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No.133 世界の知らないところで......

No.133  世界の知らないところで......



あけましておめでとうございます。
  本年もよろしくお願い致します。
  2007年が皆さまにとって健康で、幸せの多い年でありますよう
  心からお祈り申し上げます。

世の中の動きが激しくなり、それに伴って膨大な量の情報が飛び交っています。新聞、テレビ、インターネットなどの媒体を通して飛び込んでくる情報をフォローして、これを取捨選択するのは容易なことではありません。

新聞は見出しを見てどんどん飛ばし読み、テレビはチャンネルを変えて興味のあるニュースだけを見る、そうでもしないと間に会いません。
ベルギーのケーブルテレビではヨーロッパ各国のテレビが見れますので、自分の分かる言葉のテレビ局を追うだけで、相当な量の情報を得ることができます。

一つの情報が新聞、テレビなどに出ると、その情報があたかも誤謬なき真実であるかの如き印象を受け取る側に与えるのが、マスコミ媒体の恐ろしいところです。
卑近な例ですが、痴漢で訴えられた人が、後日無実であったことが証明されたとしても、訴えられたという事実がマスコミに出た瞬間に、その人の社会的生命は抹殺されてしまいます。

真偽のほどは分かりませんが、情報を巧みに利用して莫大な利益を手にした例として、こちらのプレスに出た話を紹介します。

それは鳥のインフルエンザについてです。簡単にいうと次のようになります。
1.鳥のインフルエンザは昔から存在した。
2.世界的な規模で見た場合、この病気で死んだ人の数は他の流行性の病気の死亡者数に比べて微々たるものである。
3.鳥のインフルエンザが世界のマスコミに出始めた時期は、この病気のワクチンを 独占的に開発していたスイスのロッシュ社が、ワクチン製法特許取得を確実にした時期と一致する。
4.鳥のインフルエンザが世界中のマスコミに登場すると、ワクチンの注文がロッシュ社に殺到し、製造が追いつかなくなるほどであった。(事実、ベルギーでもワクチン不足が続きました)
5.このワクチンのお陰で、ロッシュ社は巨額の利益を計上した。
6.ロッシュ社の大株主の一人は、アメリカのブッシュ政権の中枢にいる人物である。

出来すぎた話みたいですが、かなり信憑性の高い話だそうです。
新聞には、ブッシュ政権の中枢にいる人物の名前が出てました。この人は,アメリカの中間選挙で共和党が敗北したため、ブッシュさんに更迭された人です。

わたし達が目にしたり、耳にしたりする情報とは別に、わたし達の知らない所で、知らない人達が世界を動かしているとしたら、皆さんどう思いますか。そんなことがあり得ると思いますか。

こういう話になると必ず登場するのが、いわゆる秘密結社です。
世界の秘密結社の代表、東の横綱クラスの秘密結社といえば、言わずと知れたフリーメーソンです。
フリーメーソンも、最近はかなり情報公開をするようになってきてますので、秘密結社という呼び方はやめてくれというかも知れません。
しかし、外部に洩れてくる情報は表面的なことが多く、フリーメーソンの肝心な部分は依然として秘密のベールに覆われています。

紀元前10世紀にソロモンの神殿の建設に携わった石工達が、互助と友愛のためにつくった団体が、フリーメーソンの起源であると言われてますが、これは俗説で正確な起源ははっきりしてません。はっきりしているのは、英語のmasonや仏語のmacon(cの下にヒゲがつくcです)が石工を意味することです。

フリーメーソンは、大多数の日本人にとって余り馴染みがないというか、何のことか分からない世界といっていいでしょう。
日本人で最初にフリーメーソンに入ったのは、幕末の留学生、西周だと言われてます。西周は留学先のオランダでフリーメーソンに入ったと伝えられています。
この結社のメンバーになるのは、簡単なことではありませんから、西周は留学中に卓越した能力を示し、有力メンバーの推薦を受けたのかも知れません。
「Philosophy」を「哲学」という日本語にしたのは西周ですが、彼がフリーメーソンの日本語訳を作ったという話は伝わってません。やっぱり秘密なのでしょうか。

麻生現外務大臣の祖父、吉田茂元首相もフリーメーソンのメンバーでしたが、日本では全く話題にならなかったことです。わたしも、こちらのフリーメーソン関係の本で知りました。

ではどういう人達がメンバーなのでしょうか。
簡単にいうと、各国の財政界、学問、文化などの分野で、指導的な地位にある人達です。ベルギーの初代国王レオポルド一世、チャーチル、トルーマン、ルーズベルト、ベートーベン、モーツァルト、車のフォード、シトロエンの創業者、俳優のジョンウェインなど、多士済済です。

ベルギーの場合、ブリュッセル自由大学はルーバンカトリック大学に対抗してフリーメーソンが創設した大学です。大学の名前にわざわざ「自由」を入れたのが象徴的です。同大学は、フランス語とフラマン語の二つの大学に分かれていますが、両大学共に理事長や学長などの要職は、フリーメーソンのメンバーしかなれないそうです。

バルギーのカトリック系以外の有力政治家の中にも、かなりのメンバーがいます。ベルギーの財閥、ボウエル家の当主もメンバーです。

カトリック教会は過去の歴史において、フリーメーソンに寛容な態度を取ってきました。しかし教会の教えはメーソンの活動要領に合わないとして、1783年に法王クレメンス12世がカトリック教徒でありながらメーソンであることは出来ないという禁止令を出しました。

世界のいろいろな分野のトップクラスが、メンバーとして固い絆で結ばれ、しかも行動様式が秘密につつまれているとしたら、彼らが陰で世界を動かしているのではと想像するのも、あながち理由のないことではないのかも知れません。

フリーメーソンが、ソ連並びにその衛星国で厳しく禁止されていたのは、共産党政権が彼らの力と影響力を恐れたからでしょうか。
ソ連崩壊後、フリーメーソンは旧ソ連圏で着実に組織を立て直しつつあります。
ただ、イスラム政権の国では、今でもフリーメーソンは禁止されています。

皆さんのお知りあいの方で、メーソンの人はいませんか。或いは、あなた自身がメーソンだったら、是非お話を聞かせてください。誰にも言いませんから。

フリーメーソンよりは歴史も浅く、知名度も低いのですが、最近名前が知られてきた団体があります。この団体はあの“ダヴィンチコード”に登場してから、急に有名になりました。団体の名前は“Opus Dei”と言います。

オプスデイは1928年10月2日にスペイン人の神父、ホセマリア エスクリヴァデバラゲ(Josemaria Escriva de Balaguer)が創設したカトリック信徒の団体です。
オプスデイの趣旨は、仕事が社会の進歩に貢献するのと同じように、カトリック信者は仕事を通じて自分の聖性を高め、神に近づくことが出来る、というものです。
これだけなら、オプスデイはカトリック教会に沢山ある信心団体の一つとして、特に注目されることはなかったでしょう。

しかし、オプスデイはヴァチカンの高位聖職者の間に支持者を得、次第に権力志向の組織へと変身していきました。
オプスデイは、現在世界の61ヶ国に支部を持ち、85,000人の会員を有しています。会員の中にはカトリック教徒で欧米の大企業の社長や幹部役員、各国の政権の中枢にいる人たちなどがいます。
“ダヴィンチコード”に写真がでて有名になった、ニューヨークのオプスデイのビルディングをみて、これが教会の一信心団体の建物とはとても思えません。
事実、フリーメーソンに対抗できる世界的な規模の組織は、オプエデイだけだろうという意見さえあります。

オプスデイの創立者のエスクリヴァ神父は、1992年5月17日にヴァチカンのサンピエトロ広場で、ヨハネパウロ二世によって聖人の位にあげられました。
列聖式には、オプスデイのメンバーは勿論、世界中から30万人以上の人々がヴァチカンの広場を埋めました。

生前徳の高かったカトリック信者や聖職者が聖人の位にあげられるのは、厳密な調査が必要なため、死後50年ぐらい経ってからが普通です。
しかし、エスクリヴァ神父の場合、死後わずか17年目で列聖されました。異例なことで、教会内でも批判がありました。

カトリック教会は10億人の信徒を有する巨大な組織ですから、その内部には保守派もあれば改革派もあります。
オプスデイは保守派の砦として、カトリック教会の世界戦略に大きな影響力行使しているという見方があります。

最近、ベルギーで最大の発行部数を持つ新聞に、特ダネ扱いで“フィリップ皇太子、ビルデルベルグのメンバーになる”という記事が出ました。
Bilderberg Clubは、1954年にオランダのユリアナ女王の夫君、べルンハルド殿下とアメリカのロックフェラー財閥の総帥、ダヴィッドロクフェラーによって創立された超秘密主義、超限定メンバーのクラブで、目的は「世界の政治経済の総体的戦略を話し合う」ことだそうです。
創立集会の場所がアムステルダムのBiderberg Hotelだったので、この名前がついた由です。

私もこの記事を読むまで、Bilderberg Clubの存在さえ知りませんでした。上には上があるものです。
同クラブのメンバーには、数は少なくても世界の政治経済に大きな影響力を行使できるトップ中のトップが入っているもようです。何しろ超秘密主義の集まりなので、新聞記者も“もよう”としか書けないみたいです。

お父さん、最近お母さんと娘さんがなにやらひそひそと話し合ってるようですが、大丈夫ですか。お父さんの行く末が、お父さんの知らない所で密かに決められているのかも知れませんよ。気をつけましょう。

No.134.アラブ賛歌

No.134.アラブ賛歌


タイトルがちょっと誤解されそうですが、アラブはアラブでもアラブ馬の話です。

去年の暮れに、添乗でモロッコに行ってきました。
北アフリカのいわゆるマグレブ3国の中で、モロッコは好きな国です。今回の添乗をいれてもう5回行きました。

5回のうち2回は個人で行きました。個人旅行の1回目は、ベルギーで友達付き合いをしているモロッコ人の友人の案内で、ベルギーの友達も入れ、総勢5人でサハラ砂漠の奥地まで行って来ました。
モロッコ領サハラで、人間が住んでいる最後の町まで行き、そこから四輪駆動で
さらに奥地まで行きました。
 8月の酷暑の中、よりによってサハラ砂漠の奥地へ行くなど、なんとも酔狂な話です。今日は40度でしのぎ易いなど言う地元の人の言葉が、抵抗なく聞こえる大変な暑さでした。水が命でした。

しかし、夜になると砂漠の気温は一気に下がり、快適なキャンプ生活ができます。
サハラのど真中に敷物を敷き、満天の星空を見ながら、最後の町で仕込んできたクスクスやタジンを肴に、サハラの酒盛りをしました。
砂漠の静寂は、わたしたちが都市生活で知っている静寂とは次元が違います。宇宙的な静寂とでも言うのでしょうか。命の源へ引き込まれていくような、そんな静けさです。

2回目のモロッコ個人旅行は、乗馬が目的でした。
本場のアラブ馬に乗るために、乗馬クラブの仲間4人とマラケシュに行きました。
マラケシュ近くの宿泊設備付きの乗馬クラブで、初めて憧れの純血種のアラブ馬に乗りました。
来ている人は殆どが欧米の馬好きで、地元のモロッコの人はいませんでした。

これでも、もう18年近く馬に乗っていますが、マラケシュで最初にアラブ馬の鞍に跨った時は、さすがに緊張しました。この馬は乗りこなすのが難しいからです。
馬は乗り手の心理状態を極めて敏感に感じ取ります。乗り手が緊張してれば、その人が初心者の場合、馬はその人を馬鹿にして言うこと聞かなくなります。慣れた乗り手でも当人が緊張していれば、馬は神経質になって抑えるのが難しくなります。

自慢じゃありませんが、落馬の回数なら人に遅れは取りません。今はさすがに落ちませんが、初心者の頃はよく落ちました。乗馬を始めてから、少なくとも20回は落ちてます。
そのうち2回は打撲がひどくて、2ヶ月以上医者通いをしました。その頃、社員から会社の繁忙期には乗馬を差し控えて欲しい、という要望が出されました。
他に、落馬はしませんでしたが、森でギャロップの真っ最中にアキラ跳ね上がり、これを抑えようとして右手の靭帯を切って手術を受けました。全治六ヶ月と言われましたが、いまだに右手首が元のように曲がりませんので、一生このままなのでしょう。

満身創痍の身ながら、モロッコまで来て衆人環視のなかで落馬する訳にはいきません。優しく優しく馬との対話をしながら、抑えるところは抑えて馬場を回っているうちに、お互いの心が通じるようになり、こちらの思う通りに動いてくれるようになりました。

面白いと思ったのは、自分が乗った馬の名前が“マレンゴ”だったことです。
“マレンゴ“はナポレオンの愛馬の名前です。エジプトから来たアラブ馬と言われてますが、ナポレオンは数ある馬のなかで、”マレンゴ”をことさら愛し、いつもこの馬に乗っていました。
皆さんも、どこかでナポレオンの乗馬姿の肖像画を見たら、“マレンゴ“のことを思い出してください。

世界には沢山の種類の馬がいますが、その中で“Pur-sang arabe“(ピュ-ルサンアラブ)と呼ばれる純血種のアラブ馬が、もっとも高貴で美しい馬だと、私は思います。
この純血種の馬は、紀元前3000年も前から砂漠の民、ベドウィンによって飼われてきました。
他の馬との交配を厳禁し、純血種として、数千年にわたって選別が続けられてきた馬です。ピュ-ルサンアラブの肋骨と背骨の数は、他の種類の馬と違います。

コーランには、アッラーがアラブ馬を創った時の言葉が書かれています。
「汝を馬と名づけ、アラブとする。汝の両目の間に垂れるたてがみには至福が宿るであろうう。汝の行くところ全てに、人はついて行くであろう。汝は背に宝物を運び、富の源となるであろう」
預言者ムハンマドは、アラブ馬を大事にする者は、天国に行くであろうと言ってます。
従って、砂漠の民ベドウィンはアラブ馬を非常に大事に扱いました。アラブ馬のいる天幕には悪霊が入ってこないという、ベドウィンの信仰さえあります。

