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No.78 世界の日曜日

No.78 世界の日曜日



 明けましておめでとうございます。
 2002年も宜しくお願いいたします。
 [新ベルギー物語]も78回目になりました。“もう、いいんじゃない”とおっしゃる方がおられるかと思いますが、“毎月、楽しみにしているよ”とおっしゃって下さる方もおられますので、日本人会広報委員会のお許しがある限り、今年もこの物語を書き続けていきたいと思っています。
 誰でも考える事ですが、新しい年はどんな年になるのでしょうか。平和と繁栄に満ちた明るい年が期待できるのでしょうか。或いは、争乱やテロ、不況に蹂躪される暗い年が待っているのでしょうか。
 2001年の年頭に、誰がニューヨークのワールドトレードセンタービルに突っ込む飛行機の姿を予測し得たでしょうか。そして、多発テロに続くアメリカの対タリバン戦争の可能性を見通した時事評論家、或いは軍事評論家がいたでしょうか。
 私たちの住むこのベルギーで、昨年のお正月に、スイス航空やサベナ航空の倒産を口にした人がいましたか。サベナの経営不振は慢性的なものでしたが、まさか倒産して一万数千人が職を失うなどと、誰が想像できたでしょうか。
 事件が起きた後で、「そういえばそれらしい兆候があった」とは、よくいわれる事です。
 スイス航空は、マーケットの動向を見誤り、自社の体力をはるかに超える機材の投入や新規路線の拡張に走り、破綻への道を歩みました。経営上の完全な失敗です。
 一方のサベナ航空は、スイス航空との業務提携に活路を見出そうとしたのですが、
これが裏目に出てしまいました。スイス航空の拡大路線に乗せられ、無用の機材を購入したり、採算の取れそうもない新規路線を開設してみたり、スイス航空の子会社から法外な値段で機材をリースしたりと、スイス航空のいいなりになってしまいました。
 株式の51%を保持しながらスイス航空の経営方針に盲従し、サベナを破綻へ導いた旧サベナ経営陣の判断の甘さとその責任感の欠如は、大いに糾弾されてしかるべきだとおもいます。
 私は仕事柄、サベナには沢山の知人がいました。主に営業関係の人が多かったのですが、みんな失業してしまいました。やる気と能力のある人が多かったのに、本当に残念です。
 しかし、サベナが国営であった頃には、どうしようもない人間が結構いいポストに就いていた例がいくつもありました。そのうちの何人かは、今すぐにでも名前をあげることが出来るほど、その無能力とやる気のなさが印象に残っています。
 ベルギーは、ある役所の大臣が代わると、その役所の門番まで入れ替わると言われるぐらい、政党がらみの人事の多い国です。
 学生が卒業を控えて就職活動をする場合、まずやるべき事は、有力政党に党費を払って党員になるか、有力政治家の後援会の会員になることだとも言われています。そうしないと、いい会社に入ったり、公務員としての出世が望めないのだそうです。
 上記の件は極端な言い方なのでしょうが、ベルギーの国営企業は勿論、財閥系大企業のトップ人事に関しては、かなり政党色の濃い人事が行われているのは周知の事実です。
 先日、ブリュッセルのある新聞に、ベルギーの郵便事業の総裁並びに役員の政党色、言語、報酬などが各人の顔写真いりで出ていました。それを見ると、総裁及び役員の6割が担当大臣の政党、フラマン自由進歩党色の強い人でした。しかも、6割は全員フラマン語系でした。
 最近、フランス語系社会党のエリオ ディルポ党首が、郵便事業総裁の郵政事業改革のやり方や、総裁の個人的能力などを厳しく批判しました。これは、郵便事業のトップに、自分の党関係の人間を据えたいという、下心があるからなのでしょうか。
 サベナのマネージメントにスイス航空の人間が入るようになってから、サベナの政党がらみ人事はかなり姿を消しました。私が本当にどうしようもないと思っていた男は、父親がフラマンのキリスト教社会党の有力政治家でしたが、課長のポストを外されました。
 サベナの中で長年行われてきた政党がらみの硬直した人事が、一万数千人の失業者を生み出したのでしょうか。身内に甘いぬるま湯的経営が、厳しい世界の航空業界の現状に対応し切れなかったのでしょうか。
 スイス航空との提携も、ルフトハンザの若きエースと言われたクリストフ ミューラー氏を社長に迎えたのも、全てが遅すぎたのかも知れません。
 会社の経営も人間関係も、緊張感や危機感を失うと惰性に陥り、健全さを失い、衰退や関係の悪化を招きます。これは、国際関係にもいえる事です。
 フランスにBernard-Henri Levyという気鋭の哲学者がいます。彼は哲学者として世に出た人ですが、現代文明批評家としても活発な発言をしています。
 彼の現場主義に立脚した鋭い現代文明の分析と批評は、高い評価を受けています。さらに、その貴公子然とした知的風貌と、爽やかで明快な語り口からマスコミの寵児となり、よくテレビに登場しています。
 この間見たフランスのテレビで、ベルナールアンリ レヴィが今回の多発テロ事件とアメリカの対タリバン戦争について面白い分析をしていましたので、彼の意見を参考にちょっと書いてみたいと思います。
 今回の一連の事件は、世界の日曜日に起こった出来事なのです。
 第二次世界大戦後の世界の歴史は、アメリカを中心とした西側陣営とソビエトを中心にした東側共産圏との対峙によって動かされてきました。善きにつけ、悪しきにつけ、戦後の世界政治には常に緊張があり、その緊張に裏打ちされたある種の平和がありました。
 しかし、ソ連の崩壊により、アメリカを中心とした西側世界は対峙すべき相手を失いました。世界を動かしてきた政治構造に、大きな空白が生じました。
 このときから、世界は休日に入ったのです。ロシアは自分の家の大改造や、食料の確保で手が一杯の状態で、とても他人様の家の事に干渉している余裕はありません。
 アメリカやヨーロッパ諸国に、日曜日の朝寝坊を楽しむ余裕が生まれました。日頃出来なかった家の中の片付けごとや、ペンキ塗り、修理、庭の手入れなどをする時間もできました。
 そして、アメリカにブッシュ政権という、アメリカ以外の事に関心の薄い、世界の休日を大事にする政権が誕生しました。ブッシュ政権は、アメリカ抜きには実現不可能なイスラエルとパレスチナの和平交渉にさえ距離を置くぐらいですから、アフガニスタンなどまるで眼中に無いという態度でした。
 その間に、アフガニスタンではタリバン政権が着々と支配地域を広げ、オサマ ビンラデンはタリバンの協力の下にテロリストの訓練基地を充実させ、アルカイダ組織の拡充に余念がありませんでした。
 時々、ヨーロッパの人権団体がアフガニスタンの女性の地位について抗議の声を挙げましたが、タリバンやビンラデンにとって、それは窓の外でチュンチュン鳴いているスズメの声ほどの影響もありませんでした。
 多発テロの直前に暗殺された北部同盟のマスード将軍は、何度かヨーロッパに来ています。欧州の主要国を歴訪して、アフガニスタンの現状への理解を求めると共に、ビンラデンとその組織の危険性を訴えました。しかし、マスード将軍の訴えにまともに耳を傾けたヨーロッパの首脳はいませんでした。
 それどころか、マスード将軍の会談要請に対して、フランスのシラク大統領やジョスパン首相のように門前払いを食わせる首脳がほとんどでした。
 世界はやっと手にした休日を、邪魔されたくなかったのです。ソビエトに代表されていた共産圏からの脅威がなくなり、人々は他人のことに関心を払わなくなりました。共産党政権の中国やベトナムでも市場経済を導入し、或る分野では西側と価値観を共有するようになりました。キューバのカストロ首相は老いました。
 しかし、日曜日の平和は偽りの平和でした。家の外で起きている事に目をつむり、沢山の問題を抱えている隣人に無関心を装って、偽りの平和を楽しんでいたのです。
 世界の休日は無残にも、最も悲劇的な形で打ち砕かれました。マンハッタンのツインタワーに、ハイジャックした飛行機を乗客もろとも激突させるという、ビンラデンの悪魔的テロが世界を震撼させました。
 アメリカは休日の朝寝から叩き起こされました。怒りと報復の声が澎湃として起こり、超大国の巨大な戦争マシンが動き出しました。そして、アメリカの対テロ作戦に対してヨーロッパ諸国だけでなく、ロシアや中国までが協力を表明しました。その後の動きは毎日報道されている通りになりました。 結局、世界に休日は無かったのです。
 旧約聖書の創世記に、神さまがアダムとイブの人類創造を始め、天地創造の仕事を6日間で仕上げ、7日目に休息されたという誠に牧歌的な記述があります。これが日曜日の始まりなのでしょう。
 今は大多数の先進国で土、日が休みになっていますが、6日間働いて1日休むという人間の生活のリズムを考えた創世記の作者は、人間には休みが必要という事実をよく分かっていた人だと思います。 もっとも聖書は、書いた人が神さまからの霊感を受けて書いたそうですので、神さまが休みを考えて下さったのかもしれません。
 国際関係や世界の政治に休みがないとしたら、私たちの日常の人間関係には休みがあるのでしょうか。
 例えば、会社の嫌な上司と口をきかなくてもいい日、顔を見なくてもいい日などがあれば、すごく助かると思いませんか。或いは、奥さんがその日一日は旦那さんの存在を忘れてもいい日なんかも役に立つかも知れません。逆も然りですが。
 口うるさい隣りの奥さんと、週に一度だけでも口をきかなくてもいい日があったら、精神衛生上どれだけ助かることでしょうか。
 幼稚園に子供を送っていくと必ず出会うブランド品自慢の何とか夫人と、その日は絶対に会わないという日があったら、ずいぶんと気が楽なことでしょう。
 子供がちっとも可愛くないのに、可愛いと言わないと機嫌を悪くするお隣りの奥さんとその子供の顔を、一日でも見なくていい日があったら、気分がすっとしませんか。
 人間関係で、国際関係と同じく、まず休みのない関係があるとしたら、それは恋する二人の関係でしょう。人間は人を愛している時、休みを必要としません。
 恋する二人は毎日どころか、一分でも一秒でも多く一緒に居たいと思うでしょう。恋する二人の吸引力はスキマを排除します。
 しかし、そういう時代は長くは続きません。時間と共にスキマが入り込んできます。お互いの間にちょっとしたスキマがあるからこそ、二人の関係が長続きするのです。
 もっとも、スキマだらけの関係になってしまうと、これはまた問題です。お互いが相手に対する関心を失ってしまう訳で、世界の日曜日と同じことになります。或る日、思いがけない反撃を食う危険があります。
 皆さん、大丈夫ですか。折を見てスキマを埋める努力をしてないと、粗大ゴミとか濡れ落ち葉などと罵られ、或る日ポイと捨てられますよ。 

