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No.155 黄金のパラシュート

No.155  黄金のパラシュート



明けましておめでとうございます。
 ことしも宜しくお願いいたします。

2008年の終盤は金融危機が世界を席巻しました。株安、円高、不況と、“おめでとうございます”など、とても云えた状態ではありませんでした。2009年は少しでも“おめでとうございます“と云える年になって欲しいものです。

ベルギーでも、この国きっての老舗で、最大手の銀行が経営危機に陥り、政府の資金援助を受け、最終的にはフランスの銀行が同行の80%の株式をテイクオーヴァーする形で最悪の事態を回避しました。
この銀行は1822年にオランダの国王、ギヨーム一世によって創立された銀行です。と云うことは、この銀行はベルギーが独立する前、つまりベルギーがオランダに併合されていた時代から存続してきた超老舗銀行なのです。

今回の危機の結果、この銀行の株価は20分の1まで下がりました。
これまで、この銀行の株を持つことは、ベルギーの社会で“Bon Pere de Famille(家族の良いお父さん)”のシンボルみたいなものでした。
“Bon Pere de Famille”という表現は、家族が困ることのないようにいろいろな部分に気配りをする父親を意味します。引いては、家族の資産をリスクの少ない安定した方法で運用すること、を意味するようになっています。
今回、20分の1まで下がってしまった銀行の株は、長い間、ベルギーで最も安全な資産運用の手段でした。この国の富裕層は、たいていこの銀行の株を保有していると云われてます。

資産を20分に1まで減らしてしまっては、ボンペールドゥファミーユの面目丸つぶれというところです。面目だけならいいですが、資産の80%近く をこの銀行の株にしていた資産家もいるそうですから、実に大変な事態になっています。

ベルギーの人は昔から、“玉子を一つの篭に入れておいてはいけない”といいます。篭を落としたら、中の玉子が全部割れてしまうからです。リスクは分散しておきなさいということです。外国の支配が長かったベルギーの歴史で、人々はリスクの分散をいつこ心がけてきたのでしょう。

今回の金融危機で、まさかと思われたこの国の有力銀行が危機に直面し、ベルギーの4大銀行が政府の資金注入を要請せざるを得ませんでした。
これに要した費用は、われわれも含めた納税者から出ているのですが、RTL放送のニュースによれば、赤ちゃんも入れたベルギー国民1人当たりの負担額は、鶏肉15キロ分の値段に相当するそうです。聞いたところ、スーパーの鶏肉はだいたい1キロ6ユーロから6.50ユーロぐらいだそうですから、15キロなら100ユーロぐらいでしょうか。

ベルギーの有力銀行といっても、中身はオランダその他の外国資本の傘下に入っている銀行が多いのです。ベルギーの有名チョレートメーカーも、殆どが外国資本の傘下に入っている現実をみると、小国ベルギーが独りで生きていくことの難しさが分かります。

ブリュッセルにある王室御用達のチョコレートメーカーの経営者のマダムをよく知っていますが、彼女によれば、これまでヨーロッパやアメリカの大手のチョコレートメーカーや食品メーカーから、度々資本提携の話しがあったそうです。
でもマダムは、そういう話しは全部断っているそうです。彼女に云わせれば、「大手の資本に乗っかればチョコレートも名前も世界中に広まるかもしれない。そうなると、祖父が始めたこのチョコレートは、家族の手を離れてしまう。手作りの美味しいチョコレートを街の人々に食べてもらおうと、一生懸命チョコレート造りに励んだおじいさんに申し訳が立たなくなる。わたしがいる限り、この店は家族経営でやっていくつもり」、だそうです。これはこれで一つ見識でしょう。

大手銀行の経営危機を招いた経営陣はその責任を追求され、簡単に云うとみんなクビになりました。その中には、ベルギー財界のゴッドファーザー、不死身の恐竜などいろいろな綽名をもつ人も含まれています。この人はベルギーで10本の指にはいる富豪の一族出身で伯爵の称号を持ち、長い間、最大手銀行の主みたいな人でした。
危機が表面化する2ヶ月前の記者会見で、この人は「当行の財務状態は極めて良好であり、銀行の将来に如何なる問題もない。株主の方々は安心して頂きたい」などと大見得をきっていました。今考えると、「よく云うよ」という感じです。

この原稿を書いている間に、問題の最大手銀行の旧経営陣に対して,ベルギーの検察が動き出したというニュースが入ってきました。
新聞報道によれば、同銀行は2007年9月に開いた株主総会で、虚偽の財務報告を行ったという事実に、検察が注目しているというものです。同銀行はオランダの大手銀行買収のため、130億ユーロの資金を必要としていました。これを増資によって賄うため、株主総会で虚偽の報告を行い、株主に増資分の株の引き受けを要請しました。
旧経営陣の財務報告を信じた株主たちのお蔭で、130億ユーロの資金調達はたちまち達成されました。検察とは別に、株主のグループが同銀行相手に訴訟を起こしています。

一方、クビになった経営陣の退職金が、一般市民や株主の憤激をかいました。イヴ テルム首相までが、「怒りを覚える」という談話を発表したぐらいです。
如何にアメリカの金融危機の影響を受けたとはいえ、経営陣の判断ミスが銀行の経営危機を招いた事実は周知の事実です。それでクビになった人が、200万ユーロとか300万ユーロとか、円にすれば億単位の退職金をポケットにいれて出て行くのですから、怒りたくもなりますよね。

銀行側の説明によれば、当人と銀行との契約書に明記されている退職金なので、支払わざるを得ないのだそうです。
こういう場合日本だったら、道義的責任が追求されるんじゃないですか。世の中や人さまに迷惑をかけておいて、契約書があるからとか、法的に問題がないからとか云って、億単位の退職金をもらって悠々と辞めていくことは、日本ではまずできないでしょう。
日本では、企業でも役所でも、不祥事や社会的に指弾されるような問題が発生した場合、社長や役員、或いは大臣と次官等が、自分たちの報酬を何割カットするとか、何ヶ月分を返納するとか、ご本人たちから申し出てくるの例が珍しくありません。

ところが、西欧社会では、契約書に記載され、合法的な退職金は遠慮なく頂戴していくのが普通なようです。例え、その経営者の判断ミスで大量の解雇者を出し、株価を半減させてもです。
首相の怒りの談話が報道された後も、退職金を返したとか、一部を福祉事業に寄付したとかいう話しは全くありません。

欧米の社会で、転職によって出世の階段を駆け上がるのは、幹部社員です。ブルーカラーや一般のヒラ社員にはそういうチャンスは非常に少ないと云っていいでしょう。
知り合いのベルギー人は某銀行の幹部社員です。彼はゲントの裕福な家庭に生まれ、アントワープの大学ではオランダ語で勉強し、ブリュッセルの大学ではフランス語で学び、さらにアメリカの大学のロースクールを卒業しました。彼は英仏蘭語を完璧に読み、書き、話します。
最初はベルギーの食品関係の会社に入り、そこからシンガポールに派遣されました。そして、シンガポールでヘッドハンティング会社からコンタクトを受け、現在の銀行に転職したのです。銀行ではとんとん拍子に出世階段を駆け上がり、海外支店勤務も経験し、今は本店のかなり重要な地位にいます。

ベルギーだけでなく、ヨーロッパはまだまだ階級社会ですから、わたしの知人のようなエリート層が、大企業を渡り歩いて経営陣入りするケースが非常に多いのです。こういう一部エリート層が会社を替わって、重要ポストに就くことを“Parachute dore”(黄金のパラシュート)と云います。
この国のエリートたちは、幾つかの企業の幹部社員を経験した後、そこから別の企業の経営陣へ、黄金のパラシュートに乗って移って行きます。契約書には退職金の金額もしっかり書き込みます。知人も、契約上の退職金は、何があっても勿論受け取ると云ってます。

日本人社会の行動様式の基礎は、村落共同体的メンタリティーを基盤としていますので、道義的責任の追及がことのほか厳しいのではないでしょうか。
例として、家族の一員が重大な反社会的行為を犯した場合、当人は法の裁きを受けるのと同時に、家族もまた世間さまに対してお詫びの行為をすることです。極端な場合、父親が勤めている会社を辞めることさえあります。或いは、家族で引っ越してしまう場合もあります。

西欧社会では考えられないことです。
如何に家族の一員といえども、罪を犯したのは当人であって、家族全員が罪を犯したわけではありません。父親が会社を辞めたり、家族が引っ越したりすることなど、考えられないことです。ベルギーの犯罪史上最も凶悪といわれる事件を起こした犯人の家族は、テレビや新聞などのマスコミのインタヴューで、家族の一員である犯人について堂々と答えています。

さて、お金の話しになると、西欧社会のみならず世界中のそこかしこで囁かれるお話しがあります。今回の世界的規模の金融危機でも、このお話しが囁かれています。
このお話しとは何でしょうか。それは、ユダヤ民族にまつわるお話しです。金融危機を陰で操り、巨額の利益を手中にしているのがユダヤ資本だというお話しです。

ミッテラン大統領の経済政策顧問を務め、欧州復興開発銀行総裁などを勤めたフランスの経済学者Jaques Attaliが、「Les Juifs, le monde, et l’argent」(ユダヤ人、世界、金)という本を書いてます。ジャックアタリによれば、ユダヤ資本とかユダヤ人の金が世界を動かしているというのは、神話に過ぎないそうです。
確かに、金融、マスコミ、映画、音楽などの世界には、創業者がユダヤ人であるケースが少なくありません。ソロモンブラザーズ、ゴールドマンサックス、倒産したリーマンブラザーズなどの創業者はユダヤ人でした。ロイター通信、タイムワーナー、ワーナーミュージックなどもそうです。しかし、現在は経営陣にユダヤ人は一人もいません。名実共にユダヤ資本といえるのは、ロスチャイルド銀行ぐらいしかないそうです。
彼らが今でも強い分野は既製服業界とダイヤモンド業界だそうです。ダイヤモンドはインド系の進出が目ざましいようですが、世界的にはまだまだユダヤ系だそうです。

ユダヤ人と既製服業界にまつわる小話しを一つ。
父「サミュエルよ、おまえはソロボンヌで政治学を修め、ハーヴァードで経済学の修士号までとった。学費を払ってきたお父さんは、おまえを誇りに思う。今こそおまえは、自分の進むべき道を決めなければならない」
息子「お父さん、長い間ありがとうございました。ぼくは今、自分の進路を真剣に考えています」
父「そうか。ま、紳士服にいくのか、それとも婦人服にいくのかよく考えなさい」

ところでお父さん、お父さんはこれまでの人生で「黄金のパラシュート」に乗ったことがありますか。あるでしょう。お母さんとの出会いが、そうじゃないんですか。

No.156.惜別

No.156.惜別



去年の話しになりますが、短い期間に3度の葬儀に列席する機会がありました。
1度は、乗馬クラブの友達、ミッシェルのお母さんの葬儀でした。お母さんの名前はルイザといいます。彼女は乗馬はしませんでしたが、よくクラブのレストランに食事に来てましたし、われわれ馬仲間を自宅に呼んで手料理をご馳走くれたこともあります。

ルイザは76才でした。元美容師さんだったせいか、常に身だしなみがきちんとしていました。彼女を見ていつも思ったことは、ヨーロッパの女性には年齢に関係なくおしゃれをし、身に付ける洋服や装身具に気を配り、背筋をピンと伸ばしてる人が多いと云うことです。非常にいいことだと思います。

旦那さんと死別したルイザにはボーイフレンドがいて、一緒に暮らしていました。ルイザの逝去をわたしに告げてくれたのは、ボーイフレンドのジョンでした。ジョンは馬には乗りませんが、ルイザやミッシェルとクラブのレストランによく来てましたので、旧知の間柄です。
ジョンは、「ルイザはぼくの腕のなかで息をひきとったよ」と、涙を流しながら話してくれました。

葬儀はブリュッセル郊外のホイラルト(Hoeilaart)村の教会で行われました。神父さんの言葉は当然フラマン語なので、残念ながら殆ど理解出来ませんでした。自分の初級オランダ語の知識では歯が立ちません。
教会の親族席に座っていた友達のミッシェルのうしろ姿が、とても寂しそうでした。彼はお母さん子だったので、どんなに悲しい思いにとらわれていたか、心中察するに余りあるものがありました。

ルイザの逝去を告げる告知書を見て、なるほどヨーロッパではこういうものなのかと感心したことがあります。
告知書には、「何の誰がしの未亡人にして、ジョン......の生涯の伴侶であったルイザ」
と書かれていました。この告知書を起草して印刷に回したのは、勿論ジョンです。
日本でこういう告知書は考えられますか。
花子さんは夫の太郎さんと死別して未亡人となり、その後次郎さんと暮らすようになりました。花子さんが亡くなった時、告知書に「....太郎の未亡人にして....次郎の生涯の伴侶であった...花子」なんて書けますか。まずノーでしょう。
ジョンが、夫と死別したルイザの生涯の伴侶であったことは、まぎれもない事実です。
しかし、われわれ日本人のメンタリティーでは、この事実を死亡告知書などに明記して人々に知らしめることに、なんとなく抵抗があるのではないでしょうか。

こちらの新聞には、婚約、結婚、子供の誕生告知などと共に、死亡をを告知する欄があります。先日、そういう欄を見ていたら、死亡告知欄にこんなのがありました。
「最初の結婚において.....の誰がしの未亡人にして、二度目の結婚において.....の誰がしの未亡人であった......」という女性の死亡告知がありました。

