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No.67 希望

No.67. 希望



明けましておめでとうございます。2001年もよろしくお願い致します。
子供の頃は、年の初めに際し、新しい年に向かっての決意、目標などを日記帳に書きつけたものでした。そして、たいていの場合、決意は守られず、目標は達成されませんでした。これは何も子供に限ったことではなく、どこかの国の政治家の皆さんの決意や、内閣の掲げる目標も似たようなものではないでしょうか。
決意とか目標などというものは、それを決めた時、発表した時に役割は終っていると私は思っています。だからこそ、人は機会があると、性懲りもなく新たなる決意をし、新しい目標を掲げるのです。
不肖、私も2000年1月号の本会報に、新年に当たり3つの目標を掲げました。1つは、新薬、大正リアップを使って髪の毛を増やすこと。2つ目は、乗馬のジャンピングで1メートルをクリヤーすること。3つ目は、ゴルフコースをまわる際に、人さまに迷惑をかけずに何とかついて行けるようになること。
結果は、1と3がダメで2が辛うじて目標達成でした。1の目標は私の頭が皮膚がこの薬に対してアレルギー反応を示し、かゆくてかゆくてどうしようもなく、使用をストップせざるを得ませんでした。大正製薬のお客様相談室に問合せましたら、アレルギーの症状が出るのだったら、使用中止が望ましいと言われました。だったら、「アレルギーが出て使用不可能なケースもありますので、最初は少量で御試し下さい」ぐらい書いておけばいいのです。年頭の目標に従って、リアップをまとめ買いしてしまいました。従って私の手元には大正リアップのストックがありますので、使用ご希望の方はおっしゃって下さい。
目標2は、馬がよかったらそんなに難しいことではありません。ジャンプが好きでよく飛ぶ馬でしたら勝手に飛んでくれます。問題なのは、馬を飛びやすい状態にしてバーの前までもって行くこと。そして飛んでいる間にバランスを崩さないで馬上にとどまることです。これがうまく行かないと馬がバー前でピタリと止まり跳躍拒否をします。すると勢いがついてますので、こちらが馬に代わってバーを飛び越えることになります。私も何度かこの経験がありますが、2000年は一度も落馬をしませんでした。少しは進歩しているのかも知れません。
ただ、クラブの仲間はがっかりしています。乗馬クラブの習慣として、落馬した場合、クラブのバーで全員に一杯おごらないといけません。これを〝トゥルネ〟といいますが、私はこのトゥルネを随分やりました。一度などクラブのバーの壁に〝トゥルネを継続する寛大なるサミーに感謝する〟と感謝状を貼られたくらいです。
目標3のゴルフに関しては、一緒にまわった方々に聞いて頂ければ分かりますが、道は遠く、険しいものがあります。ショートコースならまだしも、18ホールなどまわった日にはボール探しと、走りでへとへとになってしまいます。一緒にまわっている人が、「神藤さん、オレ先に行って休んでるから、ゆっくりきていいよ」などと言ってくれると、余計に焦り、ボールはあらぬ方向に飛び、さらに走り、目の焦点も定まらぬ程に披露困憊の状態になってしまうのです。
ひとつだけかすかな希望があるとすれば、それはゴルフを少しだけ面白いと思うようになったことです。以前は見向きもしなかったテレビのゴルフ番組を結構まじめに見るようになりました。新聞、雑誌のゴルフ関連記事にも目が行くようになりました。
「人には向き不向きがあるから」と、私のゴルフの将来性について友人に言われたことがありますが、ゴルフは止めません。何とか人並みにコースがまわれるようになるまで続けるつもりです。馬も10年経ってどうにかモノになりました。ゴルフも10年やればなんとかなるでしょう。
今年の新年の目標は特にありません。ただ希望はあります。身近なところではブリュッセル大学の1年生になった息子が無事進級してくれることです。ご承知の方も多いでしょうが、こちらの大学は高卒の資格があれば、誰でも入れます。しかし出るのが大変です。毎期の試験が入試みたいなものです。余程まじめに勉強しないと卒業までたどりつけません。
ベルギーの大学生は小学校から高校まで、常に落第のリスクを乗り越えてきています。そして入学した大学ではさらに厳しい関門をくぐり抜けなければなりません。息子は小学校で同じ学年を2回やっています。これは落第というより幼稚園の時の友達と一緒になりたいために、一度入った公立小学校を1年でやめて私立の小学校に入り直した為でした。
私は息子が何年かかって大学を卒業しようとちっともかわまないと思っています。私自身、日本の大学とベルギーの大学とで全部で9年間も学生をやっていましたので、息子に大学を4年で終えろなどと、言えた義理ではありません。
息子に毎期の試験をクリアーして進級して欲しい理由はもうひとつあります。それは彼のガールフレンド、アクセルとのことです。アクセルは息子の高校の同級生ですが、彼女はクラスどころか学年でもトップの優等生です。これに反して息子は追試でどうにか毎学年をあがってきた、どちらかというと私似の勉強嫌いです。
この二人は、何故かはたも羨む仲のいい恋人同士なのです。私はアクセルに、「アクセルはどうしてケン(息子)みたいな成績の悪い子と付き合っているの」とちょっと意地の悪い質問をしたことがあります。するとアクセルは「ケンは優しいし、一緒にいるととても楽しいの」と答えました。「じゃ、学校の成績は関係ないの」と私。「ううん、全然関係ないわ」とアクセル。そばで聞いていた息子は「ホラ、聞いた。おとっつぁん。愛は成績じゃないんだよ」と得意になってました。
アクセルもブリュッセル大学に入りました。しかし彼女周囲の期待に肩透かしをわせて歴史学科を選びました。彼女の成績からいって、誰もが医学部か法学部に入ると思っていました。これで息子の人生計画はすっかり狂ってしまいました。息子は、アクセルに医者か弁護士になってもらって、自分はお金の心配をせず、のんびりと彼女と暮らすつもりだったのだそうです。冗談半分とはいいながら、とんでもないことを考えるバカ息子がいたものです。
息子は将来アクセルと暮らすためには自分がしっかりしなければと考えを改め、経済学部を選びました。そして10月から始まった大学の講義にはまじめに通い、かつては考えられなかった程、机に向かっている時間が長くなりました。
親の口から言うのも何ですが、アクセルも息子も本当にいい子なので、このまま仲のいいカップルとしてずっと一緒にいて欲しいと思っています。その為にも、息子に毎期の試験を通って欲しいのです。こういうのは年頭の希望というより、単なる親バカの宣言かも知れません。
もう一つの希望は祖国、日本の再生への希望です。日本の再生を引っぱる優れたリーダーはいつの日か現れるのでしょうか。かつてのあの自信に満ちた日本はどこへ行ってしまったのでしょうか。
リーダー不在とは言いながら、リーダーはその国の国民の資質に合った形でしか出てこないと言われています。ということは、今の永田町の茶番劇は私たちのレベルにぴったりということになります。思いたくないですね。余りにも情けないじゃないですか。
11月末から12月初めにかけて、日本へ行ってきました。〝ガングロ〟が見たかったのですがいませんでした。年齢オーバーで検挙されるかも知れないという知人の警告を無視して、原宿の竹下通りなども歩いたのですが、ガングロもヤマンバも見ることができませんでした。知人によれば、ガングロやヤマンバの主な生息地は渋谷の方なのだそうです。残念ながら時間がなくて行かれませんでした。
日本に行っていつも感じるのは、女性の化粧や服装がみんな似通っていることです。これは男性にも言えることで、スーツ、シャツ、ネクタイの色が制服のように画一的でした。どうして、あんなに同じ恰好をしないといけないのでしょうかね。日本という国全体が村落共同体的正確を色濃く持っている国なので、そこに住んでいる人々も画一的装いをすることによって、村落共同体への帰属意識に安住できるのでしょうか。
ひとつ感心するのは、どこへ行っても若い人たちが元気に働いていることです。新幹線のお弁当売りのお嬢さん、薬の安売り店で声を張り上げて御客を呼び込んでいるお兄さん、てきぱきと注文を取り、料理を運ぶ飲み屋のおネエさん、ていねいに頭を下げてから、乗車券をチェックして行く若い車掌さん等々。見ていて本当に気持ちがいいです。
日本人には絶対に似合わないと言って、私が目の敵にしている金髪のお兄さんにとても親切にしてもらいました。私みたいな田舎者が東京のような大都会に行くと、戸惑うことが沢山あります。簡単な話、地下鉄の切符を買うことさえ大変な思いをします。まして、日本式の住所番号を手掛かりにして、目的地に辿り着くことは至難の業です。ベルギーだったら、通りの名前と家の番号が分かれば、何の苦労もせずに目的地に着けるのに、日本の住所表示はどうしてこんなに分かり難いのだろうと、いつも腹が立ちます。
今回も何度も迷いました。何度も道を聞きました。親切な人も、不親切な人もいました。道を聞いた人の中で、一番親切だったのが、何と私の天敵、金髪のお兄さんだったのです。例によって道に迷い、誰かに尋ねようと思っていたところに、金髪のお兄さんが通りかかりました。どうせきちんと教えてはくれないだろうという偏見をもって、彼に道を尋ねました。どころが何と、この金髪のお兄さんが非常に親切に、しかもきちんとした言葉使いで道を教えてくれました。さらに、彼は自分の行く方向ですからと言って、私が行くべき道のある交差点の所まで一緒に来てくれたのです。
私は彼に感謝すると共に、反省しました。自分の愚かな先入観を恥じました。親からもらった黒髪を、西洋人の真似をして金髪に染めるような奴にまともな人間はいないと、勝手に思い込んでいたのです。この青年はきわめて、まともな人間でした。
昔トルコのイスタンブールで、似たような経験をしたことがあります。イスタンブールの街を歩いていて道が分からなくなり、困ってうろうろしていた時、角の八百屋のお兄さんが寄ってきて一生懸命道を教えてくれました。しかし、お互いに言葉が分からないのでうまくいきません。私は悪い先入観から彼を警戒して自分で行こうとしました。すると彼は私の後をついてきて道を教えようとするのです。ついに彼は、身振り手振りで道を教えながら、私の行きたい所まで案内してくれました。
さすがに私も、彼が純粋な好意から私に道を教えようとしたことが分かりました。八百屋の店番をほったらかしにして、私についてきてくれた彼にチップを渡そうとしましたが、彼は受け取らずに行ってしまいました。この時も私は自分を恥ずかしく思いました。
外見で人を判断することがよくないことは、頭では分かっています。でもついやってしまいます。今の日本も外見はよくないですが、中身はまだまだしっかりとしているのではないでしょうか。よく働く若者たちや、私に道を教えてくれた金髪のお兄さんを見てても、祖国日本に希望を持つことは間違っていないと思いますが、どうでしょうか。
「死に至る病いは希望をもたないこと」とキルケゴールさんも言っています。21世紀始まりの年を希望の年にしたいと私は思ってます。