皆さんは、ピゥールサンアラブを見たことがありますか。残念ながらベルギーではなかなか見られません。
馬体はどちらかといえば小型で、首筋までの高さが140 cmから150cmぐらいです。ご参考まででですが、普通の馬の高さは160cmぐらいあります。大きな馬ですと、170cm以上あり、落馬すると落差が大きいので痛いです。

ピュ-ルサンアラブの顔は細く繊細です。鼻筋のまん中辺がちょっとくぼんでいるのが特徴で、口元と鼻先がきゅっと上向き加減に締まっています。そしてぱっちりとした大きな目を持っています。
馬の目はだいたい大きくて、柴又の寅さんのような目をした馬や、垂れ目の馬というのはいませんが、その中でも、ピュ-ルサンアラブの目はことさらぱっちりしていて、可愛いのです。
“馬づら”なんていったら叱られそうな、気品のある顔をしています。

余談ですが、マドリッドのプラド美術館に、カルロス五世の肖像画と共に、長男のフェリペ二世スペイン王の乗馬姿の絵があります。
ハプスブルグ家の血統は、始祖ルドルフ一世以来みんな顎が長いので有名です。カルロス五世もフェリペ二世もみごとな長顎です。ルドルフ一世から300年もたっているのに、長顎の遺伝だけは連綿と続いているのは、ハプスブルグ家の歴史と共に驚くべきことです。
プラド美術館のフェリペ二世の絵を見ながらおかしくなるのは、フェリペ二世が乗っている馬の顔の方が、よっぽど丸顔に見えることです。

ピュ-ルサンアラブの毛の色は、白か薄い灰色が多いです。ヨーロッパの童話に出てくる白馬に乗った王子さまの馬は、だいたいアラブ種の馬がモデルです。
鹿毛や黒毛もいますが、その中で額に白い星マークのある馬は、アラブ圏でことさら珍重されます 。この印しは、高貴と豊かさのシンボルなのだそうです。

馬体は無駄のない引き締まった体型で、今にも天に駆け上がるかと思わせるような、すっきりとした美しい脚をもっています。
有馬記念に勝利して、今度引退するディープインパクトの馬体によく似ています。
馬に興味のない人でも、絹のようなたてがみと尻尾をなびかせて走るピュ-ルサンアラブを見たら、きっと感動すると思います。

7世紀に、メッカの商人ムハンマドが大天使ガブリエルから神の啓示を受けて布教を始めますが、12年もかかって獲得した信者の数はたったの70人でした。
それが、イスラムを土台とした部族の政治的集合体、ウマイヤ王朝が興ると、あっという間にアラビア半島を征服し、ササン朝ペルシャを倒し、モロッコその他の北アフリカを手中にしてしまいました。

世界史上まれに見るスピードでイスラム圏が拡大していった背景には、ピュ-ルサンアラブが大きな働きをしているのです。
砂漠で鍛えられたアラブ馬のスピードと耐久力は、他種の馬の追随を許さないものがあります。
又、真偽の程は分かりませんが、アラブ馬は敵陣に近づく時、鼻を鳴らしたり、いなないたりしないので、敵軍はアラブ軍の襲来に気付くのがいつも遅れてしまうのだそうです。

同じことが蒙古馬にも言えます。
蒙古馬がいなかったら、ジンギスカンの大帝国はできなかったでしょう。酷寒と酷暑に耐え、スピ-ドと耐久力に富む蒙古馬が、ジンギスカンの兵達の果てしない進撃を可能にしたのです。

イラム圏の驚異的拡大や、世界史上空前絶後のモンゴル大帝国の成立には、それぞれの民族の馬が重要な役割を果たしている事実に、歴史家はもっと目を向けるべきでしょう。「世界の歴史は馬によって作られた」というのは、ちょっと手前味噌過ぎますか。

アラブの王様や王族、富豪は、ピュ-ルサンアラブを数10頭から100頭単位で飼っています。これは鷹狩りに使う優秀な鷹を所有するのと同じく、彼らのステイタスシンボルなのです。
空調付きのデラックス厩舎で、沢山の厩務員の世話を受けながら暮すピュ-ルサンアラブがいるかと思えば、毎日10何時間も観光馬車を引いて酷使されているマラケシュの馬もいます。
生まれてきた星が悪かったといえばそれまでですが、人間も馬も逆らえない運命というものがあるのでしょうか。

モロッコのラバトの王宮衛兵が乗っている馬はピュ-ルサンアラブです。モハメッド6世モロッコ国王も、100頭単位のアラブ馬を飼っています。
モハメッド6世国王は、皇太子時代にEUについて勉強するため、ベルギーに留学したことがあります。
皇太子は勉強のあい間に、ブリュッセル郊外のOverijsにある乗馬クラブで、乗馬を楽しんでいました。具体的な場所は、ミシュランの星付きレストラン“バルビゾン”の隣にある乗馬クラブです。

日本では、馬の動きを再現した健康機器が売り出されている、という新聞記事を読みました。その機械に跨って、乗馬をしてるのと同じ動きをすることによって、健康上のいろいろな効能がある由です。
こちらにもHippotherapie(馬を使った治療)という治療法がありますので、馬の動きには人の健康促進に役立つ何かがあるのかも知れません。

ただ、自分の経験からいえることは、いくら馬に乗っていても、ボケ防止には役に立たないのではないかということです。
わたしは「アルツハイマー」を、何故か「マルツハイマー」と覚えていました。或る日、乗馬仲間で医者のピエールに、「マルツハイマーはどうやったらかかるんだ」と聞いたところ、「バカ、おまえもうかかっているぞ」と言われました。

ところでお父さん、2月14日は聖ヴァレンタインデーです。昔のこととは云いながら、あの頃のお父さんは、お母さんにとって白馬の王子さまではなかったのですか。
今となってはもう、白馬の王子さまには戻れないでしょう。だったらせめて“チョイワルオヤジ”風のコーディネートで、お母さんや娘さんを驚かせてみたらどうですか。見直されますよ、きっと。 

No.135.放蕩息子

No.135.放蕩息子



お聞きになった方もおられるかと思いますが、お正月明けのベルギーのプレスを大いに賑わせた事件がありました。
それは、アルベール二世国王の次男坊殿下、ローラン王子がからんだ、ベルギー海軍の公金横領事件です。

きっかけは、2000年1月にベルギー海軍の調達関係の会計監査で、主計官のブラス大佐が、業者から出ている海軍への請求書の中に、幾つかの不審な請求書を見つけたことでした。
最初、海軍はこの問題を内部で処理しようと試みました。しかし不正請求書の規模が余りにも大きく、検察の手に委ねざるを得ませんでした。

5年以上に及ぶ検察の捜査の結果、ベルギー海軍の将官クラスと海軍出入りの業者が結託して、総額200万ユーロに及ぶ公金を横領していた事件が明るみに出ました。
この事件で波紋を広げたのは、横領された公金の一部が、ローラン殿下の邸宅の家具調度や内装の経費として使われていた事実を、訴追された退役将校で、かって海軍の調達部の責任者だったヴァッセン大佐が明らかにしたためです。

ヴァッセン大佐は現役時代、ローラン殿下のアドヴァイザーとして、殿下の側近の一人でした。それなのに、殿下を困難な状態に陥れるようなことを、何故公表したのでしょうか。
新聞報道によれば、同大佐はわが身に降りかかってきた訴追を逃れるため、王族の殿下を表に出したのだろうとか、同大佐はもともと精神的に不安定な人間で、そのために海軍を早期退役になったとか、いろいろ言われています。

“クレマンティン”という名前がついているローラン殿下の邸宅は、ブリュッセル郊外のテルビューレンにあります。
横領された公金の一部、約18万ユーロが“クレマンティン“の家具調度の購入費や内装費として使われた事実は、検察の捜査でもはっきりしています。

この事件は、ハッセルトの検察が担当してます。退役将校を含めた海軍関係者及び虚偽の請求書を発行した業者等、11名が訴追されましたが、ローラン殿下は訴追されませんでした。
11名の中には、虚偽の請求書に認可の判を押しまくった、海軍の事務方の女性秘書も入っています。勿論、彼女の一存でできることではありませんので、上司の承認があってのことです。
面白いというか不思議なのは、この女性秘書の名前がローラン殿下とクレールさんの結婚式の招待客名簿に載っていることです。王室の儀典に鑑みても、海軍の事務方の一秘書が、王族の結婚式に招かれることはまず考えられません。誰が名簿に入れたのでしょうか。

ベルギー海軍公金横領事件の第一回公判は、ハッセルトの裁判所で2007年1月9日に行われました。
ここでベルギーのプレスが沸き立ったのは、ローラン殿下が証人として裁判所に出頭するかどうかという臆測についてでした。
何故なら、ヴァッセン大佐の弁護士が、ローラン殿下の証人喚問を裁判所に要求したからです。

ベルギー建国史上、王族が裁判所に出頭したことは一度もありません。もし、王族が裁判所に出頭しなければならない時は、国王の勅許が必要です。
ローラン殿下は、裁判所の証人喚問に応ずることを公式に認めました。そして、アルベール二世国王は、勅許に署名をしました。
アルベール二世は、国王としてというより父親として、どんな気持ちで勅許に署名をしたのでしょうか。

当日、ハッセルトの裁判所の周囲は、内外のプレス、テレビカメラの包囲陣で大変な騒ぎでした。
ローラン殿下は、愛車フェラーリではなく、小さなスマートを自分で運転してハッセルトまで来ました。
裁判所という所は、やたら人を待たせる所のようですが、殿下も自分の番が回って来るまで、4時間近く待たされました。

ローラン殿下は、フラマン語が余り得意ではありません。しかし殿下は、裁判所が用意したフランス語-フラマン語通訳を断り、最初から最後までフラマン語で答えました。
また、裁判長が殿下を“Monseigneur”(直系の王族の男子を呼ぶときの尊称)ではなく、一般人と同じ“Monsieur”と呼んでいいかどうかを尋ねると、殿下は即座に勿論ですと答えたそうです。

結局ローラン殿下は、自分の邸宅のために使われた17万5000ユーロが海軍から来ていることは承知していたが、それは海軍の正規な予算の中から公的な経費として支払われたものと理解していた、といった内容の証言をしたようです。

この証言の2日後に、ローラン殿下は17万5000ユーロ全額を、海軍に返納する意向を表明しました。
法的に見た場合、殿下は善意の第三者として、このお金を返金する法的義務はありません。しかし、王族という立場上からいっても、また道義的にも、返金するのが最良の選択であったことは、世論の一致した見方でした。

王宮報道官はローラン殿下の意向を確認すると共に、殿下の行為はアルベール二世国王のクリスマスメッセージに込められた国王の勧告に沿ったものであるとの見解を公けにしました。
年末に、国王が恒例として行う国民向けクリスマスメッセージの中に、次のようなことばがありました。
「なに人も法を超えることはできない。司法は完全な独立のもとに、その任務を遂行しなければならない。もしなに人かが、正当な理由も無く富を手にすることがあれば、それを正義にもとづいて修復するのは当然である」

国王の演説を読めば、海軍の公金横領事件が、年明けに検察によって訴追される事実や、息子のローラン殿下がからんでいる事実を国王は知っており、それとなく息子を諌めているようにもとれます。
息子を思う父親として、国王の胸中はいかばかりだったのでしょうか。

この事件を契機に、ベルギー政府や与野党の党首がそれぞれ談話を発表しました。
その中で、王室や王族に厳しいフラマンの政党は、王室予算の改革、或いは廃止を要求しました。彼らによれば、国王夫妻と皇太子夫妻以外の王族関係者に対する経費の国庫負担は廃止すべきであるというものです。
これに対して、フランス語系の政党の党首談話は、王室予算の会計検査を厳しくすればいいといった、穏やかなものでした。

日本ではとても考えられない議論が、なんの妨げもなく行われるのは、ベルギーが成熟した立憲君主国だからでしょうか。
ご参考までに、新聞に発表された国王並びに王族に対する2007年度国家予算を書いて見ます。
国王           954万2千ユーロ(訳15億円)
フィリップ皇太子      92万4千ユーロ(1億4千600万円)
ファビオラ前王妃     144万4千ユーロ (2億2千800万円)
アストリッド王女      32万ユーロ   (5千60万円)
ローラン王子        31万2千ユーロ (4、930万円)

皆さんの反応はどうですか。
「公務をあれだけこなしているのに、これしかもらえないの」ですか、それとも、「こんなにもらっているの」ですか。

わたし個人としては、かなりつつましい予算だと思います。
国家元首である国王の宮廷費が、わずか15億円足らずです。
日本のなんとかドアやなんとかファンドが全盛時代には、15億円なんて屁みたいな金額だったではありませんか。
アストリッド王女やローラン王子に対する予算は、日本の大きな会社の部長さんか役員の年俸程度ではないのですか。社長さんなら、もっと貰っているでしょう。
王女や王子への国家予算廃止を唱える人たちは、二人とその配偶者が、ベルギー国のために沢山の公務をこなしている事実を忘れているみたいです。

ベルギー海軍公金横領事件は、ローラン殿下の必ずしも幸せとはいえなかった成長記録を、国民に思いおこさせる機会となりました。ベルギーのプレスは、こぞってこの事実を書きました。

ローラン殿下は、幼少期から両親の愛情や慈しみを余り知ることなく育ちました。理由は、彼が誕生した後、両親であるアルベール殿下(当時は王弟殿下)とパオラ妃の関係がうまくいかなくなり、一時は離婚寸前の状態だったからです。当時のヨーロッパの王室ジャーナリストが、二人の関係を盛んに書きたてました。