日本では、家族や配偶者が、故人の死亡告知を新聞などに出すことはありません。出るのは会社関係だけのような気がします。社会的に重要な役割を果たした人が亡くなった場合,新聞社が告知記事を載せますが、その家族が告知記事を載せることはまずありませんね。
ですから日本の場合、亡くなった人が誰と結婚して、その後誰と暮らしたかとか、何回結婚したかとかを、わざわざ新聞に載せて人々に知ってもらうことは考えられません。
洋の東西における男女関係の見方の相違でしょうか。

ルイザの逝去から2週間ほど経った金曜日の朝、通勤の車の中でいつものようにラジオを聞いてました。いろいろなニュースの中に、「Avenue de Tervurenで女性がトラムにはねられて死亡しました」というのがありました。
「気の毒に、でもトラムの音が聞こえなかったのかな」などと考えながら、車の運転を続けました。そして、日常の仕事に埋没して、この事故のニュースは忘れてしまいました。

そして翌々日の日曜日の朝、いつものように乗馬クラブにいくと、仲間のマヌシュがわたしの顔を見るなり、「サミー、モニカが亡くなったのよ。あなたしってる」と言ってきました。びっくりして、「いや、知らないよ」と答えると、マヌシュは「金曜日の朝、モニカがAvenue de Tervurenの辺りを犬と散歩してる途中、トラムにはねられてサンリュック病院に運ばれたけど、お昼ごろ亡くなったのよ」と言います。
彼女が事故に遭った場所は、ウォリュエのトラム博物館の近くだったようです。

わたしはその瞬間に、金曜日の朝のラジオのニュースを思い出しました。あのニュースでつたえられた気の毒な女性が、まさか自分達の仲間のモニカだとは、夢にも考えられないことでした。世の中には、理解の範疇に入る偶然と、理解の範疇を完全に超える偶然とがありますが、モニカの死は後者の偶然でした。非常にショックでした。

モニカはスウェーデン人でEUの職員でした。年齢は聞いたことがありませんが、40代後半だったと思います。彼女は、離婚して娘さんと2人でブリュッセルに住んでいました。
日曜の朝、森へ出て思いっきり駆け抜けるベテラン組乗馬の仲間でした。わたしは森のなかで、彼女と轡を並べながらよく話をしました。モニカは、故国の湖の色を思い起こさせる美しいブルーの眼をいつもきらきらと輝かせて話していました。英語はネイティヴ並みに話し、フランス語も上手でした。

話題は、お互いの乗っている馬の性格のことや、わたしも彼女も行って乗ったことのあるアイスランドの馬の独特な走り方など乗馬関係の話しから、EUで彼女がやっている仕事のことなどいろいろでした。彼女はブリュッセルが気に入っているので、ずっとこちらに住みたいとも云ってました。スエーデンの冬はやっぱりきついのだそうです。

モニカが事故死した日の翌週水曜日に、ブリュッセルのセンカントネール近くにあるスエーデン教会で追悼式がありました。
スエーデンはプロテスタント国ですので、教会は十字架と祭壇以外にほとんど装飾ない極めて簡素な造りでした。ベルギーのカトリック教会やカテドラルを見慣れた目には、ちょっと大きな家のサロンにいる感じでした。教会の家具調度が、スエーデンらしく白木造りだったのも簡素な感じを際立たせていました。

追悼式の司式したのは女性の牧師さんでした。スエーデン語はまるっきり分かりませんでしたが、牧師さんが時々英語で説明してくれたので、式次第はだいたい理解できました。モニカの葬儀はスエ―デンで行われたようです。
牧師さんの服装を見ておやっと思ったのは、ローマンカラーをつけていたことでした。ローマンカラーはカトリックの神父さんが外出するときにつけるもので、ローマ教皇の権威を認めないプロてタントの牧師さんがつけているのにはちょっと驚きました。

それにしても、どうしてモニカは近づいてくるトラムの音に、気がつかなかったのでしょうか。考えごとをしていたのでしょうか。尚、彼女の犬は無傷だったそうです。
彼女はトラムにねられた時、身分を証明するものを何ももっていなくて、犬の体に埋め込まれていたチップによって彼女の身分が判明したのだそうです。ちょっとだけ散歩してすぐ家に帰るつもりだったのでしょうか。
聞けば、モニカがはねられた辺りはトラム専用路線になるため、トラムがかなりのスピードで走る場所だそうです。人の運命というものは、本当に分からないものです。

3度目の葬儀は、本当に辛く悲しいものでした。
亡くなった人は若いお母さんで、小学校低学年の2人の子供をのこして旅立ちました。どんなにか辛かったことでしょう。後ろ髪を引かれるという言葉は、彼女の心の苦しみを考えたら色あせてしまうほど、それは悲劇的な死でした。

彼女は、健康には人一倍気を配る人でした。買い物をする時は、野菜はBioしか買わず、肉その他もホルモン肥育などされていない厳選したものしか買いませんでした。電子レンジも、そこから発せられる電波が健康によくないということから、家にはおきませんでした。
女性として検ガンチェックも、6ヶ月ごとにきちんと受けていました。そんな人が、よりによってガンにとりつかれ、2回の手術と2年に及ぶ辛い闘病生活の末に亡くなってしまったのです。

一方では、タバコを1日に1箱半も吸い、塩辛くて脂ギトギトの食事を好み、健康診断など受けたこともない知り合いのベルギー人のおじさんは、88歳まで生きました。幼い子供を残し、40歳前に逝ってしまった彼女と、88歳まで生きた知り合いのおじさんの人生を考えると、運命の過酷さと不条理を思わずにはいられません。

彼女のパートナーで子供達の父親である彼は、わたしのベルギー人の知人、友人の中で最も親しく、最も心を許して話せる相手です。
彼女の病状が進行し、主治医からもはや治癒の希望がないと告げられた時の、彼の打ちひしがれた姿は本当に気の毒で、こちらにも云うべき言葉が見つかりませんでした。
亡くなる2週間前に、彼女はブルージュを見たいというので、彼は彼女を車椅子に乗せてゆっくりとブルージュの街を散策しました。これが、彼女との外出の最後になりました。

彼女の死から2ヶ月経ち、彼も立ち直りつつあります。周囲の人と話す時は通常と変わりない態度をとっていますが、わたしと2人で話すと時はつい涙声になるのは傷ましい限りです。
一方、幼くしてお母さんと別れなければならなっかた2人の子供たちの心理的なショックは、われわれの想像を超えるものがあるはずです。
葬儀の日に、2人の幼い姉妹は参列者と健気に握手や挨拶のキスをしていましたが、その姿を見て多くの人が涙ぐんでいました。

2人は法的に結婚はしてませんでしたが、とても仲のいいカップルでした。2人の可愛い女の子に恵まれ、家も建て、これから人生の幸せを享受しようという時期に、とんでもない不幸が幸せな家庭を打ち砕いてしまいました。

わたしの知り合いの人達の逝去と同じ時期に、一人の有名人が亡くなりました。
シスター.エンマニュエルというべルギー人のカトリックの修道女が、100歳の誕生日を3週間後にひかえて静かに眠りにつきました。
カイロの巨大ゴミ捨て場で、極貧の人たちと一緒に暮らし、人々のために診療所や学校を建てるために奔走し続けたシスター.エンマニュエルのことは、前に本会報に書いたことがありますので、繰り返しませんが、彼女はヨーロッパでは超有名人でした。彼女は望まなかったでしょうが、パリのノートルダムで行われて追悼式には、サルコジ大統領ほかフランスの財政界の有力者が多数出席して、シスターの死を悼みました。
彼女は天寿をまっとうして旅立ちました。こういう死もあるということです。

立て続けに人の死に出会うと、自分の毎日がことさら貴重なものに思えてきます。今日の一日が、自分の人生最後の日かもしれないのです。大切に生きましょうね、お父さん。   

No.157.“ベルギーが解体せんことを?“

No.157.“ベルギーが解体せんことを?“



最近、標記のタイトルの本がでました。全部で38ページしかない小さな本ですので、本というより論文といった方がいいかも知れません。
仏蘭両語で書かれていて、正式なタイトルは、仏語が「Que la Belgique Creve ? Questions aux Separatistes」で、蘭語が「Belgie Barst ? Vragen aan de Separatisten]です。訳せば「ベルギーが解体せんことを?分離主義者への質問」と云ったところでしょうか。

著者はHerman DE CROOさんです。デクローさんは、ベルギー人なら誰でも知っている有名な政治家です。彼の経歴がまた赫々たるものです。
ブリュッセル自由大学(仏語)法学部卒。法学博士。フラマン自由党(旧VLD,現OpenVLD )党首。下院副議長、下院議長。国務大臣を度々経験。ブリュッセル自由大学(蘭語)教授。シカゴ大学ロースクール講師等々です。

昔、ベルギー国営テレビ仏語放送で、“昔の仲間”という番組がありました。
この番組は、ベルギーの有名人をスタジオに招き、その人の小学校や中学校時代の同級生と先生に対面させる番組でした。
この番組にデクローさんが招かれたことがあります。そこで、彼が中高時代を過ごしたモンスの学校の同級生と先生に何10年ぶりかで対面しました。
かつての同級生達や先生が一様に言ってたのは、“ヘルマンは本当に頭がよかった”ということでした。

ヘルマン少年はフランドルの地方都市の生まれですので、学校は勿論フラマン語でしたした。フラマン語の小学校を終えると、お父さんの意向で、フランス語圏のモンスの寄宿制中高校に入れられました。
これは、フランドルのしかるべきレベル以上の家庭がよくやることで、子供をモンスやナミュールの学校に入れてフランス語を習得させ、子供を完璧なバイリンガルに仕立て上げるのです。この国の財界、政界のフラマン系の指導者は、ほとんどがフランス語圏の学校で勉強した経験を持っています。

モンスに来た当時のヘルマン少年は、殆どフランス語が話せなかったそうです。
しかし彼は、先生や同級生がびっくりするほどのスピードでフランス語を習得し、あっという間にクラスでトップの成績をとる優等生になりました。

歴代のベルギーの首相もそうですが、フラマン系の人がフランス語を話す時、独特なフラマンのアクセントがあります。フランス語系の人がフラマン語を話す時も、フランス語のアクセントが出る人が多いのと一緒です。
しかしデクローさんの場合、仏蘭どちらを話しても、アクセントが全然ない完璧な両語を話します。頭のいい人は違うんですかね。

デクローさんはフランドルの地方都市出身で根はフラマンですが、非常にバランス感覚に富んだ人です。政治家として、ベルギー国が空中分解するかもしれないフラマン対フランス語系の対立について、両陣営の立場を尊重したバランスのとれた発言を繰り返しています。
 今回、デクローさんはフランドル独立を標榜するフラマン分離主義者に対して、質疑応答の形で、分離独立の理想と実現の間に横たわる溝の大きさを、分かりやすく解き明かそうと試みました。それが今回出版された標記の本なのです。

では、デクローさんの質疑応答をみてみましょう。
分離主義者:フランドルの独立には、チェコスロヴァキアの分離独立の前例を踏襲すればよい。 
デクロー:チェコスロヴァキアがチェキとスロヴァキアに分離した例は、ベルギーに当てはまらない。チェコスロバキアは国家として70年の歴史しかなかった。
その間、ドイツによる占領やソ連の衛星国として共産党の支配を経験してきた。チェキとスロヴァキアの連邦制はソ連によって押しつけられたものである。

チェキとスロバキアの境界線は非常にはっきりしていたし、社会保障や司法制度も二つに分かれていた。対外的な負債も少なく、分離の条件は前から整っていた。
ソ連崩壊と同時にスロバキアが分離を要求し、大きな混乱もなく二つの国が成立したのは、もともと二つだった国が国際的な力関係で一つの国になっていたもので、ベルギーと同じに考えることは出来ない。
ベルギーは175年以上の歴史をもち、分権が進んだとはいえ司法、行政、立法が一体化した一つの国である。

分離主義者:フランドルは独立国として自立出来る経済基盤をもっている。
デクロー:フランドルの生産性や税収だけを見て、経済基盤を論じることはできない。
一国の経済、財政は非常に多くの要素によって構成されている。
例えば、現在フラマン圏から約230,000人の人が、毎日ブリュッセルに働きに来ている。この人達は、税金をブルッセルで払わず、自分達の住んでいるフラマン圏で払っている。もしベルギーが解体して二つないしは三つの国になった場合、ブリュッセルで働くフラマンの人達は、国境を越えて働きに来ることになる。
独立国となったブリュッセルは、彼らから税金を徴収する権利を持つことになり、結果としてフランドルは年間約40億ユーロの税収を失う。

ブリュッセルは世界有数の国際都市である。
ブリュッセルには、欧州委員会、閣僚理事会、欧州議会、NATO、183の大使館、278の外交関係機関があり、15,000人のロビイストと2,500の業界団体がある。この数字は、ブリュセルがワシントンに次いで世界第2位の国際機関の多い都市であることを物語っている。

ブリュッセルのEU関係、国際機関関係に勤務する人の数は、約60,000人と言われている。これに加えて1,200人のジャーナリストが活動している。このうち24%がフラマン圏に住んでいる。ベルギーが複数の国に分離した場合、外国となったフランドルからブリュッセルに通う不都合を避けるため、大多数はフラマン圏を離れブリュッセルに住まいを移す。これによって受けるフラマン圏の損失は、計り知れないものがある。

“ブリュッセル“をブランドとしてみた場合、その価値は4,560億ドルにのぼるという試算がある。ブリュッセルの国際都市としての地位とそのネームヴァリューは、ベルギー全体を引っ張る機関車といってもいい。ベルギーを知らない外国人も、ブリュッセルは知っている。
フランドルがブリュッセルから受ける恩恵は、分離主義者の想定をはるかに越えるものがあり、その経済効果は計算できないほどに大きい。ベルギー解体の暁には、フランドルは自分達を引っ張ってきてくれた機関車を失うことを、肝に銘ずべきである。