No.68.ギーの枝の下で

No.68.ギーの枝の下で



皆さんは新世紀の幕開けを、どのようにして迎えられましたか。
家族と一緒に、ベルギーの家でゆっくりと新年を迎えた方、里帰りをして、日本の年末、年始の雰囲気を味わって来た方、日本から訪ねてきてくれた子供さん、又は親ごさんと久しぶりに家族の一体感を肌身に感じながら、ベルギーのお正月を祝った方、旅行に行って、違った文化圏で2001年の朝を迎えた方、それぞれのやり方で新しい世紀を迎えられたことでしょうか。
 新世紀、新世紀と騒ぐのは無意味なこと、昨日から今日になっただけの話しではないか、と言わればそれはそうです。でも人間は、歴史を刻み始めたときから、時間の流れに抗するように、いつも区切りや節目を大事にしてきました。
 身近な例を挙げれば、誕生日です。赤ん坊の時からこの年まで、何度誕生日を祝ってきたことでしょうか。子供や、配偶者の誕生日は忘れても、自分の誕生日は意外と忘れないものです。
 誰かが誰かを好きになると、必ずお互いの誕生日を知らせ会います。そしてその日を、自分たちの恋の成就の特別な日として意識します。何故なら、二人がこの世に生を受けたことが、二人に出会いの出発点になったからです。
 日本もそうですが、国家元首の誕生日が国の祝日になっている国があります。でも、会社の場合はどうなんでしょうか。社長の誕生日を休日にしている会社などありますか。
いくら創業者のワンマン社長でも、そこまでやる人はいないとおもいますが、もしそういう社長さんいたら教えてください。顔が見たいですので。
 誕生日、出会いの記念日、結婚記念日、それに結婚年数に応じて名前が変わる銀婚式とか金婚式など、とにかく人は人生の節目が好きなのです。日本には、サラダ記念日まであるというではありませんか。
 何故、人は時間に区切りをつけたがるのでしょうか。それは、時間の恐ろしさを本能的に知っているからです。時間は全てを風化する恐ろしい力を持ってます。どんなに強固な愛も、強い絆も時間の前には無力です。キリスト教の結婚式で、神父さんや牧師さんがモ死が二人を分かつまで.......モという言葉を使いますが、これは時間の恐ろしさを端的に表現している言葉だとおもいます。
 誕生日や何とか記念日とは別に、その人にだけ意味のある個人的な記念日があります。ゴルフでホールインワンをした日なんていいですね。課長昇進の内示を受けた日なんて記念日になりますか。ベルギー転勤の内示を受けた日はどうですか。アホな上司の頭をぶん殴って会社を辞めた日に、3億円のジャンボ宝くじが当たったなんて、最高の個人的記念日ではないでしょうか。
 子供のころ、隣のタエちゃんがほっぺたにチューしてくれた日とか、ライバルの武と喧嘩をして初めて勝った日とか、学校出たての若い女先生、池田先生の下宿に遊びに行った日とか、いろいろありますよね。
 大晦日とお正月は日付が一日変わるだけですが、そこはやっぱり時間の大きな区切りとして、人は特別な意味を見ようとします。各国の人たちはそれぞれの伝統にしたがってこの日を祝います。又、特別な料理を作ります。
 皆さんは、大晦日とかお正月にどんなご馳走を食べましたか。その前にクリスマスがありましたが、ヨーロッパ風にクリスマスディナーを家族で取りましたか。或いは、旅行先でその地方独特の料理を賞味してきませんでしたか。
 ベルギーの人たちは、クリスマスよ大晦日にどんな料理を作るのでしょうか。クリスマスに七面鳥はヨーロッパの伝統ではありませんが、それでも、七面鳥の腹に詰め物をして焼き上げたモDinde Farcieモを作る家庭はそこそこあるようです。
 クリスマス、大晦日を問わずベルギーの人たち食卓を飾るご馳走としては、フォアグラ、スモークドサーモン、 オマール、生ガキ、鴨、ジビエなどが定番になっているようです。
他に、フォンデュ ブルギニオン(ミート フォンデュ)を用意する家庭も増えています。
これは、同じ鍋をつつく親近感が好まれるのと、用意に手間がかからない点も、主婦の皆さんに喜ばれるようです。
 日本のご馳走は何でしょうか。クリスマスは、大多数の日本人にとって借り物のお祝いなので特別な料理はないでしょう。しかし、日本のお正月はヨーロッパよりお祝いの意味合いが強いので、各地方はもとより各家庭にもそれぞれの料理があるかと思います。
 私は日本のお正月を長いこと味わっていませんのでわからないのですが、今でも各家庭でおせち料理を用意するのでしょうか。或いは、おせち料理を家できちんと作る家庭がいまでもあるのでしょうか。あんな面倒なものを一つ一つ作るのは、気が遠くなるほど大変なことでしょう。
 かまぼこの自家製は無理ですよね。数の子も買ってくるとして、煮物は何とか家でできますか。煮物の中でも、ごぼう、にんじん、竹の子、こんにゃく、さといも、れんこん、ふき、しいたけ、ぐらいまでなら何とかなりっそうな気がします。
 これが、黒豆や昆布巻きになるとちょっと面倒になり、ハゼの甘露煮あたりになるともうアウトで、スーパーで買ってきたほうがいいという感じになりますが、どうですか。
それにしても、日本料理というものは手間のかかる料理ですね。
 伝統的な習慣が少しづつ姿を消していくのは、先進工業国に共通して見られる現象です。皆さんの家庭でも、おじいさんの時代にはやっていたことが、いまはやらなくなっている、そんな事例はありませんか。
 私の子供時代のお正月の思い出としてよく思い出すのは、わが家の神棚に供えられたお神酒のことです。元旦の朝、父は神棚にお灯明をともし、盃に注いだお神酒を供え、拍手を打って何事かを祈念していました。
 どういう理由だったのか忘れましたが、小学生のころから、家族の中で唯一私だけがこのお神酒を頂く権利を認められていました。それがとても楽しみでした。小さな盃一杯のお神酒でしたが、子供のことなので、飲んだ後ほろりとしたいい気分になるのです。
 父のお祈りが終わるのを待って、神棚からお神酒の盃を取りおろし、最初はチビチビと舐め、最後にキュッとやるお酒の味は、子供心にも結構なものと感じ入ったものでした。モ栴檀は双葉より芳しモとはよく言ったものです。
 お正月空けにベルギーのテレビを見てましたら、ブリュッセルの花やさんが、年末に売るギー(Gui:やどり木)の枝の売上が年ごとに減ってきていると、嘆いていました。
これは、年末にギーの枝を家の居間に吊るす家庭が減っている証拠なのでしょう。
 大晦日の日に、こちらの家庭のディナーや、友人のパーティーに呼ばれた方は、居間やパーティー会場の天井から吊り下がっているやどり木の枝を見ませんでしたか。
年末に、やどり木の枝を一束にして天井から吊るすのは、ベルギーだけではなく、ドイツ、フランス、などにも見られる習慣です。
 12月31日の夜、時計が12時00の時を告げると、その場にいる人たち全員がギーの枝の下に集まり、新年の挨拶を交わします。私はこれが好きなのです。
何故なら、この時ばかりは初めて会った女性からも頬にキスをしてもらえますし、こちらも相手にキスを返すことができるからです。
 私はこう見えても、ほっぺたのキスの場数は相当踏んでいますので、自分ではかなり上手にできると思っています。最初のころは慣れてないし、恥ずかしいのでこちらの頬を相手につきだすだけで、相手の女性から一方的にキスをしてもらう
感じでした。それが何と今では、相手の頬にチュッと音をさせてキスができるようになりました。人間、何事も努力次第ということでしょうか。
 親しくなると、男同志でも頬にキスをして新年の挨拶を交わしますが、私は余り好きではありません。ヒゲの濃い男性は、夜中の12時ごろになると一度剃ったヒゲが又伸びてきてますので、タワシでほっぺたがこすられるみたいで、言い気持ち
がしません。出来ることなら、可愛いマドモワゼルか女性の魅力あふれるマダムとだけ挨拶を交わしたいものです。
 何故、やどり木の枝の下で新年の挨拶を交わすのでしょうか。ベルギーの人たちに聞いても、魔よけのためとか、幸せを呼ぶからといった答えしか返ってきません。
ところが、たまたま読んでいたモ中世の森の中でモ(堀米庸三編)という本の中に答えを見つけました。
 同書によれば、やどり木を尊ぶ伝統は古代ケルト人の伝統からきているのだそうです。冬、葉の落ちたナラの木に、緑の丸い塊のやどり木が姿を現すと、ケルト人たちはそれを、天からの贈り物、霊魂不滅の象徴、或いは神々の住まい給うところと考えたのだそうです。そしてケルト人たちは、やどり木のついたナラの木を聖なる木としてあがめました。
 ギーの枝の下で新年の挨拶を交わすこの国の人たちは、紀元前5世紀頃に栄えた古代ケルト人の伝統をまもっているわけです。そして、ギーの枝の売上が落ちたといって嘆いている花屋のおじさんは、このケルト人の末裔に当たるのかも知れません。
 皆さんが何かの機会に、ベルギーの田舎道を通ることがあったら、注意して周りの木々をみてください。きっとギーが見つかります。暗い冬空に葉を落として立つ木の枝、常緑の丸いやどり木を見ながら、古代ケルト人の世界に思いを
馳せることができるとしたら、それは冬のベルギーに住む私たちの特権なのです。木の枝を渡る風の音の中に、古代ケルト人の司祭、ドルイドの祈りの声を聞いてみてください。
 これは古代ケルト人の伝統だはないのですが、ベルギーのリエージュ地方では、1月1日にある料理を食べると、その年は金運に恵まれるという言い伝えがあります。その料理とは何でしょうか。それは、シュクルト(ソーセージや豚の脛肉をキャベツの酢漬けと一緒に食べる料理)です。シュクルトはドイツのザウアークラウトのことですから、金運の言い伝えもドイツから入ってきたのでしょう。
 私はこの言い伝えを、年末にラジオで聞きました。そこで、今年の1月1日にわざわざレストランに言って、シュクルトを食べてきました。従って、今年は私のところに大金が次から次へと舞い込んでくるはずです。ロットもジョッケーも大当たりして、少なく見積もっても一億フランぐらいは入ってくるでしょう。
 その時は、日頃お世話になっている日本人会の皆さんへの感謝のしるしとして、12月31日にブリュッセルの一流ホテルかコンセールノーブルあたりで大パーティーをやるつもりです。皆さん、是非いらっしゃってください。
勿論、会場にはギーの枝を沢山吊るしますので。                               

No.69.G派とD派

No.69.G派とD派



 私は女性にもてます。もて過ぎて疲れます。できれば、女性のいない国へ行きたいとさえ思っています。
 思えば、私は赤ん坊の時から女性にもてたそうです。母が赤ん坊の私を抱いて外に出ると、近所のおネエさんや若いお母さんたちが寄ってきて、“まあ、イサムちゃん可愛い。抱っこさせてー”といって、私を奪い合ったそうです。
 小学校に入ってからも、遊び友達は隣の恵子ちゃんや、豆腐屋のさっちゃんなど、いつも女の子に囲まれていました。そして少年の私は、時々かがみを見て、“何故、ボクだけが美しい”と、ため息をついたものでした。もっとも、学校の通信簿を見ても、よくため息をついていました。
 ベルギーでも、私はもてて困ってます。私が通ると、女性の方から声をかけてくるのです。女性が、こんなに軽々しく男に声をかけていいのでしょうか。しかも、白昼、沢山の人がいる所でですよ。
 いくら私が女性にもてるとはいいながら、余りに露骨な接近には、こちらも気後れを感じてしまいます。そんな時私は、目を伏せて急いでその女性の横を通り過ぎるようにしています。警察は何をしているのでしょうか。
 私に声をかける女性にやや問題があるとすれば、彼女たちの女性をやってる年限がちょっと長めである点です。それをカバーするためかどうか、彼女たちは私に物を提供しながら迫ってくるのです。
 色気でなびかないなら、物でという作戦でしょうか。これでは、ホストクラブの男に入れ揚げるオバさんと一緒じゃありませんか。恐ろしい世の中になったものです。
 そうなのです。私がもてて仕方のない女性というのは、スーパーの試食品担当のオバさんたちなのです。
 私は、この試食品のオバさんが苦手です。何故、苦手かといいますと、自分は人並はずれて気が弱いからです。ですから、スーパーではなるべく試食品のオバさんに会わないようにしています。
 売り場を回ってて、運悪く試食品のオバさんに出くわし、目が合ったりするともう駄目です。危険と分かっていながら、ふらふらとオバさんの方に吸い寄せられていくのです。そして、オバさんがにこやかに差し出す試食品に手を出してしまいます。
 食べた後、そんなにおいしくなくても、“うん、これおいしいですね。一つもらいます”と、弱々しい微笑みを浮かべながら、オバさんの横に山と積んである商品の一つをカートにいれます。というより、商品をカートに入れざるをえないのです。
 人様にものをご馳走になりながら、その人が買って欲しいと望んでいる商品を無視して、その場を離れることがどうしてもできません。見ていると、食べるだけ食べて、すっと行ってしまう人の方が多いんですけどね。
 試食品に手をだし、いらない物を買って帰ったあと、私は深い自己嫌悪に陥ります。
もう二度と手をださないと、あれほど誓ったのに、又やってしまった。今後は試食品に手を出すことなく、立派な社会人になりますと、あれほど更正を誓ったのに、二ヶ月も経たない内に転落への道を選んでしまった。保護司の吉田さんに顔向けができない。私は、天を仰ぎ地に伏して悔恨の涙にくれるのです。そして、やっぱり女性にはもてたくないと、しみじみ思うのです。
 でも、気が弱いのは自分だけじゃないことがわかると、ほっとします。それは、試食品の商品をオバさんの前で一度カートにいれながら、オバさんから離れた売り場にその商品を置いていく人がいるからです。
 これはやめた方がいいとおもいます。おばさんを騙すことにことになります。でもその人は、案外心の優しい人なのかもしれません。オバさんを励まそうと思って、商品をカートに入れたのかもしれません。スーパーに行くと、人間の勉強になります。
 試食品のオバさんの誘惑を振り切ってレジにたどり着いたとしても、そこには又、厳しい試練の時が待っています。
 スーパーのレジでは激しい心理戦争が展開されます。考えてみれば、スーパーのレジぐらい人のプライバシーを無視した場所はありません。あそこは、自分の生活を衆人環視の中に曝け出さざるを得ない場所です。
 カートに入れた商品を、一つ一つレジのベルトに載せることにとって、その場に居合わせた全てに人、自分の生々しい生活の一端を見せることになります。特に、レジの列で前後になった二人は、無言の戦いを強いられるのです。
 “何だ、こんな安い肉ばっかり買って。暮らし向き悪いんだな、この東洋人”
 “豚肉のスピリングは安いけど、カレーに入れるとうまいんだかんな。ナメんなよ”
 “ワインもプロモーションの売り場にあったやつだな。暮らし向き悪いんだな、この東洋人“
 “このワインはChateau Margotの隣のChateauのものなの。
  畑が地続きだから面白いワインなの。知らないだろう。ナメんなよ“
 “人参をあんなに買ってどうするんだろう。人参ばっかり食って、暮らし向き悪いんだな、この東洋人“
 “この人参は乗馬クラブの馬にあげるの。オレも食うけどな。ナメんなよ”
 “あれ、結構高い肉もでてきたな。暮らし向きいいのかな、この東洋人”
 “子羊のヒレ肉だぞ。高いんだぞ。お前買えるか。ナメんなよ”
 “ビールもLeffe Blondeなんか買って、意外と暮らし向きいいのかな、この東洋人“
 “Leffe Blondeどころか、もっと高いLeffe Radieuseだって飲んでんだかんな。ナメんなよ”
 “デオドランなんか買って、この匂いで女性にもてようとしてるのかしら、この東洋人“
 “これは息子に頼まれて買うの。こんなのつけなくたって、オレ女性にもてんだかんね。今だって、試食のオバさんにもててきたばっかりなんだから。ナメんなよ“
 レジで始まった心理戦争は、スーパーのパーキングで再燃することがあります。レジの列で前後関係にあった二人が、たまたまパーキングで一緒になったとします。ここで二人は、お互いに相手の車に鋭い一瞥を投げかけます。
 “ああこの東洋人、日本人なんだ。車にアミュレット(御守り)を付けてるのは日本人が多いらしいから。それにしても小さな車だな。やっぱり暮らし向き悪いのかな、この日本人“
 “小さい車で悪かったな。でもベルギー王室のアストリッド王女さまもこれと同じタイプの車に乗ってらっしゃるんだ。ナメんなよ“  
 ところで、みなさんの行きつけのスーパーはどこですか。当地の在留邦人の間に、スーパーに関する二大派閥があるのを、ご存知ですか。かの有名なG派とD派です。
 G派は言わずと知れたGB派であり、D派はDelhaize派のことです。両派閥の力関係は、現在のところ店舗の数などからいってG派が優位にたってます。
 これ以外に,中間派としてC派(Woluwe St LambertのCora、或いは量販店Colruyt)、M派(Woluweのショッピング センターにあるMatch)、N派(Nopri)などがあります。中間派は数の上からいっても、弱小派閥の観はまぬがれません。
 別途、特別に暮らし向きのいい人たちは、密かにR派を結成しています。R派は数は少ないのですが、G派やD派にたいしても隠然たる勢力をもっていると聞いてます。
政局が緊迫するたびに暗躍するのが、R派だといわれてます。
 R派とは、Woluwe St Pierreにある高級スーパーRobのことです。値段は高いのですが、ものはいいらしいです。特に、生鮮食料品がいいそうです。
 ベルギーの在留邦人が、スーパーの二大派閥、G派とD派に分かれて激しい勢力争いを繰り広げているのは、周知の事実です。居住地域によって各派の勢力範囲がはっきりしている所もあります。
 日本人学校のあるAuderghem地区はMaxi GBが圧倒的な力をもっており、G派の牙城になっています。在留邦人の中には、ベルギーのスーパーはMaxi GBしかないと思っている人さえいるそうですから、G派の力恐るべしです。
 一方,同じく在留邦人の多いWoluwe St Lambert地区もかつてはG派の勢力範囲でしたが、同地区のRoodbeekにDelhaizeが開店して以来、D派が勢力を拡大しつつあります。
 二大派閥間の勢力争いが、思いがけない形で表面化する事があります。これが、あの有名な“日本女性、Avenue Louise乱闘事件”なのです。
 G派の仲良しグループの奥さん3人と、D派の仲良しグループの奥さん3人がブチック街のAvenue Loiseでばったり出会いました。お互いに顔見知りなので、当たり障りのない世間話をしてましたが、話がスーパーの話になってしまいました。
 G派“MaxiGBのワイン売り場はとても充実してるって、タクが申してますわ”
 D派“あら奥様、ワインは何といってもDelhaizeですのよ。Delhaizeの創業者はフランスのワイン屋さんだってご存知ありませんの”
 G派“創業者はどうでも、GBのワイン売り場は品揃えが豊富だと、タクが申してますわ“
 D派“ワインを知らない方はこれだからこまりますわ。数が多ければいいってもんじゃございませんでしょう“
 G派“でも、GBには安くておいしいワインが多いって、タクがもうしてますわ”
 D派“お気の毒ですわ。ご主人、安ワインしかお飲みになってないのね、きっと”
 G派“失礼な!タクはワインが趣味ですから、高いワインだって飲んでますわ”
 D派“どうかしら。GBでワインを買ってる方が、ワインが趣味だなんておっしゃらない方がよろしいですわ。こちらの方に笑われますわよ“
 G派“まあ口惜しい!それじゃ何ですの。奥様のそのバッグ、シャネルのマークが入ってますけど、Delhaizeででもお買いになったニセ物じゃございませんの“
 D派“おっしゃいましたわね!Delhaizeでシャネルを売ってるわけがないでしょう。口惜しいー!“
 ここで、G派、D派6人の女性が入り乱れての大乱闘。パトカーが出動し、救急車のサイレンが鳴り響き、Avenue Louise一帯は騒然たる雰囲気。結果、2名が打撲傷、3名が引っ掻き傷で、St Luc病院で手当てをうけました。
 この事件は、ベルギーのマスコミでも広く取り上げられ、又、社会的関心も呼びました。ブリュッセル大学社会学研究所はこの事件をテーマに、“在留外国人のベルギー社会への適応”というセミナーを開催しました。
 以上ですが、皆さんは上記、乱闘事件を信じますか?私は信じませんが。

