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No.100 わが七つの大罪(パート2)

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No.100 わが七つの大罪(パート2)



 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
 新年号には、格調高く教養の香り溢れる文章を書きたいものと、つねづね思っておりました。
 しかも今月号は、記念すべき100回目の「新ベルギー物語」なのです。
 読む人をして「ムム……、おぬし出来るな」と言わしめるような文章で、100回記念を飾りたいものと考えておりました。
 しかし人間は、自分の身の程に合った文章しか書けないものであることが、よく分かりました。
 先月号で終わらせるつもりで書き始めた「わが七つの大罪」が完結せず、今月号でパート2を書くハメになりました。
 新年早々、わが恥多き人生の一端を皆さんに読んで頂くのも前世からの定めと諦観し、残り三つの大罪を書かせて頂きます。

五. 車盗難事件

 世間様をお騒がせしたと言う点で、これは超ど級の大罪と言っていいでしょう。
 日頃、自分が行きつけないスーパーに行くのは何となく落ち着かないものです。売り場の配置やパーキングなど何かと勝手が違います。
 ある日の夕方、用事を済ませた場所の近くにあるスーパーに行きました。皆さんの中でも知ってる方が多いと思われるオーデルゲムのスーパーGB、今のCarrefourです。
 ここのパーキングは、自分が日頃行っているスーパーDelhaizeのパーキングの何倍にも当たる大きさです。 
 パーキングに車を停めて、慣れない売り場を右往左往しながら、どうにか買い物を済ませました。
 レジでお金を払いパーキングに出ました。しかし自分の車の場所まで来て愕然としました。車が無いのです。車は煙のように消えてしまったのです。
 念の為、周囲をくまなく探しましたが車は見つかりません。盗まれたのです。
 スーパーのお客さまサービスカウンターに行って、事情を話しガードマンを呼んでもらいました。
 「お客さん、本当にこの辺に車をおいたんですか」
 「間違いなくここでした。立ち木の種類まで覚えてますよ」
 「で、車の種類は何ですか」
 「凸凹車です」
 「あ~、凸凹車ね~。しょうがないですよ、そりゃ。あの車種はよく盗まれるから。ところで私の勤務時間はもう終わりですからこれで失礼します。後は警察を呼んで保険会社に出す調書を作ってもらってください」
 まるでやる気の無いガードマンでした。
 仕方がありません。再びお客さまカウンターに戻って電話を借り、オーデルゲムの警察に電話をしました。
 電話に出た警察官はとても親切に答えてくれ、すぐに行くのでカウンターの前で待ってるようにと言いました。
 警察を待っている間にハッと思い出したことがあります。買い物を積んだカートのことです。車を探したり、ガードマンを呼んだり、警察に電話をしたりしている間、カートはパーキングに置きっ放しにしてました。
 閉店時間を過ぎて暗くなったパーキングに戻り、カートを置いた場所に行きました。するとどうでしょう。カートもまた煙のように消え去っていました。車を盗まれた上に、せっかく買った食料品その他まで盗まれてしまったのです。
 過酷な運命のいたずらに、私は天を仰ぎ、地に伏して慟哭したい気持ちでした。
 そうこうしているうちに、中年の警察官と若い警察官の二人がパトカーでやってきました。
 私から事の次第を聞き取った後、年長の警察官が「署に行って調書を作りますから一緒に来てください。その前にパーキングを一回りしてみましょうか」と言いました。
 パトカーに乗ってパーキングを一回りした後、出口の方に向かいました。もう暗くなったパーキングに残っている車の数は、ぐっと少なくなっていました。
 パトカーの窓からぼんやりと残っている車を見ていた私は、ある場所まで来た時、胃袋をギュッとつかまれたような衝撃を覚えました。
 何と私の車が停まっているではありませんか。
 頭脳明晰な私は一瞬にして事態を理解しました。
 私は車をスーパーの建物の入り口近くに停めたのです。そして買い物が終わった後、遥か向こう側にあるスーパーの出口から出てきて自分の車を探したのです。あるわけがありません。 
 親切な二人の警察官に何と言って説明をしようかと悩みました。
 「車泥棒が車の場所を移した」。これは白々し上に、説得力がありません。
 結局、正直に自分の愚かな誤りを話し、心からお詫びをしました。
 親切な警察官は「車が見つかってよかったですね」と言ってくれた上に、「盗まれたあなたの買い物についての調書を署で作りましょう」とまで言ってくれるではありませんか。
 私は「とんでもありません。調書を作っても盗まれた物が出てくるわけではありませんし、これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきません」と固辞し、ほうほうの態でパトカーを降りました。
 その後、GB(現カルフール)のパーキングにはレーンごとに果物の絵を描いた標示ができたそうです。

六.馬取替え事件

 思い込みが激しく、そそっかしい自分の性格が引き起こした事件です。
 ある日、愛馬、アキラに乗る準備をするため馬房に入り、ブラシをかけてやったり、たてがみや尻尾を梳かしてやったり、まめまめしく世話をしてやりました。
 鞍をつけ、轡(くつわ)を噛ませて準備万端整え、屋内馬場に行きました。
 鐙(あぶみ)に足をかけて鞍にまたがろうとしたのですが、どうも様子が違います。アキラの背丈がいつもより高いのです。
 アキラには二日前に乗ったばかりなのです。馬は二日間でこんなに背が伸びるものだろうかなどと考えていると、向こうの方からアニックが走ってきました。
 彼女は「私のカピトーをどうするつもりなのよ」と、顔を紅潮させて怒っています。
 頭脳明晰な私は一瞬にして事態を理解しました。
 カピトーとアキラはボックスが隣り同志な上に、毛並みやたてがみの色が似ていいます。そそっかしい私は、人さまの馬を準備して引っ張り出して来たのです。
 よく見れば、カピトーの方が馬体は大きいし、顔も違う(馬面とはいえ、馬の顔はみんな違います)ので、乗馬をやる普通の人間なら間違うことはあり得ません。
 アヌックには平謝りに謝り、カピト―をボックスに戻して鞍や轡を外し、アキラに持ってきた人参を全部カピトーにあげました。なんの罪もないアキラが不憫でしたが仕方がありません。
 この話しはすぐに乗馬クラブ中に広まり、“粗忽者のサミー”の評判が確立しました。

七.娘のワイン事件

 この話はずいぶん昔の話です。
 私がまだルーバン大学の学生だったころ、同じ大学の友達の結婚式に招かれました。
新郎、新婦共に学生で、よく飲み歩いたり遊び歩いた仲でした。
 披露の宴がたけなわになったころ、新婦のお父さんが何やら重々しい感じで、ボトル入れを両腕にさげて12本のワインを持ってきました。
 ほこりを被ったワインのボトルはかなりの年代物と見受けました。
 新婦のお父さんは言いました。「皆さん、このワインはこの子が生まれた年のワインです。今日の日のために、私はこのワインを大事にカーブに寝かせてきました。娘と新郎のドミニックの幸せを祈って、皆さんに飲んで頂きます」
 “いいな~”と思いました。“かっこいいな~“とも思いました。そして、”自分もやろう“と決心しました。
 娘が生まれた時、学生の身分としてはかなり高いその年のワインを6本買いました。安ワインは20数年も持ちませんので無理をしました。
 最初はワインを大切に保管していました。といっても、学生アパートですからカーブなどありません。光が当たらないように、ベッドの下に置いてました。
 ある日ふと考えました。“ワインの味も知らないでとって置くのは問題だから、ちょっと味見をしてみよう“と、一本飲んでみました。
 又、ある日考えました。“この間味見をしてそんなに悪くはなかったけど、今ひとつ味がはっきりしないから、もう一本試してみるか”。
 しばらくして、又考えました。“コルクの具合が悪いとワインが酸化して持たないというから、ちょっと調べないと。一本、どうも気になるのがあるから”。
 娘が初めて歩いた時、考えました。“前祝いに一本やるか”。
 そして又考えました。“一本だけじゃ結婚式に出してもかっこ悪いから、飲んじまうか”。
 こうして、娘の結婚式のために買ったワインは、娘が幼稚園にも入らないうちに、全部無くなってってしまいました。なんと言う父親でしょうか。
 これまでに書いた六つの大罪は、自分のそそっかしさや愚かな思い込みからきたものですが、娘のワインは明らかな罪と言っていいでしょう。
 私はこの秘密を墓の中まで持っていく覚悟です。
 一番恐ろしいのは、娘がこの話しを聞きつけて、自分の生まれた年のワインを買ってくれなどと言い出すことです。今買ったらべらぼうな値段がします。
この話しは内密にお願いします。お知り合いの方も、娘にはこの話しを洩らさないでください。
 ただ、一つだけ気がかりなことがあります。それは、娘が「新ベルギー物語」の愛読者であることです。     

No.101.本命、ベルチョコ

No.101.本命、ベルチョコ



2月になると、おじさん達がなんとなくそわそわし始めます。何故でしょうか?

答えは簡単です。2月はバレンタインデーの月だからです。

おじさん達は、自分にまるで関係のないバレンタインデーが近づくと、2月のカレンダーを眺めながら、見果てぬ夢の世界につかの間の幸せを求めるのです。

「今度うちの課に来た花子ちゃん、チョコレートくれるかな~。モリナガでもロッテでもなんでもいいんだけど、あんな可愛い花子ちゃんから貰ったら、誰にもあげないで食べちゃうんだけど。チョコはウイスキーのつまみとしてよく合うし」

「去年、メイジのチョコをくれた経理の直子ちゃんは、今年もくれるかな。課が違うのにどうしてオレにバレンタインデーのチョコをくれたんだろう。もしかして、オレに気があるのかもしんないな。今年、Godivaなんか持ってきたらどうしよう。オレには妻子もあることだし、ここは一番こんこんと言って聞かすしかないな。でも“好きです”なんて迫ってこられたらどうしよう。オレ、押し返す自信あるかな」

「ケミカルの佐藤さんて、美人で颯爽としていてカッコいいな。総合職だしな。今度ブラッセルの店に行くらしいけど、ヘンなベルギー人の男になんかつかまんなきゃいいけど。あんな素敵な女性を外国人の男に取られるなんて、日本男児の恥だぜ。去年のバレンタインデーに、佐藤さんがチョコレートの箱を持っているのを見たけど、誰にあげたんだろう。今年あたりオレにくれないかな。地下鉄も同じ同じ東西線みたいだし。佐藤さんクラスになると、チャラチャラした若いのより、オレみたいなどっしり構えたのがいいのかもしれないよ」

 おじさんの夢は果てしなく続いていきます。

 花子ちゃんはおじさんにチョコをあげる気など全くありません。大学時代からつきあっている太郎君に、今年は大枚はたいてピエールマルコリー二のチョコをプレゼントすることで頭が一杯なのです。

 出来ることなら、太郎君の口から“結婚”という言葉を言わせたいのです。おじさんのことなど、花子ちゃんの頭にはカケラほどもありません。

 去年、経理の直子ちゃんがおじさんにチョコをあげたのは、余ったチョコの小箱をどうしようかと迷っている時に、たまたまおじさんが通りかかったからなのです。

 その後、おじさんのことなど考えたこともありません。今年はモリナガもメイジもロッテもモロゾフも、おじさんにあげる予定は全然ありません。

 ケミカルの佐藤さんは苦しんでいます。去年チョコをあげた相手とは暮に別れました。彼とは不倫の関係だったのです。窓際にどっしり構えているおじさんとは,地下鉄の中で会うことはありますが、佐藤さんの世界とはまるで関係のない人なのです。

 佐藤さんは今年のバレンタインデーにチョコを買う予定はありません。

 世のおじさんの皆さん、おじさんはおじさんらしくしましょう。自分に関係のないバレンタインデーなど無視しましょう。オレはチョコレートなどいらないという、毅然たる態度をとりましょう。もの欲しそうな目つきは、おじさんの沽券に関わります。

 ただ、ベルギーに住んでいるおじさんには、日本に住んでいるおじさんにはない武器があります。それはベルギーがチョコレートの国だからです。

 今やベルギーのチョコレートは、日本の若い女性の間では勿論、若くない女性の間でも憧れの高級ブランドとして、その評価が定着しつつあります。昔は有名だったスイスのチョコレートなど、今や話題にもなりません。

 日本へ里帰りの時、ベルギーの有名なチョコレートを持っていって、家族、親戚、知人等に配っても、ちっとも嬉しそうな顔をしなかった時代がウソのようです。

 昨年のバレンタインデーでは、銀座に2001年に出店したベルギーのピエールマルコリー二のチョコレートを買うため、若い女性達が行列をして、売り場までたどり着くのに4時間待ちだったと聞いています。しかも値段が、ブリュッセルのマルコリー二の店の3倍から4倍もするというのにです。

 4時間並んでもマルコリー二を買いたいという乙女心は、何処からくるのでしょうか。

 それは、バレンタインデーに意中の人、つまり本命にはベルギーチョコを贈り、おじさんを含むその他大勢には国産チョコで間に合わせるという動きが、日本の若い女性の間で静かなブームになっているらしいのです。

 日本のおじさんがバレンタインデーにGodiva,Neuhaus,Marcolini,Leonidas,Galler,などのベルギーチョコを貰ったら、ことはおおごとになります。

 ベルギーチョコをくれた相手の真意をとことん確かめる必要があります。そして、奥さんへの慰謝料、子供の養育費、家のローン、会社や世間様への申し開きなどにまで、思いを致さないといけません。

 でも早合点はしない方がいいですよ。彼女がくれたチョコは、彼女が夏休みにベルギーへ旅行をした時、大量に買い込んで来て冷蔵庫にしまい込んでおいたチョコのお余りかも知れませんから。

 一方、ベルギー在住のおじさんがベルギーチョコを貰っても、心を悩ませる必要はありません。チョコをくれた彼女は、近所のチョコレートの店で買っただけの話です。

 どうしてベルギーのチョコレートはこんなに有名になったのでしょうか。

 高品質であることは間違いないでしょう。EUは、チョコレートに植物性の油脂を混ぜることを認めましたが、ベルギーのチョコレートメーカーは断固としてこれに反対し、純粋なカカオバターのみを使っています。

 又聞きかじりですが、ベルギーではチョコレートの原料になるカカオ豆の粉砕度が他の国より数ミクロン高いのだそうです。粉砕度を高くすれば、手間がかかる上に歩留まりも悪くなるのに、ベルギーのチョコレートメーカーは頑固にこれを守っている由です。

 もう一つ、ベルギー人の食べることに対するうるささが影響しているかも知れません。ベルギー人の性格の一つとして“Rouspeteur“というのがあります。これは”文句を言う人“、”不平屋“といった意味ですが、食べ物に対してもこの性格が反映されていると思います。この国の食のレベルの高さを見れば分かるでしょう。

 さらに司馬遼太郎説に従って、ベルギーがカトリックの国であることも理由になるでしょうか。司馬遼太郎説によれば、ヨーロッパで食事のおいしい国とそうでない国を大雑把に分けてみると、前者がカトリック圏の国で、後者がプロテスタント圏の国になるというのです。

 ここで宗教論争をしても仕方がありませんが、言われてみれば確かにうなずける面があります。食事がまずいので有名な“ヨーロッパ魔のベルト地帯“に入っている国は、いずれもプロテスタントの国です。これに反して、ベルギー、フランス、イタリア、スペインなどはカトリックの国になります。

 St.Valentinがカトリックの聖人なら、ベルギーのチョコレートもカトリック教会に恩義があるのでしょうか。

 ここでベルギー在住のおじさん並びに昔のお嬢さん達に、チョコレート関連の雑学です。

 おじさん達は、出張などでZaventemの空港を利用することが多いでしょう。空港でお土産にチョコレートを買ったことはありませんか?

