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No.89 ニッポン、チャチャチャ

No.89 ニッポン、チャチャチャ


 明けましておめでとうございます。2003年も宜しくお願い致します。

 年が代わると何故おめでたいのか、よく分かりません。
よくぞ今日まで生きてきた、という意味でめでたいのか、或いは、辛い事の多かった旧年に別れを告げて、新しい年が幸せ一杯のめでたい年になるようにとの願いを込めておめでとうと言うのか、この年になってもまだ分かりません。
 子供の頃は、新年の誓いを立てたり目標を決めたりして、お正月をそれらしい気持ちで迎えたものでした。勿論、誓いは守られず、目標は達成されないのが常でした。
 今でも、今年はああしたいこうしたいと思うことはありますが、身のほどを知っていますので、子供の頃のように夢のある目標を立てることはしなくなりました。寂しいことです。
 さて、毎年、年頭に思うことですが、今年はどんな年になるのでしょうか。
 世界のどこで、いつ起きるか分からないテロ、泥沼のイスラエル-パレスチナ紛争、イラクや北朝鮮の大量破壊兵器の問題など、どれを取っても心楽しくなる話題はありません。
 もっと憂鬱なのは、わが祖国日本が10年越しの不況から未だに抜けだせず、今年も明るい展望が期待出来そうにもないことです。
 今を知るために、ちょっぴり過去を振り返って見ますと、私は今から30年ほど前にベルギーに第1歩をしるし、ルーバンで学生生活を始めました。
 当時、在留邦人の数は全部で500人足らずでした。それでも日本レストランが1軒、日本の豆腐を作っている店が1軒ありました。
 われわれ貧乏留学生にとって日本レストランは高嶺の花でした。用事があってブリュッセルに来た時に豆腐を買って帰り、ルーバンの大学寮の誰かの部屋に集まって、貴重品の鰹節を豆腐にかけ、これに醤油を垂らして食べるのが大きな楽しみでした。
 あのころ一緒に豆腐を食べた仲間は、今日本でそれぞれ立派な大学教授になっていますが、私一人がベルギーに残り、旅行屋のおっさんとして細々と生きています。
 30年前の一般のベルギー人は、日本についてそんなに詳しい知識は持っていませんでした。ベルギーのエリート校と言われていたルーバンの学生の中にさえ、日本についてとんでもない質問をする奴がいました。
 「東京に地下鉄があるか」などはいい方で、「日本では地方部にまで電気が行き渡っているか」とか、「日本人は米以外に何か食べるのか」とか信じ難いような質問を随分受けました。


当時、車や電気製品など高度な技術や工業生産設備を必要とする日本製品がベルギーにも入っていました。自分達が日常使っている日本製品と、日本という国のイメージがかみ合わないのです。“Sony”が日本製品であることを、どうしても認めない学生もいました。
 日本の経済成長が進むにつれて、ベルギーにおける日本への関心も高まってきました。日本や日本文化に関するルポルタージュ、紹介記事などが、ベルギーのテレビや新聞にかなりの割合で出るようになりました。
 そして、日本の経済成長の秘密を解き明かすキーワードとして、日本家族主義が言いはやされるようになりました。
 日本は国全体が一つの家族のようなものであり、政府は民間企業を、父親が我が子を保護し教え導くように“ギョウセイシドウ”する。民間企業は子が親に従うように、政府の指導に忠実に従う。
 企業も家族であり、会社は社員とその家族の生活に責任を持つ。終身雇用が行き渡り、犯罪的な過失でも犯さない限り、会社は社員をクビにすることはない。
 社員は会社に自分の持てる能力の全てを捧げ、会社の発展を自分の人生の大きな喜びと感じるほど、会社に一体化している。時には、会社の為に自分の家族を犠牲にすることも厭わない。
 経済成長はやがてバブルを生み、金満国家日本を象徴するように、世界のトップバンクリストに日本の銀行がずらりと顔を揃えるようになりました。あの頃の、各銀行のトップの顔は何と自信に満ちていたことでしょうか。
 お金持ち日本人が世界中を旅行し、気前よくお金を使い、有名ブランド店のトップクライアントとして日本人が欧米人を抜くまでになりました。
 ヨーロッパの超高級レストランには、連日連夜着飾った日本人の姿が必ず見られるようになり、一本数十万円もするワインを開けてソムリエやレストランの経営者を喜ばせました。
 会社の経費で落せる視察旅行もよく出て、旅行会社が喜んだのもこの時期です。ただ、どちらかというと観光がメインという視察旅行もあり、相手が一生懸命説明してくれている間に居眠りをしたり、説明はもういいから訪問を早く切り上げて観光に出たいと言って、添乗員や通訳を困らせるグループなどいろいろありました。


また、視察旅行で来た人の中には、ヨーロッパから学ぶものは何もないと豪語した人もいました。こういう人は、精神的にもバブルだったのでしょう。
 ヨーロッパに住んでいて、ヨーロッパの奥深さ、ヨーロッパの底力を知っている私達には、到底口に出来ない言葉です。
 私が20年来行きつけにしているベルギー人の床屋(余り関係ないのですが、昔フィリップ殿下の頭を刈っていたそうです)のレイモンドさんの対日観にも、顕著な違いがみられます。
 以前は、日本の経済力、技術力に対する賞賛の言葉を言いながら私の頭を刈ってくれました。しかし最近は、日本の構造的不況に対する哀れみの言葉と一緒に頭を刈ってくれるようになりました。
 レイモンドさんの日本への哀れみの言葉を聴きながら、あの自信に満ちた日本人は何処に行ってしまったのだろうかと考えてしまいます。そして、レイモンドさんに、「もうちょっと待ってよ。日本は必ず立ち直るから」と答えることにしています。
 最近の日本人は、ある部分でベルギー人に似てきていると思います。
 それは、自分の国をダメだ、ダメだとけなす事です。ベルギー人でベルギーの悪口を言う人を沢山知っています。
 ベルギーは天気が悪い、政治家はバカで税金が高い、小さな国の小さな精神、フラマンとワロンの対立など悪口はいくらでもあります。
 私はベルギーの悪口を言うベルギー人に、「あなた方はどんなに恵まれた国に住んでいるか分かっていませんね」と言う事にしています。
 天気が悪いのは、ベルギー国のせいではありません。雨がよく降るお蔭で、一年中緑の芝生が見れていいじゃありませんか。バカな政治家を選んだのはあなた方でしょう。高い税金のお蔭で、高速道路はタダだし、教育費は安いし、児童手当もいいし、ちゃんと戻って来ているでしょう。国内に対立があっても、“ベルギー式妥協“と言う
言葉があるぐらい、いつも土壇場でうまくまとめているではありませんか。
 “ヨーロッパの心臓”と呼ばれるぐらいいい位置にあり、食べ物が美味しくて、道路がよくて、フランドルの歴史のある都市とアルデンヌの自然の美しさを併せて持ち、国民の多くは数か国語を自由に話す、こんな国はそうそうあるものではありません。
 最近も、ベルギーは国家予算に占める赤字の比率がEU加盟国で最も低いと誉められたばかりです。小さな国の小さな精神などと言えない、将来を見越したヨーロッパ規模の結構スケールの大きい政策を遂行している国ではないでしょうか。
 自分の国をけなすベルギー人と日本人の違いは、ベルギー人は舞い上がらないことです。他民族の支配の元で長年暮らしてきたベルギーの人達は、多少景気がいいぐらいのことでは舞い上がりません。
 その点、島国で長いこと他民族との交流も無く、純粋培養的に育ってきた日本人はちょっとの事で舞い上がり、威張り、傲慢になったかと思うと、たちまち自信を失い落ち込んでしまうという悪い癖があります。
 世界の中で、日本はもっともっと揉まれる必要があるのではないでしょうか。日本は、揉まれてさらに強くなるだけの底力を十分に持っている国だと思います。
 16世紀にポルトガル人が来日した時に同行していたイエズス会の宣教師は、日本人の知的水準の高さに驚き、優秀な会員を日本管区に派遣して欲しいという要請をローマのイエズス会本部に送っています。
 日本人は明治維新後、西欧の文物を積極的に取り入れ、物まね、猿まねと嘲笑されながら、いつの間にかオリジナルをはるかに越える優秀な製品を作り出しました。
 これはバカやチョンに出来る事ではありません。
 日本の工業技術のレベルや自然科学分野のレベルが、世界に冠たるもである事は誰でも認める事でしょう。
 一方、 日本文化がどれだけ世界中の人々の心を捉えているか、私達日本人の想像を超えるものがあります。
 このベルギーでも、日本のあらゆる武道が実践されています。ベルギー人だけでやっている茶道クラブや生け花クラブがあります。私の知っているベネディクト会修道院の神父さんは、修道院の中に茶室を作って熱心に修行をしていますが、彼は一度も日本へ行ったことがありません。
 “マンガ”は今や完全にこちらの言葉になっています。“Zen”も今流行りの言葉です。“それはすごくゼンだ”とか、“彼はゼンだ”とかいう言い方をします。“ゼン“
という言葉には、静かで奥が深く、それでいてちょっとおしゃれな感じが含まれているようです。
 フランス料理に対する日本料理の影響も見逃せません。これからのフランス料理に日本料理の影響を無視することは出来ないと、さるフランスの超のつく有名シェフが明言しています。一流レストランのメニューに“Sashimiモが入っているのは、今時
珍しくもなんともなくなりました。叉、Carpaccioと称して、中身は刺身と変わらない料理もあります。
 ロンドンのCityで働くエリートサラリーマンやキャリアウーマンの間で、お寿司を食べる事が、一種のおしゃれ感覚としてとらえられていると聞きました。女性を寿司屋に誘うと、成功率(何の?)がぐっとアップするという話しも聞きました。
 私は特別に愛国精神を持っている訳ではありません。それどころか、日本の政治家が“愛国心教育を“などと言うのを聞くと、”バカこけ、子供達が愛したくなるような国を作る政治がまず先じゃないの”と言いたくなります。
 私は海外に住む一日本人として、日本という国を信じ、日本人を信じて“頑張れ頑張れ”と言いたいのです。 最近、よく新聞の広告にきれいな和服姿で登場する山形の老舗旅館の若女将、藤ジェニーさんも、日本人は日本を知らないといっています。
 祖国日本は、バブルの頃に思いあがった日本人が考えたほど大した国ではない代わり、自信喪失してやたら卑下するほどひどい国でもないと思っています。
 純粋培養の国民のひ弱さから抜け出す為に、大いに揉まれようではありませんか。でもこれは個人的希望ですが、どうせ揉まれるならむくつけき男どもに揉まれるよりは、優しくて美しい女性軍に揉まれたいですね。たまにはお寿司屋さんに誘ったりして。  