ベルギー国の債務は2007年12月で290,295,874,492ユーロにのぼる。このうち、90%は国債として発行されている。
ベルギー解体後に成立する複数の独立国は、この膨大な債務を引き受ける義務を負う。一国の国債が金融市場で取引の対象となるのは、その国債に対する信用が基盤となる。つまり、国債は期限が来れば利子と一緒に必ず返済される、という信用である。

しかしベルギーが解体し、複数の国家になった場合、今のベルギーよりさらに小さい国々が債務返済能力を持てるのか、責任を全う出来るのかという点で、世界の金融市場がどのように反応するかは極めて不透明であり、予断を許さないものがある。
もし新独立国に受け継がれた旧ベルギー国債が、金融市場で暴落するようなことになれば、フランドルを含む新独立国への投資家や投資国の信用は失墜し、新独立国の経済基盤並びに経済活動に重大な支障をきたすことになる。

ところで、旧ベルギー国の債務を新独立国が引継ぐ場合、何を規準にしてその割合を決めるか、大きな問題である。
だいたい、1830年のベルギー独立まで遡って、どの地域がどれだけの国家予算の配分を受けてきたかを計算して、それを国債並びに支払われた利子に当てはめて計算することは不可能に近い。ゼーブルージュの港湾建設費やザベンテムのナショナル空港に投下された国家予算、アントワープの港湾整備に使われた予算などの比率を債務に割り当てた場合、これを「新生フランドル共和国」が“はい、分かりました”といって引き受けるかというと、話しはそれほど簡単ではない。

彼らは云うであろう。港湾や空港は確かにフランドル領に位置している。しかしその恩恵を受けているのは、フランドルだけではない。ブリュッセルやワロン地区も恩恵を蒙っている。したがって、旧ベルギー国の債務引き受けについては、恩恵分を負担すべきである。では、この“恩恵分”をどうやって数字に表すのか、事実上不可能な話である。

ベルギー国解体後の債務の負担を決める規準として考えられるのは、一つは住民というか新国家の国民の数である。この規準に従えば、フランドルは負債の58%を引き受けることになる。もう一つの規準は、国民の所得税の割合である。これに従えば、フランドルは旧ベルギー国の債務の68%を引き受けなければならない。
この途方もない債務を引き受け、利子を払い、償還に応じなければならない「フランドル共和国」の国民は、ブリュッセル、ワロン地区に比べて、人口の老齢化がはるかに進んでいる事実を忘れてはならない。

分離主義者は、アントワープのダイヤモンド産業が永遠に今の繁栄を続けていけると思っているのだろうか。インドや中国の研磨技術が、アントワープの研磨技術を陵駕する日が来ないと、誰が云えるだろうか。
分離主義者は、アントワープ港の荷役取り扱い高がこれからも同じレベルで推移していくと思っているのだろうか。世界経済の軸が、アジアに移りつつある現状を見ていないのだろうか。

地球儀上でベルギーを見ると、それは子供の指先でふさがってしまう程度の大きさである。それよりもさらに小さいフランドルには、同じ言葉を話し、同じ歴史や文化を共有する600万人の住民がいる。そこはヨーロッパの中心に位置し、経済的にも繁栄している。分離主義者達がフランドル独立を夢見る気持ちも分からないではない。
しかし、分離主義者達の論理に深い分析は見られず、陳腐で空想に満ちたイデオロギーを土台にしている。
わたしは古い「一つのベルギー」論者ではない。ベルギーの国家機構改革は必要である。しかし、ベルギー解体、フランドル独立を説くことはキメーラ(ギリシャ神話のライオンの頭、山羊の胴、龍の尾をして火を吐く怪獣、引いては、空想や妄想を意味する)に過ぎず、これに組することは出来ない。

とまあ、デクローさんはおっしゃってます。
別れや別離は、痛みや悲しみをともなう辛いものです。別れや別離がプラスになることもあるでしょうが、マイナスに働くケースも多いのではないでしょうか。よく云いますよね、離婚は結婚の何倍ものエネルギーを必要とする、と。

お父さんがふと思うこと、たまに浮かんでくる空想はキメーラなんですよ。お母さんと別れて暮らしていけると思ってるんですか。         

No.158.ベルギーの若者たち

No.158.ベルギーの若者たち



この原稿を書いてるころに、ヴァレンタインデーがありました。
正直に云って、わたしには何の関係もない日です。無理に関係づけようとすれば、ヴァレンタインデーの翌日が、不肖わたしの誕生日であるということでしょうか。
それがどうしたと云われれば、どうもしませんと答えるしかありません。これもよく考えれば、よく考えなくてもそうですが、やっぱり何の関係もないことです。

だいたい、誕生日などというものを祝うのは、ある年齢までのことです。昔、ル-ヴァン大学の恩師の75歳の誕生日に、お祝いの言葉を述べた時、先生が笑いながら、“君ね、誕生日おめでとうを云うのは、ある年齢までなんだよ”と云われたことを思い出します。
おじさんたちの歳になれば、華やかな誕生日祝いなどされると、かえって気恥ずかしい思いをするのではないでしょうか。
とは云え、世の中に生きている限り、家族や友人などの誰かが自分の誕生日を覚えていてくれます。祝ってもくれます。

今年は誕生日の翌日に, 夜学のイタリア語の授業(恥ずかしながら未だに続けています)に行きました。遅刻して教室に入っていったら、先生とクラスの仲間がいきなり”サミー、誕生日おめでとう”と叫び、ハッピーバーズデー、イタリア語では“Buon Compleanno”を歌いだしました。
恥多き人生をおくってますので、自分の誕生日を人さまに云ったことなどありません。どこから洩れたのか、穴があったら入りたいほど恥かしい気持ちで、歌が終わるのを待ちました。
もっとも、おじさんたちの誕生日は、生き恥を曝しながら、よくぞ今日まで生きてきたものよと、人生の越し方を振り返る一つの機会にはなるかも知れません。

ヴァレンタインは若者のお祭りです。おじさんたちは、なるべく人目につかないようにしましょう。この日の華やかな雰囲気は若者にゆずり、おじさんたちは縄のれんで焼き鳥をかじるか、屋台でおでんをつつきながら、焼酎のコップでも握っているのが、ちょうどいい雰囲気なのです。
会社の若い女子社員の方からチョコレートなど貰っても、それは何かの間違いであると考えましょう。 余ったから、自分のところに持ってきたと考えましょう。義理チョコなど、自分のところに来るはずがないと考えましょう。
おじさんが心の平和を保つためには、何事にも謙虚で、物事に対して諦観の境地にいなければなりません。

と云うのは、どうも日本的な考え方のようです。
こちらの友人、知人たちに聞いてみると、彼女、彼らは年齢に関係なく、ヴァレンタインデ-にはカップルでいいレストランに行き、ゆっくり食事を楽しむケ-スが当たり前みたいです。義理チョコだとか、ホワイトデ-だとか、わけの分からない騒ぎを繰り広げる日本より、こちらの人たちの方がよっぽど本物のヴァレンタインデーを祝ってると思いませんか。いずれにしても、「諦観の境地」なんて云ってるようではダメなんですね。

人は自分に関係の無いことに、なにかと興味を持ちたがるもののようです。
かくいうわたしも、ヴァレンタインデーに関係はないと云いながら、やっぱり無関心ではいられないみたいです。
 2月14日に、もう大きくなってボーイフレンドやガールフレンドと住んでいるわが家の子供たちは、どんなレストランに行くのかなあなどと、一応は気になります。変なレストランを選ばないように、助言してあげようかな、などと余計な心配もします。

 毒舌漫談の綾小路きみまろさんが、「相次ぐストーカー事件。若くてきれいでスタイルのいい方が狙われます。ここにお集まり下さいました女性のお客様には、何にも関係のない事件です」と云って笑いをとっています。
会場で大笑いしているおばさんたちは、きみまろさんの云う通り、ストーカーは自分に関係のない話しと、その場では納得した気分になっているでしょうか。

さて、標題にもどります。
国連の世界保健機構の後援で4年に一度行われる、各国の青少年の健康と福祉に関する調査結果、ベルギ-版が発表になりました。
わたしたちは、在留邦人としてこの国の若者たちに接する機会が意外と少ないのではないでしょうか。子供が現地の幼稚園や小学校に行ってる場合、ベルギ-の子供たちに接する機会があるかも知れません。しかし青少年となると、街で行き交うか、トラムや市バスの中で見かける程度になってしまいます。

今回発表になった調査結果によれば、ベルギ-の青少年の94%は健康状態が良好だそうです。そして81%はまあまあ幸福であると答えています。結構なことです。
ベルギ-の若者の40%は、親とのコミュニケ-ションに関して問題がありません。
ということは、60%は問題があるということでしょうか。日本の数字が知りたいです。

皆さんは、毎朝きちんと朝食をとってますか。
この国の青少年の62.7%は、毎朝、朝食をきちんととっています。ただ、20%は朝食をまったくとりません。朝食をきちんととる若者がマジョリティ-を占めてるのには、ちょっと驚きました。

ところで、お父さんはどんな朝食をとってますか。
炊きたてのご飯に味噌汁、半熟卵に焼き海苔、これにきゅうりの浅漬けなんかついたりして、いですね、羨ましいです。一方、土曜か日曜日の朝、近所のパン屋さんで買ってくる焼きたてのクロワッサンに、香り豊かなコ-ヒ-もいいですね。
わたしも、以前はパンとミルクをたっぷり入れたコ-ヒ-などの朝食をとっていました。しかし、身も心も枯れ果てた今となっては、朝食はりんご一個、又はバナナ一本に水一杯という、修行僧のような朝食をとっています。
お断りしておきますが、わたしの朝食は、バナナダイエットなどというものが、世間で喧伝される前からやっていることですので、念の為。

さて、学校はどうでしょうか。
57.9%は学校が好きと答えてます。学校なんて大嫌いと云う生徒が13.2%います。学校嫌いは女子よりも男子に多いようです。
話しはそれますが、学校嫌いの生徒は神聖ロ-マ皇帝、カ-ル大帝に文句を云わないといけません。カ-ル大帝は非常に勉強熱心な君主でした。ア-ヘン(今のドイツ)の宮廷では勿論、戦陣の幕屋でも石版に文字を書いて勉強を怠らなかったと云われてます。

カ-ル大帝は8世紀から9世紀にかけて、ロ-マ帝国復興の理想に燃え、大遠征を度々行い、ヨ-ロッパという一つの共同体の基礎を築きました。堂々たる偉丈夫で狩猟と騎馬を好み、肉を大食し、戦陣に明け暮れる姿からは、粗暴な君主の印象を受けかねません。しかし勉強熱心な大帝は、当時の教養人の共通語であったラテン語を自由に読み、話せましたし、ギリシャ語も聞いて分かるぐらいだったといいますから、大変なインテリでした。自分の言葉であるドイツ語の文法書編纂まで手がけています。

こういう皇帝ですから、帝国内の修道院に学校の開設を命じたり、教育制度の整備、拡充に努力を惜しみませんでした。こういう事績により、カ-ル大帝は今でもヨ-ロッパの教育制度の祖と云われています。

今回の調査とは別に、ベルギ-のフランス語圏の学校の欠席率が発表になりました。
地域別に見ると、トップはブリュッセル地区で、次いでモンス、シャルルロワと続きます。一番欠席率が低いのが、ルクセンブルグ国境近くのアルロンです。
欠席といっても、要するに学校をさぼることです。ベルギ-では6歳から18歳までが義務教育ですから、この年代の子供や青少年が、日中街をぶらぶらしていれば、警官の尋問を受けることになります。

仏語のサボるという云い方は、いろいろあります。ベルギ-でよく使われる云い方は、Brosserです。これは、ブラシをかけるとか、歯を磨くとかいう意味ですが、なぜサボるという意味になったのか分かりません。フランスでは、Secher(乾かす)とか、Glander(ぶらぶらする)とかいう言葉を使うようです。残念ながら、フラマン語の表現は知りません。
学生のころ、歯と歯茎の問題で、ル-ヴァン大学の医学部歯学科の先生に診てもらいに行ったことがあります。その時先生が、“君、授業はどうしたの”ときくので、Brosserを使って、“サボってきました”と答えました。すると先生が、同じくBrosserを使って、“君、歯も磨きなさいよ”と云って大笑いしたのを思い出します。

報告に戻ります。ベルギ-の青少年の喫煙についてです。
ベルギ-の13才から18才までの青少年のうち、4分の3はタバコを吸わないと回答しています。ベルギ-には、16才未満の青少年にタバコを売ってはならないとい法律がありますが、年齢によって喫煙を禁ずる法律はありません。
そのせいでしょうか、小学校の5,6年生でタバコを吸い始めたという青少年が11.6%もいます。そして、若年層の喫煙者ほど非行に走る傾向が高いという報告も出ています。

日本で、大相撲力士やスポ-ツ選手、芸能人、そして大学生まで汚染が広がっている大麻はどうでしょうか。
12才から20才までのベルギ-の青少年のうち、4人に1人は大麻を吸った経験があるという調査結果がでています。年齢別を区切ると、12才から14才までの大麻経験者が6.7%、15才から17才までが26.9%、18才から20才までが38.8%になります。
設問が、“これまで大麻を吸ったことがありますか”というもので、上記の数字が、大麻吸引の常習者を現すものではありませんが、かなり問題な数字ではないでしょうか。

ベルギ-の大麻経験者の数字は、今回調査を行った36ヶ国の平均よりも高い数字になっています。特に、ベルギ-のフランス語圏の青少年の大麻経験者の数字が高いようです。余談ですが、大麻などを紙巻タバコ状に巻いたものを、仏語の隠語で“ジョワン”といいます。大麻の隠語を知っているかんとうは怪しいなどと、勘ぐらないでください。
ベルギ-人の友達に教えてもらった言葉です。

