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No.111 ミディ駅の人々

No.111 ミディ駅の人々



明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

アンドレはブリュッセルのMidi駅のポーターです。
Bruxelles Midiには、アンドレとロジェーの二人のポーターがいます。というか、Midi駅には二人のポーターしかいません。彼ら二人が定年になって辞めたら、ミディ駅のポーターはいなくなります。

さらに言うなら、この二人ポーターがいなくなったら、ベルギー国内のみならずべネルックス3国の駅からポーターがいなくなるのです。
アンドレとロジェーは、ベネルックス3国の滅び行く職業の最後の証人として、特に気張ることもなく、悲壮感を持つでもなく淡々と働いています。

昔はカートなどありませんでしたし、エスカレーターもなかったので、電車に乗る人降りる人は荷物を持って駅の階段を上り下りしなければなりませんでした。
ポーターの助けを必要とする旅行者が、常に駅の中を往来していました。ポーターには駅に働く人々の中で、ちゃんとした役割があったのです。
かつては、ミディ駅に就任してくる新任の駅長が必ず話を聞きに来たという、駅の隅々まで知り尽くした駅の主みたいなベテランのポーターもいました。

ミディ駅の主のようなポーターの一人に、マルセルがいました。
マルセルは小学校を出るか出ないかの頃から、ミディ駅で時間を過ごすようになりました。今で言えば、学校に行かない不良少年みたいな存在だったようです。
最初は、駅の職員に頼まれてタバコを買ってきてあげたりする、使い走りみたいなことをして小銭を貰っていました。
やがて体が大きいのを見込まれて、ポーターの仕事をするようになりました。
以来45年間、マルセルはミディ駅のポーターとして旅行者の荷物を運び続けたのです。時にはお年寄りを背負って、駅の階段を上がり降りしたこともあったそうです。

マルセルはポーターになって45年目に、初めてバカンスに行きました。そしてバカンスから戻って六ヶ月後にガンで亡くなりました。
彼と特に親しかったわけではないのですが、駅で顔を合わせると「マルセル、元気かい」などと、近況をきくことはしていました。
ある日、マルセルの鼻と頬っぺたが日に焼けていたので、「マルセル、バカンスに行ってきたのかい」ときくと、「うん、初めてな」と、ちょっぴり恥ずかしそうに、そして誇らしげに答えた顔をよく覚えています。しかしあの時すでに、マルセルの体は少しづつガンに蝕まれていたのです。
彼の人生は幸せだったのでしょうか。分かりません。
人が幸せな人生をおくったのか、不幸な人生だったのかなど、当人にしか分からないことです。

ベネルックス最後のポーターの一人であるアンドレは、ブリュッセルの下町生まれの下町育ちで、生粋のブリュッセルっ子です。
先日、用事があってミディ駅に行った時、彼にばったり出会ったのでしばらく立ち話をしてきました。

アンドレは開口一番「オレ、今度家を買ったぞ」と、本当に嬉しそうに言いました。
「へえ、よかったね。どの辺に買ったの」
「ここ(駅)から車で南へ30分ぐらい行った所で、本当の田舎よ。空気はきれいだ し、最高だよ」
「銀行ローン組を組む時、面倒じゃなかったかい」
「それがよう、昔のオレ達の身分だったら銀行は絶対に金なんか貸してくれなかったよ。昔のオレ達ポーターの身分は、一種の自営業だったからな」
「あれ、今もそうじゃないの」
「違うのさ。今オレ達はベルギー国鉄の職員なんだぜ」
「ああそう。知らなかったよ、それ」
「日銭稼ぎのポーターとベルギー国鉄の職員じゃ、銀行の見る目も違うってわけよ」
「奥さんも働いているんだろう」
「ああ、家内は食品関係の工場で働いているけど、彼女の給料をベースにしたローンじゃ、家なんか金輪際買えやしないよ」
「子供達も庭のある家に移れて喜んでいるだろう」
「もう、跳ね回って喜んでいるよ。オレ達はこの近くのサンジルのアパートに住んでいたけど、前は家に帰るのがちっとも嬉しくなかったもんな。でもよ、今は家に帰るのが楽しくてしょうがないもの。次の週末に、子供達と庭にちっちゃな池を作るんだ。そこにコイを飼おうと思ってな。コイって、日本の魚じゃなかったかい」

アンドレの家の話はとどまるところを知りません。
田舎に買った小さな家を、自分たちの好みに合わせて改装していく楽しみ、生まれて初めて経験する庭のある家の暮らしの喜び、奥さんや子供たちの顔がとても明るくなったことの幸せ等々、彼は自分の仕事も忘れてえんえんと話し続けるのでした。
アンドレは、今が一番幸せなのかも知れません。彼の幸福な気持ちがこちらにも感染して、ほのぼのとした気持ちにさせられました。

最近、ベルギー国鉄のカーレル ヴィンク総裁が任期満了を待たずに辞任する意向であることを、当地のプレスが報道しました。
ヴィンク総裁はベルギー経団連の会長を務めたこともあるベルギー財界の超大物で、天文学的数字の赤字に苦しむベルギー国鉄の再建に取り組むため、政財界から請われて総裁に就任した人です。

同総裁の辞任意向を報道する大衆紙の見出しの中に、“カーレル ヴィンク、年俸600,000ユーロをすてる”というのがありました。
巨額の赤字で、政府が国民の税金を毎年つぎ込んでいる国鉄のトップの報酬として、この額が適当なのかどうかは分かりません。
ただ言えることは、駅のポーターのアンドレが生涯の大事業として買った家の値段が、ヴィンク総裁の二ヶ月分の給料と同じ金額であることです。
「駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋をになう人」という諺のように、世の中はいろいろな役割の人によって成り立っていますので、こういう比較をすることの方が間違っているのかも知れません。でも、気にはなりますね、ちょっと。

アンドレと立ち話をしているホームの向こうから「ほら、どいたどいたどいた!!」と叫びながら、20歳前後と見られる青年がカートを押してきます。
われわれの横まで来ると、青年は「やあ、アンドレ、元気か。ちゃんと仕事しろよ」と言いながら通り過ぎて行きました。

アンドレの話によれば、この青年は知的障害者で、自分は駅員になったつもりでいるのだそうです。
毎朝、母親に作ってもらった弁当をもって駅に“出勤“してきて、一日を駅で過ごして帰っていくそうです。駅で働く人たちはみんな彼のことを知っているので、彼と話す時は駅員さんとして話すそうです。
彼を駅員として遇さないと、攻撃的になるから気をつけろよと、アンドレが忠告してくれました。

Midi駅の警察には、約80人近い人物の顔写真がリストアップされているそうです。
政府要人やVIPの顔写真でしょうか。要人やVIPが駅に来る時、失礼のないように、日頃から顔を覚えるために、警察官は顔写真のリストを眺めているのでしょうか。

違います。
80人近い人物の顔写真は、駅を仕事場にしている泥棒たちの顔写真なのです。
顔写真があるということは、全員一度は捕まっているということです。
Midi駅が、スリ、置き引き、引ったくりなどの盗難事件のメッカであることは、皆さんもご承知のことと思います。日本から来た旅行者もかなり被害に合っていますが、ベルギーの在留邦人の方も被害に合っています。
80人近い仕事師の中には、日本人を専門に狙うグループがいるやに聞いています。
こちらの人間にとって、東洋人の顔はみんな一緒に見えるのに、どうやって日本人を見分けるのでしょうか。
服装、持ち物、髪型などが、他のアジアの国の人たちと違うらしいのです。泥棒のプロは以外と人を見る目があるようです。猟師が肥えた獲物に目をつけるのと同じなのでしょう。

顔写真の人物が駅構内をうろうろしていても、警察はなにも出来ません。ご承知の通り、現行犯の現場を押さえない限り、逮捕は出来ません。
顔写真を一般公開して、駅に来る人々に注意を呼びかけたらどんなものかと考えますが、これも人権問題がからみ出来ない相談のようです。
要は、自分で自分を守るしかないということです。
泥棒につけいるスキを与えないためには、自分の周りをうろうろする挙動不審な人間がいたら、相手の顔をちゃんとみて「アタイね、アンタのこと知ってんのよ、悪いけど」というメッセージを、はっきりと出すことです。
問題は、自分の周りにいる挙動不審者の存在にさえ気づかない人が、余りにも多いことです。
もっとも、獲物を求めてきょろきょろする挙動不審の泥棒は、未成年のこそドロが多く、本格派の泥棒は身なりもきちんとしていて、なかなか見分けられないのも事実です。

アンドレの話によれば、ミディ駅の泥棒は年々大胆になり、又暴力をともなった盗みをする者も出てきているそうです。
フランスのリールからユーロスターに乗って出稼ぎに来る連中が、一番タチが悪いと言ってました。彼らはユーロスターの中で置き引きその他の仕事をしながらミディ駅まで来て、ここでひと稼ぎして又ユーロスターで帰っていきます。
ミディ駅生え抜きだろうが、出稼ぎだろうが、泥棒に変わりはありません。彼らの獲物にならないように、お互いに気をつけましょう。
網棚の上に、貴重品を入れたバッグをのっけたり、財布その他がポケットに入っている背広を、座席の洋服掛けにかけたり、座席に座っている自分にホームから盛んに身振り手振りで何かを言っている人間に注意を向けたり、自分の前の席に座った人が置いて行った携帯を、親切心から追いかけて行って忘れ物ですよと、届けてあげようとしたり等々は、絶対にしてはいけないのです。

華やかの雰囲気の空港に比べると、駅にはなんとなく哀愁感みたいなものがあると思いませんか。駅には、人の一生を思い起こさせる何かがあるような気がします。
人生に曲がり角や節目、転機や決断の時があるように、列車や電車に乗って通過駅に停車し、そして又駅を出て行く時、駅には人々に節目を思い起こさせ、決断を促すような顔があると思うのは、わたしだけでしょうか。

新しい年、わたしたちはどんな駅を通過していくのでしょうか。わたしたちの行く手には、どんな駅が待っているのでしょうか。
今年も、人との出会いを大切にし、日々の人生を大事に積み重ねて行こうと思います。
ちょっと真面目過ぎますかね、こういう言い方は。 

No.112.ベナレスの炎

No.112.ベナレスの炎



皆さんは、 遠藤周作という作家が好きですか。

まるっきり興味がないという方もおられるでしょうが、彼の作品を読んだことがあるという方も少なくないと思います。

ずいぶん昔になりますが、ブリュッセルで遠藤さんの講演を聴いたことがあります。

日本航空の海外文化講演事業の一環として、阿川弘之,北杜夫、遠藤周作という当代きっての人気作家3人がブリュッセルに来演したのです。

日本に居たって、3人の作家の講演を一度に聴ける機会など考えられないことですから、ブリュッセルのさるホテルの講演会場は超満員の盛況でした。

話し上手で聴衆の気をそらさない阿川さん、ほとんど直立不動で話す北さん、身体をはすに構えて、ちょっとやくざっぽい口調で話す遠藤さんなど、三者三様の個性が溢れて、大変面白い講演会でした。

最近こういう文化講演会がぴたりと来なくなったのは、本当に残念なことです。日本航空さんの方にも台所事情その他のご事情はあると思いますが、ここは一番頑張って頂いて、われわれ海外に住む日本人に祖国の文化の薫りを届けて頂きたいものです。

私個人としては、遠藤周作は好きな作家の一人です。

何故ときかれると即答に困りますが、彼の作品には自分の内面にある何ものかに迫ってくる力あるからだと思っています。

食べ物の嗜好を始め、物事の好き嫌いは、その人の幼児体験や、家庭環境、人生経験などいろいろな要素が絡み合って出来てくるものなので、説明は難しいものです。

作家、遠藤周作は、彼が好むと好まざるに関わらず、カトリック作家という看板を背負わされ、生涯にわたって一つのテーマを追求してきました。

彼がいろいろな処に書いているように、幼児洗礼を授けられ、自分の身体に合わないキリスト教というだぶだぶの洋服を着せられ、これをなんとか身の丈に合ったものにしようと苦しみながら、日本人とキリスト教という非常に困難なテーマを、自分の文学活動の基軸にすえて、数々の優れた作品を発表してきました。

遠藤周作の作品はだいたい読んでますが、深く心に残る作品は「沈黙」と、亡くなる2年前に発表した「深い河」です。個人的には、「沈黙」は遠藤文学の真髄だと思っていますし、「深い河」は遠藤文学の集大成だと思っています。

スペイン、ポルトガルに旅をして、「沈黙」の主人公たちの生涯に思いを馳せたように、「深い河」を読み、インドへ旅を思い立ちました。

目的地はベナレス(地元の言葉ではヴァーラーナスィ)でしたが、せっかくインドに行くので名所旧跡見学も旅程に入れました。旅行業者としてのプロ意識と言えば格好がいいのですが、事実はただ見たかっただけです。

事前準備として、インドに関するいろいろな本を読むうちに、同じアジアの国とはいいながら、自分のインドについての知識が非常に浅薄であることを自覚しました。

そして、インドが自分の属するアジアの文化圏の中で、なにか異質な文化圏と重なり合っているような印象をもちました。この印象は現場に行って見て、間違っていないことが分かりました。

インドに詳しい人のアドバイスに従い、デリーの空港から予約しておいたホテルへはタクシーを使わず、ホテルの車による送迎サービスを頼んでおきました。

Rを強く発音するインド人独特の英語で質問してくる係官に何とか答えてパスポートコントロールを通り、ターンテーブルからスーツケースを受け取って外にでました。

出たところで待っていた若いインド人が、「ミストル カントーですか」と言うので、「そうです」と答えると、「ようこそインドへ。車はこちらです」といって、私のスーツケースをもってすたすたと歩き始めました。

最初は、てっきりホテルの迎えの人だと思いました。しかし、ホテルの予約確認シートに、「お出迎えのドライバーはホテルの制服を着て参ります」とあったのを思い出しました。

「ちょっと、ちょっと、あんたどこのホテルの人なの?」

「ミストル カントーの行かれるホテルへご案内します」

「だから、どこのホテルなのよ」

「OOホテルです」

といった会話をしてるうちに、自分が泊まるはずのホテルの制服を着たドライバーが、私の名前を記したネームボードを持って立っているのが見えました。

私はいんちきドライバーから、あわてて荷物を取り返しました。

ホテルのドライバーの話によると、空港にはこの手のいんちきドライバーが沢山いるそうです。彼らの手口は、まず正式な出迎えドライバーのネームボードを見て、到着するお客の名前やホテル名を覚え、出口でいち早く客をかっさらってしまうのだそうです。そして、法外な料金をせしめるというわけです。

外国の空港に初めて降り立って、自分の名前やホテル名まで言われたら、案外コロッと行ってしまう人がいてもおかしくはないとおもいます。

現に、私も危うく連れて行かれるところでしたから。

インド到着早々に、いい経験をさせてもらいました。

こういうのは、騙される方が悪いと思えばいいのです。暴力や生命の問題がからまない限り、お金を余分に取られるぐらいは仕方がないでしょう。いんちきドライバーが、ふんだくった金で、我が子に玩具の一つも買ってあげたかも知れません。

