどこから来たの?

No.40. 私はどこから来たの? 



 このタイトルは、かつてベストセラ-のなった「ソフィ-の世界」のメインテ-マでした。読んだ方はご存じの通り、この本は哲学を判りやすく紹介した本です。「私はどこから来たの?」という質問は、深えんなる哲学の根本命題のようです。
 しかし、私がこの質問をするのは、哲学とは何の関係もない分野に関してです。それは、私と云うより、私のこの顔はどこから来たのかという質問なのです。勿論、自分の顔は両親から来たものであり、さらに云うなら両親の家系を伝わって今日の自分の顔があることは、よく分かります。でも、もっともっと遠い祖先はどこから来たのかと時々考えます。最近、日本では縄文系の顔、弥生系の顔と云った研究が行われているようですが、私は自分の顔は明らかに縄文系だと思ってます。これは体験的にも実証されています。以前、成田から香港に行った時、成田のチェックインカウンタ-で中国人のおじいさんから中国語で話しかけられました。私は、「誠に申し訳ないが、私は貴殿のことばを解さない日本人である」、と英語で云ったのですが、相手のおじいさんは私の云うことなど全然とんちゃくせず、ずっと中国語で話しかけてくるのです。おじいさんには、目の前にいるこの男は絶対に中国人であると云う、確固たる信念があったようです。さらに香港の街中を歩いている時も、中国語で話しかけられました。多分、広東語なのでしょうが、勿論私には理解できませんでした。
 しかし、世の中は面白いもので、香港でも堂々と日本語で話しかけられたことがあります。ホテルから出た所で、香港人のおじさんがすっと寄ってきて、上手な日本語でこう云いました。「社長、いい娘がいますよ」と。顔はその人の人格を表すと云いますから、私は自分の顔がそう云う風に見られたのかと思うと、情けないやら悔しいやらで、その日はホテルの自分の部屋の鏡を何度もながめて、親にすまない、家族に申し訳が立たないと、悔し涙にくれたものでした。
 考えてみると、われわれ日本人は「顔」というものに対して、一種特別な執着心をもっているような気がします。日本語の中に、顔を扱った表現が沢山あります。例えば、「顔に泥をぬる」、「顔が広い」、「顔をきかす」、「顔が立たない」、「顔にめんじて」、「顔が売れる」、「顔役」、「顔を貸す」、「顔を洗って出直して来い」、「面目にかかわる」等々です。いずれも人間関係にかかわりのある表現に顔がつかわれています。外国語に、これだけ顔を扱った表現があるでしょうか。フランス語には、「Perdre la face 」(面子を失う)とか「Sauver la face」(面目を保つ)と云った表現がありますが、日本語ほど多様な表現はありません。
 日本語の中に、かくも多くの顔関係の表現があると云うのは、やっぱり何か理由があってのことなのでしょう。私の個人的意見ですが、日本人は何よりも体面を重んずる民族だからではないかと思います。云うまでもないことながら、人間は顔だけで全人格を判断できるものではありません。しかし、われわれ日本人は、顔と云うか表に見えるものだけで内面的なものまで判断してしまう傾向があるのかも知れません。逆に云うならば、内面を顔に出さないことが美徳と考えられているのではないでしょうか。そして、内面を見せない日本人が国際社会に進出し始めた時、逆に「顔のない日本人」と云うイメ-ジが定着して行きました。
 顔は人格の鏡ですから、顔でその人を判断してしまうのはある程度仕方のないことかも知れません。ある年令を過ぎたら、自分の顔に責任を持て、とも云われます。つまり、人格をみがけと云うことなのでしょう。そうは云われても、なかなか自分の顔に責任などもてるものではありません。毎朝、顔を洗う時、いやでも自分の顔を見ますが、この顔でどうやって責任を持てと云うのか、私などは途方にくれてしまいます。男は顔じゃなくて心で勝負などとさけぶ男は、だいたいに於いて顔に自信がないのです。
