.


2008年 新ベルギー物語

HOME > 新ベルギー物語 > 2008年の新ベルギー物語

No.144 ベルギーの格差社会

No.144 ベルギーの格差社会



 あけましておめでとうございます。
   2008年もよろしくお願いいたします。

わたしたちがお世話になっているベルギーが、建国以来最も深刻な政治危機の中で暮れた2007年でした。
幸いなのは、未曾有の政治危機の間も、ベルギーの人達は極めて平穏に日常生活をおくっていたことです。国旗を窓から出す以外は、表立った動きは何もありませんでした。
騒ぎを起こしたのは、フラマンの過激派Taal Aktie KomitieのメンバーがRhode St.Geneseというコミューンに押しかけて、ベルギー国旗を焼いたり、フランス語系議員の車にペンキをぶちまけたりしたことぐらいです。

旧ユーゴスラビアの例を挙げるまでもなく、国の分裂騒ぎでどれだけの血が流れていることでしょうか。民族の対立で血を流し合ってる国は、史上絶えたことがありません。
その点、ベルギーの人たちは大人なのだと思います。ヨーロッパの長い歴史のなかで、常に他民族の支配を受けながら揉まれて来ただけあって、市民意識が成熟しています。

わたし達在留邦人が日常接するベルギーの社会は、穏やかで豊かな西欧の社会です。
この国に格差社会なんてあるのかしらと思うぐらい、ベルギーの社会はいつも豊かな表情を見せてくれます。
でもちょっと目を凝らすと、先進国のどこにでもある格差社会がベルギーにも厳然として存在していることがわかります。

連邦政府統計院の数字によれば、ベルギーでは7人に1人が貧困層のカテゴリーに入るそうです。
では、何をもって貧困層のカテゴリーと云うのでしょうか。これは、親子4人の家庭で、月収が822ユーロ以下の家庭を云うそうです。
確かに、4人家族で家賃も入れて822ユーロの生活は相当厳しいものがあるでしょう。
4人家族で住むアパートなら、どんなに安い所を探しても、500ユーロや600ユーロは取られます。残りのお金で食費や光熱費などを払って、家族4人が1ヶ月暮らすのは至難の業です。
ベルギーで親子4人が暮らすのに必要な最低限の生活費は、月に1,720ユーロだそうですから、822ユーロでは半分にも満たない金額です。
こう云う生活を強いられている人々が、表面的には豊かに見えるバルギーに、7人に1人もいるという統計には、ちょっと驚きました。
しかもブリュッセルなどの都市部になると、5人に1人が貧困層という数字が出てきます。

確かに、地元の新聞には家賃が払えなくなって追い出された母子家庭の話や、厳冬の夜に凍死したホームレスの人の記事などが出ますが、これはあくまでも例外的な事例と思っていました。それが、ベルギー人の7人に1人が貧困層と呼ばれる生活を強いられているとすれば、ベルギーの格差社会はかなり深刻であると考えざるを得ません。
年齢別に見た場合、貧困層の割合が65歳以上の年齢層でぐっと高くなります。同時に生活保護の受給率も高くなります。

必要最低限の生活費を手にすることの出来ない人たちは、年に一度のヴァカンスにもでかけません。ステーキなどの肉や鱈や平目、鰈などの白身の魚を、週に一度口にすることもままなりません。特に上記の魚介類は、近年値段が高騰しているため、滅多に食卓に上りません。
ヨーロッパの人が好まない鯖や鰯、鰊などのいわゆるヒカリモノは、まだ手の出る値段なのですが、嫌いなものは嫌いなのであまり食べません。
肉食が好まれたヨーロッパの社会と同じで、ベルギーでもお金持ちは肉を食べてましたが、貧しい人たちは北海で大量に獲れた鰊の塩漬けや、安価な鱈などの魚が蛋白源でした。今や漁獲量が激減した鱈など、高級レストランのメニューに堂々と載っている時代です。

お金持ちが“仕方なく”魚を食べたのは、カトリック教会の掟に定められていた毎週金曜日と、復活祭前の四旬節と呼ばれる精進潔斎の期間でした。
それが、昨今は健康志向とかでヨーロッパの人たちもどんどん魚を食べるようになりました。昔は鮪を食べるのは日本人の専売特許みたいなものでしたが、今では鮪の“SASHIMI”が名のあるシェッフのメニューに載るぐらい、消費の動向が変わってきています。

ブリュッセルの裁判所の下の方の一帯はMarolles(マロル)と呼ばれる庶民の街です。どちらかと云えば、低所得層の人達が住める家賃の安い家が多い地域でした。
マロルは職人や手間賃稼ぎが住む長屋的雰囲気のある街で、かって画家のブリュ-ゲルも住んでいました。代々住んでいる住民は独特の方言を話し、非常に味わいのある街です。

ところが近年マロルに異変が起きています。マロル地区の家賃や不動産物件の値段が高騰しているのです。
生活に余裕のある人たちや芸術家の間で、マロルに住むことが一種の流行になっています。彼らはマロルの古い家を買って、これにお金をかけて徹底した内装工事を施し、快適な住居を造って住み始めるのです。

これまで安い家賃で部屋を貸していた家主たちもお金には弱いらしく、家を手放す家主が跡を絶ちません。その結果、長年住んでいた店子は、家を買った新しい家主から退去通告を受けることになります。
家を手放さない家主も、周辺の不動産物件の値上がりに影響され、家賃の値上げを通告してきます。
低所得、低家賃の街マロルは昔から住んでいた人たちにとって、非常に住みにくい街になりつつあります。
“あのスノッブ野郎どものせいで、オレたちの住む場所がなくなった”と、昔から住んでいたおじいさんがテレビカメラの前で怒りの声をあげてました。

皆さんは、ブリュッセルやアントワープなどの目抜き通りで、物乞いの姿を見たことがあるでしょう。
中には“プロ“の物乞いもいますが、本当に生活に困って物乞いをしているお年寄りを見ると気の毒になります。プロの物乞いと若い物乞いには絶対にお金をあげませんが、お年寄りの物乞いには幾ばくかの喜捨をすることにしています。
いい若い者が、”J’ai faim”(お腹が空いてます)などと書いた紙をもって、地べたに座って物乞いしているのを見ると、「あんた働いたらどうなの」と、言いたくなります。

物乞いは目抜き通りだけではなく、交差点にもいます。
わたしが毎朝通る交差点にも決まった物乞いのおじさんがいます。彼はかなり年ではないかと思いますが、雨の日も風の日も一日も休まずにその交差点にいます。朝しか見ないので、彼が何時まで“勤務”しているのかは分かりません。

一度この物乞いのおじさんをめぐって、面白い光景を目にしました。
毎年11月に入ると、落書きを一杯した白い実験着みたいなの着て学帽を被った男女の学生が、ブリュッセル市内の交差点で募金活動を始めます。皆さんも車の側にやってきて、小銭をせがまれた経験があるでしょう。
この募金は、飢餓に苦しむアフリカの人々や、災害で何もかも失ったアジアのさる国の人々への義捐金ではありません。集めたお金は彼らの飲み代に使います。

ブリュッセル自由大学(U.L.B.)は1834年にPierre-Theodore VERHAEGENによって創立されました。ULBは、ルーバンカトリック大学に対抗するために創られたフリーメーソンの大学です。創立者ヴェルハーゲンの命日11月中旬にあるため、その日をSaint Vの日として学生たちが飲んで騒ぎます。
フリーメーソンの有力なメンバーだったヴェルハーゲンが、カトリックの聖人になる訳がないのですが、そこは学生たちの遊び心なのでしょう。

わたしが見た光景というのは、毎朝通る交差点でULBの学生3~4人が募金を始めた時です。
これを見た物乞いのおじさんが、すごい剣幕で学生たちに食ってかかりました。こちらは信号待ちの車の中なので、おじさんの声は聞こえませんでしたが、多分こんなやり取りがあったのでしょう。
「お前たち何しにきたんだ。ここはオレの場所だぞ」
「この交差点はおじさんのものかい」
「馬鹿野郎、ここはオレの仕事場なんだぞ。生活がかかってんだ、こちとらは」
「ぼくたちも年に一度の大事なエヴェントのためなんだけど」
「お前たちのは遊び金集めだろう。オレはここで頂く金でどうにか暮らしてるんだ。お前たちにのせいでオレの上がりが減ったらどうする気だ。とっとと消えうせろ!!」
ヒゲをはやして体格のいいおじさんの一喝を食らって、学生たちはすごすごと交差点を離れて行きました。

ブリュッセル自由大学の今年のSaint V.のお祭りは、フランス語のULBとフラマン語のVUBの2大学の学生が一緒にお祝いをしました。これは現在のベルギーの危機的状況に対して、ベルギーの分裂を望まない学生たちの意思表示を込めたものです。

ベルギー人の7人に1人が貧困に苦しんでいる一方では、巨額の資産を所有する大金持ちがいるのもベルギーの現実です。
ベルギーには、1億ユーロ以上の資産を所有する家族が90家族います。その中の15家族は10億ユーロ以上の資産を所有しています。
11月号のPETITS-POISに1位から5位までのバルギーの富豪ランキングが出ていましたが、1位のde Spoelberch家の資産形成には、われわれ呑ん兵衛どもがかなり貢献しているのではないでしょうか。
同家は、ルーバンのビールStella Artoisから始まって、ベルギービールの有名ブランドを殆ど傘下に収め、外国のビール会社を次々と買収して今や世界屈指のビール会社に成長したINBEVの創業家です。

どこの国でもそうですが、資産家には2種類あります。
一つは代々資産家の家系で、親から受け継いだ資産を巧み運用、投資などをして資産を増やしている家族で、有名なSolvay 家とかLippens家などがそうです。
一方、一代で事業を起こして成功し、巨富を築いたいわゆる立志伝中の人物の家族もあります。代表的な人物は釘屋から身を起こして成功し、今やベルギー3位の資産家であるFrere家でしょう。
他に、安売りスーパーColruytを創業して成功したベルギー5位の富豪、Colruyt家や、750ユーロの手持ち金で薬局チェーンOmega Pharmaを立ち上げ、ベルギー22位の富豪になったCoucke家などは正しく立志伝中の人たちです。

事業に成功して資産家になった人たちは、血の滲むような努力と、夜目も見ずに働く猛烈なヴァイタリティ-、並びに同業他社より常に一歩先を行く創意工夫、そして人の運、時の運にも恵まれたのでしょう。こういう人はやっぱり偉いと思います。
また、受け継いだ資産を巧みに運用して減らさないどころか、これを増やして名家の誇りを維持している人たちも偉いと思います。
親の遺産をすっからかんにするドラ息子やドラ娘が、いくらでもいるご時世です。

お父さんの所はどうですか。息子さんに750ユーロあげてみてください。これを元手に息子さんが大富豪になったら、お父さんは左団扇ですよ。

No.145.ワイン雑学講座

No.145.ワイン雑学講座



今日もベルギーの空はどんよりと雲ってます。昨日も一昨日も、こんな空模様でした。これに雨でも加わると、さらにベルギーらしいお天気になります。
秋口にベルギーに赴任してきた方は、このお天気にネを上げると聞いてます。
慣れない外国暮らしで、何かとストレスがたまる赴任当初にこの天気ですから、気が滅入るのも当然かも知れません。

かく云う私は、かなり長いことベルギーに住んでいますので、この国のお天気にはすっかり慣れっこになってます。曇天が何日続こうが、雨の日がどれだけ続こうが、全く苦になりません。
特に最近は、脳が恍惚状態なのか、昨日の天気がどんなだったのかさえ、思い出さないほど無関心になってます。

むしろ、ソワーニュの森やこの国の芝生のグリーンが美しいのは、よく降ってくれる雨のお蔭と、感謝の心さえ湧いてきます。
暗いベルギーの冬は、慣れてない人には確かに気鬱な日々かも知れません。
でも、この暗いベルギーの冬は、気に入ったワインを開けるのにぴったりの雰囲気だと思うのですが、皆さんどう思いますか。

電気などなかった昔のヨーロッパの家は、屋内が暗くて、室温もそんなに高くありませんでした。夜の屋内照明といえば、ロウソクか獣脂を燃やすランプぐらいでした。
ロウソクは高級品でしたから、一般庶民は獣脂のランプの弱い光と獣脂の燃える嫌な臭いのなかで、夜を過ごしていました。
お金持ちはロウソクの燭台のあるテーブルで食事をし、ワインを楽しみました。ワインの色を確かめるテースティングは、ロウソクの光の元で行われました。
今でも、「Chateau Margaux」などの高級ワインの蔵元では、シャトーの薄暗いカーヴにロウソクを灯して、いわゆるRobeと呼ばれるワインの色、透明度、深みなどのチェックをローソクの光によって行っています。これは、単にヨーロッパの伝統に従っているだけではなく、その方法がワインのRobeを最もよく教えてくれるからなのです。

そうなのです。ベルギーの冬のこの暗さは、ワインの真髄を極めるのにまことに理想的な光の調合具合なのです。
お父さんも、空を見て溜息ばかりついてないで、ちょいといいワインでも開けてみませんか。

今や日本には、ワインの専門家、或いは専門の資格をもったソムリエがゴマンといるそうですね。日系航空会社の客室乗務員の中にもソムリエの有資格者が相当数いて、各フライトに必ず一人は乗務しているとか聞いています。
個人的には、未だかつてソムリエ乗務員さんに出会ったことはありません。聞くところによれば、ソムリエ乗務員さんはファーストクラスが専門だそうで、私ごときが座っている座席まで来て頂くことはないわけです。

今でも恥ずかしいのですが、私は若いころワインに対して誠に不遜な考えをもっていました。それは、ヨーロッパ、特にフランスワインの奥義を極めてやると、本気で考えていました。あれから30年、ワインの奥義もなど勿論極めておりません。そんなこと、出来るわけがないのです。