 空港にはゴディバ、ノイハウスなどの有名ブランドが店を出していますが、一体どのぐらい売れるものなのでしょうか。

 空港全体で、500gのバロタン(プラリーヌの箱詰め)が15秒に1箱の割合で売れています。これは、1分間で2kg、1日に1.8トンになり、1年間で650トンになります。バロタンを並べると、ブリュッセルからローマまでの距離になるそうです。

 なお、ブリュッセル市内の有名チョコレート店でも、年間売上が40~45トンが最高だそうですから、空港の売上が如何に大きいかが分かると思います。

 それでもサベナ航空が健在だった頃は、今の売上の3倍以上の売上があったといいますから、サベナの倒産はベルギーのチョコレート産業にまで影響を及ぼしたことになります。

 雑学ついでですが、プラリーヌの箱詰め、バロタンを最初に売り出したのはブリュッセルのNeuhausですのでご参考まで。

 昨年暮れのベルギーの新聞に、ピエールマルコリーニが銀座に第2店をオープンしたという記事がでました。

 2001年に銀座にオープンしたマルコリー二第1店は順調に売上を伸ばし、2002年にはマルコリー二全体の売上の10%、2003年には30%を記録する伸びを見せました。

 去年のバレンタインデーには6万箱のバロタンが売れ、今年のバレンタインデーには何と20万箱の売上を見込んでいるそうです。

 20万人の選ばれた男性は誰なのでしょうか。その中に一人ぐらいおじさんが入っているといいのですが、多分入ってないでしょうね。ま、関係のない話しではありますが。

 第1店の成功で自信をもったMr.Pierre Marcoliniは、同じ銀座に第2店オープンしましたが、この店はアイスクリームとシャーベットの専門店だそうです。製品は全てブリュッセルのアトリエで作ったものを空輸するといいますから、どんな値段のアイスクリームやシャーベットになるのか、興味のあるところです。

 都内のホテルで第2店オープンニングの記者会見を開いたマルコリー二さんは、記者会見の会場に行った時、わが目を疑ったそうです。何故なら、会場には100人を越す新聞、雑誌、テレビの記者集まっていたからです。

 ベルギーでは勿論のこと、ヨーロッパでどんなに有名なチョコレート屋であっても、支店を出すぐらいで記者会見などしないし、しても記者が来るかどうか分からないのが,普通だそうです。

 マルコリー二記者会見をセットアップした日本のコーディネーターの腕がよかったのでしょう。

 われわれベルギー在住の日本人にとって、日本でベルギーのことが話題になるのはいいことです。ベルギーのことを知ってもらえるのは嬉しいことです。

 今度日本に里帰りしたら、「ゴディバやノイハウスは飽きちゃったわ。マルコリー二もいいけど、最近は庶民の味、レオ二ダスにしてるの」なんて言ってやろうじゃありませんか。羨ましがらせてやろうじゃありませんか。

 ところで、この稿を書くにあたりベルギー有名チョコの値段を調べましたのでお知らせします。以下、500gのバロタンの値段です。

Marcolini 26.50Euro, Godiva(500gはなくて400g) 15.00, Neuhaus 18.35, Leonidas 6.50, Wittamer 24.00, Mary 22.00, Galler 18.50, Corne 16.00

やっぱり、マルコリーニが一番高くて、レオニダスが一番安いですね。

 2月14日、レオ二ダスで結構ですので、誰か恵んでくださる方はおられませんでしょうか。「おじさんは毅然たる態度を」なんて言った手前、余り大きな声では言えないのですが。             

No.102.お巡りさん

No.102.お巡りさん



 警察官のことを、どうして“お巡りさん”というのでしょうか。

 市民が安心して暮せるように、いつも周りを巡回してくれているからでしょうか。

 いずれにしても、お巡りさんという呼び方のほうが、警察官という呼び方よりずっと親しみを感じることは事実です。

 童謡の「いぬのおまわりさん」だって、あれが「いぬのけいさつかん」だったら、あんなに可愛らしい歌詞にはならなかったでしょう。

 ご参考までに、さとうよしみさん作詞の歌詞をかいてみます。

 “まいごのまいごの こねこちゃん
  あなたのおうちは どこですか
  おうちをきいても わからない
  なまえをきいても わからない
  ニャンニャン ニャニャーン
  ニャンニャン ニャニャーン
  ないてばかりいる こねこちゃん
  いぬのおまわりさん こまってしまって
  ワンワンワンワーン ワンワンワンワーン“
 これを「いぬのけいさつかん」にしたら、どうなるでしょうか。
 “これこれまいごの こねこくん
  きみのじゅうしょは どこなんだ
  じぶんのすまいが わからぬと
  じぶんのなまえが わからぬと
  ニャンニャンなくのは やめないか
  やめぬとしょまで しょっぴくぞ
  ないてばかりいる こねこくん
  いぬのけいさつかん おこってしまって
  ウー、ワワンワーン ウー、ワワンワーン

 大分、感じがちがってきますね。

 思えば私も、ベルギーのお巡りさんには随分お世話になりました。

 最初の出会いは、ベルギーに来て一ヶ月もたたない時です。

 早朝、ルーバンの下宿にお巡りさんが踏み込んできました。朝の7時前で、私はまだ寝ていましたので、文字通り寝込みを襲われたのです。

 下宿はルーバンの市役所と警察署のすぐ後ろにあった学生寮でした。

 当時、言葉もよく分かりませんでしたので、寮長のフィリップに助けを求めたところ、踏み込みの理由が判明しました。

 私はベルギーに来た時、最初の1週間は知人の紹介で、ブリュッセル近郊のGrimbergenという市のべルギー人家庭にお世話になっていました。そして、ベルギー入国後直ちに滞在届けを出すことという、駐日ベルギー大使館発行の滞在許可の規定に従い、グリンベルゲンの市役所に滞在届けを出しました。

 ルーバンに引っ越す時、1週間しか居なかったグリンベルゲンの市役所に移転届けを出してきましたが、肝心のルーバンの市役所に出頭することをすっかり忘れていました。

 不法滞在をしているわけでもないのに、早朝ひとの寝込みを襲わなくてもよさそうなものですが、IDカードも持たずにここで暮そうとしていた自分が悪かったのですから仕方がありません。でもあの時のお巡りさんは、お巡りさんより警察官の雰囲気でした。

 二度目にルーバンのお巡りさんと接触したのは、1年半ぐらい経って大学生活にも慣れてきた頃です。

 当時、ルーバンからブリュッセルに来る時は、ルーバンの駅まで自転車で来て、駅前に自転車をおいて電車に乗るのが普通でした。

 ある日、いつものように駅前に自転車を置いて、電車でブリュッセルに来ました。ところが、ルーバンに帰ってきて自転車置き場に行ったら、自分の自転車だけではなく、あれほどあった自転車が一台もありません。

 そこに張り紙がしてあり、フラマン語で「ここに自転車を放置した者は警察署へ出頭の事」と書いてありました。フラマン語は出来ませんでしたが、このぐらいの文章は読めるというか、察しがつきます。

 さっそく警察署へ行きますと、温厚な顔のお巡りさんが、「君の自転車は違法駐車で撤去の上、どこそこに保管してあるから、ここで罰金を払って取りに行きなさい」と言うではありませんか。ちなみにルーバンのお巡りさんは、みんなフランス語ができました。

 確かにみんなが自転車を置く場所には、「自転車の放置禁止」のフラマン語のプレートがかかっていました。

 ルーバンの学生生活にも慣れ、言葉も分かるようになっていた私は、生意気にもお巡りさんに文句を言いました。

 「ご存知とは思いますが、このルーバンの街にはまだ15,000人以上のフランス語系の学生がいるんですよ。それに加えて、世界中の国々から留学生が来ています。それなのにフラマン語だけの標示をしておいて、一方的に罰金を取るというのは納得がいきませんね」

 「君ね、知ってるだろうけど、ここルーバンは言語法でフラマン語圏になっているんだよ。だから君たちフランス語系の学生は、いずれルーバンラヌーブに移転するんじゃないか。ここでは公的標示はフラマン語でしか出来ないのさ」

 「フランス語で書くのがダメなら、せめて英語で書いたらどうですか」

 「じゃあ聞くけど、リエージュやナミュールの駅前に英語の標示があるかい」

 「…………」

私はおとなしく罰金を払って、自転車をとりもどしました。

 ここでルーバンのお巡りさんと学生にまつわるお話しを一つ。

 ある霧の深い夜、お巡りさんがルーバンの街を巡回していました。

 中央図書館前の広場まで来た時、霧の向こうから、一人の学生が何やら掛け声をかけながらやってきます。近づいて来た学生をよく見ると、彼は“イッチニ,イッチニと言いながら、オールで船を漕ぐ格好をしながら歩いています。どうやらかなり酔っているようです。

 「君、何をやってるの?」

 「ご覧の通り、ぼくはボートを漕いでいるんですよ」

 「だって君、君はボートもオールも持ってないじゃないの」

 ハッと自分の周りを見渡した学生は「あ、本当だ」と言うと、平泳ぎの格好をしながら去って行きました。

 洒落っ気のある学生が、酔っ払いのふりをしてお巡りさんをからかう為にやったのか、或いは本当に酔っ払ってやったのか、誰も知りません。

 もう一つ、お巡りさんから受けたカルチャーショックの話しです。

 ベルギーに来て間もない頃、友達とセルフサービスのレストランで食事をしていました。

その時,一人の制服姿のお巡りさんがデザートの皿を持って、われわれのテーブルの横を通り過ぎました。そのお巡りさんを見て、私は一種のカルチャーショックを受けました。

 もみあげと立派な口髭をたくわえた堂々たる体躯のお巡りさんが、生クリームをたっぷりかけたデザートを、さも嬉しそうに持って自分の席に戻ろうとしています。

 私の父はお酒は飲みましたが、甘いものには絶対に手を出さない人でした。父は、甘いものなど女子供(女性並びに子供の方済みません)の食べるもので、いい年をした男の食べるものではないという、誠に古風な考えの持ち主でした。

 そういう父の影響を受けて育った私の目に、髭面のお巡りさんが公衆の面前で甘いものを嬉しそう持っている姿が、なんとも奇異に見えたのです。

 こちらの食事にデザートがつくのは当たり前のことなのですが、文化的な違和感から抜け出すのに少し時間がかかりました。今でも、ワインや料理の話しは好きですが、デザートや甘いものの話しには興味が湧きません。

 学生生活を終えて仕事を始めてからも、お巡りさんには交通違反も含めていろいろとお世話になっています。

 ざっと思い出すと次のようなケースがあります。

1. 昔の車の窓ガラスが破られて、車上荒らしに合った時。

自分では何も盗られていないと思っていたら、車を調べたお巡りさんに、カーラジオがなくなっていることを指摘されました。ガラスの修理代の方が高くつきました。

2.夜中に侵入を企てた泥棒に玄関の扉を破られた時。

夏休み中、家族が旅行に行って家には自分一人しか居なかった時、夜中に泥棒が侵入を企てました。

前の晩、虫の知らせか、いつもはカギをかけない扉のカギをかけて寝ました。玄関の扉は破られましたが、カギをかけて寝た二番目の扉のお陰で難を免れました。

たった一人だったので、危ない目に会っていたかも知れません。

 3.カージャッキングに2度襲われた時。

この事件はすでに本会報に書きましたので詳細は書きませんが、至近距離で銃を突きつけられるという、わが人生で最も危険な目に2度も会いました。

その後警察の方から、心理アシスタントが必要なら申し出てくださいという手紙がきました。こういう事件に出会った人は、その後心理的トラウマに苦しむことがあるのだそうです。

私の場合、トラウマなど全くないので、心理アシスタントの必要はありませんでした。だいたい襲われたその晩に、夢も見ずにぐっすりと眠るような人間ですから、脳の一部が最初から欠けているのかも知れません。

ところでベルギーには何人ぐらいのお巡りさんがいるのでしょうか。 約42000人だそうです。

最近、この42000人のお巡りさんのために、「警察官として守るべき行動指針」が出されました。

かなり細かい内容のようですが、新聞に載った抜粋を一部書いてみます。

1、市民とのコンタクトの際、必ず自分の名前を名乗り、所属先を告げること。
2、礼儀と節度をもって話し、馴れ馴れしい態度をとらないこと。
3、髪の毛、制服などを清潔に保つこと。
4、警察官ストの際、ストに参加しない同僚の仕事の邪魔をしないこと。
5、贈り物は、小額で気持ちだけの贈り物しか受け取らないこと。
6、パトカー、コンピューターなど公用のものを、私的目的に使わないこと。
7、勤務中、ビールを飲まないこと
8、 合法といえども、マリファナなどは吸わないこと。
9、市民のプライバシーに限度を超えた興味を持たないこと。
10,職権をかさに市民を困らせないこと。