 われわれ日本人の顔が目鼻立ちなどの個人差を除いて、どちらかと云うと画一的印象を与えるのはやっぱり横並びの文化、体面重視の文化のせいでしょうか。その点、こちらの人たちの顔は実に多様性に富んでいると思いませんか。鼻の高低、目や髪の毛の色の違いは別にして、こちらの人たちの顔は個人としての印象が強く伝わってくる様な気がします。
 確かに、西欧の人たちの顔が、個人としての印象を強く与える要因として、目の色や髪の毛の色の多様性が大きな働きをしている事実は否定できません。特に私たちの住んでいるベルギ-では、目の色や髪の毛の色の種類が多いような気がします。これはベルギ-の地理的、歴史的条件からきています。「ベルギ-人の身体にはヨ-ロッパ中の血が流れている」、と云われてます。ご承知の通り、ベルギ-は「ヨ-ロッパの心臓」、「ヨ-ロッパの十字路」などと呼ばれるぐらい地理的に重要な位置を占めています。そしてこの地理的条件は、歴史上幾多の他民族の支配を招きました。
 他民族の支配は、他民族の血が入ってくることも意味します。皆さんは、ヨ-ロッパを旅行していて、各国の民族の特徴ある顔をごらんになった経験があると思います。典型的なドイツ人の顔、或いは、スペイン人そのものといった顔、又は、誰が見てもイタリア人、と云った顔があります。しかし、私たちの周囲のベルギ-人を見た時、「これぞベルギ-人」と呼べる顔があるでしょうか。ありませんよね。身体にヨ-ロッパ中の血が流れているベルギ-人の顔は、ヨ-ロッパ中どこに行ってもある顔、と云うのが正しいでしょう。ですから、ベルギ-人の親は、生まれてくる子供の髪の毛の色と、目の色を当てることができないと云われてます。
 ベルギ-人のお母さんが、お父さんと似ても似つかない髪の毛の色や、目の色をもった子供を生んでも、決して「失楽園」的疑いをもたれたりはしません。それが当然なのです。しかし、これが日本人のお父さん、お母さんの場合になると、話しは別です。もし、日本人のお母さんが金髪の子供を生んだとしたらどうでしょうか。たとえお母さんが、「うちの遠い祖先にオランダ人なんかがいたのかもね」、などと云ってみたところで、お父さんが、「そうかもね」、などとあっさり納得するでしょうか。そう云った意味では、ベルギ-人のお母さんたちの方が、失楽園的意味ではかなり恵まれた条件にある、と云えるかも知れません。
 民族的には混りに混ってしまっているベルギ-の人たちが、フラマンだワロンだと云って、騒ぎを引き起こすのは考えてみればおかしな話しです。結局、民族と云うのは顔や血ではなく、言葉と文化によってつくられるもの、と考えた方が理解しやすいように思います。事実、ガチガチのフラマン主義者の名前の中には、典型的なフランス語系の名前をもっている人が何人もいます。又、ワロン地方には、VANで始まるフラマンの名前を授かったコチコチのワロン人が沢山います。
 私も日本人の両親から生まれ、日本語で教育を受け、日本人として暮らしていますが、私の顔が代表的日本人の顔だとはとても云えません。先に書いた通り、私の顔は中国でも十分に通じる顔なのです。では、私の顔はどこから来たのでしょうか。土台は両親からもらったとしても、現在の私の顔は、あの愛らしかった(本当です)幼少の頃の顔とは、似ても似つかない顔になってます。私の顔は、私の人生、私の過去の歴史によってつくられたものであり、私の顔は私からきた、と答えるのが正しいようです。     

No.42. ミスター・ビーン

No.42. ミスター・ビーン



 皆さんは、『ミスター.ビーン』をテレビか映画でご覧になったことがありますか。ギョロ目にゲジゲジ眉毛がへの字型についているあの顔は、一度見たら決して忘れられない顔です。イギリスのコメディアン、ローワン.アトキンソンが演ずる『ミスター.ビーン』は、セリフが殆どないのに、2分に1回は観客を笑わせると云う、今や世界的な人気キャラクターになっています。