若いころの自分がやったことは、ブルゴーニュとボルドーの有名なワイナリーやシャトーを訪ね、ワインの味を自分の舌で確かめることでした。これはかなり真面目にやりました。そして今日まで、ピンからキリまでいろいろなワインを飲んできました。
到達した結論は、ワインはわからないということです。
世の中にワインほど複雑で、奥が深く、捕え難い飲み物はないと思ってます。それは、いくら追っても追っても追いつけない、恋焦がれた女性のような存在です。

魔性を秘めた飲み物、ワインとは何ものでしょうか。
昨年12月に当社で企画した「ブルゴーニュワインツアー」の時に、お客さま用に作った資料に若干手を加えてみました。
1.いいワインが出来るには、土地の性質と気候が決め手です。
1)土地
地味の肥えた豊穣な土地は、ワイン作りには向いてません。瓦礫質で水捌けがよく、根が張りやすい石灰分の多い泥灰質の土地が、ワイン作りに向いてます。
瓦礫が足りない場合、畑にわざわざ瓦礫を撒く場合もあります。これは、日中の太陽熱を取り込んだ瓦礫が、夜間に輻射熱を放出するためです。この熱がぶどうの糖分を高めるのです。

ワインの畑ほど摩訶不思議なものはありません。同じ土地にあっても、境界線一つでワインの品質がまるで違ってくるのです。値段も10倍単位で違ってきます。
いい例が、ブルゴーニュの伝説的ワイン「Romanee Conti」の畑です。1.50 haぐらいしかないこの畑が、世界最高(だそうです)のワインを産出する秘密は、どこにあるのでしょうか。現場でこの畑と周りの畑を比べてみても、違いなど分かりません。
生産量が年間5000本ぐらいしかない「Romanee Conti」は、現地で買っても(滅多に店頭には出ませんが)1本3000から4000ユーロ、日本のレストランで飲んだら1本100万円という途方もない値段がするそうです。

専門家はいろいろなことを言います。太陽に対する畑の傾斜度が理想的、地層が深く排水が理想的、土中に微細な粘土分が含まれているのはこの畑だけ、等々です。
不思議なのは、現在の「Romanee Conti」の畑と寸部も違わない区切りが、12世紀にクリュニー会の修道士によってなされていることです。修道士達は何を基準にして、この正確な区切りをしたのでしょうか。天使の啓示でも受けたのでしょうか。謎です。
クリュニーの修道士達は、畑に最も適した葡萄として「Pinot noir」を選びました。ブルゴーニュの赤ワインは、現在でも全てピノノワールから作られています。

ロマネコンティは“土と葡萄の最良の結婚”と評されますてますが、同じピノノワール種の葡萄の木を、ロマネコンティの畑と同じ地域の畑に植えても、出来上がるワインがまるで違うのですから、本当にわかりません。
あるワインに「Romanee」がついていても、「Conti」以外の名称がついている場合、ワインの品質も値段も天と地ほどの差がついてしまいます。

同じような例として、ボルドーの「Chateau Margaux」の畑と、隣の「Ponte Canet」の畑が挙げられます。この二つの畑は自分の目で見てますが、境目に生垣があるだけで、どう見たって同じ地面です。それなのに、二つのワインの品質と値段はまるっきり違います。ただ、ボルドーワインの場合、ブルゴーニュと違って、葡萄の種類を混ぜてワインを作りますので、葡萄の種類の選び方と混ぜ方に秘密があるのかも知れません。

2)天候
どんなにいい畑であっても、ワインの出来、不出来は天候に大きく左右されます。
糖分の高いいい葡萄が出来るためには、様々な気象条件が必要です。
 冬は、軽く畑が凍る程度の寒さが何度か繰り返されるぐらいで、長期間の凍結がないことです。春は、夜間の凍結がなくて、雨の多い気候が望ましいです。夏は暑い夏と、たまの降雨が理想的です。特に9月と10月に日照時間が多いと、その年のワインはいい物が出来る可能性が高まります。

 逆に夏が低温で秋口に日照時間が少ないと、葡萄の糖分が上がらず酸味が強くなるので、いいワインは出来ません。どんなGrand Cruであっても、年によってワインの品質や値段に違いが出るのは、ひとえに天候のせいです。
アルザス、モーゼル、シャブリなどの白ワインは酸味がありますが、これは各地とも緯度が高く日照時間が少ないためです。本当はもっと酸味が強いのですが、醸造過程で糖分を加えてそれぞれのワインの味を出しています。

2.ワインをおいしく飲むには。
1)赤ワイン
 若い赤ワインは9~10度ぐらいに冷やした方が美味しいです。若いワインでもLoirの赤やCote du Rhone, Crus du Beaujolais(Beaujolais Nouveauxではありません)などの比較的品質の高いワインはあまり冷やさず12~14度ぐらいが美味しい温度です。とにかく、赤は冷やさないという考えは捨てましょう。

勿論、いい年のGrand Cruなどは絶対に冷やしてはいけません。こういう高品質のワインは“部屋の気温に合わせて飲む”のが、美味しい飲み方です。
問題なのは、部屋の気温です。ワインは長い間、暖房設備などないヨーロッパの家で飲まれてきました。昔のヨーロッパの家の常温は16~17度ぐらいでした。このぐらいの温度がワインを飲むのに最も適した温度なのです。

ところが、暖房設備のある現代のアパートの常温は20~21度で、ワインには適してません。ですから、いいワインを飲む時は、余り早くからボトルを部屋に置かないことです。それに、ワインをグラスに注いでおくだけで、ワインの温度が1~2度上昇することも忘れないで下さい。
ワインの温度が上がると、折角の香りが分散してしまい、アルコール分が支配的になります。いい赤ワインを美味しく飲むためには、“温めすぎるより、ちょっと低めかな”という原則を守ることです。

2)白ワイン
 “白は10度で決まり”です。白ワインは赤ワイン程うるさくありませんので、10度ぐらいで大抵の白は美味しく飲めます。

3.テースティング
レストランでのテースティングは、一種のセレモニー的要素もありますが、これは大事なことなので落ち着いてやって下さい。そば立ってうやうやしくボトルを捧げているソムリエや給仕人に、遠慮する必要はありません。自分で納得がいくまで立っててもらいましょう。
まずグラスを傾け気味にして、注がれたワインの色をみます。ワインに濁りがあってはいけません。光を通す透明度がないといけません。
次に香りをかぎます。ここでワインのコルクが腐っていて、その臭いがワインに移っていないか、コルクの状態が悪くてワインが酸化してないか(これをBouchonne,ブショネといいます)等をチェックします。もし、そういうワインに当たったら、即座に取り替えを要求してください。例え100万円のワインでもです。
もっとも高級レストランでは、ソムリエが事前にコルクのチェックをしますので、ブショネの危険はまずありません。

ブショネしてないことがわかったら、グラスを回してワインと空気の接触面を増やします。ここで2度目の香りをかぎます。この香りでワインの性格、出身地がわかります。
味見は、ワインを口に含み、舌を回してワインが口中にいき渡るようにします。口を軽くクチュクチュする感じです。ワインの味を確かめると共に、香りを鼻から抜く感じにします。テースティングは、ワインを飲み下した後、口中に残る味と残り香を確かめて初めて終了します。

お父さん、風邪を引いている時のテースティングはやめましょう。無駄です。お母さんに代わってもらってください。       

No.146.牛のおならについての考察

No.146.牛のおならについての考察



 地球の温暖化、異常気象、洪水、暴風雨、旱魃、サハラ周辺国の砂漠化、氷河の後退、シベリア凍土の溶解等々の記事が、頻繁にマスコミに登場してます。
環境問題が地球的な規模で、人々の関心を呼ぶ時代になりました。環境問題を政策綱領に掲げる政党が珍しくない時代です。

わたし達の日常生活でも、かつての異常気象が異常ではなくなっている事実に慣れつつあります。
昔は冬になると、ブルージュの運河がガチガチの凍りました。そして、凍結した運河を通って、オランダ国境まで行って帰ってくるスケート大会がありました。今では、運河のスケート大会など夢のまた夢です。
また、昔のベルギーの夏は涼しかったので、冷房設備や扇風機など要りませんでした。ところが、昨今のベルギーの夏は日本ほどではないにしても、ベルギーの人々にとっては猛暑と呼んでいい暑い日が続くようになってます。

地球は間違いなく温暖化しており、その温暖化や環境汚染は日々進行しています。人間の住む美しい惑星である地球は、重い病いに蝕まれつつあるかに見えます。
人間は自分達 の手で自分達の住む地球を、取り返しのつかない破滅的な状況にもっていこうとしているのでしょうか。

地球の温暖化や大気汚染の原因として、いろいろな要素が指摘されています。まず頭に浮かぶのが車の排気ガスです。
確かに地球の温暖化に対する排気ガス影響は否定できないでしょう。しかし地球の温暖化や環境問題に、排気ガスよりももっとおおきな影響を与えている要素があります。

それはなんと牛のおならなのです。にわかには信じ難い話ですが、牛のおならが地球の温暖化や大気汚染に重大な影響を与えているのだそうです。
これは国連のFAO(食料農業機構)の正式レポートですから、荒唐無稽な話ではありません。
厳密に言えば、食肉生産にかかわる牧畜、養豚が地球の温暖化や環境汚染に重大な影響を与えています。その中でも、牛のおならとげっぷが、いわゆる温室効果ガスとして大気中に放出され続けているのだそうです。

FAOのレポートです。
1)2006年に地球上で排出された温室効果ガスの18%が、牧畜から来ている。
2)同年に地球上で排出されたCO2の9%は牧畜から来ている。
3)同年に地球上で排出されたメタンガスの37%は牧畜から来ている。
4)同年に地球上で排出されたHemioxyde d’azote(注)の65%は牧畜から来ている。
注:この化学物質の日本語訳がわかりません。専門家の方、教えてください。分解すればHemiがギリシャ語で半分の意味、oxydeが酸、azoteが窒素です。畜舎から出る堆肥や家畜のし尿から発生するガスで、地球の温暖化に大きな影響を与えています。

反芻動物である牛は絶えずおならをし、げっぷをしています。そこから排泄されるメタンガスは、地球上で排出されている二酸化炭素の23倍もの温室効果ガスに匹敵するそうです。

ベルギーの田舎、特にアルデンヌ地方の絵のような風景を思い出して下さい。森の向こうには教会の尖塔が見え、よく耕された麦畑の緑に混じって、コクリコの花が赤い絵の具を散らしたかのように咲き乱れています。森と森の間の丘陵地帯は美しい牧草地となり、牛達がのんびりと草を食んでいます。
こういった風景は、ベルギーだけではなく、ヨーロッパではどこでも見られる風景です。スイスのVallee(谷間)で、首に大きな鈴(鐘といったほうがいいぐらい大きいですが)をつけて草を食んでいる牛達の姿は、絵葉書にもなっているスイスの風物詩です。

地球上で、毎日のんびりと草を食んでいる牛の数は、どのぐらいなのでしょうか。この牛達が毎日おならとげっぷをして、FAOが危機感をつのらせるほどの温室効果ガスを排出しているのかと思うと、牛を見る目が違ってきます。
アルデンヌやスイスの美しい風景にとけ込んでいる牛の姿を、今までのように笑顔で見ていることが出来なくなりました。知りすぎた者の悲劇です。

でも、牛に責任はないですよね。全ては、食肉その他を得るために、牛を集約的に飼育する人間の側に責任があります。
ベルギーの消費者雑誌「Test Achat」に出ていた「Reseau ECO-Consomation」という資料を引用します。
1キロの牛肉を生産するために、150キロのジャガイモを生産するに足る農地を使っています。
1キロの牛肉を生産するために発生する温室効果ガスは、車が60Km走った際に発生する温室効果ガスに匹敵します。
1キロの牛肉を生産するために必要とするエネルギーは、ガソリン7リッター分に相当します。
1キロの牛肉を生産するために、15,000リットルの水を使ってます。これは一人の人間が1年間に使うシャワーの水の量と同じです。

FAOのレポートは続きます。
現在、世界の耕地面積の33%が畜産用の飼料生産に使われています。これに牧草地を入れるなら、なんと世界の農地の78%が畜産用に使われているのです。
もっと驚くべき数字は、世界で生産される大豆の90%が、家畜の飼料に向けられているという事実です。
もし中国が、西欧諸国の1人当たりの肉の消費量と同じ量の肉を消費するようになったら、世界の穀物生産量の半分を飼料に回さないと、食肉生産が追いつかなくなるそうです。

ヨーロッパでも穀物生産の75%が食肉生産に使われています。それでも足りなくて、トウモロコシや大豆を輸入しています。輸出する国は農地を増やす為、森林を伐採し、或いは焼き払って農地に変えていきます。
地球の肺と呼ばれているアマゾンのジャングルや森林は、恐ろしい勢いで農地の変えられています。アマゾンの森林を焼く煙は、地球を回るサテライトから写真撮影が可能なほど、昼夜の別なく巻き起こっているそうです。

肉の消費量は世界的に上昇傾向にあります。
1999-2001の間に世界中で生産された食肉は229百万トンでした。これが2050年までに465百万トンまでいくと予想されています。
そうなると、牛の数も当然増えます。おならもげっぷも今の倍以上の量が、空気中に放たれることになります。

食肉産業が温室効果ガスの発生と密接な関係があることは、明白な事実です。しかし畜産や養豚などの食肉産業は、別の分野での公害の源になっています。
FAOのレポートによれば、世界の食肉産業は水質汚染の元凶だそうです。牛舎や養豚場から毎日大量に排出されるし尿並びに堆肥類が、昔のように肥料として土に帰ることがなくなりました。処理業者によって集積所集められたこれらの排泄物の成分が土中に染み込み、地下水を汚染していきます。
さらに飼料生産農地に散布される大量の農薬や化学肥料からくる水質汚染や、土地の
非有機化も見逃せません。

昔、ケニヤのマサイ族の村を見に行った時、家の壁が牛糞で出来ているのに驚きました。よく乾いた壁はいいのですが、生乾きの壁から発する臭気には参りました。
でも、牛糞を資源として無駄なく利用しているマサイの人たちの方が、はるかに地球に優しい人たちではないでしょうか。
また、モンゴルの草原に生きる人たちは、炊事の燃料として乾燥した牛糞を使います。
乾いた牛糞は、モンゴルの草原の住居、パオの中で燃やしても臭いは殆どありません。
乾燥牛糞は燃やすと温度が安定していて、パオの暖房や馬乳酒を造るのにかかせない燃料だそうです。