No.90 満一歳、ユーロ君

No.90 満一歳、ユーロ君





 去年の今ごろ、もの珍しげに眺めていたユーロのお札やコインが、今や珍しくも何ともなくなりました。
 ただ、ユーロ表示の値段や数字を、ベルギーフランや円に換算しないと、いまひとつピンと来ないのは皆さんも同じでしょうか。
 それにしても便利になったものです。ユーロ圏の国へ行く度に、ユーロの有り難味をしみじみと感じます。
 アテネのタクシー料金を、即座にブリュッセルのそれと比較することができます。マドリッドのコーヒー一杯の値段とヘルシンキのコーヒー一杯の値段を、いとも簡単に比べることができます。
 両替の煩わしさから解放されたのも、ユーロの大きなメリットです。と同時に、ユーロ圏各国での支払いが非常に楽になりました。
 イタリアにいって、レストランのお勘定にうん十万リラと書いてあるのを見て、私達こんなに食べたのかしらと、思い悩むこともなくなりました。日本からヨーロッパ旅行に来た私の知人が、ローマでタクシーのドライバーに25、000リラの代わりに、持っていたベルギーフランの中から25、000ベルギーフランを渡してしまい、悲憤慷慨していましたが、ユーロのお蔭でこういう悲劇はなくなりました。
 叉、ヨーロッパを旅行する間に、各国のコインがごちゃ混ぜになり、うっかり他国のコインを支払いのお金の中に入れてしまい、店のおじさんに“おい、このアジア人、オレをだます気か”などとどやされることもなくなりました。
 率直に言って、こんなに便利なユーロの導入に反対している、イギリスなどのEUメンバー国の政府、国民の気が知れません。
 勿論、単なる利便性だけで一国の主権のシンボルである自国の通貨を消滅させることに、大きな抵抗がある事はよく分かります。ヨーロッパの歴史においても、モFrapper la monnaieモ(貨幣を鋳造する) の権利は、国王や権力者の専権事項でした。贋金作りはいつの時代も厳しく罰せられてきました。
 ユーロ導入による自国経済へのインパクトや、国民の消費生活への影響、政治的な
思惑などさまざまな要素が絡み合っている事もわかります。
 しかし、ユーロ導入に反対している国の人達も時間がたてば、ユーロがどれほどユーロ圏の国民の生活を便利にしているか、欧州統合の強力な推進力になりつつあるか分かってくると思います。
 満一歳を迎えたばかりのユーロ君は、今や大先輩のドル兄さんと肩を並べるまでに成長しました。
 いずれユーロは、新しいEU加盟国を含めた大欧州統合体の統一通貨になるでしょう。アメリカ合衆国の国民がドルなしで生活することができないように、EUの国民もユーロ無しの生活が不可能になる日が必ず来ると思います。
 これに関連して、ベルギーのテレビ週刊誌モLa Tele Moustiqueモの最新号が、ユーロ導入1年後の各国国民の意識調査の結果を載せていますので、以下に受け売りをさせていただきます。
 これは、ユーロ圏6ヶ国(ベルギー、オランダ、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン)と非ユーロ圏1ヶ国(イギリス)で行ったユーロに関するアンケートの結果を、ベルギーを軸として分析したものです。
* ユーロの導入が問題を引き起こしたかという設問に対して、21%のベルギー人が“ハイ”と答えています。上記7ヶ国の平均が31%ですから、ベルギー国民のユーロに対する許容度はかなり高いことになります。
* 自国の旧通貨に戻りたいかという設問に対して、28%のベルギー人が“ハイ”と答えています。6ヶ国の平均は45%です。
* 統一通貨の導入はヨーロッパに共通の文化を創造すると思うかという設問に対して、28%のベルギー人が“ハイ”と答えています。7ヶ国の平均は24%です。
* ユーロはユーロ圏の経済活動を活発化させると思うかという設問に対して、54%のベルギー人が“ハイ”と答えています。7ヶ国の平均は42%です。
 この数字を見ると、ベルギー人はユーロの受け入れ、ユーロへの適応、ユーロへの信頼等において、ヨーロッパの優等生であることが分かります。
 ベルギー人のベルギーフランへの愛着心が、フランス人のフランスフラン、ドイツ人のマルクへの愛着心などと比べてかなり低いのは、どうしてでしょうか。
 これはベルギー国の生い立ちに関係があると思います。
 ご承知の通り、ベルギーは1830年にオランダの支配を脱して独立国になりました。それ以前はいつも外国の支配下にありました。
 ベルギー国になっても、最初はフラマン、ワロンの2つの民族、次いで大一次大戦語にはドイツ語民族が加わり、複数民族国家として今日に至りました。
 ベルギーの人達のベルギーフランへの愛着心や、ベルギー国への帰属意識が、フランス人やドイツ人に比べてやや希薄なのは過去の歴史を見れば、ある程度理解できるかと思います。
 皆さんも、ユーロはもうすっかり使い慣れていることでしょう。
 日常生活で、一番よく手にするお札は何ユーロ札ですか。コインだと何ユーロ、或いは何セントコインですか。
 ベルギー中央銀行が発行しているお札の中で、最も発行高が多いのは50ユーロ札だそうです。現在のところ、7、660万枚の50ユーロ札が出回っており、これは
中央銀行のユーロ紙幣総発行量の58.7%に当たるそうです。
 一方、最も使われていないお札が200ユーロ札で、今のところ80万枚しか出回っていません。
 コインの方はと言いますと、使用量のチャンピオンは2セントコインで、現在2億7,250万個が流通しているそうです。しかし、使っている人の人気はいまいちで、アンケートに答えたベルギー人の78%の人が、1セントと2セント硬貨の廃止を希望しています。そして、58%の人が1ユーロ紙幣の導入を希望しています。
 確かにユーロになってから、やたらコインが増えましたよね。小銭入れがすぐ一杯になり、男性の場合、ポケットが重くなって困ります。
 1ドル紙幣があるように、1ユーロ紙幣があってもおかしくない訳で、ヨーロッパ中央銀行は是非1ユーロ紙幣の導入を検討して欲しいものです。
 さて、皆さんのお宅にはもうベルギーフランは残っていませんか。もう一度引き出しの奥など調べてください。
 何故なら、2002年11月30日の段階で、126億BFの紙幣と82億BFのコインがベルギー中央銀行に戻って来ていません。特に戻って来ていないのが50サンチーム硬貨で、発行量の87%はまだ何処かに眠っているそうです。
 ベルギー中央銀行としては、旧ベルギーフランの紙幣であろうとコインであろうと戻って来ない方が有り難いのです。何故なら、戻って来ないベルギーフランはユーロに替えなくてもいいので、その分は純利益になるからです。推定では、この純利益が80~100億BF程度になる見込みだそうです。
 皆さん、中央銀行に儲けさせる手はありません。お上は税金を取るだけでなく、われわれの物忘れをいいことに、100億フランも儲けようとしているのです。探せば、ベルギーフランはまだまだ出てくる可能性があります。一家総出で、可能性のある場所を探そうではありませんか。
 お母さんは、ヘソクリを本棚の本に挟んで忘れていませんか。お父さんは、最近着なくなった背広の内ポケットに1万フラン札など入れていませんか。あのお金はクラブ“ブンブン“の蓉子ちゃんにプレゼントを買ってあげるため、苦労して確保したものでしょう。でも、蓉子ちゃんが店を辞めちゃったので、プレゼントは宙に浮いてしまいましたよね。早くユーロに替えて、奥さんと美味しいものでも食べてください。
 見つけたベルギーフランを自分の銀行に持っていけば、2003年の12月末までユーロと替えてくれます。中央銀行なら2004年の12月末まで大丈夫です。
 お金はユーロであれ、ドルであれ、円であれ、無いよりはあった方がいいですよね。ただ、どれだけあれば人は幸せを感じるのか、答えは出ないでしょう。
 お金と幸せの関係は、非常に相対的なものだとおもいます。
 私はこれまで大金には恵まれませんでしたが、小銭には恵まれてきました。そして、その小銭のお蔭で幸せな気持ちになったことが何度かあります。
 最初の小銭の幸せをもらったのは、学生時代にスペインに行った時でした。
 一人旅の貧乏旅行で、スペインの北の方、バスク地方の田舎を旅行していました。列車でフランスからスペインに入ったのですが、両替の機会がなくてペセタを持たずにバスに乗ってしまいました。フランス国境に近いので使い残しのフランスフランのコインで大丈夫だろうと、甘い考えでバスに乗ったのです。
 ところがバスの運転手さんはフランスフランを厳しく拒否した上で、身振り手振りで私にバスから降りろと言うではありませんか。本当に困ってしまいました。日が暮れる前に目的地まで行って、その日の宿を探さなければならないのです。
 すると、傍にいた若いスペイン人のお嬢さんが、運転手さんと何か話したと思ったら、さっとお金を払い私にバスのチケットをくれるではありませんか。
 私は彼女の好意に感謝をし、お礼と一緒にフランスフランを渡そうとしました。しかし彼女は、にこにこしながらけっして受け取ろうとしないのです。善意に満ちた優しい心は顔にも現れます。私には、そのお嬢さんの顔がマリア様のように見えました。
 2度目の幸せは、4年前にキューバのハバナで乗った市バスの中でもらいいました。
キューバの通貨は、外国人用ペソスとキューバ人用ペソスに分かれています。市バスの切符はキューバ人用ペソスでしか買えません。だいたい、外人は市バスになど乗らないのです。やっぱり私のペソスは拒否されました。
 すると、横に座っていたキューバ人のおばさんが、そっとペソスの小銭を手渡してくれました。おばさんは歳を取ってちょっと肥ったマリア様の感じでした。
 3度目の幸せは、最近ルクセンブルグ市のパーキングでもらいました。
 パーキングの自動支払機に何度紙幣を入れても、戻ってくるのです。機械の受け入れ可能紙幣なのに受け付けません。コインは持ってないし困ったなと思っていると、誰かが私の肩越しに手を伸ばして機会にコインを入れてくれるではありませんか。
 振り向くと,背の高い栗色の髪の女性が優しい微笑みを浮かべながら“どうぞパ-キングの券をお取り下さい”と言ってくれます。30才前後の品のいいきれいな人でした。この女性も、私が差し出したお金をけっして受け取りませんでした。
 私は考えたのですが、世の女性は私を見るとお金を恵んであげたくなるのでしょうか。私が余りにもみすぼらしく、しょぼくれているので、つい憐れみの心が起きるのでしょうか。
 でもどうせなら、小銭ではなくてちょっとまとまったものを恵んで欲しいものです。
“アタシがいなかったらこのシトは駄目になる。アタシが面倒をみてあげる、養ってあげる”なんて言ってくれる心優しい女性の方はいないものでしょうか。

No.91 アキラ君

No.91 アキラ君





 アキラ君は俗にいう美男子です。それも古典的な美男子です。
 面長で鼻筋がとおり、目が大きく、その目元がまた何ともすずやかな印象を与えます。強いて難を探すとすれば、鼻筋がとおっているわりには、鼻の穴がちょっと大きめであることでしょうか。
 アキラ君は一見インテリ風です。
 額に前髪をはらり垂らし、もの思いに沈んでいるアキラ君の顔には、人類の行く末に思いを致し、取るべき道を指し示そうとする偉大なる哲学者の風貌さえ見られます。
 アキラ君は実に端麗なる容姿をしています。
 すらり伸びた脚線、均衡のとれた身体は見事というしかありません。しかも彼の身体は鍛えぬかれた筋肉に覆われています。
 アキラ君は色白で端正な容貌をしていますが、運動神経抜群のスポーツマンでもあります。
 全てのスポーツの基礎であるランニングにおいて、彼に勝てる人はまずいないでしょう。皆さんの中で、足自慢の方は是非挑戦してみてください。勝った方には日本往復のビジネスクラスの航空券を差し上げます。
 アキラ君はただ早く走れるだけではありません。その走る姿が惚れ惚れするほど美しいのです。髪の毛を風になびかせ、躍動感に満ち溢れて疾駆するその姿は、芸術品と言ってもいいほどの美しさです。
 アキラ君は、今から10年前にポルトガルで生まれました。
 彼は両親との縁がどうも薄かったようです。父親の顔は全く知りません。1才ぐらいまでは母親と一緒に居たらしいのですが、その後は生き別れとなり、二度と会っていません。
 さて、このアキラ君とは誰のことでしょう。
 アキラ君は、私が通っている乗馬クラブの馬のことです。アキラ君はポルトガル産の牡馬で、当年とって10才になります。ポルトガル種ですので馬体はそんなに大きくありません。色は顔から首にかけては灰色がかった白で、尻の辺りは葦毛になっています。そして、地面に届くほどの長くて美しい尻尾を持っています。
 馬は人間が家畜化した動物の中で最も美しい動物である、と言ったのはかなり有名な人だったようですが、この人は馬が好きだったのでしょう。猫好きの人は猫が美しいと言うでしょうし、犬好きは犬が美しいと言うにきまっています。好みの問題は議論をしても仕方がないのです。
  私個人としは、馬は本当に美しい動物だと思っていますし、馬が好きです。これには私の幼児体験が影響しているのかも知れません。
 田舎の家の近くに競争馬を飼っていた家があり、小さい時からその家に馬を見に行くのが好きでした。不思議なもので馬も人も相性というものがあるらしくて、何頭かいた馬の中で私の好きな馬が一頭いました。目が優しくて、姿のいい馬でした。家から人参を持って来たり、道端に生えている草をむしって来ては、その馬にあげていました。その馬も私が好きみたいでした。
 或る日、私の好きだった馬がいなくなりました。売買が成立して何処かに連れていかれたのです。がっかりした子供の私は、馬を飼っている家の門前にしゃがみ込んで、地面に絵だか何だかを描いて一人で遊んでいました。多分、4才か5才のころだったと思います。
 その時、人の叫ぶ声と馬の蹄の音が身近に聞こえました。振り向くと、私の好きだった馬が暴走して来て、私のすぐ後ろに迫っているではありませんか。
 馬は、立ちあがって逃げるヒマもなくしゃがんでいた私の背中を軽々と飛び越えて、自分が入っていた厩舎の方へ走っていきました。見ていた大人達は、私が馬に蹴り殺されるか、大怪我をすると思ったそうです。
 知らせを受けて母がすっとんで来ましたが、私はかすり傷一つ負っていませんでした。馬は買われて行った先を逃げ出して、自分の厩舎に戻ってきたのですが、仲良しの私を傷つけまいとして飛び越えたのか、単に障害物があったから飛んだのか、誰にも分かりません。私は子供心に、あの馬はボクを傷つけないように飛んでくれたと、固く信じていました。そして、ますます馬が好きになりました。
  ベルギーに来てから、森で乗馬を楽しむ人達を見る度に、いつか自分も馬に乗ってみたいと思っていました。そして、今から12年ほど前に、意を決してさる乗馬クラブの門を叩いたのです。
 しかし、乗馬を始めた動機はかなりミーハー的であったと思います。
 まずあの乗馬服姿に憧れたのです。乗馬ズボンと乗馬用のブーツできりりと脚部を引き締めれば、私の外人離れした両脚も少しは長く見えるのではないかと想像しました。
 そして、真っ白なシャツに白のネクタイをし、優雅な乗馬服を着込み、ボンブと呼ばれる帽子を被ってさっそうと馬にまたがれば、さぞかし自分の姿が凛々しく見えるであろうと相想しました。
 乗馬を志した動機の中に、もう一つミーハー的要素がありました。
 それは、乗馬クラブにはこの国の上流階級、名家、良家の令嬢や貴婦人が出入りしているに違いないと思ったことです。日頃、なかなかお近づきになれない令嬢や貴婦人と、乗馬を通じて知り合いになれるのではノ.という甘い期待を持ちました。
  或る日の乗馬クラブです。私の前をすらりとした脚にブーツがよく似合う、上品な顔の女性が歩いてます。歳は30代の後半というところでしょうか。
 彼女の乗馬ズボンのポケットから乗馬用手袋の片方が落っこちました。私はすばやくこれを拾って、彼女に手渡します。
貴婦人「まあ、ありがとう。あなた、このクラブに最近きたの?」
私  「ええ、まだほんの初心者です」
貴婦人「そう、最初の六ヶ月頑張れば乗馬の楽しみが分かってくると思うわ。頑張ってね。ところであなた、日本の方?」
私  「ええ、日本人です」 
貴婦人「やっぱりね。これも何かのご縁かしら。私の祖母は1921年に、ベルギーを訪問中の日本の裕仁皇太子と、ブリュッセルのGeneral Jacques通りにあった日本大使公邸でダンスをしたのよ」
私  「その話しは何かで読んだことがあります。昭和天皇が皇太子時代にイギリスやベルギーを訪問した時、ブリュッセルでベルギーの伯爵令嬢とダンスをしたという話しですよ。あの伯爵令嬢は、あなたのおばあさんだったのですか。奇遇ですね」
貴婦人「本当に。日本の歴史で、天皇がダンスをしたたった一度の例だといって、祖母はよく自慢していたわ」
私  「あなたも伯爵家の出身なら、“Madame la Comtesse”と呼ばないといけませんね」
貴婦人「そんな呼び方はやめて欲しいわ。別れた夫も伯爵だったから、一応“Madame la Comtesseモとよばれていた。でも、もういいの。それにクラブではお互いにファーストネームでしか呼び合わないから。私はアンヌよ。あなたは?」
私  「サミーです」
貴婦人「サミーがもうちょっと乗れるようになったら、外乗で一緒に森にいきましょうね。私、日本のことをいろいろ知りたいわ」
私  「ボクもアンヌと一緒に森の中をギャロップできるよう、レッスンを頑張ります。その前に一緒に食事でもしませんか?ブリュッセルにはおいしいスシバーがありますら」
貴婦人「まあうれしい。私一度でいいから日本食を食べてみたかったの」
 と、私の夢想は果てしなく広がっていくのです。
  極めて不純な動機で始めた乗馬でしたが、もともと馬や動物が好きでしたので、度重なる落馬にもめげずなんとか今日まで続けてきました。
 そして、厳しい現実にも目覚めました。凛々しかるべき乗馬服姿も、自分がブーツを履くと却って足の短さが強調されるという悲惨な事実を思い知らされました。
 上流階級の令嬢や貴婦人とお近づきになるという目的は、未だに達成されていません。乗馬クラブには、伯爵令嬢や男爵夫人などいるにはいるのですが、誰もスシバーに行きたいとは言ってくれません。
 かくなっては、身のほどを弁え、雑念、妄念をすて、ひたすら乗馬道に精進しようと心に決めています。
 馬に乗って森に行けば、短くても1時間、長いときは3時間以上も森の中で過ごします。森は春夏秋冬、それぞれの表情をみせてくれ、飽きることがありません。春や夏の森ではたっぷりと森林浴ができます。秋の森ではリスや兎や鹿などに必ず出会えます。冬の森で、木洩れ日が太陽や雲の動きにつれて、千変万化に移り変わる美しさは、何にも例えられません。
 乗馬は他のスポーツと同じく、バランスのスポーツです。馬の動きと足、脚、腰、
のバランスが取れないと、馬を自由に動かせませんし、落馬その他の不都合な事態を経験することになります。どんなスポーツでもそうですが、初心者がこのバランスを取れる様になるまでは、ちょっぴり時間がかかります。
 乗馬は誠に健康的なスポーツです。足と足首、脚と腰を絶えず動かしてバランスを取る他に、背筋を伸ばして姿勢をよくしなければなりません。これに手綱を握る掌の運動が加わります。日本に胡桃を握る健康法がありますが、乗馬をやっていれば、胡桃を握る必要はありません。
 ま、乗馬の効用についての手前味噌はこのぐらいにして、皆さん、ブリュッセル市内には騎馬像がいくつあるかご存知ですか。パッと思い浮かぶのは、王宮広場にあるブイヨンのゴッドフロアの騎馬像でしょうか。他には、王立図書館前に立っているアルベール1世国王の騎馬像、それに王宮の裏手に立っているレオポルド2世の騎馬像、それとフランクリンルーズベルト通りにも一つありますが、誰の騎馬像か分かりません。ご存知の方は教えてください。
 三騎馬像の馬の姿勢についての雑学です。ゴッドフロアの馬とアルベール1世の馬は前足をあげています。ところが、レオポルド2世の馬は四足をぴたっと地につけています。この違いは何でしょうか。
 前足をあげた馬に乗っている国王や領主などの治世者は、治世中に戦いを経験した人で、四足を地につけている馬に乗っている治世者は、戦いの経験がない人だそうです。
 雑学ついでにもう一つ。
 ナポレオンの愛馬、マレンゴはアキラによく似ているのですが、この馬はエジプト産のアラブ種でWaterlooの戦いにも参加しています。ナポレオン敗北の後、マレンゴはイギリス軍の将校に引き取られ、英国で余生を終えました。
 馬に興味のない人にはどうでもいい話しでしょうが、折角Waterlooのある国に住んでいるのですから、頭の隅っこに入れておいて下さい。
 今度貴婦人に出会った時、こういう話しをしてあげると、“まあ、この方のお話って面白いわ”とかなんとかになって、事態が思いがけない方向に発展するかも知れませんよ、本当に。