当たり前のことが大部分ですが、わざわざ通達を出すということは問題があったということでしょう。

私としてはここにもう一項付け加えて欲しいのですが、どうでしょうか。

11,日本人の男の前でデザートを嬉しそうに持ち運ばないこと。

No.103 フランドルの夢

No.103 フランドルの夢



 1302年7月11日の朝、日の出までにまだ間のあるグローニングの野には、濃い霧が立ちこめていた。霧の向こうにぼんやりと、あるかなきかの影絵のように見えるのは、シトー会女子修道院の建物に違いない。

 前夜、ブルージュを発したフラマン軍は、グローニングの野を流れるリース(Lys)川の近くに陣をしき、フランス王フィリップ4世の軍を迎え撃つ準備をしていた。

 リース川の川べりには良質の亜麻が自生している。この亜麻糸を使って編まれたブルージュレースが、後世、ブルージュを訪れた日本人観光客によって、遥か日本まで持っていかれる事など、陣地作りに忙しいフラマンの農民兵が知るよしもなかった。

 「フランス王の軍の陣地はどんなようすか」

 フランドル伯ギー ド ダンピエールの息子でナミュール伯のジャンが、近くにいたブルージュ市民軍の兵士にきいた。

 「へえ、アルトワ伯ロベール殿様の軍に放っておきました忍びの者が言いますには、フランス軍はモッセンベルグの丘を中心に陣営を築いていてるっちゅう話でごぜえます。フランス軍のお殿様や兵士どもは昼間からワインを飲んで、“フラマンの百姓、町人の寄せ集めの軍などひと思いに蹴散らしてくれるわ”と、もう戦さに勝ったみてえな気分でいるということでごぜえます」と、ブルージュ訛りのフラマン語で答えた。

 「総司令官、アルトワ伯ロベール候は今年52歳になる歴戦の勇士だ。フランス王フィリップ4世の信頼も厚い。他に、オーマル伯、ユー伯、ラウル伯、元フランドル代官のサンポル伯が出陣していると聞いている。しかもフランス王側には2500騎以上の騎馬武者と6500人以上の歩兵がいるとの報告だ。これに対して、わが方は歩兵の数では優っているが、騎馬兵は20騎もいない。アルバレッチエ(大弓隊)の数でも敵は圧倒的に優勢だ。まともに立ち向かって勝てる相手ではない。策はあるか、ペーテル」

 ナミュール伯は、そばに控えていたブルージュのハタ織り職人代表のペーテル ドコニンクに尋ねた。

 「はい、お殿様のおっしゃるとおりでございます。正面からぶっつかったら、わが軍はひとたまりもありません。わが方の兵士の大多数は、ブルージュの市民兵や農民兵です。まともな武具や甲冑も持っておりません。われわれの勝機はリース川の周りに広がる湿地帯にあります。この湿地帯に敵の騎馬武者を誘い込みます。重い甲冑をつけた騎馬武者が乗る馬は、泥に足を取られ身動きが出来なくなります。そこを襲うのです。後は指揮官を失って浮き足だった歩兵を追撃すればよいのです。ですから、こちらから攻撃を仕掛けずに、敵が押し出してくるのを待つのが得策かと思います」

 ペーテル ドコニンクは一介のハタ織り職人から頭角を現し、人の心をとらえる弁舌と指導力、並びにその豪胆な性格から、今やブルージュ市民軍の総指揮官的立場にたっていた。

 グローニングの戦いの約2ヶ月前、1302年5月18日の明け方、フランス王派遣のフランドル代官、サンポル伯と共にブルージュにいたフランス人の貴族や商人、兵士らが、寝込みを襲われて次々に殺されるという事件が起きた。殺されたフランス人の数は数百人にも及んだ。

 これは、フランドル伯、ギー ド ダンピエールをパリに幽閉し、毛織物産業で豊かなフランドルを併合しようとしている、フランス王フィリップ4世に対するブルージュ市民の反乱事件であった。

 この反乱を指揮したのもペーテル ドコニンクであった。

 彼は反乱軍に次のような指示を与えた。

 「よいか、襲撃は修道院の朝の祈り、朝課の始まりを告げる鐘の音を合図とする。日の出前で家の中は暗い。同志打ちを避け、敵を見分けるために合言葉を決める。”Schild of vriend”(盾か友か)と言って、相手が答えられなかったら殺せ」

 寝込みを襲われた上に、フラマン人でなければとても発音できない合言葉をあびせられ、フランス人は片っ端から殺されていきました。

 これが有名な「Les Matines de Bruges」、「ブルージュの朝課」と呼ばれる事件です。

 皆さん、ブルージュに行ったら、マルクト広場の中央に誇らしげに立っている二人の人物像を見てください。一人がペーテル ドコニンクで、もう一人が肉屋のギルドの親方で、この戦いに多額の資金援助と食料の援助をしたヤン ブレイダルの像なのです。

 「ブルージュの朝課」事件を契機として、フランス王はフランドル併合を最終的に実現する為、アルトワ伯ロベールを総司令官として軍を送りました。

 史上有名な[Bataille des Eperons d’Or],「黄金の拍車の戦い」はフラマン側の作戦が見事に成功し、当時のヨーロッパで最強といわれたフランス王フィリップ4世の軍は、壊滅的な打撃を受けて敗走しました。指揮官の中で、フランスへ逃げ帰ったのはサンポル伯とその手勢だけという惨憺たるものでした。

 昼ごろから始まった戦いは、僅か3時間で決着がついたそうです。

 フランス軍総司令官のアルトワ伯ロベールは、少年時代をコートレイクで過ごしており、リース川周辺の湿地帯についてよく知っていた筈です。それにも拘らずフラマン側の術中に陥ってしまったのは、彼らが如何にフラマン軍を侮っていたかの証拠かも知れません。

 この戦いにおけるフラマン側の攻撃はすさまじく、湿地帯で足をとられた馬から引き摺り下ろされた指揮官、将兵らの騎馬武者は、樫の木に鉄の棘を埋め込んだこん棒で殴り殺されました。

 通常は、身代金が取れる領主階級や貴族階級は殺さずに捕虜にするのですが、この戦いでは全員殺されてしまいました。フランス軍総司令官のアルトワ伯ロベールは、降伏したにもかかわらず殺されました。中世の騎士道精神では、戦闘能力を無くしたものは殺さない掟があるのですが、フラマン軍は情け容赦なく皆殺しにしました。

 フラマン兵がフランス兵を殺すのに使った主な武器は、鉄の棘を埋め込んだ1メートル程の樫のこん棒でした。この武器が「黄金の拍車の戦い」以後、「Goedendags」(こんにちは)と呼ばれるようになったのは何故でしょうか。

 それは、フランス兵に襲いかかったフラマン兵が、まず相手に“こんにちは”と言ってから、この武器で殴り殺したからだそうです。

 ウソか本当か知りませんが、フラマン兵も随分と礼儀正しい人達だったようですね。

 或いは、田舎の人は道で出会う人には誰にでも挨拶する習慣があったので、フラマン兵もつい“こんにちは“と言ってしまったのでしょうか。

 一方、フラマン語の分からないフランス兵は、何を言われたかも分からないうちに、あの世へ行ってしまった訳です。

 戦いの終わったグロ-ニングの野には、夥しい人馬の屍とそれに劣らない数の剣や兜やさまざまな武具,或いは美々しい馬具などが残されました。

 フラマン軍は戦場に残されたものを集め、戦利品としてブルージュに運ぶ荷車に積み込みました。

 ただその中で、少なからぬフランスの騎馬武者がつけていた黄金作りの拍車(Eperon)を別に集め、コートレイクのートルダム教会内陣の壁にこれを打ち付け、戦勝の記念としました。

 この故事によって、1302年7月11日の戦いが「黄金の拍車の戦い」と呼ばれるようになったのです。

 でも、皆さんがコートレイク(Kortrijk)、のノートルダム教会に行っても、黄金の拍車は見られません。

 何故なら、グローニングの野の屈辱的敗北後、2年をかけて軍事力を再建したフィリップ4世は、1304年8月18日に自ら軍を率いてフランドルを制圧し、恥辱のシンボルであったノートルダム教会の黄金の拍車を取り外させ、ディジョンの教会に移させたからです。

 以後「黄金の拍車の戦い」は、フラマン民族が民族としての意識を持つに至った歴史的出来事として、フランドルの誇り、フラマン民族の栄光の歴史として語り継がれれてきました。

 戦いのあった7月11日はフラマン行政府の祝日として、行政府の管轄下にある官公庁及び学校は休日になっています。

 しかし、フラマンのジャーナリストで歴史家でもあるMarc Reynebeauという人は、最近出した「Le Reve de la Flandre ou les aleas de l’Histoire」(フランドルの夢又は歴史の偶然)という本で、「黄金の拍車の戦い」のフラマン的解釈を批判しています。

 彼は、フランドルでフラマン主義者ばかりでなく一般のフラマン人も「黄金の拍車の戦い」を、フラマン人の民族意識形成の契機として位置付けているが、これは間違いであるというのです。

 民族主義という概念は近代の概念であり、中世期にまで起源を求めるのは無理がある。14世紀のフランドルの人々の意識に、自分の住む村や町を越えた広範な地域の住民としての意識など存在しなかった。

 当時の人々の世界観は、自分の家の塀や生垣の中か、村の教会の塔より遠くに及ぶことはなかった。

 「ブルージュの朝課」事件や「黄金の拍車の戦い」は、フランス王の覇権からのフランドルの独立を夢見たものなどではない。フランス王の支配下に入れば、重税を課せられることが分かっていたからである。フラマンの蜂起は自分達の利益擁護の戦い以外の何ものでもない。とReynebeau氏は説いています。

 確かに、フラマンの人々の心に民族の誇り、民族への愛を燃え立たせる上で、19世紀のフラマンの作家にして詩人のアンリ コンシアンスや近世の詩人のギド ゲゼルなどが、

大きな役割を果たしています。

 特にアンリ コンシアンスが1838年に作詞をした「フランドルのライオン」は、フランドルの“国歌”といってもいいぐらい人々に愛され歌われています。

 神父にして詩人であったギド ゲゼルは、平易な庶民の言葉でフランドルへの愛惜を詩にした人です。彼の銅像がブルージュのノートルダム教会の横に立っていますので、今度行ったら見てください。

 自分の民族への誇りや愛着を持つことは、自分のよって立つ文化的Identityを確立する上で重要なことだと思います。しかし、偏狭な民族心は持ちたくないものです。

 ヨーロッパは様々な民族の交流、文化の融合によって豊かになり発展してきました。他民族や異なった文化を排斥した民族が衰退していった事実は、歴史が証明しています。

 ヨーロッパと言う異文化の中に住む私たちも、アパートのお隣りさんやご近所の皆さんに、朝晩の挨拶ぐらいはしたいものです。

 最近、日本人の多い地区に住むベルギー人の知人に、「日本人はアパートの前で出会っても挨拶もしない。特に男がひどい」と言われたのが、ちょっと気になっています。

No.104.ハルウララと劉邦

No.104.ハルウララと劉邦



3月22日の高知競馬場にて。

「ハルウララちゃん、大変な騒ぎだね、これは」

「そうなんですよ武さん。わたしもほとほと呆れかえっていますよ」

「ボクが乗るので、今日の第10レースはハルウララちゃんが勝つのでは、なんて期待が 高まっているけど、ちょっと困るね」

「勝てるわけないでしょう。競馬は、馬の能力が7で騎手の能力が3の世界だって、誰でも知っているのに」

「それがね、ここ高知競馬場には、今まで競馬なんて見たことも聞いたこともない人たちが一杯来ているのさ。みんな君のためにね」

「いくら名ジョッキーの武豊さんだって、わたしに乗って勝てるわけがないじゃない。わたしに能力があったら105回も負け続けていませんよ」

「そこなんだよ。一度も勝ったことがないのに、ひたすら走り続ける君の姿が、人々の共感を呼ぶらしいんだ」

「皆さん誤解してますね、本当に。わたしはひたすら走り続けている訳じゃないのよ。ひたすら走らされているのよ。武さんのいる中央競馬では、一頭の馬をこんなに走らせないでしょう」

「そうだね。もっと間を置いて使うね」

「でしょう。ここじゃわたしの出走回数が多すぎるのよ。わたし、本当に疲れ気味なの」

「でも、仕方がないよ。ハルウララちゃんは、今や日本の大スターなんだから」

(ちょっと顔を赤らめ)「大スターだなんて、恥ずかしいわ。わたしもう8歳よ。人間の年に直したら、もう32~3歳にもなるのよ」

「色っぽい年増というところだね」

(しなをつくって)「いやだ、武さんまでわたしをからかったりして」

「この間の新聞に“ハルウララちゃんが綺麗になった“って出てたよ」

「バカねえ、本当に。何を考えているのかしら。わたしのこの馬づらが、どうして綺麗になったり、醜くなったりするのよ。そりゃあ調教師の宗石さんはわたしによくブラシをかけてくれるし、申し訳ないほどよく世話をしてくれるわ。でも、わたしたちは人間みたいいにお化粧したり、整形したりできないのよ」

「ボクも沢山の馬を見ているけど、可愛い馬とか、男前の馬っているよ。ハルウララちゃんは馬体が華奢で可愛いよ」

「わたし、別にダイエットしてりわけじゃないんだけど、420Kgしかないのよ。武さんに可愛いなんて言われると嬉しいけど、競馬馬は勝たなきゃどうしようもないのよね」

「まあそうだけど、ハルウララちゃんの場合、高知競馬場にこれだけの観客を集める力があって、しかも本は出るは、CDは出るは、関係グッズがばんばん売れて、今や日本一の名馬と呼ばれてもおかしくないと思うよ」