牛も、マサイ族やモンゴルの遊牧民のように、自然と共に生きる人たちに飼われている分には、温室効果ガスや水質汚染の問題を引き起こすことはない筈です。
食肉を効率よく量産するために、牛や豚を集約的に飼育し、大量の飼料を使い続ける現代の食肉産業に問題があるのです。

ではどうすればいいのでしょうか。
世界中に何千万頭或いは何億頭いるのかしりませんが、それぞれの牛のお尻に、おなら回収器をつけたり、口にげっぷ収集器をつけたり、できるわけがありません。
牛の腸内発酵を押さえる飼料を開発すべき、という意見もあります。

でも根本的な解決策は一つしかありません。
そうです。肉の消費を減らすことです。消費が減れば、生産も減ります。牛のおならやげっぷも減ります。温室効果ガスも減ります。水質汚染も減ります。
ただ、肉を食べるなというと、別の方から「なに言ってんだ、このう」という声が聞こえてきます。それは、これまで肉を思うように食べられなかった国々の人たちの声です。収入や生活水準の向上で、食卓にステーキが出る幸せを噛みしめている人たちが、黙ってはいないでしょう。
「今までたらふく肉を食べてきたあんたたちに、肉を食うななんて言われる筋合いはない」と、反発するにちがいありません。

肉、特に牛肉の消費は、生活水準の推移と密接な関係があります。
ベルギーの人たちだって、昔は牛肉なんてそんなに食べられませんでした。日曜日に家族で鶏肉を食べるのが一番のご馳走だったのです。ブリュッセルの住民に、“鶏食い野郎”という綽名がついてたぐらいです。
グランプラスのセルクラ-ルの像の上にある、ブロンズのレリーフをよく見てください。鶏を料理している場面が見られます。

肉の消費を減らすのは、“魁より始めよ”で、まず欧米の方々から始めるべきでしょう。ヨーロッパの王侯貴族が、肉の多食による弊害で、いつも吹き出物に悩んでいた過去を思い出して欲しいものです。

とは云っても、こちらには旨い肉や畜産品が多いんですよね。
アンギュスビーフ(米国産)、アイリッシュビーフ、ベルギーのブルーブランなどのステーキは最高です。豚肉だったら、トンカツにしても美味しいイベリコ豚やパタネグラがあります。
生ハムだって、地元アルデンヌをはじめ、イタリアのサンダニエルやパルマ、スペインのセラノ など、美味しいんですよね、これが。要するに、肉類を食べるなというのではなく、みんなが食べる量を減らせばいいのです。

お父さんのところは、今晩はすき焼きですか。たまにはいいでしょう。でも、牛のおならのことを忘れないでくださいね。すみません、お食事中に。 

No.147.ベルギーの独り者

No.147.ベルギーの独り者



この原稿を書き始めたのが、奇しくも2月14日、ヴァレンタインデーの日です。なぜ奇しくなのか、聞かれても返事は出来ません。たまたまその日だった、というだけのことです。
はっきりしているのは、この日は、わたしも含めて、世のおじさん達にはまったく関係のない日であるということです。

恋は青春の華です。わたしが尊敬する文章の名手、東海林さだおさんが書いてます。
「青春と恋とは、ラーメンとシナチクのように、あるいはギョーザとニンニクのように、あるいはカレーライスと福神漬けのようにセットになっているのである」と。
もちろん、恋に年齢制限はありません。二コラ サルコジさんとカルラ ブルニさんの恋が、プレスを賑わせています。

青春時代の恋には一途で、華やかで、めくるめくような高揚感があるのを、皆さんも覚えているでしょう。そして、青春時代の恋は周りからも暖かい目でみてもらえます。   これに反して、ある程度の年齢を越えてからの恋は、世間から冷ややかな目で見られたり、胡散臭い目で見られがちです。
超熟年の男性が、「ワシとお千代さんは真底惚れあっているんだがな、こほん」なんて云っても、世間は「いいトシこいてなにやってんだか」と、冷ややかな反応で二人を見てしまいます。恋は、「いいトシこいて」の枕詞が入る前にしたいものです。

ところで、カトリックの聖人、聖ヴァレンタインの命日とチョコレートの販売促進を結びつけたのは、どこの誰なのでしょうか。この人物は、マーケッティングに恐るべき才能を持っていた人に違いありません。

ベルギーのプレスでも紹介されましたが、日本のヴァレンタインデーはちょっと変わっていますね。この日に限り女性の方からから男性に思いを告白してもいい日だとか。
きょうびの女性は、別にヴァレンタインデーじゃなくたって、機会をがあれば好きな男性に自分の気持ちを告白していると思うのですが。

また日本では、ヴァレンタインデーに職場の女性が男性に「義理チョコ」なるもの贈る習慣もあるそうですが、実に変てこな習慣だと前から思ってます。
いえることは、「義理チョコ」を考えついてこれを広めた人は、やっぱりチョコレート販促マーケッティングの達人であるということです。

ベルギーに限らず、ヨーロッパではヴァレンタインデーは“愛の祝日”として、夫婦や恋人同士が贈物をし合ったり、レストランに行ったりする日です。
ところで、この日、チョコレート業界以外に、売上を伸ばす業種があります。何でしょうか。それは探偵事務所です。不倫の証拠固めには、2月14日がいいのだそうです。

「前々かからどうもおかしいとは思っていたけど、2月14日をはさんで出張があるなんて、これはいよいよ怪しい」と思った奥さんが、自分の旦那さんの素行調査を探偵事務所に依頼するわけです。不倫の二人も、ヴァレンタインデーの魅力に勝てないようで、この日に逢引をする不倫カップルが多いのだとか。
従って、2月14日は、探偵事務所の人手が足りないぐらいの稼ぎ時になるんだそうです。この話はベルギーのRTBテレビが、2月14日の夜の定時ニュースで流していました。

お断りしておきますが、お宅のお父さんが2月14日をはさんで出張したからといって、お母さんはお父さんを疑ったりしてはいけませんよ。それはお父さんの出張日程が、たまたま2月14日になったというだけのことです。まちがっても探偵事務所に駆け込んだりしないでください。
かんとうが余計なことを書くからなんて、こっちにとばっちりが来たらかないませんので、くれぐれも宜しくお願いします。

ところで、ベルギーには15歳以上の独身者が約150万人ぐらいいるそうです。ベルギーの人口からみると、7人に1人が独り者ということになります。
このうち半分近くが一人で住んでおり、残りの半分以上が親元に住んでいます。
30歳から44歳までの一人暮らしのベルギー人の中で、37%は子供と暮らしています。これは圧倒的に女性が多いです。
独身のベルギー人の半分以上は、家族や友達に会ったり社会的なコンタクトを維持しています。さらに独身者の34%は、一緒には住まないけれど時々会う異性の友達がいます。

しかし独身者の半数近くが、“孤独”と感じています。
孤独なら相手を探せばいいものをと考えますが、意外にも出不精というか、積極的に相手を見つけようとしない独身者が多いのです。
30歳~44歳の独身者で、ここ1年の間にパートナーに恵まれてない人が75%もいます。そしてこれからも出会いは期待できないと考えています。
それでは、男女含めたこの人たちの中で、一生懸命パートナー探しをやってる人はどのぐらいいるのでしょうか。13%しかいません。
大多数は、パートナーは欲しいけれど探すのは面倒くさいという人たちなのです。

似たような傾向が、日本でも見られるようです。
1月21日付けの朝日新聞「OPINION」欄に、“08年恋愛のカタチ”のいう記事が載っていました。30代の男女数百人に対面調査をした結果、つき合っている相手が「いない」と答えた人は約7割、過半数がつき合うのは「面倒」と答えています。

さらに、「恋愛と仕事のどちらが大事か」という設問に対して、圧倒的多数が「仕事」と答えてます。
「デートの約束があった時、残業を命じられたら?」の設問に対して、男女合わせてなんと81.7%が「デートをやめて仕事をする」と答えています。「残業を断ってデートに行く」と答えた人は18%しかいません。
「デートをやめて仕事」と答えた人を男女別にみると、男性が79.2%で女性が86.1%です。女性の方が圧倒的に仕事優先であることがわかります。

仕事優先の数字は、現場では有り難いでしょう。
もう少しで受注できそうな大型契約の再見積もり提出期限が迫っている時、担当社員が「今日はデートですから」なんて帰ってしまったら、上司たるあなたは、「この野郎、やる気あんのか」と頭に血が上ること、間違いありません。

ベルギーで同じ設問をした場合、仕事優先とデート優先の数字が逆転するような気がします。でも、つき合うのが面倒という人の割合が、ベルギーと日本で同じぐらいなのは、面白い現象だと思います。
洋の東西を問わずこういう結果が出るのは、今の時代、人と人との関係が希薄になってきているからでしょうか。
今や、インターネットのお蔭で、居ながらにして世界中の情報を手にすることが出来ます。相手と顔を会わせることなく、誰とでも“会話”を楽しむことができます。
ですから、現実には誰にも会わなくても、当人は孤立しているとは思わないのです。いつも人とのコミュニケーションの輪の中にいると、錯覚しているのです。

確かに、愛だ恋だという人間関係を維持するのには、結構なエネルギーを必要とします。面倒と云えば面倒なことです。覚えがありませんか、お父さん。
その面倒を乗り越えさせる力を与えてくれるのが、愛であり、恋なのでしょう。恋人やパートナー探しを面倒くさいと云う人は、人を愛するという境地へ向う前、つまり助走の段階でギブアップしている人と云えるかも知れません。
ま、場合によっては助走も結構長かったり、息切れしたりしますから、面倒くさいという人の気持ちも分からないではありません。

助走が功を奏して、二人が愛の高みに至ったとしても、その瞬間から二人は非情な敵に立ち向かわなければなりません。
非情な敵とはなんでしょうか。それは“時間“です。時間という怪物は、愛の高みにいる二人を引きずりおろそうと、冷酷な闘いを仕掛けてくるのです。
時間との闘いに敗れた愛は色あせ、消え去っていきます。場合によっては、時間は愛を憎しみに変える力さえ持っています。

昔、フランス語を習いたての頃は、ベルギーの仏語大衆紙の三面記事が、格好の教材でした。三面記事には、男女の愛憎劇が頻繁に出てくるので、辞書を片手に一生懸命読み進んだものでした。
“ベルギー中央銀行総裁、公定歩合引き上げ示唆”とか、“CVP(フラマンキリスト教社会党)VU(フラマン民族統一党)との連立を模索”なんていう記事は辞書を引き引き読みたいとは思いません。
でも、“痴情のもつれから夫の愛人を射殺”なんていう記事になると、先が読みたいので一生懸命辞書を引くことになります。

ところで、ベルギーの人たちは、どういう機会、或いは場所で生涯の伴侶やパートナーと出会っているのでしょうか。
一番多い60%台が外出先、というかディスコやパーティーといった場所での出会いです。次が、友達や知人の紹介で知り合うケースです。同じ40%台で、職場での出会いが続きます。それから、30%台で趣味の仲間同士や同好のクラブメンバーなどが、出会いのきっかけになっています。
学校や勉強が一緒で知り合うケースと、出会い系サイトで知り合うケースが、同率の24%です。ブログやチャットルームを通してというのも15%あります。

この統計はベルギーの新聞に出ていたものですが、一つ不思議の思ったのは、「結婚紹介所を通して」という数字が出てないことです。ベルギーにも沢山の結婚紹介所がありますから、それなりに利用者はいる筈です。結婚紹介所も立派な出会いの場だと思いますが、数字には出ないようです。

この国の人たちは、出会いの後、何を基準に生涯の伴侶への道を進んだり、パートナーとしての生活をスタートさせるのでしょうか。
新聞の統計によれば、圧倒的多数(94%)が「性格」を挙げています。つまり気が合うかどうかということなのでしょう。それはそうですよね。気が合わない相手と暮らすわけにはいきませんから。
次にくる基準が、なんと「セックス」です。セックスが合うかどうかに重きを置く人が85%います。このへんが日本と違うところなのでしょうか。
「容姿」が大事と考える人が70%いますが、これは男性の方に多いようです。それから、共通の「趣味」が大事とする人の比率が、容姿に重きをおく人と同じ70%です。

他にもいろいろな好みがありますが、特に女性の場合、相手の職業、国籍、肌の色、禁煙者か喫煙者かなどに注意をする傾向があるようです。
難しいですよね。綿密な調査をして、自分の基準にぴったりの相手を見つけても、一緒に暮らしてみたら、必ずしも期待通りではなかったというケースが、いくらでもありますから。
ちなみに、当ベルギー国の離婚率は50%を越えており、EU加盟国の中でトップクラスです。

「割れ鍋にとじ蓋」って云うんですか。自分の身の丈に合った相手と暮らすのが、一番無難かと思いますが、お父さん、どう思いますか。  

No.148.“カネが敵の......”

No.148.“カネが敵の......”