No.70. 恥

No.70. 恥



日本文化は恥の文化と言われてます。これは、日本人自身が言ってるのか、外国の日本文化研究者が名づけたのか、多分後者でしょう。外の人に見てもらわないと、自分たちがどんな文化の中で生活してるかなんて、なかなか分からないものです。
 恥を知る,恥を雪ぐ、恥の上塗り、赤っ恥をかく、恥も外聞もない、旅の恥はかきすて、家門の恥、末代までの恥等など、日本語には恥に関係のある言葉が沢山あります。民族の関心事を最もよく反映するのが民族の言葉ですから、わたしたち日本人は恥に強い関心を持っている民族なのでしょう。
 でも、昨今の日本を見てると、日本文化は恥の文化などと今でも言えるのかと、疑問に思えてなりません。手っ取り早い例を挙げるなら、日本の政治家の皆さんです。全員とは言いませんが、日本の政治家の皆さんの中には、生まれてこの方、恥と言う言葉を見たことも聞いたことも無い人が、かなりいるような気がします。
 この人たちは、小中学校の漢字の書き取りで、恥と言う漢字は飛ばして、厚顔無恥という漢字を一生懸命覚えてきたのかもしれません。ですから、恥を知れと言われても、知りようがないのです。
 一方,日本語には含羞と言う美しい言葉があります。外国語に訳すのが難しい言葉です。しかし,この含羞と言う言葉も、日本の社会では存在意義を失いつつあるような気がします
。原因は日本の社会と言うか、わたしたち日本人の生活様式が欧米化した結果なのでしょうか。
 皆さんも気づいておられるように、こちらの人は道を歩きながらモノを食べることに、
何の抵抗もありません。人の前でラッパのような音を響かせて鼻をかむことも平気です。街角で抱き合ってキスをしている二人の姿も、街の風景に溶け込んでいます。
 これと同じ事を、日本の若い人たちもやるようになっています。ただ、人まえで鼻をかむのは余り目立ちません。目立たないのは、日本人の鼻の構造上ラッパのような音が出ないためかもしれません。
 日本人の鼻と言えば、16世紀後半に日本で布教し、日本人並びに日本の社会について詳しい記録を残したイエズス会の宣教師、ルイス.フロイスが次のように書いてます。
 “われわれの鼻は高く、あるものは鷲鼻である。彼らのは低く、鼻孔が小さい”
 “われわれは拇指または食指(ひとさしゆび)で鼻孔を綺麗にする。彼らは鼻孔が小さ
  いために、小指を用いておこなう“ (岩波文庫:ヨーロッパの文化と日本文化)
 拇指が入るぐらい鼻の穴が大きかったら、あのラッパのような音が出るのもうなずけます。それに反して、小指しか入らない鼻の穴ではチーン程度の音しか出なくても仕方が無いですよね。
 前回日本へ行った時、都内のさる喫茶店の片隅で、若い二人がかなり熱烈なキスををしているのを見ました。それを見て思ったのですが、日本の若い人たちはどうしてあんなにキスが下手なのでしょうか。
 その時も、キスに夢中の若者に“あんた、ちょっと代わりなさい。オジさんがキスの仕方を教えてあげるから”と言いたくなりましたが、さすがに自制しました。日本の若い人たち(若くなくてもいいのですが)も、早く街の風景に溶け込むような美しいキスの仕方を習得して欲しいものです。
 美しいキスというのは、電車の中や、喫茶店でこれ見よがしにするキスではなく、二人の感情にマッチした風景の中で、含羞を秘めながらするキスのことなのです。皆さんも、ヨーロッパ滞在中に、是非この美しいキスの仕方を身につけてください。
 ところで、最近日本で賛否両論のある電車の中での化粧について、皆さんはどう思いますか。一方,皆さんの住んでいる都市で、あるいは、ヨーロッパを旅行していて、電車の中で化粧をしている女性を見たことがありますか。
 私は、今だかってベルギーでもヨーロッパでも、電車の中で本格的な化粧をしている女性を見たことがありません。ただ、軽く化粧を直している女性は見たことがあります。たまに見るのは、朝の通勤の車で信号待ちや、渋滞で動かない車の中で、髪をとかしたり口紅を塗ったりしている女性です。あとは、携帯のヒゲ剃りでヒゲを剃っている男性も見たことがあります。
 車は運転する人の固有の空間ですから、そこで化粧しようとヒゲを剃ろうと、他人がとやかく言うことはないでしょう。しかし、如何に車が固有の空間とはいいながら、そこで何をやってもいいかと言うと、これはこれで問題があるのです。
 ベルギーのさる新聞に、ベルギー国家警察(今はベルギーの警察制度改革で連邦警察になりました)のハイウェーパトロールのレポートが出たことがあります。そして、レポートの中に、まさかと思うような記事がありました。それは、ハイウェーのパーキングに関するレポートでした。パーキングと言っても、ガソリンスタンドやレストランがあるドライブインではなく、純粋に車だけだけ停めるパーキングについてでした。
 国家警察の報告によれば、ハイウェーのパーキングに車を停めて、昼日中から愛を語らうカップルがいるのだそうです。しかも、カップルには好みのパーキングがあるらしく、何号線のどこそこの辺のパトロールを強化すると、報告は述べてました。私はパトロール強化地区がどの辺か想像がつくので、行ってみたい気持ちが無いこともないのですが、それでは余りに不謹慎、恥を知れと叱られれそうなのでいってません。
 警察の対応としては、一応公共の良俗に反する行為なので、カップルにその場を立ち去るように指導するとのことでした。いかに車内が個人の空間とはいえ、パーキングは公共の場所なので、これを放置するわけには行かないのだそうです。でも、指導する警察官も大変なことは大変ですよね。
 話しを車内の化粧に戻しますが、私は個人的には、女性が電車の中で化粧することについて、別に何とも思いません。勿論、混み合ってる電車の中で化粧されるのは周りが迷惑です。口紅その他の化粧品で服やシャツを汚されたらたまりません。
 空間に余裕のある車内で、一心不乱に化粧をしている女性の姿を、一度でいいから見たいと思ってます。そして、その女性の生活や人生について考えてみたいのです。 

 “あなた、家で化粧する時間なかったの?”
 “うん、夕べ残業で帰りが遅かったから、今朝はご飯も食べないで飛び出してきたの”
 “仕事忙しいんだね。会社は景気がいいんだ”
 “違うのよ。リストラで人減らししたから、私たちの仕事が増えただけ”
 “恋人いるの?”
 “いるけど、最近うまく行ってない”
 “どうして?”
  “彼が転勤で九州へ行っちゃってからどうもね”
 “遠距離恋愛はダメなの?”
 “男と女って、近くにいないとダメだって最近つくづく思うわ”
 “恋人の前でもそうやって化粧してたの?”
 “うん、時々ね”
 “彼、何も言わなかった?”
 “別に言わなかったわ。それに彼、私のすっぴん何度も見てるしね”
 “その口紅、今日の洋服の色とバッティングするみたいだけどいいの?”
 “うん、私もどうかなと思ったんだけど、オジさんもそう思う?オジさん、見かけによ 
  らずおしゃれに興味があるのね“
 “おしゃれだけじゃなくて、綺麗なものに興味があるね”
 “じゃー、私のこと綺麗だと思う?”
 “それは化粧が終わってから話そうよ”

 こうして、私のヴァーチャルな会話は果てしなく続いていくのです。しかし不幸にして、私はこれまで一度も電車の中で化粧する女性に出会ったことがありません。JR,私鉄を含めて、車内化粧に出会う確立の高い電車があったら教えてください。
 漢字の国、中国も恥を重んじる国ときいてます。以下の話しは又聞きですので、真偽の程はわかりません。中国に在勤したことのある方がおられましたら、教えてください。
 市場経済導入後の中国には、西側と変わらない現象が見られるようになったそうです。その一つとして、人類最古の職業に従事する女性の出現があげられます。公安の目が厳しいと言われる中国で、どうしてそれが可能なのか分かりませんが、とにかく存在するそうです。
 しかし、この職業の女性との文化交流の場を公安に押さえられると、ことは面倒になるそうです。一番困るのは、パスポートに大きな“恥”と言う漢字のスタンプが押されることだそうです。一度押されると、次のパスポート書き替えの時まで、この“恥”と一緒に旅行しなければなりません。成田や関空のパスポートコントロールの係官の前で、身の縮む程恥ずかしい思いをすることになります。
 一度“恥”のスタンプを押されたのに、性懲りも無く二度目の現場を押さえられますと、
今度は前回の漢字より一回り大きい“恥”のスタンプを同じ場所に押されるそうです。中国ではこれを称して、恥の上塗りと言うとか。本当ですかね?
 さて、私も恥多き人生を歩んでおりますが、最近、恥多き人生の極め付きとも言える行為をしてしまいました。ことの起こりは、私の落馬にあります。ここ一年以上、落馬の経験をしてなかったので、油断があったみたいで、見事に落ちてしまいました。
 馬体の大きな馬だったので、落ちた時はかなりの衝撃がありました。そして、右の尻から腿にかけて強い痛みを感じました。レッスンの後、クラブのバーで仲間が心配をしてくれました。そして仲間の一人、ニコルが“サミー、私、打ち身に効くいい薬持ってるわよ。
塗ってあげましょうか“と言ってくれました。
 私は早く痛みを和らげたかったし、治療は早い程いいので、その薬をニコルからもらって、自分で塗ることを考えました。それを彼女に言うと、ニコルは“ダメよサミー、打ち身の薬は全体にしっかり塗らないと効かないのよ。特に最初が大事なんだから。さあ、いらっしゃい”と、私の腕を引っ張ります。
 人が沢山いるクラブのバーでは何なので、お手洗いに行くことにしました。すると、そばに居たマルティンヌが“私も手伝ってあげるわ“と言って、お手洗いについてきました。
私は女性二人に囲まれ、屠所に引かれる子羊のように、お手洗いに連れて行かれました。
 いくら何でも、女性二人に自分の尻を見せることにはかなり抵抗があったのですが、ここまで来たらもう観念するしかありません。私は乗馬ズボンその他を下ろして、二人に尻を向けました。二人は、“日本人のお尻を見るのは初めてだわ”とか何とか言いながら、それでも薬をしっかりと塗ってくれました。そして二人はとても楽しそうでした。
 このことがあってから、クラブでは“日本人のお尻はとてもかわいい”と言う評判が立ちました。イタリア系美人のリリアなどは、私の顔さえみると“サミー,今度落ちたら私が薬を塗ってあげるからね”とからかってきます。私は,“誰がお前なんかに塗らせるか”と
、毒づいてやります。
 それにしても、“かわいい”と言われたのがお尻でよかったと思ってます。これが、お尻の反対側にある部分について“かわいい”などと言われたとしたら、日本人男性全体の名誉にかかわる問題となり、私は、ベルギーの日本人社会で生きて行かれなくなったことでしょう。考えるだに、恐ろしくも又恥ずかしい話しです。