「ベルギーにいるカントーのおじさんの話だと、ベルギーのRTLとかいうラジオの人気番組“グロステーット”で、有名な司会者のフィリップ ブバールさんがわたしのことを取り上げて、“負け続ける馬に自分の辛い人生を重ね合わせる寂しい日本人達”とか、言ったそうよ」

「すごいね。ヨーロッパにまで知れ渡ってきたなんて」

「日本の通信社が海外に配信するニュースにでも載っていたんでしょうね」

「さあ、行こうか。第10レースが始まるよ」

(レースの後)

「ああしんどかった。武さんのためにも頑張って走ったけど、実力の違いはどうしようもないわ」

「最初、6番手ぐらいにつけてたから、もしかして3位ぐらいにはと思ったけど、その後脚が伸びなくて結局11頭中10位だったね」

「ご免なさい、本当に。武さんが中央競馬で乗ってる馬がフェラーリなら、わたしは1、600CCもいかないポンコツなんだから」

「いいよ、いいよ。ハルウララちゃんはここに来ている人達だけじゃなくて、日本中の人達に夢をプレゼントしてるんだから。それに、君のお陰で高知競馬場は12年ぶりに黒字になったそうだよ」

 いつまで続くのでしょうか、このハルウララ狂想曲は。

 飽きっぽい日本人のことですから、間もなくマスコミにも取り上げられなくなる日が来るでしょう。

 それにしても、一地方競馬のダメな馬を巧みにマスコミ乗せて、ここまでもってきた仕掛け人は誰なのでしょうか。

 小泉さんも、こういう人を官邸の報道官に登用してマスコミ対策をさせれば、支持率が一挙に倍増するかも知れませんね。

 ただ私個人としては、あの華奢な馬体で懸命に走るハルウララという年増の牝馬を、早く引退させてあげたい気持ちです。

 乗馬クラブの馬なら8歳前後は丁度いい年齢ですが、体力消耗の激しい競馬馬で8歳を越えてレースに出るのは、さぞ辛いことだろうと思います。

 調教師の宗石さんは、まだ20戦はいけると言ってますが、脚を疲労骨折でもしたら薬殺されるのが競馬馬の運命なのです。

 なにしろ、競馬の世界では5歳馬や6歳馬は、もう古馬のカテゴリーに入ってしまうのですから。

 ハルウララとは正反対の馬の話が映画になり、一時話題になりましたがご覧になった方はおられますか。「SEABISCUIT」という映画です。

 日本ではどういうタイトルになったか知りませんが、小泉首相がこの映画を見て、例によって“感動した”といったそうです。

 話は1930年代、アメリカ大恐慌の頃の話です。

 カリフォルニアのサンタアニタ競馬場にシービスケットという馬がいました。背丈が1m52、体重が500Kgちょっとですから、ハルウララよりは大きいですが、けっして大きな馬ではありません。

 シービスケットは性格が悪く、手に負えない暴れ馬でジョッキー達は誰も乗りたがりません。

 この馬を、大恐慌で財産を失った昔の大富豪、チャールズ ハワードが二束三文で買い取り、老調教師のトム スミス(オスカー助演男優賞受賞,Chris Cooper)にあずけました。

 トムはシービスケットを調教しながら、この馬が持っているたぐいまれなる才能に気が付きます。

 一方、貧しい本の配達人のレッド(スパイダーマンを演じたTobey Maquire)は、小遣い稼ぎでやっていたアマチュアボクシングで目を傷め、片目しか見えません。

 トムと出会ったレッドは騎手を志します。

 騎手としては体が大き過ぎる上に、片目しか見えないレッドが、騎手として成功するとは誰も思いませんでした。

 しかし、トムとレッドのコンビは、シービスケットを全米で最も優秀な競走馬に育てていきます。この馬は次々と大賞を制覇し、アメリカの競馬史上最高の賞金額を獲得します。

 そしてシービスケットは、当時アメリカ最強といわれていた馬、ワーアドミラルとの決戦でも、一馬身半以上の差をつけて快勝し、名実共にアメリカ最強の馬の栄誉に輝きます。

 サンタアニタ競馬場には今でもシービスケットの銅像があるそうです。

 ハルウララとシービスケットの話から、最近読んだ司馬遼太郎の小説、「項羽と劉邦」を思い出しました。

 読んだ方もおられると思いますが、この小説は、漢の高祖武帝が秦の始皇帝亡き後タガの緩んだ秦帝国を倒し、漢王朝を創設するまでの話です。

 紀元前3世紀に秦王の政は、諸方に割拠していた王国や候国を次々に征服して、中国史上始めての強大な中央集権国家を築きました。彼は中国史上初めて皇帝という言葉を用いて、秦の始皇帝を名乗りました。

 この時代に生きた二人の男がいました。

 一人は楚の貴族の家系に属する項羽という浪人者。もう一人はハイ(さんずいに市)の農民で劉邦という男です。

 項羽は生まれながらにして一軍の将となるべき資質を備えた偉丈夫でした。一方の劉邦は野良仕事が大嫌いで、暇がある近くとの町の飲み屋に行って酒を飲んでいるごろつき者です。

 始皇帝は皇帝の権威を人民に示す為、帝国内をよく巡幸して回りました。

 きらびやかに装った数十万の軍隊を引き連れて巡幸する皇帝を見て,項羽は「やつに取って代わってやる」と言い、劉邦は「いいなあ、男はああでなくちゃ」と言ったそうです。

 始皇帝亡き後の秦帝国の乱れに乗じて、項羽は反乱軍の将となり、勇猛無比にして行く所敵無しの戦いをくり広げます。

 やがて楚王を名乗り、ついには秦の主力軍を破り、天下は項羽のものとなったかに見えました。

 一方の劉邦は、飲み屋で兄貴、兄貴と慕ってくる不良仲間と行動を共にするうちに、いつの間にか一軍の将みたいな立場に立ってしまいます。

 ちなみに、劉邦は飲み屋では一度もお金を払ったことがありません。これに対して、飲み屋のおばさんが文句を言わなかったのは、劉邦が店に来ると売上が上がるからです。

 劉邦がいると、周りにいつも人が集まってきて店が繁盛するのです。反対に劉邦がいないと、店がさびれてしまいます。ごろつきの頃から劉邦には不思議な人徳がありました。

 悍馬にまたがり先頭をきって敵陣に切り込む項羽の下に弱卒は無く、項羽の軍は百戦百勝の勢いで秦帝国内を切り従えていきます。

 これに対して,劉邦の軍は戦が下手で、出ると負けの百戦百敗。親玉の劉邦は形勢が悪くなるとさっさと逃げてしまいます。

 それでも兵が劉邦についてくるのは、劉邦は転戦する時も逃げる時も、まず食べ物のある所を目指すからです。劉邦といると食いっぱぐれる心配が無いのです。

 劉邦の人徳はやがて有能な将を配下にひきつけ、漢王として楚王の項羽と雌雄を決するまでになりました。

 ある夜、漢軍に包囲された楚軍の項羽の耳に、城外から澎湃として起こる楚の歌が聞こえてきました。項羽は楚の歌を聞いて、味方と思っていた楚人が漢軍に加わったのかと涙し、敗北を悟ったと言われています。これが有名な「四面楚歌」の起こりだそうです。

 106敗のハルウララと100戦100敗の劉邦に共通しているのは、両者共負けても負けても人がついてくるという処でしょうか。

 人生で誰でもが経験する失敗や敗北感は、恥ずかしいことでも恐れることでもないという事実を,両者から教えられるような気がします。希望と人を愛する心がある限り、負けることなど少しも怖くはないのです。

 「負けるが勝ち」を、皆さんも家庭で実践してみたらどうですか。配偶者と喧嘩をした時、男たる者、びしっと一言でその場収めるべきです。

 その一言とは、「ご免、ぼくが悪かった」です。

No.105.行列いろいろ

No.105.行列いろいろ



 連想ゲームです。

 皆さんは、「行列」という言葉から、どんな行列を連想しますか?

 大名行列、話題のラーメン屋,ケーキ屋、アイスクリーム屋、チョコレート屋、パリの有名ブランドブチック、ランチタイムの食堂、お弁当屋、駅の切符売り場、新幹線の乗車口、馬券売り場、お受験幼稚園、キャッシュディスペンサー前、映画館、劇場、アイドルが出てくる楽屋口、朝晩のラッシュ時の道路、事故った車が見える反対車線、ブリュッセルの夏のイベント「オメガング」、京都の時代祭り、ブルージュの聖血行列等々、まだまだありますがこの辺にしておきましょう。

  大名行列と聞いて、思い浮かぶ光景が二つあります。

 一つは日本の閣僚が移動する光景です。

 大臣は腹を突き出し、短い足を交互に動かし、薄くなった髪の毛を油性の整髪料でこってりと塗り固め、昂然と前を見て“オレ大臣なんだかんね。偉いんだかんね”といった感じで歩きます。

 大臣は手に何も持ちません。後ろからついて来る公設或いは私設秘書、又は担当する省庁の大臣付き秘書官あたりが書類その他を持ってついてきます。

 さらに大臣には警護官がついてます。番記者がついてくることもあります。

 大臣が動く時、これらのお付きがぞろぞろと大臣についてきます。まさに大名行列です。そして運転手付きの公用車で家に帰れば、自宅には警備の警察官がいてくれます。

 たとえその大臣が、派閥の滞貨一掃順送り人事で大臣になったとしても、自分の後ろからぞろぞろ付いて来る人たちや、自宅の前に臨時につくられた警察官用ボックスを見ると、オレも偉くなったものよと、しばし感涙にむせぶのです。

 さて、ベルギーの大臣はどうでしょうか。

 ベルギーの大臣は、総理大臣も含めてみんな書類を自分で持ってきます。書類を小脇に抱えて、颯爽と議会の階段を駆け上がる若々しい大臣の姿は、実に爽やかで格好がいいと思います。短足、出腹、頭髪てかてかで、大名行列をやって喜んでいる日本の大臣とはえらい違いです。

 ベルギーの閣僚には、一部を除き警護官はつきません。車を自分で運転してくる大臣もいます。イザベル デュラン前運輸大臣など、出身が環境党だけあって、大臣になってもしばらくは自転車で通っていました。

 政府要人や閣僚に大名行列を許している国は、開発途上国が多いそうです。

 私は総理大臣や国家公安委員長などを除いて、一般の平大臣に貴重な国民の税金を使って警護官をつける必要などないと思っています。顔を覚える間もないうちに、首がすげ変わる大臣など、だれも襲いませんよ。警護官を必要としているのは、自己満足に浸りたい大臣ご本人だけなのではないでしょうか。

 もう一つの大名行列は、話題のテレビ映画「白い巨塔」に出てくる大学病院の教授回診の光景です。

 私もあの映画を見るまでは、教授回診の様子など知りませんでしので、見て驚きました。

最新の医療設備を備えた大学病院で、あれほど前近代的というか、封建的な大名行列が日々行われている事実に愕然としました。

 そして、明治以来の日本の近代化や、近年盛んに言われている日本の国際化など、日本人の精神面に限って言えば、これから100年単位の時間がかかるであろうとの思いを深くしました。

 ところで、行列をしないと食べられないラーメン、行列をしないと買えないチョコレート等々、皆さんはどうしますか。

 私は絶対に並びません。

 まず、時間がもったいないですし、それに、ほかにも同じぐらいおいしいラーメンや、そこそこ似たような味のチョコレートがある筈、と考えるからです。

 この世に100パーセントとか、絶対というものが存在しない限り、究極の何とかも存在しないのです。

 一時間並んででも食べる価値があるラーメンは、きっとおいしいにちがいありません。

でも、ローマの哲人も言っているように「ARS LONGA, BREVIS VITA」なのです。「芸術は長く、人生は短し」のこの一生、やることが山ほどあります。

 どんなにおいしいからといって、ラーメン屋の前に並んで一時間も費やすわけにはいきません。特に、マスコミが取り上げる「こだわりの何とかラーメン屋」の裏のごみ置き場に、ラーメン用の濃縮スープの空き缶がごろごろ転がっていたなんていう話を聞くと、所詮そんなもんでしょうと思ってしまいます。

 最高のラーメン作りに心血を注いでいる人たちがいることは、よく知っています。そして同じように、究極のラーメンを求めてさまようラーメン道の求道者たちがいることも知っています。

 彼らの出会いの場には、まさに教祖と信徒、師と弟子、或いは武芸者同志の対決といった緊張した雰囲気が醸し出されます。

 カウンターに座った弟子は、麺をゆでる師の手さばき、具を入れる手順、スープの注ぎ方などに鋭い目を走らせます。

 師は出来上がったラーメンを弟子の前に置き、“未熟者めが”という目をして、食べるように促します。

 弟子は、あたかも教祖から下しおかれた聖なる賜物を頂くように、ラーメンのどんぶりを押し頂いた後、立ち上る湯気の香りをかぎスープを軽く口に含みます。

 弟子はスープの味に陶然としてしばし瞑目し、次いで麺を高らかな音と共にすすり込みます。

 二口、三口ラーメンをすすりこんだ弟子は深く頷き、涙します。「これだ、このラーメンこそ自分が捜し求めていた究極のラーメンだ」と叫び、至福の喜びに打ち震えるのです。

すると何処からともなく、“ハレルヤ”の音楽が高らかに鳴り響いてくるのでした。

 師は至福の表情の弟子を冷たく見下ろし、「濃縮スープが切れてきたから注文すっか」と、奥へ消えていくのでした。 

 ま、価値観の違いですから議論をしても仕方がありません。

 おいしいラーメン作りに生涯を捧げる人も、おいしいラーメンを求めて地の果てまで行く人も、それぞれに立派だと思います。

 人がどんなにおいしいと言うラーメン屋でも、並んでまで食べようとは思わない自分は、他のことに価値観を置いている訳で、他人様からお前は生意気だなどと非難されることはないでしょう。

 パリのルイビトンで行列をしている日本人旅行者は、ルイビトンのバッグやら何やらを買うことを、旅行の大きな目的として来ている訳でしょうから、暖かく見守ってあげたいものです。