 何故、私が『ミスター.ビーン』を持ち出してきたかといいますと、実は、私にこのあだ名がついているからです。私の車の運転ぶりが、『ミスター.ビーン』の車の運転ぶりと比べて、甲乙つけ難いのだそうです。つまり、私の車の運転が、目茶苦茶に下手だということです。こう見えても、運転歴は結構古いのですが、今でも車庫入れは大の苦手ですし、こすらなくてもいい所で車をこすって、板金塗装にずい分とお金を払ってきました。
 先日も、自宅のガレージに車を入れる際に、ハンドルを切り間違えて、車と壁際に取り付けてある金属のドアの開閉装置との間が1ミリぐらいしかない状態になりました。バックしても進んでも車に傷が付くことはさけられません。幸い家に高一の息子と娘のボーイフレンドがいたので、男共に動員令をくだし、私と三人で車を持ち上げて、ずらすことにしました。“せえの”のかけ声でやったのですが、車はびくともしません。ちょうどそこに、息子のガールフレンドが、お母さんの運転する車で、息子を迎えに来ました。息子は待ってましたとばかりに、「ではボクこれで。父上、成功を祈ります」などと云って、ガールフレンドと手に手をとって行ってしまいました。私は「この野郎、もっと手伝え」と云いたくても、彼女のお母さんの手前、「息子がごめんどうをおかけします」と、にこやかに送り出すしかありませんでした。結局、娘のボーイフレンドの誘導で車を動かし、危険地域を脱しましたが、やっぱり車に傷が付いてしまいました。娘には、「どうやったらこういう状態に車をおけるのかしら。信じられない」、とバカにされてしまいました。
 自分の運転下手の原因は、もしかしたら免許証にあるのではないか、と思ってます。私の運転免許証は、正真正銘のベルギー免許です。皆さんのように、日本の自動車学校で正統派の教育を受け、厳しい試験にパスしてこられたのとは違います。私はルーヴァンの学生だった頃に免許を取りましたが、その頃は筆記試験だけで、実地試験はありませんでした。私が免許証取得に費したお金は、筆記試験受験料、360フランぽっきりです。しかもこの免許証は、途中書き替ええもなく、一生使えるのです。
 「ベルギー人の運転マナーは本当に悪い」、と云う評判をよく耳にします。そうでしょうか。確かに、日本人と比べればいいとは云えないかも知れませんが、他のヨーロッパ諸国と比べて、ベルギーが特に悪いとは思われません。私などは、フランス、イタリア、スペインポルトガルと云った国々の方が、運転が乱暴だという印象を持っています。その点、オランダ人は制限スピードをよく守り、無茶な運転はしないと云う評判があります。もっとも、口の悪いベルギー人に云わせると、「オランダ人はケチなので、ガソリン代を節約する為制限スピードを守っている」、のだそうです。
 私が、「ベルギー人の運転はそんなに悪くない」と云いますと、知人は、「そりゃ、神藤さんがベルギー人並みの運転をしているから判らないんじゃないの」とからかってきます。そう云われればそうなんでしょうか。確かに、ベルギーには、私みたいに筆記試験しか受けてないドライバーがわんさといます。さらにその昔は、筆記試験さえもなかったのです。車を買えば免許証が交付された時代がありました。その残党が今でも堂々と運転をしています。
 結局、ベルギー人は運転マナーが悪いのではなく、運転が未熟なのかも知れません。皆さんもこれからは、ベルギーで未熟なドライバーに囲まれて走っている、と考えたらどうですか。そうすれば、多少はイライラも減り、『ミスター.ビーン』クラスのドライバーにも、笑顔で接することが出来るようになり、ベルギー生活がいっそう楽しくなること、間違いありません。