なんて、悟った風なことを言いますが、もし自分がいんちきドライバーに引っかかっていたら、さぞ悔しい思いをしたことでしょう。これでも旅行代理店をやっていますので。

インドに来てこれを見ないで帰るのは、ブリュッセルに来てグランプラスと小便小僧を見ないで帰るのに等しいタージ.マハルは、デリーから電車で2時間ほど南東に行ったアグラにあります。

デリーの駅前でホテルから乗って来たタクシーを降りると、わっと人が寄って来ます。ポーターが寄って来るのは当然としても、中に、電車の切符売り場に案内してあげると

いう輩がいます。こういう輩の後をついて行ったら大変です。

彼らとグルになっている代理店に連れて行かれ、法外な値段のチケットを買わされたり、事故があって電車は不通だから車で行くしかないなどと車を押し付けられたり、とんでもないことになります。

電車の中では、前に座っていたインド人の男性が置き引きにあいました。網棚に置いた荷物が忽然と消えてしまったのです。網棚は自分の場所から良く見える場所なのですが、全く気が付きませんでした。

タージ.マハルの前に立った時、“なんだ写真と同じじゃないか”などと、バカみたいな考えが頭をよぎりました。

何故こんな思いが浮かんだのかを考えてみると、これほどくっきりと鮮烈な印象を人々に与える遺跡は、世界中に余りないからだろうと思いました。

青空をバックに白亜の大理石をまとった廟は、あくまでも鮮やかに、そして高貴な姿で立っています。それは強烈な美しさとでもいうのでしょうか。

タージ.マハルを見て初めて見た気がしないのは、それが余りにも美しく、印象が強烈であるため、インドに関する本を開けば必ず出てくる写真が、頭の中にしっかりと刻み込まれているせいかも知れません。

インド旅行のハイライトとして行ったベナレスでは、体調をくずしてしまいました。

今までどこに行こうと、下痢で有名なエジプトで生野菜をバリバリ食べようと、下痢になどかかったことがなかったのに、ベナレスではやられてしまいました。

生ものを避け、ホテルでしか食事をしなかったのにやられたのは、ベナレスの余りにも強烈な姿を見たがゆえの、神経性の下痢だったのかも知れません。

ベナレスはヒンズー教徒の人々の一大聖地です。

しかしベナレスの町は、聖なる場所の厳かさや清らかさから最もかけ離れた、無秩序と猥雑と喧騒に満ちた町でした。

道には人と牛とロバと車とリキシャといツクツク(原動機付きのリキシャ)が溢れ、巨大な埃の渦の中を無秩序に流れています。

ヒンズー教徒はベナレスの町を流れるガンジス河(聖なるガンガ)で沐浴をし、死後は灰となってガンジス河に帰ることを終生の願いとしています。

聖なるガンガのほとりに設けられた沐浴場や火葬場をガートといいます。それぞれに名前がついていて、全部で60いくつあるそうです。

ホテルから有名なガートまでちょっとあるので、リキシャに乗りました。リキシャの車夫はみんな痩せていて、乗るのが気の毒なほどでしたが、乗ってあげないと彼は1ルピーも稼げないので、乗ってあげた方がいいのです。勿論、値段交渉をしてからです。

ガートの近くで降りると、物売り、みやげ物屋、自称ガイドなどにわっと取り囲まれます。自称ガイドの一人が、火葬場が一番良く見える場所に連れて行ってあげると言うので、かれの後をついていきました。

ベナレスには日本からの団体旅行も来ていますが、火葬場を直接見るのは刺激が強すぎるので、ガンジス河から船で見るのが普通のようです。

自称ガイドの言ったことは正しくて、すぐ下に火葬場が見える場所に連れて行ってくれました。

地面に薪を組み上げた場所で、いくつかの遺体が同時に焼かれていました。その間に、新しい遺体が次から次に運び込まれてきます。

生と死が余りにもあっけらかんと同居している現実を目の前にすると、下手な感傷など湧いてきません。聖と俗が混沌と同居しています。

火が回るにつれて、布に包まれていた遺体の形が見えてきます。火の回りをよくする為なのか、時々青竹で薪や遺体の場所を変える人がいます。この人が、まだはっきりと形の判る遺体を青竹で突き刺して裏返しにしようとした時、頭蓋骨の辺からぼうっと炎が舞い上がりました。さすがに目を背けたくなりましたが、その炎が亡くなった人のこの世での苦しみや怨念を運び去ってくれることを祈りました。

一方では、灰となった遺体がガンジス河に撒かれています。その横で人々が沐浴をしていますが、水はどう見ても泥水に近い状態で、私など足を入れることさえ躊躇すると思います。

さらにその横では、運び込まれた新しい遺体が、焼かれる前の最後の沐浴でガンジス川に浸されています。

夕暮れが近づいて来た聖なるガンガと遺体を焼く炎を見ながら、私は「深い河」の登場人物たちのことを考えていました。この場に一番ふさわしい人物は、やっぱりあの落ちこぼれのカトリック神父、大津だろうと思いました。

大津は神父でありながら、ガンガにたどり着く前に野垂れ死にしてしまう最も貧しく、最も辛い生涯をおくってきたアウトカーストの人の遺体を、ヒンズー教徒と一緒になって火葬場へ運ぶ仕事をしています。

大津こそ、遠藤周作が描くイエスの像を体現している小説の主人公なのでした。

ガートから戻った晩に、激しい下痢に襲われました。

しかし不思議なことに、ベルギーへ戻る飛行機に乗ったとたんに、下痢はぴたりと治まったのです。ベルギーというヨーロッパの国にこれだけ長く住んでいると、心身共にヨーロッパ的になっているのかも知れません。

そういえば、最近鏡を見るたびに、鼻が高くなってきているような気がしますが、気のせいでしょうか。  

No.113.ミシュラン騒動顛末の記

No.113.ミシュラン騒動顛末の記



この騒ぎは日本人会報2月号の印刷が終わった頃に起きましたので、ちょっと新鮮さに欠けるかもしれませんが、我慢してください。

皆さんはグルメガイドブック「ミシュラン」の名前を、聞いたことがあると思います。
フランスのタイヤメーカー、Michelin社は2種類のガイドブックを発行しています。
一つはグリーンの表紙で細長い形のガイドブックです。これは各国の都市や名所、旧跡を紹介した文字通りのガイドブックで、日本語訳もあると聞いています。
もう一つが赤い表紙のミシュランで、ホテルとレストランを紹介しています。こちらが、あの有名な一つ星、二つ星、三つ星のレストラン格付けをしている方です。

ミシュランのこの格付けに対して、いろいろな見方はありますが、星がつくのとつかないのとでは、世間の評価に大きな違いがあるのは否定できない事実です。
星がついたレストランは、売上が20~30%伸びるといわれてます。
星を取られたために自殺をするシェッフが出るぐらい、社会的影響が大きい格付けなのです。
従って、ミシュラン側も十分な調査と入念なデータを揃えた上で、レストランの格付けをすると言われています。
該当のレストランには、複数の覆面審査員が何度か足を運んで食事をして、評価やデータを作るのだそうです。

毎年1月末から2月始めにかけて、その年の赤表紙ミシュランが発売されます。
この時期は、すでに星がついているレストランや、もしかして星がつくかもしれないと言われているレストランのオーナーやシェッフたちはどきどきしながらミシュランの発売を待っています。

今年は1月25日(火)付けの地元各紙が、翌1月26日(水)発売予定のミシュラン2005年版の内容を報じました。
その中のビッグニュースは、絶えて久しかったベルギー3番目の三星レストランの誕生でした。
めでたく三つ目の星を獲得したのは、ゲントとコートレイクの間のKruishoutemにある“Hof Van Cleve”というレストランです。
シェッフのピーテル ゴーセンスさんは、ベルギーが誇る優れた料理人として有名な人です。そして彼のレストラン“Hof Van Cleve”は、次の三星レストラン候補の下馬評に、かなり前からあがっていました。
事実、ミシュラン以外のゴエミヨなどの有名グルメガイドは、以前から“Hof Van Cleve”に最高点をつけていました。

その他のニュースとして、ブリュッセル地区に限っていえば2年前に一つ星を取ったアンデルレヒトの“La Brouette”が星を失い、代わってブリュッセル郊外のHuizingen(花のきれいな公園で有名)にある”Terborght”が初めて一つ星を取りました。
私の記憶に間違いがなければ、新しく星付きレストランになった“Terborght”は、ブリュッセルのレストラン”Inada”のオーナーシェッフである稲田さんが、若い頃に腕をふるっていたレストランだったと思います。

ここまでは2005年版ミシュランの内容紹介として平穏無事だったのですが、地元紙“Le Soir”の記者が新版ミシュランの中のある事実に気付き、紙上でミシュランに噛み付いたことから騒ぎが始まりました。
騒ぎの元は、オステンドのカジノの中にできた新しいレストラン“Ostend Queen”
でした。
このレストランは今年の1月早々に開店しましたが、計画の段階から鳴り物入りで騒がれていたレストランです。
何故なら、新レストランの料理の指導はブリュッセルの超有名三つ星レストラン“Comme Chez Soi”のシェッフ、ピエール ウィナンさんが担当することになっていたからです。
さらに、内装のデザインを担当するのが、ブリュッセルの“Belga Queen”の内装を担当したアントワン ピントさんなのですから、話題にならない方がおかしいレストランだったのです。

ルソワール紙がミシュランに噛みついた理由は次の通りです。
2005年版ミシュランはオステンドの新レストラン“オステンドクイーン”に、フォーク印し二つとビブ グルマン(Bib Gourmand)の印しをつけている。
オステンド クイーンが開店したのは、今年の1月第一週である。ところが、2005年版ミシュランの原稿が印刷に回ったのは、2004年11月末である。
ミシュランの審査員は、工事中のレストランを見て、料理の質やサービス、店のつくりその他を審査したことになる。如何にして可能なりや?

ちょっと説明しますと、ミシュランのレストラン評価には二種類あります。
一つは、あの有名な一つ星、二つ星、三つ星の格付けです。もう一つがビブ グルマンの印しです。これは料理の質が良くて、値段が30~40ユーロぐらいの優良レストランに付けられます。
皆さんもミシュランの本を開いてみればすぐに見つかりますが、ミシュランのタイヤのマスコットの顔の部分が印しになっています。
星付きまではいかなくても、ビブ グルマンの印しが付けば、顧客の信用が増し、売上げが伸びますので、レストランとしては大変有難い印しなのです。
フォークの数は店の造りや内装のデラックス度を表します。これは、星の有無、ビブ
グルマン印しに関係なく、ミシュランに掲載される全てのレストランに付いています。

それでは、何故ミシュランの審査員は見てもいない、食べてもいないレストランにビブ グルマンの印しをつけたのでしょうか。
簡単に言えば、コムシェソワのピエール ウィナンさんの名前に惑わされたからです。ウィナンがやるのだから間違いなかろうという、ミシュランの審査員としては絶対に許されない偏見に陥ってしまったのです。

この事件でグルメガイドミシュランの権威並びに評価の客観性が、大きく傷つくことになったのは当然のことです。
「なんだ、ミシュランも結構いい加減じゃないか」といった評判が広まるのは、ミシュランのレストラン格付けの終末を意味します。
今回の騒ぎに星付きの問題はからんでいませんが、ミシュランの評価に疑問を抱かせる点では同根と言えるでしょう。

ミシュラン側の反応は迅速でした。
発売日の翌日、1月27日(木)にフランスのクレルモンフェランにあるミシュラン本社は次のような声明を発表しました。
「1月26日に発売されたミシュラン、ベネルックス編、2005年版は直ちに書店より回収の上、破棄処分とし、2ヵ月後に同版を再発行する」
ということで、ベネルックス3国の書店にあった5万部のあの赤い表紙のミシュランガイドブックは、僅か1日で店頭から姿を消すことになりました。
金額にすれば、1部が23.30ユーロですから5万部で計1,165,000ユーロということになります。原価はもっと安いでしょうけれど、再発行の経費も考えれば、ミシュランに取ってはかなりの損失になるはずです。
しかしミシュランの権威を守るためには、これは必要不可欠の措置だったと思います。
これだけのことをやっても、今度の事件でミシュランの権威はかなりのダメージを受けたことは間違いありません。

27日(木)の昼休みに読んだ地元紙で、ミシュランガイドブック回収の記事を読み、私は直ちに会社の近くの本屋に駆けつけました。回収の上、破棄処分の運命にある本を買うためです。
もうないかなと、半分諦めて行ったのですが、店頭にはまだ5冊ほど残っていました。
店のご主人に、「これ、店頭に置いててもいいんですか」と聞くと、「店頭から引っ込めろという指示も来ないし、まだ取りに来ないんだからしょうがないでしょう。それにこの騒ぎで売れゆきがいいのよ。今朝からもう10部以上売れたからね」と、ホクホク顔でした。
私は運よく、将来稀少本になるかもしれない因縁のミシュラン2005版を入手できました。さっそくOstendのページを開いてみると、レストラン“Ostend Queen“の所にフォーク印しが二つと、ビブ グルマンの印しが堂々とついていました。

さて、肝心のレストラン“Ostend Queen”はどうなのでしょうか。
こちらはなんと、笑いが止まらないほどの大繁盛ぶりなのです。ミシュラン騒ぎが新聞やテレビに出たとたんに予約が殺到し、昼だけで30人から40人ものお客を断る状態が続いているそうです。
もっともこのレストランは、準備の段階からあれだけ話題になっていましたので、最初から成功が約束されていたようなものです。
なにしろ、メニューつくりから料理の指導までをウィナンさんがやり、内装がピントさんで、値段が手ごろとくれば、誰でも行ってみたくなるのは当たり前です。
私も行ってみたいのですが、夜の予約は当分無理ということで、ほとぼりがさめた夏ごろにしようかと思っています。

ブリュッセルの地元紙の記者二人がオステンド クイーンの取材をしようと予約の電話をしましたが、全然つながりません。ぶっつけ本番で、オステンドまで車を飛ばしてレストランに行ってみました。
勿論、満席で断られましたが、かなり待ってやっとランチにありつくことが出来ました。結果は上々でした。
料理、サービス、内装、値段などミシュランの優良店マーク、「ビブ グルマン」をつけるのになんの問題もないというのが、記者たちの結論でした。

Michelin Benelux編集部は今回大失態をやりました。フランスの本社から厳しい処分が下されることは間違いないでしょう。ホテル業界出身のベルギー人編集長のクビが飛ぶかもしれません。
ミシュランのレストラン格付けへの信頼が、昔ほどではなくなる危険もあります。
これはあくまでも私の個人的見解ですが、ここ数年、ミシュランの先代社長が引退して現社長に編集の権限が移ってから、レストランの格付けには納得のいかない部分が増えているような気がします。
新しいやり方として、街角のおいしいレストランに星をつけるのはいいことだと思ってますが、「この程度の料理なら星無しレストランでいくらでも食べられるのに」的な星つきはおかしいと思います。
こういう場合、私はせん越ながらMichelinに手紙を書きます。すると「次回の参考にさせて頂きます」という丁重な返事がきます。
しかしそれらのレストランには依然として星がついています。