No.71.ブランド

No.71.ブランド



 皆さんはブランド品をお持ちですか。今時、たいていの人の持ち物の中に、ブランド品の一つや二つは混じっているのではないでしょうか。自分から求めて買ったものではなくとも、よく見たらブランド品だったということもあります。
 ブランドって何でしょうか。ブランドの意味を調べようと思って、三省堂の新明解国語辞典をみましたら、こう書いてありました。
 “ブランド=昔罪人に押した焼印。有名デザイナーの制作品や銘柄”
 ブランドの語源が、恐ろしい焼き印だったとは知りませんでした。日本でも、江戸時代の刑罰として、島送りの罪人の腕に刺青を入れた例があります。焼き印や刺青によって、罪人を一般人と区別するのが目的だったのでしょう。
 私達が現在使っているブランドという言葉には、もともと区別するという意味があったことがわかりました。ということは、ブランド品とは一般の商品とは違ったもの、区別されたものと考えていいと思います。したがって、人はブランド品を身に着けることによって、他人との違いを味わい、他人との差を感じて、ある種の優越感にひたれるわけです。
 しかし、現在世界中でもてはやされているブランド品も、昔から有名だったわけではなく、創業の頃は街の靴屋さんだったり、洋裁店だったりした例が珍しくありません。今をときめくシャネルもご先祖様は馬具屋さんでした。シャネルは今でも馬具を作って、バッグや他のシャネル商品と一緒にお店に出しているのを、皆さんも見たことがあるでしょう。
 街の靴屋さんや馬具屋さん、洋裁店がどうして世界的な銘柄を作り出す大企業になり得たのでしょうか。それは、創業者とその後継者たちが、よりいいものを作るために絶え間ない努力を続け、材料を吟味し、優れたデザイナーにお金を惜しまず、製品のクオリティーにおいて同種の他社製品に圧倒的な差をつけてきた結果だと思います。そして彼らは、自分たちの製品を知ってもらうための宣伝広告に力を注ぎました。
 こうして、ブランド品を身に着ける人は、他人に差をつけているという優越感と同時に、品質としてもいいものを持っているという安心感や喜びも味わうことができるわけです。
 私は、自分が身に着けるものとしてのブランド品には、全く興味がありません。ショッピングのお付き合いも、この世で一番嫌いなものの一つです。自分の着るものは暑さ寒さをしのぎ、人さまに不快感を与えない程度のもの。靴は足が痛くならなくて、歩きやすいもの。ネクタイは締めやすくて、色やデザインが自分の好みに合うもの。車は走ればいい
といった感じです。
 ただ、どういうわけか他人が身に着けているブランド品には興味があります。男性のスーツ、時計、ネクタイ、女性のバッグ、洋服、靴などにブランド品が混じっていると、つい目が向いてしまいます。同時に、その人の顔も注意して見てしまいます。
 センスのいい人とセンスの悪い人がいるのは、仕方のないことです。着ているもの、身に着けているものがぴたりと決まっている人を見るのは、気持ちのいいものです。反対に、何を着ても、どんな高価なブランド品を身に着けても、何かチグハグな感じを与える人がいます。これはお気の毒としか言いようがありません。
 センスがいいとかセンスが悪いとかは、その人が持って生まれた感性が大きくものを言う分野です。それと,若い時からいいものを見る目を養い、自分に合ったおしゃれをする努力を続けてこないと、センスは磨かれません。
 お金を出せば誰でもブランド品が買えます。しかし、それを着こなせるか、使いこなせるかは別問題です。あるクラス以上のブランド品になると、ブランド品が人を選ぶようになります。
 人はものを所有すること自体に喜びを感じますから、自分に合おうと合うまいと、生活費を切りつめてでも、ブランド品を買う人がいます。それはそれでいいのかもしれませんが、買われたブランド品はきちんと使って欲しいと、泣いているかもしれません。
 さて、私達の住むヨーロッパにはどんなブランドがあるのでしょうか。私達の暮らすこのベルギーにもブランドはあるのでしょうか。ブランドに詳しい友人と雑談をしながら調べた結果を書いてみます。全部は書けませんので、話題性の高いものに絞りました。

イタリア

 フェラガモ:ご存知、靴屋さんから出発。今やバッグから洋服と、トータルブランドに成長。 
 プラダ:ナイロン製のバッグで人気を得る。その後、トータルファッションを展開。
 ブルガリ:創業は宝石屋。時計で有名になる。今では香水、化粧品、バッグ等に進出。
 エトロ:美しいペイズリー調のスカーフで有名。バッグ、洋服などトータルブランドを目指す。
 トッズ:故ダイアナ妃が使って一躍有名になったドライビングシューズから発展。姉妹
     ブランドのホーガン(Hogan)のスニーカーやバッグが今ひそかな人気。
 セルジオ ロッシ:靴よりサンダルがおしゃれな人の間で人気。ブリュッセルではヒル
          トンの向かい側、トワゾンドールに店がある。
フランス
 ルイ ヴィトン:日本人様御用達ブランドの代表。世界の売上の三分の一は日本人様御
         買い上げとか。最近は新しいデザイナーをいれて洋服、ネクタイなど
         に進出。
 ウンガロ:一時下火だったが、デザイナーを変えてから明るいイメージになり復調。
 ロンシャン:袋物の老舗。宣伝がうまくいき、気軽に持てるナイロンバッグで人気
       急上昇。ブリュッセルのルイーズ通りの店も大改装を行い見違えるばかり。

ベルギー
 デルヴォー:ベルギー独立の一年前、1829年にCharles DELVAUXが旅行鞄作り
       を始める。1883年にベルギー王室御用達になり現在にいたる。雅子妃
       ご愛用品の一つとか。
 オリヴィエ ストレリ:ベルギーの代表的デザイナー。フィリップ皇太子妃、マチルダ
       さんのデザイナー。サベナ女子社員の制服も彼のデザイン。ルイーズ
       通りに店あり。
 アントワープファッション:1980年から82年にかけて、アントワープの王立アカ
       デミーファッション科を卒業した才能ある若手デザイナー達が創り出した
       ファッションの総称。現在、世界レベルで活躍しているデザイナーとして、
       ドリス ヴァンノーテン、ダーク ビーケンベルグ、マリナ イーなどがいる。

 その他、シャネルのデザイナー、マルティンヌ マンジェラもベルギー人ですし、トップモデルの中にも意外とベルギー人がいるのは知られざる事実です。

 ベルギーのブランドでチョコレートを忘れるわけには行きません。一つ挙げましょう。

 ピエール マルコリーニ:ゴディバ、ノイハウス、レオニダスの三大チョコレートとは
             一味違った高級チョコ。マルコリーニ氏はチョコレート作りでヨーロッパ
             チャンピオンだった人。コンラドホテル、サブロン広場に店あり。

 さて、人間にもブランドがあるのでしょうか。すぐに思い浮かぶのは、ヨーロッパの王侯貴族と呼ばれる人達です。
 ベルギーは貴族制度が存続している国ですので、公爵、伯爵、子爵、男爵などの称号をもつ家が存在します。貴族といえども社会的に何の特権もありませんが、それでも称号に
対するある種の社会的尊敬は受けられるようです。
 一つの例として、皇太子妃マチルダさんのお父さんの例があげられます。マチルダさんの実家、d'Udekem d'Acoz家はもともと貴族の家系ですが、マチルダさんのお父さんは爵位を持っていませんでした。それが、フィリップ皇太子とマチルダさんが結婚したことにより、お父さんは伯爵の爵位を受けました。
 貴族といっても、元をたどれば領主の館の馬の足洗いだったり、粉引き小屋の番人だったり、王様のご機嫌を伺う道化師だったり、いろいろあります。これは、昔ルーバン大学の中世史の大家、ジェニコ先生がベルギーの貴族の系譜についての本を出した時に分かったことです。
 貴族も、祖先はただの人だったのです。徳川家の祖先、松平氏も元をたどれば三河の祭文語りの乞食坊主だったという説があるではありませんか。
 ただの人が貴族に列せられ、長い歴史の中で今日まで家を存続させてきたのは、家の創始者に能力があり、歴代の後継者が努力を怠らず家名と格式を守ってきたからです。これは、並大抵の努力ではできないことです。「継続は力なり」という言葉は、長い歴史をもつ貴族の名家の当主が、一番肝に銘じている言葉ではないでしょうか。
 考えてみると、ブランドと貴族には共通点があると思います。出発が街の靴屋さんだったり、馬の足洗いだった人が当人の才覚と能力、それに絶え間ない努力によって靴屋さんはブランドの創業者となり、馬の足洗いは貴族家の創始者になりました。
 靴屋さんは、いい皮を使って丈夫で履きやすい靴作りに励み、デザインにも気を配りました。値段も極力抑えました。こうして、この靴屋さんの靴は街のひとの高い評価を受け、
顧客がどんどん増えていきました。
一方馬の足洗いは、世話をしている馬の脚や蹄の状態から馬の体調を把握して脚のマッサージをしてやったり、飼葉の内容を変えたりして、馬の体調を最高の状態に保つように努めました。これが馬好きの領主の目にとまらないはずがありません。別の仕事に抜擢された彼は、一生懸命読み書きの勉強をして、さらに領主の役に立つ仕事をするようになりました。
 ブランドも貴族も、その背後には長い努力の歴史があります。ですから現在のマークや家紋には強い誇りを持っています。
 この件で最近、ベルギーの貴族の人達が不愉快な思いをしているというニュースを聞きました。理由は、フラマン行政府が一般の人に家紋の創設を公的に認める決定を下したからです。所定の手続きを経て、全部で6万フランぐらいの経費を払えば誰でも家の家紋を持つことができることになりました。
 かって、紋章を持つことは貴族、司教、枢機卿、及びあるカテゴリー以上の修道院の院長の特権でした。ゲントのSt.Baafsカテドラルには、フランダースがブルゴーニュ公領だったころの名家の紋章がずらりと掛けてある場所があります。じっと見ていると、各紋章から家門の誇りがにじみ出てくるような気がします。
 ところで、この世の中でブランド品に最も縁の薄い人種は何処の誰でしょうか。私が思うには、日本のオジさん達ではないかと思います。ヨーロッパのオジさんの中にはブランド品を何気なく身に着けて、ぴたっと決めている人がいますので油断できません。
 日本のオジさん達は、育った年代が悪かったのでしょうか。ブランド品を身に着けるヒマもなく、働きに働いてきた悲しい世代の申し子なのでしょうか。今になってやっと「オレもアルマーニ着てみっか」、「ベルサーチもいいかな」なんて、おずおずとブランド品に手をだすようになった時、すでに時遅しでした。何を着ても、何を身に着けても、いま一つしっくり来ません。
 結局、オジはさんはオジさんに合った服をきて、オジさんに合ったシャツにオジさん好みのネクタイをしてるのがい一番いいのです。ネクタイに凝って、イタリアのエルメネジルド ゼニアなんて舌を噛みそうな名前のブランド品を締めるよりも、ブリュッセルのミディ駅前日曜朝市で買ってきた3本500フランのネクタイの方が似合うのです。
 オジさんがホーガンのスニーカーを履いてソワーニュの森へ行っても、誰もそれとは見てくれません。オジさんには月星印のスニーカーが一番似合うのです。それにユニクロのジャンパーでも着ていれば申し分ありません。
 スーツはイトーヨーカ堂あたりの吊るしがいいでしょう。せいぜい気張って、洋服の青山でしょうか。こういう身だしなみで、自分達が日頃愛用しているブランド品について話し合っているオジさん達こそ、今の日本を支えているオジさん達なのです。
 「近頃、カローヤンの評判がいいね」
 「いや、紫改電だね。ふりかけた時のあの毛根にしみわたる感じが何ともいえない」
 「大正リアップもいいよ。ふりかけた後、毛根に力がみなぎる感じがするから」
 そばで聞いていた髪の毛フサフサの若者「それでオジさん達、髪の毛生えてきたの?」
 オジさん三人「ノノノノノノノノノノ..」  