 ダイエットを気にしながらも、マスコミがカリスマパティシエなどと祭り上げているケーキ屋の前に並ぶ嬢さんも、暖かく見守ってあげましょう。そのケーキが本物かどうかはお嬢さん自身が判断すればいいのです。

 ぽっと出のお兄ちゃん職人が、カリスマでなんかある訳がないのです。これまで、どれだけのカリスマ何とかがマスコミにもてはやされ、そして消えていったことでしょう。

 昼時、サラリーマンが並ぶ店は、その行列の長さによって店のランクが決まるようです。行列が20メーターを越す場合、値段、味ともに界隈では最高級の評価を得ている店、ミシュランで言えば三ツ星クラスと考えていいようです。

 このクラスになると、10分ぐらい並んでも列はびくともしません。かなりの忍耐が必要です。それだけに、やっとたどり着いた席に座り(もちろん相席です)、安くておいしい話題の昼定食にお箸をつける時の幸福感は、何ものにも替えられません。“ハレルヤ”の音楽が鳴り響いても、おかしくはありません。

 行列が10メートルぐらいの店も、評価が高いと言っていいでしょう。値段と食事の内容のバランスが取れている店です。列の動きはそこそこで、払ったお金の割にはおいしいランチにありつけます。

 こういう店に、4月入社の可愛い子ちゃんの新入社員を誘うといいでしょう。おごるにしても安く済みますし、行列してる間にいろいろなお話ができます。

 行列が5メートルを切る店は、午後の日程が押している時にいいでしょう。そこそこにおいしい昼飯が食べられますが、“ハレルヤ”の音楽は鳴り響きません。

 昼時なのに誰も並んでない店、中がガラガラの店は通り過ぎて下さい。早晩、その店は閉まる筈です。

 流行ってない店というのは、それなりに理由があるのです。

 まずくて高い上に、キッチンのおやじは腕が悪いくせに“オレの料理がわからねえ奴は来なくていい”なんて気取っている店。

 サービスを受け持つおかみさんは、経費を浮かそうとして親子丼に付ける沢庵二切れを一切れにしたり、お茶が切れても注ぎに来ない。子供が客用テーブルでゲームをやって遊んでいても注意をしない店。

 こういう店には行かないほうがいいですね。君子危うきに近寄らずです。

 キャッシュディスペンサー前に列を作る時は要注意です。

 自分の番が来て暗証番号を打ち込む時は、自分の後ろの人間がのぞき込んだりしてないかどうか、十分に気をつける必要があります。

 ベルギーも本当に泥棒が増えました。手口はますます巧妙になっています。

 この原稿を書いている今も、日本人旅行者の人から電話が入りました。ブリュッセルのミディ駅からアントワープ行きの電車の中で3人組に囲まれ、カバンを盗られたのです。

 幸いパスポートなどは別にしておいたのでよかったのですが、折角新婚旅行でベルギーに来たのに嫌な思いをしてしまったようです。

 ブリュッセルのグランプラスで毎年7月に行われる「オメガング」は、ゲント生まれでメへレン育ちの有名人、神聖ローマ皇帝カール五世のブリュッセル入城を記念して、貴族や市の有力者達が歓迎パレードを行ったのが起源だそうです。

 華麗なる時代祭りといった感じで、当地在任中一度は見ておく価値があるかも知れません。今年は7月8日に行われます。

 カール五世もそうですが、ヨーロッパの王様は国内巡幸を盛んに行いました。

 一族郎党から配下の兵士を引き連れ、文字通り大名行列をしながら自分の支配権に服している領主の館を泊まり歩く訳です。

 泊まられる方は、甚だ迷惑なのは言うまでもありません。宿舎や食べ物の費用だけでも大変な出費です。ある領主が領内でできるチーズを王の食卓に供したところ、王はこのチーズをいたく気に入り、以後毎年200ポンドのチーズを王の居城に献上するよう命じられまし。王の御前で“有難き幸せ”とは言ったものの、領主は王の食卓にチーズを出したことを悔み、後に悔恨の涙にくれたそうです。

 その後、このチーズは「トホホのチーズ」として有名になり、今でもカルフールやデレーズで売っているそうです。(もちろんウソです)

No.106.常連とは 

No.106.常連とは 



 「やあ、ヤマちゃん久しぶり。どうしてたの、ここんとこ見えなかったけど出張にでも行ってたの」

 「うん、ちょっと長い出張でね。10日ばっかりベルギーにいなかったのよ」

 「相変わらず忙しいんだね、ヤマちゃんのとこは」

 「でもなんだね、オレも出張先で日本メシ屋に行くけど、ベルギーの日本食はレベルが高いよ、本当に」

 「ベルギーは食のレベル高いからね。日本食も、その国の料理のレベルに合わせないとお客さんにそっぽ向かれるのよ。やってる方は大変なんだよ、これでも」

 「ところで今日は、何を食わしてくれるんだい」

 「ちょっと待っててね。今珍しいの用意するからさ」

 「珍しいのってなんだい、楽しみだな」

 「ハイ、お待ち~」

 「トリのササミに塩をふってあぶったみたいだけど、ちょっと違うなこれは」

 「見ただけじゃわかんないよ。食べてごらんよ」

 「うーん、あっさりしてて、適当に歯ごたえがあって、うまいよこれ」

 「ヤマちゃんそれね、ボラのノドチンコなのよ。あのでっかいボラ一匹からそれしか取れないの」

 「これはいいや、冷酒を一杯ちょうだい。ゲンちゃんも飲みなよ」

 「これはこれは、リッペンス様にお嬢様、ようこそのおはこびで」

 「メートルドテルもお元気そうですな」

 「ありがとうございます。お陰様で元気にしております」

 「きょうのキッチンはウィナンさんかね、それともリヨネルさんかね」

 「はい、今日の料理はリヨネル リゴレが担当させていただきます」

 「この前頂いたプレサレの子羊がおいしかったので、娘にもご馳走しようと思ってね」

 「ありがとうございます。弊店のプレサレの子羊は、フランスのモンサンミッシェルの近くの農家で飼育されたものを使っております」

 「ほう、さすがですな。6月6日に行われたノルマンディー上陸60周年記念式典で、シラク大統領主催の昼食会のメニューにも、同じ地域の子羊が使われていましたよ」

 「おそれ入ります。リッペンス様のお好みは手前どもよく弁えておりますので、今晩はごゆっくりおくつろぎください」

 上記二つの会話は、日本料理店と高級フランス料理店での常連客と店側との会話を想像したものです。

 “常連”、と呼ばれるための条件はなんでしょうか。

 まず、しょっちゅうとまではいかなくても、毎月ある程度の回数はその店に行かないといけません。

 そして、お店のご主人やおかみさん、そして従業員の人達に好意をもたれるお客になることです。イヤな客は行けば行くほど、お店から嫌われます。塩をまかれます。

 お店に人に好意を持たれるためには、どうすればいいのでしょうか。

 それは、働いている人達の立場をよく理解して接することです。注文した料理がちょっとぐらい遅れているからといって、立ち上がって文句を言いに行ったり、サービスの人に横柄な口をきいたりしてはいけません。お店の人達は、早くおいしい料理をお客様の所に持っていこうと、一生懸命働いているのです。

常連かどうかは別にして、こちらのしかるべきレストランに行った時は、ゆったりと構えたいものです。

 メインが来ないとかいって、メートルドテルやボーイさんにしつこく催促するのはやめましょう。催促しても無駄なのです。

 キッチンでは、シェッフの指揮の下に料理人達が各テーブルの料理を一番いいタイミングで出せるように、順番を考えながら仕事をしています。

 さっさとアントレを食べ終えて、すぐにメインを持ってこいといっても、キッチンの仕事の手順を変えてまで、あなたの料理を作ってくれることはあり得ません。

 常連としての待遇を受ける為には、その店の平均客単価よりちょっと多めに金を使うのがいいかと思います。安い一品料理で長々とねばられては、お店も困ります。

 結局常連と言うのは、客が気持ちよく飲んだり食べたりできる店で、店の方もその客が来てくれると嬉しい、歓迎したくなる、そんなお互いの心地よい関係から生まれてくるものではないでしょうか。

 ところで、自分が常連としての扱いを受けるのはいいのですが、余り知らない店でその店の常連客と同席するのは実に嫌なものです。

 特に始末が悪いのが、鮨屋のカウンターでその店の常連客と同席することです。これに鮨屋のおやじが結託していると、もう最悪です。

 おずおずと店に入っていくと、カウンターにすわっておやじとバカ話をしていた常連どもが、「見慣れない顔だな、なにしに来た」という感じでじろりと見ます。

 そんな雰囲気に気おされ、もつれる足を踏ん張ってやっとカウンターにたどり着きます。

 気持ちを奮い立たせようとまずビールなどを注文し、ごくりと飲んでから鮨ネタなどを眺めます。

 その間も、常連どもは「オレたち、常連なんだかんね。おやじと親しいんだかんね。お前なんか仲間に入れてやんないかんね」という態度みえみえで、おやじと話しをています。

 「この間持ってきたオレの田舎の地酒、おやじさん飲んでみた?」

 「ああ、ご馳走になったよ。さすが酒どころだね、コバちゃんの田舎は。いい酒だよ、あれは。口に含んでから喉ごしの間にふっとくる香りがなんとも言えないよ」

 (別の常連)「駅前の“小料理ひょうたん”のおかみと“スーパーイロイロ”の店長はできてるね、あれは」

 「へえー、証拠でもあんのかい、吉田の旦那」

 「ニ三日前に見たんだけどさ、あの二人、新小岩の駅前の喫茶店でほっぺたがくっつきそうになるぐらい、顔を近づけてしゃべっていたぜ」

 おやじは急に気がついたように、

 「こちらさん、なににしましょうか」

 「あの、そこのしめ鯖をにぎってもらえますか」

 「これね、しめ鯖じゃなくてコハダなのよ」(鯖とコハダの見分けもつかないのか、このバカ)

 「あ、すみません。それじゃそのコハダをにぎってください」(よく見てから言えばよかった)

 一口食べてからおやじの機嫌をとろうとして、

 「コハダの酢のしめぐあいがちょうどいいですね。さすがご主人、年期が入ってますね」

 「そのコハダね、この間入いった見習いがしめたの。あっしじゃねえんですよ」

 落ち込み、且つ怯えながら、

 「今日は、なにがおいしいんですか」

 「うちにまずいネタはないよ」

 このやり取りを聞いて常連どもはうれしくて仕方がありません。

 常連というのは、その店の特権階級的感覚を持つ傾向がありますので、新参者がおやじさんにいびられるのを見るのは、へたなドラマを見るより楽しいのです。

 “他人の不幸は蜜より甘い”とはよく言ったものです。

 (ウニをにぎってもらいたいけど、高いだろうな。値段表はないかな、と店内を見回す)

 これを見て常連どもは又うれしくて仕方がありません。

 (探してる、探してる。値段表なんか無いのに、探してるよこいつ)

 「はいこちら、お後はなんにしましょう」(食うなら早く食えという感じ)

 「カッパ巻きください。それからお勘定も」

 「カウンター2番さんお勘定~」

 不幸な客は怒りと疲れでへとへとになって鮨屋を出ます。

 ところで、皆さんも常連というか、行きつけの店はいろいろあるかと思います。

 わたしの場合、ベルギーで一番古い行きつけの店は、20年以上通った床屋さんです。

 でも残念なことに、私の頭を20年以上にわたって刈ってくれたレイモンさんは、4月に店を閉じました。68歳という年齢を考えれば、仕方のないことですが,新しい床屋を探さなければならない私にとっては残念なことです。それに、レイモンさんの話が聞けなくなるのも、残念なことです。

 レイモンさんはフィリップ皇太子が少年のころ、パオラ妃に連れられて散髪に来ていたフィリップ王子の頭を刈っていた人なので、いろいろと面白い話が聞けました。

 床屋以外で常連といえば、2~3の気に入ったレストラン、それに車をこすっては修理に持っていく、板金屋のアランテージョさんのとこぐらいでしょうか。

 常連と呼ばれるためには、ある程度の頻度で店に通わないといけません。

 となると、経済的な問題がからんできます。つまり、常連にもピンからキリの階級制度が厳然として存在するのということです。

 日本なら、駅前の赤ちょうちんの飲み屋の常連から、座っただけでウン万円、ボトルをとったらウン十万円もとられるとかいう銀座の高級クラブの常連まで、いろいろな常連がいるのは、皆さんご存知の通りです。

 私は幸か不幸か、いまだかつて銀座の高級クラブなるものに、足を踏み入れたことがありません。

 そんな所で使うお金があったら、愛馬のアキラの鞍でも新調してやりたいと思いますし、それにクラブの女性従業員の方々とお話しをさせて頂いたとしても、それが自分にとって楽しいものなのかどうか、自信がありません。要するに、貧乏性ということです。

 私の場合、赤色簡易照明、短布製吊り下げ式ドア、木製ベンチ式椅子などの設備を誇り、シェッフ、メートルドテル、会計等を一手に引き受け、ねじり鉢巻にシミだらけの前垂れを正装としたおじさんのいる店が、一番性に合っているようです。

 ベルギーの常連というと、屋台のフリッツ屋から超がつく高級レストラン、Comme chez soiまでということになるでしょうか。

 Comme chez soiにも常連がいるという事実は、考えてみれば当たり前のことですが、貧乏性の身にはちょっと思い浮かびませんでした。

 Comme chez soiのピエール ウィナンさんの娘、ローランスさんは、ウィナンさんの後継者とみなされているリヨネル リゴレさんと結婚しています。

 前に機会があってローランスさんと話した時、彼女が「うちの常連のお客様が」と言うのを聞いて、「お宅の店にも常連がいるんですか」言ったら、笑われてしまいました。

 ところでお父さん、あなたが今一番常連になているところはどこですか。

 そうです。あなたの家庭なのです。

 家で常連扱いされているかどうか、胸に手を当てて考えてみましょう。家に帰って、塩などまかれないように努力しましょう、お互いに。 

No.107.サバの味噌煮を称える

No.107.サバの味噌煮を称える



 「サバの味噌煮が好き」などと言うと、「なんだあいつ、下賎な食い物が好きなんだな」とか、「意外と暮しむき悪いんだな」、或いは「人間、あそこまで落ちたくないね」などと、陰口をたたく人たちがいます。