格付けといのは難しいものだと思いますが、家庭でも格付けをしたらどうでしょうか。
一つ星お父さん、三つ星お母さんなんて、楽しいかもしれませんよ。
お父さんは、お母さんとの結婚記念日や、子供達の誕生日を絶対に忘れずにプレゼントをしてくれるので星をあげるとか、お母さんは甘いものをセーブできず、三段腹になったので星を取るとか......。           

No.114.結婚と契約

No.114.結婚と契約


わたしたちの住んでいるヨーロッパは、よく契約の社会と言われます。
だいたいヨーロッパは、旧約とか新約とかいって、神様からして人間と契約を結ぶ宗教が、世の中を律してきた所です。

皆さんのなかで、結婚の経験のある方、或いはいまだに結婚している方は、結婚の時契約をしましたか?あるいは、これから結婚しようとしている方、契約について考えたことがありますか?
結婚の契約といっても、「太郎と花子は下記の契約に基づき、結婚するものである」とかいった書類に、署名 、捺印をしたりするものではありません。

われわれ日本人のメンタリティーからいうと、「結婚」と「契約」の二つの概念は、どうも両立しない感じがします。
結婚という言葉からは、愛や夢、ロマンティックな感情、二人で築く未来への希望、家庭など、なんとなく甘くそして期待を持たせる感じが伝わってきます。
一方、契約という言葉からは、利害関係、義務の履行、“約束破ったら承知しないかんね”的な相互不信の感じが伝わってきます。
従って、結婚をひかえた二人が式場の選択から花嫁、花婿の衣装選び、招待者リストや披露宴の式次第のチェック、新婚旅行の行き先、新居の準備など、やる事が山ほどある時に、「ところでわたしたちの契約は」なんて、二人のうちのどちらかが言い出すことは考えられません。

ところがこちらの人たち、全員ではありませんが大多数の人たちは、結婚が決まると式場や衣装の選択をさしおいて、まず結婚の契約をします。
「結婚の契約」(Contrat de mariage)というのは通称で、正式には「財産分有の契約」(Contrat de separation des biens)といいます。
これは、二人が結婚前に所有していた財産は、結婚後も各自の所有に帰するもので、配偶者相互は相手の結婚前の財産に所有権を主張することはできないし、固有の財産の権利は法的にも保護されるという契約です。
勿論、結婚後の築いた財産は二人の共有財産として、お互いに所有権を主張することができます。但し、遺産の相続は結婚後といえども、相続した配偶者の固有の財産と見なされます。
愛と希望に満ちた結婚とはまるで関係のない契約のように見えますが、これがいろいろと役に立つのです。

もともとこの契約は、ヨーロッパでも社会のある階層以上の人たちの間の結婚に際して結ばれていました。財産のない庶民階層に、この契約はあまり関係ありませんでした。   上流階級の子供たちは結婚前から親の財産を受け継いだり、結婚に際してしかるべき財 産の分与を受けたりして、それぞれがある程度の資産をもって結婚することが多かったようです。

財産分有の契約をするメリットは何でしょうか。
例えば、お父さんが事業に失敗して借金を作ってしまった場合、或いは連帯保証人の判を押したばっかりに、保証した人の負債をしょい込んでしまった場合などの例を見てみましょうか。
当然債権者が取り立てにきます。
でも、この契約がある場合、債権者はお父さんの預金や不動産には手を出せても、お母さん名義の財産には手を出すことが出来ません。一家はお母さんのお陰で、暮らしを続けていくことが出来るのです。勿論、お母さん固有の財産があった場合の話です。
又、亭主が浪費家でしょっちゅう借金を作るため、借金取りの応対に苦しむ奥さんは、水戸黄門の葵の印しの印籠よろしく、この契約書を借金取りに見せて「私のところにくるな、旦那のところに取りにいけ」と、一喝すればいいのです。

皆さん、気をつけてください。
結婚後に負債をしょったからといって、あわててこの契約を結ぼうとしても、それは絶対に認められません。あくまでも結婚前に、公証人の前で契約書にサインをし、収入印紙を貼って正式に登記される必要があります。

私はルーバン大学の学生の時に結婚しましたが、ベルギー人である家内の両親の勧めで財産分有の契約を結びました。
一介の学生である私に財産などある筈がありません。私の財産といえば、同じ寮にいたベトナム人の医学部留学生、タンからもらったガタガタの自転車が唯一の財産でした。
Notaire(公証人)が作った契約書に、重々しく「中古自転車一台」と書いてあったような気がします。

日本に財産分有の契約に関する法律があるのかどうか、不勉強にして知りません。ご存知の方、教えてください。
例え法律があったとしても、日本人の感覚からいって、結婚する当人同志の心理的な抵抗や、社会的な壁があり、実際に契約を結ぶことはかなり難しいのではないでしょうか。
「愛があれば、どんな困難も二人で乗り越えていける」「愛し合って結婚するのに、お金の話をするなんてとんでもない」「結婚前の財産は全部自分のものだなんて、なんという利己主義者、金の亡者なんでしょう」「そんな契約なんて、まるで離婚を前提にしているみたいじゃない」「そんな話をしてごらんなさい。向こうさまがどう思われるか。下手をしたら破談になるわよ」
とまあ、いろいろ言われるでしょうね、日本では。

ベルギーで国際結婚をしている日本女性の方数人に、この契約をしているかどうか尋ねてみましたが、今のところ契約書を交わしている人は一人もいませんでした。
尋ねた方々は全員、契約の存在さえもご存知ありませんでした。それは、契約のことなど考える必要がないほど、幸せな家庭を築いている証拠であり、大変結構なことだと思います。

しかし一方では、この契約をしてなかったが為に、不幸な国際結婚の結末を迎えた例もあります。
国際結婚をしたその日本女性は、結婚当初は幸せな生活をおくっていました。しかし、二人の子供が学校に行き始めた頃から、旦那さんの浪費癖が始まりました。
彼は高級車を買ったり、友達を高級レストランによんで大盤振る舞いをしたり、家計を火の車にしてこれを省みなくなりました。
彼女は旦那さんの借金を全部返してあげてました。
結果的には、彼女の寛大な心が旦那さんの浪費癖を増長させてしまったようです。彼女がどんなに頼んでも彼の浪費癖は止まず、彼女が独身時代に貯めてたお金も、日本の親から貰ったお金も使い果たしてしまいました。
最も悲惨だったのは、日本の親から買ってもらったアパートまで手離す羽目に陥ってしまったことです。
相談を受けた弁護士は、彼女が財産分有の契約をしていたなら、子供たちと自分のアパートで生活を続けられたのにと、残念がったそうです。
結局彼女は離婚によって、旦那さんのつくる借金地獄と債権者の追及から逃れることができました。

ヨーロッパの人たちが財産分有の契約を法的につくった背景には、結婚制度への不信感があったことは否定できないと思います。
「愛があれば」などという結婚の際のロマンティックな感情は、押し寄せる債権者の前では何の役にも立たないことを、こちらの人たちは冷静に見ているかも知れません。
又、結婚する二人の愛が、時間と共に増幅する場合もありますが、その反対もあり得るという事実をきちんと弁えているのでしょう。

ベルギーは、EU加盟国の中で離婚率の高い国として有名です。
昨年出た統計をご参考までに書いてみます。
まず結婚の件数ですが、2003年にベルギー全体で41,805組が結婚しました。1996年には50,552組が結婚していますから、7年間で8、747件の結婚が減ったことになります。
地域別に見ますと、ブリュッセル地区は結婚件数が増えています。1996年に4,356組が結婚しましたが、2003年にはこれが5、302組になり、1、000件以上増えています。国際機関が多く、住民の移動が多い首都圏の数字なので、ベルギー全体の動きとは別なのかも知れません。
フラマン地区では、1996年に30、228組が結婚しましたが、2003年には23、313組に減っています。
ワロン地区も同じで、1996年に15、968組が結婚しましたが、2003年には13、190組に減っています。

では、離婚件数はどうでしょうか。
2003年のベルギー全体の離婚件数は31、373組でした。単純計算で4組のうち3組は離婚していることになります。
この統計を紹介した当地の新聞が、「ベルギー人は離婚するために、結婚するのか」と、皮肉たっぷりの論評を載せていました。
ブリュセル地区など、2003年に5、620組が離婚していますから、同年の結婚件数、5、302組より方が多いカップルが、破局をむかえたことになります。
フラマン地区の離婚件数は、1966年に14、684件でしたが、2003年には16、386組が離婚しています。
離婚が少ないのがワロン地区で、1966年に9、426件あった離婚が、2003年には9、367件に減っています。

こうして数字を見てますと、ブリュッセル地区の人たちはどんどん結婚してどんどん離婚する傾向が見られます。
フラマン地区では、人々は結婚しなくなっているけれど、離婚は増えていることが分かります。
ワロン地区では結婚も離婚も減少気味で、現状維持というところでしょうか。

確かに、結婚しない人たちが増えているのは事実です。
ただこの場合の結婚というのは、法律上の結婚をしたカップルのことで、事実上の結婚生活をしていても、法的に独身同志のカップルは統計には出てきません。
皆さんの身近にも、結婚せずにパートナーと一緒の住んでいる人は沢山いると思います。中には、子供がいて家も建てて完全な家族を構成しているのに、法的には結婚してない人たちも結構います。

これだけ離婚が多いと、財産分有の契約がますます大事になってくると思いませんか。
「愛があれば」から「お金があれば」へと心が変わっていくのは、悲しいことかも知れませんが、神ならぬ身の人の心の現実であることも事実です。

でもお父さん、契約をしていないからといって、お母さん固有の財産に手を出したりしてはいけませんよ。
お母さん固有の財産ですか? 勿論、ヘソクリですよ。 

No.114.結婚と契約

No.114.結婚と契約



わたしたちの住んでいるヨーロッパは、よく契約の社会と言われます。
だいたいヨーロッパは、旧約とか新約とかいって、神様からして人間と契約を結ぶ宗教が、世の中を律してきた所です。

皆さんのなかで、結婚の経験のある方、或いはいまだに結婚している方は、結婚の時契約をしましたか?あるいは、これから結婚しようとしている方、契約について考えたことがありますか?
結婚の契約といっても、「太郎と花子は下記の契約に基づき、結婚するものである」とかいった書類に、署名 、捺印をしたりするものではありません。

われわれ日本人のメンタリティーからいうと、「結婚」と「契約」の二つの概念は、どうも両立しない感じがします。
結婚という言葉からは、愛や夢、ロマンティックな感情、二人で築く未来への希望、家庭など、なんとなく甘くそして期待を持たせる感じが伝わってきます。
一方、契約という言葉からは、利害関係、義務の履行、“約束破ったら承知しないかんね”的な相互不信の感じが伝わってきます。
従って、結婚をひかえた二人が式場の選択から花嫁、花婿の衣装選び、招待者リストや披露宴の式次第のチェック、新婚旅行の行き先、新居の準備など、やる事が山ほどある時に、「ところでわたしたちの契約は」なんて、二人のうちのどちらかが言い出すことは考えられません。

ところがこちらの人たち、全員ではありませんが大多数の人たちは、結婚が決まると式場や衣装の選択をさしおいて、まず結婚の契約をします。
「結婚の契約」(Contrat de mariage)というのは通称で、正式には「財産分有の契約」(Contrat de separation des biens)といいます。
これは、二人が結婚前に所有していた財産は、結婚後も各自の所有に帰するもので、配偶者相互は相手の結婚前の財産に所有権を主張することはできないし、固有の財産の権利は法的にも保護されるという契約です。
勿論、結婚後の築いた財産は二人の共有財産として、お互いに所有権を主張することができます。但し、遺産の相続は結婚後といえども、相続した配偶者の固有の財産と見なされます。
愛と希望に満ちた結婚とはまるで関係のない契約のように見えますが、これがいろいろと役に立つのです。

もともとこの契約は、ヨーロッパでも社会のある階層以上の人たちの間の結婚に際して結ばれていました。財産のない庶民階層に、この契約はあまり関係ありませんでした。   上流階級の子供たちは結婚前から親の財産を受け継いだり、結婚に際してしかるべき財 産の分与を受けたりして、それぞれがある程度の資産をもって結婚することが多かったようです。

財産分有の契約をするメリットは何でしょうか。
例えば、お父さんが事業に失敗して借金を作ってしまった場合、或いは連帯保証人の判を押したばっかりに、保証した人の負債をしょい込んでしまった場合などの例を見てみましょうか。
当然債権者が取り立てにきます。
でも、この契約がある場合、債権者はお父さんの預金や不動産には手を出せても、お母さん名義の財産には手を出すことが出来ません。一家はお母さんのお陰で、暮らしを続けていくことが出来るのです。勿論、お母さん固有の財産があった場合の話です。
又、亭主が浪費家でしょっちゅう借金を作るため、借金取りの応対に苦しむ奥さんは、水戸黄門の葵の印しの印籠よろしく、この契約書を借金取りに見せて「私のところにくるな、旦那のところに取りにいけ」と、一喝すればいいのです。

皆さん、気をつけてください。
結婚後に負債をしょったからといって、あわててこの契約を結ぼうとしても、それは絶対に認められません。あくまでも結婚前に、公証人の前で契約書にサインをし、収入印紙を貼って正式に登記される必要があります。

私はルーバン大学の学生の時に結婚しましたが、ベルギー人である家内の両親の勧めで財産分有の契約を結びました。
一介の学生である私に財産などある筈がありません。私の財産といえば、同じ寮にいたベトナム人の医学部留学生、タンからもらったガタガタの自転車が唯一の財産でした。
Notaire(公証人)が作った契約書に、重々しく「中古自転車一台」と書いてあったような気がします。

日本に財産分有の契約に関する法律があるのかどうか、不勉強にして知りません。ご存知の方、教えてください。
例え法律があったとしても、日本人の感覚からいって、結婚する当人同志の心理的な抵抗や、社会的な壁があり、実際に契約を結ぶことはかなり難しいのではないでしょうか。
「愛があれば、どんな困難も二人で乗り越えていける」「愛し合って結婚するのに、お金の話をするなんてとんでもない」「結婚前の財産は全部自分のものだなんて、なんという利己主義者、金の亡者なんでしょう」「そんな契約なんて、まるで離婚を前提にしているみたいじゃない」「そんな話をしてごらんなさい。向こうさまがどう思われるか。下手をしたら破談になるわよ」
とまあ、いろいろ言われるでしょうね、日本では。

ベルギーで国際結婚をしている日本女性の方数人に、この契約をしているかどうか尋ねてみましたが、今のところ契約書を交わしている人は一人もいませんでした。
尋ねた方々は全員、契約の存在さえもご存知ありませんでした。それは、契約のことなど考える必要がないほど、幸せな家庭を築いている証拠であり、大変結構なことだと思います。