 車の運転ぶりを見ていると、人柄や国民性が判るというのは本当でしょう。私の個人的な体験では、車の運転マナーが良くて、親切なのはアメリカ人でした。初めてアメリカで車を運転した時、知らない土地の知らない道を、もたもたしながら走っていたのですが、後続の車のドライバーの誰一人として後ろからフラッシュをピカピカさせたり、クラクションを鳴らした人はいませんでした。更に感激したのは、私がうっかり進入禁止の道に入り込んでしまった時のことです。向こうから来たアメリカ人の夫婦の車は、私にバックを要求するどころか、自らバックをして私の車を通してくれたのです。ベルギーと云うか、ヨーロッパではとても考えられないことです。わたしはこのエピソードを、アメリカ人の友人に賞賛のことばをもって話しました。すると彼は笑いながら、「バカだな、お前。アメリカ人だって危険を察知する能力ぐらいあるんだぜ」、と答えました。
 皆さんは、ベルギーで制限スピードをきちんと守って運転をしていますか。多分守ってないでしょう。と云うか、ついうっかり制限スピードをオーバーして走ってしまうことがあるでしょう。高速道路を走っている車の中で、120kmを守って走っている車と、これを完全にオーバーして走っている車の割合を見れば、守っている車が少数派であることは、皆さんもご承知の通りです。
 このスピードオーバーで、皆さんの参考までに私の失敗談をお話しします。用事があってブルージュに行く為、ブリュッセル-オーステンド間の高速を走っていました。少し急いでいたので、140kmぐらいのスピードで走っていました。ブルュージュに近づいた地点で、バックミラーを見ると、私にぴったりとついてくる車がいました。やりすごそうかと思ったのですが、こちらも急いでいたのでそのままスピードをあげて振り切ることにしました。しかし、相手もスピードをあげてぴったりとついてきます。いやなヤツと思いながら、私はさらにスピードをあげました。私の車のスピード計が160kmを指したところで、後の車の車体の上にブルーのランプがのっかり点滅を始め、サイレンが鳴り出しました。何のことはない、後ろの車は覆面パトカーだったのです。高速道路の横に停車を命じられた私は、平謝りに謝りました。覆面とは云え、パトカーを振り切ろうなどと、とんでもないことをやったものです。皆さんも、後ろからぴったりついてくる車がいたら、スピードを落として道を譲った方が無難です。
 ベルギーの高速道路網は、ヨーロッパでも最も優れた道路網の一つに数えられています。私たちはこの立派な道路網をタダで利用させてもらっています。交通事故の原因の中で、大きな比率を占めるスピードの出しすぎは厳に慎むべきでしょう。私たちはベルギーのお世話になっている訳ですから、この国の法律をきちんと守る義務があります。
 と、固い決意をした矢先に、地元の新聞にブリュッセルの検事がスピード違反で捕まった記事が載りました。女性の検事ですが、彼女はリェージュ-ブリュッセル間の高速道路を何と180kmで走っていて、覆面パトカーに捕まり、その場で免許停止処分を受けました。この検事さんは同僚の間で、「スピーディ.ゴンザレス」というあだ名がついていた程のスピード狂だそうです。法の番人たる検事が、大変なスピード違反をしているのは言語道断かと思います。
 考えてみれば、われわれはベルギーで『ミスター.ビーン』や「スピーデイ.ゴンザレス」の間をかいくぐって運転しているわけで、それなりに苦労はしているわけです。でもここは一番、日本人の優秀な運転技術と順法精神を発揮してみてはどうでしょうか。最近落ち目の日本の評判も、少しは良くなるかも知れません。考えが甘いでしょうか。これは。                             

No.43. 天高く 馬肥える秋

No.43. 天高く 馬肥える秋