 これは、サバの味噌煮が日本の政治、経済、文化、スポーツ等の分野で、隠れた貢献をしてきた事実を知らない、無知蒙昧な輩の言うことなのです。

 今日、日本の経済成長をひっぱる企業のリーダー達、高名な学者、作家、芸術家、政府高官、政治家、芸能人、スポーツ選手等が、学生時代或いは下積みのころ、どれだけ定食屋のサバの味噌煮に助けられたことか、深く思いを致す必要があります。

 今をときめく各界の名士も、いきなり今日の地位や名声を手にした訳ではありません。

 若き日に寂しい懐と相談をして、行きつけの定食屋のおばちゃんに、サバの味噌煮にご飯の大盛りをつけて貰い、もりもりとこれを食べ、味噌煮の汁を残ったご飯にかけてぶっかけめしとして、ご飯を一粒残さず平らげた日々があるのです。

 お腹が満ち足りて幸せな気分になった時、人間には二つの行動様式が現れます。

 一つは、新たな英気に満たされ、乗り越えるべき困難に立ち向かう勇気を持つ人。

 もう一つは、目先の楽しみに心を奪われ、パチンコ屋とか新宿ナントカ町に代表される区域に足を向ける人。

 前者は、サバなどのひかり物の魚に含まれているといわれるナントカカントカいう脳細胞に有効な成分を十分に摂取した人で、サバに感謝しなければなりません。

 後者は、この有効成分が体に入っているにも拘らず、これを生かすだけの脳細胞の活動が見られない人で、サバに謝らなければなりません。

 ところで、サバは何故下魚としての扱いを受けてきたのでしょうか。

 姿かたちを見れば、サバは魚の中でも非常に美しい魚と言うべきでしょう。流線型のすらりとした体にしゃれた縞模様が入っています。あの縞模様は、どんなに優れたデザイナーでも真似のできない、微妙な線によって構成されています。それに目もとぱっちりの可愛い顔をしているではありませんか。

 それなのに何故今日まで虐げられてきたのでしょうか。

 沢山獲れるのに、サバの生き腐れ問いわれるぐらい保存がきかず、棄てられたり飼料にされることが多かったからでしょうか。それと、ひかり物の魚に特有の生臭さも、高級魚になれなかった理由かも知れません。

 もともと白身の魚しか魚と思っていないこちらの人の間では、サバはもっと肩身の狭い思いをしています。

 こちらには、しめサバも、サバの味噌煮も、塩サバもありません。せいぜいあるのはサバの燻製ぐらいです。これをパンに挟んで食べてもおいしいとは思えません。

 でも世の中わかりませんよ。

 かつて大衆魚の代表格だったタラが、今や高級魚として高級レストランのメニューに堂々と名前を連ねています。近年、タラの漁獲量が激減しているそうです。。

 サバも漁獲量が減ったら高級魚になれるでしょうか。日本だったら判りませんが、ヨーロッパではちょっと無理かもしれませんね。

 タラはもともと白身の魚ですから、上位ランキングを狙う資格を持っていたと考えるべきでしょうか。

 こうして見ると、日本のサバはヨーロッパのサバより幸せかも知れません。

 サバ好きの多い日本では、サバに対する評価がヨーロッパの比ではありません。

 日本中の鮨屋で、しめサバを置いて無い鮨屋はあるでしょうか。「サバみたいな下魚はおいてないよ」なんて言う、気取った鮨屋があったら、そういう鮨屋にはみんなで行かないようにしましょう。

 サバ料理の普及に多大な貢献をしたのは、何といっても日本の定食屋です。

 定食屋のメニューで、サバは横綱格の地位を保っています。味噌煮あり、塩焼きありで、今のところこの地位を脅かす魚は現れていません。サンマの塩焼きがありますが、サンマの味噌煮は聞いたことがありません。サンマの口惜しそうな顔が目に浮かぶようです。 

 考えてみると、食味評論家を名乗る人たちがフレンチやイタリアンレストランばかりを取り上げて、定食屋を取り上げないのは甚だ公平を欠いていると思います。

 高名な食味評論家の山本益博さんあたりが、定食屋に関する堂々たる評論を発表して欲しいものです。

 例えば、

 ボクは京成押上駅近くの定食屋“丸三”に行ってみた。

 引き戸を開けて入ると、割烹着姿のマダムが「いらっしゃい」と言って出迎えてくれた。

 「予約はしてないが」と言うと、マダムが「お好きなところにどうぞ」と言う。

 昼時をはずしたせいか他に客もなく、席には余裕があると見た。

 シェッフは、丸首シャツにサンダル、首に手ぬぐいを垂らし、汚れた前掛けという正装で、ヘアーヌードで有名な週刊誌を熱心に読んでいる。

 シェッフはかなりの読書家と見た。

「なんになさいますか」とマダムがオーダーを取りにきたので、ボクは今日の取材テーマであるサバの味噌煮定食をオーダーした。

 マダムが、「サバ味噌定一丁~」とシェッフにオーダーを通すと、読書家のシェッフは名残惜しそうにへアーヌード誌を置き、キッチンへと消えた。

 その時、立ち上がったシェフのヘソが見えたが、これは今流行のヘソ出しルックではないらしい。ただ単に、シェフの腹が出過ぎて丸首シャツが短くなった結果と見た。

 「ワインリストを」とマダムに頼むと、マダムは「うちではそういうの置いてないんですよ。キリンとサッポロとワンカップ大関ならあるんですけど」と答える。

 丸三食堂は、無理をせず、身の丈に合った営業をしていると見た。

 もとより、サバの味噌煮に合うワインとなれば、かの田崎真也氏といえども大いに悩むに違いない。ヨーロッパのソムリエにいたっては、サバの味噌煮を前にして、ただ途方にくれるのみであろう。

 ロワールの白ぐらいでは、とうてい太刀打ちできるとは思えない。フランスもぐっと南に下がった、ジコンダあたりの個性の強い白がいいのかも知れない。

 今度ベルギーに行ったら、友人の元ソムリエベルギーチャンピオンのエディー ダンドリモン君に、サバの味噌煮に合うワインを聞いてみよう。

 「はい、お待ちどうさま」と、マダムがサバ味噌煮定食をテーブルに置いてくれた。

 定食は、サバの味噌煮にご飯と味噌汁、それにキャベツときゅうりの浅漬けがついている。メニューとしては定番と云うところであろうが、キャベツときゅうりの浅漬けをつけたところに、店から食べる人へのメッセージを感じ取った。

 マダムが持ってきてくれた湯飲みに、佐々木酒店と書いてあるのも、店の雰囲気ににくいほどマッチしている。

 サバはよく煮込んであるように見えるが、肝腎な味噌の香り立ってこない。使っている味噌は、近所のスーパーで購入した“ハナマルキ“か、“たけや味噌”の系列と見た。

 もう一つ言うなら、生姜の香りが立ってこない。サバの味噌煮の醍醐味は、箸をつける前にふっと立ちのぼる味噌と生姜の香りが、次にくる濃厚なサバの旨みへの前奏曲として、食べる者の食欲を刺激してくれるところにある。

 味噌の香りも生姜の香りもきれいに飛ばしてしまった丸三食堂のシェフは、かって名のあるシェフの元で修行した大物シェフなのかも知れない。

 サバを一口食べてみる。

 よくぞここまで煮込んだものよ、という感じが口中に広がる。冷めたものを暖める作業を何度繰り返せば、こういう味噌煮が出来るのであろうか。魚肉がくたくたに煮崩れし、サバの旨みがどこかに行ってしまっている。

 サバの旨みまで飛ばしてしまっているシェフは、ヘアーヌード誌の読みすぎと見た。

 丸三食堂に、東京の定食屋料理界を背負って立って欲しいとは言わない。せめて、押上、青砥、柴又界隈の定食料理界ぐらいは背負って立って欲しかった。

 しかし、丸三食堂のシェフにその意気込みも気概も無いことが明白となったいま、ボクたちは新たな料理人に期待をつなぐしかないようである。

 ボクたちの期待は裏切られた。丸三食堂に星をつける訳にはいかない。

 せめてもの慰めは、マダムが漬けたと思われるキャベツときゅうりの浅漬けが、ちょうどよい漬け加減で、美味であったことである。

 山本益博さんが定食屋のサバの味噌煮定食を論評するとは思いませんが、同氏の文章を真似ればこんな感じになるのでしょうか。

 ヨーロッパでは、安くておいしいものにはなかなか出会えません。

 世の中、安ければまずいというのが定法です。というか、安いものを食べた時は、その値段相応の味で我慢するということです。

 いい材料を使って、腕のいい料理人が料理をすれば、原則おいしい料理ができます。いい材料はそれなりの値段がしますし、腕のいい料理人は給料が高いので、当然料理の値段に反映します。

 ただ味というものは、非常に主観的なものですから、安いものを食べてもおいしいと感じるなら、それは安くておいしいものを食べたことになります。

 数は少ないのですが,ベルギーにも安くておいしいレストランはあります。

 これらのレストランに共通しているのは、いずれも規模が小さく、人を余り使っていないことです。そして、メニューの数も多くありません。場合によると、アラカルトはなくて、メニューだけという店もあります。無駄を省き、効率よく材料を使うためなのでしょう。そして、シェフが常に創意工夫を怠らない店です。

 安くておいしいのですから、こういう店は当然流行ります。予約無しでは入れません。それでも、やっている人に言わせれば、料金を低く押さえているので経営は楽ではないそうです。

 成熟した社会であるヨーロッパでは、競争の原理より自分達の権利擁護の方に重きが置かれ勝ちです。日曜日に自分達がゆっくり休んでいる間、競争相手が店を開けないように、これを禁止する法律を作ってしまう人たちです。

 それでも、ブリュッセルには沢山のレストランが激烈な競争を繰り広げている地区があります。そうです。ご存知のグランプラス裏の食べ物横丁です。

 皆さんも、日本から来た知人や友人、出張者や本社のお偉いさんなどと一緒にあの辺りを歩いたことがあるでしょう。どうでしたか。満足しましたか。

 あそこの正確なレストランの数は知りませんが、あれだけあるレストランの中で、地元の人が安心して奨めるレストランは5~6軒しかありません。とかく黒い噂の絶えないレストランもあります。競争とは、必ずしも質の向上にはつながらないもののようです。

 競争の原理が通じないのは、配偶者間においても言えますかね。一度、結婚という社会の規範に入ってしまうと、安心するのか、諦めるのか、まるで向上心が無くなってしまうのはどうしてでしょうか。

 私は、サバの味噌煮を上手に作れる女性と結婚しようと、若き日に固く心に誓っていましたが、ものの見事に失敗してしまいました。

 人生、うまく行かないものですね、ご同役。

No.108 巡礼の旅

No.108 巡礼の旅



 民主党の前党首、官直人さんが、お遍路さんとして四国の弘法大師ゆかりの88ヶ所札所巡りをして話題になりました。

 人は、人生のある時期にふと立ち止まり、「これでよかったのだろうか」とか、「これからも今のような生き方でいいのだろうか」とか、いろいろと考える時があるものです。

 ただ多くの場合、考えてはみても日常の生活の煩瑣さにかまけ、立ち止まったことさえ忘れてしまうのが普通かと思います。

 不肖、私もふと立ち止まることがあります。

 通常は、美人や色っぽい女性に出会うと立ち止まるのですが、たまには真面目な意味で立ち止まることもあります。

 「人は何故生きるのか」、「人生とは」、「幸せとは」、「愛とは」、「死とは」等々、こう見えても、いろいろと考えることがあるのです。

 ただ私の場合、人生についての高邁な思索と平行して、「この間乗った凸凹航空の客室乗務員の松平さん、オレに気があんのかもしんないな。オレに向けた笑顔が違ってたもんな」(注:機内では客室乗務員の方の名札を見て名前を覚え、用事がある時はその方の名前でお呼びすることにしています)、「ベルギーではサクランボの季節になると、いつも飲んでいるビールの味が変わるのはどうしてだろう」、「友達のフィリップの奴、アンリの奥さんと不倫してるけど大丈夫かな」、「最近のミシュランの一つ星レストランは外れが多いよ。ミシュランに文句を言ってやろう」等々、極めて俗世間的な思索も怠りません。

 この夏、ふと思い立って巡礼の旅にでました。

 罪多きというか、恥多き人生を省みて、もう一度自分というこの愚かな存在を見直そうと考えました。今さら見直したからといって、どうなるものでもないことはよく分かっているのですが、部屋の家具の配置変えをして、なんとなく新鮮な気分になるのと、似たような心境でしょうか。

 巡礼の目的地は、スペインの北西部ガリシア地方にある、キリスト教世界三大巡礼地の一つ、サンティアゴ デ コンポステラでした。

 Santiago de compostelaはイベリア半島の西北端、FinisTerrae(地の果て)と呼ばれるスペインの大西洋側に位置している古い町です。

 言い伝えによれば、9世紀の始めにフラビアの司教、テオドミロが不思議な星の光に導かれて行った先で、キリストの12使徒の一人、聖ヤコブのお墓を発見しました。

 この地方はスペイン最初の王国、アスツリアス王国があった所です。王の命でお墓の場所に教会や修道院が建てられたのが、サンティアゴ デ コンポステラの始まりでした。

 余談ですが、スペインの皇太子は代々最初の王国名をとって、「Principe de Asuturias」を名乗ることになっています。ちなみに、ベルギーのフィリップ皇太子の正式名称は「Duc de Brabant」です。

 10世紀以来、スペインの各王国が回教徒の手から国土を奪還するレコンキスタ(国土回復)の戦いを進める過程で、サンティアゴは戦いの守護の聖人として信仰を集めるようになりました。キリスト教軍の兵士が回教軍と戦う時、“サンティアゴ!!”と叫びながら攻撃をしたそうです。