しかし一方では、この契約をしてなかったが為に、不幸な国際結婚の結末を迎えた例もあります。
国際結婚をしたその日本女性は、結婚当初は幸せな生活をおくっていました。しかし、二人の子供が学校に行き始めた頃から、旦那さんの浪費癖が始まりました。
彼は高級車を買ったり、友達を高級レストランによんで大盤振る舞いをしたり、家計を火の車にしてこれを省みなくなりました。
彼女は旦那さんの借金を全部返してあげてました。
結果的には、彼女の寛大な心が旦那さんの浪費癖を増長させてしまったようです。彼女がどんなに頼んでも彼の浪費癖は止まず、彼女が独身時代に貯めてたお金も、日本の親から貰ったお金も使い果たしてしまいました。
最も悲惨だったのは、日本の親から買ってもらったアパートまで手離す羽目に陥ってしまったことです。
相談を受けた弁護士は、彼女が財産分有の契約をしていたなら、子供たちと自分のアパートで生活を続けられたのにと、残念がったそうです。
結局彼女は離婚によって、旦那さんのつくる借金地獄と債権者の追及から逃れることができました。

ヨーロッパの人たちが財産分有の契約を法的につくった背景には、結婚制度への不信感があったことは否定できないと思います。
「愛があれば」などという結婚の際のロマンティックな感情は、押し寄せる債権者の前では何の役にも立たないことを、こちらの人たちは冷静に見ているかも知れません。
又、結婚する二人の愛が、時間と共に増幅する場合もありますが、その反対もあり得るという事実をきちんと弁えているのでしょう。

ベルギーは、EU加盟国の中で離婚率の高い国として有名です。
昨年出た統計をご参考までに書いてみます。
まず結婚の件数ですが、2003年にベルギー全体で41,805組が結婚しました。1996年には50,552組が結婚していますから、7年間で8、747件の結婚が減ったことになります。
地域別に見ますと、ブリュッセル地区は結婚件数が増えています。1996年に4,356組が結婚しましたが、2003年にはこれが5、302組になり、1、000件以上増えています。国際機関が多く、住民の移動が多い首都圏の数字なので、ベルギー全体の動きとは別なのかも知れません。
フラマン地区では、1996年に30、228組が結婚しましたが、2003年には23、313組に減っています。
ワロン地区も同じで、1996年に15、968組が結婚しましたが、2003年には13、190組に減っています。

では、離婚件数はどうでしょうか。
2003年のベルギー全体の離婚件数は31、373組でした。単純計算で4組のうち3組は離婚していることになります。
この統計を紹介した当地の新聞が、「ベルギー人は離婚するために、結婚するのか」と、皮肉たっぷりの論評を載せていました。
ブリュセル地区など、2003年に5、620組が離婚していますから、同年の結婚件数、5、302組より方が多いカップルが、破局をむかえたことになります。
フラマン地区の離婚件数は、1966年に14、684件でしたが、2003年には16、386組が離婚しています。
離婚が少ないのがワロン地区で、1966年に9、426件あった離婚が、2003年には9、367件に減っています。

こうして数字を見てますと、ブリュッセル地区の人たちはどんどん結婚してどんどん離婚する傾向が見られます。
フラマン地区では、人々は結婚しなくなっているけれど、離婚は増えていることが分かります。
ワロン地区では結婚も離婚も減少気味で、現状維持というところでしょうか。

確かに、結婚しない人たちが増えているのは事実です。
ただこの場合の結婚というのは、法律上の結婚をしたカップルのことで、事実上の結婚生活をしていても、法的に独身同志のカップルは統計には出てきません。
皆さんの身近にも、結婚せずにパートナーと一緒の住んでいる人は沢山いると思います。中には、子供がいて家も建てて完全な家族を構成しているのに、法的には結婚してない人たちも結構います。

これだけ離婚が多いと、財産分有の契約がますます大事になってくると思いませんか。
「愛があれば」から「お金があれば」へと心が変わっていくのは、悲しいことかも知れませんが、神ならぬ身の人の心の現実であることも事実です。

でもお父さん、契約をしていないからといって、お母さん固有の財産に手を出したりしてはいけませんよ。
お母さん固有の財産ですか? 勿論、ヘソクリですよ。     

No.115.レモンの野望

No.115.レモンの野望



誰が言い出したのか、最近レモンに驕りが見られるという。レモンが調子にのっているという。あの黄色い顔をさらに黄色くして、「文句あっか」という態度をとるレモンが増えているという。

原因は分かっているのです。
われわれがレモンに頼り過ぎるからなのです。やたらとレモンを使い過ぎるからなのです。“爽やか”というイメージに追随して、レモンを甘やかし過ぎたのです。
今やレモンは、輪切り、櫛形切り、三日月形切りなど様々な形に姿を変えて、皿小鉢からどんぶり、或いはグラスの中で威張っています。
昔はレモンなどなかった日本料理の中でも、刺身の間に入り込んだり、焼き鳥の陰に隠れたり、ちょこまかと姿を見せています。

もとより、レモンの功績を認めないわけではありません。
殻を開けた生牡蠣に、レモンを軽く握って汁を一滴か二滴垂らし、胡椒ミールを手早くまわして胡椒を軽くふってさっと食べる。おいしいです、たしかに。レモンの貢献を認めざるを得ません。
見ていると、レモンの滴を身に受けた生牡蠣が、裸を見られて恥ずかしいのか或いは驚いたのか、身をきゅっと引き締めるように見えますが、錯覚でしょうか。
生牡蠣にレモンなどかけるのは邪道だという人もいますが、わたしはレモンの数滴が生牡蠣の風味を引き立てると思っています。
ま、好みの問題ですから、こんなことで議論をしても仕方がありません。

ヨーロッパの料理や食べ物の世界からレモンを取り去ったら、どうゆうことになるでしょうか。日本料理から醤油や味噌をなくすほどの影響はないにしても、ヨーロッパの料理や食べ物の構図が大きく変わることは、間違いのないところです。

レモンがなかったら、イタリア料理の定番“ピッカータアラリモーネ”(小牛のヒレ肉のレモンソース)は姿を消さざるを得ないでしょう。“オッソ ブッコ“の下味に、レモンが使えなくなったら,シェッフはさぞかし困ることでしょう。
一流のバーテンダーでも、カクテルを作る際に、今後レモンを使ってはならないと言われたら、がっくり落ち込んで鬱になるかも知れません。
カリスマとか何とか言われているパテシエは、レモンタルトをどうやって作るのでしょうか。リヨンのポール ボギューズが世に出したと言われている、クレームブルレ
にもやっぱりレモンが使われているのです。

レモンなしの魚料理は、大幅な方向転換を迫られるでしょう。
又、イタリア、スペイン、ギリシャ、或いは北アフリカなどの、地中海沿岸諸国の料理にも甚大な影響が出るはずです。モロッコ料理のタジンには皮つきのレモンが入ってますから、レモンがなかったらシェッフのアブデルは頭をかかえることでしょう。

ベルギーの名物料理にも、密かにレモンの支配が及んでいます。
牛肉のビール煮込み「カルボナードフラマン」や、ウナギのグリーンソース「アンギーオヴェール」のレシピには、ちゃんとレモンが入っています。
ウサギの料理もベルギーの名物ですが、有名なウサギのグーズビール煮込み「ラパンアラグーズ」の他に、ウサギのレモン風味「ラパンオシトロン」まであります。

食前酒から始まって、付き出し、前菜、メイン、デザート、食後のプスカフェまでをざっと見ただけで、レモンの支配が如何に強固なものであるか、目を見張るものがあります。千 や二千の種類ではきかないでしょう。

ところで、レモンはいつ頃からヨーロッパの料理や飲み物の世界に、勢力を伸ばし始めたのでしょうか。
レモンの原産地はインドとされていますが、古くからヨーロッパに伝わり、地中海地方を中心に栽培されてきました。レモンは地元の人々の飲み物や料理に使われる程度で、地中海地方の外に出ることはありませんでした。
これが一躍全ヨーロッパ的な広がりを見せるに至った契機は、シトー会修道院のお陰と言われています。
シトー会修道院は12世紀にフランスのシトーの荒地に創設された修道院です。日本では北海道のトラピスト修道院がシトー会の修道院です。
シトー会修道院が飛躍的発展を遂げて、全ヨーロッパに広まったのは、なんといっても12世紀ヨーロッパの最も傑出した人物と言われている、聖ベルナールの超人的活動によるものでした。
今は亡き中世史の権威、橋口倫介先生によれば、聖ベルナールは「名門貴族の出身で、天才的な頭脳に恵まれ、領主にしても学者にしても、司教になっても最高の栄誉をつかみ得る人材でありながら、当時新設の革新的シトー修道会に一族30余人の青年をひきつれて入会し、荒野を耕す修道士の仲間となった」のです。
聖ベルナールは後にヨーロッパの宗教界はもとより、政治、社会、軍事などのあらゆり分野に計り知れない影響力を及ぼすことになるのですが、今回はレモンの話ですので
おいておきましょう。

 厳格な規律のもとに修道生活をおくるシトー会の修道士は、蛋白源として肉よりも魚を食べていました。肉食は情欲を押さえるのによくないと、考えられていたからです。
川の近くに建てられた修道院には、川の水が引き込まれ、水車を回して粉引きの動力となったり、養魚場に豊かな水を供給していました。
修道士たちが食べた魚は鱒が多かったようですが、これにレモン汁を垂らして風味をよくする食べ方がシトー会修道院から始まり、あっという間にヨーロッパ中に広まったと言われています。
教皇、帝王、領主、高位聖職者から奴隷、盗賊にまで助言を求められたといわれる聖ベルナールは、ヨーロッパ中を東奔西走の旅しましたので、どこかでレモンの使い方を見て、これを修道士たちに教えたのかも知れません。

ヨーロッパの有名なワイン、ビール、リキュールは修道院から作り出されたものが沢山あります。タストヴァンで有名なボーヌのワインは、修道院が運営する施療院の経費をまかなうために始められました。ビール王国ベルギーの五大トラピストビールは、名前が示す通りトラピスト修道院で醸造されています。
甘い食後酒のベネディクティンや薬草入りのシャルトル-ズなど、修道士さんたちの努力の賜物が現代のヨーロッパの食の文化の中にしっかりと根付いています。

フランス語の言い回しの中に、緻密で根気のいる仕事を“Travail de Benedictin”(ベネディクト会士的仕事)というのがあります。
修道士の人たちは、神様が与えてくださった材料を使って、どうすればいいワインやビールが出来るのか、或いは素材を生かしたおいしい料理が出来るのかを、厳しい修道生活の中で根気よく探し続けてきました。それは修道生活に反することではなく、神様を称える業でもあったのです。
レモンを使った料理のレシピの中には、修道院製のものがかなりあるはずです。
レモンは自分たちだけの力で、今日の地位を築いたと思ったら大間違いなのです。聖ベルナール様や、シトー会修道院に足を向けては寝れないはずです。
黄色い顔を少しは赤らめて、反省の表情を見せて欲しいところです。

食の世界におけるレモンの圧倒的な支配は、これを認めざるを得ません。
しかしレモンは今や、食の世界ばかりではなく、まるで関係のないと思われる分野にまで存在感を示そうとしている事実に、皆さんは気付いておられますか。

その分野とは、なんと自動車産業の世界なのです。
フランス車の中に、堂々と「レモン」を名乗っている車があるのです。そうです、あの「シトロエン」です。
「CITROEN]こそ何を隠そう、オランダ語のレモンなのです。私はこの事実に気がついた時、レモンたちの野望の底知れなさに思わず身震いがしました。

シトロエンの歴史は、1919年にAndre Citroen(eの上にウムラートがつきます)が,ヨーロッパでは初めて流れ作業形式の自動車工場を作った時に始まります。
アンドレ シトロエンのお父さんはパリの宝石商、お母さんはポーランド移民で、二人ともユダヤ人でした。アンドレが6歳の時、お父さんが破産をして自殺をしてしまいます。
成人したアンドレは歯車製造の工場を経営したり、第一次大戦中は砲弾を作る工場を経営してました。

シトロエンの名前は、お父さん方の祖先がアムステルダムでレモン売りをしていたことから始まったという説がありますが、確かではありません。
もしこれが本当なら、レモンたちの深遠なる謀略は、恐るべきものと言わざるを得ません。彼らは、アムステルダムのレモン売りの末裔がフランスで自動車産業を興し、レモンの名を冠した車がフランスのみならず、世界中を走り回ることを見越していたことになります。

アンドレ シトロエンはエッフェル塔に25万個の電球をとりつけて、シトロエンの名前を宣伝したり、思い切ったマーケッティングをして会社を軌道に乗せました。
しかしながら彼は賭け事と女性が大好きで、お金は貯めるよりも使う方が得意という、ご先祖さまが見たら卒倒しそうな性格の人で、創業15年目にしてシトロエン社を倒産させてしまうのです。
シトロエンはユダヤ人の青少年を援助する事業にお金を出したり、芸術家を助けたり、いいことにもお金を使ったのですが、一族から見たら、ご先祖さまの伝統を守らない型破り人物だったようです。
倒産したシトロエン社は、最大の債権者であったタイヤメーカーのミシュラン社の手に渡りました。
しかし、ここでもレモンたちの陰謀が又も効を奏するのです。何故なら、ミシュランはシトロエン(レモン)の名前を変えずに、車の生産と販売を続けたからです。
ミシュランはタイヤメーカーとしての名前が確立していたので、シトロエンの名前を敢えて変える必要を認めなかったのでしょうか。

もう一つ、これはレモンたちの陰謀かどうかは定かではないのですが、二つのコンパスを重ねたようなシトロエンのマークは、エルサレムの石工たちの集まりが起源と言われているフリーメーソンのシンボルに似ていると思いませんか。
もし、レモンたちがフリーメーソンと手を結んでいるとしたら、彼らの野望はわたしたちの想像をはるかに越える壮大な規模を持つものと考えざるを得ません。

ミシュランのレストラン調査員を16年間勤めたパスカル レミによれば、フランスの一流シェッフの80%はフリーメーソンの会員だそうです。
となると、シトロエン車のマークの形と料理の世界におけるレモンの圧倒的な存在が、どこかで繋がっている系譜がおぼろげながら見えてくるような気がします。

レモンは今や料理、食品、飲料の世界を手中にし、自動車産業に進出し、化粧品や薬品業界に手をのばしつつあります。
先日も薬屋さんに行ったら、レモンの輪切りがどうどうと印刷されている、アスピリンCの箱が目の前に飾られていました。

お父さん、最近レモンの輪切りを顔中に貼り付けて、じっと横になっているお母さんの姿を見たことはありませんか。
もしお母さんがレモン美顔術のとりこになっているとしたら危険です。レモンのような爽やかさをもってお母さんに接しないと、お父さんはレモンの絞りかすようにポイされる危険があります。気をつけましょう。         

No.116.漁夫の指輪

No.116.漁夫の指輪



ローマ法王、ヨハネ パウロ二世が4月2日に亡くなり、その後継者としてドイツ人のヨゼフ ラッチンガー枢機卿が4月19日に新法王に選出されました。
ラッチンガー枢機卿はベネディクト十六世の名のもとに、法王権のシンボルである漁夫の指輪(最初の法王といわれるキリストの弟子、ペテロが漁夫であった)を受け、265代目の法王に就任しました。