 標題のことばが、私は大好きです。このことばを聞くと、爽快な気分になります。気力がみなぎってきます。日本の秋の美しさが、まぶたに浮かんできます。日本の秋のおいしさが脳裏に浮かんできます。
 彼岸花の鮮やかな赤い色や、桔梗の深い紫色が、やがて枯れゆく野原の華やかな舞台衣装になります。目を彼方に転ずれば、すすきが風にゆれ、赤とんぼが、手を伸ばせば届くほどの空を飛んでいます。日頃さえないおとうさんも、日本の秋がくると元気になります。このあいだ、会社のエレベ-タ-の中で一緒になった秘書課の秋子ちゃんが、にっこり笑顔であいさつしてくれたことに、おとうさんは胸をときめかせます。おとうさんが、『もしかして秋子ちゃん、オレに気があるのでは』、などと考えるのも、日本の秋ならではのことなのです。そして、秋子ちゃんがおとうさんに全く気がないというのも、日本の秋ならではのことなのです。
 日本の秋の味覚は、世界に冠たるものがあると思います。日本の秋の味覚の王者は何でしょうか。人それぞれ好みがありますが、わたしは何といっても、さんまこそ日本の秋を代表する味覚だと思ってます。松茸もいいでしょう。柿もおいしいです。秋なすも結構でしょう。しかし、誰が何といっても、私はさんまです。(誰も何ともいってませんが)
 第一、さんまは実にいい姿をしています。『秋刀魚』という字は誰が創り出した当て字か知りませんが、言い得て妙な当て字だと思います。さんまは日本刀のような美しい姿をしています。さらに、さんまは美しく、且つ可愛い目をしています。皆さん、今度さんまに出あ合ったら、よく目を見て下さい。(勿論焼く前にです)。思わずさんまのほっぺたにチュ-をしたくなるような、可愛い目をしています。
 日本の高名な詩人が、『さんまの詩』という詩をよんでいますが、皆さんは次の童謡を聞いたことがありますか。“さんまがすいすいおよいでた。タコのおじさんきいたとさ。さんまのお目々はなぜかわいいの。それはね、それはね、さんまにお目々がなかった時に、天の神さまあわれんで、天の星くずキラキラ降らせ、さんまのお目々に入れたから”。多分、皆さんはこの童謡を聞いたことがないでしょう。当然です。この歌詞は、私がこの原稿を書きながら即興で作った歌詞ですから。(作詞家として世に出れるでしょうか)。
 さて、私たちが住んでいるこのベルギ-の秋はどうでしょうか。ベルギ-の秋は、『天あくまで低く、ム-ル貝肥える秋』、とか、『雲厚く、シコンの白さ冴えわたる秋』といった表現が似合うのではないでしょうか。ベルギ-だって、秋には馬が肥えるのでしょうが、天が低いために、ベルギ-の馬は、秋になっても人々の話題にのせてもらえません。実に不公平な扱いと言うべきでしょう。ですから私は、自分の乗馬クラブの愛馬、サンディクスに向かって、『お前も不憫な馬よ、今度生まれてくる時は、日本に生まれるんだよ』と、なぐさめながら、ブラシをかけてやってます。
 天低く雲厚いベルギ-の秋も、見方によってはまことに結構な季節かと思います。惜しみなく降ってくれる雨のおかげで、ゴルフ場ばかりでなく、公園や家の庭の芝生も青々とした美しい姿を見せてくれます。
 ベルギ-は森の国といってもいいぐらい、いたる所に森や林がありますが、秋になるとこの森や林の表情が毎日微妙に変化して行きます。日本の紅葉になれた目には、やや物足りないかも知れませんが、心静かに木々の表情を観察してみて下さい。実に風情のあるベルギ-の秋が見えてきます。日本の秋のような鮮やかな山野の色の変化はありませんが、やわらかなパステル調の色の変化が森をつつんでいきます。それは、異国での慣れない生活にいら立った異邦人の心を、少しづつ、少しづついやしてくれます。ベルギ-とはそんな国なのです。目立ったことも大げさなこともない国なのに、やんわりと私たちに心を包み込み、いつの間かこの国に愛着をもっている自分に気がつく、そんな国がベルギ-なのです。