No.79 カージャック顛末記

No.79 カージャック顛末記 



 “とうとう”というか、“ついに”というか、“結局“というか、やられました。そうです。やられたのです。
 私のベルギー在住も、30年近くになろうとしています。この国で経験できることは、たいてい経験してきたつもりです。でも、よもや自分がカージャッカーに襲われるとは、思いもよりませんでした。
 地元の新聞によりますと、ベルギーではほとんど毎日のように何処かでカージャックが起きています。特に多いのが、フランス国境に近いシャルルロワ地区です。
 昨年のことですが、ベルギーサッカーの元有名選手、エンゾ シッフォさんもシャルルロワの中心街のレストランで、友達と遅い夕食をとっていた時、カージャックに合いました。まだかなりのひとが食事をしているレストランに、覆面をして銃を持ったカージャッカーが入って来て、シッフォさんのテーブルに直行し、車のキーを要求しました。ギャング共は有名人、エンゾ シッフォの顔を知っており、彼が車をパークするところも見ていたに違いありません。
 賊はキーを奪うと、たちどころにレストランから姿を消し、シッフォさんの車で逃走しました。後で聞いた話では、盗られた車はシッフォさんのものではなく、彼が友人から借りた車だったそうです。
 以前に、ニューヨークタイムズがシャルルロワは犯罪率が高く、治安が悪いという内容のレポート記事を掲載したことがあります。これに対してシャルルロワの市長さんが、事実に反するとして同紙に厳重抗議をしました。でも、本当にカージャックが多いのですから、仕方がありません。
 さて、私のカージャック体験ですが、これはシャルルロワではなくてブリュッセルにおいてでした。
 事の次第は次の通りです。
 日時は、2001年12月某日、午前零時30分頃のことです。場所は、高速E―40をリエージュからブリュッセルに向かって来た場合の出口、Woluwe-Evereを出た所です。スーパーマーケット“Cora”の後ろの辺りです。
 夜中の12時過ぎまで何をうろうろしてたのかと、疑念を持たれる方のためにちょっと詳しく説明します。
 その日は乗馬の日でした。冬は森に出られませんので、屋内馬場で先生のレッスンを受けます。レッスンは夜の8時から9時までです。レッスンの後、馬から鞍や轡を外して片付けたり、馬に人参をやって労をねぎらったりしていると、もう9時半ごろになります。
 それから、クラブのバーで仲間と一杯飲みます。たいていの場合、一杯では終わらずニ杯ぐらいになります。ですから、夕食にありつけるのは、いつも夜の10時過ぎになるのです。
 当日は、仲間の提案で夕食をクラブのレストランでとらないで、昔の仲間が集まっているワーテルローのレストランに行く事になりました。私の乗馬クラブはGroenendael(Overijseの近く)にあります。そこから東リングにすぐ入れますので、ワーテルローまでは10分ぐらいで行くことができます。
 乗馬仲間との楽しい食事を終えて、ワーテルローのレストランを出たのは夜中の12時を回っていました。リングからリエージューブリュッセルの高速に入り、いつものようにWoluwe-Evereの出口を出ました。
 私はWoluwe St-Lambertに住んでいますので、高速を出て陸橋に上がったら左に曲がります。20メートルぐらい行くと右手に信号があります。左手前方にはスーパーCoraが見えます。
 私が信号機の所にさしかかった時、信号がちょうど赤になりました。私が信号の前で車を止めたのと殆ど同時ぐらいに、左手の車線から白っぽい小型車が急進して来て、私の車の行く手をふさぐようにして止まりました。そして、その小型車から覆面をしてピストルらしい銃を持った二人の男が飛び出して来ました。
 一人は私の車の正面に立って、両手で持った銃を私に向けました。引き金を引けば、私の頭に当たるぐらいの高さです。頭からすっぽり被った覆面からは、両目と口しか見えません。かなり大柄な男でした。
 もう一人は、私の車の左手、運転席の方に走り寄り、ドアを開けようとします。幸いにもドアはロックされていて開きません。私は正面の男から目を離しませんでしたので、ドアを開けに来た男はよく見ていません。
 自分で言うのも何ですが、私はその時驚くほど冷静でした。火事場のバカ力と同じで、人間は緊急事態に遭遇すると、日頃持ってない能力が出てくるみたいです。
 正面に銃を構えている男の目や口元を見ていましたし、銃身の色や長さも記憶しました。横の男はドアが開かないので、何か叫んでいます。実際には、映画を見ているようでした。そして、“なるほど、カージャックはこうやってやるのか”と思いました。
 問題は、どうやってこの場から脱出するかです。ギャング共の車が行く手をふさいでいましたが、右手にハンドルを大きく切れば通り抜けられるぐらいの余裕はあります。しかし、車を前進させることはできません。前進させれば、正面の男が車に轢かれると思って、発砲する危険があります。
 脱出の可能性は一つしかありません。バックすることです。私は、横の男が正面の男に何か言おうとして車をちょっと離れたスキに、ギアをバックに入れ、急後進しました。日頃はバックが苦手なのに、この日は一直にバックが出来ました。
 高速の入り口の所までバックをして逃げ道を確保した上で車を止め、相手の出方をうかがいいました。彼らは、私の行動に意表をつかれたのか、或いは私が高速の方に逃げずに車を止めて、彼らの動きを見ている事に恐れをなしたのか、自分達の車の飛び乗って、反対車線を私の方に向かって走ってきました。
 これを見て私は車を急発進させ、アクセルを踏んでスピードを出し、彼らの車とすれ違いました。すれ違いざまにクラクションを大きく鳴らし、“バカヤロー”と叫んでやりました。勿論、車の中で叫んだのでギャング共には聞こえていません。
 彼らがUターンをして、私を追いかけてくるかどうかバックミラーで注意して見てましたが、彼らはEvereの方に逃げていきました。
 家に帰って落ち着いてみると、さすがに恐ろしい目に合ったという実感が湧いてきました。もし、正面の男が車のバックを阻止しようとして発砲していたら、至近距離なので私の頭か顔に命中していたかも知れません。
 翌朝、会社に行く途中にWoluwe St-Lambertの警察に寄りました。警察に“お宅の管轄区内でカージャックがありましたよ”と、ひとこと言っておこうと思ったからです。
 ところが、警察の窓口でカージャックの事実を話すと、たちまち上の部屋に連れていかれ、調書を取られることになりました。
 係官は私の話す事実をタイプしながら、彼らが持っていた銃が普通のピストルだったか、リボルバーだったか分かりますかと聞きました。勿論、そんなことは分かりません。すると彼は別室に行って、弾を抜いた本物の銃を二挺持ってきて私に見せてくれました。私は即座にリボルバーを指して、これですと言いました。正面の男が私につきつけた銃は、回転式弾倉を装置したリボルバーだったのです。
 係官は、私の冷静さを誉めてくれました。“あなたは本当にサムライの国から来た人ですね”とも言いました。しかし彼は、私の行動の中で非常に危険な部分があった事を指摘しました。
 一つは、私がバックをして高速の入り口まで行って車を止めたことです。そのまま逃げるべきだったと言われました。もう一つは、反対車線とはいえこちらに向かって来たカージャッカーの車とすれ違ったことです。
 通常、カージャッカーは“商品“である被害者の車を傷つけないよう、発砲は控えるそうです。でも今回は、カージャックに失敗した腹いせに、すれ違うあなたの車に
二人がいっせいに発砲したら危なかったですよと言われました。
 今考えれば、確かに高速に入ってそのまま逃げるべきでした。でも何故かあの時は、車を止めて相手の出方を見てやろうという気になったのです。生来の野次馬根性が、場違いな所で頭をもたげたのかも知れません。
 出来あがった調書にサインをして、やっと警察から解放されました。やれやれと思って警察を出ようとすると、係官が、ちょっと車を見せてくださいと言うではありませんか。これはまずいと思いました。何故なら、私は車を駐禁の場所に止めておいたからです。
 警察に用事があって行くのに、警察前の駐禁に車を止めるバカは余りいないかと思いますが、もう手遅れです。車の所に案内すると、係官は車をひと渡り見てからにこりと笑って、次回は別の場所に止めた方がいいですよと言ってくれました。親切なお巡りさんです。
 さて、私のカージャック体験から以下のような注意事項を考えてみました。 
1.夜間、日中を問わず、車を運転する時は安全ベルトを締めるのと同じく、必ず     
  ドアをロックすること。
2.夜間、高速道路を出る時は多少遠回りでも、周囲に民家の多い出口を選ぶこと。
  周囲にカッフェやレストランなど、夜間でも人のいる場所があればもっとよい。
3.もし民家の少ない高速の出口で赤信号に出会い、自分以外に車がいない状況に 
  立ち至った場合,車の前後左右に細心の注意を払い、ギアをいつでも発進できる
  状態にしておくこと。場合によったら赤信号無視の発進も覚悟すること。(警察に
  この点を確かめましたが、危機的状況の場合はやむを得ないでしょうといわれま 
  した)。
4.警察に言われたことですが、カージャックに襲われたら抵抗せずに車のキーを渡
  すことが原則だそうです。特に車のドアを開けられたら、一巻の終わりと思って
  ください。    
5.夜間、レストランや知人宅を出る時、ついて来る車がいないかどうか注意するこ
  と。もし不審車をマークしたら、民家の多い場所に車を止めてライトを消し、そ
  の車が行き過ぎるのを待つこと。
 他にも気をつけることはいろいろあると思いますが、皆さんも十分に気をつけてください。
 ところで、私がカージャックに合って考えてことは何でしょうか。それは、これで[新ベルギー物語]のネタが一回分出来たということです。
 今や、日本人会の会報に拙文を書くのも、命がけの仕事になりました。この連載を続ける上で、私の身に万一のことが起こり、家族が路頭に迷うような事態になったら、どうなるのでしょうか。
 日本人会広報委員会の方で、息子の学費ぐらいは見てくださるのでしょうか。一度広報委員長にお伺いしてみようかと思っています。

No.80 風船

No.80 風船



 最近、身辺にいろいろな事が起こります。
 先月号でカージャッキングの話しを書きましたが、今月号でも車に関係のある話しを書きます。 
 本当は、ひとさまにお話しできるような内容の話しではないのですが、皆さんのご参考のため、敢えて恥をしのんで書かせていただきます。
 先日、ベルギーに来て初めてというか、生まれて初めて風船を吹きました。風船もただの風船ではありません。アルコールテストの風船です。
 場所はウォルウェショッピングセンターの横の道路です。正確には、Boulevard de la Woluweと呼ばれている道です。そこに検問が設けられていました。
 その晩は、しばらく会ってなかったベルギー人の友達夫婦と食事をしました。 二人ともアルコールを一滴も口にしない人達なので、私も彼らに合わせて余り飲みませんでした。
 そうは言っても、“ワインのない食事は太陽のない毎日と同じ”という格言(?)を
信奉している私ですので、食事に合わせてグラスワインを2杯だけ飲みました。本当に2杯だけです。
 レストランで友達夫婦と別れて車でショッピングセンターの近くにさしかかりました。そこで、ものものしい検問を見た時は、何か大きな事件が起きて、犯人逮捕の検問を張っているのかと思いました。すぐにそれが、アルコールテストの検問だとわかっても、別に恐れはしませんでした。 血液中のアルコール濃度が許容量を超えてないという自信があったからです。
 現場の状況は次のようなものでした。(東洋人と見て、現場にいた警察官は最初から最後まで英語で話しかけてきました)
 警官一「お酒を飲んできましたか」
 神藤「はい、ほんの少し」
 警官ニ(仏語で)「通してやれよ。しらふだぜ、このアジア人」
 警官一( 同 )「いや、念のため調べた方がいいよ。東洋人の顔って分かんな  
            いから」
 警官一「この風船を思いっきり吹いてください」
 神藤(渡された風船を吹いてから)「こんなもんでいいですか」
 警官一(風船の数値を見てから)「吹き方が足りないですね。もっと、思いっきり吹  
    いてください」
  神藤(もしかしてひっかかるのかしらと、内心やや不安になりながら吹く)
  警官一(再度風船の数値を見て、同僚に仏語で)「どうするこれ、ぎりぎりだぜ
      この数字」
  警官ニ(何故か私に好意的)「このぐらいならいいだろう。行かせてやれよ」
 現場は次々と停められる車の検問処理で、20人ぐらいの警官がいました。そこには当然、責任者として検問隊長とでも呼ぶべき上官がいます。
 実はこの隊長さん、誘導されて脇道に車を寄せた私に、最初に私に話しかけてきた人でした。ところが、車の中に東洋人がいたせいか、或いは私が下手な英語を使い始めた為か、とたんに不機嫌になり、部下に私のことを任せて、一台後ろの車の所に行ってしまいました。
 しかるにこの隊長さん、部下の話し合いを小耳にはさむや、つかつかと私の車の方に来るではありませんか。嫌な予感です。
  隊長(仏語系で英語がほとんどできない)「ちょっと見せてくれ、その数字」
  警官ニ(私の弁護士みたいな役割)「アンリ(同僚)とも話していたのですが、こ
      の程度なら問題はないかと思いますが」
  隊長「ぎりぎりでも数値に達しているだろう。ダメだ、ダメだ。必要な処理をす
    るんだ」
  警官一(私にむかって)「あなたね、アルコテストがポジティブなのよ。ここに車  を置いて、3時間後に取りに来なさい。I.Dカードはその時返すから」
  神藤「分かりました。家も近いですから3時間後に取りにます」
 ここで素直に車を置いて家に帰ればよかったのですが、私は何故か車の中にあったカージャッキングの調書のコピーを思い出しました。
 コピーを取り出して警察官に見せて、「この車はカージャックされそうになったことがあるんですよ。ですから、ボクが取りに来るまでちゃんと見ててくださいよ」と、余計なことを言ってしまいました。
 こんな事を言った裏には、自分はカージャッキングの被害者であるから、多少は甘く見てくれてもいいではないか、と言う下心があったのも事実です。
 警官一氏が不機嫌隊長に調書のコピーを見せ、私の言った事を仏語に訳しました。
 私は最初に英語で答え、そのまま警官一、警官ニの両氏と英語のやり取りをしてましたので、今更、実はフランス語が少しは分かるのですが、などと言えない雰囲気になってました。そんなことを言ったら、彼らの会話を盗み聞きしていたことがバレてしまいます。下手をしたら盗聴罪で留置所に放り込まれるかも知れません。
 私の言ったことが分かると、不機嫌隊長は顔を真っ赤にして怒り出しました。
  隊長「生意気なことを言う東洋人だな、こいつは。分かった。この車を一番安全
     な場所に置いてやる。レッカー車を呼べ」
  警官ニ「あなた、よけいな事を言うから隊長怒っちゃったよ。あなたの車、レッ
     カー車で持って行かれるよ。費用はあなた持ちだし、車を取りに行くの
     だってタクシーを使わないと行かれない場所なんだから」
  神藤「いや,申し訳ない。隊長さんにレッカー車を呼ぶのをストップするように
     言ってもらえませんか」
 親切な警官ニ氏は私の言うことを隊長に伝えてくれました。しかし、隊長は聞く耳を持ちません。もうレッカー車を呼んだからダメだと言うばかりです。
 寒い路上で待つうちに、レッカー車がきました。私は車を遠くに持っていかれるにだけはやめてもらおうと、再び警官ニ氏に頼みました。
  神藤「レッカー車の経費は払いますから、車をここに置いてください。それにし
     ても、頼みもしないレッカー車を呼んで金を払わせるおタクの隊長のやり
     方はひどいね。警察の横暴だよ、これは」
  警官に「レッカー車の経費を払うなら車はここに置いておくから大丈夫。でも
      これ以上隊長を怒らせることは言わない方がいいよ」
 結局私は3時間後の午前1時に車を取りに現場に戻りました。この時間帯になると、レストランや招待先からの帰りが多いと見えて、次々と捕まっています。中には、足元も覚束ないほど酔っているドライバーもいます。さすがにこの人は、警察の車に乗せられて連れていかれました。
 車を受け取る前に、もう一度風船を吹かされるかと思っていましたら、なんにもなくて、すんなりと車のキーやI.Dカードを返してくれました。
 以上が、私の恥ずかしい経験です。
 ビールをソフトドリンク並に考えるこの国で、飲酒運転が多いのは誰でも知っている事実です。 以前に地元の新聞で読んだことがありますが、さる地方の市会議員が議事場に酩酊状態で入って来て問題になりました。しかも車を運転して来ていました。この議員さんは非難に答えてこう言いました。
 “何が問題なのかわらない。私はビールを7杯しか飲んでないのに。”
 いずれにしましても、お互いに気をつけましょう。飲酒運転がよくない事は自明のことです。
 関連した話しですが、ベルギー政府は現在、交通法規の大幅な改定を計画しています。2003年1月施行をめどに法案の準備がすすんでいます。
 法案の骨子は次のようなものです。
 まず交通違反を4つのカテゴリー分けます。
 第一のカテゴリー:駐車違反など通常の交通違反。
          罰金は10~250Euro。状況に応じて5.5倍まで増額。
          免停はなし。
 第二のカテゴリー:走行中の携帯電話使用。安全ベルトの不着用。危険な場所への
          駐車。優先道路から来た車に進路を譲らない。スピードオーバ
          ー10Km。
          罰金は50~250Euro。状況に応じて5.5倍まで増額。
          免停もありうる。
 第三のカテゴリー:右側優先の無視。スピードオーバー20Km.雨中の重量トラ
          追い越し禁止無視。
          罰金は50~500Euro.状況に応じて5.5倍まで増額。
          免停もありうる。
 第四のカテゴリー:許可スピードを50%超えたスピードオーバー。高速道路の逆
          走。危険な追い越し。赤信号無視。飲酒又は麻薬服用後の運転。
          罰金は100~500Euro。状況に応じて5.5倍まで増額。
          即時免停。
 ベルギーの交通事故の主要な原因はスピードオーバーです。週末毎に少なくとも10人以上が亡くなっています。週明けの月曜日の新聞には、激しい衝突の結果、鉄屑の塊みたいになった車の写真がよく出ます。そして、即死したした人の名前が列挙されます。
 第四のカテゴリ-に高速道路の逆走というのがありますが、これがベルギーでは以外と多いのです。
 朝の交通情報を聞いていると、“高速何号線、どことどこの区間に逆走車あり、厳重注意“ などという情報が入ってきます。
 夜なら、暗くて高速の入り口を間違えることも有り得るかもしれません。でも、朝から高速の入り口を間違えて逆走路線に入り込むというのは、どうも理解できません。
 ちなみに、逆走ドライバーのことを、フランス語では“Conducteur
Fantome“と言います。”幻のドライバー“とでも訳すのでしょうか。面白い表現ですね。もっとも、こういう人は頭の中が”マボロシ状態“なのかもしれません。 
  恥ずかしい事ですが、実は私も幻のドライバーをやった事があります。
 アメリカで初めて車を運転した時、進入禁止の道路に入り込み,対向車と正面衝突しそうになりました。しかし対向車は親切にもバックをして、私に道を譲ってくれたのです。対向車には初老の夫婦が乗っていました。
 私はアメリカ人の親切に感動しました。なんと心の広いいい人達なんだろうと思いました。
 この経験をアメリカ人の友人スティーブに、アメリカ礼賛を込めて話しました。
するとスティーブは、皮肉な笑いを浮かべてこう言いました。
 「お前もお人好しだな。向こうの夫婦は、お前みたいな交通法規も知らないドライバーに身の危険を感じて、バックして逃げただけじゃないのか」                                 