お金は.......、そう、あった方がいいですね。貨幣経済の世の中にどっぷり浸かって生きてる限り、お金無しにはまず生きていかれのが現実です。

お金がないと困ることが多いですが、皆さんは、外国でその国の通貨がなくて困った経験はありませんか。
わたしは、その国の通貨を持ってなくて、立ち往生した経験が二度ほどあります。
一度は、学生時代にスペインの地方都市でバスに乗った時でした。
バス代に相当する現地通貨を持ってなかったので、持っていた外貨を出したら、運転手さんにダメと云われました。
まわりはスペイン語しか分からない人たちばかりで、途方にくれていると、女子学生風のお嬢さんが英語で助け船を出してくれました。
わたしが、スペインに陸路入国したばかりで、両替してない事実を説明すると、そのお嬢さんは、「これでバス代をはらいなさいよ」と、小銭を恵んでくれました。
お嬢さんは、優しいだけでなく、とてもきれいな人でしたので、あの時、住所と電話番号ぐらい聞いいておけばよかったと、後で後悔したものです。

二度目の経験は、キューバのハバナで乗ったバスの中ででした。
ご存知の方もいると思いますが、キューバは通貨が二本立てになっている国です。キューバ国民用のペソスと、外国人用のペソスがあって、われわれ外国人は外国人用ペソスしか両替できません。このペソスは、ホテルや外国人用のレストラン、バー、ショッピングの店では使えますが、一般市民の利用する場所では使えません。

その時はタクシーを使ってもよかったのですが、ハバナ名物の“駱駝”と呼ばれる胴長の市バスに乗ってみたかったのです。
乗ったまではよかったのですが、車掌さんに外人ペソスの受け取りを拒否されてしまいました。困っていると、そばにいたおばさんが、黙ってわたしのバス代を払ってくれました。わたしはお礼にドル紙幣をおばさんに渡そうとしましたが、頑として受け取りません。キューバの人たちは、ノドから手がでるほどドルが欲しいのですが、衆人環視の中ではまずかったのだと思います。

わたしは何故か、人さまにお金を恵んでもらう機会が多いのです。よほど哀れに見えるのかもしれません。しかも、恵んでくださる方がいつも女性なのです。
「このシト、あたしがいなかったら駄目になる」、「養ってあげたい」、「めんどう見てあげたい」、といった気持ちを女性に抱かせる、そんな雰囲気を自分が持っているのでしょうか。

とは云っても、通常は人さまのお恵みで、生活するわけには行きません。自分で働いて、生活費を稼がなければなりません。
人間が額に汗して生活の糧を稼がなければならなくなったのは、アダムとイブがエデンの園を追放されて以来だとか。
額に汗して土地を耕し、森の動物や川の魚、海の幸、木の実や香草が食事に彩りを沿えてくれる生活をしていた頃、人々にお金の問題はありませんでした。

やがて人々は、農耕技術や狩猟、漁労技術の進歩、工夫によって、生活の糧を補って余りある余剰農産物や、収穫物を手にするようになりました。
ここから、余剰生産物の物々交換の仕組みができてきます。さらに進むと、物の価値を代表する共通の手段が考え出されてきます。
価値を現す手段も、最初は貝殻だったり、稀少な木の実だったり、いろいろなものが使われたようでが、やがて貨幣が現れます。

今の世の中、貨幣経済の外にいて、自給自足で生きていくことは極めて困難です。特にわれわれに関係のある日本やベルギーのような先進国で、お金に触れずに生きることは、まず不可能でしょう。
ともすると、世の中はお金を中心に動き回っている感じさえします。そして人々は、その動き回る渦の中で、喜んだり、悲しんだり、苦しんだり、もがいたりしながら生きているのではないでしょうか。

お金は大事です。でも、お金で買えないものも沢山あります。
偉い人が言っています。
お金で家は買える、でも家庭は買えない。
お金でベッドは買える、でも眠りは買えない。
お金で時計は買える、でも時間は買えない。
お金で本は買える、でも知識は買えない。
お金で地位は買える、でも尊敬は買えない。
お金で医者にかかることはできる、でも健康は買えない。
お金でセックスは買える、でも愛は買えない。
お金で血は買える、でも命は買えない。

ところで、ベルギーのひと達はお金をどのように見ているのでしょうか。
ベルギーの人々が考える、この世で最も価値あるものは何でしょうか。
統計によれば、ベルギーのひと達がこの世で最も大切なものとして考えているのは、まず健康です。その次に大事なものがお金です。その後は、愛や自分の時間、安全などが、価値の順番になっています。
確かにいくらお金があっても、健康でなければ意味がありませんね。お金を持ってお棺に入っても、向こう側は貨幣経済ではないみたいですから、こちら側に置いていってもらったほうが、いろいろと使いである筈です。

ただ、お金が無いために病院にも行けず、お医者さんにも診てもらえず、治る病気も治らず、ひどい時は死んでしまうという、悲惨な例がないこともありません。
アメリカの映画監督ロジャー ムーアは、映画「シッコ」の中で、アメリカの医療制度や保険制度の不備や矛盾を鋭く暴きだしています。この映画の中では、まさに“お金が命”というアメリカの現実がしっかりと描かれています。

そうなのです。お金はどうしても必要なものです。
ではどのぐらいあれば、ひとは安心できるのでしょうか。つまり心配なく日常生活をおくるために、ベルギーのひと達はどのぐらいの金額を想定しているのでしょうか。

どこの国の言葉にもある表現だと思いますが、フランス語で”rich”と”aise”という表現があります。”rich”はいわゆるお金持ち、富豪のことをいいます。
ベルギーのビール王でベルギー最大の富豪と云われているSpoelberch家や、資産が30億ユーロを越すAlbert Frereさんなどが、“リッシュ”のカテゴリーに入るひと達です。
これに対して、”aise”、“エゼ”と云うのは、生活に困らないひとのことを云います。直訳すれば、楽に暮らしているひと、とでも云うのでしょうか。
このカテゴリーに入るのは、月収が手取りで 7,000ユーロ以上のひとだそうです。手取りが7,000ユーロということは、ベルギーの給与体系では月給の額面が10,500ユーロ以上になります。

では、ベルギーの“リッシュ“や”エゼ“のひと達は、日常どんな生活をしているのでしょうか。
1.買い物その他でお金を使う時、金額を気にしない。
2.年に何度もバカンスに行く。
3.一度に1,000ユーロぐらい使っても、家計にまったく影響しない。
4.月末になっても、お金の心配がない。
5.毎月余分なお金があり、貯金できる。
6.手持ち資金を、投資信託その他の方法で運用している。
7.高級車をもっている。
8.自宅以外に別荘をもっている。
9.庭の芝刈りや家の修理なども、自分でやらないで庭師その他の専門家に任せる。
10、子供に海外留学も含め、十分な仕送りをして教育を施す余裕がある。

どうですか、お父さん。お父さんのことですから、「なんだ、この程度ならオレだってやってるぞ」、なんて云うでしょうね。

ところで、値段も見ないで買い物が出来るお金持ちでも、出来れば払いたくないものがあります。何でしょうか。そうです。税金です。
ベルギー人の80%が、払いたくないもののトップに税金をあげています。確かに、税金を喜んで払いひとはあまりいないでしょう。日本で統計をとっても、同じような数字が出るのではないでしょうか。

この国の高速道路がタダなのも、幼稚園から小中高校の教育費がタダみたいに安いのも、みんな税金のお蔭なのです。分かってはいても、何故か払いたくないものなんですね、税金は。洋の東西を問わず、税金というものは、歴史上領民や国民が権力者に収奪されるものの代名詞的意味をもっています。

そこで、お金持ちもそうでないひとも、“節税“に知恵をしぼるわけです。昔はお隣のルクセンブルグが、ベルギーのひと達の節税のメッカでした。
最近、リヒテンシュタインの銀行にドイツ国鉄総裁をはじめ、ヨーロッパのお金持ちが秘密の口座を持っていた事実が明らかになり、ドイツ国鉄総裁が辞任に追い込まれた事件がありました。
ドイツの税務当局は、リヒテンシュタインの秘密口座のリスト入手のため、3億円か4億円を使ったそうです。でも、脱税の追徴金が30億円以上あったそうですから、十分に元はとれたわけです。

税金のほかに、ベルギーのひと達が払いたくないもののリストがあります。
それは、ガス、電気、水の請求書、保険代、銀行経費、路上パーキング代、ガソリン、車の修理、電話代、地下鉄、市電、市バス等々です。
税金を払いたくないという気持ちは分かりますが、上記の経費は日常生活で必要なものばかりです。これらも払いたくないとなると、市民生活を放棄しないといけませんね。
かく云うわたくしも、路上パーキング代のコインをケチって、何度か罰金を払った経験はあります。

ところで、ところでですよ、もし皆さんがユーロミリオンの宝くじを当てたら、どうしますか。100万ユーロということは、約1億6000万円ですから、結構使いでがあるとおもいます。
ベルギー人のルディーさんは、宝くじでユーロミリオンを当てた幸運なひとです。
でも彼は、現在家賃の安いアパートを探しています。今のアパートの家賃が高すぎるからです。ルディーさんは100万ユーロをそっくり定期預金にいれて、手をつけないつもりです。そして、将来このお金を元手にして、自分の商売を始める計画を持っています。
皆さん、“自分がルディーさんの立場だったら”と、想像してみてください。
まず鉄則は、ひとに言わないこととか、生活態度を急に変えないことでしょうか。それから、自分の幸運を噛みしめて、職場で思い出し笑いなどもしない方がいいでしょう。

お父さんも、ゴルフのスコア-がよくなったぐらいで、にたにたしない方がいいですよ。「ユーロミリオンを当てたのでは」なんて、勘ぐられますから。

No.149.儀式の国

No.149.儀式の国



この原稿を書いているのは4月です。
4月は日本の年度始めで、学校は新学期、企業や官公庁は新会計年度をスタートさせる月です。
4月は入学式、始業式、入社式等々、式の多い月でもあります。
ベルギーではどうでしょうか。式は何もありません。
ベルギーの新学期開始は9月ですし、会計年度の設定は自由ですが、1月スタートの12月締めの会社が多いですから、4月は通常の月です。

それでは、9月の新学期開始に際して、ベルギーの学校では入学式や始業式があるでしょうか。子供さんを現地校に通わせている方はご存知でしょうが、ベルギーの学校ではなんにもありません。
決められた日に学校に行って、先生と顔合わせをしてから、授業が始まります。

ベルギーでは卒業式もありません。
こちらの子供達は、「仰ぐば尊し」や「蛍の光」を歌ってぽろぽろ涙を流す日本の子供達のような体験をすることは、生涯ないわけです。もっとも今の日本で、卒業式に「仰げば尊し」や「蛍の光」を歌うのかどうかも知りませんが。

6月の卒業時に、こちらの子供達や大学生にとって最大の関心事は、試験の結果が卒業に必要な基準に達しているかどうかです。
何しろ、規定の点数を取らないと、小学校から落第が当たり前の国なのです。
ベルギー王室のメンバーの一人も、中学時代に一度落第しています。王族といえども点が足りなければ落第させるこの国の教育は、ある意味で立派だと思いませんか。

この国の大学には入学式も卒業式もありませんし、学生の就職の世話もしません。
卒業式の代わりにあるのが成績発表の日です。学生は、学科ごとに指定の教室に集まります。教授陣の代表教授が学生の名前を一人づつ呼びあげ、「合格」とか「落第」とかを発表します。
落第にコメントはつきませんが、合格にはコメントがつきます。
まあまあで合格した場合は“Satisfaisante”、ちょっと優秀は“ Distinction”、非常に優秀は“ Grande Distinction”、そして最高に優秀な成績で合格した学生には、ラテン語の“Cum Laude”という言葉がつきます。これは教授陣の“賞賛をもって”という意味になります。“Cum Laude“をもらう学生は、年によっては一人もいません。

不肖、わたくしめも、この成績発表の場に何度かいたことがあります。最終試験の結果発表の場で、自分の名前と一緒に、「落第」を意味する「Ajourne」という教授の声を聞いた時は、予想はしていたもののがっくりきたものでした。
 自分の言葉で勉強しているベルギー人の学生だって落第するのです。こちとらは、日本から遠路はるばるやって来て、言葉のハンディキャップがあるんだから、ちょっとはお点を甘くしてくれてもいいのに、と考えるのは日本人的甘えでした。

試験は先生の出す問題3問に、直ちに口頭で答えなければなりません。これは筆記試験よりよっぽど大変です。答えられなくてもぐもぐしてるいと、先生はにこりともせずに、「遠い国から何をしにきたのですか。日本にいたほうがよかったのではないですか」と言いました。この時点で落第は決定し、同時に自分の甘えも吹っ飛びました。

ひとは誰でも、人生のある時期に何かを必死になってやった経験があるのではないでしょうか。わたくしめも、次の追試までの期間、死にもの狂いで勉強をしました。
そして、せん越ながらDistinctionをもらって合格しました。しかしその勉強の間に、借りたノートの説明や、その他、勉強の手助けをしてくれたベルギー人の女子学生を、以後しょい込む結果になり、Distinctionがとんでもなく高くついたことを、皆さんに報告させていただきます。「幸と不幸はあざなえる縄の如し」とはよく言ったものです。

いろいろな国に駐在された方にお聞きしたいのですが、世界中で、会社の入社式や朝礼をやる国は日本以外にあるのでしょうか。
ベルギーの知人や友人に日本の会社の入社式なるものを説明しても、きょとんとして「なんだそれは?」という反応がほとんどです。
日本では、大学の入学式に親がついて来ると説明しても、なかなか理解してもらえないのと同じで、会社の入社式もこちらの人には奇異な現象として写るようです。

日本にいる時は別に意識しませんでしたが、外から日本を見るようになって、われわれ日本人はことのほか儀式好きな民族であることがわかりました。
入学式や入社式のほかに、卒業式や終業式、 選挙の際の出陣式、海外視察旅行に出る時の結団式や解団式、新年の鏡開きや道場開き、建設現場の地鎮祭、はては会社や職場の朝礼等々、いろいろなな儀式を日常生活の中で自然に行っています。

最近日本で話題になった、入学金未納高校生の入学式出席拒否の話、及びこの学校側の措置にたいするけんけんがくがくたる賛否両論を見ていると、日本人が如何にこういった儀式を大事に思っているのかが分かります。
また、東京大学の入学式には生徒の数の倍の肉親の出席者があったという話が、新聞に出ていました。これに対して学長や来賓が、式辞のなかで親離れ、子離れを説いたといいますから、日本は平和ですね。

日本民族の儀式好きはどこから来ているのでしょうか。
いろいろな要素が絡み合っているので、ひと言でいうことが出来ないのは当然です。
個人的な見解として、独断のお叱りを覚悟で申せば、日本人の儀式好きは日本の稲作文化から来ていると考えています。