ローラン少年は、成長するにつれて両親に対しても王室に対しても、様々な形での反抗的態度を取るようになりました。彼に対して、“王室の反逆児“とか、”放蕩息子“とか、いろいろな綽名がつくようになりました。

ローラン少年は普通の家庭の子供ではありません。
彼の身体には、ブルボン王朝も含めてヨーロッパ有数の王家の血が流れています。初代のベルギー国王レオポルド一世から数えても、ドイツ、フランス、スエ―デンの王家と、イタリアの名門貴族の血が入ってます。遡って調べれば、王家の数はもっともっと多くなります。

ローラン少年は、自分の身体に流れている王家の血、自分の置かれている立場、自分に課せられている責務、覆すことの出来ない自分の運命の重みに悩み苦しんだのでしょうか。そしてその悩み苦しみをを受けとめ、励ましてくれる両親の不在が、彼をして反逆児とか放蕩息子とか呼ばれる行動を取らせたのでしょうか。

わたくし如きしもじもの者に、高貴な血を受けて生まれてきた方々の悩みや苦しみは実感としては分かりませんが、窺い知ることはできます。大変な仕事だと思います。
昔、浩宮殿下のご案内を仰せつかり、ルーバンの街を散策したことがあります。
その時、自分が下宿していた家の前をたまたま通りかかりました。わたしは愚かにも“殿下、わたしはここに下宿をしてました”と申し上げたところ、殿下は“そうですか。こちらにおられたのですか”と答えられました。どんな愚か者にもきちんと答えを返される殿下のお気使いに、感服したものでした。

 お父さん、どうですか。夏はちじみのシャツに、すててこ姿でビールが飲めて、冬は一杯飲み屋でニラレバで焼酎のお湯割かなんかを飲んで、爪楊枝で歯をせせりながら道を歩いても、誰にも文句を言われない、そんな境涯を幸せと思いませんか。(かんとう)

No.136.聖なる人々

No.136.聖なる人々



2007年1月22日月曜日に、ひとりのフランス人が亡くなりました。94歳でした。
このフランス人の逝去に際し、シラク大統領は、「亡くなった方への計り知れない尊敬と深い敬愛の念」を含む哀悼の談話を発表すると共に、葬儀は国葬をもって行うという決定をくだしました。
次期フランス大統領選挙の有力候補者二コラ サルコジ内相や、競争相手のセゴレン ロワイヤルさんも次々と哀悼の談話を発表しました。

一方、フランスのテレビ各局は競って特別番組を組み、新聞、雑誌は大々的な特別記事を載せました。
ベルギーのテレビも、定時ニュースの大部分をこの亡くなったフランス人を偲ぶ内容に費やしました。ベルギーの仏語系で発行部数がトップの新聞は、6ページもの特集記事を組みました。

大統領臨席の元に、国葬をもって見送られるこの大物は誰だったのでしょうか。その人は、ピエール神父というカトリックの神父さんです。
皆さんは、この神父さんについて聞いたことがありませんか。白いあご鬚にベレー帽、なん10年も着ているよれよれのオーバー姿で、眼鏡をかけた柔和なおじいさんの顔を、こちらの新聞かテレビで見たことはありませんか。

ピエール神父は、マザーテレサのように日本では知られていないかもしれません。
しかし彼は、フランスでは最も有名で、フランス人が最も好ましく感じている人物のランキングでは、いつも1番か2番になっていた人です。
フランスの政治家がピエール神父と写真を撮りたがったのは、有名な話です。

ピエール神父はなにをした人なのでしょうか。
簡単に云うと、神父はこの世でもっとも貧しい人々、社会から見捨てられ人々、疎外された人たち、一夜の雨露をしのぐ屋根を持たない路上生活者のひとたちのために、一生を捧げた人です。

ピエール神父の本名はアンリ グルエといいます。
彼は1912年8月5日に、リヨンの裕福な家庭の7番目の子供として生まれました。両親は熱心なカトリックで、特に父親のアントワンヌは、浮浪者や貧しい人をみると必ず寛大な施しをする人として、地域では有名な人でした。
アントワンヌは子供たちに、「神様がわたしたち下さる最大の贈物は、わたしたちが他人を幸せにしてあげられる喜びなのだよ」と、いつも言い聞かせていたそうです。

アンリ少年は16歳の時、修学旅行でイタリアに行き、ローマとアッシジを訪れました。アンリ少年は、聖フランシスコゆかりの地、アッシジで、自分も聖フランシスコに倣った生活をしたいという強い思いにとらわれました。
彼は18歳になると、フランシスコ会の中でも特に戒律の厳しいカプチン会修道院に入りました。余談ですが、ローマの骸骨寺として有名なあの教会は、カプチン会に所属する教会です。

26歳でカプチン会の神父の叙任されると、グルエ神父は修道院の外での活動を始めました。そして第二次大戦がはじまりました。
或る日、グルエ神父の所に一人のユダヤ人が助けを求めてきました。彼はこのユダヤ人を匿い、ナチスのゲシュタポの目かすめて、密かにスイスへ逃しました。
そのうち神父は、ユダヤ人をスイスやスペインへ逃す秘密の組織をつくり、数多くのユダヤ人を救いましたが、神父自身がゲシュタポから追われる身になりました。

彼はゲシュタポの追っ手を逃れるため、いろいろな偽名を使いましたが、最後はピエール神父と名乗るようになりました。
ピエール神父はフランスの対ナチスレジスタンスの闘士として活躍し、ドゴール将軍の兄弟の一人を、フランスのナチス支配地域から非支配地へ逃がすという離れ業をやってのけました。
戦後、パリに凱旋したドゴール将軍はピエール神父を食事に招き、深甚なる感謝の意を表明したそうです。

ピエール神父はドゴール将軍の引きもあり、1945年に国会議員選挙に立候補して当選しています。
選挙運動中に訪れた工場で、左翼系の労働者に“神父は教会に引っ込んでいろ”と野次られると、神父は“神父が教会に引っ込んでいなかったから、戦争中数100人もの人の命が助かったんですよ”と、答えたそうです。

大戦後のパリには、住む家のない人々や、貧窮に苦しむ人々が溢れていました。
神父は苦しむ人々のために少しでも役にたとうと、国会議員として受け取る給与を使って、パリの下町の古い工場跡を買い取りました。そして、たまたま出会った刑務所帰りの自殺志願者の男に、死ぬ前にこれを手伝ってくれと半ば命令して、二人で工場跡に宿泊施設を作りました。

ピエール神父は議員を2期勤めた後、自分の場所は国会ではないとして、二度と選挙に出ることなく、生涯を社会の最底辺に住む人々と暮す道を選びました。

カトリックの神父や修道女、修道士は生涯独身を貫きます。
ピエール神父自身が言ってます。「わたしが結婚して妻や子供がいたら、今の仕事は決して出来なかったでしょう」と。
同じことが、マザーテレサにも云えるでしょう。マザーテレサがひとの奥さんになっていたら、インドのカルカッタまで行って、同地の最貧階層の人々のために働くことは不可能だった筈です。

エジプトのカイロにある巨大なゴミ捨て場の周辺には、たくさんの掘っ立て小屋が建っています。ゴミの山から廃品回収をして、これを売って生活している人達が住んでいます。地方からカイロに流れ込んできた極貧の人達が住んでいる地域です。

ベルギー人の修道女、シスターエンマニュエルは、人生の大半をこの掘っ立て小屋の人々の間で過ごしました。
貧しさのために学校に行かれない子供達のために学校を建て、貧窮がゆえに医者にもかかれない住民のために、診療所を設けるなどの活動をする傍ら、日常は地域の住民と一緒に、廃品回収の荷車を引く生活をしてきました。

学校や診療所の建設費や備品購入費、維持費などは、ベルギーやフランスの篤志家の寄付、それにシスターのテレビ出演謝礼や講演謝礼をまかなっています。
シスターは、今や90歳を越える高齢に達し、移動には車椅子が必要になってますので、現場での活動はもう出来ません。出身の修道院で老後をおくっています。

世の中には、自分の全存在を他者のために捧げ尽くす人々がいます。不思議なことに、こういう人々はいつの時代にもいるのです。
この人達を、滅私の行動へ駆り立てる力は何なのでしょうか。それは、己の信ずる宗教的信念としか云いようがないと思います。
マザーテレサにしても、シスターエンマニュエルにしても、自分の宗教と無関係のヒンズー教徒やイスラム教徒の人々のために生涯を捧げています。
シスターエンマニュエルがテレビ番組で、「わたしは一生かかって、一人のキリスト教徒もつくれなかったのよ」と言って、朗らかに笑っていたのが印象的でした。

カトリック教会には聖人の制度があります。
わたし達が住んでいるベルギーは一応カトリックの国ですので、聖人と何かを知っておくのも、無駄ではないでしょう。
ゲントのSt.Baafsカテドラルの「神秘の子羊」を見ても、聖人のことが分からないと、理解できない部分がたくさんあります。

聖人というのは簡単にいうと、間違いなく天国にいった人のことです。
史上もっとも確実な聖人はだれでしょうか。それは、キリストと一緒に十字架にかけられた2人の強盗のうちの1人です。
十字架上で改心した強盗に、キリスト自身が「今日汝はわたしと共に天国にあるであろう」と保障したのですから、これは間違いありません。

聖人は自分でなろうと思ってなれるものではありません。
通常は、命をかけて教えを守った殉教者、己を滅して人々のために生涯を捧げた人、或いは、生涯をキリストに倣って徳を積み、人々に多大な感化を与えた人などが、死後人々の崇敬の対象となっているのを、教会が正式に認め場合、初めて聖人と呼ばれます。

バチカンには、有徳の人が亡くなると、その人が生前活動していた地域や国から、聖人の審査願い(列聖願い)が寄せられます。日本からは、キリシタン大名高山右近の列聖願いが出ています。審査は普通50年ぐらいかかります。
まず亡くなった人による奇跡が証明されなければなりません。例えば、亡くなったマザーテレサにお祈りしたら、これこれの奇跡が起こった等々です。
聖なる人の様々な事例が集まったところで、これに徹底的に反証する通称「悪魔の検事」と呼ばれる役職がバチカンにあります。

厳しい審査の結果、亡くなった有徳の人が、聖人であることは間違いないが、もう少し審査の時間が必要という段階で、その人に「福者」の称号が与えられ、正式な崇敬の対象になります。
マザーテレサや、コルベ神父(ナチスの収容所で、餓死刑を宣告された囚人の身代わりを申し出て死んだポーランド人の神父。長崎で活動したこともある)は今福者です。

先日の朝日新聞ローマ電によれば、バチカンの枢機卿会議がが、江戸時代初期のキリシタン迫害時に殉教した188人の日本人を、福者として認める決定をした由です。
188人の中には、日本人として史上初めてヨーロッパの土を踏んだペドロ岐部神父も入っています。
わたしは、17世紀初頭に当時の日本人として稀有壮大、破天荒な旅をしてヨーロッパまで行き、イエズス会の神父になってキリシタン禁制の日本に戻り、ついには殉教したペドロ岐部神父の生涯に、強い関心を持っています。

聖人や福者は、教会が認めた人だけなのでしょうか。勿論そうではありません。
教会も、その辺のところはちゃんと心得てまして、カレンダーの11月1日に、「諸聖人の祝日」なる日を設けてます。これは教会の聖人録に名前の載っていない、「隠れた聖人」の方々をお祝いする日です。

年によりますが、11月1日はうまくすると連休になります。
そこでわたしども旅行代理店は、連休向けのツアーを作って、多少なりとも儲けさせて頂くことになります。
考えてみれば、復活祭から始まって、昇天祭、聖霊降臨祭、そして諸聖人の祝日と、なんだかキリスト様のお蔭で商売をさせて頂いている感じです。
今度ローマに行ったら、サンピエトロ大聖堂のお賽銭箱に、なにがしかのユーロコインを寄付してこようかなどと考えながら、イタリアワインのLacrima Chriti(キリストの涙)を飲んでいます。バチが当たりますかね、これ。

No.137.ベルギーはもう死んでいるか

No.137.ベルギーはもう死んでいるか



当地の週刊誌に、“La Belgique est deja morte ! ”(標題と同じ意味)と題した記事が載りました。かなりショッキングなタイトルです。
週刊誌やテレビは、どこの国でも刺激的なタイトルで購読者や視聴者をつかもうとしますので、そのまま鵜呑みにする訳には行きません。

昔、日本で見たテレビに「狐の怨霊漂う里」というのがありました。
番組が始まると、重々しいナレーターの声が、「われわれ取材班は、狐の怨霊漂う里へと向った」と告げ、まず藁屋根の農家の映像が出てきます。
結局この番組が見せてくれたのは、農家とちっちゃな祠と雑木林だけでした。
ナレーターは、「われわれ取材班の努力にも拘らず、狐の怨霊の動きを捉えることは出来なかった」と重々しく告げ、番組は終わりました。随分ひとをバカにした番組です。
取材班がどういう努力をしたのか聞きたいものです。

最近日本で問題になったテレビ番組、「発掘、あるある大辞典」の納豆ダイエット騒ぎも、狐の怨霊番組と似たりよったりではないでしょうか。そんなことが有るわけないのに、さも有るかのように番組を捏造して、視聴者をたぶらかす点では同根です。

それにしても、日本人の付和雷同的国民性は世界に冠たるものがあると思いませんか。
ああいう番組で、こんにゃくダイエット放映されると、こんにゃくの品切れが起こり、納豆ダイエットが放映されると、スーパーの売り場から納豆が消えます。
番組を見た視聴者が、こんにゃくや納豆を買いにわっと走り出す姿を見るのは、捏造番組制作者の醍醐味なのかも知れません。