ベルギ-の大麻に関する法律は、非常にあいまいで不備な面が多く、ザル法と呼ばれても仕方のない法律です。大麻の所持は一応禁止です。未成年が大麻を所持しているのが見つかった場合、調書がとられ、調書は検察に送られます。しかし、訴追はされることはまずありません。成人の所持が見つかった場合、同じく調書がとられますが、何と所持していた大麻は当人に返されるのです !! 勿論、訴追はされません。いっそのこと、大麻を合法化してはという議論が、真面目に交わされている国です。

この国の12才から14才までの男子の14.4%は、週に一度はビ-ルを飲んでいます。そして、12才から17才までの男子の3人に1人は、過去30日の間にアルコ-ルによる酩酊状態を2度以上経験したと答えてます。いくらビ-ルの国とはいえ、ちょっとびっくりする数字です。

お父さんは、勿論大麻の経験はないでしょうが、酒やタバコは20才になってから始めましたか。いいですよ、云わなくても。人の人生には必ず闇の部分があるものです。

No.159.ガザの悲劇

No.159.ガザの悲劇



作家の村上春樹さんが、イスラエルの文学賞[エルサレム賞]を受賞しました。
エルサレムで行われた授賞式に出席した村上さんは、受賞スピーチでイスラエルのガザ侵攻を堂々と批判して話題を呼びました。
スピーチの全文を読みましたが、その内容には心引かれるものがありました。特に、新聞各紙に載って有名になった“高くて、固い壁があり、それにぶっつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ”という文章が心に残りました。
壁がイスラエル軍の戦闘機や戦車や爆弾であり、卵がガザの一般市民であることを、巧みに暗喩しています。

賞をくれる国に行って、その国の政策を正面きって批判するのは、かなり勇気のいることです。さらに、村上さんがイスラエルに行くこと事体、勇気のいる行為だったようです。何故なら、日本国内で村上さんのイスラエル行きに反対する人たちが、村上さんの本の不買運動を起こす動きまであったからです。
村上さんのイスラエル行きに反対する人たちの懸念は、村上春樹という日本の著名な作家がエルサレム賞受賞のためにイスラエルに行くことが、イスラエルのガザ侵攻を認めることになるのではないか、という危惧でした。
しかし、反対派の人たちの懸念は、村上さんのスピーチによって完全に覆されました。

わたしたちは、イスラエル軍によるガザ侵攻、多数の市民を巻き添えにした爆撃の惨状を、報道機関の流すニュースや写真でしか知りません。パレスチナ、イスラエル双方の主張を読んで、どちらが正しいのかを判断することなどできるわけがありません。
ガザ自治区を支配するパレスチナ過激派のハマスが、イスラエル国の存在さえ認めずその抹消を政策に掲げている限り、イスラエルにとってハマスとの和平はありえません。
だからと云って、圧倒的な軍事力をもち、制空権を完全に握るイスラエルが1000人以上のガザ市民を殺傷していいわけがありません。
イスラエルの軍事力、特にパイロットの熟練度が世界一といわれる優秀な空軍を持つイスラエル軍にすれば、ガザの制圧など赤子の手をひねるよりも簡単なことでしょう。

パレスチナの紛争は、ベルギー国内にも争いの種を持ち込んでいます。ベルギーのアラブ系住民とユダヤ系住民の対立が、暴力事件やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の焼き討ちなど形をとって現れています。
友人のモロッコ人に、“イスラエルは、8年間もパレスチナ側からロケットを打ちこまれている事実に、我慢の限界を越えたのでは”と云うと、彼は“この8年間に、ユダヤ人は何千人のパレスチナ人を殺し、傷つけたか知っているのか”と怒りをぶっつけてきます。

昔、イスラエルの北方、ガリラヤ湖の近くにあるキブツに、泊ったことがあります。
そこの食堂の壁に、キブツの歴史をたどる写真が展示されていました。初期の写真に見られるのは、石ころだらけの荒地を耕す入植者たちの姿です。そして、入植者たちの手元には必ず銃が置いてありました。
今のキブツは、きれいな芝生と青々と茂るバナナの畑に囲まれた緑したたる場所になっています。初期の石ころだらけの荒地からは、想像もできない緑地帯に生まれ変わってます。
周囲を敵に囲まれながら、銃を片手に荒地と闘ってきた入植者たちの苦労がしのばれます。しかし、このキブツのある辺りは,もともと誰の土地だったのか、と考えると、入植者たちの努力を手放しで誉めるわけにいかないところに、イスラエルとパレスチナの問題の難しさがあります。
現在キブツになっているこの土地の昔の所有者が、レバノン南部のパレスチナ難民キャンプで、自分の土地に帰れる日を待ちわびているかもしれないのです。
パレスチナに来た初期のユダヤ人入植者たちが、銃を手放せなかった理由は何なのでしょうか。それは、土地を追われたパレスチナの人たちが、自分たちの土地を取り戻す戦いを仕掛けてきたからないのですか。

皆さんは、エルサレムにある“嘆きの壁”をご存知ですか。嘆きの壁は、エルサレムの中心部にある古い石積みの壁です。この壁に向って熱心に祈り捧げているユダヤ教徒の人たちの姿を、テレビや報道写真で見たことはありませんか。
第一次中東戦争前の嘆きの壁周辺の写真を見ると、壁の前にはアラブ系住民の家がびっしりと立ちならんでいます。当時、東エルサレムはヨルダンの支配下にありましたので、住んでいたのは殆どがアラブ系住民でした。
今は、壁の前はきれいな広場になり、イスラエルだけではなく、世界中から来るユダヤ教徒の人たちが嘆きの壁に向って祈りを捧げる場所になっています。われわれ異教徒も、頭にキパと呼ばれるユダヤ教徒が被る丸い帽子を乗っければ、嘆きの壁のある広場に入れます。広場の入り口で紙製のキパを貸してくれます。

嘆きの壁はわれわれから見れば、なんの変哲もない石積みの壁です。しかしこの壁は、ユダヤ教の至聖所であったエルサレムの神殿が、紀元70年にローマ軍によって破壊された後、唯一残っている神殿の一部として、世界中のユダヤ教徒から尊ばれている場所なのです。でも、嘆きの壁の前に立って考えたのは、ここに住んでいたアラブ系の住民は、どこに追い払われてしまったのかということです。アラブ系住民の嘆きは、イスラエルの人々には聞こえてこないのでしょうか。

では、この壁は、何故“嘆きの壁”と呼ばれるのでしょうか。
ローマ帝国の支配下にあったパレスチナで、ユダヤ民族はローマ駐留軍に対して度々反乱を起こしてます。ローマ皇帝ネロの晩年、紀元66年から紀元73年まで続いた第一ユダヤ戦争は最も大規模な反乱の一つでした。
ユダヤの反乱軍は、当初ローマ駐留軍の手薄に乗じて勝利を収め、エルサレムに独立国を宣言する勢いでした。しかし陣容をたてなおしたローマ軍は、反乱軍の拠点を次々と陥落させ、紀元70年にエルサレムの神殿に火をつけ、これを破壊しました。
ユダヤ反乱軍は神殿破壊後、死海西南にそびえるマサダ要塞に立てこもり3年間も抵抗を続けますが、ついに力尽き全員が自決して反乱は終結しました。
余談ですが、イスラエル軍の新兵は、入隊後にマサダ要塞跡で兵士としての宣誓を行うのが、イスラエル軍の伝統になっています。

マサダ陥落から60年後、ユダヤ人は再び大規模な反乱を起こします。
第二ユダヤ戦争と呼ばれるこの反乱は、当初反乱軍が優勢でしたが、圧倒的軍事力をもつローマ軍が反攻に転じ、紀元135年に反乱軍の最後の一兵まで殺され、鎮圧されました。
第二ユダヤ戦争の後、ローマはエルサレムの植民市化を決め、神殿跡にジュピター神殿を建て、ユダヤ人がエルサレムに入ることを厳禁しました。この禁を破るユダヤ人は死刑にされました。ただ、年に一度だけ、第一ユダヤ戦争でエルサレムが陥落した日に、ユダヤ人はエルサレムに入ることを許され,旧神殿跡に残る壁に向って嘆きの祈りを捧げることが許されました。これが、“嘆きの壁”の由来なのです。

以後、国を失ったユダヤ人は世界各地に散らばり、“ディアスポラ“と呼ばれるユダヤ人のコミュニティーをつくり、ユダヤ教の教えと戒律を守り、これを子孫に伝えてきました。しかし、流浪の民となったユダヤ民族の歴史は苦難に満ちたものでした。
“ショア”とか“ポグロム”とかいう言葉は、語源は違いますがいずれもユダヤ人虐殺を意味する言葉です。こういう言葉がヨーロッパの言葉になっているということは、ユダヤ人虐殺がヨーロッパの歴史において珍しいことではなかったと考えていいと思います。
ユダヤ人虐殺の最たるものは、ナチスヒットラーによる“Final Solution ”作戦でしょう。 アウシュビッツのユダヤ人収容所、ガス室や焼却炉を見る時、人間はこれほど整然と人を殺し続けることができるものかと、慄然たる思いにとらわれます。
ただ今ごろになって、第二次大戦中のユダヤ人虐殺などほんの些細なことで騒ぐほどのことではないとか、ガス室など存在しなかったなどと言い出す輩が現れてます。
一人はフランスの極右政党“国民戦線“のルペン党首で、つい最近も欧州議会で”ガス室など歴史の細部にすぎない“と発言して物議をかもしてます。
もう一人は、カトリックの超保守主義者グループの司教で、ヴァチカンから破門されていたのが、最近復帰をゆるされたイギリス人のリチャードソン司教です。彼はガス室の存在そのものを否定してます。この発言のため、リチャードソン司教の破門を解いたヴァチカン、特に教皇ベネディクト16世は厳しい批判を受けています。
彼らをアウシュビッツに連れて行って現場をみせても、これは映画のセットと一緒で戦後に作ったもの、などというのでしょうか。

イスラエル建国をめざす世界のユダヤ人のシオニスト運動が実を結び、第二次大戦後の1948年5月14日にイギリスなどの後押しもあり、イスラエル国の建国が宣言されました。建国宣言から24時間もたたないうちに、エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラクなどのアラブ軍が、新生イスラエルに攻め込んできました。まだまともな軍隊組織もない新生イスラエルのユダヤ人は、軍備その他の不備にもかかわらず、15ヶ月間もアラブ軍の攻撃を持ちこたえ、ついにこれを押し返してしまいました。
国連の仲介により、イスラエルとアラブ各国の間で停戦協定が結ばれ、ガザ地区はエジプトの支配下に入り、東エルサレム、ヨルダン河西岸はヨルダンの支配下に入りました。
しかし、国連の仲介による停戦協定は守られず、エジプトを中心としたアラブ周辺国はイスラエルに度々攻撃を仕掛けます。アラブ周辺国にとって、イスラエル国の存在は認めることの出来ないものでした。
7世紀初頭、アラビア半島に興ったイスラムは怒涛の勢いで周辺地域をイスラム化していきます。パレスチナにはキリスト教徒の聖地があり、キリスト教徒の多い場所でしたが、あっという間にイスラム化されました。
途中、11世紀から13世紀にかけて、十字軍が一時的にパレスチナを支配した時期もありますが、最後は、キリスト教徒軍はアラブ軍によって地中海に蹴落とされています。
千数百年もの間アラブの世界だった所に、他所から入ってきて、“おれたち、昔ここにいたんだかんね”といって国を造られても、“はい、そうですか”というわけにはいかないでしょう。

アラブ側は、8日戦争、6日戦争、キプール戦争などと呼ばれる戦争を仕掛けますが、そのたびにアラブ側は敗北を重ね、エジプトはガザ地区だけでなくシナイ半島までイスラエルに奪われ、ヨルダンはヨルダン川西岸、東エルサレムを奪われ、シリアはゴラン高原を取られてしまいます。
占領後のゴラン高原に入植したユダヤ人は、ぶどうの栽培からワインの醸造を始め、いまやイスラエルで最高級のワインを生産するようになっています。
シリアの方には申しわけないのですが、イスラエルでゴラン高原産のワインを飲みました。確かにいいワインでした。でも、高かったです。
レバノンからシリアに入国しようとした時、国境のシリア側の役人が何だかんだと理屈をいってVISAをくれようとしませんでした。窓口でじいっと自分の顔を見て動かない東洋人に、さすがのお役人も根負けしたのか,1時間後にVISAをくれました。
シリアの役人の嫌がらせは、わたしがゴラン高原のワインを飲んだからでしょうか。違います。役人に賄賂の20ドルを渡さなかったからです。

ガザの悲劇の後ろには、長い長い歴史があります。旧約聖書のアブラハムの時代から続いていると言ってもいいです。なんでも水に流してしまったり、人の噂も75日なんて言ってるわれわれ日本人には、とてもついて行けないほどの長い確執と憎悪が、歴史の時間に織込まれています。いったい誰がこの争いと憎しみの織り目を解きほぐし、パレスチナに平和をもたらすことができるのでしょうか。期待の星、オバマさんでしょうか。分かりませんね、誰にも。
お父さんも、お母さんとの喧嘩は早く終わらせた方がいいですよ。長引かせると、ヴィトンやシャネルのバッグぐらいでは収まらなくなりますから。   