No.92 お花見文化

No.92 お花見文化



 上州路に風が立った。
 こんな書き出しで文章を書いてみたいのですが、浅学非才の身、笹沢佐保先生のようにはいきません。
 たった一行の文章で、縞の合羽に三度笠、長い爪楊枝をくわえたニヒルな渡世人、木枯紋次郎の姿を鮮やかに浮かび上がらせる作家の文章力は、大したものだといつも感心しています。
 ベルギーならどんな書き出しになるでしょうか。
 ルーバン街道に風が立った。
 街道筋に屋台をだし、土地の名物、フリッツを商っている寡婦のコリ―ヌは、客足が途絶えた昼下がり、屋台の横の腰掛けにどっこらしょと腰をおろし、たばこをつけて一休みをしていた。
 死んだ亭主のジョゼフはマーケレンの貧しい農家の出だったが、骨身を惜しまぬ働き者で、荷車でベトラーブ(砂糖大根)運びを生業(なりわい)としながらこつこつと金を貯め、このフリッツの屋台を残してくれた。
 コリ―ヌは,ジョゼフ亡き後フリッツ商いを女手ひとつで切りまわし、一人娘のニコルは、隣り村、コルテンベルグの土地持ち百姓、ピエールのもとに嫁いでいる。
 ふと、屋台の前に人の立ち止まる気配がした。
 「おばちゃん、オレだよ。スカールベークのトラだよ」
 「まあ、トラちゃん。帰ってきてたのかい」
 「うん、ちょっとの間だけな。でも又すぐに旅にでるのさ。春はイースターのお祭りがあるからオレたちも忙しいのよ。それよりもおばちゃん、フリッツをくれよ。    オレ、おばちゃんのフリッツが食いたくて来たんだから」
 「はいはい、すぐにできるよ」
 コリ―ヌは一度揚げしたフリッツを手早く鉄線のカゴに入れ、きれいなきつね色に揚がるまで鍋の油の中でカゴを揺らし続けた。
 こんがりと揚がったフリッツを、コルネと呼ばれる逆円錐形の紙の容器に入れ、ちょっと多めに塩を振って、トラに手渡した。
 「うまいなあ、おばちゃんのフリッツ」
 フリッツを2~3本まとめてほおばったトラが感に堪えたように言う。
 「ベルギー中どこに行ったって、こんなうまいフリッツは食えないぜ」
 「そうかい、トラちゃんにそう言ってもらうとうれしいよ。うちじゃ冷凍もんは使わないからね。うちのじゃが薯はコルテンベルグのニコルのところで、フリッツに一番合うビンチェっていう種類の薯を作ってもらっているのさ。それよりもトラちゃん、そろそろ所帯をもって、お嫁さんにおいしいフリッツでも作ってもらったらどうなんだい」
 「そこがオレたち渡世人のつれえところよ。ひとっところじっとしてたんじゃ、おまんまの食いあげよ。又くるぜ、おばちゃん」
 トラは金を払うと、フリッツのコルネを片手に一陣の風のように去っていった。
 トラが去った後、風に運ばれるようにして、一片の桜の花びらが屋台の中に入ってきた。花びらはフリッツの鍋の上でっちょっとたゆたうにしていたが、そのまま鍋に落ちて、ジュッという音をさせる間もなく、油に焼かれて黒い滓となって鍋底に沈んでいった。
 「もう桜の季節になったんだ」と、コリ―ヌはひとり言をいった。
  亭主のジョゼフが、ルーバンのサンピエール大学病院で亡くなったのは、10年前の桜の季節だった。
 泣いて泣いて泣きはらした目に、病院の庭で華やかに咲き誇る桜の花が憎く見えた。
 ま、このへんやめておきましょう。
 ルーバン街道に、葛飾柴又の寅さんらしき人物が登場するようでは、皆さんから不真面目のお叱りをうけそうですので。
 さて皆さん、皆さんは日本で本格的なお花見をしたことがありますか?何をもって本格的お花見というのかと聞かれると、ちょっと返事に困ります.
 想像するに、まず桜の花が絢爛豪華、いやになるほど咲いている場所が求められます。東京なら有名な上野公園、私の郷里なら福島市の信夫山あたりが考えられますが、皆さんの故郷にもきっと桜の名所があることでしょう。
 次ぎに、本格的なお花見には欠くべからざる小道具が必要です。 
 小道具の筆頭は、なんといってもムシロです。ムシロ無しのお花見は、畳の無い茶室みたいなもので、格好がつきません。
 桜が咲くと反射的にムシロに手が伸びる。これは[桜花ムシロ手伸ばし症候群]と呼ばれる、日本人固有の遺伝子のなせる業なのだそうです。
 一方、このムシロとお花見の関係にも時代の移り変わりが見られます。
 わらで編んだ本物のムシロが姿を消した後に,ダンボールがきました。やがてこのダンボールもすたれ、お花見の場所には、さまざまな色のビニールのシートが敷かれるようになりました。桜の花の下には、わら製ムシロが一番しっくりくると思うのですが、これも時代の趨勢なのでしょう。
 次いで、お花見に欠かせないものは何でしょうか。
 そうです。お酒です。お酒無しのお花見は、ワイン抜きのフランス料理みたいなもので、文化的に見て完全性に欠けるものがあります。
 お酒を飲まない方には申し訳ないのですが、日本酒は日本の文化、ワインはフランス及びヨーロッパの文化の重要な構成要素の一つであることは否定できません。
 お花見にはビールもいいでしょうが、正当性からいけば日本酒でいきたいものです。日本酒はなにかと便利な飲み物です。ビールは冷えていないと美味しくありません。ウィスキーは水だ氷だと余分なものを要求します。日本酒は冷やでそのまま飲めます。
 ムシロとお酒がそろったら、当然おつまみがいります。
 おつまみというと、ピーナツ、イカクン、柿の種ぐらいしか頭に浮かばない人は、発想がやや貧困のそしりを免れないでしょう。
 本格的お花見には、ニ段重ねのお重でいきたいものです。
 お重には、いい出し汁を使って焼き上げたたまご焼き、味がよくしみた里芋、こんにゃく、人参などの煮物、蒲鉾、さわらの焼き魚、子供たちのために強火のフライパンでさっと焼いたウインナなどもいいでしょう。
 これにベルギー名産のシコンをアルデンヌの生ハムで巻いたものや、メへレン近郊で取れるホワイトアスパラをゆでてこれに軽くマヨネーズかけたもの、味がよいので有名なメへレンの地鶏の和風から揚げなどが入ると、日本―ベルギーニ段重ねのお重ができあがることになります。
 桜の花の下で食べて飲んだ後には、たいてい歌がきます。
 お花見の雰囲気にあった歌というと、どうしても“ハア―、はるかあ~かな~たは相馬の山だ~よ~”とか、“エイヤ―、会津磐梯山はたか~ら~のや~まよ~”といったカテゴリーの歌になります。これに参加者が“ハー、ソレカラドーシタ”などと合いの手を入れると、お花見の雰囲気はいちだんと盛り上がっていくのです。
 今どき、ムシロをしいてお重をかこみ、会津磐梯山を歌っているお花見客が、上野の山にいるのでしょうか。いないでしょうね。
 最近の日本の新聞報道によりますと、日本ではお花見のマナーが非常に悪くなっているようですね。
 まず目にあまる席取り、場所取りの横行。夜しか使わないのに朝からビニールシートを敷いたり、ロープや紐でかこって場所を専有してしまう会社、法人部門の人たちの身勝手さ。日中お花見に来る個人部門の人達は座るところもありません。
 食べる物は焼肉、バーべキューで煙モーモー。桜の花は煙害に苦しむ。
 歌はといえば、自動発電機からカラオケセットを持ちこみ、あたりかまわぬ高歌放吟。これを夜遅くまでやられるので、上野動物園の動物たちは不眠症に苦しむ。伝え聞いた動物保護運動のリーダー、ブリジット バルドーさんが上野の山に乗りこんでくるという情報はまだ確認されていません。
 お重を囲んで、“ソレカラドーシタ”のお花見は、遠い昔の出来事になってしまったようです。
 ところで、日本人何故お花見が好きなのでしょうか。
 お花見が庶民の娯楽として定着したのは、江戸の中期、天明から寛政にかけての時代だったようです。「長屋の花見」という落語がありますが、聞いているとお花見が庶民の大きな楽しみだったようすがよく分かります。
 世界広しといえども、桜の開花前線の移動を新聞やテレビで報道する国は日本だけでしょう。ベルギーのテレビで、ワーテルマルボワフォールの桜が三分咲きなどというのを聞いたことがありません。
 亡くなったホイベルス神父さんは上智大学の教授を勤めた後、四ツ谷のイグナチオ教会の主任司祭としてカトリック、非カトリックを問わず多くの人々から敬愛を受けた人でした。
 昔歌舞伎座で、名優中村歌右衛門が演じた「細川ガラシア夫人」は、ホイベルス神父さんが日本語で書き下ろした戯曲であることを見ても分かる通り、神父さんは洋の東西の文化に精通した第一級の文化人でした。
 その神父さんが書いた文章の中に、「行事としてお月見をする国民は世界中で日本人だけである」というのがあります。
 中秋の名月の日に、テーブルにおだんごや秋の果物を供え,花瓶にすすきを立てて、家族全員が縁先に座って月の出を待つ、こんな風景は今の日本ではもう見られないかも知れません。
 ただ言えることは、私たち日本人はお花見やお月見を自然に行ってきた、世界でもまれな国民であるということです。
 私たち日本人は、自然の中に包み込まれることによって安らぎを得る国民なのです。    満開の桜の花に包み込まれるあの感覚が、人々をしてお花見に行かせる原動力になっているのに違いありません。
 地上に咲く花は見下ろしますが、見上げるところにあって包み込むような豊かな花を咲かせるのは、桜以外にありません。
 煌煌たる光りをたたえながら昇ってくる満月の光りを顔に受ける時、人々は月との一体感に浸り、安らぎを覚えるのです。
 お花見の文化には、日本人の精神構造を解き明かすキーワードが隠されているのかもしれません。
 ベルギーに住んでいる私たちには、日本のようなお花見の機会はありません。それでもベルギー各地には桜並木が結構ありますので、故国の春を偲んで桜を見に行くのもいいでしょう。
 でも気をつけてください。桜をみているうちに日本人の血が騒ぎ出し、ムシロを敷いて、“ソレカラドーシタ”なんて手拍子を打ったりしないで下さい。ベルギーにはあなた以外の日本人も沢山住んでいるのですから。