ところで、刺激的なタイトルを掲げた当地の週刊誌の中身の方はどうでしょうか。内容はかなり真面目なものでした。
簡単に言いますと、ベルギー人の心というか、この国を構成する2つの民族、フラマンとワロンの人々の心に、ベルギーという国は存在しているのか。存在しているとしたら、どういう形で存在しているのかと云う問いを、それぞれの民族にぶっつけたルポルタージュ形式の内容でした。

まず取り上げられたのが、昨年の12月13日に国営フランス語テレビRTBFが流したフィクション番組に対するフラマンとワロンの反応の違いでした。
この番組は日本の新聞を始め、各国のメディアに取り上げられ大きな反響を呼びましたので、ベルギー在住の皆さんもご存知かとおもいます。

2006年12月13日水曜日、19時30分からの定時ニュースが終了してCMの時間になっている時、定時ニュースを担当したキャスターのフランソワ ドブリゴードが再び画面に登場して、「臨時ニュースを申し上げます。今夕、フラマン政府議会はベルギー国からの一方的独立を宣言し、フランドル共和国の樹立を宣言致しました」とやり始めました。
カメラは王宮を出て飛行機に乗り込み、行く先を告げずに国外に“脱出”する国王の姿や、フランドルの町に電話をしようとしたら、それが国際電話になっていて戸惑う市民の姿など、いろいろな映像を流しました。勿論、映像はモンタージュややらせです。

興味深いのは、ワロンとブリュッセルのフランス語圏のベルギー人の10人のうち8人が、この番組で告げられたフランドル独立を信じたことです。
RTBFは放送の途中から「この番組はフィクションです」というテロップを何度も流したにも拘らず、局の電話はパンク状態になり、なかにはパニックに陥ってRTBFまで駆けつけて来た市民もいたそうです。
また、本国政府へ至急情報を送るため、ベルギー外務省やRTBFに事実関係の照会をしてきた大使館も複数あったそうです。

一方、フラマン側の反応はどうだったのでしょうか。
フランス語放送なので、フランドルの視聴者の数は多くなかったのは事実ですが、一般的な反応は“無関心”の一語に尽きるそうです。
ベルギーのフランス語圏の人達が大騒ぎするフランドル独立について、肝心のフラマンの人達が無関心なのはどうしてでしょうか。この温度差はどこから来るのでしょうか。

もともと、フランドルはワロンに関心が薄いと言われてます。教育を受けたフラマン人でも、ワロンの都市La Louviereが何所にあるかを知らなくても、特に珍しいことではないそうです。

フラマンの人達のワロンへの無関心は、突き詰めていけばベルギー国そのものへの無関心につながと言えると、フラマンのレポーターが書いてます。
フランドル独立の虚報に平然としていられるのは、フラマンの人達は日頃から“さもありなん”と考え、心の準備ができているからなのでしょうか。
EU域内で最も豊かな地域の一つであるフランドルは、そこに住む人々に自立しても十分にやっていけるという自信を与えているのでしょうか。

フランドル独立の虚報でパニックに陥るワロンの人達は、いつかそういう日が来るに違いない、ベルギーが解体する日が来るに違いないという、一種の脅迫観念をもっているのかも知れないと、同じフラマンのレポーターが書いてます。

フラマン-ワロンの共同体交渉でいつも問題になる案件があります。
それは社会保障行政の権限移管の問題です。要求するのはフラマン側で、反対するのはフランス語圏側です。
医療保険その他の社会保障行政の権限、予算を中央政府から各共同体政府に移管する、つまり自分達の病気の保険は自分達の稼いだ金で賄い、相手の金を当てにしないようにしようというものです。

雑誌のルポルタージュによれば、フラマンの庶民の感覚として、自分達の金でワロンの足りない部分を補ってやっている、という意識があるそうです。
フラマン人はオランダ人に似て、自分の財布からなかなか金を出したがらないのだそうです。社会保障など、自分達の生活に直結する行政権限は、早く共同体政府に移管して欲しいというのが、フラマン側の言い分のようです。

他方、ワロンというかベルギーのフランス語側はこう言います。
これまで数多くの行政権限が、中央政府から共同体政府に移管され、国としての一体感が希薄になりつつある今日、社会保障行政まで共同体政府に移してしまったら、ベルギー国民としての一体感、互助の精神はどうなってしまうのか、社会保障行政こそ国民の一体感を支える最後の砦であると。

フラマンの人の好きな冗談があります。
ワロンの工場に行くと、工場の入り口に「Ici on parle francais」(ここではフランス語を話す)と書いてあるが、フランドルの工場に行くと「Hier werkt men」(ここでは人々は働く)と書いてある。

皆さんの会社のベルギー人スタッフはフラマン系とフランス語系で、どちらが多いですか。フランドルやワロン地区にある工場や事務所は別にして、ブリュッセルの場合、フラマンの人の方が多くはありませんか。

ベルギー人で、3ヶ国語や4ヶ国語を話す人は珍しくもなんとありません。絶対的一言語国から来ているわれわれ日本人から見ると、本当に羨ましい限りです。
統計を見たわけではありませんが、ベルギー人はPolyglotte(多言語を話す人)という評判を作り出しているのは、圧倒的にフラマンの人達ではないかと想像しています。

わたしが通っているVUB(フラマンのブリュッセル自由大学)の語学講座のクラスメートは、圧倒的にフラマン人が多いのですが、最初は気がつきませんでした。何故なら、彼ら彼女らは完璧なフランス語を話すからです。彼ら同士で話してるのを聞いて、フラマンだと分かったぐらいです。
友達のディルクはフラマンの弁護士ですが、彼はオランダ語、フランス語、英語のどれでども法廷活動ができます。
こういう人達が、労働市場でフランス語系を圧倒してしまうのは当然でしょう。

フラマンとワロンの間にあるイメージの壁は、かつてのベルリンの壁よりも厚いと言われています。お互いに相手のイメージを作り上げ、実際は相手を知らないという意味です。
フラマンの人から見たワロン人は、ストばかりやって会社やダメにし、困ると自分で努力をする代わりに、他人や国の金を当てにする連中、というものです。
ワロンからみたフラマン人は、昔めぼしい産業がなかったフランドルに、巨額のワロンの金を投資をして近代的な産業を興し、現在の繁栄の基礎を築いた事実や、仕事のないフラマン人が大量にワロンに流れ込んできた時、彼らに仕事を与え生活できるようにしてやったのに、過去の恩義を忘れ傲慢な振る舞いの多い連中、というものです。

一つ、個人的に経験したことがあります。
さるレストランでの事です。このレストランはミシュランの星を拒否したことで、かえって有名になったレストランです。そこはテーブルにつく前に、別室でアペリティフを飲みながらメニューを選ぶようになっています。

私達の席の近くに、品のよい2組のベルギー人カップルがいました。彼らはフラマンごを話していました。メニューを聞きに来た給仕長は、聞いていると余りフラマン語が得意ではないようです。
すると最初はフラマン語で話していたこの人達が、完璧なフランス語に切り替えてメニューのオーダーを始めました。

そこにどやどやと4人のグループが、声高にフラマン語を話しながら入って来ました。
この人達は周りに聞こえるような大声のフラマン語で、給仕長をいびり出しました。
“フランス語ではこう言うんでしょう”などとフランス語をまじえるのを聞いてると、彼らはフランス語も良くできるのです。

彼らの態度はこう言っているようです。
「おれ達フラマンだかんね。ゼニ持ってんだかんね。なんぼブリュッセルの高級フランス料理屋にきたって、絶対フラマン語しゃべんだかんね」

お客様の言葉をきちんと話せない給仕長に問題があるのは確かですが、それを見てさっと言葉を切り替えたフラマンの2組のカップルの寛容な態度がフランドルの一面なら、周りの顰蹙をかうような大声で給仕長をいびるフラマン人グループの態度も、現在のフランドルの一面を現しているのでしょう。

テーブルについてから気がついたのは、上品なフラマンの2カップルが森の見えるいい席に案内され、大声のグループはお手洗いへ行く扉近くの席に案内されたことでした。

私達の住むベルギーという国がなくなってしまうなんて、とても信じられません。でも、それを荒唐無稽な話として、一笑に付すことができない要素があるのも事実です。

お父さんの場合はどうですか。家族の中で消滅していませんか。年金受給日にさらに消されないように、お母さんとくだんのレストランにでも行ってみませんか。住所、電話番号はいつでも教えますから。       

No.138.デュポンさんが店を閉じます

No.138.デュポンさんが店を閉じます


31年間の長きにわたって、ミシュランの二つ星を保持し続けてきたブリュッセルの名門レストラン、“Claude Dupont”が、この6月30日をもって店を閉じます。
理由は、オーナーシェッフのクロード デュポンさんが引退をするためです。残念ながら、後継者がいません。
長男のエリックさんは、料理人としてお父さんの所を始め,“La Villa Lorraine”,“Comme chez soi”,“ De Bijgarden”など錚々たるシェッフの元で修行を積んできた人です。しかしエリックさんは、お父さんの店を継ぐことを断念しました。

ベルギーに限らず、ヨーロッパで子供が親の跡を継ぐというのは、われわれが考えるほど簡単ではありません。
特に、父親の事業がある程度以上の規模を持っている場合、話は面倒になります。
子供が父親の事業を継ぐということは、子供が父親の事業を買い取ることを意味します。通常は父親の店の「Fond de Commerce」と呼ばれる商権を買い取ります。日本風に言えば、父親に「暖簾代」を払うことになります。
親は子供から受け取った暖簾代を、夫婦の老後の生活資金の一部に当てるのです。
「全部あげるからやってごらん」などという、甘ちゃんの父親はまずいません。

“Claude Dupont“クラスのレストランになれば、なまなかな暖簾代では済まないでしょう。それにレストランが入っている建物はデュポンさんのものですから、これも買い取るとしたら、莫大な資金が必要になります。若いシェッフが工面できる金額ではありません。
ま、そこは親子ですから、暖簾代の支払いは月賦にするとか、建物は当面賃貸形式にして、毎月家賃を払うとか、いろいろな便宜を計ってもらうことは可能でしょう。

しかし、他にもいろいろな問題があります。
最近も、三ツ星レストラン“Comme chez soi”が、代替わりになったとたんに星を一つ失い、一種の社会問題にさえなりました。
フィリップ皇太子が”Comme chez soi”のオーナーシェッフ、ピエール ウィナンさんに自ら電話をして、変わらぬ支持を約束したという話が伝わってます。

“Claude Dupont“も代替わりになれば、よくて一つ、悪くすれば二つの星を失うかも知れません。
その場合、これまでと変わらない客層が来てくれるか、同じだけの売上を維持できるか、キッチンやサービスのスタッフは若い自分についてきてくれるか、等々考えると、エリックさんも、そう簡単にお父さんの跡を継ぐとは言えなかったのでしょう。

それに、ベルギーで高級レストランを経営することは、並大抵のことではありません。レストランのVAT(消費税)が21%なんていう国が、どこにありますか。また、従業員の為の雇用者負担が、ベルギーはEUの中でもトップクラスです。
さらにレストランにとって痛いのが、ベルギーの税務当局はレストランの接待経費を50%しか経費として認めません。隣のルクセンブルグは100%認めるのにです。

話がそれますますが、最近のミシュランの星のつけ方には、かなり問題があると思います。
いい例が“Comme chez soi”の場合です。
オーナーシェッフのピエール ウィナンさんが引退して、後継者に娘婿のリヨネル リゴレさんが就任しました。
リゴレさんは、数多いウィナンさんの弟子の中からその才能を認められて 、ウィナンさんの長女、ローランスさんとの結婚を認められた人です。
リゴレさんは料理人としての才能もさることながら、長身のいけめんですので、ローランスさんも最初から首ったけだったようです。

代替わりを発表するかなり前から、“Comme chez soi ”のキッチンでは、リゴレさんが実質上のシェッフとして采配をふっていたのは、誰でも知っていることです。
その間も、ミシュランは“Comme chez soi”の三ツ星に手を触れませんでした。ということは、ミシュランはリゴレさんの料理が三ツ星に価することを、間接的にも認めていたわけです。
それが、代替わりを発表したとたんに、ミシュランは星を一つ減らしました。これはどう考えても納得がいきません。
だいたい、リオネル リゴレは「Gault Millau」によって、ヨーロッパで最も優秀な料理人の一人に選ばれるほどの、才能豊かな料理人なのです。

フランスの有名な料理人、ポール ボギュ-ズなど、事業拡大で各地を飛び回っているので、殆どキッチンにいないと言われています。ボギュ-ズの店の料理はボギュ-ズ以外の料理人が作っているのに、ミシュランの星に何の変化もありません。

わたしは以前、ブリュッセル市内の某星付きレストランが、その料理、サービスのどこをとっても星には価しないので、ミシュランに細かいレポート付きの手紙を出したことがあります。
次回のミシュランでは、このレストランに星を与えるべきではないと書きました。
ミシュランから丁重な返事がきました。そこには、ご意見は次回評価の参考にさせて頂きますとありましたが、そのレストランは依然として星がついてます。もちろん、わたしはこのレストランには絶対にいきません。

一方、ミシュランに星を返上するレストランが出てきているのは、面白い傾向です。
ザベンテムの近くのNossegemという町にある“Orange”というレストランは、今はビストロ風の気軽に行けるレストランになっています。
でもこのレストランは、かって“Roland Debuyst”というシェッフの名前を店名にした、星付きの高級レストランでした。
内装、什器、料理、給仕人、値段のどれをとっても、現在の“Orange”とは全くカテゴリーの違う高級レストランでした。

ドゥブュイストさんは、自分の星付き高級レストランをがらりと変えて、今のビストロ風レストランにしてしまいました。
ビストロとは云えシェッフは同じですから、“Orange”の料理は評判がよく、日本企業の方々もビジネスランチなどによく使ってるみたいです。