No.81 サッカーあれこれ

No.81 サッカーあれこれ



 ワールドカップで、私達の住むベルギーが日本と対戦する事になったのは、皆さんご承知の通りです。時節柄、サッカーにまつわる話しを書いてみようかと思います。 
 私は特に熱心なサッカーファンというわけではありません。昔、学校の体育の時間にサッカーをやったぐらいで、詳しいルールも知りません。“オフサイド”が何であるかも知りませんでした。
 サッカー観戦の面白さに目覚めたのは、2000年10月に、アジアカップの試合をベイルートで見た時からです。日本の友人の中に、サッカー気違いが一人いまして、アジアカップを見にベイルートまで行くから、お前も出てこないかと誘われました。
 土地カンの無い人間はこれだから困るのです。レバノンとベルギーがどれだけ離れているか、考えたこともないのです。だいたい、ベルギーがどこにあるかさえ知らないヤツですから、レバノンとベルギー位置関係について説明をする気にもなりません。
 昔から、会えば酒をのんでバカ話しをする気のおけない友達ですし、それに彼は日本語しか話さないので、付き合ってやることにしました。但し、条件として自分が前から訪ねたいと思っていた、レバノンのバルベークの遺跡とシリアのパルミラの遺跡(両方ともユネスコの世界遺産)見学に付き合う事を友達に認めさせました。
 当時のレバノンは、南部でヒズボラとイスラエル軍がドンパチをやっていた頃で、外務省の指定では海外旅行自粛地域に入っていました。でも、お客様を連れていく訳ではないので、自分の責任で行くぶんに構わないだろうと判断をして、出かけました。
 日本から飛んできた友達とパリの空港で落ち合い、そのままベイルートに行きました。ベイルートの空港でレンタカーを借り、市内に入らずにそのままバルベークに向かいました。何故なら私は、アジアカップが始まる前に、自分の見たい所を全部見てしまうように旅程を作ったのです。
 そうしないと、日本の友達はサッカーにしか興味が無い人間なので、先にアジアカップの試合を見てしまうと、遺跡めぐりをすっぽかして日本へ帰ってしまう危険があったからです。
 レバノンは多様な文化、宗教が混在し、歴史の重みが至る所で感じられる美しい国でした。バルベークの壮大なローマの遺跡に感動しました。
 レバノンを見た後、シリアに入るため国境まで車で行きました。シリアの国境警備オフィスで入国ビザの申請をしましたが、これが大変でした。窓口の係官が、ここに来る前にどうしてシリア大使館でビザを取得してこなかったのか、と言います。係官が難癖をつける理由は分かっています。ドル紙幣を掴ませれば問題はないのです。
 実際に私は20ドル紙幣を握っていましたが、他の係官がいるのでなかなか渡す機会がありません。本当はパスポートに挟んで出すのが、正しいやり方だったようです。
私が、ビザを取りたくてもシリア大使館がベイルートに無いから、やむを得ずにここにきたんだと言いました。ベイルートに大使館を置かないなんて、シリアがレバノンを属国扱いしている証拠です。 
 係官は、待っていろと言って奥に行ったきりなかなか出てきません。出てきても我々を無視して他の仕事をしています。私もいろいろな国に行ってますので、この程度仕打ちでへこたれることはありません。窓口にへばりついて係官をじっと見ていました。
 同行の友達はおろおろして、ベイルートへ戻ろうと言って聞きません。彼はもともと遺跡になど興味がないのです。私は、帰りたければお前一人で帰れと言って相手にせず、係官を見つづけました。
 ついに根負けしたのでしょう。係官はしぶしぶと我々のパスポートにビザのスタンプを押してくれました。結局、20ドルは払いませんでしたが、一時間かかりました。
 見たいと思っていた二つの素晴らしい遺跡を見たので、私はそのままベルギーに戻ってもよかったのですが、友達との約束を果たすため、アジアカップの日本―クウェートの試合に付き合いました。
 問題は、二人とも入場券を持っていないことでした。スタジアムに行けばなんとかなるだろうと、ノー天気な我々はレンタカーでスタジアムに行きました。
 余談ですが、ベイルート市内を車で走るのには、相当の覚悟が要ります。赤信号で停まると、後続の車からクラクションを鳴らされます。右手から来る車がいない時は、赤信号でも停まらずに直進せよというのです。
 スタジアムはレバノン軍の兵士が警備についていました。我々の車を見た将校クラスの軍人さんが、何を勘違いしたのかV.I.P用のパーキングに入れてくれました。そばにいた兵士が我々に向かって敬礼までするだはありませんか。
 日本サッカー協会の役員とでも思ったのでしょうか。日本サッカー協会の役員さんが小さなレンタカーを自分で運転してくるはずがありません。それにこっちは、スーツも着てないセーター姿です。我々二人の人品骨柄も、とてもそんな偉い人には見えません。
 V.I.Pパーキングに車を置いた我々は、入場券を手に入れるべくスタジアムの周りを歩き始めました。すると、V.I.P專用入り口と書かれたゲートが目にとまりました。そこでもレバノン軍の兵士が警備についています。
 私は同行のサッカー気違いに、ここから入ってみようと提案しました。彼は、とんでもない、バレて兵隊に捕まったら日本に帰れなくなると、怖気づきます。任せておけと、私は警備の兵士に近づき、ここは確かにV.I.Pのための入り口だね、と聞きました。兵士は、その通りですとこたえます。
 私は、“失礼”と言って中に入りました。同行の気違いが慌ててついて来ます。奥に進むと、受け付けのレバノン美人がにこやかに迎えてくれました。そして、ようこそいらっしゃいましたと、V.I.P用の貴賓席に案内してくれます。
 こうして我々は、信じられない程簡単にV.I.P席に座ってしまったのです。これは一種の詐欺行為に当たるのでしょうか。この事実を会報に公表したがために、ベルギー日本人会会員資格剥奪、永久追放などという厳しい措置が取られないよう、会長及び役員の皆さんにお願いしておきます。
 日本対クウェートの試合は、スタジアムがガラガラでした。両軍の選手には気の毒なほど観客が入っていません。クウェート側応援席は少し入ってましたが、日本側は寂しい限りでした。中東情勢もあり、観戦ツアーが組まれなかったのでしょう。それでも、決死の覚悟で来たのか日本人のサポーターグループが二グループ程いました。
 試合は中村、名波、GKの川口などの活躍で日本の勝利に終わりました。私はサッカーの面白みを十分に味わいました。トルシェ監督の顔も近くで初めて見ました。日本からわざわざ来た友達のサッカー気違いは大喜びでした。
 ただ、試合観戦中に一つ困った事がありました。それはV.I.P席に“本物の”日本サッカー協会の役員諸氏がいたことです。幸い席は離れていましたが、諸氏は自分達以外の日本人がV.I.P席にいることが解せないという顔つきで、こちらをしきりに見てました。同じく、韓国の役員諸氏も我々を見てました。何しろ、全員スーツ姿のV.I.P席に、セーター姿のおっさんが二人いるのですから、どう見ても不正入場者と思われても仕方がありません。
 私は、たまたま隣に座って話し相手になっていたクウェートサッカー協会のハッサン会長と話しこむ振りををして、日韓両国役員諸氏の視線を避けるように努めました。このハッサン氏が面白い人で、一生懸命に日本を応援するのです。日本がいい場面を作ると、立ちあがって喜びます。
 偶然にも、我々の後ろの席にイラクの役員が5人ほどいました。彼らは、ハッサン氏の態度を不愉快に思ったのか、“君はいつから日本人になったのかね“などと、嫌味を言ってきました。しかし、ハッサン氏は全く意に介さないどころか、返事もしません。 かつて自分の国を侵略した国の役員とは口もききたくなかったのでしょう。

 さて、いよいよワールドカップです。6月4日に埼玉スタジアムで日本とベルギーが対戦をします。ベルギーからは、フィリップ殿下やフェルフォルスタット首相等が観戦に行くようです。
 面白いのは、この組み合わせが発表になった時、ベルギー側も日本側もお互いに喜んだことです。つまり、お互いに相手を組みし易しと思ったのです。しかし最近は、相手チームの研究が進んだと見えて、“手強い相手”とか“油断のできないチーム”などといった評価が日本、ベルギー双方のプレスに出るようになりました。
 ベルギーはこれまでワールドカップに11回出場しています。最近は、6回連続出場をはたしていますが、これは開催国になってない国としては、新記録なのです。
 ベルギーのサッカー人口は約47万人と言われています。これは、プロもアマチュアも含めて、サッカーをスポーツとしてやっている人の数です。サッカークラブの数が約2、200で、年間に行われる試合数が約30万試合ぐらいだそうです。
 日本のサッカー人口や、クラブ数、年間の試合数などは知りませんが、人口が1000万のベルギーのサッカー人口や試合数を見ると、結構層が厚いという印象を受けますがどうでしょうか。
 ベルギーの代表チームの名前、モLes Diables Rougesモ(赤い悪魔達)という名前は、皆さんもご存知でしょう。この名前はどうして出来たのでしょうか。
 1906年にブリュッセルのスポーツライター、Pierre Walckiersという人が、赤いユニフォームを着て果敢に戦うベルギーチームの選手達を見て,悪魔のように美しい男達と書いたのが、この名前の始まりだそうです。
 余談ですが、ヨーロッパの言語で、飛びっきりのいい男、美男子のことを悪魔のように美しいと言います。私など、しょっちゅう言われるので困ります(ウソです)。
 先日、ベルギーの代表チーム監督、ロベール ワセージュさんに会いました。
 実は、私は日本のスポーツ新聞「スポーツニッポン」の特別通信員を臨時にやっています。ワールドカップで日本がベルギーと対戦することになったため、ベルギー関係の記事が欲しいと頼まれ、たまに記事を送っています。
 同新聞の依頼で、ワセージュ監督のインタビューを行いました。ワセージュ監督はナショナルチームの監督になってまだ2年ですが、各チームから選抜された選手を巧みに掌握し、非常にまとまりのあるチームを作り上げ、ワールドカップへの出場をはたしました。
 監督は嫌な顔もせず、私の質問に丁寧に答えてくれました。少しも偉ぶったところのない謙虚な人柄は、誰にでも好感をもたれる人だと思いました。私に自らコーヒーをいれてくれながら、リエージュ訛りのあるフランス語で、対日本戦についての監督としての考えを話してくれました。
 ワセージュ監督が一番恐れているのは、選手達が日本チームをあなどって、簡単に勝てるといった誤った考えを持つ事だそうです。日本チームの戦歴を見れば明らかな通り、相当手強い相手であることは間違いのないところと、監督はみています。
 さて皆さんは、6月4日の日本対ベルギー戦ではどちらを応援しますか。勿論、“日本”という方が大多数でしょう。私も日本と言いたいのですが、どうもベルギーを応援しそうな気がします。ベルギーの方が日本に住んだ年月より長いですから。
 右翼関係の方、私を国賊とか不忠者とか言って刺さないでください。私はこれからの人生で、まだヒトハナもフタハナも咲かせようと思っていますので。