No.93 カルタゴの丘にて

No.93 カルタゴの丘にて



 その朝、ハンニバルは窓のよろい戸を、何者かが叩くこつこつという音で目が覚めた。重い疲労感が全身を覆っていた。
 老いた、と思う。かつては、従者が朝の洗顔用の水をいれたアンフォラ(壷)を持って、寝室の扉の前に立つその気配だけで目を覚まし、ベッドから跳ね起きたものだった。
 第二ポエニ戦役で、二万六千の軍を率いて苦難のアルプス越えをし、北イタリアのトラシメネス湖畔でガイウス フラミニウスの指揮するローマ軍を得意の包囲戦法で殲滅させた頃のハンニバルは、気力に溢れ自信に満ち満ちていた。
 フェニキア人の誇り、地中海の女王と言われたカルタゴは、今やローマ軍の前に手も足も出ない状態になってしまった。繁栄を極めたカルタゴの植民地,シシリアもコルシカもサルデニアも、そしてイスパニアのカディスも全てローマの支配下に入ってしまった。
 老いたハンニバルの手元には、一万五千の老兵が残されているのみだった。カルタゴ遠征軍のローマの指揮官、スキピオは若年ながらたぐい稀なる戦術家と聞いている。
 この戦いで、自分の武将としての生涯は終わるであろうと、ハンニバルは心に決めていた.。カルタゴの勢力圏を伸ばし、カルタゴの益権を守る為に戦い続けてきた。 そして今、自分はカルタゴと共に亡びようとしている。
 ハンニバルはベッドを出て、窓のよろい戸を開けた。眼下に見える紺碧の海は、紺碧の空の色と区別がつかないほどに蒼かった。
 この同じ海の向こうから、二百艘ともいわれているローマの船団が、カルタゴを目指して白波を立てて進軍しつつあるのだ。
 見えない敵の船団を見るように、ハンニバルは目を細めて海の向こうを見つめていた。その時、何かが自分の頬に触るのを感じた。
 「おう、おまえか。よろい戸を叩いたのもおまえだな。そうか、オレンジが欲しいのか」と、ハンニバルは将兵を叱咤する時とは別人のように優しい声で、象の花子の鼻をなでてやった。
 花子は、ハンニバルがアルプス越えをして北イタリアに入り、ポー河の近くでしばらく兵を休めていた時に生まれた子象だった。母親の象はその後の戦いで傷を受けて死んでしまったため、花子は別の雌象の乳を飲んで育った。
 ハンニバルは子象の花子を不憫に思い、カルタゴまで連れ帰り、邸宅の庭で放し飼いにしていた。花子はもう立派な成人象になっているが、ハンニバルは今度のローマとの戦いに象軍団を使うつもりはなかった。
 象軍団への戦術を考えたローマ軍は、前の戦いの時、深くて幅の広い溝を掘り、ハンニバル得意の象軍団の進出をいとも簡単に止めることに成功していた。
 ハンニバルは、花子の鼻をなでながら「おまえも親切なローマ人に引き取られるといいのだが」と、優しく語りかけた。

 この辺でやめておきましょう。
 紀元前200年代のカルタゴに、花子などという名前の象がいるわけがありません。
でも日本では、象といえば花子、犬といえばポチ、猫といえばミーコかタマ、旅行代理店といえばJPI(これは言い過ぎなので取り消します)と、だいたい呼び方がきまっていますので、つい使ってしまいました。
 何故、ハンニバルのことを思い出したのかと言いますと、最近チュニジアに行く機会があり、カルタゴの遺跡にたたずみ、ポエニ戦役のことなどに思いをいたしたためです。
 北アフリカ最大の都市カルタゴを攻め滅ぼしたローマは、その廃墟の上に、神殿や劇場、フォーラムなどを持つローマ人の都市を建設したのです。
 ハンニバルが朝な夕な眺めたであろう地中海の海は、闘いの雄たけびを包み込むほどに優しく、殺戮の血を清めるがごとく、どこまでも蒼く、輝ける太陽の光を受けて光っていました。
 カルタゴの丘に立って輝ける地中海を見ていると、同じ地中海の波が浜辺を洗っているであろうイスラエルやパレスチナの地へ、ひとりでに思いが行くのを禁じえませんでした。
 今日も、夫や息子を失い、家を破壊されて嘆き悲しんでいるパレスチナ人の家族がいるのでしょうか。自爆テロにあって亡くなった母親にとりすがって泣く、イスラエルの子供たちがいるのでしょうか。
 血と破壊、憎悪と報復の連鎖が、イスラエルとパレスチナを混沌の暗闇の中に沈め込んでいます。
 イスラエル、パレスチナの地は、ベルギーよりも狭い24000平方キロしかありません。パレスチナ自治政府が自国領土として要求しているのは、このうち20%に当たる部分です。
 24000平方キロの土地に、500万人のユダヤ人と400万人のアラブ人が住んでいます。 ただ、400万のアラブ人のうち約100万人はイスラエル国籍ですので、イスラエル国民は600万人でパレスチナ人は300万人ということになります。しかしこの人口比率は、いずれ逆転される可能性が高いのです。
 現在のユダヤ人とアラブ人の出生率の違いが、近い将来にアラブ人の人口がユダヤ人を上回ることが統計上は明確になっています。
 元はといえば同じアブラハムから出たユダヤとアラブの兄弟民族が、パレスチナの地で平和共存する以外に未来への展望がないことを、双方ともに十分に弁えているはずです。両民族共に、絶対的に相手を必要としているのです。
 パレスチナ問題を複雑にしているのは、地政学的な問題に加えて、宗教と情念の世界が入り込んでいるためです。物事に宗教や情念が入ってくると、理論に基づいた交渉や解決が困難になるのは、世界の歴史が証明しています。
 情念を嫉妬と言い代えてもいいかも知れません。
 人類初めての犯罪も嫉妬から生まれたと、旧約聖書の創世記に書いてあります。
 楽園を追放されたアダムとイブに、二人の息子がいました。長男のカインは土地を耕し、弟のアベルは羊を飼う仕事をしていました。
 二人の兄弟はそれぞれの収穫物、カインは農作物を、アベルは羊を神さまに捧げました。ところが神さまは、カインの捧げ物よりもアベルの捧げ物を嘉されました。その理由の説明については、聖書解釈学者に任せましょう。
 カインはアベルに嫉妬をして、殺してしまいます。人類最初の殺人事件の原因は嫉妬でした。
 余談ですが、ゲントのSt.Baafsカテドラルにあるヴァン アイク作の祭壇画[神秘の子羊]の、観音開きを閉めた部分の左手上の方に、カインがアベルを殺す場面が描かれています。
 「神秘の子羊」は、神による人類の創造、アダムとイブの原罪からキリストによる人類の救済までを描いた壮大な宗教ドラマの絵です。
 門外不出のこの名画をいとも簡単に見られるのは、ベルギーに住んでいる私たちの特権です。今度ゲントに行く機会があったら、是非ゆっくりと細部まで見てください。
 ベルギーに来られる本社の社長さんや役員の方を案内する時、「神秘の子羊」などをちょっと詳しく説明すると、“うん、現地の文化もちゃんと勉強しているな、君”なんて言われて、お父さんの株が上がるかも知れませんよ。
 ショ-ア、ホロコースト、ポグロムなどの言葉で表現されるユダヤ民族虐殺の歴史も、各国、各時代の民衆のユダヤ人に対する嫉妬が大きな要因になっています。
 社会的に嫌悪されていた金貸し業を、半ば強制的させられてきたのがユダヤの人達なのです。中世のヨーロッパでは、ユダヤ人は土地の所有を禁じられていました。
生産基盤である土地を持てなければ、必然的に通商に活路を見出さざるを得ません。
 ポーランドのアウシュビッツ強制収容所よりずっと規模は小さいですが、ベルギーにも強制収容所がありました。ご存知のかたも多いでしょうが、アントワープに行く手前にあるブレーンドンクの収容所です。
 私は、アウシュビッツもブレーンドンクも、そしてプノンペンのポルポトの政治犯収容所も訪れたことがあります。
 どこに行っても、答えの出ない同じ質問が浮かんできました。「何故、人間が人間に対してこれほどの事ができるのか」という質問です。
 カルタゴの遺跡から地中海を眺めていた頃は、時間の問題と言われながら、まだ米英軍によるイラク攻撃は始まっていませんでした。
 今、この原稿を書いている時、テレビは独裁者、サダム フセインの巨大な銅像が、首にロープをかけられて、アメリカ軍の戦車によって引き倒される場面を写し出しています。民衆がサダムの写真を焼いたり、踏みにじっている場面も紹介しています。
 いつの時代でも、どこの国でも、独裁者は自分の肖像画や写真を国中に飾らせ、主要な場所には自分の像を設置させます。
 何故、独裁者はそれをするのでしょうか。自分亡き後も、民衆は自分の銅像を仰ぎ見てその遺徳を偲び、花の一輪でも捧げてくれるとでも思っているのでしょうか。
 事実はまさしくその反対で、独裁者の銅像は後で民衆によって引きずり倒されるために建てられ,肖像画や写真は民衆によって焼かれ、踏みにじられるために全国に飾られるのです。
 独裁者は、自分が民衆に愛されていないことを知っています。民衆を一番怖がっているのが独裁者です。彼に出きることは、権力を誇示して民衆を畏怖させることです。その為には、権力のシンボルである自分の姿を、民衆の目に絶えず触れさせる必要があるのです。
 ちなみに、あなたの会社の社長さんが自分の胸像を会社の受け付けロビーに置かせたり、自邸の庭に銅像を建てたり、社員の自宅に自分の写真を飾れなどと言い出したら、転職を考えるか、社長の派閥から距離を置いた方がいいですよ。その社長さん、いずれ倒されますから。
 旧約聖書によれば、カインの弟殺しによって嫉妬がこの世に入りました。
 嫉妬は、職場でも家庭でも学校でも何処にでもありますが、一番現れやすいのは、やはり男女の間においてでしょうか。
 この分野における、われわれ日本人と欧米人の考え方には、かなり大きな違いがあります。欧米の男女はいつも一緒にいないと関係が続きません。単身赴任など夢にも考えられません。見方を変えれば、お互いに相手を信頼してないから、常に一緒にいないとダメになってしまうのでしょうか。朝晩,“愛してるよ”と言ってないと、お互いに不安になるのでしょうか。
 その点われわれ日本人は偉いと思います。お父さんが単身赴任でお母さんと離れ離れになっていても、お互いに深い愛と信頼で結ばれていますので、二人の関係は微動だにしません。
 もっとも見方を変えれば、お父さんもお母さんも相手をもうどうでもいいと思っている、なんてことはないでしょうね。どうですか、お宅の場合?    