パリのマドレーヌ広場にある“Luca Carlton”も不動の三ツ星レストランでしたが、ここも星を返上して“Senderens”と名前を変えて、高級ビストロに作り変えました。
しかしミシュランは、2年後にこのビストロに二つ星をつけました。意地悪をしたのでしょうか。

とは云え、ミシュランの星が付くのと付かないとでは、レストランの売上が20%以上違うそうですから、星の神通力はまだまだ侮れないのです。
その星を31年間も維持してきたデュポンさんは、やはり非凡な料理人と云うべきでしょう。

デュポンさんは1938年に、現在のレストランがあるブリュッセルのガンスホーレン区で生まれました。
1955年にC.E.R.I.A.(ブリュッセルのホテル、調理師専門学校)の料理コースを卒業した後、当時のブリュッセルの一流シェッフの元で見習い小僧から出発して、料理人としての修行をスタートしました。
当時のブリュッセルの料理人の世界で華を競っていたのは、“Le Canterbury”のアルベール ニールス、“Le Barbizon”のドゥリュック、“L’Auberge Alsacienne”のジョルジュ ミッシェルなどでしたが、若き日のデュポンさんはこれら有名シェッフの元で、日夜修行に明け暮れていました。

デュポンさんが修行をしたレストランで今も残っているのは、“Le Barbizon“だけです。現在の”Le Barbizon“のシェッフは、デュポンさんの師匠の息子さんです。

1964年、26歳のデュポンさんは“Chez Marius – En Provence“のシェッフとして独り立ちします。”Chez Marius“は、今でもサブロン公園に面して店を続けている老舗です。
1967年、デュポンさんは若手料理人の登竜門、「Prosper Montagne賞」の一位を獲得します。同時に、かって自分が修行をした“Le Canterbury“のシェッフの地位に就きました。

1968年に、東京のホテルニューオータニで開催された「Festival de la Gastromie Belge」の主任料理人として招かれ、日本に3ヶ月間滞在しました。
さらに2年後の1970年には、大阪万博ベルギー館の料理人を要請され、2度目訪日をします。
大阪から戻った翌年、1971年4月12日に、ついに自分のレストラン“Claude Dupont“をオープンしました。

驚くべきことは、開店した翌年にはもうミシュランの一つ星がついたことです。そして4年後の1976年に二つ星がつき、今日まで微動だにしていません。31年間ミシュランの星を維持してきたレストランは、ミシュランの歴史でもそう多くはありません。

クロード デュポンの料理は伝統的なフランス料理の土台をきっちりと守りながら、そこにデュポン独特の前衛的といってもいい素材の処理、味付けがなされています。
彼が得意とする、鰈のグリル粒入りマスタードソースや、鰻と川鱒ハーブソース
に見られるあの軽やかなデュポンのソースは、伝統的フランス料理のソースとはあきらかに違うものです。
あくまでも軽いデュポンのソースは、素材の旨みを時にはくっきりと引き出し、時にはしっかりと包み込みます。彼が素材の質、鮮度に徹底的にこだわるのは、当然のことです。

デュポンさんが日本贔屓なので、レストランの経営に日本の資本が乗り出すのではと、想像したことがあります。それが無くてよかったと思ってます。

何故なら、過去にベルギーの料理人の世界で、一つの汚点される事例があるからです。
かってブリュッセル近郊のOverijsの森に、“Romayer”という最高級の三ツ星レストランがありました。或る時、どういう経緯があったのか、オーナーシェッフのピエール ローマイヤーさんは、自分のレストランを日本の某ビール会社に売り渡しました。

ローマイヤーさんはシェッフとして残ったのですが、レストランが日本人の手に渡ったという事実が嫌われ、たちまち客足が落ちて“Romayer”は閉鎖を余儀なくされました。莫大な金を使って大損したのは、日本のビール会社です
当時の地元紙に「今後ローマイヤーでは、箸を使って食べるのか」などと、意地の悪い記事が出たのを覚えてます。

食は文化です。その国の人々の誇りでもあります。
いくらお金があるからといって、人々の文化や誇りにまで手を突っ込むのは、品格のある国を目指す国民のやることではないと思います。

でもお父さん、店を閉じる前にお母さんと“Claude Dupont”に行って、大枚お金を使うことは品格のある行為ですから、大いにやってください。                 


No.139.ベルギーの病欠

No.139.ベルギーの病欠



おもしろいアンケートの結果を見る機会がありました。
給料計算、社会保険、年金事務などの代行業務をやっている、Securexという大手の会社が、ベルギーの民間会社のサラリーマン、24万人を対象に或る調査を行いました。

それは、ベルギーのサラリーマンが病欠を取る場合、時期や季節、曜日などにに特徴があるかどうかという調査です。
2006年で病欠が非常に多かったのは、4月3日の月曜日でした。この日は何故か、ベルギーのサラリーマンがバタバタと病気になってしまい、他の日の3.5倍もの病欠が出ています。季節はずれの寒さでも来たのでしょうか。
よく見るとこの日は、子供達がイースター休暇に入る最初の日でもありました。

2月13日も病気が流行るようです。
この日は通常の3.3倍の病欠が記録されています。翌日が聖ヴァレンタインデーなので、大事をとって家に引きこもる若いサラリーマンが増えたのかも知れません。
或いは、聖ヴァレンタインの前夜蔡にあたり、二人の愛を厳粛に確認するためなのか、二人でロマンティックな小旅行にでも行くためなのか、とにかく病欠の多い日です。

他に、2006年で“人気“のあった病欠日は、12月1日でした。
年の最後の月の第一日目が、病気とどういう関係があるのか分かりませんが、この日だけで通常の日の3.8倍もの病欠が出ています。
カレンダーをよく見ると、2006年12月1日は金曜日になっています。軽く考えれば、3連休ですか。

ベルギーの社会現象として、放っておいても必ず病欠のでる日があります。
それは9月1日の新学期始まりの日です。この日は通常の2.8倍の病欠が出ます。
特に、新入生の児童をもつ親は病気に倒れ勝ちなようです。初めて学校に入る我が子
のことが心配で病気になるのか、或いはお母さんと離れるのが嫌で、泣きながら先生に手を引かれながら校舎に入っていった我が子のそばを離れがたく、ついつい病欠をとってしまうのか、親心はどこでも一緒ですね。

これも社会現象の一つと云えるのでしょうが、週日で一番病欠が出るのは、なんといっても月曜日です。ま、月曜日に病気になりたい気持ちも、分かるような気がしないでもありませんが。
皆さんの中で、月曜の朝,目が覚めると同時にベットや布団からがばっと跳ね起き、“さあ、今週もばりばり働くぞう、エイエイオー!!”なんて気合をいれて会社に来る人はいますか。もしいたら、幸せな人です、あなたは。

わたしの場合何故か、曜日に関係なく朝寝坊というものが出来ません。
これは、子供の頃からの習慣です。
目が覚めるともう動き出します。普通は“活動開始!!”と、叫ぶまではいきませんが、一応声に出してベットから跳ね起きます。
そうすると、その日一日が元気で、楽しいことが一杯ありそうな気がするのです。

ところで、季節や月で見ると、ベルギーのサラリーマンが病気になりすいというか、病欠の多い季節はいつでしょうか。
それは秋と冬です。10月と11月、それに1月、2月、3月が病欠が多くなります。
まあ、この季節のベルギーに住んでいたら、ベルギー人に限らず、病気の一つぐらい背負い込んでも不思議ではありませんよね。皆さんも同感でしょう。

しかし不思議なのは、12月は病欠が極端に減るのです。
街にはイルミネーションが輝き、クリスマス市が立ち、楽しいクリスマスを待つ雰囲気が溢れる中で、病気もどこかに行ってしまうのでしょうか。

病欠の25%は1日だけの休みです。この1日病欠は、何故か月曜日と金曜日に多くなります。
また、病欠が1日以上の場合、病気が月曜日に始まろうが、火曜日に始まろうが、回復は週末になるというのが、一般的傾向のようです。

それにしても、ベルギーのお医者さんは「3日間の自宅静養を要する」とか、「1週間は勤務不可能」といった診断書を、わりと簡単に書いてくれます。
お医者さんによっては、“病欠期間を何日にしておきましょうか”なんて聞いてくるお医者さんもいますから、ベルギーは病欠を取りやすい国と云ってもいいでしょう。

では、ヨーロッパで労働者やサラリーマンの、病欠を含む欠勤率が一番高い国はどこでしょうか。
ベルギーではありません。お隣のフランスです。
フランスは欠勤率でEUのトップを走っています。加えて社会党政権が導入したフランスの労働時間は、週35時間労働です。これでよくフランスの経済が回っているものと、感心してしまいます。

フランスはここ5年間で、国民一人あたりの国内総生産(GDB)が世界12位から16位に転落しています。さもありなんとい気がしないでもありません。
フランス国民が、次の大統領に社会党のセゴレンさんを選ばずにサルコジさんを選んだのは、いくらなんでもこのままではフランスの将来が危ないという、危機感の現れなのでしょう。

欠勤率でフランスを僅差で追っているのがドイツです。わがベルギーはスペインと並んで堂々3位につけています。
ところで、EUで一番欠勤率の低い国はどこだとおもいますか。イタリアなのです。
意外ですか。イタリアの人達はよく働き、且つ人生を楽しむ術を知っているというべきでしょう。

一方、“本物“ の病気になってしまって、病欠が長くなる場合があります。この場合、
病欠2ヶ月目からの給料は社会保険から支払われます。
長期病欠に際して、社会保険から支払われる給与額についてEU各国それぞれにばらつきがあります。ベルギーの場合、給与の72%が支払われます。この数字は上から5番目ですから、まあまあの補償額でしょう。
ポルトガルの病欠者は、給料の63%、フランスは66%、チェコが70%です。
最悪はスロバキアで、給料の51%しか払われません。早く元気になって働きなさいということでしょうか。
 EUで最も恵まれている国はルクセンブルグです。病欠中の給料は、働いている時の給料と全く同じです。長期病欠するなら、ルクセンブルグですね。

さて、休む方はいいとして、休まれる方の立場はどうなのでしょうか。
これもSecurexの調査ですが、2006年にベルギーの経営者側が蒙った社員の欠勤による損害は、何と82億ユーロに及ぶそうです。どうやって損害を計算したのは、書いてありませんでした。
今の円対ユーロのレートで日本円に直してみてください。天文学的な数字ですよ。
しかもこの数字は、2005年に比較して3.5%も上昇しています。

面白いのは、給料のレベルによって欠勤率も変わってくるという事実です。月給が3,000ユーロ以上のサラリーマンは、余り病気になりません。病欠がぐんと減ります。
頂くものを頂いていれば、気力が充実して病気にもならないということでしょう。

ブルーカラーの欠勤率はホワイトカラーの倍になりますが、これはブルーカラーの欠勤には病欠以外に、現場での事故や怪我による欠勤が加わるためです。
年齢別に見ると、30歳前の若い勤労者ほど欠勤率が高くなります。若い時代は、友達とのパーティーやら、ディスコやら、デートやらで忙しいのです。

ベルギーの都市別でいうと、欠勤率が一番高いのはリーエージュだそうです。リーエージュの皆さん、これは私が言ってるのではありませんので、念のため。

さて、職業別の欠勤率はどうでしょうか。
ベルギーでは公務員の欠勤率が一番高いのです。民間に比べて50%以上も多いといいますから、大変なものです。
フラマン行政府は行政府の公務員の病欠の多さに業をにやし、病欠している公務員のチェックを民間の医療機関に委託しました。とたんに、病欠が大幅に減ったそうです。

ベルギーは公務員の数の多い国です。労働人口の18%に当たる85万人います。EUの平均が労働人口の12%ですから6%も多いことになります。
ベルギーの公務員の数が多いのは、ある意味では当然なのです。なにしろ、中央政府の他にフラマン、ワロン、ブルッセルの3つ政府があって、それぞれに大臣がいて、公務員がいるのですから、増えるのは仕方がないのでしょう。
大臣の数では、ベルギーは間違いなくギネスブックに載るでしょう。こんな小さな国に、大臣が60人近くいるのです。

最近出た欧州中央銀行の調査結果によりますと、ベルギーの公務員の生産性は余り芳しくないようです。先進国の中で、ベルギーの公務員の生産性は21位に格付けされています。
1位はスイスの公務員で、2位は堂々我が日本の公務員の皆さんです。日本の公務員の優秀さは、昔から定評のあるところですが、世界2位とは大したものです。
でも、今日本で大問題になっている年金5,000万人分の記録を“宙に浮かせた”のも、同じ日本の公務員の仕事だとすると、世界2位がちょっとかすんでくるような気がしますが、どうなんでしょうか。

ベルギーの公務員の生産性が低い理由として、次の3つが挙げられるそうです。
1.公務員人事への政党介入
2.IT化の遅れ
3.規則主義

1.の公務員人事への政党介入はどこの国でもあることでしょうが、ベルギーの場合、これが露骨過ぎるのです。各省庁の上級ポストは、政党の縄張りによって決まるとさえ言われてます。
つまり、何々省の何局長ポストはPS(社会党)の縄張りで、別の局長ポストはMR(改革運動党)のポストという具合に、政党支配が出来ているというのです。
この国で、民間であれ役所であれ、将来偉くなろうと思ったら、大学卒業前に有力政党の党員登録をして党費を納め、党員カードをもらうことだと言われてます。

日本の企業や役所の病欠率は知りませんが、けっして高くはないと想像します。多少の熱ぐらいで会社を休む人は少ないでしょう。重要案件を抱えている場合、それこそ這ってでも会社に行く人がいます。