No.160.王宮ウラ話

No.160.王宮ウラ話



4月18日から、毎年恒例のラーケン(Laeken)王宮植物園の一般公開が始まりました。7月21日のベルギーナショナルデー終了後に開始されるブリュッセル王宮一般公開と並んで、ベルギー住んでいる人及び来訪者にとってはうれしい行事です。
皆さんは両王宮の一般公開の機会を逃していませんか。ベルギー在勤中に、行くべきところや見るべきもののリストを作っているようでしたら、両王宮の一般公開見学もリストにいれておいたらどうでしょうか。

植物園の一般公開に行ったことはなくても、ラーケン宮の前を車で通ったことのある人はいるでしょう。大きな鉄の門があって、ずうっと奥に王宮の建物が見えます。塀のそって進むと、植物園の屋根が見えます。さらに奥の方に日本の5重の塔が見えます。
ラーケン宮の鉄の門が警備の国家警察官によって開けられ、高級車が王宮に向って滑り込んでったり、出てきたりが繰り返されると時は、ベルギーの政局が緊迫した時です。

国王は、各党の党首や政界の有力者を諮問のために王宮に召喚します。また、時の首相が内閣総辞職の辞表を国王に提出するのも、このラーケン宮においてです。こういう場合は、門の前にテレビカメラが陣取り、記者が出たり入ったりする政治家から一言でもコメントを聞き出そうと、一生懸命になります。
テレビでこういう場面を見ていていつも感心するのは、どの政治家も車をとめて窓を開け、カメラや記者に向って何かしら話すことです。プレスを無視して走り去る政治家はまずいません。

ラーケン宮は、現在のベルギーを領有していたオーストリーのヨーゼフ2世皇帝の治下、1782年にオーストリー地方総督夏の別荘として建設されました。
その後、この地の支配者となったナポレオンがこの別荘をいたく気にいり、1804年に大改装工事を命じました。ナポレオンは度々ラーケンに滞在しています。
そして、ナポレオンが自らの帝国の崩壊をまねくことになる対ロシア戦争の宣戦布告の署名を、1812年にラーケンの別荘に措いて行っています。これまで、あまり気にもとめずに通り過ぎていたブリュッセルのラーケン宮が、歴史的に重要な場所であることを知ると、同じ場所をこれまでとは違った目で見るようになるのではないでしょうか。

1830年にベルギーが王国として独立して以来、ラーケンは国王の住まいとして王宮と呼ばれるようになりました。
かつてのオーストリー地方総督の別荘、次いでナポレオンの別荘からベルギー国王の王宮となったラーケン宮を、現在のルイ16世様式の建物にし、敷地を倍の大きさ(160ヘクタール)に拡大したのが、ベルギー王国2代目の王様、レオポルド二世国王です。現在のラーケン宮の敷地の総面積は190ヘクタールあります。モナコと同じぐらいの広さだそうです。

レオポルド二世国王は日本の明治天皇と同じ時代に在位した王様ですが、ベルギーの歴代の国王の中で最も個性が強く、大胆で、政治的手腕にたけた王様でした。
独立して間もない小国ベルギーの国際的地位を高め、ベルギーの80倍もあるコンゴを国王の私有領として列強に認めさせ、二番目の娘ステファニーを強大なオーストリー帝国のロドルフ皇太子の妃にすることに成功しました。
レオポルド二世は、ラーケン宮の設計をフランス人の建築家シャルル.ジロに依頼しました。シャルル.ジロはパリのプチパレを設計した建築家です。この建築家はラーケン宮の他に、わたしたちにも馴染みの深いブリュッセルの50周年記念門(Cinquantenaire)やテルビューレンのアフリカ博物館の設計をしています。

今、一般公開されている植物園を、ラーケン宮の敷地内に建設したのもレオポルド二世です。なお、わたしは植物園と云ってますが、原語はSerreなので温室という意味です。実際に、冬季は40ものボイラーフルが回転で温めている温室の部分もあります。
しかし、全体の機能から云って、植物園と云った方が正しいと思います。王宮で使う花もここで栽培されています。

この植物園は世界中から集めた珍しい植物の保存と育成が目的ですが、もう一つ重要な機能を併設していました。それは、王室のレセプションやディナー会場としての機能です(一般公開の順路からは見えません)。
先に述べたレオポルド二世の次女、ステファニー王女とオーストリーのロドルフ皇太子の婚約発表のレセプションが、1880年の春に行われたのは、この植物園の会場においてでした。

この結婚は、国と国との利害によって結ばれたものであり、二人の間に愛はありませんでした。しかし、この時会場にいたヨーロッパの王侯貴族の招待客は、9年後に2人の結婚が悲劇的な結末を迎えることを、誰も予測することはできなかったでしょう。
ロドルフ皇太子は、9年後にウイーンの森にあったマイヤーリングの山荘で、愛人のマリア.ヴェツラと情死を遂げてしまうのです。

レセプションやディナーにはよく室内楽などの演奏が入りますが、植物園の会場で演奏する音楽家は結構大変らしいです。場所が場所なので、空気中の湿気が水滴になりやすいのだそうです。
音楽といえば、レオポルド二世はあまり音楽が好きではなかったみたいで、演奏のことを“金のかかる雑音”と云ってたそうです。

ところでラーケンの王宮には、外部に知られていないものが幾つかあります。
一つは鉄道の駅です。地下駅になってますが、一度も使われたことがありません。作らせたのは、またまたレオポルド二世です。
他に60人収容の劇場もあります。しかしこの劇場は、消防法の規準に合ってないので、今は使われていません。
プールもあります。植物園の中にありますが、植物に囲まれてどこからも見えないように出来ています。前国王のボードワン一世はプールに興味がなく、放置されていましたが、現国王のアルベール二世が、孫たちのために修復して使えるようにしたそうです。
どこの王宮にもありますが、ラーケン宮にも厩舎があります。しかし馬は一頭も飼われていません。イギリスの王室と違って、ベルギーの王室が馬車を使うことは、もうないようです。乗馬をやる王族もいません。最後に乗馬をやった王様は、亡くなったボードワン一世です。
それから小さなガソリンスタンドもあります。公用で使う車は勿論、王族が私的に運転する車のガソリンもここで入れるそうです。
ベルギーの王族が私用で車を運転するのはよく知られています。わたしは偶然にも、フィリップ皇太子の弟、ローラン殿下がブリュッセルのルイーズ通りに車を停めて、近くの本屋さんに入って行く姿を見たことがあります。場所は駐車違反の場所でしたが。
アストリッド王女は、ブリュッセル市内で買い物している間に車の窓を破られ、車上荒らしにあったことがあります。
現国王のアルベール二世は、兄のボードワン国王在位中、わりと気楽な弟殿下の生活をエンジョイしていました。そのころのアルベール殿下はオートバイに入れこみ、日本製のオートバイも数台所有していました。しかしある時、乗っていたオートバイの転倒事故を起こし、脚を骨折して以来、オートバイの運転はぴたりとやめたそうです。

次に、ブリュッセルの王宮を見てみましょうか。皆さん、いくらなんでもブリュッセルの王宮は見たことがあるでしょう。
ブリュセルの王宮は、ラーケン宮にくらべると建築年代はさがります。
1815年に、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、エルバ島に流された後,現在のベルギーの部分はウイーンで開かれた列強の会議により、オランダに併合されます。
オランダのウイルヘルム国王は、政治的な配慮からハーグとブリュッセルを対等の首都とする布告を出しました。そのためには王宮が必要となり、建築が始まりました。

1830年にベルギーがオランダから独立し、1831年に、ベルギー初代の国王として王座に就いたレオポルド一世国王は、まだ完成していなかった王宮に入らざるを得なかったそうです。
わたしたちが目にする現在の王宮の建物は、これまたレオポルド二世が旧王宮の姿を留めないぐらいの大改築を行った賜物です。
レオポルド二世は本当に建築の好きな王様だったようで、“土建屋国王”という綽名があったぐらいです。レオポルド一世が在位中から、父王の王宮の建築様式を嫌い、“こんなひどい建物はいずれぶっ壊してやる”と云ってたそうです。

クイズです。
ブリュッセルの王宮には電球が何個あるでしょうか? 答えは、約10、000個です。これだけの電球があれば、必ず切れる電球が出ますので、10,000個の電球を管理する専門のスタッフがいるそうです。シャンデリアの電球をチェックするだけでも、大変な仕事でしょう。

日本人会の会員の方で、王宮のディナーに招かれた方はおられませんか。
不肖、わたくしめも一度でいいですから王宮のディナーに出てみたいですね。ま、死ぬまでそういう機会はめぐってこないでしょう。
できることは,セットアップされた王宮ディナー会場の写真を見たり、プレスに紹介される当日のメニューやワインリストを見て、想像をたくましくするしかありません。
それにしても、200人とか300人の招待客に、同じ焼きかげん、同じ煮かげん、同じ温度の料理をいっせいに出すのは、大変なことだと思います。

皆さん、王宮のディナーは王宮のキッチンで有名なシェフの指揮のもとに、何10人もの料理人が立ち働いて準備されると思いますか。昔は確かにそうでした。でも、今は違います。
意外なことにディナーは、料理もサービス要員も全て外部のケータリング会社に外注されています。ケータリング会社といっても、一流の料理を準備し、最高のサービスを提供できるプロの給仕人をかかえたほんの一握りの会社しか、王宮には出入りできません。
有名シェフが準備するディナーは、国王や皇太子が外遊する場合です。訪問国主催の晩餐に対する答礼晩餐をベルギー側が行う場合、随行しているシェフが腕をふるいます。
ベルギーから運ぶ食材の中には、季節によってメヘレンの白アスパラガスとか、ポーぺリングのホップの新芽とか、料理のなかにベルギーらしさを演出する食材が、シェフの指揮のもとに選ばれて,機内に積み込まれるます。勿論、ベルギービールも各種積み込まれます。随行シェフがどのようにして選ばれるのか分かりませんが、近年は、レストラン“Bruneau”のオーナーシェフ、ブルノー氏が随行する場合が多いようです。

王宮の中央の丸い屋根にベルギー国旗が掲げられている場合と、掲げられていない場合があります。これはご承知の通り、国王がベルギーにいる場合国旗が掲げられ、外遊等で不在の場合は国旗が掲げられません。
この国旗は意外に大きくて、4mx3mあります。見てる側としては余り考えたこともないのですが、屋根の上にはためく国旗は常に修理が必要なのです。風雨に曝されていいますので、破れたり、色あせたりがしょっちゅうだそうです。
王宮の地下の作業場には、国旗修理係りとしてこの道21年の女性、イソリナさんがいます。彼女はスペイン系のベルギー人ですが、“あたしゃね、どんな大金を積まれたってこの仕事を他人に渡す気はないからね”と、誇りをもって国旗の修理に励んでいるそうです。

ところでお父さん、お父さんのところのウラ話しはなんですか。お母さんとの出会いですか。お父さんが若き社員だった頃、初々しい新入社員のお母さんに一目惚れ。でも相手にされず。3年間泣いて頼んで、やっと結婚してもらった。そんなとこですか。

No.161.新型インフルエンザ騒動

No.161.新型インフルエンザ騒動



この原稿を書き始めようと思った5月13日に、ついにベルギーにも新型インフルエンザの感染者がでました。アメリカ旅行から戻って来たゲント在住の28才の男性です。発熱があり、病院に隔離されて検査を受けた結果、陽性の反応がでました。
これまで、ベルギーは感染者ゼロの国でしたので、日本からの来訪者にもそれを言って自慢をしていました。これで感染国の仲間入りをしたわけです。その後、感染者の数は7人に増えました。

4月―5月は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグに日本人旅行者が最も集中する時期です。オランダのチューリップ、花や新緑の美しいアルデンヌ地方、ルクセンブルグなどを周遊する日本からの海外旅行のグループが毎日のように入ってきます。
新型インフルエンザ騒ぎ以来、日本からの団体旅行者の大半はマスクをつけて旅行しています。感染者ゼロの頃、ベルギーは感染者ゼロの国ですから、マスクをとっても大丈夫ですよと云っても、マスクを取る人は少ないです。
東京や大阪といった大都市ならいざ知らず、新緑に包まれ、空気の澄んだアルデンヌ高原に行ってもマスクを外さない人がいるのは、一種の強迫観念なのでしょうか。

メキシコの豚インフルエンザから始まり、数度の変異を繰り返してヒトどうしで感染する新型のヴィールスが生まれました。
このヴィールスはメキシコからアメリカ、カナダを経て世界中に感染経路を広げています。この原稿を書いている現在の統計では、感染国がベルギーを入れて35カ国、感染者の数が6119人、亡くなった人が65人です。
新型インフルエンザがパンデミック(世界的大流行)の恐れがあるとして、国連の世界保健機構(WHO)は、警戒度を最高の6まで高めるように各国に勧告を出したいところながら、経済活動への悪影響を恐れる各国、特に欧州諸国の抵抗が強く、勧告を出せないでいる、との新聞報道もあります。

あくまでも個人的な意見ですが、豚、メキシコ、新型と呼び名が3転した今回のインフルエンザ問題に対する日本の対応は、どう考えても過剰だと思います。
新型インフルエンザの危険性は、通常の季節性のインフルエンザとあまり変わらない、というのが専門家の見解です。
例えば、アメリカでは毎月約700人、年間で8000人以上の人が風邪やインフルエンザで亡くなっています。アメリカで新型インフルエンザで亡くなった人は、これまで3人です。 
WHOのスポークスマンによれば、世界中で風邪やインフルエンザで亡くなる人の数は、年間50万人に上るそうです。新型インフルエンザで亡くなった人は、現在までのところ全世界で65人です。
感染しても、きちんと治療を受ければ、通常の風邪やインフルエンザと変わらない速さでの快癒が可能です。