 ベルギ-の秋がまたおいしいのです。ム-ル貝もシコンも、そして森の贈り物、ジビエもおいしくなります。キジも野兎もウリ坊主(イノシシの仔)も、やまうずらも、そして子鹿も、かわいそうですが、みんなおいしくなります。私は、ジビエの中ではやまうずらの若鳥が一番好きです。その次が小兎の背肉です。
 しかし、ジビエよりも何よりも好きなのが、秋から冬にかけてますますおいしくなる生ガキです。ベルギ-で食べる生ガキは、ベルギ-産ではありませんが、日本の秋の味覚だって、外国産がハバをきかせていますので許してもらえるでしょう。開けられた殻に横たわる生ガキの姿は、官能的でさえあります。食べてしまいたいほど愛しい恋人と対面している趣きさえあります。レモンを少したらし、胡椒ミ-ルをまわしてちょっぴり胡椒をふり、殻をもって生ガキを口中に迎え入れる時の幸せは、何にたとえられましょうか。東海林さだおさんの漫画ではありませんが、思わず『おがじゃ-ん』と呼びたくなるほどの幸せです。そして生ガキを食べた後、口中に残るカキの香りと共に、適温に冷えたロワ-ルのサンセ-ルか、ピュイ フュメなんかをきゅっとやると、これはもう明日のお天気なんかどうでもいい気分になり、世の中はバラ色、人生は美しく、お隣の奥さんも美しく見えてくるから不思議です。
 ロワ-ルのワインが出ましたが、天低く雲厚いベルギ-の秋は、ワインをおいしく飲む条件を見事に備えています。ワインは太陽を嫌います。ぶどうの時代にひたすら太陽のごきげんをうかがい、太陽の動きに一喜一憂しながら成長してきたせいでしょうか。ワインはワインとして世に出たとたんに、太陽を毛嫌いします。ワインには太陽に対して屈折した思いがあるようです。『何もそこまで嫌わなくても』と、ワインにさとしても、ワインは頑として太陽を寄せつけません。ですから、ワインの中でもいいワインほど、ベルギ-のようなお天気の国で飲んでほしいと思っているのです。弱い光りはワインの色合いの深みをよく見せてくれます。適度な湿り気のある空気はワインの香りと味を、一番いい状態でわれわれの感覚に伝えてくれます。そうなのです。ベルギ-はビ-ル王国であると同時に、ワイン王国でもあるのです。
 日本は昨今、ワインブ-ムだそうですが、ベルギ-に住んでいる私たちが、どんなにおいしくワインを飲んでいるか、友人、知人に知らせてあげたいものです。そして、ム-ル貝やジビエや生ガキ、シコンや森の茸に新じゃがと、おいしいもの目白押しのベルギ-の秋のすばらしさを、日本の親戚一同に知らせようではありませんか。口惜しがらせようではありませんか。『ヤ-イヤ-イ』と言ってやろうではありませんか。おとうさんにも、『秋子ちゃんなんか無視しちゃえ』と、言ってやろうではありませんか。
 などと騒げば騒ぐほど、私の心は故郷の秋に思いを馳せ、遠くにありて思うさんまの味をなつかしむのです。異国に住む日本人の心は、住んでいる国への愛着と、故国への郷愁の間を常にゆれ動くものなのでしょうか。秋は人を物思いに沈ませるようです。

No.44. 垂氷

No.44. 垂氷 



 皆さんの生れ育った場所、或いは地方では、冬、軒先にできる氷の棒を何と呼んでいますか。勿論、南国生れの方々にはピンと来ない話ですので、一応、北国に生れの方々や、積雪のある地方出身の方々にお尋ねしたいと思います。多分、“つらら”と呼ぶ地域が多いのではないでしょうか。
 私の故郷、福島県の田舎では、これを“たれひ”と呼んでいます。どなたかの故郷で、“つらら”を“たれひ”と呼ぶ地方があったら、是非教えて下さい。もっとも、最近の地球の温暖化や、住宅構造の変化で、“つらら”も“たれひ”も見たことのない人が増えているのも事実でしょう。
 “たれひ”には懐しい思い出があります。屋根につもった雪が、日中の気温の上昇でとけ出し、滴となって軒先に落ちてきます。そして、夕方から夜には気温が下って、滴は少しづつ凍っていきます。この繰り返しによって、家の軒先には、いろいろな形の“たれひ”が出来るのです。