ところでお父さん、お父さんの会社の日本人スタッフの方が、某旅行代理店のツアーに参加を希望される場合、多少の病欠は大目に見てあげてください。お願いします。    

No.140.星になったパトゥー

No.140.星になったパトゥー



パトゥーの本当の名前はパトリシアです。でもパトリシアは、みんなからパトゥーの愛称で呼ばれてました。
乗馬クラブの仲間だったパトゥーは、23年間に及ぶ病魔との闘いに終止符を打ち、46歳の若さで静かに旅立ちました。

彼女の葬儀に出席しました。葬儀は宗教色のないものでしたが、会場に入りきれないほどの人々が集まりました。彼女が職場や乗馬クラブ、その他、彼女が関わりのあった人たちからどんなに愛され、親しまれていたかの証拠を見ました。

わたしは、パトゥーが亡くなる3ヶ月前まで、彼女がそんなに重い病気に苦しんでいる事実や、余命が残り少ないことを知りませんでした。
彼女の目はいつもきらきらと輝き、溢れるばかり笑顔で、話し方は常に生き生きとしていました。こちらに元気がない時でも、彼女と話すと気持ちが明るくなり、元気を取り戻すのです。彼女がいるだけで、周りがぱっと明るくなる、そういう人でした。

そんなパトゥーが、20代の時に乳がんという病魔にとり付かれ、以来、何度かの手術で両方の乳房を失い、化学療法のせいで髪の毛を失い、カツラを常用するという、苦しくて辛い闘病の日々をおくってきたのです。
彼女の強靭な意志の力、生きることへの驚異的な気力、自分の身体を蝕む病気への飽くなき闘争心、自分の悲運に打ちひしがれることなく、人生をいつも肯定的に見続けた彼女の性格が、彼女に23年間の命を与えたのだと思います。
今になって思えば、彼女の健康状態でよく乗馬を続けられたものと、感心してしまします。

パトゥーは亡くなる3ヶ月前に、乗馬仲間のリリアと二人で、スペインのアンダルシア地方に1週間の旅行をしました。
旅行から帰ってきた彼女に、クラブでばったり出会いました。ちょっぴり日焼けして帰ってきた彼女と、こんな会話をしました。
「どうパトぅー、旅行は楽しかったかい」
「うん、とってもたのしかった。また、行きたいわ」
「アンダルシアの馬に乗ってきたの」
「それが、リリアとのおしゃべりに忙しくて、馬に乗るひまがなかったのよ」
「パトゥーとリリアならそうだろうね。二人ともよくしゃべるから」

こんな他愛のない会話の奥に、パトゥーの壮絶な決意があったことを、わたしは見抜くことが出来ませんでした。
パトゥーはスペイン旅行に行く前に、全ての抗がん治療をやめる決意をしていたのです。治療をやめれば、彼女の余命が2~3ヶ月しかないことも承知のうえでの決断でした。アンダルシアへの旅行は、この世への惜別の旅だったのです。

後で、一緒に旅行をしたリリアから聞いたのですが、パトゥーは旅行中に自分の決意をリリアに告げ、こう言ったそうです。
「わたしは23年間闘ったのよ。だからもう十分よ。この旅行から帰ったら、逝く準備をするつもりよ」
勿論リリアは、パトゥーに抗がん治療を続けるよう必死になって説得をしました。しかしパトぅーは、いつもの明るい笑顔で「もういいのよ、リリア」と答えたそうです。 

抗がん治療をやめたパトゥーは、旅立つ準備を始めました。
まず、長年一緒に暮してきたボーイフレンドのヴァンサンに、自分の所から出て行ってくれるように頼みました。
ヴァンサンは、「君と最後までいる人間は、ぼくしかいないじゃないか」といって抵抗しました。しかし彼女は「最後は一人になりたいのよ」と言って、殆ど命令に近い口調でヴァンサンに出て行くことを申し渡しました。

遺産その他の処理を終え、2匹の愛猫の行く先も決めたころ、パトゥーの体調は急速に悪化していきました。
亡くなる一ヶ月間に、彼女が乗っていた愛馬”Tristan”を、クラブの有志が馬匹運搬車で彼女の家まで運び、庭で最後の別れをしました。もう車椅子でしか移動できなくなっていたパトゥーは、涙を浮かべながら愛馬との別れを惜しみました。
その時から一ヶ月もたたない或る日、パトゥーはヴァンサンや肉親に看取られ、静かに旅立ちました。パトゥーは星になりました。

病魔との闘いに23年間も苦しんでいた彼女が、どうしてあれほど明るく、輝くような笑顔で、周りの人々に希望を与え続けることが出来たのか、わたしは今、畏敬の念をもって彼女のことを考えています。
パトゥーは、わたしの人生で出会った人々の中で、もっとも傑出した人物の一人です。
彼女のことを考えると、自分の悩みや問題などが如何に卑小なもであるか、身にしみて分かります。

パトゥーが亡くなって1週間後に、又も不条理な死が或る人を襲いました。
ジャック シモネというブリュッセルの政治家が急死しました。
彼は身体の不調を訴えて病院に行きましたが、病院に着いて45分後に亡くなりました。心臓の持病があったそうです。6月のベルギーの国政選挙の際の激しい選挙運動の疲労が、彼の命を奪ったのでしょうか。43歳でした。
奥さんと小学生の二人の子供が残されました。

ジャック シモネは、今回の選挙で大幅に得票を伸ばし、ベルギーのフランス語圏で第一党になった保守系政党MR(改革運動)で、最も将来を嘱望されていた若手政治家でした。
彼は、ブリュッセルのアンデルレヒトの市長を務め、ブリュッセル首都圏政府の次期首相候補でもありました。彼の目の前には、政治家としての輝かしい未来がありました。

お父さんのアンリ シモネは、同じくアンデルレヒトの市長を務め、歴代の内閣で有力閣僚ポストを何度も経験してきた、社会党の大物政治家でした。
息子はお父さんの政党と対立する保守系政党に身を投じましたが、この親子はお互いに尊敬し合う仲のいい親子だったそうです。

ジャック シモネの突然の死に際して、与野党を問わず政界から沢山の哀悼の談話が発表されました。
その中で、かつてMRの党首、外務大臣などを勤め、現在はEUの閣僚に相当する委員の職にあるルイ ミッシェルの言葉が印象に残りました。
彼は,“Sa mort est scandaleusement injuste”と言いました。“彼の死はスキャンダラスなまでに不当だ”とでも訳すのでしょうか。

もう一つ、スキャンダラスな死の話をします。
皆さんは、フランスのグレゴリー ルマルシャルという新人の歌手を知りませんか。
グレゴリー ルマルシャルは2004年12月の “Star Academy”、通称“Star Ac”、スタラックで優勝した新人歌手です。

スタラックはフランスのテレビの人気番組で、いわゆるスター登竜門番組です。
スタラックは、厳しい予選を勝ち抜いてきた無名の新人から、プロの歌手までが歌を競う非常にレベルの高い番組です。
従って、スタラックで優勝するということは、スターへの道を約束されることを意味します。
グレゴリーはスタラックで優勝したあと、次々とヒット曲を出し、3年足らずでフランスの芸能人の憧れの舞台である、パリのオリンピアでの公演を実現するまでになりました。
天使の声と呼ばれる美しい声と、美少年の顔立ち、それに加えて高度な歌唱力をもつ彼は、単なるアイドルではない実力派のスター歌手でした。

しかしグレゴリーは、2007年4月30日、24歳の誕生日の2週間前にこの世を去りました。彼は、 La Mucoviscdose(嚢胞性肺繊維症)という非常にまれな難病にとり付かれていたのです。
赫々たる未来を約束されたスターの死は、彼のファンのみならず、フランスの一般市民にも大きな悲しみとショックを与えました。人々はグレゴリーの病気を知りませんでした。グレゴリー自身、死の直前まで、いずれ病気が治って舞台に立てることを、疑っていなかったそうです。

人生の道半ばで訪れる死は、常に不条理であり、不当なものなのです。
わが子を失った母親にとって、子供の死は限りなく不当であり、許しがたい非人間的な出来事です。新聞には、交通事故その他による、若者の不当な死のニュースが毎日載っています。

パトゥーの逝去の話から、内容がちょっと湿っぽくなりましたので、話題を変えましょう。いかにもベルギーらしい話題です。
皆さん、7月21日がベルギーのナショナルデーであることはご存知ですね。
この日は、ブリュッセルのサンミッシェルカテドラルでの感謝のミサから始まり、軍隊のパレードやら、花火の打ち上げなど、いろいろな行事が行われます。

皆さんは、7月21日が何故ベルギーのナショナルデーなのか、ご存知ですか。知りませんか。ご心配なく。
今年の7月21日に、RTLテレビが、現職のベルギー首相、次期首相候補、ワロン政府次期首相候補などに、「7月21日が何故ベルギーのナショナルデーなのか」という質問をしました。現首相は「ベルギーが独立を宣言した日」、次期首相は「知りません」、ワロン政府次期首相は「ベルギー憲法発布の日」と答えました。「知りません」はどうしようもないとして、答えは全部間違っていました。
7月21日は、初代ベルギー国王レオポルド一世が、国王としての宣誓をした日です。
国の行政のトップにいる首相や有力政治家が、自国のナショナルデーの意味も知らないのです。一般のべルギー人も大多数は知らないと思います。

もっとひどかったのは、次期首相のルテルム氏が、「ベルギー国歌をちょっと歌って下さい」というテレビ局のレポーターの頼みに対して、なんとフランスの国歌“La Marseillaise”を歌い出したことでした。
さすがにこのルテルム氏の暴挙に対して、ごうごうたる非難が巻き起こりました。特にベルギーのフランス語圏では、彼は次期首相に相応しくないという数字が、70%にも及びました。一方、フラマン語圏では同氏を擁護する論調が大半を占め、この国の分裂ぶりを際立たせました。

厳しい非難に対してルテルム氏は、自分はフラマン語のベルギー国歌の歌詞は知ってるが、フランス語の歌詞をしらなかったので、ついフランス国歌を歌ってしまった。大変軽率で申し訳なかったと謝罪しました。それにしても、ベルギーの総理大臣になる人の態度として、ちょっとこれはひど過ぎますね。
もっとも、ベルギー国歌を最後まで歌えるベルギー人がどれだけいるか、それは限りなく少数派です。国歌を一生懸命歌わせようと頑張っている知事さんがいますが、ベルギーの事情を知ったら、どんな顔をするでしょうか。

お父さん、ベルギー国歌は歌えなくてもいいですから、お母さんに昔ささやいた愛の言葉を、時々ささやいた方がいいですよ。年金受給日も近いことですし。

No.141.ベルギー人のお腹

No.141.ベルギー人のお腹



“ベルギーは食べ物が美味しい“と、よくいわれます。
皆さんはどう思いますか。賛成ですか、反対ですか。
わたしは賛成に一票を投じたいと思います。長い年月この国に住んでいますので、身びいきもあるかも知れません。でも、ベルギーは食べ物の美味しい国です。

学生時代の貧乏旅行も含めて、今日まで世界中のいろいろな国や地方を訪ねてきました。その土地、その土地の料理を食べ、いろいろな種類のお酒も飲んできました。
それぞれの地方や町には、必ずといっていい程おいしいものがあります。その土地で食べた食べ物や飲み物が、旅の思い出と共によみがえってくる経験を、皆さんもたくさんしていることでしょう。

わたしにもいろいろな思い出があります。思い出すものをちょっと書いてみます。
ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)で食べた、ご飯のおこげ入り魚介スープのおいしかったこと、今思い出しても唾がわいてきます。おこげの香ばしい味と、ふんだんに投じられている何種類もの魚や貝の旨みが渾然と口中にいきわたり、この料理を食べるだけのために、もう一度サイゴンに来ようと心に誓った程でした。
残念ながら、未だにこの誓いを果たせずにいます。もっとも、あのレストランの名前も場所も覚えていませんから、見つけるのは難しいでしょう。

南フランスの田舎を旅行していた時、昼食時間を過ぎた午後の3時ごろ、今は名前も覚えていない田舎町の小さな食堂に飛び込みました。
客のいないテーブルで新聞を読んでいたおやじさんに、なんでもいいからメシを食わせてくれと頼みました。
おやじさんは、「何か作ってやるよ」と言いながら台所に消えました。すぐに出てきて、「これでも食って待ってな」と、リエットをたっぷりぬり込んだバゲットの半切れと、地元の赤ワインを注いだコップをくれました。
“Rillettes”は細切りにした豚や鵞鳥の肉を、脂で長時間煮詰めた一種のパテです。リエットの濃厚な味とパリッと焼き上がったバゲットの風味を引き受けて一歩も引かないワインは、テーブルワインとは思えない結構なワインでした。
今でも思い出すのですから、よっぽどおいしかったのだとおもいます。腹ぺこだったのも、大いに貢献していたかも知れません。

モンゴルの草原のパオで、馬乳酒と一緒に出されたチーズも忘れられません。パオのご主人の奥さんが、石のように硬いチーズをナイフで削って、手にひらにのせてくれました。
このチーズを、馬乳酒と一緒に口中に放り込んで舌でころがしていると、塩味と一緒に、チーズの深い味わいが滲み出てきます。馬乳酒の酸味が、チーズの旨みをさらに引き立てくれました。
モンゴルのチーズと馬乳酒は、その土地にはその土地に合った食べ物や飲み物がある、という事実のいい見本かと思います。

学生時代にスペインを旅行した時、アルハンブラ宮殿の足元にあった小さな居酒屋に入りました。地元の人が立ち飲みをしているような一杯飲み屋、いわゆるバールです。
おやじさんが注いでくれたロゼは、辛口でよく冷えてました。暑さの中を歩き回った後なので、このロゼはことさらおいしく感じました。
飲んでいると、手に篭を下げた一人の少年が店に入ってきました。彼の篭には、ゆでたエビや蟹がはいってます。
さっそくエビを買って食べましたが、そのエビの旨かったこと、もっと食べたいと思った時は、もう売り切れて少年の篭は空っぽでした。
ゆでたばかりのエビは飛びっきり新鮮で、塩味がほどよく効いており、辛口のロゼとぴったりでした。
ワインといえば通常は赤なので、ロゼは滅多に飲まないのですが、わが人生で最高のロゼはと聞かれれば、あのアルハンブラのバールのロゼと答えます。肴がめっぽうよかったのも事実ですが。