なにしろ、ヨハネ パウロ二世の病状が悪化して危篤が伝えられてから亡くなるまで、そして4月8日の葬儀の模様など、欧米のプレスはカトリック国、プロテスタント国に関係なく、法王並びにバチカン関係のニュース一色でしたから、好むと好まざるとに関わらず、これらのニュースが目に入らざるを得ませんでした。
ベルギーでも、郵便受けに放り込まれるミニコミ紙まで含めて、ありとあらゆるプレスが、ヨハネ パウロ二世の逝去と法王選挙関係の特集記事や特別番組で一杯でした。

私たち日本人にとって、ローマ法王とかバチカンとかは遠い世界の物語かも知れません。
しかし縁あってこのベルギーに住み、キリスト教を長い歴史の中で文化の土台としてきたヨーロッパに居る私たちが、ヨーロッパの歴史に深いつながりのあるローマ法王やバチカンについて、多少の関心を持つのは無駄なことではないと思います。

ヨハネ パウロ二世の逝去によって引き起こされた欧米のプレスや人々の過剰ともいえる反応を、どう見るべきでしょうか。欧米の人々が急に宗教的情熱に目覚めたのでしょうか。答えは否だと思います。
むしろ、欧米の文化や欧米の人々の心の奥深い所に地下水のように流れているキリスト教が、法王の死という出来事によって、表面に噴出してきたと見るのが正しいでしょう。
特に亡くなったヨハネ パウロ二世が、世界の歴史の流れに大きな足跡を残し、史上まれにみる傑出した人物だったことも、大きく影響している筈です。

1978年に在位一ヶ月ちょっとで急死したヨハネ パウロ一世(暗殺の噂が絶えませんが)の後継者として、ポーランドのクラコウ大司教、カロル ウォイチワ枢機卿が選ばれましたが、彼は法王候補の下馬評にのってなかった人でした。
当時のポーランドはワレサ委員長の率いる共産圏初の労働組合「連帯」と、ソ連の後ろ盾を得たジャルゼルスキー将軍の率いる共産党政府が、激しい駆け引きを繰り広げていた時期でした。

455年ぶりのポーランド人法王の登場は、ポーランド共産党政府は勿論、ソ連のブレジネフ書記長に大きな衝撃を与えたと云われています。
昔、スターリンが、バチカンは軍隊を何個師団持ってるのかと真面目に聞いて、自分の無知をさらけ出した話は有名です。
さすがにブレジネフは、カトリック国のポーランドから世界10億のカトリックを
指導する法王が出たことによって、ポーランドの共産党政権が計り知れない影響を受けることを、いち早く見抜いたのでしょう。

その後のポーランドの展開を見れば、ブレジネフ書記長の恐れが正しかったことが分かります。
同法王は法王就任式の演説で、“N’ayez pas peur”(恐れることはないのです)という有名な言葉で、聴衆に語りかけました。
この言葉は、当時のソビエトを中心とした東側共産圏に対する挑戦状と解釈されました。テレビの法王追悼番組でも、この言葉が何度も引用されていました。
法王としてポーランドに里帰りしたヨハネ パウロ二世は、そこでも“恐れることはないのです”と祖国の人々に語りかけ、熱狂的な拍手を浴びたのです。
その後の、「連帯」を中心としたポーランドの民主化への歩み、ソビエトブロックの崩壊へと歴史が動いて行くのは、皆さんご存知の通りです。

これは「ジャッカルの日」を書いたフォーサイスあたりが小説に仕立てると面白いのでしょうが、巷間に云われていることなので書きます。
1981年5月13日、ヨハネ パウロ二世はバチカンのサンピエトロ広場で、トルコ人の狙撃犯、メヘメト アリ アガサに撃たれ瀕死の重傷を負いました。助かったのが
奇跡的といわれたほどの重傷でしたから、アリ アガサの腕はかなりのものだったのでしょう。

 誰が法王暗殺を仕組んだのでしょうか。
巷の説では、ポーランドの情勢から判断して、ヨハネ パウロ二世の影響力がソビエトブロック全体へ及ぶことを恐れたブレジネフ書記長が、KGBに法王暗殺を命じ、KGBがブルガリアの情報機関を使って狙撃犯をサンピエトロ広場に差し向けた、ということになっています。

真偽の程は判りませんが、誰かかが法王を消そうとした事実は、間違いのないところです。その誰かを知っているのは、狙撃犯と法王の二人だけとも云われています。
何故なら、ヨハネ パウロ二世は傷が癒えてからローマの刑務所に狙撃犯のアリ アガサを訪ね、自分の命を奪おうとした彼を赦し、独房で二人きりで何度か話し合っているからです。8ヵ国語を話す法王は通訳を必要としませんでした。

池波正太郎の「仕掛人、藤枝梅安」ではありませんが、殺しの依頼人「起こり」の名前を、アリが法王にもらしたかどうかは誰も知りません。
いずれにしても、現在トルコの刑務所で24年目の服役生活をおくっているアリは、 ヨハネ パウロ二世を霊的な兄弟と呼んですっかり心服しており、同法王の葬儀出席を当局に申請しましたが、却下された由です。

4月8日の法王葬儀に参列した世界の王族や国家元首、首相や大統領等の顔ぶれの豪華さでは、史上類を見ない規模と表されました。

ローマ法王の葬儀に合衆国大統領が出席したのは、アメリカの歴史上初めてのことでした。加えて、ブッシュお父さん大統領とクリントン前大統領も出席しましたのでアメリカから計3人の大統領が出席し、これにライス国務長官も加わるという豪華版でした。
しかもアメリカは、バチカンと外交関係を結んでいない数少ない国なのです。

キリスト教国の王族や政府首脳が出席するのは分かりますが、今回はシリア、イラン、アフガニスタン、エジプト、アルジェリア、モロッコ、ヨルダンなどの回教国の大統領や国王が多数出席したのも、例を見ないことでした。

キューバのカストロ首相は葬儀には来ませんでしたが、ハバナのカテドラルで行われた追悼ミサに例の軍服姿で出席しました。カストロ首相が教会に足を踏み入れたのは、キューバ革命以来初めてのことだそうです。さらに同首相は法王の死を悼んで、国として喪に服することまで宣言しました。
カストロ首相は共産主義者として宗教は認めない人の筈ですが、ヨハネ パウロ二世には世界の指導者として敬意を表したのでしょうか。

シラク仏大統領、シュレーダー独首相、ブレア英首相らが各国首脳と盛んに言葉を交わしている姿や、イランのハタミ大統領が日頃あまり関係の良くないさる国の大統領に何やら耳打ちしている姿がテレビに映っていました。
そこにわが小泉首相がいなかったのは残念でした。

日本政府の儀典には、ローマ法王の葬儀に出席する政府代表の格付けが決められているのでしょうが、世界の歴史を動かした程の指導者の葬儀には、多くの国がしたように、儀典を越えた判断で小泉さんが駆けつけて、各国首脳との弔問外交の場を作ったらよかったのにと思いました。

新法王ベネディクト十六世は、たった3回の投票で選出されました。有力候補ではありましたが異例の早さです。
115人の枢機卿のうち、少なくとも3分の2の77人がラッチンガー枢機卿に投票したことになります。東京大司教の白柳枢機卿とバチカン高官の浜尾枢機卿は誰に票を入れたのでしょうか。

実は、ベルギーのブリュッセル-メヘレン大司教、ダンネルス枢機卿も法王候補の一人でした。
ベルギーでは王族の次といわれる枢機卿の社会的地位から云えば、運転手つきの車に乗って当然なのですが、ちいさなゴルフを自分で運転して何処にでも行くきさくな枢機卿さんです。
温厚で気さくな外見とは裏腹に、同枢機卿はヨハネ パウロ二世が亡くなる2日前に、バチカンの命をおびて北京に飛び、中国政府の副首相や中国愛国教会(共産党政府の御用教会。バチカンは認めていない)の高位聖職者と会談をするなど、重要なミッションをこなす人物でもあります。

もしダンネルス枢機卿が法王に選ばれていれば、マルチノ五世(1417-1438)以来2人目のベルギー人法王が誕生したことになったのですが、残念でした。

フランドルのTieltという町の電気屋さんは、ダンネルス枢機卿が法王に選ばれなくて、ほっとしていることでしょう。
この電気屋さんは、ダンネルス枢機卿が法王に選ばれることを熱烈に願う余り、4月16日に自分の店で買った電気機器を、同枢機卿が法王になったら全部タダにすると宣言しました。
ところがこの日1日で、150,000ユーロも売れてしまいました。こんなに売れるとは思っていなかったので、田舎の電気屋さんは青くなっていたのです。

コンクラーベで法王が決まると、その時の投票用紙がシクスチナ礼拝堂の隅にあるストーブで燃やされ、煙突から白い煙が立ち昇ります。これを見たサンピエトロ広場を埋めた大群集が歓呼の声を挙げ、ローマっ子は広場を目指して走り出すというわけです。
得票数がまとまらないと、投票用紙の上に濡れた藁をのせて火をつけますので黒い煙になります。

新法王は45分以内に枢機卿の服から白の法王服に着替えてバルコニーに姿を現し、法王として初めての祝福を与えます。
バチカンの洋服屋さんは新法王の寸法をとって、そんなに早く洋服を仕立てることが出来るのでしょうか。
勿論出来ません。答えは簡単です。洋服屋さんは法王の逝去と同時に大、中、小3っつのサイズの法王服の仕立てに入り、選挙開始日前に完成させておくのです。
靴屋さんも同じく大、中、小3足の靴を用意します。

ベネディクト十六世がバルコニーに姿を現し、初めての祝福を与えた時、法王服の下に着ているシャツが白ではなく黒だったのが気になりました。シャツが間に合わなかったのでしょうか。

お父さんは結婚式の服を、貸衣装の大中小の中から選びましたか。法王様のように一生着るものではないので、貸衣装で十分でしょう。
しかし結婚指輪は夫権のシンボルです。大事にしないといけません。
間違っても、旅先のホテルの洗面所にカツラや入れ歯と一緒に指輪を忘れてきてはいけません。以後、婦権に対抗できなくなります。  

No.117.ベルギー全部丸かじり(その一)

No.117.ベルギー全部丸かじり(その一)



尊敬する作家、東海林さだおさんの作品の中に、今回刊行された23作目の「ホットドッグの丸かじり」を含め、一連の「丸かじり」シリーズがあります。

東海林さだおさんは「あさって君」その他の作品で、日本を代表する漫画家のひとりですが、私はむしろ、東海林さんの卓越した文章力に深く傾倒するものとして、同氏を作家として尊敬しています。

今月号では、畏れ多くもわが敬愛する文章の師、東海林さだお先生から、タイトルの一部を盗作させて頂き、ベルギーをちょっぴりかじってみようかと思います。

折から夏枯れ、ネタ枯れで困っていますので、ちょっとの間「ベルギー丸かじり」でしのごうかと思っています。

今さらベルギーの人口、地理、歴史、はたまた政治、経済の話をする気はありません。

こういうことは、ベルギー赴任が決まった時、たいていの人が帝国書院の地図帳とか、「地球の歩き方」なんかを引っ張り出して調べている筈です。

ベルギーというと、お天気が悪いと言う人が多いですが、そんなに悪いのでしょうか。ベルギーの国民的スポーツは、降っている雨の間を縫って走るスラロームだという冗談があるぐらい、雨の日が多い国らしいです。

「らしいです」などと、他人ごとのように申して恐縮ですが、私個人としては特に雨の日が多いとは思っていないからです。

ちなみに、この国の年間平均降雨日数は203日だそうです。

一方、東京都内の年間平均降雨日数が100日前後と聞いたことがありますが、これに比べれば確かにベルギーは雨の多い国というべきでしょう。

でもいいじゃないですか。

ベルギーが、都市面積に対する緑地の比率で世界のトップクラスにいれるのは、雨のお陰と考えれば、しとしと降る雨も天の恵みに見えてきませんか。

今や日本でもベルギービールがかなり有名になってきましたが、ベルギーの人たちはどのぐらいお酒を飲むのでしょうか。

ベルギー人一人当たりの年間ビール消費量は96リットル、ワインが23リットル、その他のアルコール飲料が20リットル、水、その他のソフトドリンクが267リットル、という数字が出ています。

15歳以上のベルギー人の12%は、毎日何らかのアルコール飲料を飲んでいます。意外と少ないような気もしますが。

19%は一滴もアルコールを飲みません。その他は、機会に応じて飲む人たちです。

毎日お酒類を飲む人の7%はアル中の問題を抱えています。統計によれば、教育程度の高い人の方が、アルコールに溺れる率が高いそうです。

ビジネスや観光で日本へ行ってきたベルギー人が驚くのは、日本ではネクタイに背広姿の人が酔ってふらふら歩いてたり、電車の中で寝ていたりすることです。

皆さんは、ベルギーでネクタイをして背広を着た酔っ払いを見たことがありますか。ワインのボトルを抱いて酔いつぶれている路上生活者はたまに見ますが、酔っ払いそのものを見る機会が日本ほど多くありません。

夜の新橋駅や新宿駅にいくらでもいる酔っ払いが、こちらではいないのはどうしてでしょうか。

日本では酩酊状態になるのが目的でお酒を飲むのに反して、こちらでは食事の一環としてワインなどのお酒を楽しむという、文化の違いでしょうか。

酔った姿を人前にさらすことがなんとなく憚られる、ヨーロッパの社会的雰囲気はどこからくるのでしょうか。

神様の前で己れを律しなければならないキリスト教的なメンタリティーと、みんなで渡れば怖くない式の日本人の村落共同体的なメンタリティーの違いなのでしょうか。

ビールを飲むとお腹が出てきていわゆるビール腹になる、というのは嘘であるとビール会社は言いますが、ベルギーでも肥満は健康上の大きな問題になっています。

ベルギーの人口の40%は肥り気味だそうです。その中の12%は肥満症のカテゴリーに入り、肥満による健康上の問題を抱えている人たちです。

一方、痩せすぎは人口の3%だそうです。どうやって調べたのでしょうかね。

マヨネーズをべちゃっとかけたフリッツをあんなに食べていたら、どんどん肥ってしまうのではと、フリッツ屋さんの前にたむろして食べてる人たちを見ると、はらはらしてしまいます。余計なお世話なのでしょうが。

これは二つ星がついている有名レストランのシェフに聞いた話ですが、最近はソースにバターや生クリームを使わないか、抑えた使い方をして、こくのあるいい味を出す努力をしているそうです。

昨今の日本食ブームは、こちらの人が日本食のおいしさに目覚めたこともあるでしょうが、日本食はヘルシーという健康志向と無縁ではないと思います。

私のベルギー人の友人、知人の中に、日本食大好きがいます。

彼ら、彼女らに言わせると、日本食は材料の鮮度で客を誤魔化せないから安心だというのです。古い魚で刺身や鮨は作れないと、結構分かったようなことを言います。

アルベール二世国王を始め、ベルギーの王族が日本食びいきであることはよく知られています。

国王即位後はそう簡単に来れなくなりましたが、アルベール殿下の時代にはよく日本食レストランに足を運ばれていました。

前にブリュッセル市内のさる日本食レストランに行った時、ご主人が「カントーさんの座っている席に夕べフィリップ殿下が座っていたんだよ」と言うので、「オレは王族じゃないんだから、勘定を高くしちゃダメだよ」と牽制しておきました。