 余談ですが、島原の乱の時、原城にこもったキリシタン達も“サンティアゴ!!”と叫びながら、幕府軍に立ち向かっていったと伝えられています。

 15世紀に教皇シクスト四世が、コンポステラへの巡礼は聖地エルサレムへの巡礼と同じ価値があると宣言してから、コンポステラはの巡礼はヨーロッパ中に広まり、巡礼路にそって宿泊所や教会、修道院が建てられ隆盛を極めるようになりました。 

 サンティアゴ デ コンポステラへの巡礼路は、中世以来4つの起点が知られています。いずれも現在のフランス国内にありますが、ヨーロッパのどこから来ても4つの起点のどれかを取りました。

 北の方から来た場合パリが起点になりました。パリからオルレアン、トゥール、ポアティエ、ボルドーと南下し、オスタバからピレネーを越え、今は“牛祭り”で有名な昔のナバラ王国の首都パンプローナに入り、プエンテ ラ レイナで他の巡礼路と合流しました。

 他には、ヴェズレーからリモージュ、ぺリゴーと南下する路。ルピュイからカオール(私はここのワインが好きです)を通ってピレネー越えに至る路。そして、南から来た人たちが起点とした南仏のアルル、モンペリエ、トゥルーズからオーシュを通ってピレネー越えをする路がありました。

 人々は聖ヤコブのシンボルである帆立貝を、背負っている荷物や杖にくくりつけ、聖ヤコブがかぶっていたといわれる独特の帽子をかぶり、路によっては千数百キロもの巡礼路を何十日もかけて歩いたのでした。

 忘れてはならないのは、無事サンティアゴ デ コンポステラに着いてお参りをした後、又同じだけの距離を歩いて戻らなければならなかったということです。現代のように、行きは歩くけど帰りは飛行機、というわけにはいかなかったのです。

 中世には巡礼路の夜盗、強盗は珍しくありませんでしたから、巡礼はそれこそ命がけの大事業だったわけです。

 私の場合、とてもそんな勇気はありませんし、時間もないので一番楽な方法を選びました。そうです、飛行機と車です。

 ブリュッセルからスペインのビルバオまでSNで飛び、そこからはレンタカーで敬虔なる巡礼の旅にでました。

 ビルバオから一気にコンポステラを目指したわけではありません。バスク地方には、日本人として、どうしても仁義を切っておかなければならない場所があるのです。

 その場所とは、わが祖国日本にキリスト教を伝え、西洋文明渡来の端緒を開いたフランシスコ ザビエルの生家、ザビエル城のことです。 

 ビルバオからパンプローナへ行き、そこからピレネー山脈を左手に見ながら、かっての巡礼路にそってサングエサという町まで行きます。ザビエル城がサングエサの近くにあるというのは本でしらべてました。

 しかし、かなり詳しいスペインの道路地図のどこにも、“Javier”なる地名が出ていません。サングエサの警察署で、地元の発音に従い、ハビエル城はどこでしょうかと聞くと、鼻の赤い中年のお巡りさんが、図面まで書いて親切に教えてくれました。

 ところが行ってみると、そこはザビエル城とはなんの関係もないただの廃墟でした。

 皆さんも経験があるでしょうが、ベルギーも含めてヨーロッパの人に道を聞く時は、複数の人に聞かないと危ないということです。親切に、しかも自信をもって間違ったことを教えててくれますので。

 やっと“Javier”の道路標示を見つけ、山の中にぽつりとある感じのザビエル城に着きました。

 思ったよりも立派なお城でした。ところが城のまわりには工事用の足場が組まれ、修復作業の真っ最中です。こちらで調べた情報によれば、修復は昨年末で完了し、今年の4月から一般公開となっていたのですが、現場の様子では年内一杯はかかりそうです。

 こんなことで驚いていては、スペイン旅行など出来ません。お城は諦めて、横の教会に入りました。ザビエルが洗礼を受け、フランシスコの名前をもらった教会です。

 教会の扉の上に、ザビエルが足跡を印した地名が刻まれています。スペルの間違いはありますが、日本の山口も記されていました。 

 ザビエルが生まれ育ち19歳まで暮した城の前に立ち、スペインの午後の強い太陽の日差しを浴びながら、歴史の“If”の世界にしばし浸りました。

 もし彼がパリでロヨラのイグナチオに出会わなかったなら、ナバラ王国の宮廷があったパンプローナで、学者として平穏な生涯を送ったのだろうか。そうすれば、天正の少年使節や島原の乱も歴史に登場しなかったかもしれない。四ツ谷にイエズス会の上智大学ができただろうか等々。

 ザビエル城を後にして、コンポステラへの巡礼路が合流するプエンテ ラ レイナ(女王橋)という町に来ました。途中、帆立貝をリュックや持ち物につけて、炎天下を歩いている現代の巡礼の人達、特に若い人達を沢山見ました。「ご免なさいね」と謝りながら、車で追い越してきました。

 プエンテ ラ レイナは、11世紀にナバラ王の妃が巡礼者の為に立派な石橋を寄進したのが、名前の起こりだそうです。今でもその橋の一部が残っています。

 この小さいながら由緒ある町に、キリストの磔刑像としては非常に珍しく、又傑作といわれている「Y十字架のキリスト像」があり、これを是非拝観したかったのです。

 Y十字架のキリスト像は、女王橋横の小さな教会の左手奥にありました。十字架の横木がY字型になり、キリストの両腕が斜め上の方で釘打たれている木彫りの像です。

 お祈りしている巡礼者の方々のじゃまにならないように、そっとY十字架のキリスト像の前に座りました。確かに、これまで出会ったことのない十字架像でした。

 茨の冠をかぶり、両手と両足に釘を打たれ、がっくりと頭をたれて息絶えている哀れな刑死者キリストは、見る者に鋭い疑問をつきつけてきます。

 2000年前のローマ帝国領辺境の地パレスチナで、たった3年間教えを述べて磔刑に処せられたイエスなる男が、人類の歴史のあらゆる分野にかくも巨大な影響を与え、今も与え続けている事実は何なのか、歴史の謎としか言いようがありません。 

 日が暮れて、プエンテ ラ レイナに宿を見つけました。本来なら翌日はコンポステラ方向への道を取るのですが,この地方には寄り道する価値のある場所が多すぎます。

 カルサダのサントドミンゴ教会や、スペイン三大聖堂の一つ、ブルゴスのカテドラルを見学せずに通過することは出来ません。

 さらに、そこから30キロほど行ったところにある、世界的に有名なシロスの修道院のグレゴリオ聖歌も拝聴しなければなりません。

 シロスのベネディクト会修道院で録音されたグレゴリオ聖歌が、かってアメリカのヒットチャートのトップに立ったことがあるのを、ご記憶の方もいるかと思います。

 翌日、ブルゴスの壮大なカテドラルや鶏の逸話で有名なカルサダのサントドミンゴ教会を見学した後、修道院の夕べの祈り、晩課の時間に間に合うようシロスへと急ぎました。

 CDでは聞いていましたが、ナマで聞いたグレゴリオ聖歌は期待に違わぬすばらしいものでした。ベネディクト会の黒い修道服にに身を包んだ神父や修道士の方々が、祭壇奥の席に左右12人づつ並び、”Adjutorium nostrum Domine”(われらを護り給える主よ)と唱和し始めた時は、背筋がぞくぞくするほどの感動を覚えました。

 天台の声明もそうでしょうが、長い歴史の中で磨きぬかれてきた宗教音楽には、信者、非信者に関係なく人の心を打つ何かがあるのだと思います。

 ここまで書いてきて気がつきましたが、今回はコンポステラまでたどり着けそうもありません。紙数が尽きかけています。巡礼の旅も途中までになりました。

 ま、当分はわが身を省みるために立ち止まるより、美人に出会って立ち止まることにします。その方が楽しいですしね。 

No.109 お百度参り 

No.109 お百度参り 



 風に運ばれた氷雨が頬をうち、お今の裸足の足は凍えてもうなにも感じなくなっていた。

富岡八幡の境内を囲むようにして立つ老杉が、風を受けてびょうびょうと梢を鳴らしている。

深川浄心寺の鐘が暮れ六つを告げてから、一刻(2時間)は過ぎたであろう境内には訪なう人もない。

 「八幡さま、お願いでございます。おみねを流行り病いから助けてやってくださいまし。お願いでございます。お願いでございます」

 お今は何度も何度もこのことばを繰り返しながら、富岡八幡の鳥居と社殿の間を裸足でお百度参りをしながら、一人娘おみねの快癒を祈りつづけるのであった。

 冬至まであと何日という江戸の空は黒雲に覆われ、氷雨が八幡宮の社殿の屋根瓦をたたいていた。

今年三つになるおみねは、お今がぼてふりの弥助と一緒になって5年目に授かった子供だった。

その可愛いさかりのおみねが三日前から熱っぽくなり、昨夜から体中に湿疹がでて高熱に苦しんでいる。

お今が弥助と一緒になったのは、お今が深川熊井町の小間物問屋住吉屋清兵衛方で下女奉公をしていたとき、台所口に魚や貝を売りにきた弥助と口をきくようになったのが縁であった。

氷雨にうたれたお今の身体は骨の髄まで冷え切っていた。

しかしお今は、額にはりついた髪の毛をはらうことも忘れ、憑かれたように八幡宮の鳥居から社殿への行きつ戻りつを繰り返すのだった。

お今は、自分の身体をいためればいためる程、おみねの熱がさがっていくような気がしてならなかった。

と、まあ時代小説風に書けば、お百度参りはこんな風景になるのでしょうか。

お百度参り、水ごり、茶断ち、酒断ち、芝居断ち等々、神仏への願かけをより効果的にするために、人はいろいろな方法を考えてきました。

神様や仏様にこちらの願い事、頼みごとを聞いて頂くのに、手ぶらというわけにはいかないので、こちらも誠意のあるところを見せなければなりません。

となると、自分の好きなものを願い事がかなうまで、或いはある一定期間やめますと神仏に約束したり、自分の身体に辛い苦行を課したりして誠意を見せようとするわけです。

神様や仏様に「そうか、そうか、お前そこまでやるか」と心証をよくしてもらうためには、できるだけ厳しい環境のもとで誠意を見せないといけません。

今年の日本の夏みたいに、40度もある暑い日にいくら水ごりをとってみても、せいぜい行水をつかっている程度にしか思われませんので、神仏の効果は期待できません。

同じように、寝苦しい夏の夜に裸足でお百度参りをしても、神社の境内の敷石は足にひんやりと気持ちがいいだけで、神仏がこれを嘉し給うとは思われません。

水ごりは厳冬の朝、お百度参りは寒風吹きすさぶ冬の境内と、相場が決まっています。

今の日本では、水ごりやお百度参りをして神様や仏様に願をかける人はもういないでしょう。そういうシーンは、テレビドラマの時代劇にたまに出てくるぐらいでしょうか。

ところがヨーロッパでは、形こそ違いますが、自分の身体に犠牲を強いて神様に願い事を聞いて頂こうと、健気な努力を続ける人たちを今でも沢山見ることができます。

聖母マリア出現の場所として最も有名なのが、フランスのピレネー山中にあるルルドですが、これに次いで有名なのがポルトガルのファチマです。

以前に、ポルトガルの古都、コインブラを訪ねた時、ファティマに寄ったことがあります。

コインブラは有名なコインブラ大学のある町ですが、歴史上日本ともいろいろとつながりのあるところです。

16世紀に、日本人として初めて聖地パレスチナに足を踏み入れ、エルサレムを訪れたペドロ岐部神父はコインブラ大学で学びました。岐部神父はヨーロッパでの勉学を終えた後、キリシタン禁制下の祖国に戻り、殉教しました。

(個人的なことですが、私は16世紀の日本で、類まれな国際人だったペドロ岐部神父に強い関心があります。残念ながら同神父に関する資料が余りありません。どなたか、本や資料をお持ちでしたら貸していただけませんか)

天正の少年使節たちもコインブラ大学に立ち寄っています。彼らは同大学の有名な図書館を訪問したはずです。

彼らは、あの森厳たる雰囲気の図書館に佇み、何を思ったのでしょうか。

ファティマはリスボンとコインブラの中間地点にあります。

1917年5月13日に、この地で羊の群の番をしていた3人の牧童、ルシア、フランシスコ、ヤシンタに聖母マリアが現れました。

聖母マリアは3人の子供たちに、毎月の13日の同じ時刻に同じ場所に現れると告げました。そして以後5ヶ月間、13の日に聖母マリアがファティマの地に現れたのだそうです。

最後の出現となった10月13日には、近隣の村や町から集まった7万人もの人々が、聖母マリア出現とともに起こった不思議な自然現象、太陽が火の玉のように回り始める現象を目撃したと言われています。



当時のファティマは、貧しい草地にわずかばかりのオリーブの木が点在する辺鄙な場所でしたが、今や荘厳な大聖堂と数10万人の巡礼者が一堂の会することができる広場になっています。

大聖堂を正面に見て、広場の左手に小さな礼拝堂があります。

ここが聖母マリアが出現した実際の場所で、聖母マリアは3人の子供たちに、ここに礼拝堂を建てるようにと告げた所なのだそうです。

私も折角ファティマまできたので、マリア様に「会社の業績がよくなりますように」とお願いでもしようかと、礼拝堂の方に行ってみました。

行ってみて驚きました。

数え切れないほどの老若男女が、祈りの言葉を唱えながら膝で礼拝堂の周りを周っているのです。

礼拝堂を一周すれば、かなりの距離があります。膝がすりむけて血が滲んでいる人もいます。耐えられなくなったのか、両腕を両方から抱えてもらって膝行を続けている人もいます。

又、車椅子の旦那さんの代わりに、奥さんが旦那さんの手を握りながら膝行している姿もありました。旦那さんのハンディキャップがよくなるように、マリア様にお願いしているのでしょうか。