旅と食の思い出はまだまだありますが、この辺でやめておきましょう。他人の旅行の話を長々と聞かされるのは、場合によって退屈なものです。まして、自分が行ったこともない土地の話だと、なおさら欠伸がでます。

ところで、ベルギーは何故食べ物がおいしいのでしょうか。
“いい食材が豊富”かというと、この程度の食材を産する国や地域は他にもたくさんあるでしょう。では、“腕のいい料理人が多い”、これは言えるかもしれません。
では、どうしてベルギーには腕のいい料理人が多いのでしょうか。

私的な意見ですが、ベルギーで腕のいい料理人が育つのは、ベルギー人の気質に由来していると考えています。
ベルギー人の気質の一つに、“文句屋、ベルギー人“というのがあります。つまり、ベルギー人はすぐに文句をいう人たちと言われてます。
皆さんのお知り合いのベルギー人の方はどうですか。文句屋はいませんか。

お腹を満たすだけで満足している国民の国に、美食は育ちません。食に関して、ヨーロッパの魔のベルト地帯と呼ばれている国が3つあります。
3つの国の国民に共通しているのは、食事の際に、お腹を満たすだけの量があれば満足で、美味しい、まずい二の次という、伝統的な食のスタイルです。
もっとも、最近はこれらの国々でも美食追及の機運が盛んになってきており、ある国などは、ミシュランの星付きレストランの数が急速に増えています。

もう一つ、食事のまずい国に共通しているのは、ピューリタン的傾向のプロテスタンティズムが強いことです。
食欲その他、人間の快楽の追及を堕落ととらえるのかどうかは知りませんが、肯定的に見てないことは確かです。
食べることを、労働を維持するための義務と考えるか、或いは、食べることそのものを喜びと考えるかの違いが、ヨーロッパの国々の食事のおいしいまずいを決めてきたような気がします。

ヨーロッパで食事の美味しい国は、フランス、イタリア、スペインなどカトリックの国々です。
カトリックでは、ミサの時にキリストの血としてワインをおおっぴらに飲むぐらいでうから、飲酒は勿論認められています。
だいたい、ビールにせよワインにせよ或いはリキュールにせよ、ヨーロッパの有名なお酒類は、起源を探せば必ずどこかの修道院に辿り着きます。

ベルギーには美味しい修道院ビールがたくさんあります。
厳しい戒律のもとで修道生活をおくる修道士達は、毎日決められた量のビールを飲んでいました。特にフランドルの低湿地帯では水が悪かったので、ビールは飲料として必需品でした。

仏のブルゴーニュ地方が有名なワインを産地になれたのは、シトー会修道院(トラピスト修道院と同じ)の修道士達の絶え間ない努力のお蔭です。
フランス語の言い回しに、「ベネディクト会の修道士のような」という言い回しがあります。意味するとろは、膨大な量の仕事を倦まずたゆまず、こつこつと続けていくことです。200年も300年もかけて、カテドラルを造ってきた中世の石工の伝統にも、この精神が脈打っていたことは間違いありません。

修道士達は、いいワインや美味しいビールを作るために、原料選びから醸造法の改良まで、絶え間ない努力を続けてきました。
この努力は、修道院の食事の食材選びや、調理法にも向けられました。修道士達は、食材を与えてくださった神様に感謝するため、その食材から最高の料理を作る努力を怠りませんでした。旅籠にくっついた一膳飯屋ぐらいしかなかった中世のヨーロッパでは、ミシュランが星をつけようと思ったら、各地の修道院の食堂にいくしかなかったでしょう。

さて、カトリックの伝統があり、美味しくない料理には必ず文句をいうベルギーの人達は、日頃どんな食事をしているのでしょうか。
ベルギーのスーパーデレーズが、消費者の動向を探るため 約4,500人の消費者(男女半々)を対象にアンケート調査を実施しました。
その結果、ベルギーの消費者の動向として、完成品、チン食(チンすれば食べられる)を買う人の数が、急速に伸びています。2006年の数字では、完成品、チン食が21,000,000食も売られました。美食の国、ベルギーとしては意外な数字でしょうか。

アンケートの中に、「5年前と比べて、最近よくよく食卓に出るものは何ですか」という質問がありました。答えは、オリーブオイル(58%)、パスタ(48%)、中華のテイクアウト(44%)、魚と果物(43%)と出ました。
逆に「5年前と比べて、利用が減ったものは何ですか」という質問に対して、バター(38%)、肉(30%)、完成品(26%)、ジャガイモ(17%)が出ました。
一方では完成品の売上が伸びているのに、避ける人も増えているのは面白い現象です。やはり、健康志向がいろいろなところで影響しているようです。
「食材や食事の選択で、何をまず基準にしますか」という質問に対して、43%の人が「第一番に、健康にいいかどうかを考える」と答えてます。

ベルギー人の食習慣はどうでしょうか。
72%以上のベルギー人は、朝食をきちんと取っています。お昼はサンドイッチ派が優勢で、66%の人がサンドイッチで昼食を済ませています。同時にサラダ派も伸びていて、30%の人がサラダ中心のランチを取っています。
夕食に、温かいちゃんとした食事をとる人が74%もいるのは、ちょっとした驚きでした。週日のベルギー人の夕食は、パンやハム、チーズなどの冷たい物が主流、という印象を持っていました。

美食の国の面影を見せてくれる数字があります。
43%のベルギー人は、一週間に7日間、毎日料理を作っています。そして、それを喜びとしている人が57%もいます。或いは、料理を趣味としている人が37%います。
ちなみに、料理をしょうがなしにやっている人が、31%です。

ベルギーの人たちは、伝統的な地元料理以外にどんな料理を好むでしょうか。一番がイタリア料理で、二番が中華料理です。これにメキシコ料理やタイ料理が続きます。日本料理もじわじわと浸透しているようです。
デレーズ全体で、毎週4,000箱のすし折りが売れているそうです。もっとも、デレーズで売っているあのすしを、正統派の日本料理の一つと呼んでいいものかどうか、われわれ日本人からみると、何か言いたくなる気がしないでもありませんが。

確かなことは、ブリュッセルやアントワープのどこの日本レストランにいっても、席の大半はこちらの人に占拠されている事実です。かのハーバード大学の教授クラブに、すしバーができたと聞いたことがあります。
結構なことだと思います。ある国の食べ物を美味しいと思う人が、そういう美味しい物を造り出す国を嫌ったり、憎んだりはしないでしょう。

 ところでお父さん、料理上手のお母さんに甘えてはいませんか。厨房に入らないというか、入れない男はもてませんよ。たまには、お母さんのために何か作ってあげたらどうですか。「まあ、この人こんなことも出来たなんて.....」と、見る目が違ってきますよ、  きっと。                           

No.142.イタリア留学の記

No.142.イタリア留学の記



またまた、恥ずかしながら年甲斐もないことをやりました。
夏休みを利用して、イタリアに2週間の語学留学をしてきました。

語学留学の計画を話した時の、周囲の反応はいろいろでした
「いい歳こいて、なに考えてんだか。ただでさえボケが進んでいるのに、新しい外国語なんて頭に入るわけがないのに」、「本当は、イタリア美女との出会いがあったに違いない」、「ローマで勉強なんて嘘ばっかり。悪さをしに行くに決まってる」、「ベルギーを食いつめて、イタリアに夜逃げする準備じゃないの」等々、毀誉褒貶の毀と貶だけの反応でした。こういう評価が来るのも、自分の人徳なのでしょう。

留学とはいえ、ローマへ旅立ちは気楽なものでした。
ローマは何度か行ってますので、街の様子も分かってます。知人もいます。なんといっても、ヨーロッパの文化圏です。
かつて若かりし頃、ベルギー留学のため故国日本を離れた時の、あの悲壮感と不安な気持ちとは、較べようもありません。
今回は、学位を取りに行くわけではありませんし、イタリア語をマスターしないで帰ってきても、誰からも叱られません。給料だって下がりません。

ただ、8月下旬のローマの暑さと、宿の騒音には参りました。
語学学校が世話してくれた宿は、部屋だけが別々で、台所、手洗い、シャワーなどは共用という学生下宿でした。
勿論クーラーなど入っていません。しかも場所が、交通量の多い交差点の角にあります。窓を開けると、もの凄い騒音が流れ込んできて、とても開けてはおけません。

窓を閉めれば暑熱、開ければ騒音という、とんでもない宿に入れられてしまいました。わたしはこう見えても、極めて繊細な神経の持ち主でして、寝ている時に、針が一本落ちても目が覚めるという程、音には敏感なのです。しかも、暑さには滅法弱いときています。気温がある程度以上になると、日頃でもそんなに活発ではない脳の働きが、極端に弱まるのです。
4部屋ある下宿には、ロシア、イギリス、スイスの女子学生が入ってました。わたしが着いた時は、東洋系のおじさんが入ってきたので、びっくりしたみたいですが、すぐに打ち解けて、下宿の設備などについて説明してくれました。そして一様に、暑さと騒音には音を上げていました。

ローマの第一夜は殆ど眠れず、頭脳まことに不明晰な状態で学校に行きました。学校はテルミニ駅の近くです。下宿の近くのバス停から市バスに乗り、終点のテルミニ駅まで行き、そこから5~6分歩くのが通学コースです。
通学初日に、バスの切符はブリュッセルみたいに車内で買えるものと思って乗り込みましたら、ローマでは売ってくれないことが分かりました。
そばに立っていたイタリア人のお嬢さんが、「切符はTabacchiか新聞売り場で買うのよ」と教えてくれました。
というわけで、初日は市バスに無賃乗車をしてしまいました。

学校は私立の語学学校です。この学校の入学許可書は、イタリア滞在のVISA取得の書類として有効だそうですから、ま、ちゃんとした学校なんでしょう。
初日に筆記と会話の試験があり、クラス分けがありました。頭脳不明晰でしたが、試験の結果、初級コースの一つ上のクラスに入れられました。

先生は、これ以上イタリア人らしいイタリア人はいないだろうと思われるぐらいの若いローマっ子、デイヴィット先生です。片方の耳にピアスをして、陽気にイタリア語をしゃべりまくる彼の名前が、イタリア人らしくない名前なので聞いてみたら、お父さんが彼の出生届を市役所に出した時、間違えて書いてしまったのだそうです。
デイヴィッドは非常にいい先生でした。クーラーのない教室で、4時間の集中講義はかなりきついのですが、彼は絶えず生徒動かし、しゃべらせ、簡単な芝居をやらせたり、授業にいろいろな工夫を凝らして、生徒を飽きさせません。

クラスメートは、いろいろな国から来ていました。
アンドリー(ウクライナ)神学生。ローマの神学校で勉強する為にイタリア語を学ぶ。
超のつく真面目な学生。

ブーゼ(トルコ)イスタンブール大学の建築科で勉強中の女子大生。イタリア語を 学ぶ動機は不明。学校には、最先端のファッションで着飾ってくる。

バルバラ(オランダ)高校を終えて大学に入る前に、イタリア語をマスターするために4ヶ月間ローマに滞在予定。ブランド品の靴やバッグや服を毎日取り替えてくる。

ダヴィッド(メキシコ)イタリアで舞台監督の勉強をするためにイタリア語を勉強。
自分の間違いをなかなか認めようとしないクラスの嫌われ者。

フロリアン(ドイツ)物理学を教える大学教授。イタリア語は趣味。イタリア語の芝居をやる時の仕草が面白くて、クラスの人気者。

ルイス(ブラジル)神父。ローマで神学の博士課程に入るためにイタリア語を勉強。穏やかで親切で、さすがは神父さんと評判のいい生徒。

マリアンヌ(スイス)15歳、クラス最年少。中学卒業後、語学コースに進むためイタリア語を学ぶ。6ヶ月間留学予定。鼻から唇までピアスをしている。ちょっと暗い感じながら、イタリア語はクラスで一番上手。

マリーナ(ロシア)ロシアのテレビ局勤務。彼がイタリア人なので彼の言葉を勉強。ロシア人特有の白い肌はローマの太陽をもはね返してしまうほど。

マサヤ(日本)彫刻を学ぶ学生。ローマの芸術大学入学のためイタリア語を勉強。真面目な日本の青年。将来はイタリアで芸術活動をしたい。

ミサ(日本)東京外大イタリア語科2年生。日本の大学では会話は上達しないとか。先生のデイヴィットが,彼女のことを”Bellissima Misa”と呼んで贔屓にしていた。

オーリ(イスラエル)ローマで建築を学ぶためイタリア語を勉強。同じイスラエル人の彼女はローマ大学で医学を学ぶ。二人で5~6年はローマで勉強の予定。

ヴェズナ(セルビア)セルビア共和国財務省次官。でもきさくなおばさん。息子がイタリアにいるので、息子につられて勉強。授業中に英語を話して先生に叱られていた。

サミー(日本)ブリュッセルで旅行屋を営むおっさん。イタリア語を学ぶ目的は特にない。若いクラスメートに混じって、つかの間の学生気分を楽しんでいるおじさん。

といったメンバーです。日本人が3人もいますが、この学校の殆どのクラスに日本人がいました。驚いたのは、停年退職した日本人男性が何人か勉強に来ていたことでした。
その中の一人は72歳の方で、3年前から毎年3ヶ月間、ローマの学校に勉強に来ているそうです。もう一人の方は、今年某有名出版社を停年退職した方で、今後の生きがいを探るため、3ヶ月間の語学留学に来たのだそうです。
他にも、熟年の日本人カップルが、学校の事務室で入学の条件などを、片言の英語で一生懸命聞いていました。