さて、健康維持にはスポーツというのが常識ですが、ベルギーの人たちはどんなスポーツをやっているのでしょうか。

ベルギー人の73%は何らかのスポーツをやっているそうです。

では、一番実践者が多いスポーツは何でしょうか。思い浮かぶのは、サッカーあたりですが、実際には自転車なのです。

スポーツ人口の31%が自転車をやっています。

私は大雨でも降らない限り、週末は愛馬と共に必ず森に行きますが、そこで沢山の自転車愛好家たちに出会います。

面白いのは、愛好家たちの自転車には泥除けが付いてないことです。付けようと思えば付けられるのでしょうが、わざと付けずに走って、跳ね上がった泥で全身泥だらけにしているところに、彼らの美学があるのでしょうか。

森の中の大きな道は別ですが、小さな道は乗馬専用の道、自転車や散歩の人のための道がはっきりと分かれて作られています。

われわれ馬組が専用の道をギャロップで疾走しても、出会いがしらに自転車組や散歩組とぶっつかる心配はないのです。

皆さんが森に散歩に行って、乗馬組に出会っても馬がパカポコと歩いている姿しか見えないのは、皆さんが歩くような道では、馬を走らせることが禁じられているからです。

百万都市の中に、鹿や狐が住む広大な森があり、散歩や自転車や乗馬をなんの心配もなく楽しめるベルギーは、実に社会資産の豊かな国だと思います。

自転車の次に多いのが、水泳です。

ベルギーの都市や大きなコミューンには、たいてい市営プールがありますね。皆さんの中にも、市営プールを利用している方がいると思います。

市営プールは地区の学校、特に小学校の水泳教室に使われますので、この時間帯は外した方がいいです。

水泳教室の時間にぶっつかったら災難です。とても泳げたものではありません。

自転車、水泳に次いで実践者が多いスポーツは散歩です。

ベルギーには公園や森や緑地が多くて、散歩に適した場所に恵まれているのも、散歩愛好者が多い理由かも知れません。

ベルギーの人は雨が降っても、帽子を被ったぐらいで、傘もささずによく歩いています。濡れるのを嫌うのは、猫と日本人だと聞いたことがありますが、本当でしょうか。

散歩には犬連れが多いことを、皆さんも気がついているでしょう。

そして、道路に犬の糞が多いのも、ベルギーに来て早々に気がつくことです。最近は各自治体が取締りを厳しくしたり、飼い主への注意喚起キャンペーンをしているので、昔よりはよくなっているような気がします。

ところで、ベルギーの犬人口(犬口と云うべきでしょうか)は、どのぐらいだと思いますか。統計では百万と一千頭だそうです。10人に一人が犬を飼っていることになります。多いですね。

ちなみに猫はもっと多くて、百万と七千匹だそうです。どうやって数えてのか、これも謎です。

アルベールニ世国王の次男坊、ローラン殿下は動物愛護運動に熱心なので有名です。

病気になった犬や猫を無料で診察してくれる診療所を開設したり、虐待を受けている動物の保護施設を作ったり、いろいろな分野で動物愛護に取り組んでいます。

しかし一部には、同殿下の活動を非難する人たちもいます。

動物を助けるよりも、飢餓や病気に苦しむ貧しい国の人たちを助ける方が先ではないか、というのです。

もっともな意見です。でもそういう人たちは、自分の子供が病気になった時、お金がないために医者にも見せられないとしたらどうしますか。

ベルギーだけではなく、先進諸国には犬や猫を自分の子供というか、自分の生活の一番大事な伴侶としている一人暮らしのお年寄りが沢山います。

わが子のような犬や猫が病気になっても、お金がないために獣医さんに見せられない お年寄りも沢山います。ですから、ローラン殿下の診療所は、一人暮しの高齢者のための社会福祉施設と考えた方がいいと思います。

猫で思い出しましたが、新ローマ法王のベネディクト十六世は大の猫好きで、枢機卿時代に飼っていた二匹の猫を、バチカンの法王アパートに連れて来ようとしたら、バチカンの執事長から「まかりなりませぬ」と差し止めをくったと、新聞に出ていました。

さて、散歩の次に来るベルギー人の愛好スポーツですが、これはフィットネス、サッカー、ジョッギングと続きます。

皆さんの間で愛好家の多いゴルフやテニスが、ベルギー人の愛好スポーツの上位ランキングに入っていないのは、どうしてでしょうか。

この二つのスポーツは、ベルギーでは或るクラス以上の人たちのスポーツなのでしょうか。テニスはかなり普及しているように思いますが、 ゴルフに関して言えば、確かに一部の人たちのスポーツといえるかもしれません。

知り合いのベルギー人でゴルフをやっている人は、殆どがええとこの人たちです。顔つきからして違うような気がします。

お父さんも、ベルギーのやんごとなき方々のなさるスポーツ、ゴルフをするのでしたら品性を磨かなければなりません。

公衆の面前で、歯の間に挟まったニラレバのニラを爪楊枝でせせり出しながら、シーハーシーハーとやったり、食べ物横丁でビールやワインを飲み過ぎて、グランプラスの辺りを酔っ払ってふらふらと歩くのはやめましょう。

品性というものは、日頃の生活態度からにじみ出てくるものです。日本人会として、「全ベルギーお父さん品性にじみ出し運動」などを提唱しては如何でしょうか。

No.118.モンゴルの風

No.118.モンゴルの風



前号で「ベルギー全部丸かじり」(その一)を書いたので、今月号は当然(そのニ)になるわけですが、間に一つ別の話題を書くことにしました。
実はこの夏モンゴルに行ってきました。ネタ枯れの昨今、モンゴル紀行を書かない手はありません。

ジンギスカンも乗ったモンゴルの馬に乗って、モンゴルの大草原を駆け抜けるのが、私の長い間の夢でした。乗馬をやる人間の中には、モンゴルの大草原を疾駆する夢を見る人間が多いのです。
3~4年前から計画を立ててはつぶれ、立ててはつぶれの連続でしたが、今年は如何なることがあっても行くという、不退転の決意で計画を立てました。
計画を立てるといっても、仕事の段取りをつけて休みを取るだけのことで、旅行そのものは日本のモンゴル専門の旅行会社のパッケージに乗りました。

モンゴルは日本の国土の4倍、ベルギーの国土の50倍も大きな面積を持った国ですが、人口が250万人程度しかいない超過疎の国です。その少ない人口の3分の1近くが首都のウランバートルに集中しています。
首都の印象は、日本の地方都市といったところでしょうか。ただ車が多いのには驚きました。殆どが日本車と韓国車です。大部分が輸入中古車らしく、「佐藤工務店」とか、「吉田塗装」などの文字が入った車が走っていました。

街行く人々の服装は完全に洋風で、若いお嬢さんのヘソ出しルックなどは当たり前、茶髪のお兄ちゃんもいたりして、遊牧民の国へ来たという旅人の旅情を見事に打ち砕いてくれます。

“モンゴルの人は日本人そっくり“などと言うと、モンゴルの人に叱られるでしょう。何故ならモンゴルの人たちは、われわれ日本人の本家筋に当たるのですから、分家筋の日本人が似ているのは当たり前のことなのです。
われわれのグループのガイドさんや運転手さんも、日本のどこかの街角にすんなりと溶け込める顔立ちの人でした。

一つ、モンゴルの皆さんには申し訳なかったのですが、私はモンゴルの女性はなべて横綱朝青龍的な顔の人が多いのだろうと思っていました。
ところがこれはとんでもない偏見でした。ジンギスカンの時代に、大帝国中から集められた選りすぐりの美女の末裔なのでしょうか、モンゴルには美人が多いのです。
今回は団体旅行だったので、個人的にお近づきになる機会はありませんでしたが、ウランバートル駐在のお父さんたちは気をつけなきゃ、などと余計な心配をしてしまいました。

ウランバートルでは、7月11日と12日に国を挙げてのお祭り「ナーダム」が開催されます。ナーダムでは、モンゴル相撲や子供の競馬を見ることができます。

お祭りのハイライトは、その年の横綱を決めるモンゴル相撲の決勝戦です。相撲はウランバートル最大のスタジアムで500人以上の選手が出場して、予選から決勝まで2日間にわたって行われます。
大統領臨席の元に行われた決勝戦は、横綱朝青龍のお兄さんともう一人の力士の間で戦われましたが、朝青龍のお兄さんは負けてしまいました。お兄さんは負けても泰然としており、弟の朝青龍のように“ちきしょう”などという品のない言葉は口にしなかったと思います。

個人的には、モンゴル相撲より日本の相撲の方がずっと面白いと思いました。
モンゴル相撲の力士は一種の相撲着を着ていますので、相手をつかまえるのが簡単です。土俵がないので、草原の上をどこまでも相手を追い詰めて行くことができます。地面に手がついても負けにはなりません。相手の身体を地面に倒さないといけません。

日本の相撲の立会いの妙味、瞬発力、スピード感、土俵際の攻防といったものが、モンゴル相撲には見られません。
もっとも、モンゴルの人に言わせれば、日本の相撲はあっという間に終わってしまい、ちっとも面白くないと言うかも知れません。

余談ですが、ウランバートル市内の一等地に、大規模なマンション建設の工事現場がありました。ガイドさんの話では、施工主はなんと大相撲の旭鷲山が100%出資している会社だそうです。旭鷲山は相撲を取りながら、実業家への道を着々と歩んでいるようです。

お祭りのもう一つのハイライト、子供競馬はウランバートル郊外の草原で行われます。ただ、その内容の過酷なことに驚きました。10歳前後の子供騎手がそれぞれの愛馬にまたがり、20数キロの距離をひたすら走り抜くのです。
モンゴルの子供たちとモンゴル馬の耐久力には、ただただ驚くのみでした。不肖私などは5キロも走らないうちに、疲労困憊で馬から転げ落ちること間違いありません。

今回の旅は、日本の旅行会社が企画した乗馬愛好家向けのパッケージツアーですが、観光も入ってますので有名なゴビの砂漠も見てきました。
夜行寝台に15時間揺られて中国領、内モンゴルとの国境まで行きました。
国境でわれわれのドライバーが中国側の警備兵と話しているので、「あんた、中国語分かるの」と聞いたら、「彼らはモンゴル人だよ」と答えました。そう言われればそうだなと、納得しました。

日本語の上手な女性ガイドのイルシゲさんによれば、モンゴル人は内モンゴル人が嫌いなのだそうです。さらにつき詰めていくと、中国人が嫌いという感情に落ち着くようです。
社会主義時代のモンゴルは、ソビエトの最も忠実な衛星国でした。中国の政治的、文化的影響を排除するため、徹底してロシアの文化や生活様式を導入しました。
モンゴル語の表示はロシア語と同じキリル文字です。社会主義時代の必修第一外国語はロシア語でした。食事はナイフとフォークで、箸は使いません。ウォッカは国民的飲料といっていいほど飲まれており、ウォッカによる女性も含めたアル中が、大きな社会問題になっているのは、ロシアと同じです。

ゴビの砂漠を見たといっても、砂漠の入り口を見てきたと言った方が正しいでしょう。
「フタコブラクダに乗ってゴビの砂漠に行く」という旅行会社の宣伝文句は、半分は正しいものでした。ラクダの操り方も知らないわれわれが、そんなに遠くまで行けるわけがありません。ラクダが暴走して、一人砂漠に連れて行かれたら、所々に見られる白骨化した動物の骨と同じ運命を辿ることになります。

ゴビ砂漠は恐竜の化石の宝庫として有名です。
そこで、かってアメリカの調査団が巨大な恐竜の化石を発見したという場所に、連れて行ってもらいました。
恐竜の歯の一本でも見つからないかと、断層を探し回ったのですが、そんなに簡単に見つかるわけがありません。
今や草一本生えないゴビの砂漠に立って、かっては満々たる水をたたえた湖や、羊歯類が生え茂る緑滴る大地に覆われ、様々な恐竜が歩き回り、始祖鳥が飛び交っていた様を想像するのは難しいことでした。

ゴビからまた夜行寝台でウランバートルに戻り、今度は4輪駆動に乗って大草原を200Kmほど走り、乗馬のキャンプに向かいました。
大草原の道には道路標示などありません。轍の跡を辿りながら、遠くに見える山を目印に走ります。車の天井に頭がぶっつかるようなバウンドの激しい悪路を200Kmも行くのは、かなりの難行苦行でした。

しかし、行ったかいがありました。
モンゴルの馬は期待に違わぬ素晴らしい馬でした。見かけは決してよくありません。馬体は小さいし、純血統のアラブの馬のような美しい顔もしていません。
しかしその耐久力とスピードは、ブリュッセルのソワー二ュの森を走り回っている乗馬クラブの馬とは、比べ物になりません。

草原にはいつも風がふいています。この風がなかったら、草原の強い日差しは耐えがたいものになるでしょう。強い日差しのお陰で、私の鼻は真っ赤になってしまいました。
鼻が高いとこれだから困るのです。

われわれはキャンプ滞在中、遊牧民の移動住居のゲル(中国語でパオ)に寝泊りしました。ゲルは草原の住いとして実によく出来ており、想像以上に快適でした。難を云えば電気がないことです。夜は懐中電灯とロウソクが頼りです。

電気がない代わり、草原は素晴らしい贈り物をしてくれます。それは夜空の星の美しさです。毛布にくるまって(夜は寒いので)夜空を眺めていると、半球形の星空に自分が押しつぶされそうな印象を受けます。“降るような星”などという生易しいものではありません。

さえぎるものがない大草原を、風に向かって馬を駆るあの感覚は、馬乗りの至福といっていいでしょう。
遊牧民にならって「チョー!!」という掛け声をかけると、モンゴル馬は走り出します。最初は「チョー」のアクセントや発声が悪いのか、なかなか走り出してくれませんでしたが、2~3回後には走るようになりました。

草原を行くと遊牧民のゲルに出会うことがあります。
遊牧民の人たちは本当に素朴で、何の気取りも衒いもなくわれわれを歓待してくれます。
遊牧民のゲルを訪れた時、一番期待していたものがありました。それはあの有名な馬乳酒です。一度は飲んでみたかったのです。
期待に違わず待望の馬乳酒が出ました。馬乳酒は、牝馬の乳を皮袋に入れて毎日かき回せて発酵させたもので、アルコール度が2~3度の弱いお酒です。
飲んだ感じは、ちょっとすっぱいヨーグルトといったところでしょうか。

ジンギスカンの蒙古民族の統一とあの大帝国の建設は、モンゴル馬なくしては不可能だったと思います。
「兵を用いること、神のごとし」と言われたジンギスカンですが、耐久性とスピードに優れたモンゴル馬が、彼の戦略の重要な柱であったことは間違いのないところです。