No.94 プリンスの涙

No.94 プリンスの涙



「ローラン、君は今、最後の雛鳥として巣立ちをしようとしている。でも、忘れないで欲しい。この世の如何なる栄誉も、如何なる王冠も、如何なる富も、もし愛がなければ、それらは無に等しいということを」
 この言葉は、去る4月12日にブリュッセルのSt.Michelカテドラルで行われたローラン王子とクレール コーンブさんの結婚式において、司式司祭の一人であるギー
ジルベール神父が説教の冒頭で述べた言葉です。
 ローラン王子はアルベール、パオラ国王夫妻の末っ子で、最後の直系独身王族でした。
 プリンス ローランはいろいろと話題の多い人です。
 「王室の放蕩息子」とか「王室の反逆児」とか呼ばれたこともあります。うわべだけの決まり事やしきたりが嫌いで、本音でものを言うプリンスとして知られています。
 一方、プリンス ローランは、動物が大好きことでも有名です。ジルベール神父の言葉ではありませんが、王子は「てんとう虫から象まで」生きとし生けるものへ深い愛情を持ち、動物の保護運動に積極的に取り組んでいます。
 4月12日の結婚式は、ベルギーの人々に深い感動を与えました。その立役者となったのが、説教を行ったジルベール神父でした。
 ジルベール神父はフランス人で、フランスでは「不良どもの神父」として有名な人です。スタイルも独特で、革ジャンにジーパン姿で、移動はオートバイです。
 神父はフランスの地方都市の貧しい家庭に生まれ、幼い頃両親とアルジェリアに渡り同地で成長しました。
 12才になった時、ギー少年は神父になりたいと思いました。自分の希望を父親に話すと、父親は「ギー、お前の希望はおしっこみたいなものさ。おしっこをするまでは、おしっこの事を考えるけど、一度おしっこをしたらもう考えないだろう。だからお前の希望も、一晩寝たら忘れるよ」と答えました。
 しかし、ギー少年は初志貫徹をして神学校に入り、7年間の勉強の後ついに神父になりました。
 若いジルベール神父は、ある日アルジェの街角で10才ぐらいの浮浪少年に出会いました。垢にまみれ、ひどい服装のアラブ人のその少年はおどおどと何ものかに怯え、言葉を発しません。アラビア語に堪能な神父が何を聞いても答えません。
 神父は彼を引き取り、面倒を見ることにしました。
 頑なに口をつぐんでいた少年も、やがて少しずつ神父と言葉を交わすようになりました。少年の語るところによれば、彼は両親からひどい虐待を受けてきました。家畜小屋で寝起きをし、食べるものは家畜の餌箱に入れられたものを食べてきたというのです。
 この少年との出会いが、ジルベール神父の生涯を決めました。彼は困難な状況に苦しむ青少年の為に生涯を捧げようと決心しました。困難な状況とは、物質的な困難よりももっと深刻な困難、それは「愛されたことがない苦しみ、愛されていない苦しみ、そして愛することができない苦しみ」でした。 
 パリに移り住んだ神父は、いわゆる不良少年達のあいだに入っていきます。窃盗、傷害、麻薬等、さまざまな犯罪の経験者達の間に入っていきました。
 ジルベール神父は決してかれらを批判せず、裁かず、ひたすらかれらの話を聞き、求められれば助言をし、彼ら苦しみをを自分の苦しみとして共有することに徹しました。
 最初は「坊さんよ、ここはお前さん達の来る所じゃねえよ」などと、相手にしなかった不良少年達も、本音でしゃべるジルベール神父に次第に心を開くようになりました。社会から疎外されてきた彼らは、神父が本気で自分達に関心を持ち、自分達を愛してくれている事実を肌身で感じ始めたのです。
 やがて神父は、フランスのHaute-Provinceに農場を借り、麻薬中毒や刑務所帰りの若者達と動物を飼いながら暮らす生活を始めました。
 ジルベール神父の農場は、動物とのコンタクトによって麻薬中毒から抜け出し、粗暴な性格を直し、社会復帰への道を準備をする、一種の動物療法センターとして知られるようになりました。
 ローラン王子はジルベール神父の農場の話を聞き、自分から神父に会いに行きました。動物が好きで,本音で話す二人はたちまち意気投合し、以来二人無二の親友になったのです。
 その後、ローラン王子から話を聞いたパオラ王妃も農場を訪問し、ジルベール神父の人柄に深く傾倒するようになったそうです。
 ベルギーの王族の結婚式は、ブリュッセルーマリン(メッヘレン)大司教であるダンネルス枢機卿が司式することになっています。
 ローラン、クレールの結婚式は、勿論ダンネルス枢機卿が司式長を務めました。しかし、ローラン王子の強い希望で、外国人神父として初めてベルギー王族の結婚式に司式司祭として参加したジルベール神父は、その型破りな説教で参会者のみならず、テレビを見たこの国の人々に大きな感動を与えました。
 まず、プリンス ローランへの呼びかけとして、王族の直系男子への尊称である“Monseigneurモ(モンセニョオール)という呼び方を無視し、「ローラン、君はノ」で始めました。
 国王と王妃に対しても、“Sireモや”Altesse“を無視し、「パオラ、アルベール、あなた達が育んだ愛が今クレールとローランに引き継がれようとしているノ.」といった語り口で話しました。
 ジルベール神父の説教が作文でないことは、聞いているものにはよく分かります。神父は原稿など最初から用意していませんでした。
 新郎、新婦に優しいまなざしで語りかけた神父は、国王夫妻に対して息子を結婚させる一般市民の両親に話すような口調で語りかけました。
 心から心へしみわたるような神父の説教が進むにつれ、プリンス ローランの目から涙があふれ、絶えずハンカチで目頭をおさえるようになりました。ローランの手に自分の手を重ねて感動を共有していたクレールさんも、こらえきれずにハンカチで目頭をおさえます。
 パオラ妃はプリンス ローランに負けないぐらい涙を流し、アルベール国王もハンカチを必要としていました。
 感動はサンミッシェル大聖堂中に広がり、テレビで結婚式をみていた人々の間にも広がっていきました。不肖、私もジルベール神父の説教をテレビで聴きながら、ポロポロと涙を流してしまいました。説教を聴いて涙を流したことなど、生まれて初めての経験です。
 小学校3年の時、担任の女性教師、池田先生のチョーク箱に死んだ蛇を入れておいて、先生を気絶寸前まで驚かせ、みっちり説教された時も涙一つこぼしませんでした。  又,中一の冬、教室のストーブ(田舎の学校です)でサンマを焼いて、教室を煙と焼きサンマの匂いで満たし、担任の半沢先生からゲンコツを食らい、こっぴどく怒られて説教された時も、涙など流しませんでした。
 ジルベール神父の説教内容をここに書くことは出来ません。
 あの神父が話すからこそ言葉に意味があり、人々の心に直接入ってくるのです。
 敢えてメインテーマを書けば、それは、人から愛されないことの苦しみと、人を愛することできる素晴らしさ、でした。この世の地獄は、誰からも愛されずに生きていくことであり、この世で最高の幸せは、人を愛することができる事なのです。
 昔読んだ本の中に、デンマークの実存主義哲学者、キルケゴールの「死にいたる病」というのがありました。
 神父の説教を聴きながら、キルケゴールの「死にいたる病」を、ふと思いだしました。キルケゴールによれば、死にいたる病とは絶望すること、希望を持たなくなることなのです。
 誰からも愛されない自分に、どうして希望が持てるでしょうか。反対に、人を愛している時、全てが輝き、希望に満ち満ちているのは、皆さんも経験があることでしょう。
 今月号の文章はジルベール神父の影響にせいか、なんとなく説教くさくなったような気がします。
 ところで、プリンス ローランとクレールさんのなれ初めは、どのようにして始まったのでしょうか。
 ローランは一座の会話に少し退屈し始めていた。
 その夜、親しい友人のパーティーに招かれて、ローランはクライネンの友人宅に来ていた。男女合わせて10人程の招待客がいたが、ローランは友人のアレクサンドル以外は知っている人はいなかった。
 アレクサンドルはローランをみんなに紹介してくれた。王族としてマスコミによく顔の出るローランを誰もが知っていたが、みんなが特別扱いをせず、普通に接してくれるのがありがたかった。
 若者の集まりらしく、食事はスパゲッティ-にサラダという簡素なもので、飲み物も水やコ-ラ、ジュースの他に、スーパーで売っている4~5ユーロのワインが並んでいた。
 食事中も食後も談論風発、話題もあっちへ飛び、こっちへ飛びで結構楽しいものだった。しかし話題が中東問題に移ったころから、ローランは退屈し始めた。
 メンバーの中の一人が、自分の意見に固執して他人の意見を聞こうとしない態度が顕著になっていた。
 ローランはお手洗いの場所を聞いてサロンを出た。
 用を済ませてサロンに戻る途中、ふと台所をのぞくと、その夜の招待客の一人である女性が皿洗いをしていた。
 [入ってもいいですか]
 「ええ、どうぞ」
 「あなたの名前は確かクレールでしたね」
 「そうよ。あなたはローランでしょう、誰でもしってますけど」
 「洗った皿をこっちにおいてください。ボクが拭きますから」
 「まあ、あなた皿洗いなんかしたことがありますの」
 「勿論ありますよ。テルビューレンの家では時々皿洗もしますから」
 ローランはサロンに戻るより、クレールと皿洗いをしていたい気持ちになっていた。言葉使いもいつの間にか“あなた“から”君“にかわっていた。
 「クレール、迷惑じゃなかったら君の電話番号をくれないか。ボクの番号もあげる   から」
 「いいわ。でもあなたの電話番号はいらないわ。自分からはかけないと思うから」
 クレールとローランの間に真実の愛が芽生えるのには、まだまだ時間が必要でした。  
 皿洗いをしてクレールさんのような素敵な女性にめぐり合えるのでしたら、私は何百枚の皿でも洗う覚悟があります。
 どこか、いい洗い場はありませんでしょうか。

No.95 タクアンの嘆き

No.95 タクアンの嘆き


 “タクアンに元気がない”、“タクアンがいじけている”という声が聞こえます。
 当人(と呼んでいいものかどうか)の意見を聞いてみました。
 「どうしたの?」
 「自分では元気だと思っているんですけど、回りがうるさくて」
 「顔色は黄色いし、身体もしなびているね」
 「でもこれ、生まれつきですから」
 「出番が減ったってことはないの」
 「それはありますね、確かに」
 「自分の責任?」
 「自分の責任といわれてもちょっとノノ.。わたしどもタクアンは、昔からこうやってタクアンをやってきましたんで」
 「最近の健康志向ブームなんか、キミたちの世界にも影響があるのかな」
 「大ありですよ。減塩タクアンとかいろいろやってはいるんですけどね」
 「若い人達はどう?好かれているかい?」
 「これが問題なんです。若い人達の間で、タクアンが好きなんて言うとバカにされるらしいです。タクアンを否定することは、日本の伝統的食文化の一部を否定する事になるという事実が、分からないんでしょうか」
 「まあまあ、そう興奮しないで。キミの黄色い顔がよけい黄色くなるから」

 タクアンには思い出があります。
 秋が深まり、初冬に近い頃、わが家には白磁のような肌をしたみずみずしい大根がどっさりと届きます。
 この大根の葉を落とし、一本づつ縄で縛り、生大根のスダレを作ります。ハナ垂れ小僧だった勇少年も、お手伝いで大根スダレを作りましたが、縛り方が悪くて大根が縄から外れてしまってり、水平であるべき大根が斜めになったりで、結構難しいものでした。
 スダレ状縛られた大根は、軒先に吊るされ、陰干しにされます。しばらくすると、みずみずしかった大根が、少しづつ水分を失いしなびてきます。
 同時に、大根を縛っている縄の輪に、すきまができてきます。これは、ダイエットが功を奏して、ズボンやスカートがゆるゆるになってくる、あの感じに似ているといっていいでしょう。
 陰干しした大根を縄から外し、1日~2日、日なたに並べてさらに水分を抜きます。
 次ぎの行程は漬けこみです。
 まず、糠に塩、ザラメ、昆布、干した柿の皮などを混ぜた混合糠を作ります。それぞれの分量は知りません。各家庭の秘伝だったようです。タクアン独特の黄色の色はクチナシの成分によるそうですが、現物を見た記憶がありません。
 混合糠を漬物桶の底に敷き、そこに、しなしなの大根を隙間なく並べます。大根と混合糠を交互の重ねて桶を一杯にし、フタをして重石をのっけて作業は終わります。
 ところで、最近この重石がなかなか手に入らないみたいですね。わが家の重石は昔から家にあったようですが、子供の頃遊んだ河原に大きな石がゴロゴロしていたのを覚えています。現在は護岸工事で河原はすっかりきれいになり、石も姿を消しました。    もっとも、今の日本で重石を使ってタクアンを漬ける家庭があるのでしょうか。重石の何たるかを知らない人の方が多いのかも知れません。
 初冬の頃、その年初めてのタクアンが食卓に出ます。勇少年にとって、母が漬けたタクアンは世界で一番おいしいタクアンでした。
 男というものは、何かというと母親の味を持ち出したがる生きもののようです。度が過ぎると女性に嫌われ、奥さんに嫌な顔をされますので気をつけましょう。
 タクアンに元気がないのは、自家製タクアンを漬ける家庭が皆無に等しくなっている現状に加え、出番が減っている点にも原因があるのかも知れません。
 今年、即位50周年を迎えたイギリスのエリザベート女王が、これまで一度も口にしたことが無く、これからも決して口にしないと言われている食べ物があります。
 それは何でしょうか。ニンニク並びにニンニクを使った料理です。女王たるものは、口臭があってはならないからだそうです。
 タクアンの匂いも独特ですね。知り合いの客室乗務員によれば、機内におにぎりとタクアンを持ち込んで、機内食の代わりに食べ始めたお客さまがいた時は、本当に困ったそうです。あの独特な匂について、周辺の乗客、特に非日本人の乗客からコンプレインが出るのではないかと、ヒヤヒヤしたそうです。
 タクアンの何たるかを知っている日本人でも、機内でタクアンの匂いが漂ってきたら、場所柄なんとなくしっくり来ない感じを持つのではないでしょうか。
 時と場所を選べば、タクアンは堂々たる実力を発揮する貴重な食べ物なのです。
 丼物に必ずタクアンが付いてくるのは何故でしょうか。丼物とタクアンのこの親密な関係を追求していくと、そこには驚くべき我ら日本人の美味探求の真理が隠されていることに気がつきます。
 丼物にせいぜい2切れか3切れしか付いていないタクアンは、丼物を最高においしく食べさせる為の重要な役割を担っているのです。
 丼物を仮にカツ丼としましょう。
 暖かく湯気の立つかつ丼を目の前にした時、あなたの注意力はおいしそうなカツ丼に集中し、横の小皿にひっそりと肩を寄せ合うようにして控えている2,3切れのタクアンの存在には目が行かないかも知れません。
 あなたはカツ丼を食べ始めます。こんがり揚がったカツの衣の香ばしさと、ジューシーな豚のヒレ肉の旨み、そして玉ねぎの甘み、これにかけられている甘辛いおつゆが混ぜんとなって、あなたの口中を幸せにしてくれます。
 お腹が空いていたあなたは、もりもりとカツ丼を食べ続けますが、ふとなにか物足りない感じに襲われます。
 それはあたかも、仕事一筋で走り続けてきた人生の半ばで、ふと立ち止まり、わが人生の越し方に思いを馳せる、あの感覚に似ています。
 その時あなたは、控えめに肩を寄せ合っているタクアンの存在に目覚めるのです。
 「そうか、キミ達居てくれたのか。無視したりして悪かった。済まなかった」と、タクアンに詫びながら、一切れをつまみ上げ、ちょっぴりと隅っこを齧ります。
 ほんのちょっぴりのタクアンが、口中で大きな働きをすることに、あなたはおどろきます。タクアンの風味、噛み砕く感覚が、カツ丼の味に慣れ、やや緊張を欠き気味になっていたあなたの舌に、刺激と活力を与えてくれるのです。
 タクアンは、ひたすらカツ丼を食べ続けようとするあなたの心に、ゆとりを持つことを教えてくれます。ふと我にかえる時間を与えてくれます。
 黄色くてややしなびたタクアンから、わたし達は人生の多くを学ぶことができるのです。“立ち止まって、己を省みよ”という、人生の貴重な教えを受けるのです。
 ところで、丼物に付いているタクアンは、何故2~3切れしかないのでしょうか。これは、単なる偶然なのでしょうか。あるいは、丼物屋のおやじさんが、経費を削るためにタクアンの分量を少なくしているのでしょうか。
 実はここにも、日本の食文化の真髄に関わる深い意味が隠されているのです。
 例えば、天丼にタクアンが10切れ付いてきたと、想像してみてください。これを受け取ったあなたの注意力は、天丼に向かうと同時にタクアンにも向かう筈です。
 何故なら、2~3切れのタクアンは丼物の蔭に隠れてひっそりとしていましたが、これが10切れになると、タクアンは自己主張を始めます。
 “天丼がなんだ、うな丼がなんだ。歴史的な背景だったら、オレ達の方が由緒正しいことは、誰でも知っているじゃないか。色だって鮮やかだ。黄色は、昔の中国では皇帝しか使えない色だったんだぞ”などと、驕り高ぶった主張をするタクアンが出てきます。
 これは、丼物をおいしく食べる上で、甚だ具合が悪いのです。
 まず、天丼を食べようとしているあなたの目の前に、10切れのタクアンがあったらどうしますか。ほんのちょっぴり齧っただけで、口中に刺激と活力を与えてくれたタクアンが、今や天丼と張り合う地位を占めているのです。
 あなたは、丼物を食べていく上で、10切れのタクアンを如何にしてその行程に組み込んでいくかについて悩むことになります。
 カツ丼のカツを食べ、おつゆの味がしみ込んだご飯を食べながらも、あなたはタクアンが気になります。タクアンの方でも、「ほらほら、こっちをどうしてくれるんだよ」と、10切れが揃ってあなたを挑発します。
 こうなると、“立ち止まって、己を省みる”どころだはありません。丼に追われ、タクアンに追われ、ひたすらハフハフ、ガツガツと食べつづける以外に道はなくなります。味の点で、かなり個性の強いタクアンを10切れも食べると、もうカツ丼を食べたのか、天丼を食べたのか、はたまたタクアンだけを食べたのか、わけが分からなくなり、疲労困憊、意識混濁、という悲惨な状態に追い込まれてしまうのです。
 “丼物にはタクアン2~3切れ”の伝統は、日本の食文化を育んできた偉大な先達の叡智であることは、これでお分かりでしょうか。
 ところで、今月号のテーマにタクアンを選んだのは、わが家の長女のひと言がきっかけでしたでした。
 或る日、長女のボーイフレンド、ミカエルの家で家族のお祝い事がありました。食事は家族のメンバーが、夫々一品を作って持ち寄る形式でした。
 「それでゆきは何をつくったの?」
 「小さく握ったおにぎりを持っていったの」
 「おにぎりには何をいれたの?」
 「2種類作ったんだけど、一つは鰹節に醤油を垂らしたのを入れて、もう一つはタクアンを入れたの」
 「なにい~、タクアンを入れた!!本当、それ」
 「本当だよ」
 「何という恐ろしいことをしてくれたの、ゆきは。もうミカエルの家族に会わせる顔がないよ、お父っつぁんは」
 「どうして?」
 「どうしてって、ベルギー人がタクアンなんか食べるわけがないでしょう。みんな鼻をつまんで逃げ出したんじゃないの」
 「ぜ~んぜん。みんなおいしい、おいしいって食べてくれて、おにぎりはすぐになくなったよ」
 反省しました。娘に教えられました。
 おにぎりにタクアンを入れた娘には、何のコンプレックスも無かったのです。自分がおいしいと思ったタクアンをおにぎりに入れて、ミカエルの家族に食べてもらおうと、自然に考えただけなのです。
 自分がおいしいと思うものを、自然な気持ちで相手の人に食べてもらう。これが本当のお付き合いの基本なのかも知れません。
 皆さん、ベルギーの友人、知人にタクアンを食べてもらおうではありませんか。自信を持とうではありませんか。
 タクアンに勇気づけられたオジさん達も、堂々と自己主張をすべきです。
 短足で何が悪いのですか。チワワみたいで可愛い、なんて言ってくれるひとが必ずいます。デブで結構じゃありませんか。ぽちゃぽちゃしてて素敵、なんて言うひとがきっと現れます。バーコード頭のあのスダレ模様がたまらないと、ため息をつくひとだっている筈です。
 でも、本当にいるのでしょうか、こんな奇特な女性が。ちょっと、不安ではありますね。       