日本人は偉いですね。
一生懸命会社勤めをして、やっと自由になったと思ったら、はるばる外国まで来て語学の勉強を始めようというのですから。
勿論、停年退職後に家でゴロゴロして、奥さんに疎まれるよりはずっといいことだと思います。

学校には、毎日市バスに乗って、真面目に通いました。しかし、暑さと騒音による寝不足で、頭は朦朧としており、授業についていくのがやっとの状態でした。
3日目には、もう荷物をまとめてブリュッセルに帰ろうかとさえ思いました。
しかしここで帰ったら、社員をはじめブリュッセルの連中に何を言われるか分かったものではありません。それ見たことかと言われるに決まっています。
それで、おまえは貧しい留学生なのだから、雨露がしのげる宿があるだけでも有り難く思え、暑さや騒音など贅沢を言える身分か、青年老いやすく(もう老いてますが)、学成り難しというではないか、等々自分に言い聞かせて、初志貫徹を誓いました。

人間の身体というものは本当に不思議ですね。
4日目の晩から、かなり眠れるようになりました。身体が眠りを要求するのか、身体が置かれた状況に適応するのか、暑さや騒音の中でも眠れるようになったのです。

睡眠が取れれば、もともと明晰な頭脳の持ち主ですから、一気呵成にイタリア語をマスターし、先生のデイヴィットも開学以来の俊才と、驚愕の余り耳のピアスを取り落とす騒ぎ。というのは勿論わたしの妄想でありまして、勉強はそう簡単にはいきません。

安下宿住まいの貧しい留学生の食事は、いつもテルミニ駅近辺の切り売りピッザや、セルフサービスのパスタ、モザレッラとトマトのサラダなどでした。ピッザはそこそこ食べられましたが、パスタはくたくたに茹であがっていました。ま、セルフサービスですから、パスタの茹で具合までは文句をいえませんよね。

授業の後は、会話の実習を兼ねてローマの街を見学しました。おもな所は殆ど見ていますので、日頃行かない場所を見て回りました。
その中の一つ、ナヴォ-ナ広場の近くにあるSan Luigi dei Francesi教会に行った時、ローマ名物の泥棒君に出会いました。
この教会には、有名なカラヴァッジョの聖マタイの3部作があります。光と影の天才、カラヴァッジョの作品を見た後、疲れたので教会のベンチに座って休みました。その時、肩からかけて持ち歩いていた小さなバッグを横に置きました。祭壇を眺めていてふと横を見ると、バッグがツツーと動いているではありませんか。後ろを見ると、若い泥棒君がわたしのバッグの肩紐を引いていました。

日本語で“こらっ”というと、泥棒君はわたしに手を合わせ、さっと逃げて行きました。バッグは安物ですし、中にはローマの地図ぐらいしか入っていなかったので、盗られても実害はありません。泥棒君も、わたしに手を合わせるんだったら、祭壇のキリスト様に手を合わせればいいものをと、一人で笑ってしまいました。

「ローマは一日にして成らず」。「イタリア語も二週間にして成らず」です。
いつか、この言葉を不自由なくしゃべれる日が来るのかどうか自信もないのに、今日もブリュッセルでイタリア語の夜間講座に通っています。

ところでお父さん、お母さんとは何語で話してますか。日本語に決まっているとおっしゃるなら、その日本語は通じてますか。言葉は言霊というぐらい、人の心、魂から出てくるものです。心のこもらない言葉は、何語でしゃべっても通じませんよ。

No.143.新ベルギー国へよこそ

No.143.新ベルギー国へよこそ


皆さんも、ブリュッセルの街、特に住宅街でベルギー国旗を掲揚した家や、窓からベルギー国旗を垂らしたアパートが増えている現象に気がついていることでしょう。
ベルギーのナショナルデーは7月21日なのに、何故今ごろ国旗を掲げたり、窓から国旗を垂らしたりする市民の数が増えているのでしょうか。

簡単に言えば、長年連れ添ってきた夫婦の間にすき間風が吹きはじめ、旦那が別れ話をもち出してきたのに対して、奥さんが「私は別れるのは嫌よ」という意思表示をしている、といった処でしょうか。つまり、ベルギーの分裂に反対を表明する手段が、国旗という訳です。

6月10日に総選挙があってから、今日(11月7日)で150日になります。ベルギーには未だに政府がありません。総選挙後、慣例に従い選挙で勝利をおさめた旧キリスト教社会党(CVP)、現フラマンキリスト教民主党(CV&V)の党首、イヴ. ルテルム氏に組閣の勅命がくだりました。
ルテルム氏はもともと兄弟党であるフラン語系のCDH(旧キリスト教社会党)及び保守系政党MRと組んで、組閣交渉を開始しました。
しかし、組閣交渉は国家機構改革の点で、両言語共同体の利害が真正面からぶっつかり、たちまち暗礁に乗り上げてしまいました。
ベルギーの最も長い政治危機は、1988年のマルテンス内閣組閣時の148日ですから、今回はその記録を優に更新しつつあります。

一方、国王から組閣を命じられたイヴ.ルテルム氏は、余りにフラマン主義的言動が続き、フランス語系ベルギー国民から総すかんをくいました。
そして、連立相手のフランス語系政党との交渉に行き詰まり、組閣を断念し国王に辞任を申し出て受け入れられました。

ルテルム氏がフラマン主義の信奉者であったとしても、それは個人の信条の自由ですから問題はないでしょう。
しかし、フランス語系国民も含めたベルギー国の首相となると、話は別です。
しかも、わざとなのか彼の性格なのか、フランス語系国民をバカにしたり、挑発するような失言や放言はを繰り返しました。
例えば、
「ワロン人を始め、ベルギーのフランス語系国民は頭が悪いので、フラマン語が覚えられない」

「自分はベルギー国歌のフランス語版を知らない。だからフランス国歌の”LaMarseillaise”を歌った」(ベルギーのナショナルデーに、RTLテレビの記者にベルギー国歌を歌ってほしいと言われたのに対して、テレビカメラの前でいきなりフランス国歌を歌って轟々たる非難を浴びた後の釈明)

「自分は“La Brabanconne”(ベルギー国歌)より、“De Leeuw van Vlaandren“(フランドルのライオン)、フランドルの国歌といってもいい歌」の方がずっといいと思っている」(心の中で思っていても、組閣の任にある人が公の場では言わない方がいいでしょうね)

ルテルム氏辞任の後、様々な調停、仲介の任に当たる人物が国王によって任命されました。ベルギーの政治のメカニズムの複雑さを、本会報上に書くのはやめます。理解が困難な上に欠伸がでます。
紆余曲折の後、再度ルテルム氏に組閣の勅命が下りました。
今度はさすがにルテルム氏も自分の言動には気をつけているようです。

組閣が難航している原因は、言わずと知れたフラマンとワロンの対立です。正確には、フラマン語圏とフランス語圏の対立です。ワロンといってしまうと、ブリュッセルが入らないので、ワロンとブリュッセルを一つにしたフランス語圏というのが正しいでしょう。

両言語圏の対立は、昨日今日に始まったことではありませんので、今さら珍しくも何ともありません。でも、今回はちょっと様子が違うのです。
対立の核心はBHV問題、つまりBruxelles-Hal-Vilvord問題です。これは、11の選挙区と裁判権を包括した地域区分を意味します。この地域には、ブリュッセル19コミューンと6つのCommunes a facilites(フラマン行政府の権限下にありながら、住民は公的にフランス語の使用が認められているコミューン)、それにブラバンフラマン州に属する純粋なフラマンのコミューンが入ってます。

BHVの地域区分は、ベルギーの歴史上、常に存在してきました。問題になりだしたのは、ベルギーの両言語圏の対立が先鋭化し、1963年に言語境界線を明確に規定する法案の審議が始まった頃からです。
フラマン側からすれば、フラマン行政府の権限下にある選挙区で、フランス語系候補者のリストが提出され、上院議員、下院議員、欧州議会議員などが選ばれていく現実は、なんとも認めがたい事実となのです。さらにこの地域区分内では、フランス語による裁判も認められています。

今回の組閣交渉で、フラマン側は不退転の決意でBHVの分割(Bruxellesを1区分としてブリュッセル首都圏政府の管轄とし、Hal-Vilvordをフラマン行政府の治下に置く)を主張し、フランス語側はこれを断固拒否するという構図で対立が続いています。
フランス語側にすれば、BHVのフラマン地区にすむ20万人以上のフランス語系市民を見捨てる訳にはいかないことと、BHV地区から選出されるフランス語系議員の減少を認めることは、絶対にできないことなのです。

この原稿を書いている最中に、重大ニュースが飛び込んできました。
ベルギーの下院の内務委員会で、BHV分割に関する法案の上程決議を、フラマン側が一方的に可決したというニュースです。フランス語側は決議の投票に抗議して、全員退場しました。
さらに、フラマン側はこの決議のため、極右政党のVlaams Belangの票の助けを借りている事実が、フランス語側の憤激をいっそう高めています。

ベルギーは建国以来、常に二つの言語共同体間の摩擦や対立の問題に直面しながら、今日まで国の一体性を保ってきました。そこには、“Compromis a la belge“(ベルギー的妥協)とう言葉があるほど、相互の要求や対立の妥協点を探り、一方の要求が全部通ることはない共通の認識の土台がありました。
ですから、両言語共同体の一方が相手に自分達の要求を一方的に押し付けた例は、これまでに一度もありません。今回のフラマン側の行動は、ベルギーの歴史上初めての例であり、国の一体性に深刻な亀裂をもたらす危機をはらんでいるのです。
フランス語系のプレスには、「フラマンはわれわれの背中をいきなり刃物で刺した」などという、過激な表現さえ見られます。

内務委員会の決議は法案の上程決議ですから、今日明日にベルギーという国がどうかなってしまうというものではありません。しかし、ベルギーの政治がさらに混迷を深めることは、間違いありません。

もし、もしもですよ、BHV問題に端を発して、或る日ベルギー王国そのものが分裂してしまったら、この国はどうなるのでしょうか。
あるフランス語系の雑誌が、真面目半分、冗談半分でベルギー分裂のシュミレーションを書いてました。
1.フランス語側は、BHVの分割を認める代わりに、ブリュッセルを取りまく6つのCommunes a facilites(上記に説明)のブリュッセル行政圏への編入を要求する。これによって、ブリュッセルからワロンへのフランス語圏の回廊が出来る。

2.フランドルはアントワープを首都として、フランドル共和国を樹立する。フラマン側は、歴史的な面からもフランドルの首都はブリュッセルであると、長年主張してきました。しかし、住民の80%以上がフランス語系であるブリュッセルを、フランドルに編入することは事実上不可能。

3.ブリュッセル首都圏政府とワロン地方政府は一つの政治共同体としてまとまり、ベルギーの国名を引き継いでベルギー国となる。ベルギー建国以来、多言語、多民族国家の統一のシンボルとして有効な機能を果たしてきた王制は、国が分裂した今、その存在意義を失うので廃止される。

4.新ベルギー国の国旗はどうなるでしょうか。現在の国旗の黒、黄色、赤の3色のうち、黒色はフランドルの国旗の黒いライオンを想起させるのでなくなり、代わってブリュッセルの色であるブルーが入る。従って、新国旗の色は、ブルー、黄色、赤となる。

5.国歌は、フランドル共和国の場合、当然「De Leeuwe van Vlaandren」(フランドルのライオン)になる。新ベルギー国の国歌は、フランス語系の著名な詩人や作曲家に依頼して新たに作ることになる。旧国歌“La Brabanconne“は引き継がないもよう。

6.フランドル共和国のナショナルデーは7月11日です。1302年7月11日に、フラマン軍がフランス王の軍を破った日です。
新ベルギー国のナショナルデーは9月27日です。1830年9月27日に、ブリュッセル市民軍がオランダ軍を撤退させた日だからです。どちらのナショナルデーも、相手の言葉を話す軍を破ったり、撤退させた日になる訳です。

7.通貨はいずれもユーロなので、問題は起きません。

8.空港は、Zaventemがフランドルの領域になるため、新ベルギー国は新たな空港を建設する必要がある。既存のシャルルロワ空港を整備、拡張する案も有力ながら、シャルルロワはブリュッセルから遠過ぎるという意見もあり(東京-成田よりずっと近い)、新空港建設案も根強く残っている。

8.国の面積は、アルデンヌ高原を領土に持つ新ベルギー国が約17万平方キロで、フランドル共和国の13万平方キロより大きくなる。

9.人口は両国ともに500万人ぐらいで、ちょうど半々になる。

10.両国間の往来にVISAが必要かという問題は、両国政府が共にシェンゲン協定に加盟するので、査証無しの自由な往来が可能となる。われわれ日本人も、アントワープやブルージュに観光で行く場合、VISA を申請する必要はない。

こんなシュミレーションが本当に冗談であり、現実のものとならないように願っている人たちが、ベルギー国旗を窓から出しているのです。

わたしは、日本で暮した年月よりもずっと長い年月を、この国で過ごしてきました。今では、ベルギーが自分の国みたいになっています。ですから愛着もあります。
分裂などして欲しくないと、衷心から願っています。
9月の新学期から、イタリア語と一緒にフラマン語(オランダ語)の講座に通い始めたのも、ベルギー国民の半分以上の人が話す言葉を未だに話せないのは、実に恥ずかしいと思ったからです。
フラマンの友人は、わたしのフラマン語講座を知ると、「おまえはベルギーの将来を見通しているな」などとからかいますが、彼らとて国の分裂は望んでいません。

ところでお父さん、そろそろお母さんに白旗を掲げたらどうですか。いつまで不貞腐れていても、得にはなりませんよ。最後に勝つのはいつもお母さんでしょう、お宅は。
よいお年を。