なのに、どうしてこんなに大騒ぎをするのでしょうか。
当地を訪れる日本からの団体旅行の食事に、アルデンヌの生ハムやポーク料理は避けるようになどと、日本の大手の旅行会社が真面目に云ってくるのを聞くと、唖然としてしまいます。調理した豚肉や畜産品からの感染100%ありえないと、あれほど云われているのにです。
デュッセルドルフの同業者から聞いた話ですが、アイスランドツアーに申し込んだ在留邦人の家族が、新型インフルエンザを理由にキャンセルを申し出てきたそうです。ドイツにいるより、アイスランドにいる方がよっぽど安全だと思うのですが。

日本人会メンバー日系企業の皆さんも、ご本社から出張禁止などのお達しが出ていませんか。日本では、社員が朝晩体温を測り、体温が会社規定の数値を超えたら出社に及ばずという会社、或いは、受付に体温計を用意して、来客の体温を測定する会社があるとか、嘘か本当か知りませんが、まさに狂想曲ですね。
狂想曲といえば、エジプト政府がこの騒ぎを好機として、国内の豚の皆殺しを命じましたね。圧倒的多数を誇るエジプトの回教徒にとって、自分達の忌み嫌う豚を、国内の少数派、コプト教徒(キリスト教)が飼っているのは、許し難いことだったのでしょう。

日本では、水際作戦と称して、空港や機内での検疫を強化していますが、これも考えてみれば、ザルみたいなものです。新型インフルエンザの潜伏期間は1週間だそうですから、日本到着時に発熱等の症状のない感染者がいくらでも入国できるわけです。
ヴィールスは変異を重ねて毒性を強めたり、流行性を高めたりするそうですので、注意をするに越したことはありませんが、今度の騒ぎは度を越えているとしか思えません。

前に世界中を騒がせた鳥インフルエンザの時も、同じような現象がありました。
あの時も数10万羽の無実(?)の鶏が殺されました。そして、鳥インフルエンザで亡くなった人の数は全世界で300人にも満たない数でした。毎年インフルエンザ等で、世界で50万人以上の人が亡くなっているというのにです。
 前にも書きましたが、あのころ、まことしやかに囁かれた話があります。
鳥インフルエンザは、ベトナムなどでかなり前から発病が確認されていた。しかし、世界のマスコミは騒がなかった。マスコミが騒ぎ出した時期は、スイスの某製薬会社が鳥インフルエンザ用ワクチンの量産体制が整った時期と一致する。某製薬会社の大株主は、実業家出身のアメリカ政府高官である。出来すぎた話みたいですが、個々の事実は本当のようです。

今回の新型インフルエンザ騒動の裏には、わたしたちの想像を絶する巨大な謀略が動いているのでしょうか。インテリジェンスの専門家、佐藤 優さんあたりに、ご意見を伺いたいものです。
ここまで書いた頃、日本の関西地区で新型インフルエンザの感染が、高校生を中心に急速に拡大しているという報道がありました。そして、マスクの品切れが続出しているとの記事も出ました。
マスクと云えば、イギリスの保健相が“マスクがインフルエンザ予防に有効であるという科学的根拠は証明されていない。マスクをつけている人に取れとは云わないが、着用を奨励するつもりもない”と言明しています。
そういえば、ヨーロッパ諸国でマスクをつけている人は皆無ですね。推定2万人(きちんと数えてないみたいです)の感染者がいるといわれているスペインでも、マスク姿はゼロですし、サッカー場は人で溢れかえっています。コンサートその他、人の集まる催し物が中止された話しも聞きません。ベルギーでも今、サッカーの重要な試合があるので、サッカー場はどこも満員ですし、有名な歌手、ジョニーアルディーの大コンサートも予定通り行われます。

新型インフルエンザへの対応は、季節性インフルエンザの流行に準じた対応とするヨーロッパ側の冷静な対応に比べて、日本の反応はどうみても過剰としか思えません。
一つの事象に対して、欧米諸国と日本ではどうしてこんなに大きな違いが出るのでしょうか。これについて、ある邦字紙の文化欄に神里東大准教授の[マスク着用と世間の目]と題する一文が載りました。神里先生は、日本人が我も我もとマスクをするのは“もしマスクをせずに、感染したり感染させたら[世間]の目が怖い”からではないかと述べています。つまり、衛生的見地もさることながら、[世間の掟]が日本人の心理しっかりと抑えているということです。

歴史をみると、疫病あるいは流行病が周期的に人類を襲っていることがわかります。
歴史上の流行病で最も悲惨な災禍をもたらしたのは、なんと云ってもペストでしょう。ペストは1346年にクリミア半島に端を発し、黒海を経て当時のコンスタンチノープル(現イスタンブール)に入り、エーゲ海、イオニア海からシチリア島のメッシナに達しました。伝染経路は当時の地中海貿易のコースと同じです。ペスト菌の運び屋は商船と一緒に移動する鼠どもでした。
ペストは、2年後にはイタリア全土、フランス、ドイツ、スペイン、そしてスカンジナヴィアまで伝播しています。
死期が近づくと、皮膚が黒く変色するため黒死病とも呼ばれたペストは、当時のヨーロッパの人口の3分の1を犠牲にして、4年後に終焉しました。
ペストに対する予防法も治療の方法もない当時にあって、人々は感染者の少ない土地を求めて逃げ惑うことしか出来ませんでした。

1817年、南インドから始まったコレラは、ヨーロッパに入り慢性的な伝染病として、以後150年近くヨーロッパの人々を脅かしました。ヨーロッパで最後のコレラ患者が見つかったのは1965年です。コレラはアフリカにも伝播して、今ではアフリカの風土病的扱いでになっています。コレラの犠牲者は5,000万人に及ぶと云われてます。

14世紀に、ヨーロッパで猛威をふるったペストが、540数年後の1894年に香港に姿を現します。このペストは10年単位のゆっくりしたスピードで5大陸に伝播を続け、1920年にフランスで初めての患者が確認されました。
中世の時代と違い、予防や治療法が格段に進歩していましたので、ヨーロッパでの犠牲者は40数名にとどまりました。しかしインドでは、このペストのために1,000万人以上の死者が出たと云われてます。

第一次大戦の終わりごろ、スペイン風邪と名づけられた風邪が全世界で猛威をふるいました。推定では、5,000万人から1億人近い犠牲者が出たと云われてます。
スペインの名誉のために云いますが、この風邪はスペインから出たわけではありません。発生地はアジアでした。第一次大戦中であったため、感染国は敵に弱みを見せないように、感染の事実をひた隠しにしていました。スペインは参戦国ではなかったので、危険な流行病の存在をいち早く公表しました。そのために、スペイン風邪という名前がついてしまったのです。

スペイン風邪の特徴は、伝播のスピードの速さと通常の風邪ヴィールスの20倍から30倍という毒性の強さでした。わずか7日間足らずでアメリカ全土が感染したと云われてます。1918―1919年の冬の間だけで、10億人が感染したと推定されています。
スペイン風邪の教訓から、世界的な規模で伝播する流行病に対処するためには、国際的な協力機関が必要であるとの認識がうまれました。その結果、当時の国際連盟に国際衛生委員会が創設され、それが現在の国連世界保健機構(WHO)になりました。

流行病の悲惨な例として、ソヴィエト時代の強制収容所内で流行ったチフスがあります。ロシアチフスと呼ばれるこの病気は、ナチスの強制収容所でも多くの収容者の命を奪いました。現在でも、ダルフールなどの難民キャンプでチフスが発生してますが、飢餓に苦しむ人々をさらに病魔が襲うのですから、これ以上の悲惨な事例はないでしょう。

20世紀から21世紀にかけて最も多くの犠牲者を出し、現在も犠牲者が続いている病気はエイズです。1983年にエイズヴィールスの分離に成功していますが、未だに有効なワクチンが出来ていません。エイズによる死亡者の数は、これまでに2,500万にものぼっています。そして現在も、アフリカ諸国を中心に犠牲者が増え続けています。

1,000万とか100万単位で犠牲者が出た過去の流行病にくらべて、鳥インフルエンザにしろ、SARSにしろ、また今回の豚インフルエンザにしろ、亡くなった方々には甚だ不遜な言い方ながら、犠牲者の数は微々たるものです。
これはやっぱり、通信手段の発達のお蔭と云うべきでしょう。病気の発生、流行の危険性などの事実がいち早く世界中に伝えられ、対策が講じられることにより、犠牲者の増大を防ぐことができます。しかし、日本のように過剰反応する国が増えれば、これはこれで経済活動その他に大きな支障が出ることになり問題ですね。

ところでお父さん、新型インフルエンザは怖いですか。大丈夫ですよ。感染者は若い方ばかりで、おじさんたちはかからないみたいですから。昔、どこかで吸い込んだヴィールスのお蔭で、身体に抗体が出来ているらしいです。 

162.息子の結婚

162.息子の結婚


6月に、わが家で最初で最後の結婚式がありました。
息子のケンが、高校時代からの恋人、アクセルと結婚しました。二人は11年に及ぶ恋を実らせました。
高校2年から、二人はわが家に一緒に住んで学校に通ってました。つまり、同棲というやつです。二人が一緒に住みたいと言ってきた時は、正直、うれしかったです。アクセルは優しくて素直で、成績はいつもクラスで一番という、息子にはもったいないお嬢さんです。こんないいお嬢さんが、息子と一緒にわが家に住んでくれるのですから、親としてうれしくないはずがありません。

3年間わが家に住んだ後、彼女の親の希望で二人はアクセルの家に住むことになり、移っていきました。その時は、息子と娘がいなくなったみたいで寂しかったですが、むこうの家族も、3年間、娘なしの寂しい思いをしたのですから、ま、お互いさまというところでしょう。
双方の家は、わが家がWoluweSt.Lambertでアクセルの家がWolweSt.Pierreですのでんなに遠くありません。二人がわが家に同居中も、むこうに移ってからも、しょっちゅう行き来はありました。特に日曜日のお昼には、わたしが作る特製ラーメンを、必ず二人で食べにきました。

このラーメンについては、会報1998年3月号に、『新ベルギ-物語』“ボクのキッチン”と題して詳しく書きましたので、弊社のサイトに載っている『新ベルギ-物語』のバックナンバーで読んでみてください。日曜日のラーメンは、息子の幼稚園時代からのわが家の定番行事でした。息子の幼稚園、小学校、中高の友達で、日曜日にわが家に来て、わたしのラーメンを食べた子供は結構な数になります。
結婚式にきていた息子の幼稚園時代からの友達で、今や立派な社会人になっているクリストフやアレクサンドルから、“ケンのパパが作ってくれたラーメンは本当においしかった。今でも思い出します”と言われた時は、ちょっぴり嬉しかったですね。

わが家で、最初で最後の結婚式と書きましたが、ケンには姉が二人います。それぞれ家を出てパートナーと暮らしてますが、この二組のカップルは、結婚などもってのほかという考えなのです。ベルギ-というか、こちらでは珍しくもなんともない考え方です。皆さんのお知り合いのベルギ-人、或いは欧米人の中にも、きっとこういうカップルはいることでしょう。

息子達の結婚式の式次第は、ケンとアクセルの二人の友人グループが仕切ったので、われわれ親たちの出る幕はありませんでした。
ただ二人とも現在香港に住んで仕事をしているので、いろいろな準備はどうしてもこちらにいる人間がやることになります。この点、ケンの姉でわが家の長女のゆきが、会場の契約や、ケ-タリング会社との交渉、メニューやワインその他の飲み物の選定、カメラマンやダンスパーティーのディスクジョッキーとの打ち合わせなど、ありとあらゆる細かい準備のため、会社を休んでまで準備に奔走してくれました。ケンはいいお姉さんをもって幸せです。

結婚式の一週間前に、ケンとアクセルが香港からベルギ-戻って来ました。空港に出迎えに行って驚きました。
到着口には、10数人の青年がそろいのTシャツを着て二人の到着を待ってました。彼らが着ているTシャツには“独身ケンとCaraビ―ルとスポンジ(アニメのキャラクター)パ―ティー”と印刷されてます。
Carapilsというビールは、某大手のスーパーマーケットチェーンが自社ブランドとして作っているビ-ルで、ベルギ-で最も安いビールです。在留邦人の方々が飲むようなビールではありません。慢性的な小遣い不足に悩む学生たちの愛飲ビールです。
空港に集まっている昔の悪ガキどもは、学生時代にこの安ビールをあおってクダをまいていたのでしょう。勿論、わが息子はその中にいたのです。
そして彼らは、青春の日の思い出のビールを、友達の結婚式のサブテ―マにしたかったようです。

空港には、わが家とアクセルの家族、その他友人、知人が来てましたが、主役はTシャツ部隊です。Caraビ―ルが持ち込まれ、音楽の用意までしてあります。音楽は、息子が学生時代にやっていたロックバンドの演奏CDでした。
Tシャツ部隊がやろうとしていることは、恒例の『独身埋葬式』なのです。ベルギ-だけではないと思いますが、こちらでは結婚式を控えた男子は独身埋葬式を経験しなければなりません。新郎は結婚式の前にどこかに連れて行かれ、云われたことはなんでもやる義務があります。

香港からのフライトはアムス経由ですので、アムス便のお客さんが到着口から出て来るのを見てました。しかし、ケンとアクセルはなかなか出てきません。
人の列が途切れたと思った時、変てこなダンボールをかぶった人物が出てきました。後ろからアクセルが、にこにこしながらついて出てきます。ダンボールにはアニメキャラクターのスポンジの顔が描かれており、両目の所に穴が開いてます。中から息子が出てきました。ロック音楽が鳴り、Caraビ―ルを手にした独身埋葬式部隊がときの声をあげます。出迎えにきている人たちが呆れた顔でみていました。
聞けば、“ケンはスポンジの格好で空港到着口から出てくること“という申し渡しが、独身埋葬式実行委員会から香港の息子のところに、メールで届いていた由です。
息子はダンボールでスポンジを作り、梱包してチェックインし、タ―ンテ―ブルで受け取ってこれを組み立て、かぶって出てきたのです。税関のおじさんたちは笑って見送ってくれたそうです。