No.82 乳と蜜の流れる国

No.82 乳と蜜の流れる国



 パレスチナが燃えています。イスラエルとパレスチナ自治政府の関係は、絶望的なまでに悪化しています。パレスチナ側の自爆テロと、これに対するイスラエル側の報復軍事行動は、終わりのない憎悪の連鎖を生み出しました。
 パレスチナ紛争は、遠い世界の出来事ではありません。私達の住むこのベルギーにもパレスチナ紛争の余波が押し寄せてきています。
 ブリュッセルのアンデルレヒトにあるユダヤ教のシナゴグが、夜間何者かによって焼き討ちされました。又、ユダヤ教のラビ(聖職者)がブリュッセルの地下鉄の中で、アラブ系の青少年グループに襲われ、暴行を受けるという事件も起きています。
 アントワープでパレスチナ支持のデモがあった時、これに反対するグループがデモ隊に襲いかかり、アントワープの中央駅周辺で大きな騒乱が起こりました。もっとも、アントワープの中央駅周辺で、パレスチナ支持のデモの開催を許可したアントワープ市当局の感覚も疑われるところです。 ご承知の通り、あの辺りはユダヤ系市民が沢山住んでいる所です。
 毎日、パレスチナ側とイスラエル側に数多くの死傷者を出しながら、解決の糸口さえ見えないこの紛争はどこから来ているのでしょうか。
 ベルギーの言語問題の起源をたどれば、ローマ時代まで遡らないと説明がつかないように、イスラエルとパレスチナの問題も、気が遠くなるほど歴史を遡らないと説明がつきません。
 旧約聖書の創世記の記述に従うなら、人類の祖、アダムから数えて20代目、大洪水を逃れたノアから数えて10代目に当たるアブラハムが、神の声に導かれて今のイラクの辺りにあったウルの地を後にしました。
 神はアブラハムに、新しい民、人類を代表して神の前に責任を持つ新しい民を創るように命じました。神が人類にメッセージを伝えたい時は、この新しい民を通じて神のメッセージを伝えることを、アブラハムに約束しました。
 これがユダヤ民族の選民意識の基盤になりました。旧約聖書によれば、ユダヤ民族は神によって選ばれた唯一の民族なのです。
 ウルを出たアブラハムは、妻達や羊の群れ、一族郎党を引き連れて南下し、今のパレスチナ、当時カナ-ンと呼ばれていた土地に着き、そこに居を定めました。アブラハムは75才でした。
 アブラハムが新しい民の拠点として居を定めたカナ-ンの地には、第12王朝のエジプトを宗主国とする都市国家群がありました。そして、アジアへの通商路の要所として、繁栄していました。
 カナ-ンの地に居を定めたアブラハムに、神は二つの事を命じました。一つはアブラハムの民を産み増やす事、二つ目は豊かになる事でした。神に仕える為にはお金持ちでなければならないのです。
 アブラハムの一族は増え、お金持ちになりました。富を得る為にはあらゆる手段が良しとされました。アブラハムは自分の妻のサラを妹と偽って、彼女に結婚を申し込む者から贈り物を取ることさえ考えました。
 アブラハムには複数の妻と二人の息子がいました。アガールという女に産ませた長男のイスマイルと、サラとの間に生まれた次男のイザ-クでした。
 何故かアブラハムはサラとイザ-クを愛し、アガールとイスマイルを一族から追い出し、砂漠に追放してしまいました。
 伝説によれば、このイスマイルこそがアラブ人の祖先になったのです。
 ですから、パレスチナ紛争の当事者であるイスラエルの人々も、パレスチナの人々も、祖先を辿れば共にアブラハムに行きつくと言うことになります。
 アブラハムは妻達のなかで最も寵愛していたサラが亡くなった時、彼女の為に特別なお墓を作りました。彼はへブロンの近くにあった洞窟を、ヒッタイト人から買い取りました。
 洞窟の値段は法外なものでしたが、アブラハムはヒッタイト人の言い値の通りに金を払いました。値段は400シュケル、銀で4.6キロでした。
 かつてミッテラン大統領の政策顧問だったジャック アタリの本で読んだのですが、ユダヤ教の学者によれば、この400という数字には深い意味が隠されているのだそうです。
 アラビア数字がなかった時代の数字は文字で書かれていました。ヘブライ語のアルファベットの最後の文字は、数字の400を意味するそうす。つまり、物を計量する際の限界の意味にもなります。
 さらに400を分解すると、50x8になります。8は1週間(7日)の次に来る数字です。一方、50はユダヤ教の律法に定められている土地返還義務年限49年の次に来る数字です。土地返還義務年限というのは、借金などのかたに取った土地であっても、49年たったら元の持ち主に返さなければならないという掟を言います。
 つまり、数字の8も50も、一つの人的時間のサークルを超えた数字なのです。という事は、400の数字は人間の時間を超越した“永遠”のシンボルを意味するという解釈に至ります。
 結論として、アブラハムが400シュケルで買ったヘブロンの洞窟、ひいてはカナ-ンの地全体に対するユダヤ民族の所有権は永遠のものであるという事になります。
 この解釈を皆さんはどう思いますか。単なるこじ付け、或いは悪い冗談と考える人もいるしょう。
 でもこの解釈を、カナ-ンの地、パレスチナ領有権を正当化する上での神の意志として、本気で真面目に考えている人達が、現在のパレスチナ紛争の一方の当事者のなかに、少なからず居るという事実を忘れてはいけないと思います。
 ユダヤ民族の歴史には、放浪と虐殺がいつもついて回りました。
 カナ-ンの地に住みついたアブラハムの子孫達は、飢饉を逃れてエジプトへ移住します。当時のエジプトはヒクソス人という外国人王朝が支配していました。ユダヤ民族はヒクソス人王朝保護を受け、エジプトで幸せに暮らしていました。
 しかし、エジプト人がヒクソスを追放して王朝を建てた頃から、ユダヤ人の地位が奴隷状態になり、モーゼによるユダヤ民族のエジプト脱出が行われます。こん辺の事情は皆さんも映画などでご覧になったことでしょう。
 エジプトを出た後の苦しい砂漠の放浪の旅を終え、ユダヤ民族は神がアブラハムに約束した“乳と蜜の流れる国”、カナ-ンの地に戻ってきました。
 カナ-ンの地は様々な民族の支配を受けますが、最も強大な支配者はローマ帝国でした。ユダヤ民族の境遇は、その時々の皇帝によって変わりますが、一貫していたのは、ユダヤ人税(Fiscus judaicus)を納める義務があったことでした。
 この税を納める事によって、ユダヤ人はローマの神々を拝む義務を免除され、ユダヤ人の間の問題を裁く一種の裁判権を認められました。
 カナ-ンの地はローマ人によってパレスチナ(ぺリシテ人の国)と呼ばれるようになりました。パレスチナのユダヤ人達はローマの支配を脱し、ダビデの神殿を中心にした独立国の樹立を夢見ていました。
 何度かの蜂起が試みられましたが、その都度強大なローマ軍によって鎮圧されました。そして、起源70年の大蜂起の結果、ローマ軍によるエルサレムの徹底した破壊と、ユダヤ人の大虐殺,神殿の破壊によりユダヤ民族は再び流浪の民となりました。
 ローマ帝国の崩壊後、パレスチナには様々な民族が入り乱れて住んでいました。宗教も、ローマ帝国内に広まっていたキリスト教を始め、多数の宗教が混在していました。
 7世紀にアラビア半島でベドウィンの青年、ムハメッドが、神の啓示を受けました。イスラム教の始まりです。イスラムは世界史上まれに見るスピードで、地中海沿岸から中近東へと広まっていきました。
 パレスチナもイスラムの勢力下にはいります。十字軍時代にパレスチナにキリスト教国がでますが、長続きはしませんでした。以後パレスチナは、常にイスラム圏に属してきました。
 1947年に国連の決議で、イスラエル建国が認められました。と同時に、イスラエル建国に反対する周辺アラブ諸国が攻め込んできました。第一次中東戦争の勃発です。そしてこれは、1973年の第四次中東戦争まで続きます。
 その後の長い和平交渉の結果、パレスチナ自治政府が誕生し、イスラエルとの平和共存への道を歩み始めたのは、皆さんご承知の通りです。
 しかし、乳と蜜の流れる国は、今や血と涙の国になってしまいました。
 強大な軍事力を持つイスラエルに対して、石つぶてしか持たないパレスチナ民衆が絶望的な自爆テロに走ります。
 一方、2000年近い年月の間、パレスチナを追われ、虐殺やホロコーストを体験してきたユダヤ民族はイスラエル国の存亡を賭け、400シュケルの土地を死守すべく、広範な軍事行動でパレスチナの民衆を圧迫しています。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれにとっても聖なる都市、三度聖なる都市と呼ばれるエルサレムは自爆テロや、銃弾によって流される血と、家を破壊され家族を失った人々の涙の都市になってしまいました。
 イスラエル、パレスチナの土地は、美しくもまた激しい所です。
 北のガリラヤ湖周辺は緑豊かな美しいところです。春には花が咲き乱れ、小鳥がさえずります。そんな場所で、人々は折り敷いた草花の上に座り、報復よりも赦しを説くイエスの言葉を聴いたのでしょうか。
 余談ですが、ガリラヤ湖で獲れる聖ペトロという魚を焼いたのに、醤油をかけて食べるとおいしいです。
 一方南に目を転ずると、そこには荒々しい砂漠と、生命を寄せ付けない死海があります。北のガリラヤ湖と南の死海は、生と死の二つの世界のシンボルです。
 エルサレムは世界で最も興味深い都市の一つだと思います。この街をユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が命をかけて守ろうとして来ました。
 嘆きの壁の前で熱心に祈るユダヤ教徒の人達、黄金に輝く岩のドームのモスクで、メッカの方に向かって祈るイスラム教徒の人々、聖誕教会や聖墳墓教会で何度も十字を切って祈るキリスト教徒の人達を見ていると、世界の宗教の源泉を見る思いがします。
 イスラエルーパレスチナの紛争がどういう展開をするのか、私ごときに予想もつき
ません。ただ一つ思い出すのは、以前にイスラエルで会ったバスの運転手、メイアさんのことです。
 メイアさんはバグダット生まれのユダヤ人ですが、彼の言った言葉が忘れられません。メイアさんは言いました。“私は毎朝、家を出る時1キロの忍耐を持って仕事に行きます。夕方、家に帰る頃は1キロの忍耐をだいたい使い果たしています”。
 イスラエル、パレスチナ双方の責任者達が、せめて5グラムの忍耐でも持って話し合いのテーブルにつくなら、紛争解決への道が少しは見えてくるのではないでしょうか。甘いんでしょうかね、こんな考えは。

No.83 オジさん文化と十ヵ条

No.83 オジさん文化と十ヵ条



 オジさん文化が売れています。オジさん文化を語らずして、日本文化を語ることは出来ないとまで言われています。オジさん文化を前にしては、平安文化も江戸文化も色あせて見えるほどです。
 燎原の火のごとく広がるオジさん文化の勢いを、政治家が見逃す筈がありません。支持率低下に悩む小泉首相は、次の国会に「オジさん文化振興法」を提出すべく、与野党間の調整を福田官房長官に指示しました。
 これを受けて、日頃対立を続ける与野党も、こと「オジさん文化振興法」に関しては全会一致で法案に賛成の上、衆参両院を通過させることで合意に達した旨、各党の国会対策委員長が談話を発表しています。
 さらに、ここで一気に支持率の回復を狙う小泉首相は、“オジさんサミット”の開催、“オジさん交流基金”の設立、“オジさん親善大使”の派遣など、矢継ぎ早にオジさん文化取り込みの政策を発表しています。尚、オジさん親善大使の有力候補として、志村けんさんが下馬評にあがっている模様です。
 又,日本政府の熱心な働きかけを受けた国連は、“世界オジさんの日”の設定を次期国連総会の議題とする旨、コフィ・アナン事務総長が発表しました。
 民間も負けてはいません。この秋のパリコレに、オジさんモードが発表されるそうです。世界の一流デザイナーが、日本のオジさん達の体型、好みなどを調べる目的で、密かに訪日しているといった噂が絶えません。
 訪日するデザイナーの目的は、デザインのヒントを得ることが第一ですが、もう一つの重要な目的として、パリコレのオジさんモデルを探すことがあります。彼らは日本人のアシスタントを連れて、駅前の小料理屋とか、駅裏の焼き鳥やおでんの屋台などを回ってモデルを物色しているそうです。
 一方、日本百貨店協会並びに全国スーパーマーケット連合協議会はオジさんが好んで着る吊るしのスーツ売り場及びステテコ、丸首シャツの売り場を大幅に拡張する五ヵ年計画を発表しました。
 さて、日本のみならず世界にまで影響を与えつつあるオジさん文化とは何でしょうか。
 答えは非常に難しいのです。一言で答えることは出来ません。オジさん文化は奥が深く、内容が多岐にわたっています。日本の伝統、文化、歴史、政治、経済、日本人のメンタリティー等様々な要素が複雑に絡み合っています。
 オジさん文化解明の手がかりとして、“オジさん”の何たるかについて勉強してみたいとおもいます。
 理解を助けるために、勉強の枠組みを“オジさん十ヵ条”と名付けます。
以下にオジさん十ヵ条の解説をしてみます。

第一条
オジさんの頭はバーコード状が似合います。髪の毛ふさふさは、何故かオジさんのイメージにしっくりときません。オジさん度の進み具合を見る目安は風です。風に出会ったオジさんが、バーコードの頭を片手で押さえるか、両手で押さえるかによって、オジさん度の進み具合がわかるのです。両手で数少ない髪の毛を押さえるけな気なオジさんこそ、尊敬に値する真のオジさんの姿なのです。このオジさん達こそ、紫改電、大正リアップなどの養毛剤の売上に大きく貢献し、日本経済再生への先駆けとなっているのです。

第二条
オジさんのスーツはイトーヨーカ堂や西友ストアーの吊るしが原則です。間違ってもアルマーニなどを着てはいけません。ワイシャツはだび重なる洗濯の結果、首周りが縮んでボタンがかからなくなったのを、ネクタイで隠すような状態が最も似合います。さらに欲を言えば、ワイシャツの袖口に、よく見ると分かる程度のほつれがあれば、オジさん度はぐっとアップすることになります。

第三条
オジさんはおしぼりが好きです。オジさんはおしぼりを貰うと、手だけではなく、顔から首筋にかけてごしごしと拭くのが好きです。機内で客室乗務員の方が、オジさんの使ったおしぼりを、手を使わずに大きなピンセットのようなもので挟んで回収していっても、オジさんは気にしません。オジさんはとても清潔好きなのです。

第四条
オジさんは女の子の手相を見るのが好きです。手相など全然分からなくても、女の子の手相を見たがります。男の手相には興味を持ちません。今どきの女の子は、オジさんの心理をよく知っていますので、“課長さん、私幾つで結婚できるか見てくださ~い”とかなんとか言って、オジさんに手を握らせる出来た子もいるのです。オジさんは聞きかじりのいい加減なご託を並べながら、出来るだけ長く可愛い子ちゃんの手を握り続けようとします。そして、オジさんはなんだかすごく得をしたような気持になり、しばらくは幸せな気分に浸れるのです。

第五条
オジさんはカラオケで歌うとき、片手にマイクを持ち、もう一つの手でマイクのコードを握ります。両手でマイクを握ることはしません。そして自分の得意な持ち歌を歌うとき、感極まったように時々目をつむります。聞いている人も自分と同じように感動していると、信じる傾向があります。カラオケで可愛い子ちゃんとデュエットをしたがるのも、オジさんの特徴です。新しい歌を知らないので、いつも同じ“銀恋”や“居酒屋“を歌って満足しています。可愛い子ちゃんが心の中で、”もう、これで何回め~“嘆いても、オジさんは気にしません。

第六条
オジさんは風呂上りに、身体を拭いた手ぬぐいやタオルで背中をビシバシと叩きます。この行動様式については、世界の文化人類学者がいろいろな説を立てています。一つは、ゴリラや大型の猿が木の枝で背中を叩いて、虻などの虫を追い払う行動様式から来ているのではないかと言う説。 或いは、背中を叩いて血行を良くしようという本能的な動作から来ているという説。或いは、オジさんがタオルや手ぬぐいで背中を叩く行動には何の意味もなく、たまたまそのオジさんが、背中が痒いのでやっただけという説。