No.96 アキちゃんのお見合い

No.96 アキちゃんのお見合い



 皆さんは、自分の人生であれもしてみたかった、これもしてみたかったと、思うことがいろいろとありませんか。
 私はしてみたかったことが山ほどありますが、今でも出来ることなら実現したい願望が一つあります。
 それは、“お見合い”です。この年になるまで、一度もお見合いなるものをしたことがありません。
 思えば、年ごろになっても、何処からもお見合いの話しが来ませんでした。誰も関心をもってはくれませんでした。無視され、打ち捨てられてきました。悲しくて、そして悔しくて、幾夜枕を涙で濡らしたことでしょうか。
 配偶者や子供までいる今となっては、お見合いはかなわぬ夢と諦めてはいます。しかし、せめて誰かのお見合いの席に立ち会って、その場の雰囲気だけでも味わえればと、野次馬根性を持ち続けてきました。
 人間、希望は持ち続けるものです。お見合いに立ち会う機会がついに来たのです。
 それは、アキちゃんお見合いでした。
 知り合いの在留邦人の方から、アキちゃんにいい相手を探して欲しいと、頼まれました。アキちゃん自身には会ったことはなかったのですが、彼女のお兄さんとお姉さんには、他の場所で何度か会ったことがありました。
 ですから、アキちゃんがどんな娘さんかはだいたい想像がつきました。
 アキちゃんの家系は、どちらかというと丸顔、ぽっちゃり系で、体格はいい方です。祖先は、なんでも日本の東北地方の出と聞いています。
 さて、アキちゃんの相手ですが、これがなかなか難しいのです。
 自分なりに、いろいろな候補者を思い浮かべたり、知人、友人に候補者探しを頼んだりしてました。又,乗馬クラブの掲示板にアキちゃん紹介の張り紙もしました。
 すると、日を待たずして、是非アキちゃんを欲しいという人が現れました。その人は、乗馬クラブの先生で、私も彼のレッスンを受けているジャンポールでした。
 ジャンポールによれば、彼のところにいるGaminという子が、アキちゃん花婿としてぴったりだというのです。
 さっそくお見合いの場を、セットすることになりました。
 ベルギーには高嶋易断の暦などありませんし、あっても、ジャンポールも奥さんのニコルも“お日柄もよろしく”などということに無頓着ですので、適当な日を決めてアキちゃんとガメン君のお見合いをを挙行することになりました。
 場所は、乗馬クラブのレストランに決まりました。
 当日、アキちゃんは後見人である在留邦人のS夫人とその娘さんに連れられて、やや緊張気味にお見合い会場にやってきました。
 レストランに入ってきたアキちゃんは、そこに居た人達の注目を一身に集めました。
 何故なら、ベルギーというかヨーロッパでは、アキちゃんは非常に珍しいカテゴリーに属しているのです。
 もう、お分かりでしょうか。
 そうです。アキちゃんは秋田犬なのです。
 飼い主のS夫人が引越しをして、新しい家に移って以来、アキちゃんはすっかり元気を無くしてしまいました。かつて、思う存分走りまわっていた、広い庭が無くなったせいかも知れません。
 食も細くなり、悲しそうな声で鳴くアキちゃんを見て、S夫人は心を痛めました。そして、辛い決心をしました。
 思いっきり走りまわれる広い庭があり、できれば一緒に遊べる相棒の犬がいる心優しい飼い主に、アキちゃんをもらってもらおうと決心したのです。
 乗馬クラブに出入りするような人は、みんな動物が好きで、たいてい犬か猫を飼っています。その日もレストランに、誰かの飼い犬が何匹かいました。
 アキちゃんを見た他の犬達の反応には、面白いものがありました。
 或る犬は、頭を垂れて出来るだけアキちゃんから離れた場所に移動しました。別の犬は,アキちゃんに吠えかかりましたが、アキちゃんが低く唸ると、尻尾を後ろ足の間に挟んで居場所を変えました。
 女王様のように威厳のあるアキちゃんの態度は、人々の賞賛を浴びました。わざわざ写真を撮る人もいました。私は、アキちゃんの紹介張り紙に、“日本の高貴なる血をひくアキタ犬”と書きましたので、なんだか自分が誉められたみたいで、いい気分でした。S夫人も娘さんも誇らしげでした。

 ところで、お見合いの場に肝心のガメンくんがきません。
 ジャンポールの奥さんのニコルに急用ができて、ガメンを連れて来れなくなったと言うのです。
 アキちゃんとガメンが本当に仲良くできるのかしらと、心配しているS夫人にジャンポールが言いました。
 “マダム、どうか私達を信じてください。私達の家には馬が走れるほどの広い場所があります。私達は犬が大好きで、家にはいつも犬が2頭いました。ガメンの相棒は、最近老衰で亡くなりました。ガメンはとても寂しがっています。アキとガメンはきっと仲良く暮らせます”
 この言葉を聞いて、S夫人はアキちゃんの幸せを確信したようです。宜しくお願いしますと言って、アキちゃんの引き綱をジャンポールに渡しました。
 こうして、相手不在のお見合いは無事終了しました。新しい飼い主に引き取られたアキちゃんはどうしてるか、気になるところです。
 「あなたがガメンなの。変な名前ね。フランス語で“小僧っ子“て言う意味でしょう。それにあなた、見たところ雑種じゃない」
 「新入りがでかい口をきくんじゃねえぞ。おまえの名前だって、秋田犬だからアキなんて、発想が単純すぎらあな。この家じゃオレのほうが古いんだから、それなりのあいさつがあってもいいんじゃねえのか」
 「あなたね、私がどういう犬か知らないの?私はベルギーどころかヨーロッパでも珍しい純粋の秋田犬なのよ。ヨーロッパに入っている秋田犬には二つの系統があって、一つはアメリカから入ってきている系統で、これにはハスキーの血が入っていたりして必ずしも純粋じゃないの。私は日本から直接来ている純血統の出なのよ。あなたみたいなジヌク(ブリュッセルの方言で雑種の意味)とちがうのよ」
 「ジヌクで悪かったな。おまえが秋田だかなんだかしらねえが、おれはこの家に12年も居るんだ。あんまりでかい口をたたくと、痛い目あわせるぞ」
 「けっこうじゃない。外に出ましょうよ。向こうにいる馬の邪魔にならない所で決着をつけましょうよ」
 結果はアキちゃん低く唸っただけで、ガメンは戦意をなくし、2頭の力関係が決まったそうです。ジャンポールは、犬同志の問題は犬同志でしか解決できないと言って、
絶対に介入しないと言ってました。
 今では、アキちゃんとガメンすっかり仲良しになり、広い敷地を縦横に走り回って、幸せに暮らしています。めでたし、めでたしです。

 アキちゃんのように、家柄のいい生まれの犬がみんな幸せかというと、必ずしもそうではありません。
 S.P.AやVeeweydeとかの、ベルギーの動物保護団体の施設に行けば、それが分かります。それこそ血統書付きかと思われるブランド犬、ブランド猫が保護されています。
 動物保護団体の施設に収容されている動物達の大多数は、飼い主に捨てられた動物達です。その中で圧倒的に多いのが犬です。
 毎年のことながら、バカンスシーズンになると、上記の動物保護団体は忙しくなり、保護施設は超満員になります。
 バカンス行く為に邪魔になるといって、飼っている犬や猫を平気で捨てる不心得者の飼い主が跡を絶たない為です。
 捨てる場所は高速道路のパーキングが一番多いみたいです。不心得者は、多くの場合夜のパーキングに車を停めて、誰も見ていないことを確かめてから、飼っていた犬とか猫を車から出し、そのまま高速に出て逃げてしまうのです。
 猫は車を追いかけたりはしませんが、犬は必死で飼い主の車を追いかけます。どんなに早く走ったところで、車に追いつける筈がありません。走り去る車を悲しそうに見ながら、諦めるしかないのです。非情な飼い主の車を追って高速道路を走っていた犬が、後方から来た車にはねられて死んでしまうという、悲惨な例も記録されています。
 バカンスシーズンになると、高速道路に近い家の庭先に、放棄された犬が迷い込んで来ることがあります。
 たまたまその家の家族が犬好きで、ちょうど犬が欲しいと思っていたなんていう家に迷い込んだ犬は、宝くじに当たったようなものです。
 大多数はS.P.AやVeeweydeに電話をされ、施設に収容されるのです。
 一方、施設に収容された犬や猫たちの将来は、運の良し悪しに左右されます。
 犬や猫が欲しい人は、動物保護団体の施設に行って、収容されている犬や猫の中から気にいったのを選んで引き取ることができます。
 見に来た人に気にいられて、引き取られた犬や猫は運が良かったのです。誰にも引き取られなかった動物は、或る期間が経過した後、安楽死させられます。
 知人のベルギー人の歴代の犬は、全部保護団体の施設から引き取られてきた犬ですが、知人が施設に行って犬を選ぶ時、誰にも選ばれそうにない哀れな雑種犬を引きとってきます。彼によれば、人助けならぬ犬助けをしているのだそうです。

 ベルギーに来て、歩道に犬の糞が多いのに驚いた経験はありませんか。なんて犬の多い国だろうと思ったことはありませんか。又、こちらの犬は公共の場での躾が日本の犬よりもきちんとしていると思ったことはありませんか。
 ヨーロッパには動物愛護の団体が数多くあります。中には、大学の施設に忍び込んで、実験用の動物を“解放”したりする、戦闘的な愛護団体もあります。
 ベルギーでは、この間結婚した次男坊殿下のローラン王子が、熱心な動物愛護運動家として知られています。
 日々の食事にも事欠く人々を前にして、動物愛護などなんの意味があるのか、という議論にも一理はあるでしょう。しかし、飼っている犬や猫が、その人の人生のかけ替えのないパートナーになっている、多くのケースを無視することは出来ません。
 病気の飼い猫を獣医さんに見せる為に、自分の食費を削ることを厭わない人にとって、動物愛護は重い意味を持っているのです。
 又,命あるものへの畏敬の念は、動物を虐待する者の心には生まれません。動物に対して残虐な心を持つ者が、どうして人の命を慈しみ、他人への思いやりを持ち、人を愛することが出来るでしょうか。
 動物保護団体の施設にいた犬の、悲しそうな目が忘れられません。それは、“私を捨てないで“と訴えているようでした。
 実は、同じ言葉を、人生に一度でいいから言われてみたかったのです。
ちょっと小股の切れ上がった粋なお姐さんに、膝かなんかをゆすられて、“ねえ、私を捨てないで”なんて言われたら、どうなることやら想像もつきません。
 しかし、こんな願望は、施設のワンちゃんから不謹慎と叱られそうですので、取り消します。  

No.97 わが家にSARSがやって来た!!

No.97 わが家にSARSがやって来た!!