出迎えの家族、知人への挨拶もそこそこに、息子は独身埋葬委員の連中とCaraビ―ルで乾杯の後、いずこかへ連れ去られていきました。
置き去りにされたアクセルに、“ケンは連れて行かれちゃったけど、いいの”ときくと、“いいんです。こうなることはわかってましたから”と笑いながら答えます。

アクセルも香港で、独身埋葬式を経験してきたとのこと。女性の場合は、これを『パンティー焼却式』と云います。
香港のヨ―ロッパ系銀行などに勤務するフランス人、ベルギ-人などの女友達が主催し、彼女に変てこな仮装をさせ、香港の目抜き通りを歩かせたようです。恥ずかしがりやですぐ赤くなるアクセルにとっては、大変な経験だったそうです。

息子がアクセルの元に返って来たのは、翌日の昼過ぎでした。
独身埋葬委員の連中の命令は、まずグランプラスでギタ-を弾いて、投げ銭をもらってくることでした。しかし、グランプラスでギタ-を弾き始めたとたんに、警官が来て中止を命じられ、一セントも稼げませんでした。他に、地下鉄の駅でギタ-を弾いたり、踊ったりしての投げ銭稼ぎを命じられました。幾つかの駅でやった結果、総収入は30セントでした。これではいくら安いとはいえ、Caraの缶ビール一本さえ買えません。
後は朝方まで飲んで騒いで、誰かの家に雑魚寝して、昼過ぎにやっとフィアンセの元に帰ってきました。ま、独身最後のイヴェントですので、このぐらいは許されてもいいのではないかと思います。

結婚式当日の朝、花嫁を迎えに行く息子を乗せるため、カ―ウォッシングに行って車を洗ってきました。きれいになった車にリボンを結びつけたり、飾り付けをしてくれたのは、前夜からわが家に泊り込んでいた息子の旧友たちでした。

用意万端整い、いよいよ花嫁を迎えにいく時間が来ました。その時、部屋から出てきた息子の花婿衣装を見てびっくりしてしまいました。一応、スーツは着てますが、シャツはベルトの外にでれんと出し、シャツの胸元を広げ、ネクタイは胸の中ほどに中途半端に結んだだけ、まるで酔っ払いが間違って他人の家に入ってきたような格好です。しかもその赤いネクタイは、昔、わたしが捨てようとしたのを高校生だった息子が“もらっておくは”といって、自分のクローゼットに放り込んでおいたものです。
さすがに呆れて、“おまえ、本当にその格好で結婚式にでるつもりなの”と聞くと、“そうだよ、どうして?”と、こちらの心配などまったく意に介しません。

息子の旧友たちも車にも飾りをつけ、車列を組んで花嫁の家に向いました。
アクセルは香港から持ってきた美しいウェディングドレスをまとい、家族に囲まれて自宅の庭に立ってました。純白に真紅のアクセントを配したドレスは、彼女の持つ雰囲気にぴったりで、髪につけた数輪の白い小さな花とあいまって、それはそれは美しい花嫁姿でした。
寄り添って庭に立つ二人を見て、よく11年間も仲良くしてこれたものよと、感慨深いものがありました。そして気がついたのは、息子は自分の服装をちゃんと考えてアレンジしていたことです。わたしのお古の真っ赤なネクタイは、アクセルのドレスの真紅の部分ぴったりマッチしています。間違って入ってきた酔っ払いの服装も、そんなにひどくはないなと、ちょっぴり見直しました。

結婚式といっても、実際は披露宴です。何故なら、二人は香港の市役所で法的な結婚を済ませているからです。
会場は、両方の家の中間点にあたるWoluweSaintPierreの小さな公園の中にある建物でした。こちらの結婚式や披露宴に招かれたことのある方はご存知でしょうが、披露宴は通常は三つの部分から成たっています。
教会やコミューンの結婚式の後、まずレセプションがあって、その後が食事会、そして最後にダンスパーティーというのが定番です。
招待状にはカードが3枚入ってます。
1枚目はレセプションへどうぞ、2枚目は食事会にどうぞ、3枚目はダンスパーティーにどうぞ、という具合です。3枚全部もらうのは、家族や親戚が多いです。一般的な付き合いの人は、レセプションだけとか、ダンスパーティーだけによばれる場合が多いです。

よばれる側のお祝いの仕方はいろいろありますが、一般的なのは“Liste de Mariage”、いわゆる結婚リスト方式です。これは、二人が新生活をスタ―トする上で必要な家財道具の一覧表を作って、デパ―トその他の店に置いておくのです。お祝いしたい人は、リストの置いてある店に行って、プレゼントしたい物を選びお金を払います。
どうせ戸棚に放り込まれ、埃をかぶる運命にある無用なお祝いの品々をもらうより、自分たちに本当に必要な物を贈ってもらえる”Liste de Mariage”方式 は、実に合理的な方法だと思いませんか。
息子たちはベルギ-に住んでいないので、結婚リストは作りませんでした。代わりに、招待カードに銀行の口座番号を書いて、お祝いしたい方こちらへどうぞとやってました。

若者主導の披露宴は、ケンとアクセルの指輪の交換をハイライトに、楽しく、賑やかに進みました。ダンスパーティーでは、パーカッション(打楽器)をやっている次女のミナが、自分の仲間のバンドと一緒に演奏してくれました。ミナは、打楽器の勉強でキューバの国立音楽院に2年間留学した経験がありますが、太鼓をたたいて食べていけるのかどうか、親として随分心配したものです。弟の結婚披露宴で楽しそうに演奏してる娘は、今年アーティストの資格が認められ、自立への道が開かれました。

ダンスパーティー間に、花嫁のアクセルがわたしをダンスに誘ってくれました。踊りながらわたしが、“アクセルはとうとううちの娘になってくれたね”というと、彼女は、“はい、とてもうれしいです”と答えてくれました。ちょっぴり涙腺がゆるみました。

ところでお父さん、わたしは、子供の結婚式で泣く親の気が知れないと思ってましたが、泣けるものなんですね。                 

No.163.またまたイタリア留学の記

No.163.またまたイタリア留学の記



この夏休みに、イタリアのボローニアに2週間ほど行って参りました。
目的は、未だに懲りずに続けているイタリア語の勉強のためでした。ブリュッセルの夜学講座は週一回で、それに春休み、夏休み、冬休みとやたら休みが多い上に、こちらの都合で休むこともあり、実際の勉強時間はそんなに多くありません。
ですから、3年も通っているのにイタリア語がちっとも上達しないのです。勿論、当方の脳細胞の働きが年々低下の一途を辿っていることも、大きな理由ではありますが。

そこで一念発起、イタリア留学を思い立った、というのは正しくなくて、三念発起というべきでしょうか。一昨年のローマ、昨年のフィレンツェに続いて、三回目の短期語学留学を実行しました。
“いい年こいてなにやってんだか”とか、“あんな半ボケの頭でなにやったって無理なのに”とか、“そんなヒマがあるならもっと真面目に仕事をすればいいのに、社員がかわいそう”とか、いろいろな批判を背に、ひっそりとボロ-ニアに旅立ちました。

何故ボローニアの学校に決めたかといいますと、ブリュッセルの夜学の先生に、イタリア語のいい学校を教えて欲しいと頼んだら、ボローニアのCultura Italianaという学校を紹介してくれたからです。
ボローニアの空港から学校が世話してくれた街中の下宿まで、タクシーで25分ぐらいでした。今回は、ローマやフィレンツェの時の下宿で懲りたので、共同下宿ではなく独立したアパートの世話を学校に頼みました。

空港から乗ったタクシーの運ちゃんは、迷うことなく、また料金をごまかすこともなく、きちんと下宿のあるVia Fondezzaに連れて行ってくれました。呼び鈴を押して自分が何ものかを告げると、学校から連絡がいっていたとみえて、家主のSignora Massaがドアを開け、にこにこと迎え入れてくれました。
マッサおばさんが案内してくれた部屋を見て驚きました。下宿という言葉が当てはめらまらないような、立派なアパートではありませんか。44から45へーベーは楽にあり、夫婦者が十分に暮らしていける広さです。テレビ、冷蔵庫、ガス台、全ての台所用品、シーツからタオルまで、生活に必要なものは全部揃ってます。

ボローニアには日曜日に着きました。月曜からいよいよ学校です。下宿から学校までは歩いて15分ぐらいでした。学校では、まずイタリア語の筆記と会話の試験があり、結果に応じてクラス分けがありました。
わたしは中級のクラスに入れられました。クラスには10人前後の仲間がいました。国籍はクロアチア、ポ―ランド、ハンガリ-、アメリカ、イスラエル、ブラジル、リビアなど、世界中から来ています。

いつも思うのですが、イタリア語を学ぶ女性にはどうして美人が多いのでのでしょうか。去年行ったフィレンツェの学校にも多数の美女がいましたが、今年は特に、クロアチア、ポーランド両国の女子大生軍団が美人ぞろいでした。特に、クロアチアの双子の姉妹アニアとエヴァナ、それにポ―ランドはワルシャワ大学2年生のアガタは、本当の意味の美人でした。顔やスタイルがいいというだけでなく、話し方や動作に優雅というか、なにか生まれながらの気品のようなものがあります。きっと、いいところのお嬢さんなのでしょう。着ているものや、身につけているものが違います。
クラス最長老の日本のおじさんが珍しかったのか、あるいは席が近かったせいか、この3大美女はよく私に話しかけてくれました。今回の留学で、イタリア語がちょっと進歩したかな、という手ごたえを感じたのは、美女達とのイタリア語の会話に、必死でついていこうと大変な努力をしたお蔭だと思います。

クラスの男性軍はわたしをいれて3人だけです。一人はリビアのモハメッド、もう一人はブラジルのエヴェルストンです。ちなみに、美男は一人もいません。
モハメッドは、どうもリビアのカダフィさんに近い特権階級出身みたいです。彼に云わせれば、リビアは豊かで民主的な国だそうです。面白かったのは、話しがカダフィさんのことになると、モハメッドはすぐに話題を変えようとすることでした。
エヴェルストンはブラジル人らしくない名前ですが、彼は聖心修道会に属する神父さんです。サンパウロ大学の法学部を卒業して一度弁護士になったのですが、思うところあって神学校に入り神父になりました。ボローニアでイタリア語を学んだ後、 ロ-マに行って、大学の神学部で教会法を専攻するのだそうです。エヴェルストンは堂々たる体躯で、バリトンの美声の持ち主です。そしてよく笑います。
 彼は将来サンパウロ大司教から枢機卿という、教会のエリートコ-スを歩む人かもしれません。クラスのみんなから、将来ローマ法王になったら、私たちをヴァチカンに呼んでよねなどといわれ、大笑いしていました。

Cultura Italiana校の授業内容や先生の教え方は、非常に満足のいくものでした。これまで行った学校の中で最高でした。ただ、最初の頃は、ずいぶん劣等感を味わいました。それは会話力です。
クラスメートはみんなイタリア語が上手なのです。いつもわたしの隣に座っていたモハメッドなど、なぜ勉強に来たのか分からないぐらい、流暢にイタリア語を話します。女子大生たちは大学でイタリア語を専攻しているので、これまたよくしゃべります。
会話が一番下手だったのが、わたしとダラスからきている美人でお金持ちの奥さん、ジュリ―でした。アメリカ人のジュリ―の偉いところは、会話がうまくいかなくても絶対に英語を話さず、最後までイタリア語で通すところでした。

クラスメートの圧倒的な会話力には打ちのめされ、学校の事務に行ってクラス替えを頼もうかとさえ考えました。
しかし、わたしの劣等感はある出来事をきっかけになくなりました。文法の授業で、先生が、接続法の動詞変化を瞬間的に答える一種のゲ-ム生徒にさせました。
なんの間違いか、わたしはこの文法ゲームで、クラスでただ一人満点をとりました。この出来事以来、クラスメ―トのわたしを見る目が変わってきました。『文法のサミ-』という評価ができました。隣のモハメッドなど、わたしがやってきた文法の宿題の答えを、熱心に写すようになりました(彼は宿題をやってきたためしがありません)。分かったことは、彼の文法の知識と単語の綴りは、会話力に較べてかなり低いレベルでした。

もう一つ、クラスメートとわたしの間で、親近感が高まる出来事がありました。会話の授業で、先生が各生徒に知ってるジョークをイタリア語で披露するように命じました。
みんな一生懸命ジョークを話しましたが、余り面白くありません。自分の番がきたので下記のジョークを披露しました。

ある日、お父さんが会社からロボットをつれて帰って来ました。お父さんと奥さんと中学生の息子、マルコの間でこんな会話と出来事がありました。
お父さん:『見てごらん。このロボットは日本製の素晴らしいロボットだ。いろいろな機能をもっているが、とくにすごい機能は人が嘘をつくと直ちに反応する機能だ。ロボットは嘘をついたひとの傍にいって、ほっぺたを軽くピンピンと叩くんだ。ところでマルコ、今日は帰りが遅かったな、どうしたんだ』
マルコ:『学校の図書館で勉強していたので遅くなりました』
ロボットがマルコの傍にツツーと来て、マルコのほっぺたをピンピンと叩きました。お父さん:『マルコ、嘘をついてはダメだ、本当のことを云いなさい』
マルコ:『ご免なさい。本当は友だちと映画を見てきました』
お父さん:『どんな映画を見てきたの』
マルコ:『聖書物語です』
ロボットがツツーと来て、マルコのほっぺたをピンピンと叩きました。
お父さん:『マルコ、また嘘をついたな。本当のことを云いなさい』
マルコ:『ご免なさい。本当は友だちと成人映画を見て来ました』
お父さん:『しょうのない奴だ。お父さんがおまえぐらいの年のころ、親に嘘をついたことなどなかったぞ』
ロボットがツツーとお父さんの傍に来て、お父さんのほっぺたをピンピンと叩きました。
笑って見ていたお母さん:『嘘をついたりして、やっぱりマルコはお父さんの子だね』
ロボットがツツーとお母さんの傍に来て、お母さんのほっぺたをピンピン........。