第七条
オジさんにとって、食後の爪楊枝は必需品です。
高級フランス料理のレストランで、食後にナプキンで口の周りを軽く拭って、品よくコホンなどと言ってる人達は到底オジさん族には入れません。 オジさんは飲み屋で食べたニラレバのニラが歯に挟まっているのを、爪楊枝でせせり出すのが上手です。そして、“あそこも最近味が落ちたな。オヤジが材料費をけちってるんだろう。もう行くのやめよう”などと言いながら、爪楊枝を口の中で動かしつつ、終電に間に合うように駅に向かって歩くその姿こそ、まさしくオジさん精神の権化といってもいい姿なのです。一部の新聞報道によれば、小泉内閣が準備している「オジさん文化振興法」の成立に最も熱い視線を注いでいるのが、爪楊枝業者の団体「日本爪楊枝製造業者全国連合団体」(通称:ツマレン)だそうです。更に新聞報道を追うならば,ツマレンは同法案の国会成立の暁には、業界として応分の献金をしたいと言明しているそうです。しかしこの献金は、業界の利益導入のための献金であり、爪楊枝疑惑になりかねないと、新聞は警鐘を鳴らしています。

第八条
オジさんは同じことを、少なくとも3回は話します。そして、話す度に、“これ初めて話すけどね”と言います。相手の反応を見て、自分がすでに同じことを話したことに気がつくと、“前にも話したと思うけど”と、巧みに切り替えます。この辺りの会話の機微は、オジさんを相当長くやってないと出来るものではありません。
物忘れをするのはいいことなのです。オジさんの頭には、物忘れをすることによって、新しい知識が入る余地が生まれてくるのです。オジさんは物忘れを気にしません。むしろ、“物忘れ万歳”と毎日叫んでいるのです。

第九条
オジさんは手拍子を打つ時、手を打った後両手をすり合わせるようにします。これは日本古来の伝統にのっとった極めて崇高な所作なのです。相撲の力士が立会いの時にやる所作と起源を同じにしています。酒席で手拍子を打ちながら両手をすり合わせるオジさんの姿に、私達は日本本の伝統、神ながらの道を見る事ができるのです。こういうオジさんをバカカにする人は、日本の伝統に対する自らの無知をさらけ出すことになりますす。注意しましょう。

第十条 オジさんは夢想が好きです。
会社で仕事に一区切りのついた昼下がり、オジさんは越し方、行く末のことなどを考えながら夢想にふけります。可もなく不可もなき人生であった。千葉の先の分譲地に建てた家のローンはまだ残っているけれど、おかあちゃんもパートで少し稼いでくれるし、なんとかなるだろう。二人の娘も、上が短大で下が高三だから、もうちょっとだな。それにしても、経理の直子ちゃんて可愛いな~。さっきエレベーターの中で会った時、オレに会釈した後でにっこり笑顔を向けてくれたけど、もしかしてオレに気があるのでは……。茶髪の軽薄な若造なんかより、オレみたいな渋い中年に惹かれるのかもしんないな。
オジさんはこんな夢想にふけりながら、バーコードの頭に櫛をいれるのです。

 さて、ベルギーのオジさん達はどうなのでしょうか。ベルギーにも日本のようなオジさんはいるのでしょうか。ベルギーにもオジさんはいますが、ちょっと様子が違うみたいです。
 まず、ベルギーのオジさんは定義が難しいのです。頭はバーコードになる前に禿げ上がるケースが多いですし、手拍子も打ちません。手相も見なければ、おしぼりも使いません。ベルギーのオジさんは仕事が終わったら、まっすぐ家に帰り、庭の手入れや家のことをします。だいたいは家をもっています。一年ぐらい前からバカンスの計画を立てます。年間のバカンス予算は一人750Euroぐらいです。
 子供の教育費は、自分達夫婦の老後の予算を考えた上で決めます。有り金をはたいてまで子供を上の学校に行かせたりはしません。子供は子供、親は親ですから。
 こうしてみると、日本のオジさんの方が面白いですね。人間味が感じられます。
 さて皆さん、ご自分は上記“オジさん十ヵ条”に、どのぐらい当てはまりますか。全然当てはまらない方が多いと思います。何故ならこの“オジさん十ヵ条”は、すべて私自身のことだからです。       

No.84 マルセルさんの嘆き

No.84 マルセルさんの嘆き



 先月、ブリュッセルのスカールベークで、モロッコ人の夫婦が隣人のベルギー人によって射殺されるという衝撃的な事件がありました。幸いにも、子供達は現場にいなかったので難を免れました。
 このべルギー人の隣人というのが、80才になる老人で、アラブ人嫌いで有名な人物だったそうです。そして、この老人と隣りのモロッコ人一家との間には、つねづね口論が絶えなかったということです。
 マルセルさんは、この事件のあった通りに住んでいる真面目なべルギー人の工場労働者です。奥さんを亡くし、子供達は独立しているのでスカールべ-クのアパートに独りで住んでいます。
 事件後、数日たったある日、仕事から帰ってきたマルセルさんは自分のアパートの状態を見て、びっくり仰天してしまいました。
 ドアが破られ、室内が目茶目茶に荒らされていました。ソファーは横転し、テレビは床に転げ落ち、デーブルはひっくり返されています。その他の調度品も壊されたり、床にぶちまけられたりで、足の踏み場もない状態でした。
 警察では、射殺された家族の復讐を誓うモロッコ人の青少年グループが、殺人を犯した老人のアパートとマルセルさんのアパートを間違えて襲ったものではないかと見ています。
 彼の災難はまだ続きます。道路を歩いていると、モロッコ人から唾を吐きかけられたり、殺すぞと脅されたりします。彼の体つきが殺人犯の老人と似ていたのでしょうか。冷静に考えれば、逮捕された殺人犯がのこのこと道路を歩いている訳がないのですが、頭に血がのぼっている連中にはこの道理が分からないようです。
 スカールベークのモロッコ人一家射殺事件は、ベルギーの社会に根強く残っている反移民感情を象徴する事件なのかも知れません。そして、この反移民感情はベルギーだけの問題ではなく、今やヨーロッパ全体の問題になりつつあります。
 先のフランスの大統領選挙で、極右政党、Front National(国民戦線)のルペン党首が予備選挙で社会党のジョスパン首相を破り、本選挙に踊り出るという前代未聞の政治的大事件がありました。
 余りのショックに、ジョスパン首相は政界を引退してしまいました。フランスの大統領に選出されることもあながち夢ではなかった有力政治家が、反移民感情や外国人排斥感情を煽り立てるだけのデマゴ―グの極右政治家に敗れたのですから、その衝撃の大きさは計り知れません。
 極右政党の成功はフランスだけに限りません。オーストリーでは極右政党が政権に参加しています。お隣のオランダでは、党首が暗殺された極右政党が大きく票を伸ばし
政権に参加する勢いを見せています。
 私達の住むべルギーでも、極右政党のVlaams Blockが先の地方選挙でかなり票を伸ばしました。アントワープでは、投票した人の4人に1人がVlaams Blockに投票しています。
 極右政党のキャッチフレーズは決まっています。
 移民の増加=治安の悪化、移民の増加=自国民の失業増加、自分達の国は自分達のためにある=外国人排斥、自国民の純粋性を守る=反ユダヤ主義等々。
 世界の歴史は移民の歴史です。世界の民族で純粋な血筋を保っている民族など一つもありません。Viaams Blockがフラマン民族至上主義をいくら叫んでも、純粋なフラマン民族など存在しないのですから無駄なことなのです。ベルギー人の身体には、ヨーロッパ中の血が流れているという事実を、彼らも知っている筈です。
 それでは何故、極右政党がヨーロッパ各国で勢いを増しているのでしょうか。
それはひとことで言えば、治安問題に尽きると思います。日常生活で一般市民が安心して暮らせない現実に対して、既存の政党や政府が有効な施策を講じないことへの不満、及び犯罪者に対する懲罰の甘さへの不満などが、極右政党へ投票する要因になっていることは間違いありません。
 極右政党は一様に“Tolerance Zero”(寛容度ゼロ、つまり小さな犯罪でも見逃さず徹底的に取り締まり、犯人を刑務所にぶち込む)と、犯罪者への厳罰主義を掲げて、票を集めてます。特に移民や外国人の犯罪者は即時国外追放にすると公約しています。
 極右政党に一国を治めるまともな政策などないことは、よく分かっています。しかし毎日の生活で、泥棒や空き巣、引ったくりや掏りの被害に会った人、或いは地下鉄の駅や車内で北アフリカ系の青少年グループに取り囲まれて金銭を脅し取られた人、又は危険なカージャッキングやホームジャッキングに襲われた人が、極右政党に投票したくなる気持ちも分かります。
 私は以前に、カージャッキングに襲われた体験を本稿に書きましたが、実は、その後もう一度カージャッキングに襲われました。第一回目から数えて2ヶ月半後でした。
 カージャッキングなどというものは、一生に一度経験するのもマレなのに、私の場合2度も経験してしまいました。余ほど悪い星の下に生まれてきたのでしょうか。
 一回目の時は、高速を出た陸橋の上で襲われましたが、急バックして難を逃れました。しかし、2回目にやられた時は、逃げられませんでした。場所が自宅ではどうしようもありません。
 その日は夜の10時ごろ帰ってきました。走行中は、バックミラーでつけてくる車がいないかどうかを必ず確認するクセがついています。その晩も、つけてくる車はありませんでした。
 家の前に着き、ガレージの扉を開けるため車から出てそちらの方へ行こうとした時、突然二人の覆面をした男が隣りの家の植え込みの蔭から飛び出して来ました。格好は前回と同じで、目と口だけが見える覆面をし、ピストルを構えていました。
 違う点といえば、前回はリボルバーをつき付けられましたが、今回はピストルをつき付けられれました。銃が鼻先にあるのでよく見えます。
 その時の私の第一印象は、“またか~”というものでした。場所が住宅街なので、敵はかなりあせっていました。いつ、誰が通りかかるか分からないからです。
 “車の鍵を早くよこせ、ほら”と言って、目の前の男がピストルを振りかざします。もう一人は、斜め後ろか私に向けてピストルを構えています。
 こうなってはどうしようもありません。私はキーを渡しました。キーを受け取った賊は、行きがけの駄賃とばかり、私の財布もよこせと言います。財布も渡しました。
 相手はフランス語を話していましたが、アクセントはアラブ人のアクセントでした。背丈や体つきから見て、前回の奴らとは違う連中だったと思います。
 車のキーも財布も渡したのでもういいだろうと、家に入ろうとすると、賊は“動くな、ここにいろ”と言います。私が家に入れば、すぐに警察に電話をすることを奴らは見ぬいているのです。
 私は“ここはオレの家だ、入って何が悪い”と言い捨てて、銃口を背中に玄関のドアに鍵を差し込みました。賊は慌てて車に飛び乗り、猛スピードで逃げ去りました。
 家の中では、何も知らない二番目の娘と末っ子の息子がテレビの前で笑い転げていました。私が、“今、家の前でカージャックにやられたよ“と言うと、二人共びっくりして跳ね起きました。娘は余ほどショックだったらしく、”早く、早く警察に電話、電話“と叫びます。息子は窓に駆け寄り、外を見ましたが勿論賊共はいません。
 私は警察に電話をして、カージャキングの事実、自宅の住所、車の車種、プレートナンバーなど必要事項を告げました。そして、“車はこの界隈で見付かるはずですから探してください”と、付け加えました。
 ギャング共にとって運の悪い事に、私の車にはアンチカージャッキングのシステムが付いていいました。暗証番号を入れてこれを解除しない限り、車はせいぜい3~4分しか走れないのです。
 最初はライトが大きく光り出し、すごい音のクラクションがなり出します。そして、徐々にスピードが落ちてきて車は止まります。後は何をやっても車は動きません。
 パトカーは驚くほどの迅速さでわが家に到着しました。 警官が二人来て、私から事情聴取を始めました。その時、警官のウォーキートーキーに連絡が入り、家からそう遠くない場所で車が見付かった事が分かりました。賊共はびっくりして逃げていったようです。
 財布は数日後に見知らぬ人がわが家に届けてくれました。ザべンテムとビルボードの間の道端に捨ててあったそうです。クレジットカードが一部なくなっていましたが、I.Dカードや免許証などは全部入っていました。
 結局、私を襲ったギャング共は車の奪取に失敗したばかりではなく、1ユーロも稼げなかった事になります。何故なら、その時の私の財布には、お金は一銭も入っていませんでした。カードはすぐに止めましたので、実害はありません。
 とは言いながら、家までつきとめられたのはショックでした。2回もカージャッキングに失敗した彼らが、次ぎはどんな手段で襲ってくるか見当がつきません。家族に危害が及ぶようになったら大変です。
 私は即座に車を処分する決心をしました。この車がある限り奴らが襲ってくることは目にみえています。何がなんでもこの車を奪おうという意図が、はっきりしています。
 最初の攻撃以来、尾行車には細心の注意をはらっていたにも拘わらず、私の家がつきとめられたということは、奴らもかなり本気だと考えざるを得ません。ギャングのシンジケートの車の注文表に私の車の種類が載っていたのでしょう。
 最近、カージャッキングで有名なシャルルロアで若いこそ泥が捕まりました。警察署で当人の所持品を調べたところ変なリストがでてきました。そのリストには、20以上の車のプレートナンバーと住所が書かれていました。住所はシャルルロア地区だけだなく、半分以上はブリュッセルの住所だったそうです。
 ご推察の通り、このリストはギャング共がカージャッキングで奪取すべき予定の車のリストだったのです。リストに載っていた車の持ち主には、警察から注意喚起の連絡が行ったそうですが、連絡を受けた車の持ち主たちはさぞかし落ちつかない気持ちになったことでしょう。
 自分の乗りたい車に安心して乗れない社会は、普通とは言えません。 これは、自分の生まれ育った街を安心して歩けないスカールベークのマルセルさんの嘆きに通じるものがあります。普通に車を運転したり、普通に街を歩いたりすることが出来ない社会はやっぱりおかしいのです。極右政党が票を伸ばす土壌はこの辺りにあると思います。市民は、政治や行政に普通の生活を要求する権利があります。 
 その後私は、わが偉大な祖国、日本の車に乗っています。警察の話しでは、カージャックされた車が流されていくロシアや東欧圏には日本車のパーツが十分に行き渡ってないので、日本車は襲われないとのことですが、本当なのでしょうか。一度日本人会の車関係の方にお聞きしてみようかと思っています。
 意中に好きな女性がいたのに、諸般の事情で見合い結婚をしました。当初は気に染まない結婚と思っていましたが、一緒に暮らしてみるとこの女性がまた実に素晴らしい人で、今や二人は仲睦まじく毎日を楽しく暮らしています。
 私と今の車の関係はこのようなものです。日本の車は本当にいいですよ、皆さん。