No.72. 王位継承者

No.72. 王位継承者



 今月号は別のテーマで原稿を書くつもりでいましたが、5月7日のベルギーマスコミのトップニュースに接し、考えを変えました。
 5月7日に、まずラジオのニュースで、次いで夕方のテレビニュースでベルギー王国第七代王位継承者、フィリップ皇太子の妃、マチルダさんご懐妊の発表がありました。翌日のベルギー各紙には、ラーケン宮で行われた皇太子夫妻の記者会見の内容を含め、マチルダ妃ご懐妊のニュースが一面トップに踊りました。
 こちらのマスコミは王室に対する特別な遠慮がないみたいで、ご懐妊発表の記事にもかなりくだけた内容のものがありました。
 ある新聞は、マチルダさんが妊娠三ヶ月であるということは、受胎がバンコックで行われた可能性が高く、正確には2月14日だったかもしれない、などと書いてました。
 確かにこの時期に、フィリップさんとマチルダさんはベルギーの経済ミッションを率いてタイを公式訪問していました。新聞の受胎推定日、2月14日はバレンタインデーだったので、記事を書いた記者はあれこれと想像を働かせたのでしょう。
 今回のご懐妊発表に際し、ルーバン大学の憲法学の先生とか、王室専門家とか、いろいろな人の談話がマスコミに登場しました。その中で面白いと思ったのは、三ヶ月の胎児にベルギーの王位継承権が保証されているということです。
 ベルギーは1991年の法律改定で、女子に王位継承権を認めることになりました。従って、今度生まれてくる子供が男子であっても女子であっても、ベルギー王国第八代国王、或いは女王として王位に就くことが約束されているわけです。
 フィリップさんとマチルダさんの子供は11月中旬に生まれる予定です。生まれた子供は男子ならComte de Hainaut,女子ならComtesse de Hainaut(エノー伯)を名乗ることになります。そして、フィリップ皇太子が王位に就き、生まれてくる子供が皇太子の地位に就く時、男子ならDuc de Brabant,女子ならDuchesse de Brabant(ブラバン公)の称号が与えられます。
 ヨーロッパに存続する王室で、王位継承権を男子に限っている国はもうほとんど無いと思います。王位継承権を男系にのみ認める伝統は、フランクの一族、サリイ族の部族法、サリカ法典が起源なのだそうです。フランス語には今でも“Loi salique”という言葉が残っています。
 さてベルギーでは、初代のレオポルド国王から現国王アルベール二世国王まで6人の国王が即位しました。縁あってベルギーに住んでいる私たちが、少しでもこの国についての知識を深めることは無駄ではないと思いますので、以下に歴代国王のプロフィールを書いてみます。
 ベルギーがオランダから独立したのは1830年でした。そして翌1831年にロンドンで開かれた列強の会議でベルギーの独立が正式に承認されました。同年7月21日、初代国王レオポルド一世が憲法の遵守と領土の保全を誓う国王宣誓を行い、ベルギー王国が誕生しました。こうして7月21日がベルギーのナショナルデーになりました。

1.レオポルド一世,王朝の創始者(1790-1865)
新生国家、ベルギーの建国議会より国王就任の要請を受けた時、レオポルド一世はロンドンに住んでいました。彼の正式名称はPrince Leopold de Saxe-Cobourg et Gothaでした。当時のビクトリア女王の叔父さんに当たる人でした。プリンス レオポルドはイギリスの王位継承者、
シャルロット王女と結婚してましたので、順当に行けばイギリス女王の夫君となるべきひとでした。ところが、シャルロットがお産で亡くなったため、その機会が得られませんでした。
ベルギーの王位就任の要請の前に、ギリシャからも王位のオッファーがあったのですが、プリンス レオポルドはこれをことわってます。当時のヨーロッパの王室関係者の間ではなかなかの売れっ子だったようです。
レオポルド一世は国王即位後、フランス国王、ルイ フィリップの娘、ルイーズ マリーと結婚しました。二人の間には20才以上の年令差があり,又治政治的な結婚でしたが、次第に愛情が育まれ、4人の子供が生まれました。
初代国王は、新生小国ベルギーの独立の維持、産業の育成、国家機構の整備に大きな足跡をのこしました。
レオポルド一世の銅像はブリュッセルのRue Royale にある独立記念の塔のてっぺんにあります。

2.レオポルド二世、建設国王(1835-1909)
 レオポルド一世の二番目の男子(長男は病死)。個性の強い王様として有名。ブリュッセル市内の大通り、裁判所、独立50周年記念門などの巨大建築物は全てこの王様の時代に出来たもの。
 アフリカのコンゴを国王個人の領地として領有し、コンゴ王国の国王を兼ねる。後に、国王はコンゴ全土をベルギー国に寄贈し、ベルギー領コンゴが誕生しました。
 オーストリーのマリー アンリエットと結婚しましたが、結婚に際し、「余の任務は世継ぎを残す事のみ」と公言し、夫婦中は余り良くありませんでした。結局、男子に恵まれず、弟の息子を王位継承者に指名しました。
 レオポルド二世の娘、ステファニーはオーストリー.ハンガリー帝国の帝位継承者、ロドルフ〔有名なフランツ ヨーゼフ皇帝とシシの息子〕と結婚しました。しかし、ロドルフの愛はステファニーには向かず、結局、愛人のマリー ヴェツェラとウィーンの森のメイヤーリング山荘で情死を遂げてしまいます。ステファニーの不幸はおして知るべしです。
 レオポルド二世には常に愛人がいましたが、死の直前に長い間愛人関係にあったブランシュ デラクロアを入籍し、男爵夫人の称号を与えました。
 同国王の銅像はブリュッセル王宮の裏側、日本大使館の左手前方にあります。

3.アルベール一世、騎士の国王(1875-1934)
 レオポルド二世の弟、フィリップの次男として生まれる。兄のボードワンが亡くなったため、王位を継ぐことになる。ババリアのエリザベートと大恋愛の末に結婚。
 大一次大戦中、国王は侵攻してきたドイツ軍に最後まで屈服せず、ほんの一握りながら領土を守り通しました。このとき、王妃は看護婦として負傷兵の看護に献身的な
努力を惜しみませんでした。
 エリザベート王妃は音楽に造詣が深く、演奏家や作曲家の育成にも力を尽くしました。世界三大音楽コンクールに一つ、レイザベート コンクールは同王妃の名前を冠したものです。
 アルベール国王は山登りが好きでした。1934年2月15日、アルデンヌのMarche-les-Damesという所で、岩登り中にロープが切れて、転落死をしました。
 同国王の銅像は、王立図書館の入り口の所にあります。道路を挟んで向こう側にたっている像がエリザベート王妃の像です。

4.レオポルド三世、悲劇の国王(1901-1983)
 レオポルド三世は、皇太子時代に結婚したスエーデン出身のアストリッド妃と共に国民の敬愛を受け、順風満帆の王位が続くと思われていました。特に、アストリッド王妃の国民的人気は絶大なものがありました。
 しかし、即位後わずか18カ月で、自分が運転していた車の事故で王妃を失ってしまいました。事故はスイスで起きました。王妃はまだ30才の若さでした。この事故で、前ベルギー国王、ボードワン一世は4才、現国王アルベール二世は1才にしてお母さんを失ってしまったのです。
 レオポルド三世はベルギーの歴史上ただ一人、国民の信任投票にかけられた国王です。
国王は、第二次大戦中、ロンドンに亡命したベルギー政府に追随せずに、ベルギーに留まりました。国王の目的は、被占領国ベルギーの国と国民のために、ヒットラーから少しでもいい条件を引き出すことでした。
 戦後、国民が問題にしたのは、国王がベルギーに留まったことではありませんでした。国民の怒りをかったのは、国王が1941年12月にマリー.リリアン バールというフランドルのブルジョワジー出身のお嬢さんと、こっそり再婚をしていたからです。
 信任投票の結果、国王はマジョリティーを獲得して信任されました。しかし、信任票と不信任票の差はそんなに大きくはありませんでした。レオポルド三世は退位を決意し、長男のボードワンに王位を譲りました。

5.ボードワン一世、悲しい国王(1930-1993)
 幼少にしてお母さんを失い、20才になるかならないかで国王の重責に就いたボードワン国王には“悲しい王様”というあだ名がついていました。しかし、1960年12月にスペインのファビオラ王妃と結婚してからは、国王の表情が明るくなり、国民を喜ばせました。
 ボードワン国王夫妻は、ヨーロッパの王室の中で最も仲むつまじく、幸せなカップルと呼ばれていました。国王夫妻の飾らない優しい人柄と、国家と国民に奉仕する無私の精神は国民の深い敬愛の的でした。
 日本の皇室との親しい交流も、ボードワン国王夫妻によって深められました。国王は英国留学中の浩宮殿下をラーケン宮に招き、“ヒロ、ヒロ”と呼んで、特に可愛がっていたそうです。
 不幸にも国王は、1993年7月31日に滞在先のスペインの別荘で心臓麻痺のため急逝しました。国王弔問には、建国以来といわれる数の国民がブリュッセル王宮を取り囲みました。

6.アルベール二世、笑い屋国王(1934年生まれ)
 次男坊殿下として、かなり自由な生活をしてきましたが、兄ボードワン国王の急逝により、はからずも王位に就く事になりました。既定路線としては、自分の長男、フィリップがボードワン国王の後継者とみなされていました。
 若い頃の国王はなかなかのハンサムでしたので、女性にはかなりもてたそうです。イタリア出身のパオラ王妃も大変な美女でした。美男と美女が結婚し、子供にも恵まれ、何不自由のないロイヤルカップルでした。
 人間、恵まれ過ぎるとハメを外したくなるのでしょうか。アルベール二世の国王即位後に、国王に隠し子がいる事実が明るみにでました。ベルギー各紙は成人しているその女性の写真を掲載しました。
 ヨーロッパといわず世界の王室で、国王や女王に愛人や隠し子がいた事実は掃いて捨てるほどありますので、特に驚くべきことでもないのでしょう。ヨーロッパの有名な宮殿には愛人出入り用の隠し扉があるのを、皆さんは見たことがありませんか。
 即位後のアルベール二世国王は、持ち前の陽気で明るい性格から、たちまち国民の心をとらえ、今では非常に人気のある立派な国王として君臨しています。パオラ王妃も苦手だったフラマン語の特訓を受け、かって人気のなかったフランドルでも敬愛を集めています。

7.フィリップ皇太子(41才)
 第七代王位継承者。 フランスの王室ウオッチャーによれば、フィリップ皇太子はヨーロッパの王室で最も退屈なプリンスと呼ばれていたそうです。それが、マチルダさんと結婚してから、退屈なプリンスとは呼ばれなくなりました。
 公式のスピーチで、即席のジョークを入れて聴衆を笑わせたり、記者会見でもはきはきとメリハリのきいた受け答えをして好感をよんでいます。マチルダさんの影響、大なるものがあるようです。
 こうしてベルギーの王様たちを見てみると、歴代国王の王妃の役割が非常に重要であることがわかります。レオポルド二世がベルギーの80倍もあるコンゴをベルギー国に寄贈したのに、国民の評価が低かったのは王妃との仲が悪かったせいかもしれません。レオポルド三世が国民投票にかけられたのは、国民が亡きアストリッド王妃を忘れていなかったためでした。
 男性の皆さん、あなたはお宅の王妃、奥さんからこの世で一番退屈な男などと呼ばれていませんか。フィリップさんを見習いましょう。「ウチの奥さんはマチルダさんほど魅力的ではない」などといってはいけません。お互い様なんですから。