息子のケンとガールフレンドのアクセルが、夏休みにタイ旅行の計画をしているのを聞いた時、あまり賛成したくありませんでした。
 行き先が、学生である二人にふさわしくないと思ったからです。
 夏休みに、タイのバンコックとプーケットに行くというのです。ケンもアクセルも、ヨーロッパの国々を全部訪れた訳ではないので、むしろヨーロッパ域内の旅行を計画した方がいいというのが、私の意見でした。
  しかし、ケンの考えは別で、時間に余裕のある学生時代に遠い国々を見ておいた方がいいというのです。
 学生は、確かに時間には余裕があるか知れません。でも、お金には余裕がない筈です。
 この問題について、二人は十分に考えたらしく、すぐに解決案を示しました。それは、タイ旅行から帰ったら、残りの夏休み一ヶ月間アルバイトをして、旅費を稼ぎ出すというのです。
 アルバイトは、ちょっと辛いけれどアルバイト料の高い早朝のビルの清掃で、二人ともさる清掃会社に登録済みという手回しのよさです。
 あまり行かせたくなかったもう一つ理由は、未知のアジアの国で、若い二人に何かあったらという危惧でした。息子はともかく、アクセルは他人様の大切なお嬢さんです。万が一のことがあったら、親御さんにお詫びのしようがなくなります。
 ケンとアクセルはよく旅行に行きますが、二人が行った一番遠い国は日本でした。この時は全然心配しませんでした。なんとっても自分の国ですし、実家や親戚もあります。最近いろいろ事件も起きていますが、それでも日本は治安のいい国です。

 結局二人の学生は7月に12日間のタイ旅行にでかけました。旅行の間に一度E-mailで、元気で楽しい旅行をしているという便りがありました。
 二人が無事ベルギーに戻ってきたときは、さすがにほっとしました。
 しかし、気になることがありました。帰ってきたケンの体調がよくないのです。熱があり、咳をしているではありませんか。楽しかった旅行のお土産話しをする元気もないみたいなのです。
 当人の説明によれば、バンコックからの帰途に立ち寄って二泊した、マレーシアのクアラルンプールのホテルの冷房が効きすぎて、風邪をひいたらしいというのです。
 ケンより英語の上手なアクセルがホテルに頼んで、マレーシア人のお医者さんにホテルの部屋まで来てもらいました。
 お医者さんの診立てによれば、症状は単なる風邪で心配はないということでした。そして、抗生物質を処方してくれました。
 ベルギーに戻って2日経っても熱が下がらず、咳も止まりません。さすがに、“もしや?”という疑いがじわじわと心の中に広がってきました。
 ベルギーのお医者さんに往診を頼むことにしました。ここで面白い現象がありました。
 フランス語が母国語のケンが、自分でお医者さんに電話をして往診を頼んだのですが、「アジアの国を旅行をして帰ってきたら熱があり、咳が止まらない」と説明すると、なんと3人のお医者さんがいろいろな理由をつけて往診を断ってきました。
 やっと、4人めの勇気あるお医者さんが来てくれました。このドクターは、SARSの惧れは無いと思うが、念のため病院で血液検査を含む精密検査を受けるように言いました。そして、マレーシアでもらってきた抗生物質の服用を直ちに止めるように言いました。理由は、抗生物質の影響で真の病原体が分からなくなる危険があるというものです。
 病院の検査結果が出るのを待っていた一週間の間、いろいろな事を考えました。
 もしケンがSARSに感染しているなら、アクセルを含めてわが家族は全滅する。現在日本で勉強していて、ケンと接触のない次女のミナだけが生き延びることになる。ミナは子供などいらないと言っているので、ヨーロッパでのわが家は死に絶える。
 この間、会社に毎日行っているので、社員全員が感染している危険がある。営業でお客さんの所に行った時、SARSを置いてきたかもしれない。会食で同席した人たちは大丈夫だろうか。いつも笑顔を絶やさず、親切な応対をしてくれる銀行の窓口のお嬢さんはどうだろうか。唯一の救いは、自分がこの間に電車や地下鉄、飛行機などに乗らなかったこと。
 いろいろ考えていると、空恐ろしくなってきます。人と人との接触はネズミ算式に増えていくので、ベルギーの日本人社会全体に感染が広がるのではないか。死んでお詫びをしたくても、自分の方が先に死んでいるだろうから、お詫びのしようもない。

 思えば、SARSが中国で猛威を振るっていたころ、ヨーロッパで日本人旅行者や在留邦人が有形無形の被害に遭いました。
 日本からの団体旅行で、ベネルックスを周る熟年ツアーに奥さんと一緒に参加した76歳の男性が、成田からフランクフルトに向かうドイツの航空会社の機内で、喉に何かがひっかかったらしく一時激しく咳き込みました。
 フランクフルトからブリュッセル行きに乗り換える旅程でしたが、フランクフルトの空港に着いて機体が停止すると、機側に救急車が待っていました。そして、その男性は、機長命令でSARSの検査を義務ずけられ、救急車でフランクフルトの病院につれていかれてしまいました。
 奥さんも病院に一緒に行きましたが、検査の結果が出るまで病院にいても仕方がないし、折角のヨーロッパ旅行がダメになると、ご主人を病院においたまま、翌日のフライトでブリュッセルに来て、グループに合流しました。
 お気の毒なのはご主人の方です。楽しみにしていたヨーロッパ旅行のしょっぱなに、救急車で異国の病院に連れて行かれ、奥さんにまで置いていかれてしまったのです。
 結局この方は、グループがべネルックス周遊旅行を終えてフランクフルトから成田に向かう時、病院を出て一緒に帰国したそうです。どこに損害賠償を要求したかは聞いていません。
 SARSが猛威を振るっていた時期で、航空会社関係の人たちの神経がピリピリしていたとはいえ、東洋人が機内で咳き込んだだけで、機長命令で救急車を呼び、病院に連れて行くというのは、ちょっと乱暴なような気がします。欧米人のパッセンジャーにも同じことをしたのでしょうか。
 同じころ、当地のさる日系企業の駐在員の方が、出張で来られた本社のお偉いさん接待で、ブリュッセルの有名レストランに行きました。
 食事中、本社のお偉いさんがワインにむせたかして、咳き込みました。すると、回りのテーブルの人たちがいっせいに視線を向けてきたそうです。中には、露骨に嫌悪感を示す人もいて、以後ずっと居心地の悪い思いで食事を続けたそうです。
 通常、高級レストランで食事をするような人は、他人のテーブルに視線を向けるようなはしたない真似はしないものですが、SARSと東洋人の咳が日頃の慎みを忘れさせたのでしょうか。
 まだあります。日本からの団体旅行で来て、ブリュッセルに滞在中の女性旅行者が体調を崩し、WoluweのSt.Luc病院に行きました。言葉が分からないので当社の通訳をつけました。
 日本からの旅行者と通訳がSt.Luc病院に行って、指定の待合室に入りました。すると、先に来て待合室に座っていた4人ほどの男女のベルギー人が、入ってきた二人の東洋人を見て一斉に立ち上がり、待合室から出て行ってしまったそうです。
 アジア人=SARS保菌者の偏見があったのでしょうか。とにかくあの頃、われわれアジア人は、人のいる所でへたに咳もできない雰囲気がありました。

 ケンの検査結果はSARSではありませんでした。多分大丈夫とは思っていても、結果が出るまでは一抹の不安がありました。
 幸いわが家の全滅は免れ、ベルギーの日本人社会もSARSの壊滅的な打撃を受けずに済みました。めでたし、めでたしです。
 めでたし、めでたしでなかったのが、われわれ旅行業界や航空業界でした。イラク戦争よりも、SARSの影響で甚大な被害を受けました。
 人の動き、人の移動の増減に最も敏感な業界です。そして、世界が平和でないと生きていかれない業界でもあります。テロや戦争があると、たちまち業績に影響してくる事実は経験していましたが、病気の流行による影響は初めての経験でした。

 人間、何が有難いといっても、健康ほど有難いものはありません。
 私の場合、子供の頃にいろいろな病気をやったしまったせいか、今のところ健康に恵まれ感謝しています。社員が嘆くほど、病欠なるものをしたことがありません。
 でも最近、ひょんなことから、病院に行く機会が発生しました。
 原因は、馬のアキラ君に腕を噛まれたのです。アキラ君は馬のくせに馬嫌いで、他の馬が近づくと噛んだり、蹴ったりする悪いクセがあります。しかし、人に対しては一度もそういう事をしたことがありませんでした。
 その日は虫の居所が悪かったのでしょうか、アキラ君は轡をはめようとした私の腕をパクリと噛みました。当人(と呼んでいいものかどうか)は軽く噛んだつもりでも、あの大きな歯ですから、腕の皮膚をちょっぴり噛み切ってしまったのです。そして、結構な量の血が流れてきました。二度と人を噛んではいけないことを分からせるため、アキラ君の横っ面を思いっきり張り倒してやりました。
 出血は血止めをすればいいのですが、怖いのは破傷風です。乗馬をやる人は必ず破傷風の予防接種を受けています。私はいつ予防接種を受けたかはっきりしないので、念のためWoluweのクリニックに行ってワクチンを打ってもらいました。
 ここのお医者さんは実にのんびりした人で、「ワクチン代は請求しませんから、今度同じワクチンを薬局で買って持ってきて下さい」と言うのです。お医者さんの善意に応えるべく、すぐにワクチンを買ってきてお返ししたのは、言うまでもありません。
 病気はしないにこしたことはありません。でもある種の病気によっては、その人の魅力が一段と輝いて見えることもあります。
 例えば、ちょっと風邪気味の美人から、ややくぐもった感じの声や、かすれ気味のハスキーな声で話しかけられたりすると、背中がぞくぞくしてきせんか。或いは、熱のある美女のうるんだ目、ほんのりと紅をさしたような頬もなど、えもいわれぬ風情があります。
 これにひきかえ、風邪をひいたオジさんの鼻水など、見たくもありません。お腹をこわしてお手洗いに駆け込むオジさんなど、あっちは行けと言いたくなります。
 美人は得ですね。病気をしてもさらに魅力が増すのですから。その点、オジさんは損です。へたに病気にもなれません。私の病欠ゼロの理由がお分かりでしょう。

No.98 ノーカーデー

No.98 ノーカーデー





 9月21日の日曜日は、ブリュッセル首都圏19のコミューンがノーカーデーでした。
 朝の9時から夕方の7時まで、車の運転が禁じられました。但し、観光バスやタクシーなどの営業用の車、及び特別な許可を得た私用車は、時速30キロを越えないという条件で運転が認められました。
 皆さんはこの日をどうやって過ごしましたか。
 9時前に家を出て、規制の及ばない郊外のゴルフ場へ行き、夕方7時過ぎに家に戻るまで、たっぷりとゴルフを楽しんだ方もいるでしょう。
 或いは、自転車をひっぱり出してきて、日頃車の交通量が多く、危なくて走れない大通りを思いきり走った方もいるでしょうか。
 他にスケートボードやローラースケートで、車の消えた街路を縦横に走りまわった子供さんたちがいたかも知れません。
 当日は市バス、地下鉄が無料でしたので、これを利用してブリュッセルの中心街まで家族で散歩に行ったり、いろいろなノーカーデーの過ごし方があったことと思います。

 9月21日に、ブリュッセルの街から車が完全にいなくなったわけではありません。市バスは走っていましたし、タクシーや営業用の車両も走っていました。
 しかし、日頃圧倒的な勢いで街の道路を占領している車が、この日ばかりはその勢いを完全に失いました。たまに特別許可を受けた車が走っていましたが、時速30キロで、皆さんご免なさいという感じで走っていました。
 街の道路は、二本の足を使う移動手段に主役をゆずりました。大多数は歩く人たち、次が自転車、そしてローラースケートやスケートボードがこれに続きました。

 二本の足を使う移動手段がもう一つあります。それは馬です。馬は四足ですが、これを御するのは二本足のわれわれです。
 ノーカーデー協賛というわけでもないのですが、われわれの乗馬クラブも有志を募って、クラブのあるHoeilaartからGrand-Placeまで馬で往復することになりました。
 Hoeilaartがどこにあるかご存知ない方のために説明しますと、ブリュッセルの南東部、ソワ―ニュの森に面したコミューンです。もっと分かりやすく言いますと、Franklin Roosevelt からInternational Schoolのある道に入り、そのまま行くと東リンクにつき当たります。リンクを横切ってさらに遠くに行った辺りです。Grand-Placeからは結構距離があります。 
 10頭の馬で隊列を組み、朝の10時にクラブを出ました。戻ったのが夕方5時でしたから、途中休憩やお昼のサンドイッチを食べた時間を除くと、片道3時間、往復6時間馬上にいたことになります。さすがに疲れました。
 特に、精神的に疲れました。体は普段より長く乗ったため、腿の筋肉がちょっと痛い程度でしたが、乗っている間の緊張とストレスが大変でした。
 国家警察の騎馬隊の馬はデモの規制に出動したり、儀じょう兵の騎馬隊として市中を行進したり、街中用に訓練されていますが、われわれの馬は閑静なソワーニュの森しか知りません。彼らが聞きなれているのは、鳥の鳴き声か木の葉を揺るがす風の音ぐらいです。
 ソワーニュの森を通っている間は何の問題もありませんでした。
 ソワーニュの森をぬけてカンブルの森に入ると様子が変わってきました。ご承知の方も多いと思いますが、カンブルの森にはAvenue Louiseから続く大きな道路走っています。
 ノーカーデーの人出がいきなり目の前に現れたのです。馬が神経質になってくるのが分かります。
 それでもまだ、カンブルの森を通る間はよかったのです。広い道路が通っているとはいえ、広々とした森や芝生があり、人ごみを避けて通る道もありました。
 カンブルの森を出てAvenue Louiseに入る手前の所で馬をおり、昼食のサンドイッチを食べました。片手で馬の手綱を握り、もう一方の手でサンドイッチと飲み物のコップを持つのはやさしくありませんでした。
 再び馬上の人となり、ルイーズ通りに入りました。こちらはカンブルの森どころではない大変な人出です。
 普段、ルイ―ズ通りで馬を見ることがないので、人がよって来ます。馬がますます神経質になります。
 私が乗っていた馬のアキラは、他の馬が後ろに近づき過ぎると、後ろ足で蹴る悪いクセがあります。ですからこの日も、私は隊列の最後尾につけていました。
 散歩の人や自転車の人がアキラの後ろに近づき過ぎないように、絶えず後ろを見ていなければなりません。これだけでも随分神経を使います。
 アキラはポルトガル種の馬で、白いふさふさとした長い尻尾を持っています。この日のために、私は尻尾にシャンプーをしてやったので、ことさらに美しく人々の注意をひきました。
 途中、子供がアキラの尻尾に触ろうとして近づいて来た時は、ひやひやさせられました。
 私が「近くによっちゃダメだよ」と言った瞬間に、アキラの後ろ足が蹴上がりました。
幸いその子との間に距離があり、何事もありませんでしたが、私の緊張感とストレスは最高潮に達しました。
 馬達が一番怖がったのはトラムでした。馬は非常に臆病な動物ですので、危険や怖いものに出会うと本能的に逃げようとします。逃げるのはいいのですが、乗っているこちらはたまったものではありません。勝手にルイーズ通りを走り出されては困るのです。
 ルイーズ通りから裁判所前を通り、サブロン広場をぬけてグランプラスへの道を進みましたが、人出は増える一方でした。
 それにサブロン広場からは道が石畳になります。蹄鉄を履いた馬には誠に歩き難く、かつ滑りやすい道です。とうとう一頭が足を滑らせて横転しました。当然仲間の乗り手も落ちましたが、幸い馬も人もたいしたケガはしませんでした。
 やっとグランプラスにたどり着きましたが、ここも黒山の人だかりです。娘と息子、それに息子のガールフレンドが待っていてくれました。珍しがって沢山の人が馬の回りに寄ってきます。テレビ局のカメラを始め、やたらと写真を撮られました。ま、一種のスター気分ですかね。
 子供達と記念撮影をしてからビールを一杯飲み、再び馬にまたがり帰路につきました。
帰りはトラムの通る大通りを避け、静かな住宅街を選びながら森の方に帰ってきました。
森に中に入った時は、本当にほっとしました。馬達もほっとしたみたいです。
 来年、ノーカーデーがあったらもう一度馬でグランプラスまで行くかと聞かれれば、答えはノーです。正直に言ってもうこりごりです。