わたしは田舎育ちですので、稲作が何であるかをよく知っています。実家は農家ではありませんが、家の裏手は一面の田圃でした。“兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川”という表現がぴったりの環境で、子供時代を過ごしました。
今でも、子供時代を田舎で過ごせたことを感謝しています。ただ残念なのは、かつての田圃地帯はすっかり宅地化してしまい、今や見る影もなくなったことです。。

都会育ちの方はご存じないでしょうが、稲作というのは限定された時期に、集約的な労働力を必要とします。そして水を効率よく、均等に使わなければなりません。
田植えの時期に、自分の田圃にだけ水を引くことは許されません。田植えの作業には、村落共同体のメンバー同士の助け合いが不可欠です。
日本の村落共同体には、稲作を通じての互助制度や、共同体への帰属意識が歴史の中で徐々に育まれていきました。
村落共同体の互助制度から排除され、共同体への帰属が認められなくなる“村八分”が、どんなに恐ろしい懲罰だったか、現代のわたし達の想像を超えるものだったのに違いありません。

わたしが子供のころの田舎では、年配者の言葉で、助け合うことを“結い”とか”結いする“と言うのがありました。多分、村落共同体の互助制度から来ている言葉だと思いますが、皆さんの出身の地方で、“結い“を使う地方があったら教えて下さい。

わたし達の意識の中にある、“横並び”、“出る杭は打たれる”、“根回し”などの日本的なメンタリティーは、日本人の村落共同体的意識から来ていると考えるのは間違いでしょうか。

村落共同体を会社や学校、所属する団体に置き換えれば、日本人の儀式好きが少しは分かるような気がします。
儀式は、個人を村落共同体の一員として認知する場であり、個人は村落共同体への帰属意識に目覚める場であると、考えてはどうでしょうか。
入学式や入社式で式辞を述べる校長先生や学長、あるいは社長は村の長なのです。式場の壇上に居並ぶ先生や教授陣、又は会社の役員は村役と考えればいいのです。
個人が村落共同体の一員になった時から、共同体は個人の生活に責任を負います。
今は大分崩れてきたとは云え、まだまだ根強く残っている日本企業の終身雇用制は、村落共同体の責任の現れだと思います。学校は学生の就職の世話までしてくれます。

日本の村落共同体はメンバーの生活、人生の面倒を見てくれる代わりに、ある代償を要求します。それは、共同体の一員として個の部分、私的な部分を犠牲にすることです。
個人としての意見を強く主張することによって、共同体の調和を乱してはいけません。自分の意見に固執することなく、全体の意見に従う従順さが求められます。

日本の茶道や歌舞伎,能なども、儀式の美しさ、様式の美しさを磨き上げて到達した文化だと思います。また、茶道や華道の家元制度は、日本の村落共同体的制度の典型だと思いませんか。

もし日本に古くからワイン文化があったとしたら、日本にワイン道なるものができて、
家元制度が確立していたに違いないと想像しています。
ワイン道なんとか流は、ワインの色を見る時グラスを35度傾けるけど、別の流派は
30度でとめるとか、味を見るために口に含んだワインをクチュクチュさせる際、なんとか流は3度でやめるが、別の流派は4度までしなければならないとか、いろいろな規則を各流派が創り出したに違いありません。
そして、ボルドー宗家とか、ブルゴーニュ古流或いは正統マルゴー派とか、いろいろな家元制度が日本のワイン界を支配していたかもしれません。

日本が儀式の国なら、わたし達の住むベルギーはどうなのでしょうか。
入学式も始業式も、卒業式も終業式も、入社式も朝礼もないベルギーでは、どんな儀式があるのでしょうか。
日常、最も頻繁に行われている儀式が、教会のミサや礼拝ではないでしょうか。
何しろ、毎週行われるわけですから、頻度から云ったら世界で一番多く行われている儀式と云ってもいいでしょう。
クリスチャンの子供なら洗礼式がり、カトリックの子供は洗礼の後に、日本の七五三に相当する初聖体の儀式があります。

クリスチャンでない人の場合、他人の結婚式やお葬式に出る機会あっても、直接自分に関係のある儀式に出る機会は、限りなくゼロに近いというのが現実です。一生に一度の自分関係の儀式が、結婚式だったという人も珍しくはありません。

ところでこの結婚式ですが、わたしは世の中でこれほど恐ろしい儀式はないと常々思っています。
考えてもみてください。
結婚式というものは、生まれも育ちも性格も違う男女が、一生愛し合って暮らしますなどと、ひとさまの前で約束するのですよ。よくもまあ白々しく言えるものだと、新郎新婦の顔を見ながら呆れてしまいます。
多くのカップルが、神さまや仏さまの前で式をしたがるのは、自分達にも後ろめたいところがあるからなのです。自分達の約束を、神さまや仏さまという人智越えた存在にギャランティーしてもらわないと、何となく不安なのです。

ところでお父さん、お父さんもお母さんと結婚した時、あの恐ろしい約束をしましたか。今でも約束を守っていますか。ここまできたら、最後まで約束を守ってください。
自己責任というものです、それは。    

No.150.名前のはなし

No.150.名前のはなし



皆さんは自分の名前、つまり自分の姓名にたいしてどんな感じをもっていますか。
名前というものは、姓にしろ名前にしろ自分で選んだものではないだけに、親に感謝する場合もあれば、そうでない場合もあります。

世の中には、自分の名前に誇りと責任をもち、家名を恥ずかしめない人間になろうと、日頃の努力を惜しまない人々がいます。伝統ある名門の家系に属する人達です。
或いは、名前を見ただけで、やんごとなき家系出身とわかる人々もいます。こういう人達は、自分の名前の手前、日頃の行動様式や身辺を持することに、人一倍注意を払わなければならないことでしょう。
名前というものは、場合によってはその人の人生に、大きな影響を及ぼす力を持っています。

「神藤、お前は自分の名前をどう思ってるのか」と聞かれれば、まあこんなものでしょうと答えるしかありません。わたくし如き市井の一市民の名前など、あってもなくても世のなかに何の影響もありません。
姓の神藤については、日本ではちょっと苦労しました。何故なら、この漢字を誰も「かんとう」などと読んでくれないからです。
通常は「しんとう」「しんどう」或いは「かみふじ」と呼ばれます。病院の待合室や銀行の窓口などでは、この三つのどれで呼ばれても返事をしていました。そうしないと、永遠に順番がまわってこないからです。
学校では小中高を通して、先生が「かんとう」と呼んでくれるまで、いつも時間がかかりました。

ところがヨーロッパでは、「Kanto」はこちらの人にとって発音しやすく覚えやすいので、何かと便利です。それに、こちらの言葉の中に、Kantoと発音が似ている単語もあるので、わたしの名前をみんなが簡単に覚えてくれので助かります。
KantoにorをくっつけるとKantoorでオランダ語のオフィスや事務所の意味になります。むかしフラマンの人に、“あなたの祖先はフラマン人ではないか”と、真面目に聞かれたことがあります。
イタリア語やスペイン語などラテン系の言葉で発音した場合、カントは「歌う」という意味です。歌う方が、怒るや怒鳴るなどという意味よりは、感じがいいと思ってます。
前に本会報に書きましたが、ハンガリーには正真正銘のKantoという姓があります。
さらにお叱りを覚悟で申し上げれば、私の名前は畏れ多くもあの偉大なドイツ観念論の哲学者、Kantと一字違いなのです。もっとも、それがどうしたと云われれば、どうもしませんと答えるしかありませんが。

名前の勇は、平凡な名前の代表みたいな名前です。しかも自分の性格に全く合っていません。子供のころから、勇気なんてこれっぽっちもありませんでしたから。
「イサム」は、こちらの仏語系の人の口にかかると、「イザミュ」になってしまうので、別称Sammy(サミー)を名乗っています。ベルギーの友人、知人は、わたしのことをSammyとしか呼びませんので、Isamuという名前をもってることを知りません。

昔ベルギー人の友達が会社に電話をかけてきた時、当社の社員が“わが社にサミーなんていう人はいません”と云って、電話を切ってしまったことがあります。
あとでその友達から、“お前、本当にあの会社で働いているのか“と、散々からかわれました。それ以来社員に、”サミーはカントーのことだかんね”と云ってありますので、電話事故はなくなりました。

当地の駐在員の皆さんのなかにも、ハジメさんやハルオさんがHarryで、テルオさんがTerry、タダシさんがTed, マコトさんやマサオさんがMikeやMacなど、それぞれ別称を用いてる方が結構おられます。
これは、ビジネス相手や会社の現地スタッフとの人間関係を円滑にする上で、効用があるのでしょう。

日本の総理大臣が訪米すると、向こうの大統領とファーストネームで呼び合ったと云って、両国首脳の親密ぶりを喧伝する記事がよく新聞に出ます。
でも、総理も大統領も何となくぎこちなくて無理してるな、という感じが拭えません。しかるべき地位にある人が、お互いをファーストネームで呼び合う文化のない国から行って、いきなりファーストネームで呼び合いましょうと云われても、結局付け焼刃なんですよね。

その点、わたし達のように、こちらにある年限住んでいる場合、ファーストネームで呼び合う文化の中で生活してますので、しばらくするとこちらの人とファーストネームで呼び合うことに、違和感がなくなります。皆さんも体験済みでしょう。

ところで、自分の姓や名前がどうしても気に入らない場合、例えば名前が原因で社会生活上、精神的苦痛や不愉快な思いを余儀なくされるといった場合、改名は認められるのでしょうか。
日本のこの分野の法律は知りませんので、専門家にお任せするとして、ベルギーの場合を見てみます。

2007年にベルギー法務省の改名担当係りが受理した改名申請は、1317件ありました。この中で、自分の姓の変更申請が573件ありました。地域別には、259件がフランス語圏で、314件がフラマン圏でした。
姓ではなく、自分の名前の変更申請は643件あり、フランス語圏が296件、フラマン圏が347件でした。姓と名前の両方の変更申請は101件でした。
勿論、申請が100%認められるわけではありません。難しいのは姓の変更です。2007年の申請で30%が拒否されています。

家族名の変更が比較的認められやすいのは、それがベルギー社会で隠れもない凶悪犯罪人の名前だったり、本人がその家族の一員だったりした場合です。
例えば、今ベルギーで最も注目を集めている裁判事件、「悪魔の夫婦」による少女の連続殺人事件の主役, Michel FourniretとMonique Olivierと同姓同名の人がいたら、改名は問題なく認められるでしょう。
或いは、両親の離婚によって、それまで名乗っていた父方の苗字を、母方の苗字にしたい場合なども、認められやすいケースです。

また社会生活上、混乱を招きやすい姓なども変更が認められます。例えば”Monsieur”
(ムッシュー)という姓をもつ人(実際にいます)を呼ぶ場合、Monsieur Monsieurと云わなければなりません。或いは、Paternoster(パーテルノステル)という人がいますが、この意味はキリストが弟子達に教えた“天にまします我らの父よ“で始まる「主の祈り」のラテン語訳の言葉です。
「我らの父よ」氏が、公金横領でしょっ引かれるようじゃキリスト様に申し訳が立たないと云うので、改名を申請して認められています。

これはフランスで実際にあった話です。
「Jaisoif」という姓を持つ青年がいました。かれは兵役に従事するために、新兵訓練所に入りました。訓練前の全員集合で、新兵は上官の前に整列して姓名を名乗らなければなりません。くだんの青年の番がきて、“自分はパトリック ジェソワフであります”と名乗りました。すると上官は、“パトリックはわかったが、姓の方をきちんと名乗れ”と、厳しく申し渡しました。
青年は姿勢を正し、“自分はパトリック ジェソワフであります”と繰り返しました。
上官は顔を真っ赤ににして、“お前は、上官を侮辱してるのか。訓練の前にJ’ai soifとは何事か」と怒鳴りつけました。
 青年は悲しそうな顔をして、“軍曹殿、私の姓は本当にジェソワフなのです”と答えました。
ま、青年も可哀想ですが、上官が怒るのも無理はないですね。フランス語の“J’ai soif”
は、“私はのどが渇いてます”という意味ですから。
青年の家族の祖先は、どうしてこんな名前を家族の名前にしたのでしょうか。

そう云えば、日本の落語にもこんなのがありましたね。
「おばあちゃん、お名前は?」
「ありやせん」
「そんなこと云わないで、お名前を教えてくださいよ」
「だから名前は、ありやせんといってるがね」
「まあ、強情なおばあちゃんね。名前がないなんて嘘に決まってるでしょう」
「分からん人だね、あんたも。わたしゃ姓が“有屋”で名前が“せん”だがね」   

皆さんのベルギー人の知り合いや友達の中に、ファミリーネームがJeanとかFrancoisとかMichelとかいう人はいませんか。こういう名前は、本来こちらの人のファーストネームですよね。
日本では姓、つまり家族名として、太郎や次郎や花子を名乗ることは、絶対にありえないでしょう。ファーストネームをファミリーネームにしている家系は、ベルギーの
フランス語圏に多いような気がします。フラマン圏では余り聞きません。

JeanとかMichelをファミリーネームにしている家系の祖先は、Batardだった可能性が高いそうです。“バタール“とは、婚姻外出生、庶子、私生児等の意味です。
昔々、村や町で父親知らずの子供が生まれた場合、母親となった娘の祖父のファーストネームを姓として新しい戸籍を作ったのだそうです。
一方ヨーロッパの歴史を見ると、庶子は王侯貴族の家系から沢山生まれてます。
キリスト教の倫理が支配していた時代でも、王侯貴族に愛人がいるのが当たり前でしたので、庶子の生まれる機会が多かったのです。

ベルギーでのファーストネームの変更申請は、ファミリーネームの変更申請より認められる可能性が高いようです。ただ、スターの名前を名乗りたいなどの理由で、やたらに申請しないように、申請費が490ユーロと高くしてあります。
次の理由で改名申請をする場合は、申請費は49ユーロとぐっと安くなります。
1.余りにも奇異だったり滑稽だったり、或いは口にするほうも聞くほうも羞恥心を覚えるような名前。Conard,とかCouille(辞書を引いて下さい)なんて云うのが対象になるでしょう。
2.外国の名前の発音をヨーロッパ風の発音に変えたい場合。
3.混乱を与えるような名前。例えば親から男の子の名前をつけられた女の子。
4.名前の発音が誤解を与えるために、綴りにアクセントやハイフンを入れる。
5.名前を短縮したい場合。Frederic をFredにするとか。
6.性転換によって男性としての名前を女性名にしたい場合、その逆も同じ。