No.73. お受験

No.73. お受験


 連想ゲームです。皆さんは、「お受験」という言葉から何を連想しますかか?
 私の頭に浮かんでくるのは、次のようなイメージです。
 “お金持ちの家庭”、“成城など高級住宅街に家がある”、“ブランド品で身を固めたコマダムたち”、“高級外車で子供を送り迎えする”、“芸能人やスポーツ選手の家庭”、“慶応幼稚舎とか御三家、聖心、双葉、白百合などにいかせたがる”、“子供より親が目立つ”等。
 そして、こんな情景も目に浮かびます。
 場所:世田谷にある、さる有名幼稚園の門の前。
 時間:園児の退園時間に当たる昼下がり。
 登場人物:子供の手を引いた若いお母さん二人。
 お母さんA「まあ、奥さまお久しぶりですこと。最近お見かけしませんでしたけど、
       お出かけでしたの?」
 お母さんB「ええ、主人が休みを取ってくれましたので、家族でおフランスへ行って参 
       りましたの」
 お母さんA「おフランスへ!!うらやましいですわ~。タクなど仕事、仕事で何処にも
       連れてってくれませんのよ~。(お母さんBの腕にかかるバッグに鋭い一
       瞥)奥さま、そのバッグ、バーキンじゃございませんこと」
 お母さんB(ちょっと得意げに)「そうなんですの。主人が、君もこういうのを一つぐ
      らい持っててもいいだろう、なんて言ってくれたものですから」
 お母さんA「すてきですわ~。このバーキンのバッグ、日本ではまだ手にはいりません
       もの。この間、ニコタマ(二子玉川のこと)の高島屋で聞いたら、早くても
       6ヶ月はお待ちいただきます、ですってよ」
 お母さんB「そうみたいですわね。パリのお店でもこれが最後の1個でしたのよ」
 お母さんA(口惜しいので話題を変えたい感じで子供に目をむける)「まあ、権太左衛
       門ちゃん、本当にお行儀がいいのね。ところで奥さま、権太左衛門ちゃん、
       慶応をお受験ですって?」
 お母さんB「ええ、この子の兄の団五郎が行ってるものですから、行かせたいとは思っ
       てますけど。でもこの子、何にでも反応が鈍いから、多分、無理だと思い
       ますわ」
 お母さんA「そんなことございませんは。お宅は皆さん優秀でいらっしゃいますもの」
 お母さんB(お母さんAの子供に目をむけて)「お千代ちゃん、今日のお下げ髪、可愛
       いわね。ママにおつむをしてもらったの?そう、よかったわね。奥さま、お千代
      ちゃん、白百合お受験ですって?」
 お母さんA「ええ、一応受けさせてみますわ。アンリ園長先生も勧めてくださってます
       から」
 お母さんB(近づいてくる黒塗りの高級車を見て)「あら、奥さまご免あそばせ。運転手
      が迎えにきてますわ。それではご機嫌よう。お千代ちゃん、又明日ね」
 お母さんA「ご機嫌よう」(お母さんBのバッグをじっとみつめる)
 “受験”という言葉に“お”がつくだけで、受験のイメージががらりと変わるのはどうしてでしょうか。“お受験”という言葉には、当事者をからかっているニュアンスが含まれていると思いませんか。
 当事者(何故かこの場合、お母さんなのですが)が真剣になればなるほど、周囲の高みの見物的態度が強くなるような気がします。特にこれが芸能人の場合、芸能レポーターが黙っていません。
 不思議なのは、お受験させられる子供の存在より、お受験させようと努力するお母さんの姿がクローズアップされることです。お父さんの姿が見えてきません。
 お父さんだって厳しい受験戦争を勝ち抜いて、家族を養うに足る給料を稼いでいるわけですから、受験の何であるかを知らない筈がありません。よく知っているだけに、口を出すのが嫌なのでしょうか。だったら、一種の逃げですよね、これは。
 かく申す私も、子供の勉強に口を出すことはまずありません。何故なら、自分も勉強をしたという記憶がないからです。
 メ兎追いしかの山、小ぶな釣りしかの川“の情景がぴったりの田舎で生まれ育ちましたので、勉強とか受験とは無関係な、幸せな子供時代を過ごしました。春のお天気のいい日には、担任の若い女先生、池田先生が授業をやめて、私たちを学校の近くの原っぱにツクシ
やタンポポをとりに連れてってくれました。
 クローバーの花をあつめて、茎のところを編んで花の首飾りもよく作りました。オールドヤングの方には懐かしい、タイガースの“花の首飾りモを私たちハナ垂れ小僧がもう作っていたわけです。
 冬、校庭に雪が積もると、池田先生は授業をやめて、雪合戦をやらせてくれました。そして雪合戦の後、私たち生徒は凍えた手足を教室のダルマストーブで暖めるのです。それを先生はニコニコと見守ってくれていました。
 いたずらに過去を懐かしみ、昔はよかった、よかったと繰り返すのは歳をとった証拠かもしれません。勉強は必要でしょうし、受験も避けて通ることはできません。田舎で幸せな少年時代をおくった私も、結局、高校受験とか大学受験を経験せざるををえませんでした。
 ところで、人類最初の受験生は誰でしょうか。それは、アダムとイヴだそうです。エデンの園でアダムとイヴは神様からテストを受けました。そして見事に失敗して、二人は楽園を追放されてしまたのです。神様のやることはちょっときついとは思いますが、それ以来、人類は楽園でのほほんとしているわけにはいかなくなり、仕事や勉強や競争をしないと生きて行けなくなりました。
 ま、これは旧約聖書のお話しですが、目を転じて私たちの住むこのベルギーにも“お受験”はあるのでしょうか。
 答えは、「ありません」です。第一、入試がないのですから、受験があるわけがありません。ベルギーの親は、原則としてどの学校にでも子供を入れることが出来ます。その代わり、こどもがその学校を卒業できるかどうかは別問題です。
 この国にも、一応有名校はあります。有名校というのは、だいたい卒業の難しい学校のことです。ブリュッセルのサンミッシェルなどはその代表的な例でしょう。サンミッシェルはイエズス会の学校ですが、王族の子弟といえども落第させることで有名です。
 ただ、ベルギーの親たちは子供をやみくもに有名校に入れようとはしません。何故なら、いくら自分の子供を有名校に入れたところで、その子供が毎年の進級試験に通らなかったら、何の意味も無いからです。進級できない子供は、結局有名校をやめて他の学校に行くしかなくなります。
 自分の子供の能力に合った学校を選ぶのが、賢い親のやることです。見栄や世間体で学校を選ぶのは、愚かな親のやることです。と言っても、ベルギーにこういう愚かな親はまずいません。愚かな親が生まれない学校のシステムを作っているベルギーの人たちは偉いとおもいます。
 それと、もう一つベルギーの教育制度で感心することがあります。それは、教育費の負担が平等であることです。子供を公立校に入れようが、私立校に入れようが、親の負担は同じです。これは、小学校から大学まで同じです。つまり、小学校から大学までを私立で通そうと、公立で通そうと、親の負担は同じということです。
 日本の私立と公立の教育費の違いは莫大なものがあります。同じ税金を払いながら子供を私立に入れたがために、さらに別途教育費を親が負担するのはおかしいと、ベルギーの人たちは考えました。憲法は教育の機会均等をうたっている訳ですから。
 我が家の息子がブリュッセル自由大学に入った時、一年間の授業料として払ったのが何と20,000フランちょっとです。入学金などはありません。しかも、ブリュッセル自由大学は私立大学です。日本に較べたらタダみたいな授業料で、一年間勉強させてもらえるのですから、本当にありがたいことです。
 私が20数年前、ルーバン大学に払った授業料が年間10,000フランでした。その前の年までは授業料が5,000フランでした。授業料が10,000フランに値上げになるとの発表があった時、学生が値上げ反対の大デモをしたのをおぼえています。
 私もデモに参加しましたが、10,000フランだって安いと思ってましたので、値上げ反対の声にはどうも力がはいりませんでした。
 それでは、私立校の財源はどうなっているのでしょうか。答えは簡単です。私立、公立にかかわらず、教育費は全て国家負担です。 
 カール大帝がアーヘンに宮廷学校を開いたのが、ヨーロッパの学校制度の始まりと言われています。その後、教会の教区制度や修道院の管区制度が整うに従い、教育は教会の手に委ねられました。国家が教育を司るようになったのは、近世になってからのことです。
 従って、ヨーロッパの教育機関は長い間全て私立学校でした。現在国立になっているヨーロッパの有名大学も、起源は全部私立大学として出発しています。こういった歴史的な背景が、私立の教育機関の経費を国家が負担するという国民的合意を可能にしたのでしょうか。
 “お受験”という言葉に象徴される受験社会、日本の教育制度がいいのか、受験なしながら、卒業資格を得るために厳しい勉強を強いられるヨーロッパの教育制度がいいのか、皆さんはどう思いますか。
 入試で候補者を選別して、合格した者にのみ教育をほどこす方が効率的であり、経済効果も高いことは間違いありません。それに、受験料という名目の莫大な収入も期待できます。ベルギーの各大学の悩みである新入生対策の必要も生じません。
 今年のブリュッセル自由大学の経済学部に登録した新入生の数は500人を越えました。
この中で、一期の期末試験を通った新入生の数は40人以下でした。最終的に2年生に進級できる学生は、登録した新入生の10分に1もいません。そして、見事卒業証書を手に出来る学生の数はさらに少なくなります。大学の悩みは、登録した新入生のために教室を確保しなければならないことです。
 どうせ10分の1も進級できないのなら、最初から入試で選抜したほうがいいのではないか、という議論もおきてきます。実際に、理数系や医学部では日本の入試のような試験を科す大学が増えてきています。
 一つはっきり言える事は、ベルギーの大学生は在学中によく勉強するということです。そして、先生も学生を甘やかしません。私はこのことで、ルーバン大学の期末試験の時、ある先生に言われた言葉を今でもよく覚えています。
 文系の試験は口頭試問です。私の番がきて先生の前に行きました。私の語学力はまだ十分ではなく、先生の質問によく答えられませんでした。その時、先生はこう言いました。「あなたは、遠い国から勉強に来たのでしょう。こんな質問にも答えられないで、よくそんな遠い国からわざわざきましたね」と。
 私はまったく逆の言葉を、先生から言われることを期待していました。「外国語で講義を聴いて勉強するのは大変でしょう」とか、「シラビュス(講義録)を読むのにも、時間がかかって大変でしょう」といった、慰めの言葉を期待してました。
 こういう日本的甘えの感情は、こちらの先生には通じないことを、先生の言葉で思い知らされました。結果は、先生は私を不合格とし進級させませんでした。
 その時私に同情してノートを貸してくれた親切な女子学生が好きになりました。しかし恋は実らず、落第と失恋の傷手に日本へ帰ることを考えたのですが、未だにベルギーでうろうろしているのは、やっぱりこの国が好きなんでしょうね、自分は。