ベルギーに戻って愛馬のアキラを見た時、「なんとお前はひ弱な奴よ」ため息が出ました。ちょっと気温が下がるとカバーを着せてもらい、他に予防注射だビタミンだと、手厚い世話をうけています。そのくせ、森の中で暴れて跳ね上がり、お陰で私は右の手首を捻挫して靭帯が切れてしまったかもしれないのです。
モンゴル馬の爪のアカでも煎じて飲ませたいやりたい気持ちです。

どうなんでしょうか。配偶者に至れり尽くせりの世話をして、“あなた無しには生きて行かれないわ”と思わせるのがいいのか、当人の自主独立を尊重して、”養ってあげる.面倒を見てあげる“と言わせるのがいいのか、どう思いますか、お父さん。

No.119.ベルギー全部丸かじり(そのニ)

No.119.ベルギー全部丸かじり(そのニ)



皆さんはベルギーに赴任してきて、こちらでの生活を始めた時、いろいろと不便なことや、イライラさせらさせられたことがあったと思います。
赴任したてのころだけじゃなくて、今でもしょっちゅうイライラさせられているよ、という方もいるかも知れません。
言葉を始め、社会習慣、人々のメンタリティー、宗教的バックグラウンドなど、住み慣れた日本とはまるで違う場所で暮らすのですから、ある程度の不便やいらいらは仕方のないことです。

では、ベルギーの人たちはイライラしないのでしょうか。
ご心配なく。ベルギーの人たちも、ちゃんとイライラしながら暮しているのです。
先日、こちらの新聞にベルギー人が一番イライラさせられる事例のワースト20が出ていました。

以下にご紹介します。
1.道路の犬の糞
2.誤魔化して行列に入り込もうとする人
3.公共の場で唾を吐く人
4.運転中に後ろからぴったりついて来るドライバー
5.道路にゴミを捨てる人
6.物事に正確ではない人。時間を守らない人
7.インターネットのサイトに出てくる広告
8.“どうぞ“と”ありがとう”の言えない人
9.理解困難な説明書や手引き書
10.騒音をたてる隣人
11.仕事にいい加減な人
12.複雑過ぎる電話機の機能メニュー
13.落書き
14.公共の場での喫煙
15.何事にでも断言する人
16.電話セールス
17.開けるのが大変な包装
18.携帯電話で大声で話す人
19.道路工事
20.露出過多な服装

どうですか。
私たちが在留邦人がイライラしてることに対して、この国の人たちも同じように イライラしているのです。ちょっと安心しませんか。

1番の犬の糞などは、ベルギーに来て歩道を歩いていて最初に直面する不愉快な現象ですが、ベルギーの人たちもこれにはイライラしています。
2番の行列割り込みも、被害に会うのはわれわれ外国人で、割り込んでくるのはベルギー人と思い勝ちですが、実際はベルギーの人たちも割り込まれて不愉快な思いをしていることが分かります。
3番の公共の場で唾を吐く人は、ベルギーではそんなに見ないような気がしますが、結構いるんですね。

皆さんは4番の経験はありますか。運転中に後ろからついて来られるのは、本当にイライラさせられますよね。
だいたいは、道を空けろという意思表示なのでしょうが、空けたくても隣の車線が一杯の時はそう簡単にはいきません。

これで思い出しましたが、昔、後ろからついてくる車を振り切ってやろうとして、大失敗をしたことがあります。
急ぎの用事があり、さる高速道路を制限スピードをかなりオーバーして走っていました。ふと気がつくと、後ろからぴったりとついて来る車がいます。
その車はスピードが出るので有名な車でしたが、こちらも負けるつもりはありません。そのうちこちらのスピードに根負けして、ついて来るのを諦めるかと思いきや、しつこくついて来ます。
生意気な奴め、振り切ってやろうとさらにスピードを上げたとたんに、後ろの車の屋根にブルーのライトが取り付けられてクルクルと回りだし、同時にサイレンが鳴り響きました。
なんのことはない、後ろの車は覆面パトカーだったのです。
平謝りに謝りましたが、しこたま罰金を取られたことは言うまでもありません。
お父さんも、パトカーを振り切ろうなどと考えない方がいいですよ。絶対に勝ち目はありませんから。

道路にゴミを捨てる人というのは、自分の家とかアパートの前の道路ではなくて、そこから離れた場所に捨てる人のことでしょう。
ベルギーでは、個人住居前の歩道の管理は、住んでいる人の責任ですから、ゴミなどとうてい捨てるわけにはいきません。
ちなみに、ベルギー国鉄は駅のゴミ処理問題に悩まされています。
地方から都市部に通勤してくる人たちが、家のゴミをもって来て、駅のゴミ箱に捨てていくのだそうです。一人二人ならまだしも、駅の利用者の数パーセントがこれをやっただけで、ごみの量は膨大なものになるそうです。

6番の物事に正確でない人とか、時間を守らない人というのは、何処にでもいますよね。
ただ、やむを得ず時間に遅れることは、誰にでもありえます。交通渋滞とか、電車の遅れとかで、どうしても約束の時間に着けそうもないと時は、携帯電話という便利なものがありますから、ひと言相手に連絡をするのが礼儀でしょう。

ただ、ベルギーの大学の先生(多分、ヨーロッパ諸国の大学の先生)は授業に15分遅れてきても、学生から文句は出ません。「Un quart d’heure academique」(学問的15分)という言葉があるぐらいですから、昔から大学の先生は講義の時間にやや遅れながら、重々しく教室に入ってきたのでしょう。

当国のフィリップ皇太子がレストランに30分遅れて行ったため、レストランから追い出されそうになったという話があります。
名前を言えば誰でも知っているブリュッセルの庶民的なレストランに、ある日予約の電話が入りました。
「もしもし、今晩7時30にフィリップの名前で10席とって欲しいのですが」
「10名様ですね。お取りしておきますが、今晩は混みあっていますので、お時間か ら20分たってもお見えにならない時は、お席を他のお客様に回しますが、それでよろしいですか」
「結構です」
勿論、予約の電話を入れたのはお付きの人で、フィリップ殿下ではありません。レストランの方も、相手はどっかのフィリップさんで、皇太子とは夢にも思ってません。
なんやかやで、フィリップ殿下一行は30分程遅れてレストランに入って来ました。
席はありません。約束通り他のお客さんに回してます。
しかし、レストランの給仕長がグループに混じっている一人の人物の顔を見て、びっくりしてしまいました。
幸い予定より早めに食事を終えたグループのテーブルがありましたので、大急ぎで片付けをして、無事フィリップ殿下一行に座って頂いたそうです。

参考までに、イライラ度ワースト20をヨーロッパレベルで見た場合どうなるでしょうか。
トップにくるのが、ベルギーでは5番目だった「道路にゴミを捨てる人」です。犬の糞は2番目で、行列割り込みが3番目にきています。
多少の順位の違いはありますが、ベルギー人もヨーロッパ諸国の人々も、不愉快感を持ったり、イライラする対象はだいたい同じであることは、人間の感情や感性は民族が変わっても、同じということでしょうね。

ベルギーのイライラ度の調査で一つ気になったのは、8番の「“どうぞ”と“ありがとう”の言えない人」という項目です。
私たちはこちらに暮していて、日常接するアパートの隣人や、スーパーや電車の中で行き交う人々に、“どうぞ“と”ありがとう”を、時宜に応じて言っているでしょうか。

ベルギー人の知人で、 在留邦人が多いアパートの同じ棟に住んでいる人がいます。ある時、こんなことを言われました。
車で外出するため、地下パーキングのトビラを開けようと、トビラを持ち上げている時、日本人の家族が乗った車がするすると出てきて、自分の横をすり抜けてパーキングから出て行ってしまった。トビラを支えている自分を横目に見ながら、“ありがとう”も言わない日本人は本当に無礼だ、と憤慨していました。
こういう同胞は例外だと思いたいですね。

ところで、20番の「露出過多な服装」ですが、これはどうなんでしょうか。
ちょっと見には、女性が対象と思い勝ちですが、男性も対象になっていると考えられませんか。
シャツの前をはだけて、毛むくじゃらの胸を見せられるのを、皆さんはどう思いますか。個人的には見たくないですね。ちゃんとシャツを着てほしいです。
この件で、俺、お前でしゃべれるベルギー人の男友達に、憎まれ口をたたくことがあります。
つまり、「お前達にそんなに胸毛があるのは、進化が遅れている証拠である。俺のこのすべすべした胸を見てみろ、進化の極みではないか」と。

一方、女性の露出過多ですが、全ての女性の露出過多が、不快感やイライラの原因になっているとは思えません。
在留邦人の女性軍からお叱りを受けるかもしれませんが、世の中には露出をして頂いてもいい方と、どちらかというと、露出をして頂かない方が世の中の為になる方とが、いるのではないでしょうか。
これには、その方の年齢、体型、容姿など、いろいろな条件が勘案されるかと思います。
露出をして頂いてもいい方は、野に咲く花にも似て、見る人の心を和ませ、人間の本性に根ざす真なるもの、善なるもの、美なるものへ渇仰をある程度満たしてくれる条件を備えた方、ということになりましょうか。
しかし、現実はこんな高尚な理念とは無関係なようです。週刊誌の広告を見てください。
“女子大生が脱いだ”、“なんとか女優が脱いだ”、“スッチーが脱いだ”、“女子アナが脱いだ”等々、真善美の理念からは余りにもかけ離れたタイトルのオンパレードです。

思うのですが、同じ週刊誌が何故、“パートのおばさんが脱いだ”、“ヤクルトおばさんが脱いだ”、“日生のおばさんが脱いだ“といったタイトルを出さないのでしょうか。
こちらは、理念よりも実体が真善美からかけ離れているとでも言うのですか。
お母さんに対して、余りにも失礼だと思いませんか、お父さん。

No.120.ベルギー入院日記

No.120.ベルギー入院日記



 シリーズもの、「ベルギー全部丸かじり」(その三)の前に、また一つ別ネタを書かせて頂きます。

今年は手術の当たり年で、すでに2回の手術を経験しました。
1回目は今年の2月で、2回目はつい最近、9月の始めでした。
最初の手術は、五臓六腑のさる所にポリープが見つかったためです。ポリープ発見は、まったくひょんな機会からで、思いもかけないことでした。

ブリュッセル市内のさる病院で、お医者さんとの間でこんな会話が交わされました。
「コルビジエ(お医者さんの名前)の旦那、あっしのポリープとやらは、どんな具合なんで」
「お前さんのポリープは、今日明日にどうこうなるってもんじゃないよ。ただ、放っておくと、2~3年後にやっかいなものに変わるもしれねえと云うことよ」
「それで、どうすりゃいいんですかい」
「きょうび、いい道具がいっぱいあっから、やり方はいろいろあるわな」
「一番簡単なやつは」
「内視鏡を使って、ポリープを削りとることよ」
「その次は」
「そこんとこを、ばっさり切っちまうことだな」
「どっちがいいんで」
「そりゃあ、ばっさり切っちまった方が、後くされがなくていいわな」
「分かりやした旦那、ここは一番、きれいさっぱり切ってやっておくんなせえ」
「そうかい。お前さんがそう言うなら、すっぱりと切らしてもらおうじゃねえか」
と、話はとんとん拍子にまとまり、めでたく入院、手術ということになりました。

入院は、高校一年の時、急性盲腸炎で入院したのが初体験でした。
あの時は、前夜からお腹が痛くて眠れませんでした。盲腸炎なのですから、胃腸薬など飲んだところで、痛みが消えるわけがありません。
しかも、患部を冷やせばいいものを、腹が冷えたのだろうと勝手に考え、患部を暖めたのですからたまりません。
それでも、朝方には痛みが和らいだので、家族には腹痛のことを話さず、健気にも学校に行きました。別に勉強がしたかったわけではなく、通学路で出会う片思いの、名前も知らない女子高生の顔が見たかったからです。

しかし、授業が始まると痛みがどんどん激しくなってきました。どうにも我慢が出来なくなり、担任の先生に事情を話し、学校の近くの病院に転げ込みました。診察した医者は即刻手術を命じました。
そして、「どうしてもっと早く来なかったんだ。手遅れで腹膜炎になるどころだったんだぞ」と、私をどやしつけました。

入院したのですから、当然家に連絡がいきます。
すっ飛んで来た母は、無事手術が終わって寝ている私を見て安心したようです。でも、病室に置いてあった私の下着類を見て、「どうしてこんな汚いパンツをはいてるのよ。看護婦さんに見られたのよ、これ。本当に恥ずかしい。どうして毎日取り替えないの」と、私をどやしつけました。
思えば、どやしつけられてばかりいた青春でした。

高校一年からはや数10年、この間、病気知らず、医者知らずできたのですが、この度、晴れてベルギーの病院に入院することになりました。
入院してまず感心したのは、お医者さん、看護婦さん、病院のスタッフが実に感じがよく、親切なことでした。
手術前にもろもろの検査がありますが、その間に、麻酔医、執刀医(2名)のそれぞれのお医者さんが次々と病室に来て、手術について懇切丁寧な説明をしてくれました。
私は、こういうお医者さんたちが手術をしてくれるなら、何の心配もないと思いました。

余談ですが、ベルギーは日本の医学の進歩に陰ながら貢献しているのです。
江戸中期に、オランダの医学書「ターヘル アナトミア」を前野良沢、杉田玄白らが苦心惨憺の上翻訳し、「解体新書」として刊行された話を、日本史の時間に習いましたよね。
あの「ターヘル アナトミア」に使われた解剖図の一部は、ベルギー人アンドレ・ベザルが描いたものです。
アンドレ・ベザルは代々医師の家系に生まれ、ルーバン大学で勉強した後、パリ、パドアの大学で医学を修め、16世紀ヨーロッパの解剖学の祖と云われた人です。後には、神聖ローマ皇帝カール五世の侍医になりました。

彼はルーバンの学生時代から解剖学に強い関心を持っていました。ある時、ルーバンの城壁の出口、チーネン門の外にあった処刑場で、絞首刑に処せられて白骨化しかかっていた罪人の遺体を夜の間にこっそり自分の部屋に持ち帰り、骨格その他を丹念に写し取った後、遺体を朝までに処刑場に返しておいたというエピソードが残されています。

アンドレ・ベザル は1543年に「De Corporis Humani Fabrica](人体の構造について)という解剖学の本を刊行しました。この本は、当時のヨーロッパで医学を学ぶものにとって、聖典ともいえる本になりました。
そして、次の世紀に刊行された「ターヘル アナトミア」にも、ベザルの描いた解剖図や解説が広範に引用されたのです。
尚、同じ1543年にコペルニクスが「天体の回転について」を刊行して、地動説を唱えたのは、科学的精神の黎明を告げる奇しき因縁でしょうか。

前野良沢、杉田玄白らは、以前に小塚原の刑場で処刑された罪人の遺体の腑分け(解剖)を行っており、人体の解剖についての知識は持っていました。
しかし、彼らが「ターヘル アナトミア」の解剖図を見た時、その精密さに驚いたと言われてます。もとより彼らが、当時オーストリーの統治下にあったベルギーについて、或いはルーバン大学についての知識があったかどうかは、知る由もありません。