ところで、皆さんは配偶者をどう呼んでますか。ファーストネームで呼び合ってますか。或いは「あなた」とか「君」、「お前」タイプですか。
こちらのカップルは、ファーストネームで呼び合うケースが圧倒的に多いです。
他に、愛称で呼ぶカップルもいますが、これは新婚時代に多いケースです。例えば、奥さんが旦那さんのことを“モンプチシュ“(わたしの可愛いキャベツちゃん)と呼んだり、旦那さんが奥さんのことを“マビシュ”(ぼくの雌鹿ちゃん)と呼んだりします。

でもだめですよ、お父さん。こちらの人の真似をして、お母さんを“ぼくの可愛い大根ちゃん”なんて呼んでは。お母さんの脚線部をよく見て下さい。危険です。                                                                            

No.151.わが家の住所

No.151.わが家の住所



先月号で人の名前について書きましたが、今月号では、自分たちの住んでいる場所、つまり住所について書いてみます。正確にいうと、住所に付いている通りの名前についてです。
皆さんの住んでいる住所の、通りの名前はなんですか。その通りの名前の意味について、考えたことがありますか。

云い出しっぺとして、わたくしめの住んでいる住所、通り名前を申し上げます。
ブリュッセルのWoluwe Saint Lambertに所在する Avenue du Mistralという通りに住んでいます。辞書で”mistral”の項目を見ると、「ミストラルはフランスのローヌ河沿いに地中海に向って吹く乾燥した強い北西風」と出ています。
近所の通りの名前を注意して見てみると、”de la Tramontane”とか、”l’Aquilon”、”des Eoliennes”など、風に関係した名前がついてます。

辞書からの孫引きですが、“トラモンターヌ”は、アルプスやピレネーから地中海に向った吹き降ろしてくる北風のことです。“アキヨン”は北風とか烈風を意味します。
“エオリエン”は、ギリシャ神話の風の神様“アイオロス”からきている言葉で、風力とか風車を意味します。皆さんも、ベルギーやオランダをドライブしていて、海岸や風の強い場所に林立している風力発電用の白い塔の風車を見たことがあるでしょう。
この風力エネルギーのことをフランス語でいうと、 ”energie eolienne”になります。昨今の原油の高騰で、アイオロスの神様の活躍がいっそう期待されるのではないでしょうか。

こうしてみると、わたくしの住んでいる地域は、北風がピュ-ピュ-吹いて木の葉を散らし、風が家々の窓を叩いて通り過ぎる、なにやら荒涼というか寒々とした場所、といった印象を人は持つかも知れません。

そこを、鼻水を垂らしながらとぼとぼと歩いている自分がいます。最後に食べたあったかいご飯はいつのことだったのか。心ゆくまで手足をのばし、ゆっくりとお風呂につかったのは、もう思い出すことも叶わない昔のこと。蓬髪に隠された小さな目は、人を正面から見ることもなく、着ている服は汚れと垢にまみれ、行き交う人は、目をそむけ、鼻をそむけて、わたくしを避けて通り過ぎて行きます。
思えば、万里の波涛を乗り越えて(本当は飛行機で来ましたが)、この白耳義国まで来たのはなんであったのか。
青春の日の大志はどこにいったのか。めくるめく恋は偽り衣だったのか。うつろな目で見上げる空は、あくまでも暗く、空を覆う雲は、地にある全てのものを押しつぶすかと思うほどに厚く、大地に力を吸い取られる足は重く、厚い雲はやせ細った背中にさらに大きな重荷背負わせるかの如く、低く低く垂れこめている。
自分は今、異郷の地で朽ち果てようとしている。
父よ、母よ、お許しあれ。これがあなたたちの息子の運命なのです。運命は、ギリシャの神々でさえ抗うことができなかったのです。
ミストラルよ、アキヨンよ、トラモンターネよ、そしてアイロスの神よ、去れ、この地を去れ。青春を返せ、人生を返せ、愛を返せ。

ばかばかしいので、この辺でやめましょう。
通りの名前から、なにをとち狂ってこんな文章が出てくるのでしょうか。われながら呆れてしまいます。
わたくしの住まい致す地区には、在留邦人の方々が結構住んでおられます。住民の名誉のためにも申し上げますが、この地域はけっして北風ピューピュ-の荒涼とした場所ではありません。鼻水垂らした東洋人も歩いておりません。
ま、ブリュッセルの中ではそんなに文句の云えない住宅街といっていいでしょう。ご町内にお住まいの日本人の方はご存じないでしょうが、昔は、この地域に家など一軒もありませんでした。一面のビート、つまり砂糖大根の畑だったのです。

コミューンの都市計画課に電話をして、道路の名前のつけ方について聞いてみました。ベルギーでは、どこのコミューンにも地名委員会(Commission de Toponyme)なるものがあるそうです。
この委員会は住民代表や市当局の担当者などから構成されています。委員会では、市が造成した新しい道路の名前や、市民からの道路名の変更提案などが審議されます。
審議の結果は市議会にあげられ、市議会がこれを審議します。市議会の決議を受けて、市長が裁可するのだそうです。

道路や通りの名前は、大まか分けると次のようになります。
1.カトリックの聖人、ベルギー及び各国の歴史上の人物、市の発展その他に功績のあった市長名、著名な作家、画家、音楽家などの人名。
2.昔から呼ばれていた土地の名前や街道名など。
3.草木の名前や鳥や動物、山や川、風など自然界の名前。
4.歴史上の出来事、記念日など。
5.教会、修道院その他の建造物に関係ある名前。
6.外国の国名。

ところで、地区当たりの在留邦人の比率が高いといわれている”Rue Konkel”の意味はなんでしょうか。コンケルの名前は、上記の区分でいうと2番に相当します。
“Konkel”の名前が初めて記録に現れるのが、1650年といいますから、相当古くから道路として存在していたことがわかります。
ただコンケルという名前の道は、通商上の幹線道路だったわけではなく、牛や馬や農民が行き来する農道だったようです。

“Konkel”ということばになにか意味があるのでしょうか。
“K”で始まるからには、フランス語よりオランダ語の可能性が高いと見て、オランダ語の辞書を引いてみました。すると、konkelaar(陰謀家,策士)とか konkelen(陰謀を企てる、策謀を巡らせる)などという単語が見つかりました。

17世紀に今のベルギーをもっていくと、スペイン統治下の南ネーデルランドになります。日の沈む時なき大帝国を誇ったスペインも、昔日の面影はなく、プロテスタント勢力の強い北部ネーデルランド、今のオランダの独立を認めざるを得ませんでした。
また、南部のイープルやコートレイクなどの主要都市に手をのばしてきた、フランス王権の侵食を跳ね返す力もなくなっていました。

そんな時代に、二人の男がコンケルの道を歩いています。
「ジョス、あの話しをおまえは本気でやるつもりなのか」
「やるともよ。なんだヤン、おまえ怖気づいたのか」
「いや、おれはいいが、女房まで巻き込むのはどうもな」
「今さら何をいうんだ。スペイン兵をやっつける方法は、これが一番だって、村の集まりでおまえも賛成しただろう。スペインの代官は、来年からの年貢をまた上げるいってるんだぞ。これ以上年貢を搾りとられたら、おれたちの食い扶持はどうなるんだ」
「そりゃあ、よくわかっているよ。おれんとこだって、小さいガキが4人もいるんだ。でも、おれの女房は色っぽいからなあ」
「だからいいんじゃねえか。スペイン兵が寄ってきそうもねえ婆さんを使ったんじゃ、
この企ては成功しねえぞ。おれんとこの上の娘のカーレンは18になるが、村のためならと企てに参加するんだぞ」
「わかったよ、ヤン。じゃあ、もう一回手順の話しをしてくれ」
「よし、ようく聞け。ウオリュエのケルメス(村祭り)には、ブリュッセルに駐留しているスペイン軍の将校どもが、毎年従卒の兵をつれて見物に来る。今年は特別に村の若女房や娘が村の広場でウオリュエ音頭(存在したかどうかは不明)の踊りを披露する。将校どもには地酒のビールをたっぷり飲ませる。村の男どもはすこしづつ姿を消す。頃あいをみて、女房や娘はそれぞれ将校を誘い、自分の家に連れて行って寝室に誘う。村の男どもはこっそり家に戻り、扉の前で待機する。女どもから決められた合図があったたら、家に飛び込んでいってスペイン軍の将校を殺す。将校を殺せば、従卒などどうにでもなる」

企ては成功したのでしょうか。否です。女性軍からの合図がなかったのです。
スペイン軍将校の情熱溢れる行動に、村の若女房や娘達は合図のことをすっかり忘れてしまったのです。10ヶ月後、村には髪の毛の黒いスペイン風の可愛い赤ちゃんが、何人か生まれたそうです。
この話しは、昔本会報に書いたことがありますが、コンケル通りのkonkelの意味を調べているうちに、思い出してちょっと脚色してみました。

Rue Konlelにお住まいのお父さん、お母さんの目をかすめて、よからぬ企みをしてはだめですよ。どうせ企むなら、結婚記念日にむけて、こっそり企画した二人のベニス旅行を発表してお母さんを驚かすとか、そういう企みをしてこそ、陰謀家の道に住む価値があるというものです。                  

No.152.わが家の住所(その2)

No.152.わが家の住所(その2)


先月号でいろいろな住所の道路、通りの名前について書くつもりでしたが、つまらない文章を間に入れてしまったため、肝心の通りの名前の説明がほんのちょっぴりになってしまいました。しかも、原稿の枚数を間違えて一枚少なく書いてしまい、会報9月号のページをみっともない形にしてしまいました。ご勘弁ください。

今月号では、真面目に通りの名前について書いてみます。
ブリュッセル以外の所に住んでいる皆さんには本当に申し訳ないのですが、ここはブリュッセルの住所だけになってしまいますので、ご容赦ください。

市内の有名な大通りといえば、Louise, Anspach, Adolphe Max, Lemonier, Winston Churchill, General Jacques, Waterloo, などいろいろあります。ウインストンチャーチルやワーテルローについては、説明の必要はないでしょう。

 各大通りの名前の由来について、ちょっと調べてみました。
Avenue Louise:
 ベルギー二代目の国王、レオポルド二世の長女,ルイ-ズ王女(1858-1924)からきています。ルイ-ズ王女が生まれたころに、ブリュッセルの街とカンブルの森をつなぐ新しいアヴェニューができたので、王女の誕生を記念してこの名前を付けたのだそうです。
ルイ-ズ王女は、ヨーロッパの名家中の名家、オーストリーのザクスコブールゴタ家のフィリップ王子と結婚しますが、この結婚は不幸な結果に終わりました。彼女は、夫によって精神病院に幽閉までされました。
彼女は、 愛人のマタシッヒ伯爵の助けをかりて精神病院を脱出しますが、父親のレオポルド二世国王からも見離され、放埓でスキャンダラスな生活をおくるようになります。最後は父王の遺産相続をめぐって、ベルギー政府を相手取って訴訟を起こしたりしてますが、結果は敗訴でした。

Place Stephanie:
ルイ-ズ通りにはPlace Stephanieがあります。このステファニーの名前は、ルイ-ズ王女の妹、つまりレオポルド二世の次女、ステファニー王女からきています。
ステファニー王女は、1881年3月10日に、17才でオーストリーハンガリー帝国の皇太子ロドルフォと結婚しました。小国で歴史も浅いベルギーの王女から、ハプスブルグ帝国の皇太子妃になったのですから、いわゆる玉の輿です。
この結婚は、父王レオポルド二世の卓抜した政治力と外交力の賜物といわれています。
しかし、ステファニーの結婚生活も、姉のルイ-ズと同じく不幸な結末を迎えることになります。何故なら、1889年1月30日 に、夫のロドルフォがウイーンの森のマイヤーリングの山荘で、愛人の女性とピストル自殺を遂げてしまうからです。

皆さんも、ルイ-ズ通りやステファニー広場を通ることがあったら、ベルギーの不幸な王女たちの生涯に、ちょっぴり思いを馳せて下さい。

Boulevard Anspach:
1860年代のブリュッセル市長。この市長さんがブリュッセルを河のない街にしました。ブリュッセルは、5世紀ごろセンヌ河(La Senne)の中洲に、フランク族が小さな集落をつくって住み始めたのが、その起こりといわれてます。昔は魚の沢山いるきれいな水がブリュッセルを南北に流れ、小船が行き交う牧歌的な風景を見せていました。
しかし近代に至り、生活廃水や工場排水がセンヌ河を汚し始め、ついには悪臭堪えがたき“覆いのない下水道”の様相を呈するに至りました。伝染病の原因にもなりました。
アンスパック市長は1867年から10年の歳月をかけて、センヌ河を完全に覆い隠す工事を敢行しました。
自分の名前がついているアンスパック通りの下を、センヌ河が流れています。

Boulevard Adolphe Max:
アンスパック通りに続いて北駅の方に向っている通りが、アドルフマックス通りです。この人もブリュッセル市長でした。この人が有名なのは、第一次大戦中にベルギーを占領したドイツ軍に屈服せず、4年間をドイツの牢獄で過ごしたことです。

Boulevard Lemonier:
アンスパック通りからミディ駅の方に伸びている通りがルモニエ通りです。ルモニエさんはブリュッセル市の市会議員を務めた後、市の土木、公共事業担当助役に選ばれました。そして、この助役時代にドイツの占領軍に逮捕されたアドルフマックス市長に代わり、ブリュッセル市政全体を見る立場に立ちます。
彼も市民の利益を守るためドイツ占領軍に抵抗し、1年間の牢獄生活を経験しています。

Boulevard General Jacques:
ジャック将軍は、第一次大戦中、勇敢且つ不退転の戦いでドイツ軍に抵抗したベルギーの英雄です。 特にフランドルの Diximudeでの戦いで、伝説的英雄となりました。大戦後、アルベール一世国王から男爵に叙せられ、Generalの位に昇進しました。
同じく、軍人の名前がついたSqare Montgomeryがありますが、第二次大戦の英雄として有名ですので、説明の必要はないでしょう。