No.85 枝豆の独り言

No.85 枝豆の独り言



 今年の日本の夏は大変な暑さのようですね。
 毎年夏がくると、“ベルギーにいてよかった”と思います。私は人一倍暑さに弱いので、日本の夏、特に東京などの都会の夏は、如何に祖国とはいえ好きになれません。多少お天気が悪くても、べルギーの夏の方がずっと好きです。
 とは言いながら、日本の夏にはベルギーでは味わうことの出来ない独特な夏の風物詩があります。風物詩いう言葉は、いい日本語ですね。外国語に直すと、その味わいが消えてしまう日本語らしい日本語ではないでしょうか。
 今の日本で、夏の風物詩が本当に味わえるのかどうか、風物詩という言葉が生きた言葉として使われているのか、よく分かりません。
 風鈴の音を、騒音公害だとして隣人に苦情を申し立てる殺伐とした心の持ち主には、縁のない言葉かもしれません。遺伝子操作でつくられたトウモロコシに醤油を塗って焼いて食べても、風物詩という言葉にはそぐわないような気がします。
 “日本の夏、金鳥の夏”という有名なコマーシャルに、私は日本の夏の風物詩を感じます。日本の夏に蚊取り線香は欠かせません。
 風除けの欅の林を背にした地方の旧家です。夏の日の夕暮れ、つくつく法師が鳴いています。家の前にある池で、鮒か鯉が時々飛び跳ねて、ポチャリという音をたてます。子猫がトンボを捕まえようとして、庭の南天の木の下で飛びあがる姿勢をとっています。南天の木の向こう側に生えている桑の木には、紫色に熟した桑の実が沢山ついています。
 ウスベリを敷いた縁側に老夫婦が居ます。 おじいさんは甚平さんを着てあぐらをかき、井戸で冷やした冷奴を肴に、コップに注いだ冷酒をちびりちびりとやっています。おばあさんは浴衣をきっちりと着て正座し、おじいさんの横に座り、うちわを静かに動かしておじいさんに風を送ってあげています。
 二人の後ろに置いてある蚊遣りからは、蚊取り線香の煙がゆっくりと立ち昇っています。煙は、おばあさんの動かすうちわの影響を受けて時々ゆらゆらと流れます。風鈴の音が、蚊取り線香の煙の流れに唱和したように、小さな音を奏でます。
 おじいさんがぽつりとおばあさんに話します。
 「ベルギーの健一郎からその後何も言ってこないか」
 「2週間前に電話があったきりですよ。行ってまだ2ヶ月ですから、向こうの生活
  に慣れるのに大変なんでしょう、きっと。それに、加奈子さんと健太ちゃんを呼
  び寄せるためのアパ-ト探しもあるし」     
 「健一郎のいるベルギーはどんな所なのかな」
 「なんでも、フランスとかオランダに囲まれた小さな国らしいですよ」
 「蚊取り線香はあるのかな」
 「売ってないかもしれませんよ。宅急便で送ってあげますよ、こんど」
 「蚊取り線香もない国で働くんじゃ、健一郎も大変だな」
 「夏は涼しいらしいから、もしかしたら蚊なんていないのかも知れませんよ」
 「蚊も住まないような国で働くんじゃ、健一郎も大変だな」
 「でも、食べ物は美味しいらしいですよ。これからムール貝が美味しくなるって、
  この間の電話で言ってました」
 「貝しか食う物がないような国で働くんじゃ、健一郎も大変だな。裏の畑の枝豆が
  そろそろ食べごろだろう。健一郎に送ってやったらどうだ」
 「送ってあげるのはいいですけど、ナマ物ですからね。それにあの子、枝豆の茹で
  方なんて知りませんよ」
 「お前が甘やかして、手伝いをさせなかったからだ」  
 「お酒をもう一杯召し上がりますか」
 「うん、もう一杯もらおうか」
 時間がゆっくりと老夫婦の間を流れていきます。
 ざっとこんな情景が、私の思い描く日本の夏の風物詩なのです。今の日本では非現実的な情景かもしれませんが、私が子供だったころの田舎では特に珍しい情景ではありませんでした。西瓜も瓜も豆腐もみんな井戸で冷やしていました。
 ところで、夏の風物詩に関連して、日本では夏が来ると急にちやほやされて、威張り出す輩がいます。その出自を尋ねれば、大した事はないのに、何故か威張り出すのです。ちやほやする周りも良くありません。
 この威張り出す輩とは誰のことでしょうか。枝豆です。枝豆が威張り出すのです。青々と茹で上がった顔をそっくり返して、器の中で同僚より少しでも上に行こうとひしめき合いながら出てきます。振られた塩で薄化粧までしています。客の気をひこうとして、湯気まで立てている奴もいます。浅ましい限りです。
 我々の側にも問題があります。夏は“ビールに枝豆”という公式を、金科玉条の如く信奉し、且つ実践してきた我々にも問題があるのです。この我々の態度が、枝豆共をして、自分達を抜きにして日本の夏は成りたたないとまで、思いあがらせてしまったのです。
 私はここで、各界の識者に猛省を促したいと思います。枝豆なしでビールを飲もうではありませんか。串カツだけいいじゃありませんか。ウインナで飲んで何が悪いのですか。場合によったら、ピーナツとおかき一筋という手だってあります。
 でもダメですね。串カツもウインナもピーナツもおかきも、枝豆にあっさりと負けてしまいます。季節感がないからです。青々と茹で上がった枝豆の季節感にはどうしても勝てません。枝豆には夏があるのです。
 枝豆の増長ぶりに腹を立てながらも、塩の効いた枝豆をプチュンとはじいて口中に放り込み、噛みしめた時の塩味と枝豆の甘味含んだあの味は、“おがじゃ~ん“と叫びたくなるほど美味しいのです。そしてこれが叉、実にビールに合うので、余計口惜しくなります。
 皆さんは、本物の枝豆を見たことがありますか?年中食べられる冷凍物の枝豆ではありません。夏にしか出回らない、枝についている枝豆です。最近、この季節に日本のスーパーや八百屋さんを訪ねたことがないので分かりませんが、昔は季節になると近所の八百屋さんの店先に枝つきの枝豆が並んだものでした。
 私は田舎育ちですので、いつも取れたての新鮮な枝豆を食べる機会に恵まれて育ちました。実家は農家ではありませんが、ご近所や親戚に農家がいましたので、新鮮な野菜や果物に恵まれていました。
 まだ青臭い匂いのする枝豆の束から、豆の莢をもぎとるお手伝いをよくしました。枝豆の莢にもいろいろな形があります。ワンルームマンション風に豆が1個しか入ってない莢。2世帯同居型で豆が2個入っている莢。3世帯同居でやや窮屈そうに豆が3個入っている莢。
 豆の形もいろいろです。一人で気ままにワンルームマンションを使っている豆は、まるまると肥えて本当に美味しそうです。かと思うと、同じワンルームでもやせて何かいじけた感じの豆もあります。会社で苦労してるんでしょう、こういう豆は。一番多いのは2世帯同居型で、豆の大きさも均等なものが多いようです。でも中には、片方が大きくて、片方が小さいというのもあります。嫁と姑の争いでもあるのでしょうか。どちらが嫁でどちらが姑なのか、豆に聞いても青い顔をして答えません。
 枝豆をそのまま成長させると大豆になります。私の田舎では、田植えの終わった田圃の畦に豆を植え、大豆になるまで待たないで、枝豆として自家消費するか、市場に出して売るのが普通でした。
 枝豆が日本の夏に欠かせないものなら、大豆は日本食の根幹食材です。味噌、醤油無しに日本食は成り立ちません。納豆は好き嫌いあるようですが、豆腐の嫌いな人は少ないでしょう。豆腐は大豆のエッセンスが一番よく出る食べ物です。
 豆腐には思い出があります。子供の頃、家の近所に豆腐屋さんがありました。そこに同級生の伊佐子ちゃんがいました。伊佐ちゃんは勉強がよくできました。勉強嫌いの私と仲良しで、いつも一緒に遊んでいました。
 近所のおばさん達が、仲良く遊んでいる私達に、“伊佐ちゃんは勇ちゃんのお嫁さんになるんだね、きっと”というと、伊佐ちゃんはいつも“うん、勇ちゃんのお嫁さんになる”と答えていました。
 おばさん達の中には、“伊佐ちゃんと勇ちゃんは名前が似ているから、きっといいお嫁さんとお婿さんになるね”などと、余り関係のないことを言う人もいました。
 こんなことは、幼い日の思い出として誰でも経験することでしょう。小学校の高学年から中学校に入るころになると、私と伊佐ちゃんはもう一緒に遊ばなくなりました。お互いに意識して、道で会っても昔のように簡単に口をきくことが出来なくなりました。
 伊佐ちゃんと遊ばなくなってからも、お使いで伊佐ちゃんの豆腐屋さんに、豆腐を買いに行くことがよくありました。店に伊佐ちゃんがいると、にっこりと笑っていつも大きめの豆腐を水から掬って笊にいれてくれました。昔の田舎の豆腐屋さんで、全部手作りですから、豆腐にも大きい、小さいができるのです。
 高校、大学と二人は別々の道を歩みました。しかし、大学2年の夏休みに帰省した私は、家族から伊佐ちゃんが短大卒業と同時に青年医師と結婚する予定であることを聞きました。
 幼いころのままごと遊びが現実になることは滅多にないことなので、伊佐ちゃんの結婚話しを聞いても、別にどうということはないのですが、ほんのちょっぴり胸がキュンとなったのは事実です。
 その頃、“愛ちゃんは太郎の嫁になる“という歌が流行っていました。古い歌なので、ご存知無い方もいると思いますが、”愛ちゃんは太郎の嫁になる~。で~しゃばりおよねに手をひかれ~、愛ちゃんは太郎の嫁になる~“といった内容の歌です。
 私はこの歌を聞くたびに、およねさんに対する不当な中傷に腹が立ちます。何故、およねさんを“でしゃばり”と決め付けるのですか。およねさんに、愛ちゃんと太郎が如何にして結婚に至ったかの経緯を、一度でも聞いたことがあるのですか。
 本人の意見も聞かずに、一方的におよねさんを悪者に仕立てようとするこの歌の主人公、(便宜上次郎としておきましょう)に、私は暗い、陰険な性格を見てしまいます。
 次郎は一度でも、愛ちゃんに自分の気持ちを率直に伝えたのでしょうか。太郎と、どうどうと愛ちゃんを張り合ったのでしょうか。答えは“否”でしょう。
 内気な太郎は、愛ちゃんの家族と親しいおよねさんに、自分の思いのたけを愛ちゃんに伝えてくれるように頼んだに違いありません。愛ちゃんも太郎のことを憎からず思っていたので、およねさんのことばを聞いて、愛ちゃんの気持ちは一気に太郎に傾いて行ったのです。
 次郎は反省すべきです。およねさんの名誉回復の為に歌の文句を変えるべきです。“やさしいおよねさんに手をひかれ~。愛ちゃんは太郎の嫁になる~”。締りませんね、歌が。およねさんはやっぱりでしゃばりの方がいいのでしょうか。太郎はうじうじした弱虫で、次郎は陰気で、愛ちゃんは気の多い女でノノ.、この方が人生ドラマがあって面白いかも知れません。
 でも、私が次郎で、伊佐ちゃんが愛ちゃんだとは思いたくないですね。