さて、手術は無事に終わり、全身麻酔から覚めました。全身麻酔から覚めないまま、という医療事故もあるそうですから、麻酔から覚めただけでも上出来というべきでしょう。麻酔が切れたら痛みがくると、覚悟はしていましたが、不思議なことに痛くないのです。そういえば麻酔医の先生が、麻酔から覚めても痛くないような麻酔をしますと、手術前に説明してくれました。麻酔医学の進歩なのでしょうか、不思議に思いました。 

手術後も、お役ご免のはずの麻酔医の先生を始め、担当のお医者さんが何度も部屋に来てくれました。
「白い巨塔」の何とか教授の回診場面のような、大名行列は勿論ありません。お医者さんが看護婦さんも連れずに、一人で、ひょこっと病室に入ってきます。
そして、手術の話だけではなく、若いころ「国境なき医師団」のメンバーとして、アフリカのさる国で医療活動に従事した話など、いろいろな雑談もしてくれました。

8日間入院してましたが、その間は家族を除き面会謝絶にしました。
病院の入院着みたいなものを着せられ、点滴やいろいろなチューブの繋がった姿を、ひと様にお見せするわけにはいきません。美貌が台無しでしたから。
見舞い客があんまり少ないので、看護婦さんが、「あなた、ひとり暮しなの」と同情してくれたぐらいです。お陰で、読みたかった本を沢山読めましたので、満足でした。

入院中、一つだけ不満だったのは食事です。
もとより期待はしていませんでしたが、まずかったですね。どうやったらこれだけまずい料理が作れるのかしらと、感心するぐらいの食事でした。

手術後の経過もよく、順調に回復して、ついに2ヶ月間の乗馬禁止令が解除になりました。喜び勇んでアキラと森に出かける日々が続きました。
折から、森の木々は新芽をたくわえ、そこから幼い葉っぱが出始め、森の様相が一変する季節でした。木々の幼い葉っぱの色だけで、森に薄いグリーンの靄がかかったようになります。この時期の森は、日ごとに表情が変わっていきます。
そして、新緑の森。身体が全部緑に染まってしまいそうな新緑の森の中を、アキラと駆け回る楽しい季節が過ぎていきました。

「好事魔多し」とはよく言ったものです。
6月中旬に、森で乗馬中、手首の靭帯を切ってしまいました。

アキラは馬のくせに馬が嫌いなのです。一頭だけで森に行く時は、問題はないのですが、他の馬と連れ立って森に行くと、問題を起こします。非常に神経質になり、攻撃的になるのです。ですから通常は、いくら誘われても他の馬と一緒に森には行きません。孤独なライダーなのです。

森には無数の乗馬専用の道があります。どうしても知っておきたい道があり、或る日、道をよく知っているクラブの仲間に頼んで、一緒に遠乗りに行きました。
最初は、アキラも先行する仲間の馬について、おとなしくギャロップで駆けていました。「これなら大丈夫」と思ったのが大間違い。ある地点から、アキラは先行する仲間の馬を追い越そうと、激しく入れ込んできました。元より追い越しは厳禁ですので、手綱をしぼって行かせません。
行きたくても行かれないことで、イライラが頂点に達したのか、アキラは疾駆しながらいきなり後脚を跳ね上げました。乗っているこちらは上体が前傾し、振り落とされそうになりましたが、左手に手綱を持ち、右手の甲をたてがみの辺りにつけてバランスを保ち、落馬を免れました。

それは一瞬の出来事でしたが、右手が受けた衝撃は大きかったようです。手首のへんが腫れて痛くなってきました。
その時は単なる捻挫ぐらいにしか考えず、打ち身、捻挫用の軟膏を塗って誤魔化していました。そのうち腫れもひいて、痛みも鈍痛程度だったので、医者にも行かず仕事も乗馬も続けていました。
そして7月にモンゴルまで行って、1日6時間以上も馬に乗るという、“とんでもないこと”(手首の手術をしてくれたお医者さんの言葉)までやりました。
その後、2ヶ月以上たっても痛みが取れないので、さすがにこれはおかしいと思い、専門医の所に行きました。結果は、「右手首靭帯切断要手術」という有難い診断でした。

手術の結果、「右手ギブス固定6週間」の状態になり、右利きが右手を使えないという悲惨な日々を過ごしています。車の運転や、文字を書くことが出来ません。箸は使えませんし、風呂やシャワーもひと仕事です。この原稿も左手でキーボードを叩いて書いてます。

家では二番目の娘が、靴下をはかせてくれたり、爪を切ってくれたり、甲斐甲斐しく世話をしてくれ、この子にこんな優しい面があったのかと、見直しました。
娘が真面目な顔で、「パパはアキラみたいな性悪馬にどうして乗ってるの。取り替えたなさいよ。もっと大きな事故にあったらどうするの」と言いました。

でも私の場合、馬でも女性でもあんまりおとなしいと興味が湧かず、ちょっとてこずる「じゃじゃ馬馴らし」的な感覚が好きなのです。
お父さんの場合はどうですか。飼い馴らされていませんか、お母さんに。

No.121.ベルギー全部丸かじり(その三)

No.121.ベルギー全部丸かじり(その三)



 12月はクリスマスの月です。

 12月の声を聞いただけで、心がなんとなく浮き立ってくるのは、クリスマスや大晦日の会食やパーティー、或いは賑やかなクリスマス市の情景が目に浮かぶからでしょうか。

外は寒いけど中は暖かい、暗くて寒い冬の季節にぽっかりと暖かい灯がともる、こんなイメージが12月のイメージと云えるかも知れません。

日本でも、12月は忘年会のシーズンですので、飲んだり食べたりする機会が増えますね。でも、日本の忘年会は飲んで日頃の憂さを晴らす機会、といった性格が強いような気がしますが、どうでしょうか。

こちらにも沢山いますが、日本にもお酒を飲まない人が結構います。自分の信条から飲まない人と、身体がアルコールを受け付けない人と両方です。

思うのですが、お酒を飲まない人にとって、日本の忘年会とか、付き合い上の飲み会に出るのは、かなり辛いものがあるのではないでしょうか。

「おいカントー、こっちきて飲め。おまえ、さっきからウーロン茶ばっかり飲んでるな」

「はい課長、ぼくお酒がダメなんです」

「酒がダメだとぅ、バカをいうな。酒なんてものはな、飲んで鍛えるもんだ。飲んでヘド吐いて又飲んで、そうやっているうちに強くなってものよ」

「え~それは学生の時やってみました。お酒を飲んで何度も吐きました。吐くだけならいいんですけど、苦しくて苦しくて、一度など病院へ担ぎ込まれたこともあります。こんなに苦しむなら飲まないほうがいいと思って.......」

「だからおまえはダメだっつうの。意志が弱いんだよ、意志が。おれが飲み方を教えてやっから、ほら飲んでみろ」

無理強いは本当に困りますね。会食や宴席でのお酒の無理強いは、日本人特有の行動様式なのでしょうか。

皆さんは、こちらの人との食事の席で、ワインを無理強いされた経験がありますか。「結構です」と言えば、「そうですか」で終わりですよね。

日本人のお酒の無理強いは、無理強いされる側の偽りの遠慮にも原因があると思います。

「冷やしたやつをもう一杯いきましょう」

「いやいや、もう十分にいただきました。もう結構です」

「何をおっしゃいます部長さん、まだ宵の口ですよ。それにこの酒は、店のおやじが特別に出してくれた大吟醸、幻の銘酒とかいうやつですよ」

「ほう、これはまた珍しい酒ですな。せっかくですから一杯だけいただきましょうか」

という具合に、日本の酒盛りは続いていきます。

結構ですと言われて、はいそうですかとお酒を引っ込めてはいけないのが、日本の酒席の礼儀なのです。お酒を飲まない人は、この酒席の礼儀の犠牲になっているのです。

呑んべいの皆さん、世の中にはお酒を飲まない人、飲めない人がいるという事実を、しっかりと認識しましょう。

さて、 ベルギーの人たちにとって、クリスマスはどの程度の重要性をもっているのでしょうか。

統計によれば、ベルギー人の93%がクリスマスを祝います。これは、教会のクリスマスのミサに行く人の数ではなく、生活習慣としてクリスマスをお祝いする人の数字です。この数字は、各種のお祝いごとの中でトップを占めています。

クリスマスは家族でお祝いするのが、キリスト教国の伝統です。

この日のために、お母さんは腕によりをかけてご馳走を作り、お父さんはチャンペンやワインを選び、子供達は部屋の飾りつけを嬉々としてやっている。こんな情景が、平均的なこちらの家庭のクリスマスの準備風景でしょうか。

しかし、時代は変わりつつあります。

腕によりをかけてご馳走を作るお母さんの数が、減少の傾向にあるのです。昨年のクリスマスには、16%のお母さんが仕出屋の料理をクリスマスディナーのテーブルに並べました。今年はもっと増えるだろうと言われています。

分かるような気もします。

専業主婦ならいざ知らず、共働きで買い物その他に時間に制限のあるお母さんに、手間ヒマのかかる特別な料理を期待するのは、ちょっと酷だとは思いませんか。

それに世の中のお母さんがみんな、料理が得意というわけではありません。仕出屋の料理の方がおいしい場合だってあるのです。

料理を作るお母さんだって、その70%以上が料理の本その他のレシピを参考にして、家族のためにおいしいクリスマスディナーを作ろうと努力をしています。

クリスマスにはプレセントが不可欠です。

わたし個人としましては、この贈り物が世の中で最も苦手なものの一つです。貰うのもあげるのも苦手です。

全然興味がない物や、死んでも締めたくないネクタイなどを貰っても、嬉しそうな顔をしてありがとうを言わなければなりません。これが苦手なのです。

そして、自分が贈った物のために相手に同じ思いをさせてしまわないかと思ってしまい、プレゼント選びの買い物は、拷問にも似た苦痛を強いられます。

でも世の中には、すいすいとプレゼントを選んですいすいと贈り、またすいすいと貰って嬉しそうにお礼を言う人が沢山いますから、尊敬してしまいます。

ところで、ベルギーの人達はクリスマスのプレゼントにどのぐらいお金を使うのでしょうか。

保険会社AXAが国別に行った、クリスマスのプレゼント予算調査の数字があります。

ヨーロッパで飛び抜けてお金を使うのはイギリス人で、778ユーロを使います。わがベルギーの人たちは、イギリスの半分にも満たない296ユーロです。さらに使わないのがオランダの人たちで、101ユーロしか使いません。ヨーロッパ諸国ではドンジリです。スペイン人はオランダ人の5倍近いお金を使っています。

ヨーロッパ以外の国では、アメリカ人がだんとつで、イギリスの人たちと殆ど同じぐらいクリスマスプレゼントにお金を使っています。

ちなみに日本の数字も出てますが、日本人が使うお金は、なんとオランダ人にも及ばない78ユーロだそうです。

ただこれにはコメントがついてまして、「金持ち日本人がこんな数字なのは、日本にはクリスマスの伝統が無いので、プレゼント交換の習慣も一般的ではないためである」、だそうです。

AXAの統計に、日本の“お年玉”の金額を入れたら、統計の順番はかなり上にいくのではないでしょうか。日本では、自分の子供だけでなく、甥っ子や姪っ子にもお年玉をあげますから、バカにならに金額が支出されているはずです。

ベルギーに住んでいるメリットの一つは、甥っ子や姪っ子のお年玉強奪襲撃から逃げられることです。そうおもいませんか。

ところでクリスマスカードはどうでしょうか。

これが年々減少傾向にあり、今や32%のベルギー人しか、カードを送らなくなっています。電話やe-mailでしょっちゅう交信していれば、当然かも知れません。

若い年齢層では、携帯電話のSMSがカードに取って代わってしまったようです。

ベルギーの人たちがクリスマスの次に祝うのが、大晦日と新年のお祝い、及び誕生日です。85%の人が祝うと統計に出ています。

一般には、クリスマスは家族で、大晦日と新年は友人や知人、仲間内での集まりやパーティーと相場が決まっています。

Saint ?Silvestre(12月31日)の晩は、着飾ってパーティーやレストランに行きますので、衣装代がかかります。

この日のための洋服、ドレス、アクセサリーなどの経費として、ベルギー人は一人当り73.50ユーロを支出しています。

不肖、わたくしも年に一度ブラックタイの正装をさせて頂くのが、サンシルヴェストルの夜です。

乗馬クラブのパーティーは、女性はロングドレス、男性はブラックタイと一応決まってますので、埃を払って着ていきます。

鏡を見ながら、「馬子にも衣装」とはよく言ったものよと、毎年感心しています。

大晦日と新年を祝うベルギー人のうち、24%の人はレストランに行きます。レストランのニューイヤーディナーを予約して、レストランで新年を迎えます。レストランで使うお金は、一人平均60ユーロだそうです。

一方、13%の人がディスコで新年を迎えていますが、若い人たちなのでしょう。

家に人を呼んでパーティーをやる人の数も、減少傾向にあるそうです。それでも47%の人が家に人を呼んでいます。

最近は、パーティーの食べ物や飲み物を分担して持ち寄る形式が増えています。この形式は呼ぶ方の負担を軽減し、呼ばれる方も負担を感じなくて済む、合理的なスタイルだと思います。


年末が近づくと、花屋さんや日曜市にやどり木の束が見られるようになります。

前に会報に書いたことがありますが、やどり木はケルト人のあいだで、生命力のシンボル、神秘な力を宿す木として尊ばれていました。

冬枯れの木に張り付いて、緑鮮やかな色を見せるやどり木ですから、ケルト人の信仰も分かるような気がします。

このケルト人の信仰がヨーロッパの人たちに受け継がれ、大晦日の晩にやどり木の出番が回ってきます。

真夜中、零時の鐘が鳴ると、参会者は居間の中央に集まり、天井に吊るされたやどり木の下で抱擁し、新年の挨拶を交わすのです。

抱擁は参会者全員にしなければなりませんから、当然男同士の抱擁も避けられません。抱擁には頬っぺたのチュウがつきものですが、ヒゲの濃い男性ですと、真夜中にはもうヒゲが伸び始めていますので、亀の子タワシで擦られるみたいで、できれば避けたい感じです。

これに反して、17~8のお嬢さんのばら色の頬っぺたにチュウなどすると、「今年はいいことがあるぞう」と張り切ってしまいますから、男なんて本当にいい加減だと自分でも思います。

ベルギーでは、誕生日が大晦日、新年と同じぐらい祝われてますが、他にはどんなお祝い事があるのでしょうか。

まず12月始めにある子供のお祭り、サン二コラの日(55%)です。これに続いて、母の日(51%)、復活祭(43%)、父の日(41%)、バレンタインデー(35%)という順番になっています。結婚記念日がありませんが、離婚率が50%を超える国ですから難しいのでしょう。

ところでお父さん、横浜の中華街でお母さんに“ジュテーム”と言った日を、お祝いしないとダメですよ。