 子供の頃、よくこの“たれひ”をしゃぶって遊びました。ただ、冬の始めの頃の“たれひ
”は、屋根の汚れや不純物が、混ってますので、口にしてはいけません。冬の終り、春が近づく頃の“たれひ”は純度が高く、おいしくなります。陽光を浴びてキラキラと輝く“たれひ”は美しく、それが軒下に落ちて“カシャッ”と云う音を出す時、その音は春の到来を告げる音でもありました。
 “たれひ”を標準語では“つらら”と呼ぶという事実を知ったのは、私の住んでいた田舎町に、東京から一人の女の子が転校してきた時でした。都会風のしゃれた洋服を身につけ、東京弁をしゃべる彼女は、たちまち田舎の小学校の女王様になりました。彼女は私たち田舎の子供のしゃべる方言やアクセントを、ことごとく馬鹿にしました。“たれひ”などというのは大間違いで、“つらら”が正しい日本語だと彼女は力説しました。彼女の存在は、田舎の子供たちの、東京弁に対するコンプレックスを助長させました。
 東京出身の方には分からないでしょうが、地方出身者、特に方言やアクセントの強い地方から来た人は、自分のことばに対して大なり小なりコンプレックスを持っているものです。かく云う私も、コンプレックスを持っていたと思います。それを解消させてくれたのが“たれひ”であり、フランス語でした。
 私は高校生の頃、「平家物語」に熱中した時期があります。きっかけは、たまたま家にあった吉川英治の「新平家物語」でした。全部で20数巻あったと思いますが、家の書架にあった全集を私は夢中で読みました。そして、それが高じて、分かりもしないのに古典の「平家物語」を読み始めました。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす」という、韻を踏んだこの出だしの文章が、大好きになりました。この出だしの文章は、日本人の好きな無常感を現す代表的な文章として、よく引用されるのは、皆さんご承知の通りです。
 「平家物語」を読み進み、巻第五.「文覚荒行」の項に至った時、私は次の文章に出会いました。「此(ころ)は十二月十日あまりの事なれば、雪ふりつもり“つららいて”、谷の小河も音もせず、嶺の嵐ふきこほり、瀧のしら糸“垂氷”となり、みな白妙にをしなべて、よも梢もみえわかず」。
 この文章を読んだ時、私は深い感動を覚えました。自分の田舎のことばの中に、古典のことば生きており、ハナたれ小僧の私たちはそれを日常話していたのです。厳密には「つらら」よりも「たれひ」の方が正しかったのです。ただ「平家物語」では垂氷は“たるひ”になってます。
 後年、東京から転校してきた女の子に、この事実をいってやろうと思ったのですが、彼女はその後、すっかり田舎にとけ込んでしまい、福島弁丸出しのおばさんになっていて“たれひ”がどうだ、“つらら”あゝだという議論をしても、全く意味のない存在になっていました。
 次に、私が自分の田舎のことばに自信をもったのは、フランス語を習い始めた時でした。ご承知の通り、フランス語は語尾が上ります。私の田舎のことばも語尾が上るのです。もし私が、フランス語のアクセントを労せずして身につけられたとしたら、それは田舎のことばのお陰なのです。
 先日、ベルギ-福島県人会が開催されましたが、その時の参加メンバ-の1人が、「田舎のことばを聞いていると、フランス語を聞いているみたい」、といいました。鋭い観察というべきでしょう。敢えていわせて頂けば、フランス語を学びたい人は、その準備として、まずわれわれの福島弁を学んだらどうなんでしょうか。「福島弁を学んでフランスへ行こう」、「民謡教室 正調会津磐梯山、相馬野馬追い歌教授(フランス語への近道)」、「喜多方ラ-メンの故郷のことばはパリの空の下で」などといった広告が、もうそろそろ出てもいいのではないかと思っています。