ところで、せん越ながら弊社の所在する通りの名前についても説明させて頂きます。
Rue de Stassart:
ベルギーがナポレオン支配下のフランス領だった頃からの政治家の名前です。スタッサ-ルさんは、和平交渉を促すナポレオンの親書をもって、オーストリー皇帝のもとへ使いをしたこともあります。
ベルギー独立後は、国会議員として活躍し、上院議長、ナミュール州知事、ブラバント州知事などを務めた大物政治家です。
彼は、フリーメーソンのメンバーでもありました。ベルギーのGrand Maitre(総長とでも訳すのでしょうか)を務めてますので、こちらでも大物だったのでしょう。
スタッサ-ルさんについては、面白いエピソードが伝わっています。
彼が国会議員だった時、売春禁止法を成立させました。しかしその後、彼の名前のついたスタッサ-ル通りは、夜の辻君の集まる通りとして有名になってしまいました。
これは前世紀のお話しでして、現在のスタッサ-ル通りは、誠に健全な環境の通りですのでご安心下さい。

テニスをする方の間で知られているJoli Boisという場所があります。美しい森という意味のこの辺りには、昔、競馬場があったのだそうです。
周辺の通りの名前を注意して見てみると、なるほど競馬や馬に関係する名前が沢山見られます。
Avenue du Haras(種馬牧場)、Avenue du Paddock(レース前の馬の下見場)、Avenue des Grands Prix(文字通りグランプリ)、Avenue des Obstacles(障害レース)、Avenue des Jockeys(騎手)、Avenue des Alezans(鹿毛色の馬)、Avenue des Etriers(鐙)、Avenue des Mille Metres(1000メートルコース)等々です。

在留邦人の方々に馴染みの多いと思われる通りを見てみましょう。
Avenue de Broqueville
Charles de Broqueville伯爵(1860-1940)の名前です。いろいろな国務大臣を歴任の後、総理大臣を2回務めた、ベルギーの有名な政治家です。
もともとはフランスの貴族の家系ですが、お祖父さんの代にベルギー国籍をとっています。ヨーロッパの貴族の家庭には、子供を教会(カトリック)への奉仕、祖国を守る軍隊への奉仕、国家への奉仕に捧げる伝統がありました。
カトリックの神父さんや修道女の方々の中に、ヨーロッパの貴族出身者が見られれるのは、この伝統から来ています。
美智子皇后が学生時代に習った先生の中に、ベルギーの古い貴族であるドゥマール家出身のシスターがいました。皇太子妃となられてから、皇太子殿下と共にベルギーを訪問され、恩師の実家であるドゥマール家のシャトー(ブリュージュの近く)を訪問されたのは有名な話しです。
ドゥブロックヴィル家からも、3人の女子が修道女になっています。

Avenue Paul Hymans
行けば必ず日本人に出会える、ウォリュエのショッピングセンターの方に伸びてる道路です。この人もde Broqueville と同じ時代の政治家です。但しこの二人は、主義主張の対立する立場にたっていました。ヘイマンスさんは外務、法務などの主要閣僚を歴任しています。de BroquevilleさんもHymansさんも、自分の名前が政敵の名前とくっついて通りの名前になるとは、生前、想像もしなかったでしょうね。

Boulevard de la Woluwe
ショッピングセンター横から空港の方に行ってる道です。
ウォリュエ川からきてるそうです。あまり小さくて気がつかない人も多いと思いますが、ウォリュエには川が流れています。この川の水で回していたのが、今は高級レストラン“Moulin de Lindekemale”になっている水車小屋の水車なのです。
“Woluwe”の語源についてコミューンの人に聞いてみましたら、狼を意味するWolf、Wolvenなどのオランダ語 からきているのだろうという答えでした。
今はショッピングセンターや、アパート、住宅が立ち並ぶこの辺りも、昔は狼が徘徊する森に覆うわれていたのでしょうか。

Place Dumont
珍しく政治家ではない人の名前。1800年代に活躍した地質学者だそうです。勅令によって、独立して日の浅いベルギーの正式な地図の制作を命じられ、6年間かかって完成させました。

Rue Edith Cavell
通りの名前より病院の名前として有名です。エディットキャヴェルは1865年にイギリスで、牧師の娘として生まれました。彼女はベルギーの寄宿制の学校で勉強した経験があり、看護学をんだ後、1906年にブリュッセル市内の病院で看護士のチーフとして働いたり、看護士学校の校長を務めたりしています。1914年にドイツ軍がブリュッセルに侵攻して来ると、エディットキャベルは職場である病院を隠れ蓑にして、フランス軍やイギリス軍の兵を密かに国外に脱出させる秘密組織の中心人物になっていきます。しかし組織内の裏切り者の密告によって、彼女はドイツ軍に逮捕され、1915年10月12日の早朝、銃殺の刑に処せられました。
後に彼女が非難されたのは、ドイツ軍の尋問に対して嘘がつけず、組織のメンバーの名前などをもらしてしまったことです。エディットキャベルは、牧師のお父さんの言いつけ“人間、嘘をついてはいけない”を、忠実に守ったのです。

ベルギーだけでなく、ヨーロッパの各都市の通りや道路の名前には、政治家の名前が多いですね。この点、日本には政治家の名前のついた道路や通りはないのはどうしてでしょうか。勲章をもらって喜んでいるぐらいのレベル、だからですか。
日本人で通りの名前になってる人は、戦争中、リトアニアの日本領事館で本省の訓令に従わず、日本のトランジットヴィザを発給して沢山のユダヤ人を救った杉原千畝さんぐらいでしょうか。テルアビブに「杉原千畝通り」があるそうです。

お父さんも、自分の心の中に、お母さんの名前を刻んだ美しいアヴェニューを作ったらどうですか。道は心も運んでくれるのです。道のない場所は荒野と呼ばれます。

No.153.フィレンツェ留学の記

No.153.フィレンツェ留学の記


この夏休み、8月最後の2週間ですが、イタリアのフィレンツェに滞在してきました。
イタリアというか、ヨーロッパでも屈指の美しい街、フィレンツェで、2週間もの間何にをしていたのか。日中はフィレンツェの美しい教会や世界的に有名な美術館を訪ね、夜はトスカナの美酒の数々に酔いしれてきたのでしょうか。答えは、否です。

2週間の間、真面目な語学留学生の生活をしてまいりました。
フィレンツェの有名なサンタクローチェ教会の近くにあるミケランジェロという名前の語学学校で、イタリア語の集中講義を受けてきました。

また、いい歳こいてと云われそうですが、実際にいい歳こいての状況でした。初日に受けた筆記と会話の試験の結果、わたしは1から6まであるレベルの中で、レベル4のクラスに入れられました。
レベル6が一番難しいクラスなので、自分にはレベル3のクラスがちょうどいいと思ってました。そこで、自分のクラスのレベルを下げてもらうため、校長先生の所に行きました。校長先生は、「あなたが希望するなら、レベルを下げることは問題ないけれど、その前にレベル4のクラスの授業を受けてみたら」と、言ってくれました。

レベル4のクラスに行って見ると、教室には8人ほどの生徒がいました。いずれも若い学生さんで、しかも全員女子学生で美人揃いときてます。男子はアゴスチーノ先生を除いて自分が唯ひとりという、極めて恵まれた環境のクラスではありませんか。わたしは、ためらうことなくこのクラスに入ることを決めました。

フィレンツェの宿泊先は、学校に紹介してもらった学生用下宿です。貧しい留学生が2週間もの間、ホテル住まいなど出来るわけがありません。
下宿は学校まで歩いて5分足らずの距離にあり、非常に助かりました。しかも、周りに何でもあるのです。
夜の8時まで開いているイタリアの有名なスーパーのチェーン店、夜の10時まで開いている中国人経営のミニスーパー、テイクアウトと店でも食べられる中華レストラン、中国人経営の寿司バー、雑貨屋、電気器具店、床屋、郵便局、99セントショップ(日本の100円ショップ)、切手やバ市バスの切符が買えるタバッキ、コインランドリー、そして数え切れないほどの地元のレストラン等々、ないのは銭湯ぐらいです。

下宿は寝室だけが別で、お手洗い、風呂、キッチンなどは共同です。寝室が3部屋のこじんまりした下宿でした。
到着した日に学校でカギを受け取り、部屋で荷物を整理していると、家主のフェリーニさんが替えシーツなどを持って来てくれました。タンパンに丸首シャツ、それにサンダル履きという気楽な格好で、陽気なイタリア人丸出しの人でした。
わたしが、「フィレンツェのどまん中にこれだけの不動産を持ってるんだから、フェリーニさんは金持ちですね」とうと、「いやいや、税金やなんやでみんな持ってかれて」と答えます。お金持ちの答えは、世界中どこにいっても一緒だなと思いました。

わたしが到着した時は2部屋がふさがっていて、トルコのアンカラ大学の学生、ムスタファとアメリカ人でサンフランシスコから来たフィリップ(アメリカ人には珍しい名前)がいました。
二人とも、1ヶ月間の予定で勉強に来ており、滞在は後1週間を残すのみとのこと。ムスタファもフィリップもイタリア語は全くの初心者で、会話になりません。われわれの会話は、もっぱら英語に頼ることになりました。

困ったのは、二人とも外部からの訪ねてくる友達が多く、キッチン兼応接間で夜遅くまでぺちゃくちゃとしゃべっていることです。わたしの部屋がキッチンの横なので、彼らが帰るまで眠れないのです。
後から来た自分が、彼らの楽しい会話に文句をいうのも大人気ないと思い、じっと我慢の子で過ごしました。

フィレンツェの下宿は、去年のローマの下宿と違って、非常に静かな場所にありました。去年のローマの下宿では、騒音と暑さで眠れませんでしたが,フィレンツェではぺちゃくちゃが帰った後は、大変よく眠れました。気温は日中は30度~32度ぐらいまでいきますが、夜は18度~20度で眠るのにはちょうどいい気温でした。

ところで、わたしが学んだクラスの先生とクラスメートを紹介します。
先生はアゴスチーノという名前で、生まれも育ちもフィレンツェとか。肌が浅黒いので、祖先は南イタリア出身ではと思いました。しかし、授業中にナポリその他の南イタリアの人達のことをあまりよく言わないので、やっぱりフィレンツェの人なのかもしれません。歳は40代後半でしょうか。

授業中に話してくれたのですが、アゴスチーノ先生の奥さんは日本人なのです。日本にも行ったことがあるので、日本のことをよく知ってます。
ただ、日本語の“ありがとう”は、ポルトガル語“オブリガード”からきているなどと、トンチンカンなこというので困ります。
わたしが、「ポルトガル人が日本に来たのは16世紀ですよ。それ以前は、日本人は“ありがとう“という他人に対する感謝の言葉をもっていなかったと云うのですか」と、日本民族の名誉のために反論すると、アゴスチーノ先生は、「サミー愛国者だね」と苦笑いして話題を変えました。

美人につられて入ってはみたものの、アゴスチーノ先生の授業は初っ端から接続法や条件法という、文法の勉強でも最後の方に出てくる難しい話です。それをイタリア語でまくしたてられるのですから、たまったものではありません。
すっかり自信がなくなり、休憩時間に先生の所に行って、「このクラスは自分には難しすぎるので、レベル3のクラスに代わりたいのですが」と云いました。
すると先生は、「日本人にとって、イタリア語だけでなくヨーロッパの言葉を勉強することがどんなに難しいか、家内の例をみてよく知っている。これからの授業で、接続法や条件法の勉強ばかりするわけではないのだから、このクラスを続けなさい。試験の結果でレベル4に入ったのだから、ついていけない筈がない」と、云ってくれました。

クラスきっての美人は、オーストリアのリンツから来ているヴェレナとシニアの姉妹です。姉のヴェレナは大学1年生で、妹のシニアまだ16歳の高校生という若さ。二人とも、イタリア語のレベルはかなり上。恵まれた家庭で、すくすくと育ったお嬢さん姉妹という感じ。
わたしが、「リンツといえば、シューベルトが「鱒」を作曲する着想を得た場所だよね」と云うと、二人ともきょとんとした顔で「知らないわ、そんな話し」と答えます。シューベルトは“おじさんネタ”なんでしょうか。

トルコのアンカラから来ている、女子大生4人組も美人揃いです。ヤムール、ベング、サニエ、ゴズデの中で、一番真面目に勉強しているのがヤムール。彼女は、ヨーロッパの大学間の学生交換留学制度「エラスムス計画」で、ブリュッセルに6ヶ月滞在した経験があり、フランス語も出来ます。
他の3人はよく授業をさぼっていました。ヨーロッパ風の顔立ちのベングは、4人の中でとびっきりの美女ですが、教室では2回ぐらいしか見ませんでした。
4人ともイスラム教徒を自認してますが、服装は胸の谷間を強調する今風の女の子の服装で、お酒も飲みます。
後で分かったのですが、この4人組は下宿のムスタファの所に遊びにきて、ぺちゃくちゃやっているグループの仲間でした。

ローラはベネズエラのカラカスから来ている女子大生です。貧富の差の激しい国の上流階級出身のお嬢さん。身につけているものが違います。高級ブランド品を巧みに着こなし、それが彼女の雰囲気に自然にマッチしているのは、育ちからきているのでしょう。    彼女が土日を利用してナポリに旅行に行くというので、ナポリで気をつけるべきことなどを話すと、「カラカスにはナポリよりもっと危ない所があるわよ」と、気にするふうもありません。

ブラジルから来ているケリーはブラジル政府公務員、それもかなり上の方。日本で、公務員が5週間も休んで海外に行くのは難しいと思いますが、彼女はそれをやってます。 「よくそんなことが出来るね」と彼女に云うと、「ブラジリアからフィレンツェは遠いのよ。簡単にこれないから、休みをためて取ったのよ」とのこと。ケリーは今でもきれいですが、若い頃はさぞかし美人の誉れが高かったことでしょう。 