No.86 ベルギーの人々

No.86 ベルギーの人々



 この国に滞在している年月の多少にかかわらず、私達はベルギーのいろいろな人に出会いながら暮らしています。
 それは、郵便配達のおじさんだったり,住んでいる地区担当のお巡りさんだったり、子供が通っている幼稚園の先生だったり、近くのパン屋さんのおねえさんだったり、或いはアパートの隣人のマダムだったりとか、私達はベルギーのいろいろな人達に囲まれながら暮らしています。
 叉,トラムの座席で横に座ったベルギー人のおばあさんや、真向かいに座ったモロッコ人の青年、たまたま乗ったタクシーの運転手さん、スーパーのレジに並んでいる時に見る前後左右の人々、車を運転していて赤信号の前で停車した時、横に停車した車の人などなど、一過性のさまざまな出会いを経験しながら生活をしています。
 人は誰でも、数多くの出会いの中で、心に残る出会いや、忘れがたい人々を心の中に持っていると思います。
 私も、長いベルギー滞在の中で、数え切れない人々との出会いを経験してきました。
今回は、私の心に残っている何人かの人達について書いてみたいと思います。
1.F.Van Steenberghen先生
亡くなったヴァンステーンベルゲン先生はルーヴァン大学の教授で、ベルギー王立アカデミーの正会員でした。先生はヨーロッパの中世哲学、特に13世紀の思想史の研究では世界的に有名な大学者でした。
こんな事を言うと皆さんに笑われるかもしれませんが、私がベルギーを留学先に選んだのは、ヴァンステーンベルゲン先生の講義を聴きたかったからです。先生がドイツに居たら多分、自分はドイツに行っていたと思います。
今でこそ、さえない旅行屋のおっさんですが、昔はこれでも紅顔の美少年にして、青雲の志しに燃えていたのです。人生、分からないものですね。
さて、念願かなってルーヴァン大学に入学し、先生の講義に出たのはいいのですが、講義の内容がまるっきりわかりません。日本でフランス語の初級文法をやったぐらいで、いきなり大先生の講義に出たのですから、分かるわけがありません。
期末試験は恐怖でした。辞書を片手に先生の著書を読もうとしたり、ベルギー人学生のノートを借りて写したり、まさに悪戦苦闘の毎日でした。
しかし、試験は惨憺たる結果に終わりました。こちらの大学の試験は口頭試問が原則ですので、先生の前に行って答えなければなりません。
私は、フランス語も満足に出来ない外国人学生なのだから、先生も少し手加減をしてくれるのでは、という甘えを持っていました。
ところが、ヴァンステーンべルゲン先生は私にこう言いました。“君は遠い国からルーヴァンまで何をしにきたのかね。私の講義をまるで理解していない。日本に帰ったらどうかね”と。カトリックの聖職者である先生は優しい目をしていましたが、言葉は厳しいものでした。
私は頭をガ-ンと殴られたような気がしました。先生の言葉で甘えは吹っ飛びました。一念発起、死に物狂いで勉強をして、追試で先生から合格点をもらった時は、天にも昇るほど嬉しかったことを、昨日のことのように覚えています。
その後、事あるごとに先生のところに質問に行ったり、個人的な相談事をするようになり、いろいろと先生の薫陶を受けることができました。
ある時、日本のさる大学の教授がヴァンステーンベルゲン先生の元に短期研究留学で来ました。私はその教授に、ヴァンステーンベルゲン先生を招いて私の所で食事をしませんか、と誘いました。するとその教授は、あの大先生が学生の所に食事に来るわけがないでしょうと、私の言う事を信じようとしません。それはそうでしょう。ヴァンステーンベルゲン先生の社会的地位は、日本の学士院会員に相当するわけですから。
でも、先生はちゃんと私のアパートにきてくれました。日本の教授は、先生の前でガチガチに固くなっていたのが、ちょっと滑稽でした。洋の東西を問わず、偉い人ほど謙虚であるというのは、本当のことですね。
2.Roger
 私は仕事柄、空港や駅に行ことがあり、古参のポーターとは顔馴染です。
ロジェーはブリュッセルミディ駅のポーターを40年近く勤めたうえで、癌で亡くなりました。
ある時、ミディ駅で会ったロジェーの顔が陽に焼けていたので、“ロジェー、ヴァカンスに行ってきたのかい”と聞くと,“うん、初めてな”と、ちょっぴり誇らしげに答えました。
ロジェ-は、生まれてから一度もヴァカンスに行ったことが無かったのだそうです。
口数の少ないロジェーですが、“オレだって太陽の下に行く権利はあるからな”と、ぼそりといいました。
“来年もヴァカンスに行くんだろう”と言うと、“うん、多分な”と答えましたが、彼は2度目のヴァカンスに行くことなく亡くなってしまいました。
ロジェーの私生活については何も知りませんが、彼の話では12~3の頃から駅で働いていたようです。昔はカート、キャディーといったものがなかったので、ポーターは荷物を紐で縛って肩に担いで運んだそうです。
“人様の荷物を運んで40年だぜ,オレも”と言うので、“偉いよな、なかなか出来ないことだよ”と私が言うと、“本当に偉いと思うか”と聞き返してきました。
“偉いよ。ロジェーみたいに一つの事をきっちりとやる人がいるから世の中が回っていくんだと思うよ”と言うと、“そうか、そういうもんかな世の中って”と、ちょっと嬉しそうにはにかみました。
ロジェーの人生が幸せであったかどうか、ロジェー以外の誰にも答えられません。
彼は彼なりに、幸せを積み重ねて人生を楽しんだと思ってます。
ロジェーの好きなものは、大切りにしたパンに白チーズを塗り、その上にラディッシュをのっけて塩、胡椒したのを、好きなビールを飲みながら食べることでした。
彼がこのメニューを、本当においしそうに叉幸せそうに話してくれたものでした。
3.Le Comte de Liedekerke Beaufort 
長い名前ですが、リードケルクボーフォール伯爵です。“リ”伯爵家はベルギーの貴族の中でも名門の家柄で、アルデンヌにある有名なシャトーの城主でもあります。
私は同伯爵に招かれて、お宅に2~3度お邪魔した事があります。お宅といっても、アルデンヌの広大な敷地にある邸宅で、門から玄関までさらに車で行くといった感じのお宅です。
当主の現伯爵は40才台の実業家で、伯爵夫人もブリュッセルに会社をもって活発なビジネス活動をやっています。二人の間には小学校高学年の女の子が二人います。
二人共大変気さくな人柄で、いろいろな話しをしてくれます。
私が、貴族の家柄に生まれて一番大変なのは何ですかと聞くと、伯爵は即座に、続ける事です、と答えました。
貴族としての体面を保つことや、その為の財政的基盤を持つ事は勿論大事ではあるけれども、貴族の家に生まれた者の至上命令は家を継続させていくことに尽きるとのことです。
“継続は力なり“という言葉がありますが、この言葉を最も大事にしているのが、貴族の人達かもしれません。長い歴史の中で興廃の危機を乗り越え、連綿と家名を守ってきた貴族の人達は、それだけでも、社会的な評価を受ける権利があるのかも
知れません。
リードケルクボーフォール伯爵家は中世以来続いている古い家柄の貴族です。現当主の伯爵がふともらした言葉ですが、自分がこの家に生まれたのは運命だとしても、当主としての責任を考えるとその重圧に押しつぶされそうになることがある、ということです。その重圧とは、まさしく歴史の重みを背負っていると言うことでしょう。
伯爵家の広大な庭の片隅で、伯爵夫人が自ら焼いてくれたバーべキューをご馳走になり、同家がフランスに持っているシャトー産のワインを飲みながら、アルデンヌの青い空を眺めていると、息の長いヨーロッパの悠久の歴史を味わっているような気分にさせられました。
4.Madame Pipi
ミディ駅大改装で無くなってしまいましたが、昔は駅のコンコースの横にお手洗いがありました。そこには利用者からお金を取るかわりに、トイレをいつも掃除して、きれいにに維持する仕事をするおばさんがいました。このおばさんのことを通称“マダムピピ”と呼びます。ま訳せば、おしっこおばさん“とでもいうのでしょうか。
或る時お手洗いに行って、いつものようにおばさんの小皿にお金を置いて出てこようとしたら、おばさんが二人のベルギー人男性と猛烈な勢いで言い争いをしていました。二人の男性はそのまま出ていきましたが、おばさんは腹の虫がおさまらないといった感じで私に話しかけてきました。
“東洋のお方、ちょっと聞いておくれじゃないか。今の連中を誰だと思う?税務署の奴らなんだよ。あいつらね、あたしの所に一時間平均何人客が入るか、調べていたというんだよ。それで、あたしの申告が正しくないとぬかすのさ。こんな事ってあるかい。あたしが頂くお金は一人8フランか10フランだよ。それであたしの申告が正しくないなんてよくも言えるもんだよ、まったく。
しかもどこかに隠れて、手洗いに入る人の数を調べていたと言うんだから、あきれてもの言えないよ。そんなヒマがあったら憶の金をちょろまかしているグロボネ(Gros bonnet=財力や権力のある人)のやつらを見張ったらどうなんだい。世の中、逆さまだよ、まったく。そう思わないかい、お前さん。“
私は一方的にまくしたてるおばさんに、ひたすらあいづちをうつのが精一杯でしたが、おばさんの怒りはしごくもっともだと思いました。
マダムピピの小銭を監視するより、もっともっと大きな税金を“節税”してるかも知れない巨悪を監視する方が、はるかに国民のためになると思います。
しばらく後でミディ駅に行った時、お手洗いに行ってみましたが、あの時のマダム ピピはもういませんでした。怒りすぎて、血圧でも上がったとしたら、税務署もひどいことをしたものだなどと考えながら、新しいマダムピピに小銭を置いて出てきました。そして、出口の周辺に税務署の監視員がいないかどうか、一応眺めてみましたが、それらしき姿は見られませんでした。
  出会いというものは本当に不思議なものです。地球の反対側に生まれ、まるで関係の無かったもの同志が出会い、友達になったり、場合によっては、生涯の伴侶として人生を共に歩むことになるケースさえあります。   
私はベルギーでもっともっと多く人との出会いを経験したいと思っています。出会
いは人生の財産です。
 ただ、オジさん族の代表と致しましては、出来るだけ沢山のの魅力的な女性との出会いを優先させたいと思っておりますので、魅力的な女性の方々、ご協力のほどお願い致します。

No.87.モロッコ風結婚式

No.87.モロッコ風結婚式



 ミムーンが結婚することになりました。
 ミムーンはモッロコ人の労働者で、私が通っている乗馬クラブで働いています。彼は馬が入っているボックスの藁を取り替えたり、飼葉をやったり、屋内練習馬場を整地したり、クラブの敷地内を掃除したりと、文字通り縁に下の力持ちとして無くてはならない存在です。
 ミムーンは親切で骨惜しみをせず、いろんな雑用を頼まれてもきちんとやってくれます。そして彼は、クラブに来ている子供からも、叉動物からも好かれています。
 或る日、ミムーンが生まれて間もない子山羊を何処かから貰ってきました。彼はその子山羊に“アイシャ”という名前をつけて育て始めました。
 ボックスの上にある自分の部屋で、アイシャに哺乳瓶でミルクを飲ませ、自分の子供のようにして育てました。子山羊はすくすくと成長し、ミムーンの後をついてクラブの中を走り回るようになりました。
 アイシャにとって、ミムーンは自分の母親ですので、ミムーンの姿が見えないと大変です。メーメーと鳴きながら必死になってミムーン探し求めます。その姿を可愛いと思うと同時に、ミムーンの優しい人柄をしのぶことが出来ます。
 夏の終わりの或る日、私は愛馬にまたがって一人で森へ行き、森の中を思いっきり走らせたり、ゆっくり歩かせて鹿の親子に出会ったりして、乗馬の楽しみを満喫してクラブに帰ってきました。
 クラブで鞍や轡をはずしたり、泥にまみれた蹄や脚部を洗ったり、馬体を拭いたりしている私をミムーンが手伝ってくれました。そして、彼が遠慮がちに話し始めました。
「サミー、オレ今度結婚するんだけど、知ってたかい」
「うん、それとなく噂はきいてたよ。おめでとう」
「ありがとう。そのことでサミーに頼みがあるんだ」
「なんだいミムーン、そんなにあらたまって」
「実はな、結婚式の日、ここからスカールベークのオレのフィアンセ家まで行って花嫁衣裳の彼女をピックアップして、そこから披露宴会場へ行くんだけど、オレ、車を持ってないんだ。それで悪いけど、サミーの車でオレ達を運転してくれないかな」
「お安いご用さ、そんなこと。その日は午前中乗馬に来るし、夕方の結婚式までに着替える時間や、車を洗う時間があるから喜んでミムーンと花嫁さんの運転手をさせてもらうよ」 
「ありがとう、ありがとう。なかなか頼みにくかったけど、本当にありがとう」
 私はこれまで、自分の結婚式に出た以外、結婚式に出た経験が少ないので、ミムーンの結婚式に大いに興味をそそられました。
 学生としてベルギーに来て以来ずっとこちらにいますので、日本の結婚式に出る機会には恵まれませんでした。
 私は一度でいいので、日本のキンキラキンのハデ婚に出てみたいと思っています。新郎、新婦がドライアイスの煙の中から出て来たり、天井からゴンドラにのって降りて来たりする結婚式は、へたなショーを見るより楽しいに違いありません。日本人会の皆さんの中で、近々この種のハデ婚の挙式予定の方がおられましたら、是非招んで頂けないでしょうか。お祝いをたっぷりはずみますので。
 さて、ミムーンの結婚式の日がきました。
 私は行きつけのカーウォッシングで車を洗い、服装を改めてミムーンを迎えに乗馬クラブに行きました。クラブでは簡単なレセプションがあり、馬に乗る人、乗らない人取り混ぜて、沢山の人が集まっていました。ミムーンがみんなに好かれている証拠でしょう。 
 ミムーンのネクタイ、背広姿を初めてみましたが、彼はちょっと照れくさそうでした。
 私の車は、内部は花で飾られ、外側にはリボンや風船が結びつけられ、どうやら結婚式用の車らしくなりました。
 さて、運転手の私もそれらしい格好をしなければならないのですが、運転手用の帽子や白い手袋を持っていません。しかしこの問題は、いつも奇抜なアイデアでみんなを笑わせる乗馬仲間のフィリップが解決してくれました。
 「ほら、お前これをかぶれよ」といって、フィリップが私に差し出した帽子は、何とベルギー国鉄の車掌さん制帽でした。わざわざリエージュの知り合いの所まで行って、借りてきたのだそうです。
 車掌さんの帽子を被って、私がみんなの前に姿を現すと、大笑いと拍手が起こりました。「ベルギー国鉄にこんな鼻の低い車掌がいたっけ」などと、悪口を言う奴もいましたが、ミムーンも会場にいた人達もみんな喜んでくれました。
 準備が整ったところで、私達は車列を組んで乗馬クラブのあるHoeilaartからSchaarbeekへと向かいました。道々クラクションを鳴らして、行き交う車に注意を喚起します。
 皆さんは、ブリュッセルのスカールベークがどの辺にあるかご存知ですか。スカールベークは結構広くて、Woluwe St.Lambertと境を接している部分もありますが、ミムーンの花嫁さんの家や、披露宴会場は北駅の先の方で、モロッコ人住民の比率が圧倒的に高い地域です。
 ご参考までですが、スカールベークには二つの大きなイスラム系住民のコミュニティーがあります。
 一つは、Rue de Brabantを中心にした地域に住むモロッコ系住民のコムュニティーで、もう一つはChaussee de Haechtを中心にした地域に住むトルコ系住民のコムュニティーです。
 トルコ料理を食べたかったら、Chaussee de Haechtに行ってください。トルコ料理のレストランが沢山あります。
 これに反して、Rue de Brabantにはモロッコ料理のレストランはありません。その代わり、この通りにはモロッコ人向けのありとあらゆる種類の日用雑貨、衣料品、家電用品などの店がびっしりと並び、レコード屋からはアラブの音楽がガンガン鳴り響き、行き交う人々は殆ど全部といってもいいほどモロッコ系の人で占められています。
 さて、私達の車列はミムーンの花嫁さんが住んでいるアパートに着きました。ミムーンが花嫁さんを迎えに行き、間もなくミムーンに手を取られた花嫁さんがアパートの玄関から出てきました。ベール付きの洋装の花嫁衣裳で、両手には“ヘンネ”と呼ばれる茶色の染料で描かれた紋様が施されていました。
 花嫁が姿を現すと、路上に集まっていた近所のモロッコ人の女性達の間から、一斉にあの“ザハラト”の叫び声が巻き起こりました。
 皆さんは、アラブ圏の女性が発するザハラトの叫び声を、聞いたことがありませんか。“オーヨヨヨーーーー”といった感じで、喉の奥から絞り出すようにして、甲高い声で叫びます。結婚式だけではなく、人生の大きなイベントの集まりの際に発せられるようです。その出来事に対する喜び、共感などを表現しているのでしょうか。
 私は被っていた車掌さんの帽子をとり、うやうやしく車のドアを開けて新郎、新婦を車に迎え入れました。
 私達は再び車列を組み、盛大にクラクションを鳴らしながら界隈を一巡してから、披露宴会場に向かいました。
 披露宴会場は純粋にモロッコの結婚式場として作ってあり、私達が見なれている結婚式場とはかなり違います。中央には王様と女王様が座るような玉座が設けてあり、招待客が座る場所はコの字型になっていて、クッションが敷き詰められています。
 会場には驚く程沢山のモロッコの人達がいました。女性の多くは色鮮やかな民族衣装をまとい、両手にはヘンネの紋様を描いていました。
 新郎、新婦が会場に入ってくると、拍手と一緒に叉ザハラトの叫びが盛大に起こりました。そして、アラブ音楽が鳴り出し、雰囲気が盛り上がってきました。
  私達、乗馬クラブのメンバー、つまり非モロッコ人グループは固まってコの字型の席について、会場のモロッコの人達を眺めていました。異邦人なので全体の雰囲気に溶け込めないのは仕方がありません。
 新郎、新婦が玉座に着席すると、披露宴の食事が出てきました。
 披露宴のご馳走は、モロッコの代表的料理であるパスチアと子羊タジンが出ました。年期の入った近所のモロッコ人のおばさん達が本格的に作ったものなので、レストランなどでは味わえない実に美味しい料理でした。
 問題は飲み物です。イスラムの結婚式なのでアルコールは出ません。デーブルには水とコ-ラのボトルしか置いてありません。
 ま、郷に入っては郷に従えで、私はコーラを飲みながら食事を始めました。すると、仲間のフィリップとミッシェルがテーブルの下に置いたカバンから、ごそごそと何かを取り出し始めました。モロッコ式の座席とテーブルなので脚が低く、周囲の人達からは見え難くなっています。
 彼らが取り出した物を見てびっくりしてしまいました。何とそれは、ウォッカ、ラム酒、ワインなどのボトルなのです。そして彼らは、コーラにウォッカやラム酒を混ぜてのみ始めました。他の仲間にも飲め、飲めと勧めています。
 私は周囲のモロッコの人達の手前、いくら何でもまずいと思い、彼らに言いました。
「お前達、そういう事をして恥ずかしくないのか。今日はミムーンの結婚式だぞ。ミムーンの国の伝統をなんだと思っているんだ。ここにいる人達が、お前達のやっている事を知ったらどう思う。自分達の宗教や文化を侮辱されたと思うかもしれないぞ。飲みたかったら、この後場所を変えて飲んだらどうなんだ」
 とは言ってはみたものの、“ワインのない食事は太陽の出ない日々と同じ”という“格言“の信奉者として、美味しい料理に酒っ気がまるでないのはどうもしっくりきません。タジンの料理が運ばれて来た時、私のやせ我慢は限界に達しました。
「おいミッシェル、どうもオレのコーラ味が薄いみたいだけど、ちょっとその味を濃くするやつを入れてくれないか」
「はいはい、さっき立派な演説をぶったサミーちゃんだから、たっぷりと入れてあげますよ」と私をからかいながら、ミッシェルはテーブルの下で私のコーラのグラスにウォッカを注いでくれました。 私の有言不実行ぶりは、勿論仲間に笑われました。
 食事をしながらふと気がつくと、食べているのは我々非モロッコ人のグループだけなのです。我々食事が終わると、今度はモロッコ人の男性グループだけが食べ始めました。そして、最後に女性グループに食事の番がまわってきた時は、もう夜の11時を過ぎていました。これも伝統なのでしょうが、どうも納得できませんでした。
 我々異邦人が、禁じられているアルコールまで持ち込んでご馳走を頂いているのに、当時者側のモロッコ人の人達が何も食べずに待っているです。本当に申し訳ない気持ちになりました。
 それにしても、どうせみんなとウォッカヤワインを隠れ飲みするのだったら、あんな偉そうな口をきくのではなかったと、深く反省しました。
 その晩私は、慙愧の涙で枕を濡らしながら、ぐっすりと眠りました。 