 とはいいながら、正直にいいますと、私は喜多方のアクセントも、相馬のアクセントも知りません。これらの地方へは、一度も行ったことがないのです。この点については、県人会の皆さんに、「神藤は本当に福島県出身なのか」、と疑いの目で見られた程でした。事実、皆さんと話してみて、出身県に対する自分の無知の程を思い知らされました。
 ですから、私の田舎のアクセントをもって、これを福島弁の代表のようにいうのは問題があるかも知れません。県人会の皆さんに叱られるかも知れません。或いは、上記の広告につられて、福島県出身の人にアクセントを習ったけれども、フランス語はちっとも上達しなかった、などという苦情が出るかも知れません。
 そうなると困りますので、僭越ながら、私のアクセント地域を明確にさせて頂きたいと思います。私の生れ育った所は、福島市から北へ12KM程行った「桑折(こおり)」という田舎町です。そこは、松尾芭蕉が「奥の細道」の中で、「短夜(みじかよ)」の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。猶夜の余波(なごり)心すすまず、馬かりて桑折の駅に出(いづ)る」と書いた、かの“有名な”場所なのです。
 芭蕉は前夜、隣町の飯坂に泊り、温泉にも入ってます。しかし、そこで、特病の胆石が起り、それに「蚤蚊に也ゝられて眠らず」で、このまま自分は旅が続けられるのだろうか、というやや落ち込んだ状態で、わが故郷の地を通って行きました。残念なのは、芭蕉が「この地の人のものの言いよう、仏蘭仏国のことばに似たり」と、「奥の細道」に書いてくれなかったことです。(書くわけないですよね)
 日本のように、南北の距離の大きい国では、各地にいろいろな方言やアクセントが発達するのは当然ですが、私たちの住んでいるこの小さなベルギ-にも驚く程沢山の方言やアクセントがあるようです。
 ベルギ-には教会の数だけ方言がある、と云われてます。つまり町や村ごとに方言があるという意味なのでしょう。ハッセルトの人とブル-ジュの人が、それぞれのフラマン語を話したら、お互いに分からないといわれてます。残念ながら、私にはこれを確かめる能力がありません。ただ、中世のフランドルのさる修道院に、新しい院長が赴任してきた時、院長のいうことがよく分からないという、修道士の嘆きが伝えられてますので、方言の問題はいつの時代にもあったと考えていいのでしょう。
 私たち外国人も、ちょっと長く住んでいれば、ブリュッセルの人のフランス語とパリの人のフランス語の云い方やアクセントに違いがあるのが分かってきます。個人的には、ブリュッセルのフランス語の方が、味があって好きです。ただ、このフラマン語の影響を受けた庶民のことば、ブリュッセルの方言は、日本人会の皆さんが住んでおられる山の手の高級住宅地では聞かれません。裁判所の下の方にある“マロル地区”の住民が、正統派のブリュッセル方言を話すといわれてます。
 皆さんは、ナミュ-ルの人たちのフランス語を聞いたことがありますか。ナミュ-ルの人たちは、非常にゆっくり話すので有名なんだそうです。或る日、旅行者がナミュ-ルの駅に降りて、地元の人に道を尋ねました。その地元の人はとても親切な人で、旅行者に道を説明しながら一緒に来てくれました。目的地に着いて、ふと後ろを見ると一匹のかたつむりがついて来たそうです。
 私たちは外国に住んでいるのですから、外国語で苦労するのは、ある程度仕方のないことです。でも、余り大上段にかまえて悩んだり、落ち込んだりする必要はないと思います。英語もフランス語もオランダ語も、いってみれば、バベルの塔以来人類に広まった方言みたいなものですから、のんびり気楽に取り組むのがいいのではないでしょうか。口さえあれば、いつかことばは話せるものです。
 本年も「新ベルギ-物語」ご愛読ありがとうございました。皆さんよいお年をお迎え下さい。