No.74.貴族のなり方

No.74.貴族のなり方



 前に、「飛行機の乗り方」など、How toものを書きましたが、今回はベルギーで貴族になるための方法について書いてみます。
 世界の国々を見てみますと、その大多数は共和制で王制を維持している国の数は非常に少なくなっています。従って、貴族制度を持っている国の数も多くはありません。
 ベルギーは、ご承知の通り王国です。そして、貴族制度を公けに持っています。ベルギー王国には約1、300の貴族の家系があり、20,000人から22,000人の貴族と呼ばれる人達がいるそうです。
 貴族の家系に属する人達は何か特権を持っているのでしょうか。何も持っていません。唯一の特権は、貴族の称号を名乗れることでしょう。 ヨーロッパには、古い貴族社会が存在していますので、貴族の称号は今でもそれなりに価値があります。
 王制や貴族制度が廃止された国々の元王族や元貴族が、今でも旧称号で呼ばれ、事あるごにマスコミに登場しています。フランスのテレビにはステファン.ベルヌのような王室や貴族専門のレポーターまでいます。
 又、王室や貴族の動向を追う専門雑誌がヨーロッパの各国にあります。その中で、フランスの雑誌「Point de vue」が一番有名です。ベルギーではフラマン語の雑誌「Royals」があります。それにRTLテレビの王室専門番組「Place Royale」があります
 こうした雑誌やテレビ番組が、一般大衆の間で根強い人気を保っているの何故なのでしょうか。それは、人々の心に王室や貴族といった、自分達とは違った世界に住んでいる人達に対する憧れがあるからだと思います。
 これは、スターに対する憧れと同じ心理で、一般大衆は常に“セレブリ”を必要としているのです。みんなが同じでは、世の中面白くありません。世の中は男と女、金髪と黒髪,高い鼻と低い鼻、お金を持っている人と持っていない人、白人と有色人種、女性にもてる男ともてない男等の違いがあるから面白いのです。
 最近、ブルガリアの元国王、シメオン二世が同国の総選挙で自分の率いる政党が第一党になり、首相に就任しました。王位を追われた元国王が、民主的な選挙によって政権のトップに就いた例は世界史上初めてのケースかと思います。
 シメオン二世は幼くして王位に就きましたが、短い在位期間の後、共産政権の誕生により王位を追われました。その後、元国王は亡命先のスペインで実業家として成功を収めました。
 祖国、ブルガリアの総選挙に際し、急遽政党を結成して選挙に打って出ました。そして、あれよあれよという間に国民の支持を集め、第一党の地位を獲得してしまいました。
 もし、シメオン二世が単なる金持ちの亡命ブルガリア人だったら、短期間にこれだけの国民の支持を集める事ができたかどうか、甚だ疑問だと思います。やっぱり、元国王という立場が国民の支持を引き出したのでしょう。
 イタリア政府は今でも元国王、ウンベルト二世の子供や孫のイタリア入国を認めません。又、オーストリー政府はハプスブルグ直系の人物の入国を長い事認めませんでした。これは、元国王に連なる人物への国民の支持や、政権への影響を恐れたためだと思います。
 さて本題に入りましょう。ベルギーでは、毎年7月21日のナショナルデーに、国王が新しい貴族を任命する伝統があります。今年も7月21日に12人の新貴族が誕生しました。
 12人の新貴族の内訳は、Baron(男爵)が8人、Chevalier(ナイト)が4人でした。男女別では男性が11人、女性が1人になっています。いずれも、それぞれの分野で大きな功績を残した人達ばかりです。
 12人の新貴族の中にはベルギーだけではなく、世界的に有名な人がいます。一人は、ナイトの称号を受けたサルバトール.アダモさんです。彼の歌う「雪が降る」や、「サントワマミー 」は日本でもよく知られていますので、皆さんもご存知でしょう。
 アダモさんはその名前が示す通りイタリア系ですが、ベルギー生まれのれっきとしたベルギー人です。彼はその優しい人柄と、慈善事業などへの積極的な協力でも知られています。
 もう一人は、男爵の爵位を受けたハーモニカ奏者のトーツ.ティルマンスさんです。彼の名前を知っている人は、ジャズや映画の世界に造詣の深い人です。トーツ.ティルマンスは、あの小さなハーモニカ一本で世界的な名声を博しているベルギー人です。
 彼は、ブリュッセルの下町の中でも最も下町的といわれるRue Haute(裁判所の下の方)で生まれ、少年時代を過ごしました。ご参考までですが、16世紀の有名な画家、ピーター.ブリューゲルもRue Hauteに住んでいました。
 トーツ.ティルマンスはアメリカで才能を開花させた人です。有名な“Old Spice”のコマーシャル曲を演奏して一躍有名になり、その後、“ミッドナイト カーボーイ”、“ザ.ゲートウェー”などの映画音楽を担当してその名声を不動のものにしました。
 ティルマンスさんのインタビュー記事の中に“ちょっといい話”がありましたので、紹介します。
 「私(ティルマンス)の友人の中には、シャトーをいくつも持っている生まれながらの貴族がいます。彼は、私が爵位を受けたことを祝して、次のような手紙をくれました。私は友人のこの手紙を読んで,家内と一緒に泣きました」
 “私は、君も知っての通り生まれながらの貴族です。それこそ、銀のスプーンを口にして生まれてきました。しかし私は、自分の功績によって貴族になったのではありません。君はこの度、国王陛下によって貴族に列せられました。君は自分の努力で築いた功績によって貴族になりました。君こそ現代の本当の貴族なのです。”
 Salvatore Adamo,Toots Thielemansの他に、もう一人、この世界では知る人ぞ知る有名人が男爵になりました。その人は料理人、ピエール.ローメイエールさんです。Pierre Romeyerはかって“Comme chez soi”のPierre Wynantと並んで、ベルギーのみならずヨーロッパで最も有名な料理人でした。
 ベルギー滞在の長い方はご存知でしょうが、ブリュッセル近郊のオーバレイスの森にあった三つ星レストラン、「Romeyer Maison de Boucher」は、ベルギーにおけるフランス料理のレベルの高さを世界に誇示する存在でした。
 残念ながら、レストランローメイエールはもうありません。建物は残っていますが、寂しい空き家になっています。その所有者は日本のビール会社です。
 7~8年前になると思いますが、ローメイエールさんはレストランを日本のさるビール会社に売却しました。自分はシェフとして残ったのですが、間もなくレストランは閉鎖になり、彼は引退しました。
 三ツ星レストランを買収して、結局空き家にしてしまった日本のビール会社の意図を、ベルギーの人達は誰も理解できないといってます。日本人が札束を持って乗りこんで来なかったなら、Romeyerは自分が育てた弟子の中から有能な料理人を選び、店を任せただろうというのが、事情通の見方です。
 ここに紹介しました3人の新貴族は、いずれもベルギー社会の恵まれた階層の出身ではありません。アダモさんはイタリア移民の子供ですし、ティルマンスさんもローメイエールさんも下積みの階層の出身です。ローメイエールさんなどは、14才で靴屋の小僧になり、その後、食べ物のそばにいれば飢える心配がないとの理由で、レストランに職替えをした人です。
 ベルギーも含めて、ヨーロッパは意外と堅固な階級社会です。そういう階級社会で、移民の子供や社会の下積み出身の人を、その人の功績に応じて貴族に列するベルギーのような国があるところが、ヨーロッパの面白いところであり、またヨーロッパの奥の深いところだと思います。
 さて、新貴族誕生の手続きはどうなているのでしょうか。
 まず王室の選考委員会が候補者のリストを作ります。候補者はベルギー国籍を持ち,ベルギー国のために多大な功績のあった人が選ばれます。このリスト作りは6ヶ月から1年ぐらいかかるそうです。
 候補者が決まると、選考委員会は各候補者に爵位授与の候補になっている事実と、これを受ける用意があるかどうかの意志確認を行います。そして国王が最終リストに裁可を与えます。
 しばらくすると、各候補者宛てに王宮から国王のサイン入りの書簡が届きます。書簡には、当人に授与される貴族の称号名、その称号が当人にのみ許されるものか配偶者や子供にも許されるものか、爵位が当人一代限りのものか世襲が許されるか、などが記載されています。
 新貴族の称号は、殆どの場合ナイトか男爵で一代限りです。例外的に伯爵や子爵の称号が与えられることがあります。最近では、ベルギー初の宇宙飛行士、ディルク.フリモウトさんが子爵に列せられています。
 国王から貴族に列せられた人には、まだやることが沢山あります。まず、ベルギー外務省の貴族化に登録料30,000フランを払って登録しなければなりません。次に、自分が受けた貴族の称号の証書(Diplome)を作る必要があります。これは専門家に頼みますが、だいたい60,000から100,000フランかかります。
 そして最後に、これが一番難しいのですが、自分の紋章と紋章にいれる銘を作らなければなりません。すでに存在する紋章や銘を真似する事は勿論許されません。似すぎてもいけません。
 ベルギーだけで1300ぐらいの貴族の紋章があります。これに、ヨーロッパの現、旧貴族の紋章を入れたら大変な数になりますから大変です。綿密な考証が必要になります。ヨーロッパには紋章学という学問があり、専門家もいますから、そういう人達の助けを借りる必要も生じてきます。
 皆さんはベルギー王室の紋章を見たことがありますか。どんな銘が入っているかご存知ですか。今度、機会があったら注意して見てください。ベルギー王室の紋章にはフランス語で“LユUnion fait la force”という銘が入っています。同じ意味のオランダ語の銘もあるのですが、不勉強にしてここに書けません。意味は“統一は力なり”という複数民族国家ベルギーらしい銘だと思います。
 候補者が諸般の手続きを終え、新貴族の名簿が官報に記載されますと、初めて公的に貴族として認められることになります。そして、ベルギー王国貴族会の正式メンバーとして入会が認められます。
 新しく貴族になった場合、日常生活に変化が生じるのでしょうか。服装や言葉使いが変わるのでしょうか。伝統貴族のように家族の間でもVous(相手に対する丁寧語)で話す様になるのでしょうか。
 昨日まで奥さんとTutoyer(キミ.ボク、オレ.オマエ的な親しい者同志の話し方)で話していたのに、いきなり今日からVousで話すのは、ちょっと難しいでしょうね。それに滑稽です。だいたい、伝統貴族の家庭でも今はTutoyerが一般化しており、Vousを使う貴族家庭は少なくなっているそうです。私が聞いた例では、ベロイ城の城主、リーニュ公が娘さんと話すときVousを使っていました。
 ところで、ベルギーの在留邦人たる私達に、貴族になる道は残されているのでしょうか。
答えは“ノン”です。貴族に列せられるためには、ベルギー国籍を持ち、ベルギー国のために大きな功績を残す必要があります。
 唯一の可能性は、皆さんの娘さんか息子さんがベルギーの伝統貴族の後継者と結婚することです。皆さんが貴族になるわけではありませんが、家族に貴族が加わることになります。
 でも、万一そんなことになったら、親戚付き合いが大変でしょうね。向こうの家に招ばれても何を着ていくかから始まって,食事中の態度や話題など、考えただけでも憂鬱になりませんか。ですから私は、娘二人と息子一人に間違っても貴族とだけは付き合わないよう、固く言い聞かせています。

No.76. イスラム

No.76. イスラム



 9月11日にニューヨークで起きた余りにも衝撃的な事件以来、イスラム原理主義者やイスラム教についての記事や評論が、マスコミを賑わすようになりました。
 私が初めてイスラム教徒と接したのは、今から20数年も昔、このベルギーのルーバンにおいてでした。古い大学の街であるルーバンには、学生が管理する自治寮がいくつかありました。ルーバンに着いた私は、そのなかの一つに部屋を見つけて住むことになりました。
 寮に着いた日に、寮長格のフィリップが、その当時10人ほどいた寮の住人に私を紹介してくれました。寮の住人は、ベルギー人の他にベトナム人のファン兄弟(医学部)、インドのゴアから来たマニュエル(医学部)、スペイン人のスアレス(経済学部)、そして私の隣人となるチュニジア人のへディ(農学部)でした。
 ベルギーに来る前の私のイスラムに関する知識は、本で読んだものに限られており、イスラム教徒やイスラム圏との接触は全くありませんでした。従って、宗教としてのイスラム教やイスラム教徒、或いはアラブ人に対して如何なる偏見も持っていませんでした。
 しかし残念なことに、チュニジア人のへディと同じ寮で暮らすようになってから、私はアラブ人に対して強い偏見を持つようになってしまいました。へディ一人の行動からアラブ人全体に対して偏見を持つことが、如何に愚かな事であるかは頭では分かっているのですが、心がついていきません。人種差別とか、或る人種にたいする偏見は、意外と簡単で小さな所から生まれてくるのではないでしょうか。
 へディの行動を事細かに書いても仕方がありませんが、寮という共同生活の場で必要な最小限の規則を守らず、自分勝手な行動しか取らない彼とは衝突せざるを得ませんでした。そのくせ彼は寮の自治会ミーティングで、共同生活はかくあるべしなどと大言壮語の演説をぶちますのでよけい頭にきてしまうのです。
 一番困ったのは、イスラムの断食節、ラマダンの時期でした。夕方になるとアラブの音楽をガンガン鳴らし始めるのです。こちらは勉強になりません。音量を下げてくれるように頼んでも、「お前はオレの宗教にケチをつけるのか」などと、まるで理屈にならないことを言います。
 そのうち、私のへディに対する感情をさらに悪化させる事件が起きました。それは、彼の部屋と私の部屋を結んでいる暖房用の配管パイプを通す壁の穴から、ネズミが私の部屋に入ってくるようになったことです。そしてネズミは、私が大切にしまっておいたインスタントラーメンの袋を齧りだしたのです。
 ネズミの件は必ずしもへディが悪いわけではないのですが、日頃が日頃ですから、“アイツが部屋を汚くしておくからネズミが住みつくんだ”などと、偏見を増幅してしまうのです。
 私はルーバンの街の雑貨屋でネズミ捕り器を買ってきました。バネ仕掛け式の簡単なものです。まずチーズを餌にしてし掛けてみましたが、これが全然かからないのです。そこで思いついて,インスタントラーメンの固い麺を餌にしてみました。するとどうでしょう、見事にネズミがかかったのです。ベルギーのネズミがチーズより日本のインスタントラーメンを好むという事実に私は感動しました。
 結局へディは、寮の共同生活に不適格という自治会の決定に従い、寮を出て行きました。私のイスラム教徒との最初の出会いは失敗でした。ベルギーに来て早々に人種差別主義者になったのは、不幸なことでした。
 幸いにも、その後モロッコ、エジプト、チュニジア、ヨルダン、レバノン、シリア、トルコなどのイスラム圏を旅行する機会に恵まれ、イスラムの文化やその国の人々に直接接することにより、私の偏見は徐々に改善されていきました。今では、このベルギーに住むアラブ人やイスラム教徒の友人、知人がいて楽しく付き合っています。ただ、ブリュッセルの街中や地下鉄の中で、徒党を組んで悪さをするアラブ人の青少年達には厳しい目を向けざるを得ません。わが家の子供達も被害にあっています。
 皆さんはこれまでアラブの世界、イスラムの世界と直接コンタクトをした経験がありますか。日本人会会員諸氏の中には、ベルギー駐在の前にアラブ圏、イスラム圏に駐在した経験をお持ちの方がおられるのではないでしょうか。そういう方は、是非本会報に一文を寄せて頂き、旅行者とは違った体験や見方によって、私達を啓発して頂きたいものです。
 さて、イスラムとは何なんでしょうか。610年に不毛のアラビア半島の砂漠で、ベドウィンの25才の青年が神の啓示を受けました。彼の名前をマホメット(ムハンマド)
といいます。マホメットはメッカで、「アラーのほかに神はなし」とする絶対的一神教の布教を始めました。
 12年後の622年に、マホメットは迫害を逃れて布教の拠点をメッカからメディナに移します。そのころの信者は全部合わせても200人もいませんでした。それがわずか50年後には、ペルシャを倒し、シリア、メソポタミア、パレスチナ、エジプトを手中におさめ、東ローマの首都、コンスタンチノープルをうかがうイスラム大帝国に発展しました。
 預言者、マホメットが天啓を受けた年から数えて約100後には、回教勢力はイベリア半島を席巻し、ピレネーを越えてガリア(今のフランス)侵入を企てるまでになっていました。この時期のキリスト教軍と回教軍の戦いで最も有名なのが、732年に今のフランスのツールとポアチエの間で7日間に渡って激戦が繰り広げられたポアチエの戦いです。この戦いでカール マルテル指揮下のフランク軍が、イスラム軍をスペインに追い返しました。
 イスラム勢力の地中海世界の征服の速さと広さ、そしてその永続性は世界史の謎とさえいわれています。その秘密は何だったのでしょうか。「コーランか剣か」という強引な征服のやりかたが、成功の秘訣だったのでしょうか。
 答えは「イスラム教徒の寛容さ」にありました。「コーランか剣か」という言葉は、侵略されたキリスト教側が作った言葉だそうです。破竹の勢いで征服地を増やしていった回教徒は、被征服民族に自分達の宗教を押しつける事はありませんでした。彼らが要求したのは、服従と税の支払いだけでした。
 ただ、被征服民族はイスラム教徒にならない限り、支配階層には入れませんでした。それ以外は自由に商工業や農業を営むことができました。これが回教徒の征服地経営の永続性につながりました。16世紀に、キリスト教に改宗しないユダヤ人を大量に追放して、国の衰退を招いたスペインとはえらい違いです。
 歴史上、フン族のアッチラや蒙古のジンギスカンのように、短期間に多くの民族を征服して大帝国を作り上げた例はありますが、イスラム帝国ほど長続きはしていません。これは彼らとその後継者が被征服民族に対して、イスラム教徒の寛容さを持っていなかった為ではないでしょうか。
 回教国時代のスペインは、ピレネーの向こう側の西洋キリスト教世界と較べて少しも遜色がないばかりか、これを凌駕するほどの高度な文明国でした。コルドバのカリフの宮廷には、当時の地中海世界で第一級の学者、文化人がいたといわれています。
アリストテレスや新プラトン主義の思想が中世ヨーロッパに伝えられる上で、重要な役割を果たしたIbn SinaやIbn Roshdなどはいい例です。
 回教徒はアラーの神の教えに抵触しない限り、他民族の学問、文化にたいしても寛容でした。この寛容さが、後に絢爛たる回教文化を花咲かせる上での土台になりました。預言者、モハメットは貧しい者や孤児、奴隷などの弱者を保護するように説き、彼の教えの根幹は愛と平和にあったのです。
 こうして見てくると、アフガニスタンのタリバンやビンラディン一派が如何にイスラムの教えからかけ離れているかが分かります。彼らの思想、行動は“不寛容“の一語につきるからです。あのリビアのカダフィさんでさえ、タリバンは無神論者でイスラム教徒ではないと、こき下ろしているではありませんか。
 タリバンによれば、預言者、モハメットが髭を生やしていたから、男は髭を生やさなければならないそうです。バカなことを言うものです。だったら、もしマホメットが虫歯だったら、回教徒はみんな虫歯にならなければならないとでも言うのでしょうか。
 イスラム原理主義者達は、預言者、マホメットの教えの原点に立ち返り、コーランの教えを文字通りに実践することを理想としています。これも愚かなことです。コーランの教えを字句通りに実践したければ、紀元600年の時代に戻らなければなりません。ラクダとナツメヤシとベドウィンの部族単位の生活に戻った時に、彼らは初めてコーランの教えを字句通りに実践できるのです。
 もし神さまが、聖書やコーランを通して人類の歩むべき道を示そうとしたのであれば、その同じ神さまが人間に知性を与え、学問や技術、文化、政治、経済などあらゆる分野での進歩を可能にしました。ということは、聖書やコーランの教えは、人類の進歩に合わせて解釈されるように書かれているし、それも神さまの計画の中に入っていると考えるのが正しいのではないでしょうか。
 FundamentalistとかIntegristeがイスラム原理主義者を指すなら、別の言葉としてイスラミストがあります。これはイスラム至上主義者とでも訳すのでしょうか。イスラム以外の宗教や思想を排斥する点で、彼らも開祖、モハメットの教えから逸脱しています。アリアン民族至上主義を唱えたナチスも、同じカテゴリーと考えていいと思います。
 ところで、私達の住むこのベルギーにはどのくらいのイスラム系住民がいるのでしょうか。
 ベルギーのテレビ週刊誌、ラ テレムスティックによれば、その数はだいたい35万人ぐらいだそうです。ほとんどが移民労働者とその家族です。内訳は、モロッコ人が20万人、トルコ人が12万人で、残りはチュニジア人とアルジェリア人だそうです。
このうち半分近くがブリュッセル地区に住んでいます。人口比率からいうと、ブリュッセルはヨーロッパで最もイスラム系住民の比率の高い都市になるそうです。
 皆さんは、ベルギーにあるモスクの数をご存知ですか。一番有名なのは、EU本部に近いサンカントネールの公園にあるモスクでしょう。これ以外にも2~3ヶ所あるかしらぐらいに思っていたら、これが大間違い。何と、全部で300以上もあるのです。スカールベークやサンジョスなど、モロッコ、トルコ系住民の多いコミューンには、民家を改造したモスクがかなりあるのです。
 ベルギーのイスラム系住民の3分の1はベルギーに帰化して、ベルギー国籍をもっています。ブリュッセルだけでなく、フランドルやワロンの都市でもモロッコやトルコ系ベルギー人の市会議員が誕生しています。又,ベルギーの連邦警察にもアラブ系ベルギー人の警察官が採用になっています。
 他民族や異文化を排除した国が衰退に向かうスピードが速いのは、歴史が証明しています。日本に、金さんやアブデルさん,カルロスさんといった名前の市会議員や国会議員が誕生するのはいつのことでしょうか。
 自分も偏見を持たず,寛容な心でどんな国の人とでも付き合いたいと思いますが、現実には難しい場合も少なくありません。そんな時、何の偏見も持たずに日本のインスタントラーメンを食べて、あえ無く命を落したルーバンの寮のネズミのことを思い出します。可愛そうなことをしました。            