No.88 マイノリティー

No.88 マイノリティー



最近、欧州評議会(旧東欧圏を含むヨーロッパ40ヶ国が加盟する機関で人権民族問題等を討議する)が、ベルギー政府に対して、一つの勧告を出しました。
 それは、ベルギー国内のマイノリティーの住民に自分達の言語、文化を維持
存続する権利を認めるように、というものです。
 この勧告を聞いて、ベルギーに少数派民族などいるのかしらと、一瞬考えてしまいますが、勧告はマイノリティー民族とは言わずマイノリティーの住民といっています。
 この勧告が出ることになった理由を探すなら、ベルギーの歴史をローマ時代まで遡らなければなりません。
 ベルギーの中高校生が、日本で言えば漢文に当たるラテン語を勉強する時に、教材としてよくシーザーの「ガリア戦記」が使われます。この戦記、ラテン語名「Bellum Gallicorum」にはベルギー人の祖先、Belgae族が登場します。
 シーザーは、紀元57年にケルト部族に属するベルガエ族を征服して、現在のベルギーに当たる地域をローマ帝国の属領としました。
 対ベルガエ族戦でシーザーは、“ベルガエ族は敵ながら実に勇敢でよく戦う“と誉めています。ベルギーのラテン語の先生は、このラテン語の文章を何度も生徒に復唱させるそうです。
 第一次世界大戦で、ドイツ軍のベルギー侵攻が焦眉の事実となった時、当時のアルベール1世国王がベルギー軍兵士に宛てた演説で、上記シーザーの言葉を引用して兵士の勇気を鼓舞したのは有名な話しです。
 実はガリア戦記にはその先がありまして、シーザーは“しかし彼らは身体を洗わず汚い”と書いてます。ベルギーのラテン語の先生は、この部分を飛ばし読みするのでしょうか。
 ローマ帝国の衰退と共にゲルマンのフランク族が入ってきます。その結果、フランク領とローマ帝国領が現在のベルギーに相当する地域を二分することになりました。これが現在のベルギーの言語境界線の基礎になりました。ベルギーの言語問題を理解する為には、紀元5世紀ごろまで遡る必要があるのです。
 今回の欧州評議会勧告の起源が、1500年前に端を発している事を考えると、ヨーロッパの人の歴史に対する息の長さに、改めて感心させられるます。
 話しは違いますが、15世紀末、正確には1492年にスペインのフェルディナンド国王が、キリスト教への改宗を拒んだユダヤ人を全員国外に追放しました。これに対して、500年後にスペインのホアンカルロス国王が世界のユダヤ人コミュニティーに対して正式に謝罪をしました。
 本当に息が長いですね、こちらの人は。これに反して、“人の噂も75日”とか、“まあ、まあ、そこんところは水に流して”とか言って、物事にきちんとケジメをつけず、曖昧にしておくのが好きな国民もいます。
 1500年とか500年の歴史に比べたら、つい昨日起きたばかりと言ってもいい第2次世界大戦中における自国の責任についても、長いことああだこうだと言い逃れをした挙句、やっと時の総理大臣が談話を発表して関係諸国にお詫びをするといった、著しく歴史感覚の乏しい国もあります。
 さて、ベルギー政府は何故欧州評議会からマイノリティー住民ついての勧告を受けたのでしょうか。マイノリティー住民とはベルギーのどこに住んでいる人達をいうのでしょうか。
 場所と住民ははっきりしています。首都圏ブリュッセル19のコミューンの周辺にある6つのコミューン、一般にCommunes a Facilites と呼ばれる市に住んでいるフランス語系住民がマイノリティー住民なのです。
 皆さんの中でも住んでいる方がいらっしゃるかも知れませんので、参考までに6コミューンの名前をあげてみます。
 それは、Wezembeek Oppem, RhodeSt.Genese, Linkbeek, Dilbeek, Drogenbos,Wemmelの6市です。
 これら6つの市は、憲法上フラマン行政府の管轄下に入ります。当然、公用語はフラマン語しか認められません。しかし住民のマジョリティーがフランス語系であるため、公用語として特別にフランス語の使用が認められることになっています。つまり、フランス語を使うファシリティーを認めるコミューンであるため、Communes a facilitesと呼ばれる事になりました。
 これはベルギーのフラマン語対フランス語の、長い長い言語戦争の妥協の産物として生まれたものです。
 ベルギーの言語戦争について書こうと思ったら、日本人会報の全ページを使っても足りませんのでやめておきますが、この国を理解する為にはこの問題を避けて通ることはできません。
 1830年の独立以来というかそれ以前から、ベルギーの指導階層の言葉はフランス語が主流を占めていました。フラマンの上流階級もフランス語を話していました。
 かっては、ゲントのフラマン上流階級の人達の話すフランス語が、ベルギーで一番きれいなフランス語と言われていたほどです。
 ベルギーの歴史上、フラマン語が正当な扱いを受けなかった時期があります。フラマン語の教育機関は小学校までしかありませんでした。フラマンの人達が高等教育を受けようと思ったら、フランス語で教育をうけるしかなかった時期があります。
 第一次世界大戦中に、ベルギーを占領したドイツ軍の脅しに屈せず、断固として協力を拒否し、戦後、国民的英雄として尊敬されたメルシエ枢機卿が、“フラマン語は学問の言葉として適当ではない”と言って物議をかもしたことがあります。
 メルシエ枢機卿はベルギーカトリック教会の最高位にいた人ですが、ルーバン大学の最高責任者でもあり、当時第一級の知識人でした。
 メルシエ枢機卿ほどの人でも、フラマン語に対する認識がこの程度だったとすると、他は推して知るべしと言うべきでしょう。
 フラマンの人達の民族運動、フラマン語の権利回復運動が起こってきたのは当然のことです。ルーバン大学の分離問題やその他いろいろな言語紛争を経て、ベルギーにおけるフラマン語の地位は不動のものになりました。フラマンの人達の政治的、経済的な力がフランス語系のそれを凌駕するまでになりました。
 こうなると、かって政治的妥協の産物として、ブリュッセル周辺6つの市 に住むフランス語系住民に認めてきたファシリティー制度 の存在が、フラマンの人達にとってノドに刺さった棘のように、不快なものに思われてきます。
 フラマンの政党は、事あるごとにこのCommunes a facilites の撤廃を訴えてきました。しかしこの制度は憲法記載事項なので、フラマンの政党がいくら一致団結しても、フランス語系政党の合意がなければ撤廃することは出来ません。
 そうなると、出来ることは嫌がらせしかありません。
 その最たるものが、有名な「ペーテルス通達」です。これは、フラマン政府のペーテルス大臣が出した通達のことをいいます。
 ペーテルス通達によれば、上記6つの市に住んでいるフランス語系住民は市役所その他の公的機関からの公文書をフランス語で入手したい場合、その都度その旨を文書で関係機関に申請しなければならない、というものです。
 この通達が出る前は、各自が自分の言葉で公文書をもらうことが出来ました。しかしこの通達によって、フランス語系住民は一々申請をしなければならなくなりました。面倒なこと、この上ありません。
 フラマン政府がどんな理由をつけても、これはフランス語系住民に対する嫌がらせとしか言いようがないでしょう。
 他にも嫌がらせとして、フランス語の地域広報誌発行不許可などいろいろあるようですが、何故フラマンの人達はこれほどまでにフランス語に対して神経質になるのでしょうか。
 フラマンの人達の間に、“油の沁み理論”というのがあります。紙に油を一滴垂らすと、油の沁みの輪が急速に広がっていきますが、フランス語もこれと同じだと言うのです。
 フラマン語圏に一度フランス語の進出を許すと、油の沁みのように周囲がたちまちフランス語化されてしまうという考えです。これは、ベルギーの過去の歴史から得たフラマンの人達の教訓なのです。
 国際語としてのフランス語と地域語であるフラマン語の力関係には、如何ともし難い歴然たる差があります。
 フラマンの人達はフランス語の力をよく知っています。一方、自分達の言葉と文化、歴史に強い愛着をもっています。
 フラマンの人達からすれば、自分達の所にフランス語の人達が住み出し、その数がどんどん増えていつの間にか多数派を構成し、フランス語系の権利を主張し出すのはおかしいということになります。
 ベルギーの歴史を見れば、フラマンの人達の気持ちはよく分かります。“油の沁み理論”も経験に裏打ちされている理論です。
 しかし、居住の自由と自分の言葉を話す権利は誰にでも保障されています。これを踏みにじることは、どんなに自分達の言葉を大切に思い、文化を愛する人達であっても許されません。
 欧州評議会のベルギー政府への勧告決議は、これまで毎年のように見送られてきました。フラマン側のロビー活動が成功してきたからです。
 今回、とうとう勧告決議がなされたのは、前記のペーテルス通達が引き金になったのかも知れません。ちょっとやり過ぎた感じでしょうか。
 ベルギーの問題を離れて世の中を見ると、いろいろな意味でのマイノリティーが存在します。
 先日も、ブリュッセル市内の星付き高級レストランで、日本のさる一流企業のお偉い方が、サービスが遅いといって給仕長に「私がレストランのリズムに合わせるのではなく、レストランが客である私のリズムに合わせるべきだ」と怒ったそうです。
 ベルギー日本人会の皆さんには信じられないでしょうが、今時まだいるんですよ、こういうマイノリティーが。
 このクラスのレストランでコーヒーまで入れた5コースディナーを頼めば、2時間から2時間半は覚悟して来るべきでしょう。それが嫌なら、街角のレストランで早メシでも食べていればいいのです。
 この話しは、レストランのマダムから直接聞いた話しですが、マダムは続けて「お客さまが一人だったら、お客さまのリズムに合わせたサービスが出来たのでしょうけど、あの晩は満席でキッチンもサービスもてんてこ舞いだったからとても無理でした。でも、日本のお客さまってどうして会話をしないのでしょうね。料理が来るとさっと食べて、次の料理をじいっと待ってるから、いらいらするのは当たり前ですよ」と言いました。気をつけたいものです。
  マイノリティーと言えば、私の髪の毛もかなりマイノリティーになってきましたので、そろそろ小五郎さんに相談しようかとおもっています。
 小五郎さんを知らないのですか?勿論、桂さんのことですよ。
 それでは皆さん、よいお年をお迎えください。