 ノーカーデーの日に一つの悲劇がおきました。
 当日、高速道路からノーカーデー実施のコミューンに入る道路は、朝9時から夕方の7時まで封鎖されました。
 封鎖のポイント守っていた警官が余りにも規則一辺倒であったため、赤ちゃんが亡くなるという悲劇が起きたのです。問題の警官は、赤ちゃんを病院に連れて行くためにコミューンに入りたいというおかあさんの頼みを、許可をもらっていないという理由で拒否しました。必死のおかあさんとの押し問答、警官が本部に電話をして許可を求めるための時間などが、赤ちゃんにとって致命的でした。病院に着いたときは手遅れだったのです。
 規則は人のためにあるという真実を、この警官は忘れたのでしょうか。自分の子供だったらどうしたのでしょうか。信じ難い愚かさです。

 ノーカーデーで、ブリュッセルの街は別の表情を見せてくれました。毎日がこんなだったらいいだろうなと、思った方もいるかもしれません。
 しかし、車なしで私達の生活が成り立たないことは、厳然たる事実です。車がもたらしてくれる恩恵と、車がもたらす害と比べて、善悪を論じても意味のないことだと思います。
 ベルギー統計局の数字によれば、この国では毎週末に平均10名の人が交通事故で亡くなっています。これをもって、交通事故は車がもたらす害であるとして糾弾できるでしょうか。交通事故を起こすのは運転をしている人間です。

 これに関連して、最近こちらの新聞で面白い記事を読みました。
 ルーバンの地方裁判所で、さる人物が罰金200ユーロ、免停15日の判決を受けました。これだけなら別になんという事は無いのですが、この人物がなんと「交通事故犠牲者児童と親の会」のスポークスマンだったのです。マスコミにもよく登場していたようです。
 さらにこの人は、アールスコットとチーネンという二つの町をつなぐ道路のスピードを、90kmから70km下げる運動の中心人物でした。
 同人は高速E-40のベルテン付近を、166kmで走行中にカメラにフラッシュされたのです。
 建前と本音がこれだけ違ってくると、本人には悪いですが笑ってしまいます。どういう神経なんでしょうかね、こういう人は。
 二重人格というより、ちょっと間抜けなオジさんという感じがしないでもありません。この人の身内に交通事故の犠牲者がいるとは思えません。もし犠牲者がいたら、どうして166kmものスピード違反ができるでしょうか。
 彼は、人前で話すのが好きでそこそこに弁も立つので、なんとなく周りから祭り上げられ、いつの間にか「交通事故犠牲者児童と親の会」のスポークスマンになったり、スピード削減運動で走り回るようになった、そんなオジさんを想像するのは間違っているでしょうか。
 似たような例として、「断酒友の会」の会長が泥酔して中央線の終電車内で寝てしまい、高尾まで行って途方にくれてしまった話し。
 或いは、「痴漢冤罪犠牲者市民連合」の代表が電車の中で痴漢の現行犯で捕まり、警察にしょっぴかれていった話しなども、同類項でしょうか。
 人間、建前だけでは生きていかれませんし、本音だけでは角がたちます。このバランスをどうとるかが、人間関係の難しいところです。
 世のオジさんたちも、配偶者から“あなたと子供のどちらを取るかと言われたら、勿論子供を取るわ。子供とは血がつながっているけど、あなたとは血がつながっていなのですもの”などと、恐ろしい本音をぶっつけられても、返す言葉もなく寂しくつくり笑いをするしかないのです。
 世のおかあさん方、つくり笑いはお父さんの悲しい建前なのです。もっと優しくしてあげてください。退職金を丸ごとかかえて蒸発することが、お父さんの本音だったらどうするつもりですか。                        

No.99 わが七つの大罪(パート1)

No.99 わが七つの大罪(パート1)



 亡くなった作家、遠藤周作さんの文章の中に、「人はそれを思い出す度に、ワーと叫んで走り出したくなるような、そんな恥ずかしい思い出を持って生きているものである」というのがありました。

 この文章を読んだ時、「あ~よかった。自分だけではなかったんだ」と、心ひそかに安心をしたものでした。

 2003年の終わりにあたり、ワーと叫んで走り出したくなるような、自分の恥ずかしい思い出を一挙に皆さんに公開する決心をしました。

 この文章上のカタルシスによってわが心を浄化し、清々しい気持ちで新年を迎えたいと思うのです。

 「七つの大罪」などと、大げさなタイトルをつけましたが、言うならば「わが七つ愚行」とでもつけた方がぴったりするかも知れません。中には、すでに本会報誌上に書いたものもありますが、余りにもバカバカしいので再度披露させて頂きます。


1.機内の座席ナンバー事件

 旅行代理店を始めてまだ経験の浅い頃の話です。

 ご注文を頂いた航空券を持ってお客さんの所に行きました。フライトスケジュールを見ながら話していた時、お客さんのSさんがLH2231という数字を指差して、「カントーさんこれは何かね」と質問されました。

 私もよく分からなかったのですが、多分座席番号ではないかと思い「縦L列、横H列の2231番がSさんの席ですよ」と答えました。

 会社に戻って、予約、発券の社員に自分の説明が正しかったかどうか尋ねました。

 私の説明内容を聞いた社員は、飛び上がらんばかり驚き、「本当にそんな説明をしてきたのですか!!」と叫びました。

 そして、その社員は「LH2231はルフトハンザのフライトナンバーに決まってるじゃありませんか。すぐにSさんに電話をしてお詫びをしたほうがいいですよ。もう、本当に恥ずかしい!!」と、私を追い立てました。

 さっそくSさんに電話をして、くだん事情を説明しました。

 Sさんもなかなかとぼけた人で、「ま~、オレもちょっとおかしいとは思ったのよ。今日びの飛行機がなんぼでかいつったって、座席が2000席もあるわけがないもんな~。

でもカントーさんが言うんだから、そんなもんかと納得したわけよ」と、誠に寛大な心で私を許してくれました。

 この事件以来、「自分で分からない事、不確かな事はお客さまに説明しないでください。私たち社員の身にもなってください」と、社員一同から厳しくクギをさされています。


2.“マダム、おいくつですか”事件

 言葉というものは実に難しいものです。フランス語の定冠詞を一つ間違えても、とんでもない意味になってしまいます。

 「平和」を意味する「La Paix」と「おなら」を意味する「Le Pet」が、同じ発音なのは困ります。

 「世界の恒久的平和の実現の為、今や国連の役割は…….」などという演説の中で、冠詞のLaとLeを取り違えたらどういう事になりますか。国連の議場は爆笑の渦になるかも知れません。

 さるところでエレベーターに乗りました。年配のマダムが同じエレベーター乗ってきました。

 ナイトの精神を発揮して、自分の行く階のボタンを押す前に、マダムが行こうとしている階のボタンを押すべく、私はマダムに「何階においでになりますか」と丁重に尋ねました。

 しかし、私の質問を聞いたマダムは不愉快そうに私をにらみ、自分でボタンを押してプイと横を向いてしまいました。

 よくよく考えてみると、私は「何階においでになりますか?」と言うべきところを、「おいくつですか?」と聞いてしまったのです。「Quel etage] と 「Quel age」も発音が似てますよね。

 日本語を勉強中の外国人が都内でタクシーに乗り、「ウンテンシュサン、ワタシヲココデコロシテクダサイ」と言って、運転手さんをびっくりさせたのも、似たような話しでしょうか。

 日本人がよく言う「お陰さまで」という言葉の意味を、「Thanks to you」と覚えた若い外国人の神父さんが、可愛い赤ちゃんが生まれたお母さんに「おめでとうございます」と言ったら、お母さんが「お陰さまで」で答えました。

 神父さんは真っ赤になり、困惑の態で「私は何もしていない」とつぶやきました。


3.携帯電話忘れ物事件

 携帯電話というものは実に便利なものです。自分に限って言えば、今や携帯電話なしの仕事や生活は考えられません。

 携帯電話を消すのは、飛行機の機内、コンサートや劇場や講演会などに出席する時ぐらいで、あとは24時間つけっぱなしです。馬に乗って森に行くときも必ず携帯を持っていきます。

 一つは仕事上の連絡を受信ためですが、もう一つは自分自身と他人の安全のためです。

 万が一落馬して、打ち所が悪くて動けなくなった場合、助けを求めなければなりません。又、馬が勝手に走り去った場合、直ちにクラブや所轄の警察に連絡をする必要があります。原則として、馬は自分の厩舎に戻りますが、途中、車の多い道路に飛び出したりすると、大事故の原因になりかねません。

 通常は、レストランに言っても携帯をつけておきますが、さすがにあるクラス以上のレストランでは消すことにしています。

 これは自分が礼儀が知らずの人間と思われたくないのと、自分が原因で「日本人は礼儀を知らず」などという評判を立てて欲しくないからです。

 ある日の夜、行きつけの日本メシ屋で友達とバカ話しをしながら食事をしてました。その間、卓上に置いた携帯が何度か鳴り、友達の前で忙しそうな格好をして見せました。

 友達との会合がお開きになり、車に乗ってキロロの「長い間」などを聞きながら、わが家へと帰りました。

 家に着いて、車の携帯電話フリーハンドシステムの受話器入れから電話機を取ろうとしたら、携帯が入っていないのです。

 “しまった“と思いましたがもう後の祭りです。レストランに忘れてきたのです。テーブルの上に置いてきたのに違いありません。

 住んでいるウォリュエ サンランベールから、わざわざレストランのある街中まで戻るのは腹立たしいことですが、仕方がありません。忘れた自分が悪いのですから。

 夜道をとって返してレストランまで戻ってきました。

 まだ結構な数のお客さんが残っていました。ご主人に、自分達がいた席に携帯が無かったかどうか尋ねました。ご主人は、自分は見なかったけれどと言いながら、従業員の方に聞いてくれましたが、誰も携帯を見た人はいません。

 私は、絶対にあのテーブルに置いていたのだから無いはずがない、と頑張りました。

 するとご主人が、「分かった、分かった。じゃ~試しにカントーさんの携帯の番号を回して見ようよ」といって、私の言う数字を回し始めました。

 ダイヤルが終わって1~2秒すると、私の携帯の呼び出し音が高らかに鳴り出しました。どこからでしょうか。私の背広の内ポケットからでした。

 遣り取りを聞いていたお客さんや従業員の人達は大笑いでした。

 恥ずかしいやら面目ないやらで、お騒がせした皆さんにお詫びをして、ほうほうの態でレストランを逃げ出しました。

4.ミルク飛ばし事件

 セールスでいろいろな会社や事務所にお邪魔をします。そして多くの場合、応接室や会議室でお話しをさせて頂きます。

 皆さんはご親切に、コーヒーは如何ですかとか、飲み物は如何ですかときいてくれます。

 さる日系企業さんにお邪魔をした時のことです。

 立派な応接室で現法の社長さんが応対をしてくれました。

 飲み物をきかれたのでコーヒーをお願いしました。秘書の方が持ってきてくれたコーヒに、砂糖を入れ小さな容器に入ったミルクを入れて、コーヒーを頂くための作業を始めました。

 まず角砂糖をコーヒーカップに投入し、次いで小さな容器の上蓋をはがしてミルクをカップに注ぐ作業に取り掛かった時です。

 ミルク容器の上蓋をはがした瞬間、ミルクがピュッと飛んで応接セットのテーブルを挟んで向かい側に座っていた社長さんの背広にかかってしまいました。

 上蓋がなかなかはがれず、押さえていた指に力入っていたために、意外とミルクの飛距離が伸びた模様です。

 勿論私は社長さんに平身低頭お詫びをしました。社長さんはハンカチで背広のミルクを拭いながら、「いいですいいです。気にしないで下さい」とおっしゃいました。

 以後、コーヒーを頂く時はミルク容器の口先を自分の方に向けて蓋をはがすように気をつけています。

 社長さんは「気にしなでください」とおっしゃいましたが、やっぱりまずかったんだと思いますあれは。何故なら、セールスは見事に失敗したらしく、あの社長さんの会社からは未だにご注文を頂けずにいます。

 似たような話しです。

 さる有名レストランで、ワインテースティングをした時のことです。

 グラスをくるくる回してワインの香気を立ち昇らせる作業中、回し方が強すぎてワインがグラスから飛び出してしまったのです。めったに赤面をしない自分ですが、あの時だけはまさに赤面の至りでした。

 七つの大罪がまだ四つ目なのに、紙面が尽きてしまいました。まだ三つの大罪、愚かさのグレードで言えばかなりグレードの高い罪が残っています。

 残りは次号に書かせて頂きますので、お楽しみにというか、かくも愚かな人間がベルギーの在留邦人の中にいるという事実に思いを致し、次号をお待ちください。

 それでは皆さん、よいお年をお迎えください。