No.77.村祭り

No.77.村祭り



皆さんは、お祭りが好きですか。
“お祭り”という言葉を聞くと、気持ちが浮き立ってきませんか。手足が軽くなって、踊りたくなりませんか。祭囃子の音がきこえてきませんか。いか焼きや焼きとうもろこしの香ばしい匂いを思い出しませんか。ワタ飴のふっくらとした形が目に浮かびませんか。
 私はお祭りが大好きです。私は福島県の田舎、桑折(こうり)町という所で生まれ育ちました。皆さんはご存知ですか。わが桑折町は、かの松尾芭蕉先生の「奥の細道」に堂々と出てくるのですよ。この有名な(?)桑折町のお祭りは、7月27,28日の両日に行われる諏訪神社の祭礼です。
 お祭りが楽しいのは、お祭りの当日だけではありません。その準備期間が楽しいのです。わが桑折町では、7月に入ると町内で夕方から太鼓の練習が始まります。各町内ごとに出る山車の中で打つ太鼓を練習します。大太鼓が一つと、小太鼓が二つで、決まったリズムの打ち方があります。花形はやっぱり大太鼓です。流れるようなバチ捌きで、身振り手振りも鮮やかに大太鼓を打つ町内のおじさんを、私は世界で一番偉い人ではないかと、子供心に思ったものでした。
 太鼓の練習を見に行っていると、後継者育成の意味もあったのでしょうか、太鼓のおじさん達は見に来ている子供達に小太鼓を打たせてくれました。小太鼓はリズムが簡単なので、子供にも打てるのです。
 おじさんから小太鼓のバチをもらって、打ち始める時の高揚した気持ちは何とも言えないものでした。特に、見物の子供達の中に豆腐屋のさっちゃんがいたりすると、私の気持ちは一段と高揚し、小太鼓のリズムを狂わせて大太鼓のおじさんに叱られたのも、楽しい思いでです。
 今の日本に、私が子供のころに経験したお祭りの雰囲気は残っているのでしょうか。多分残っていないでしょう。だいたい、お祭りのオーガナイザーの中心となっていた神社の氏子制度の存続が困難になっています。
 昔の田舎は人の移動が少なかったので、氏子制度が比較的よく維持されていました。
しかし今や、田舎といえども人の動きは昔と比較にならない程激しくなっています。それに、信教の自由の問題もあり、その町や村に住むことが即神社の氏子になるという昔のやり方は成り立ちません。
 都市部では、神社抜きのコミュニティーのイベントとしてのお祭りが開催されているようです。これが地方に行きますと意外と難しいのです。神社の宗教性を無くしたイベントとしてのお祭りには、神社が承知しません。これは総理大臣の靖国神社参拝騒ぎの時の議論に相通づるものがあります。
 総理大臣や閣僚,その他の公人の靖国神社参拝騒ぎを外国から見ていると、日本人は“理”の国民ではなく“情”の国民であることがよく分かります。あの騒ぎは、西欧の論理で育った人々にはなかなか理解してもらえない騒ぎではないでしょうか。 総理大臣が“情”を正面に押し立てて参拝するのですから、まともな議論は最初から無理なのです。
 ベルギーの終戦記念日の公式行事は何処で行われるのでしょうか。サンミッシェル教会やコックルベルグのバジリックにおいてでしょうか。違います。ブリュッセルのRue Royaleにある無名戦士の記念塔の前で行われます。式典には必ず国王が出席します。又,外国の国家元首その他の要人がベルギーを訪問する際、献花の儀式が行われるのもこの無名戦士の記念塔においてです。ベルギーでは靖国騒ぎは起こり得ません。
 デカルトの「方法序説」をひも解くまでもなく、ヨーロッパ人の思考の土台は理論であり、情念ではありません。私達の住むこのベルギーも、理論を尊ぶ国民の国である事を知らされる出来事が幾つかありました。
 国民の圧倒的多数がカトリックであるベルギーでは、社会のいろいろな分野にカトリックの影響力を見ることができます。例えば、王室の公式行事における招待客の席次ですが、ブリュッセル.マリン大司教の席次が王族の次にきます。
 ところが最近、この席次に対して異議を唱える国会議員が出て話題になりました。カトリック国の長い伝統と、王室の習慣に基づいたこの席次に対して、公然と異議を唱える事のできるこの国の開かれた国民性を評価すべきだと思います。
 同じような例として、11月15日の「国王の祝日」の取り扱いが挙げられます。この日はベルギーの休日にはなっていませんが、伝統行事として毎年ブリュッセルのサンミッシェル カテドラルで、ブリュッセルマリン大司教司式による「Te Deum」のミサが行われてきました。
 このミサには国王夫妻を除く王族(国王は自分の祝日なのでミサには出ません)、首相以下全閣僚、三権の長、外交団などが出席する極めて公的性格の強い行事でした。しかし、このミサもおかしいという議論が起こりました。
 国家元首である国王の祝日がなぜ宗教施設である教会で行われるのか、という議論でした。理論的には全く正しい議論なので、結局ミサを中心とした公式行事は今年からなくなりました。今年はベルギーの歴史上初めて、「国王の祝日」の行事が国会議事堂で行われます。
 もう一つ、この国の成熟した民主主義を示すエピソードがあります。それはベルギー王室に対する国家予算の支給についてです。
 現在の政権に入っている有力政党のさる議員が、ベルギー王室に対する国家予算の支給を国王と王位継承者に限るという法案を国会に提出しました。法案は通りませんでしたが、かなり話題になりました。
 同議員の談話を新聞で読みましたが、彼によれば、“ローラン王子(フィリップ皇太子の弟殿下)が一般のベルギー人のように働いて収入を得る事に何の問題もないし、
王子もそれを恥ずかしいと思う必要はない“と言うものでした。
 上記の話しを日本に当てはめた場合、果たしてベルギーのようなオープンな議論が許されるでしょうか。日本では、とんでもないことですよね。まず、こういった議論を持ち出すことさえ許されないでしょう。下手をすると、右翼に刺されて殺されるかも知れません。情念の国には恐ろしい面もあるのです。
 私達日本人は本当の意味の討論、Debateの伝統を持っいてません。 日本で本格的なDebateが行われたのは、キリシタン時代に有馬のイエズス会コレジオやセミナリオのおいてであったといわれています。イエズス会の教育方法の中に“Disputatio“と呼ばれる項目があります。
 これは、学生を二手に分け、テーマを決めて徹底的に討論させるものです。これによって、学生はレトリック、弁論、論理的思考方法を身につけます。ヨーロッパの各分野で指導的立場に立つ人は、イエズス会の教育を受けていなくても、修辞学や弁論、論理的思考は必ず身につけているべき資質とされています。
 お祭りの話しが横道にそれてしまいましたが、ベルギーにも氏子制度があるのでしょうか。各教会の信者を氏子と呼ぶなら氏子制度はあるといえるかもしれません。
 ヨーロッパのキリスト教社会において、人々は“教会の外には救いは無い“という教えを固く信じていました。ですから、社会的に正常な生活を営むためには、必ず自分の住んでいる小教区の教会のメンバーでいる必要がありました。
 人々は生まれたときの洗礼から始まり、教会の正式なメンバーとして認められるための初聖体、堅信といった儀式を受け、教会で結婚式を挙げ、臨終の際も神父さんから特別な儀式を授けてもらって旅立っていきました。
 教会無しの生活が考えられなかった人々にとって、自分達の教会の守護の聖人の祝日は、村や町のお祭りとして盛大に祝われました。フランドルではこのお祭りを“ケルメス”と呼びます。
 ケルメスの情景や雰囲気をもっともよく教えてくれるのは、有名なフランドルの画家、ピーター ブリューゲルの作品だと思います。その中でも、「農民の結婚式」、「屋外の農民の婚礼の踊り」、それに「野外劇と行列のあるお祭り」などが代表的な作品ではないでしょうか。
 食べて、飲んで騒ぐのが大好きな農民達、粗野で適当に卑猥な農民達、村の教会の守護の聖人の像をかついで敬虔に行列をする農民達等の姿から、聖俗入り混じった当時のフランドルの農村の生活を知る事ができます。 
 辛い農作業や厳しいフランドルの冬の合間にある結婚式やお祭りは、農民達にとって最大のイベントであり、娯楽だったのでしょう。結婚式が村祭りと変わらないどんちゃん騒ぎの機会であったことは、ブリューゲルの絵がよく見せてくれています。
 フランドルのケルメスの話になると、私はどうしてもこの話しを皆さんにしたくなります。この話しはすでに本会報に書いていますので、読んだ事のある方は我慢をして下さい。
 時は16世紀の後半、今のベルギーやオランダがフェリペ二世治下のスペイン領だったころのお話です。ちょうど、ピーター ブリューゲルが活躍していた時代でもあります。
 フェリペ二世は父親のカルロス五世と違って、スペイン以外の領土に興味を持たない王様でした。フランドルに派遣されていたフェリペ二世の代官は、圧政によってフラマンの民衆を苦しめていました。
 代官の圧政を覆す為、フラマンの民衆の立ちあがる時が来ました。フランドルの各地で秘密の集会が持たれ、民衆蜂起の作戦が練られました。ある村で次のような作戦を実行する事になりました。
 村祭り、ケルメスの日に近くに駐屯するスペイン軍の将校を祭りに招待する。招待された将校達を村の娘や若女房が相手をして、村で出来る地ビールをたっぷりと飲ませる。その間に、子供や年寄りは森に隠れ、屈強の男どもが武器を持って密かに村を取り囲む。
 娘や若女房は、各自酔った将校を一人自分の家に連れこみ、ベッドに誘い込む。そして、将校を無防備の状態にして、自分の貞操を危機にさらす前に、村に入ってきている男どもに決まった合図をする。これを受けて男どもが家に飛び込み、将校を殺してしまう。という世にも珍しい作戦でした。
 ケルメスの日が来ました。スペイン軍の将校達は、自分達を敵視していると思っていた村の人達が、お祭りに招んでくれたので上機嫌です。村の娘や若女房は愛嬌たっぷりでもてなしてくれます。ビールも誠に結構でした。しかも家にまでよんでくれるではありませんか。
 全ては計画通りに運びました。各家の近くまで忍び寄っていた男どもは、合図があるのを今か今かと待っていました。しかし、合図がありません。そのうちスペインの将校達は上機嫌でそれぞれの家から出てきて、女達に“来年のケルメスを楽しみにしてるよ”などと言って帰っていくではありませんか。
 そうなのです。村の娘や若女房はスペイン将校の情熱に我を忘れ、合図をすることをすっかり忘れてしまったのです。その後、村には髪の毛の黒い、スペイン風の顔立ちをした子供が何人か生まれたそうです。めでたしめでたしです。
皆さん、よいお年をお迎え下さい。