会社の業績をよくして頂くためには、わたしもこの敬虔な人々と一緒に膝で歩かなければならなかったのでしょうが、その勇気はありませんでした。

これで会社の業績向上は当分期待できないでしょう。仕方がありません。自業自得ですから。

さて皆さんは、現ローマ教皇ヨハネパウロ二世が1981年にバチカンのサンピエトロ広場で狙撃され、瀕死の重傷を負った事件をご記憶でしょうか。

九死に一生を得たヨハネパウロ二世は、狙撃された日が5月13日であったことから、ファティマの聖母のご加護を強く感じ、翌年の5月13日にファティマに巡礼して、感謝の祈りを捧げています。



ギリシャのサントリー二島でも、船着場から教会まで膝で歩いている人たちの列を見たことがあります。

こちらはギリシャ正教ですが、聖母マリアへの崇敬はカトリックに優るとも劣らないほど強いようです。

膝行する人たちの苦痛を少しでも和らげようと、船着場から聖マリア大聖堂までの道路の右端には赤い簡易絨毯がしいてありました。

絨毯といっても薄っぺらなものですし、距離が相当ありますので、全行程を膝で歩いたら大変な苦痛だとおもいます。

ここで敬虔な信者の方々に混じって膝行していれば、売上倍増ぐらい期待できたのかも知れませんが,意気地なしの私はただ見ているだけでした。

サントリー二島にいた間に、8月15日の聖母被昇天の祭日にぶっつかり、大聖堂から船着場までの聖マリア行列に参列することができました。

大聖堂を出た行列は、祭服に威儀をただした大主教、主教、司祭たちが先導し、その後に凛々しい仕官服に身をつつんだギリシャ海軍の仕官たちが、聖母マリアのイコンを納めた輿を担いで続きます。さらに、正装したギリシャ海軍の水兵、将官たちが輿を護るようにしてこれに続き、行列の前後左右を沢山の地元の人たちがとりかこみ、行列が動いていきます。

行列を見ていると、地元の人たちがイコンを納めた輿の下をくぐり抜けようと、一生懸命輿に近づこうとしています。

考えてみると、つらい膝行よりもこちらの方がはるかに楽なわけで、ご利益もそう変わらないのであれば、ここは一番輿の下くぐり抜けをやらない手はないわけです。

私は人ごみに押されながら、輿に近づいていきました。そして、信心深そうな地元のおばさんたちと一緒に、見事に輿のくぐり抜けに成功しました。

見ると、くぐり抜けに成功したおばさんたちは、ギリシャ正教式の十字を切りながら感涙にむせんでいます。

自分がなんだか罰当たりなことをしたみたいで、おばさんたちに申し訳なく思いましたが、これで業績が一気に好くなるのであれば、くぐった甲斐があったというものです。



自分の身体を犠牲にしたり、好きなものをやめたりして神仏に願い事を聞いてもらうやり方は人類共通の考え方でしょう。

しかし今の世の中は、自己犠牲が神仏向けではなく、会社の上司向けであったり、取引先の担当者向けであったり、或いは何を考えているのかちっとも分からない新人類の部下向けであったり、はたまたコミュニケーションのなくなった配偶者向けであったりと、対象が変わってきているのではないでしょうか。

考えようによっては、こちらの方が一時的に膝を痛めるよりもっとつらいかも知れません。何しろ自己犠牲を強いられる時間が、場合によるといつ果てるとも知れないからです。

でもお父さん、昔お母さんに結婚してもらうために、お母さんの所にお百度を踏んだ事実を忘れてはいませんか。

今日家に帰ったら、皿洗いを手伝ったり、お母さんの肩をもんであげたりして下さい。あの時約束したじゃありませんか。「結婚してくれたら、掃除,洗濯、買い物、君の肩もみ、何でもします」と。                                                  

No.110 シコンはシコン

No.110 シコンはシコン





「新ベルギー物語」 110.シコンはシコン

「あれまあ、ヤンちょっときて見ろや!!」
地下の物置から女房のヨークが素っ頓狂な声をあげてきた。
畑仕事を終えて、手を洗っていた亭主のヤンが、「なんだヨーク、ねずみがジャガイモでも食い荒らしたか」と、大きな声で叫びかえした。

ヤン.ブラメルスの家は、ブリュッセルの北東部にあるスカールベークで代々百姓をやってきた。
作物は小麦や大麦、砂糖大根や野菜を作り、他に乳牛が3頭、自家消費用の鶏が10数羽庭先を走り回っているという、この辺りの典型的な農家だった。
ヤンが父親のジョスを説得して、砂糖大根畑の一部をつぶして植えた10本のサクランボの木が実をつけるようになり、去年からアンデルレヒトのサクランボビール“クリーク”の醸造元に、サクランボを出荷するようになっていた。
スカールベークはサクランボの生産地として、昔から有名だった。
収穫したサクランボをブリュッセルの市場や“クリーク”の醸造元へ運ぶ運搬手段として、スカールベークにはロバがたくさん飼われていた。
サクランボの入った二つの篭を振り分け荷物のように背負い、トコトコと道を行くロバを見て、人々は「ああ、もうサクランボの季節が来たのか」と、季節の移り変わりを実感するのだった。

ヤンの家にも“マヌク”という名前のロバが飼われていた。
ヤンは、サクランボの入った篭を背にしたマヌクの手綱を手に、スカールベークからアンデルレヒトまでの道をのんびりと行くのが好きだった。
クリークの醸造元にサクランボを納めた帰り道、ヤンはブリュッセルのグランプラス裏の居酒屋で、地酒のランビックをひっかけるのが何よりの楽しみだった。
それに、居酒屋を一人で切り回している寡婦のジャ二ンが、何くれとなくヤンに気を使ってくれるのも、この居酒屋の前を素通りできない理由の一つになっている。
この間寄った時、居酒屋には他に客がなく、ジャ二ンはヤンの横に座り一緒に飲み始めた。
「ヤン、これ私が作ったストゥンプ(マッシュポテト、ソーセージなどが入ったブリュッセル庶民の家庭料理)だから食べてごらんな」
「うん、うめえな、これ。いいジャガイモ使ってんな」
「当たり前じゃない。このジャガイモは、この間ヤンが持ってきてくれたものなのよ」
「ああ、ほだったな。おれんとこのジャガイモうめんだな」
「おいしいのはジャガイモだけじゃないみたいよ、ねえヤン」
と、その場の雰囲気がなにやら妖しげになってきた時、外に繋がれていたロバのマヌクが「ヒーホ、ヒーホ」と、ロバ独特の甲高い声で鳴きだしました。マヌクは早くスカールベークに帰りたかったのでしょうか。
マヌクの鳴き声でハッと我に返ったヤンは、「又来っからな」と勘定を置き、そそくさと居酒屋を後にしました。女房ヨークの怖い顔が、背後霊のようにヤンの後ろからついて来るのでした。

今は、ブリュッセルを構成する19のコミューンの一つになっているスカールベークが、「ロバのコミュ-ン」と呼ばれる理由は、上記の次第なのです。
ヤンとジャ二ンの話は勿論作り話ですが、サクランボとロバの話は本当です。
そして、ベルギーを代表するかの有名な野菜、“シコン”は、前世紀末にスカールベークのヤンの家で“発見”されたのです。

「ヤン、下に来て見ろってば」と、女房のヨークがまた叫んでいます。
「何だよ、うるせえな」とぶつぶつ言いながら、ヤンは地下になっている物置の階段を降りていきました。
「見てみろ、ほら。シコレの根っこから白いツノが出てるぞ」
「あれま、本当だ。何だべこれ」
「葉っぱ取った後の根っこを引っこ抜いて、ここさ置いて上から土をかけておいたのよ」
「ほだな。乾かしてコーヒーの代わりに飲むシコレの根っこは、別んとこさ置いだもんな」
「爺さまがよ、来春植え直す根っこには乾き過ぎねえように、土をかけておげって言うがら、そうしたのに、ツノみでえのが出てきて、まあびっくりした」
「ヨークよお、こらあ教会の神父さんに見でもらった方がいいんでねえが。この白いツノみでえの、悪魔の角さ似でねえが」
「悪魔の角なんて、縁起でもねえごど言うな、ヤン」

ヤンとヨークが神父さんを呼んだかどうかは知りませんが、白い角のような野菜をこわごわと食べてみたら、なんとこれがおいしいのです。
隣近所の農家におすそ分けをしてるうちに、シコンの栽培はSchaerbeek,Woluwe,Zaventem,Kortenberg,
などの、いわゆるブラバント(Brabant)地方に広まっていきました。

余談ですが、レストランのメニューに「......Brabancon(cの下にヒゲがつく字です)」とあったら、これは付け合せにシコンがついてくると思ってください。例えばこれからジビエ(狩猟鳥獣)の季節ですが、よくメニューに「Faisan a la Brabanconne]というのがでてきます。これは雉肉料理にシコンの付け合せが出てくるメニューのことです。

物の本によれば、シコンはローマ時代から栽培されていたようです。
フランスの有名な辞書Larousseで“Chicon”の項目を引くと、“ローマのサラダ”と出てきます。
シコンを普通に栽培すれば、サラダ菜みたいな葉になるのです。根っこは乾燥して炒ると、コーヒーの代用品になります。ナポレオンも戦陣でこれを飲んだという記録が残っています。

ヤンの家で偶然の要素が重なって生え出たシコンは、様々な栽培上の試行錯誤が繰り返された後、一つの栽培法が確立しました。
シコンの種をまき、若葉が出てきたら20センチ間隔ぐらいになるように間引きをします。これは丈夫でしっかりしたシコンの根を作るためです。ある程度大きさになったら根を引き抜き、出ている葉を切り取ってしまいます。そして、シコンの根を堆肥を混ぜた盛り土の中に垂直に植え、その上にさらに土を盛っていきます。シコンの栽培は冬期に行われますので、シコンの発育を促すために堆肥の出す熱が、重要な役割を果たすのだそうです。

当時のシコン栽培農家にとって、いい堆肥を入手することが生産量の決め手でした。この堆肥の最も大きな供給先がEtterbeekにある軍の兵舎だったのです。
今でもエッテルベークの兵舎には、儀ジョウ兵用の馬がたくさん飼われていますが、昔は軍事面で馬が重要な役割を果たしていましたので、今の何倍もの数の馬が飼われていました。従って毎日大量の堆肥の材料が“生産”されていたわけです。
私もアキラの馬房を掃除するので知っていますが、たった一頭で毎日であれだけの“生産量”があるのですから、これが100頭単位になったら、ブラバント地方の全シコン栽培農家の堆肥作りに十分な供給量があったであろうことは、想像に難くありません。

又余談ですが、皆さんはブリュッセルの地名に「何とかベーク」とつく地名が多いことに気が付いてますか。スカールベーク、エッテルベーク、ロードベーク、マールベークと、ちょっと数えてだけでもすぐに出てきます。
“ベーク(beek)”というのは、“小川、細い流れ”を意味するフラマン語なのです。手持ちの蘭日辞典で“beek“の項を引いてみると、そう書いてありますから間違いありません。
そもそも“ブリュッセル“という名前の語源が、”じめじめした所、湿地帯“などの意味だそうですから、いたる所に小川や細い流れの地名があってもおかしくないわけです。

以前、フランドル地方のシコン栽培農家を訪問したことがあります。
今は畑の土盛りもしませんし、堆肥も使いません。温度や光の調節が完備した倉庫のような部屋に、シコンの水耕栽培の棚がずらりと並んでいます。シコンは季節に関係なく収穫できるようになっています。
しかし面白いことに、シコンの需要がぐんと伸びるのは、やっぱり冬なのだそうです。ベルギーの人たちの長い食習慣がそうさせるのでしょうか。或いは、外部から遮断された水耕栽培の部屋にも、冬の空気が入り込みシコンの味に影響を与えるのでしょうか。

ところで、ヨーロッパのシコン生産高のトップを行く国はどこでしょうか。勿論、ベルギーと言いたいところですが、残念ながら違います。トップはお隣のフランスなのです。ベルギーに住む身として悔しい気もしますが、国の大きさが違うので諦めましょう。

ただ、フランス人がシコンをシコンと呼ばず、アンディーブ(Endive)と呼ぶのはけしからんと思いませんか。シコン発明国ベルギーへの敬意は何処に行ったのでしょうか。
私は余りにも悔しいので、再び辞書のLarousseをめくりました。ところがなんと、このフランス語の権威ある辞書、ラルースまでが私をバカにするのです。
“Chicon”の項には、前記したように“ローマのサラダ”とそっけなく書いてあり、“Endive”の項には絵まで入れてシコンの説明をしているではありませんか。
どちらが正しいのでしょうか。識者の方、教えてください。
この質問を、正統フランス語の守護者、アカデミーフランセ-ズにぶっつけてみても、答えは決まっているでしょう。
「アンディーヴをシコンと標記し且つ話すのは、“Belgicisme(ベルギー特有のフランス語)“の一環である」と。

私がシコン、シコンと言ってると、フラマン語の方からお叱りを受けることは、よく分かっています。
だいたい、シコンを発見したヤンさんたちは、この野菜をシコンなどと呼ばなかったのです。彼らの言葉では“Witlof”でした。

ま、呼び方はどうでも、これから冬に向かってシコンがおいしくなります。
煮てよし、焼いてよし、生でよし、個人的にはこのベルギー野菜が大好きです。
日本の紀伊国屋あたりでは、高価な輸入野菜として売られているそうですが、ここ本場のベルギーでは誰でも食べられる庶民の野菜です。大いに食べましょう。
シコン料理でよく知られているのが、シコンとハムのグラタンでしょうか。作り方は、本会報に毎月おいしそうな料理のレシピを寄稿されている田河さんにきいてください。
肉を焼いた後のフライパンに、軽くゆでておいたシコンを放り込んで塩、胡椒をして、そこにちょっぴり醤油と味醂をたらすと、結構なSteak a la brabansonneができます。
又、はがしたシコンの葉の先に酢味噌をちょっとつけて食べると、酒がすすんでいい気分になります。

お父さんも折角ベルギーにいるのですから、シコン料理の一つや二つを覚えてベルギー駐在の思い出にしたらどうですか。料理の上手なお父さんは、配偶者からも子供からも尊敬されます。
粗大ゴミ扱い予防並びに退職金受領時配偶者離婚願い予防は、シコン料理からですよ、お父さん。

皆さん、よいお年をお迎えください。