授業は朝の9時から午後1時までで、前半が文法の講義で後半が会話中心の授業になります。会話は先生が読んでいる「La Republica」というイタリアの新聞記事をベースに先生の質問に答えたり、生徒同士が議論をしたりします。
美女軍団の尊敬をかちとるのは無理としても、せめてバカにされないように、おじさん学生のわたしは内気な性格を克服して、議論に加わる努力をしました。

1時に授業が終わり、昼食の後宿題をやると、もう3時か4時近くになります。この宿題をきちんとやっていかないと、翌日美女軍団の前で恥じをかくことになるので、真面目にやりました。
もっとも女子学生たちは遊びたい盛りですから、ディスコやその他の場所で夜更かしをする機会が多いらしく、ろくに宿題をやらず、眠たそうな顔で教室に入って来る生徒もいます。

最初の1週間は、昼も夜も学校や下宿の周りにたくさんあるレストランに出かけました。好きなイタリア料理を、とっかえひっかえ食べ歩きました。美味しい店、そうでもない店などいろいろ分かってきたのですが、さすがに飽きてきました。
それに、一人でレストランに行く味気なさにも嫌気がさしてきましした。フィレンツェ名物のステーキ、”Bistecca alla Fiorentina”なども、二人以上で注文しないと焼いてもらえません。また、いいワインはボトルでとらないと飲めません。若い頃ならいざしらず、おじさん学生の身で、毎晩、ボトル一本をあける気力はありませんでした。

昼と夜の2回もレストランで食べる弊害は、体のラインにも現れてきます。ブリュッセルで、ジムに通って作り上げた美しい(?)体のラインが微妙に変化してきたのです。特にお腹の部分です。これは放置できません。レストラン通いを制限するもう一つの理由になりました。

皆さんもやってみるといいですが、一人でレストランに行っても、まあまあの扱いをしてもらう方法を見つけました。
それは、読めても読めなくてもいいですから、その国の新聞、出来れば高級紙を小脇かかえてレストランに入るのです。わたしは一度、アゴスチーノ先生の愛読紙「La Republica」をもってレストランに行ったことがあります。その時案内された席は結構いいところでしたし、ボーイさんの態度も気のせいかよかったように思います。
その後、これはイタリアの新聞ではないのですが、フランスの「Le Monde」という新聞をもって別のレストランに行った時も、扱いが丁寧でした。
店のマダムが、「わたしは昔パリで働いたことがあるんですよ」と、わざわざ声をかけてくれました。というわけで、新聞の効用は結構あるのではないかと思ってます。

でもお父さん、読めないからといって、もって行った新聞を逆さまにして眺めたりしてはダメですよ。バカにされて、たちまち扱いが変わりますから。  

No.154.フィレンツェ留学の記(その2)

No.154.フィレンツェ留学の記(その2)



会報の原稿一回分を稼ぐという魂胆もあり、先月号で書ききれなかった留学の記を続けます。

フィレンツェ留学2週間目から、下宿はわたし一人になりました。ムスタファはアンカラに帰り、フィリップはサンフランシスコに帰ったからです。
さっそく部屋を替わりました。ムスタファが占領していた、下宿で一番広くていい部屋に移ることにしました。しかしムスタファが出て行った部屋をみて、唖然としてしまいました。
汚くて乱雑な場所をフランス語で“Un trou de cochon(豚の穴)“と云いますが、彼の部屋はまさしくこの表現がぴったりの状態でした。
だいたい、自分が借りていた部屋を引き払う時、掃除をしてきちんとした状態にしてから出て行くものではないですか。この点、同じ時期に出て行ったアメリカ人のフィリップの部屋は、きちんとなっていました。
「ムスタファの野郎、とんでもない奴だ。今度会ったら掃除の手間賃を請求してやるぞ」などと,ぶつくさ云いながら部屋を掃除しました。

トルコのアンカラで甘やかされ放題に育ったどら息子のムスタファは、共同のキッチンも滅茶苦茶に汚し、使った鍋や皿などを山盛りにして出て行きました。
1週間目は、わたしは昼も夜もレストランで食べていたので、キッチンを使ったことがありませんでした。汚くしてるなと思いながらも、自分には関係ないという態度でした。それに、3日おきぐらいにキッチンがきれいになるのです。これは、下宿に遊びにくるアンカラの女子大生4人組の中で、気立てのいいヤムールが汚れた皿や鍋を洗って、キッチンをきれいにしてくれていたからです。

これは、国民性の問題ではなく、ムスタファ個人の問題でしょう。彼は、おそらく生まれてから一度も掃除をしたことがなく、皿洗いもしたことがない人間なのです。家には、使用人が何人もいるようなことを口走っていましたから。
彼の頭には、次に使うひとのために自分の使ったものをきれいにしておく、といった概念が欠如しているのです。社会的には困りますね、こういう人間は。

部屋とキッチンをきれいにして、やっと落ち着きました。学校の事務に聞いたら、今週だけはこの下宿に他の学生が入る予定はないとのこと。これから1週間、一人で住めると思うと気分がいいです。
ところが、一人で住み始めるとある異変に気がつきました。それは、怪物ザンザーラの出現です。“Zanzara“はイタリア語で蚊のことです。

フィレンツェが蚊の名所であることは知っていました。行く前に、日本の蚊取り線香をもって行くことも考えましたが、蚊取り線香あの香りが、こちらでは嫌悪される場合がある事実に鑑み、線香持参をとりやめました。
不思議なことに、下宿に3人が住んでいた間は、わたしは一度も蚊にやられませんでした。下宿に入った時から、一応覚悟はしていました。フィレンツェの蚊は“ブーンではなく、イタリアらしく賑やかに”ザンザンザンのザンザーラ“とかいって襲ってくるのかと思って、音に耳をすましていたのですが、敵は姿を見せませんでした。

それが一人になったとたんに、敵は攻撃を開始しました。宿題をやるために机に向っている間、足や脛がやたらかゆくなってきました。部屋では靴を脱いで、近所の99セントショップで買ってきたサンダルを履いてましたので、足の部分が一番露出していました。かゆいところを見ると、まぎれもなく蚊に食われた痕が残ってます。
「おのれ、ザンザーラついに来たか」と、机の下を目を皿のようにして探しましたが、敵の姿は見えません。

夜になると、敵はベッドに攻めてきました。しかし、夏の夜のあの“ブーン”という不愉快な音もなく、完全な音無しの構えで攻めてくるので、追い払うことも叩きつぶすことも出来ません。朝になってかゆいところ見てみると、みごとにに食われて、腕などに赤い痕が残ってます。
フィレンツェの蚊は、姿も見せず音もたてず、まるで忍者のようにひそやかに忍びより、こちら血をしこたま吸って去って行くのです。
しかもこの憎たらしい蚊に食われると、猛烈にかゆいだけでなく、赤い痕が日本やベルギーの蚊のそれよりずっと大きく、かなり長い間残ります。フィレンツェからベルギーに戻った後、1週間たっても痕が消えませんでした。

授業と宿題の後は、フィレンツェの街を見て歩きました。フィレンツェはこれまで2度ほど来ているのですが、今回はきままにのんびり街を歩けるので、観光旅行では気がつかない街の表情を見ることができます。
下宿のすぐ近くにあるサンタクローチェ教会は、ごてごてした飾りのないすっきりした姿で、個人的には日本人の落書きで話題になったドゥオーモ、サンタマリアデルフィオ―レ大聖堂より好きです。
朝な夕な、毎日のように教会の前の広場を通りましたので、白とブルーとピンクの大理石が美しく調和したサンタクローチェの優美な姿を、心ゆくまで眺めることができました。
この教会には、ミケランジェロ、ダンテ、ガリレオなどのお墓がありますが、わたしはジョットのフレスコ画「聖フランシスコの生涯」の方に興味がありました。

サンタクローチェ教会からシニョリア広場とヴェッキオ宮殿へは、歩いて5分ぐらいの距離です。
Vecchioは古いという意味ですが、この宮殿の場合「古い」と訳すより、「前の」とか「先の」と訳した方が正しいと思います。ヴェッキオ宮には、メディチ家のコジモ一世(シニョリア広場に立っている騎馬像)が最初に住み、その後メディチ家はピッティ宮殿を購入して移りました。
ヴェッキオ宮の前には、ミケランジェロのダヴィデの像の複製が立っています(本物はアカデミア美術館にあります)。世の男性の中には、このダヴィデの像を見て、大いに慰められ、自信を取り戻す人が少なくないとか。何故だと思いますか?
個人的には、ダヴィデの手がどうしてあんなに大きいのか、いつも疑問に思ってます。

ヴェッキオ宮殿の前の広場がシニョリア広場です。ここを通るたびに思い出すのが、1498年5月に、この広場で火刑に処せられた聖ドミニコ修道会のサンマルコ修道院長、サヴォナローラのことです。広場の真中辺に丸いブロンズが埋められていますが、そこがサヴォナローラが火炎につつまれて刑死した場所なのです。
「怪僧サヴォナローラ」などと書く本もありますが、フィレンツェの有力修道院、サンマルコ修道院の院長になるぐらいですから、彼は生涯をキリストのために捧げ、禁欲的で学識豊かな修道僧でした。奢侈と享楽と頽廃の生活に狎れ親しんできたフィレンツェの人々に対して、彼は舌鋒火をふく説教をもって改悛を説き、キリストに倣った生活への回帰をうながしました。

フィレンツェにおけるサヴォナローラの名声は絶大なものがありました。しかし彼は、修道僧として自らに課している禁欲的な生活態度を、俗人であるフィレンツェ市民に押し付けようとして反発をかい、ローマ教皇アレクサンドル6世に教会改革を要求して対立しました。
15世紀のローマ教皇の権威は、1076年に教皇グレゴリオ7世がドイツ国王ハインリヒ4世を屈服させた「カノッサの屈辱」の頃ほどではないにしろ、依然として絶大なものがありました。サヴォナローラが教皇アレクサンドル6世と対立する原因になった教会改革の要求は、根本において正しかったと思います。しかし彼は、権力を持つ者から異端の審判を受け、シニョリア広場で火刑に処せられたのです。

わたしの好きなサンタクローチェ教会が聖フランシスコ修道会の所有であり、フィレンツェ駅前のこれも美しい教会であるサンタマリアノヴェッラ教会が聖ドミニコ修道会の所有であると聞くと、どうも気持ちがしっくりときません。
両修道会は、13世紀に聖フランシスコ及び聖ドミニコによって、托鉢修道会として創設されました。托鉢修道会は物や財産を所有せず、定住する家さえも持たず、托鉢によってのみ生きる絶対的清貧が理念でした。

しかしサヴォナローラの時代の托鉢修道会は、壮麗な教会を持ち、豊かな財産を手にし、飽食にうつつを抜かす院長や修道士達のいる修道院が、珍しくない時代になっていました。どんなに優れた組織も、高邁な理念も、時間とともに腐敗していく事実は、歴史の共通項であり、カトリック教会もこれを免れることはできなかったのです。

フィレンツェに来て、ウフィッツィ美術館を見ないで帰るわけにはいきません。ただ、普通に行ったのでは、長蛇の列に2~3時間並ばなければなりません。
クラスのベネズエラ人女子大生ローラは3時間並んだと云ってましたので、前日に美術館の予約受付に行って翌日の予約をしてきました。
予約のおかげで、翌日は全然待つことなく美術館に入れました。ウフィッツィ美術館の名画の解説は専門家にお任せするとして、好きな絵を誰にも気兼ねすることなく存分に鑑賞できるのは幸せなことです。
時間を超越して人々の心をとらえる作品の前に立つと、それを描いた画家の内面から放射されるエネルギーが迫って来るような印象を受けます。自分が絵を見ているのではなく、絵とそれを描いた画家が自分を見ているような錯覚にとらわれます。皆さんは経験がありませんか。

下宿からシニョリア広場へ行く途中に、バルジェロ国立博物館があります。この博物館の知名度はちょっと低いかも知れませんが、ルネッサンス期の彫刻を見たかったら、是非行ってみてください。ミケランジェロの作品から彼の弟子達の作品など、見ごたえのある作品が沢山あります。
歩き疲れたので、館内の中庭にあるベンチで一休みしました。ここで被っていた帽子をベンチの横におきました。ベルギーとは比べものにならないほど日差しの強いフィレンツェでは、外を歩く時にサングラスと帽子が必需品でした。人によっては、帽子は必要ないかもしれませんが、わたしの場合、頭皮を保護してくれる筈の髪の毛が怠慢で、太陽光線がすいすいと頭皮に当たってくるのです。

バルジェロ国立博物館を出て、その辺をぶらぶらしてから下宿に帰りました。そして気がつきました。帽子を博物館の中庭のベンチに忘れて来たのです。もう閉館時間を過ぎていますので、戻っても無駄です。結構いい帽子だったので、ちょっぴり惜しいなと思いましたが仕方がないです。

翌土曜日の午前中に、市内探訪の途中バルジェロに寄ってみました。だめもとでチケット売り場のおばさんに、「昨日の午後に来館した者ですが、忘れ物の帽子が届いていませんか」と、聞いてみました。おばさんは「いや、何も届いていなけど」と答えます。すると、そばに立ってだべくっていた別のおばさんが、「ちょっとまってよ」と云って、チケット売り場のカウンターの下をごそごそしたかと思うと、「これじゃないの」と云って差し出したのが、まぎれもなく自分の帽子でした。
ベンチで見つけて届けてくれた人がいたのです。「ぼくは運がいいんですね」と云うと、おばさん2人も、「そうよあなた、こんなこと滅多にあることじゃないわよ」と云ってくれました。フィレンツェの空のように、気分が晴ればれとしました。

ベルギーに戻るとすぐに、9月からイタリア語講座の新学期が始まりました。夜学で椅子に3時間半座っているのは、脳細胞の退化著しい身には結構大変ですが、ま、続けてみます。この原稿が会報に載るころは、もう師走ですね。皆さん、今年も大変お世話になりました。それでは、“Buon Natale e Bellisimo Nouvo Anno“  (かんとう)