これはうけました。クラスは大爆笑でした。“日本人は生真面目でジョークなど云わないと思っていたけど、見直したわ”と、美女軍団も云ってくれました。これで、クラスメートのわたしに対する親近感がぐっと高まり、授業に行くのが楽しくなりました。

ボローニアにいる間、勉強をかねてイタリア語の新聞を読む努力をしました。辞書を片手に面白そうな記事を探して読みました。ベルルスコーニ首相の女性関係のスキャンダル記事などは、もっとも熱心に読みました。首相のお相手とされているパトリッツィア嬢の“わたしは今もシルヴィオを愛してる”などという暴露記事は、辞書を引く間ももどかしいぐらい一生懸命読みました。

この時期に、イタリアのマスコミを賑わせた“事件”がありました。
皆さんもご存知のあの事件、日本人観光客がロ-マのレストランでぼったくられた事件です。イタリアのプレスは、一様にぼったくりレストランを非難し、今後、日本人観光客はイタリアを敬遠するであろうと嘆いていました。
最盛期には年間200万人近い日本人観光客がイタリアを訪れていたのに、近年は100万人ちょっとになっている。こんどの事件はイタリアの観光産業に甚大な損害を与えるかも知れない等々、悲観的な記事も多く見られました。
その後の、イタリア観光大臣の謝罪、被害に合った日本人カップルのイタリアへの招待、これに対する日本人カップルの“イタリア国民の税金で旅行をするのは遠慮したい”という招待謝絶の言葉、この謝絶の言葉を取り上げて、“日本人はなんと高貴な精神の持ち主か”という賞賛の言葉など、イタリアのプレスは随分賑やかでした。

ローマのNavona広場といえば、ベルニーニの『四大河の噴水』や『ムーア人の噴水』などの素晴らしい彫刻があるローマきっての名所の一つです。そこで150年も続いている老舗レストランが、昼食二人分の代金として700ユーロを請求したというのですが、本当に信じられません。地元でも有名な老舗のレストランが、外国人のお客をみくびって法外な料金を請求するようになっては、世も末ですね。ローマ市当局が、直ちにこのレストランに対して営業停止を命じたのは至極最もな措置であり、大いに評価していいと思います。
さる日系紙のローマ支局長さんの記事によると、イタリアの観光地のレストランには、国別料金割増表のようなものがあるとか。スペイン人やフランス人は15%から30%増しで、アメリカ人と日本人はなんと50%増しだそうです。
全部のレストランがそうではないにしても、なんとなく嫌ですね。自分が注文して食べた物の料金をきちんとチェックしてから払うのが、せめてもの自衛策でしょうか。

誤魔化す連中はどこにでもいます。ブリュッセルのグランプラス裏の食べ物横丁で、法外なワイン料金を取られた日本人旅行者の話も聞いてます。
ベルギーでは、レストランやタクシー料金はサ-ビス料、つまりチップ込みで請求するように法律で定められています。それでも、レストランのボーイやタクシーのドライバーから、料金とは別にチップを請求されたという話しはあとを絶ちません。
不愉快な思いをしないためには、訪問国の料金制度、チップ制度など事前に知っておく必要があります。ゲームに勝つためには、相手の手の内を知らなければなりません。

ところでお父さん、今までぼられた経験はありますか。なに、この間お母さんにせがまれて買ってあげたバッグは高すぎた。寅さんではありませんが、“それを云っちゃおしまいよ”ですね。男は一度出した金についてうだうだ云わないものです。なんちゃって、格好よすぎますね、これは。              

No.164.またまたイタリア留学の記(その2)

No.164.またまたイタリア留学の記(その2)



イタリア留学の記の続きを書きます。ま、これで会報原稿の一回分を稼げるという、下心がないわけではありませんが。

イタリアに行く前に、床屋に行こうと思って行きつけのベルギー人の床屋のおじさんに電話をしたら、体調をこわして休んでいるという返事。
寂しくなっているとはいえ、髪の毛も伸びるところは伸びます。昔、ニューヨークの床屋の大半はイタリア人移民だったそうですから、イタリアにはきっといい床屋があるはずと考え、行き先のボローニアで刈ってもらうことにしました。   

ボローニアに行って勉強の要領も分かったころ、床屋を探してみました。目ぬきの一等地に女性用の高級美容院はあっても、床屋はありません。だいたいは、ご町内の人が行きやすい裏通りにあります。そこで下宿のまわりをぶらぶらしてみました。すると、思いがけないほど近い所に一軒の床屋が見つかりました。午後の2時30頃でしたが、床屋のおじさんが昼寝を終えたのか、ちょうど店を開けてるところでした。
わたしのブリュッセルの床屋もそうですが、わたしはこの道30年以上はやっているというおじさん床屋が好きです。腕はしっかりしてますし、世間話をしても話題が豊富で面白いです。

下宿の近くの床屋は、わたしの好みにぴったりのおじさん床屋でした。
“入ってもいい?”と聞くと、“ああ、いいよ”というので、入って鏡の前の椅子に座りました。おじさんは私の首の周りに布を巻きながら、“中国人の頭を刈るのは初めてだな”といいます。“ぼく、日本人なんだけど”というと、“髪の毛は似たようなもんだろう”と意に介しません。
おじさんは、確かな鋏さばきでちょきちょきとわたしの頭を刈り始めました。ところが、開け放しのドアから通行人、といってもご町内のおじさん、おばさんが次々と床屋のおじさんに声をかけて行きます。それで分かったのですが、おじさんの名前はアルドといいます。
“チャオ、元気かい”ぐらいで通り過ぎる人はいいのですが、なかにはアルドおじさんと話し込む人がいるので困ります。
“チャオ アルド、元気?”
“チャオ エレナ、 げんきだよ。ところで、隣りのミケ―レに聞いたけど、お宅のルチアーノの離婚話しもめてんだって”
“そうなのよ、嫁のステファニアの実家が金のことで口出してきて困ってるのよ”
“嫁の実家が出てくると面倒だな。それにしても、ルチアーノは子供の時から気が弱かったからなあ”
“そうなのよ。結婚してからもステファニアのいいなりだんったから”
こういう話しを、アルドおじさんは櫛と鋏を両手にもって、店の入口でエレナおばさんとやり始めます。その間わたしは、首に布を巻かれたまま、じっと待ってるしかありません。

皆さんはボローニアに行ったことはありますか。
ボローニアはフィレンツェとヴェニスの中間に位置しています。イタリア旅行でフィレンツェやヴェニスに行くことはあっても、途中下車してボローニアを訪れることはあまりないでしょう。でも、ボロ-ニアのあるエミリア.ロマーニア州は、パルマの生ハム、パルミジャノ、バルサミコなど、イタリア料理に不可欠の食材の出る所です。 
 ボローニアは、大学とハイテクの街で、観光都市ではありません。ボローニア大学は11世紀の創設で、ヨ-ロッパ最古の大学です。わたし達のいるベルギーのル-ヴァン大学もヨーロッパ有数の古い大学ですが、それでもその創設はボローニア大学創設から400年後のことです。この大学で、歴史上初めて人体解剖が行われてますし、コペルニクスやガリレオも勉強しています。

たった2週間でしたが、住んでみるとなかなか味のあるいい街です。観光客が押し寄せないので、市民もどことなくおっとりしています。街を歩いていて気がつくのは、ボローニア名物のポルティコ(柱廊)です。
井上ひさしさんの『ボローニア紀行』によれば、ポルティコの始まりは、中世以来学生用の部屋を確保するために、2階から上の部屋を道路に突き出すようにして増築し、これを最初は木の柱、後に石の柱で支えたものだそうです。市内のポルティコの総延長距離は42Kmもあるそうです。
わたしは毎日ポルティコを通って学校へ通ってましたが、歩道がアーケ-ドになっており、雨の日は濡れずにすみますし、夏の暑い日ざし(平均36度から40度の日もありました)を防いでくれ、心地よい日陰を歩くことができました。
ボローニアにはもう一つ名物があります。それはDueTorri(二つの塔)又はTorriPendenti(斜塔)と呼ばれる塔です。昔のイタリアでは、自分達の勢力を誇示するために塔を建てるのが流行りました。ボローニアでも皇帝派と教皇派が塔を建てて高さを競いました。昔はたくさんの塔があったようですが、今はちょっと傾いた二つの塔しか残っていません。学校が塔のすぐ近くだったので、毎日眺めてましたが、正直この塔を見るためにボローニアまで来ることもないかと思います。

わたしの通ってた学校では、授業以外にいろいろな活動が企画されていました。『イタリアの民謡』、『イタリア語の歴史』といった講演会から、,『サンタルチア教会のフレスコ画見学』、『イタリア料理実習』、『ジェラテリア見学』などいろいろありました。わたしは全部に参加しましたが、面白かったのは『イタリア料理実習』でした。
実習はイタリア料理のシェフ、マリオの自宅で行われます。その時の参加者は、同じクラスのアメリカ人のジュリ―、ロンドンからきている19歳の青年トム、それに同じイギリス人のメアリーとわたしの4人でした。メアリーはグラスゴーの近くで小さなレストランをやっている50代後半の女性です。イタリア料理を勉強に来ていますが、イタリア語は全く出来ません。

陽気なシェフのマリオと、ソムリエで英語のちょっとできるルーカの指導のもとに、次のような料理を学びました。
アントレ:Pasta al Pesto alla Genovese(ジェノヴァ風ペストのパスタ)
皆さん、イタリア料理のペストをご存知ですか。バジリコをベースにした一種のグリーンペーストです。元々Pestoはジェノヴァが発生の地だそうですが、作るのにこんなに沢山の材料が必要だとは知りませんでした。新鮮なバジリコの葉たっぷり、にんにく、松の実、くるみ、山羊チーズのぺコリーノ、パルミジア―ノ、一番搾りのオリ―ヴオイル、塩、胡椒などなどです。
パスタにからめて食べたこのペストの美味しかったこと、市販の瓶詰めペストなど問題になりません。
メイン:Pollo alla Perugina (ペルージャ風鶏肉料理)
鶏肉のほかに、生ハム、アンチョビがあり、にんにく、レモンの絞り汁、塩、胡椒、オリーヴオイル、白ワインなどが材料並びに調味料です。作り方はとても書けません。
美味しかったです。
デザート:Tortino di Cioccolato dal Cuore Morbido(芯の柔らかなチョコレートケーキ) 中が柔らかいのにケ-キはちゃんと焼けている。どうしてでしょう 。
料理の実習をしてみて、料理人の大変さが分かりました。今後はレストランに行った時、心して料理を味わうことにします。


授業のない週末を利用して、ラヴェンナやフェッラーラといった町を訪ねました。ラヴェンナはご承知の通りビザンチン文化の華、モザイク芸術の宝庫です。
ボローニアからラヴェンナへは電車で1時間半ぐらいです。駅で一つ失敗をしました。
切符売り場に並んで買ったチケットが、ロミオとジュリエットで有名なヴェローナ行きでした。自分が勘違いしてヴェロ-ナと云ったので、駅員さんは悪くありません。これで旅行代理店やってるんですから....。
もう一回並んで、多分ダメだろうと思いながら、ヴェロ-ナ行きチケットの払い戻しを頼みました。駅員さんには自分が間違ったことを正直に話しました。駅員さんは“気をつけなさいよ”と云いながら、払い戻しとラヴぇンナ行きチケットを発行し、差額を返してくれました。
電車に乗ってから、又失敗をしたことに気付きました。検札の車掌さんが私の切符を見て、罰金を払えというのです。理由は、乗車駅の刻印は打たれてないからです。イタリアでは電車に乗る時、駅に備え付けの機械にに切符を差し込んで、日付、時間などの刻印を打たないといけません。ブリュッセルのトラム、市バス、地下鉄に乗る時と一緒です。それを知らないで電車に乗ったため、35ユーロも罰金を取られました。これでも旅行代理店をやってるんですから....。

ラヴェンナではモザイク美術の傑作を堪能しました。
サンヴィターレ教会の『テオドラ妃と随臣、侍女たち』、ガッラプラチーディア廟の『よき羊飼い』、サンタアポリナ―レインクラッセ教会の『キリストと12使徒を表す羊』などの傑作は、モザイク芸術の頂点と云ってもいいのではないでしょうか。色彩といい、人物の表情といい、構図といい、本当に素晴らしい作品の数々です。皆さんも機会があったら是非ご覧になってください。

ラヴェンナの町で、簡単なお土産を買うため一軒の店に入りました。店番をしていたのは、歩くのもやっとというお婆さんでした。お金を払って土産物を受け取る時、お婆さんは“今ね、嫁がいないからこれをあんたにあげるよ”と云って、一枚の絵葉書をくれました。お礼を云って絵葉書を受け取ると、お婆さんはさらに“あんたこれでコ-ヒーでも飲みな”と云って、1ユ-ロのコインをくれました。自分に店番をさせるお嫁さんへのささやかな反抗なのでしょうか。或いは、貧しそうな東洋人への同情だったのでしょうか。いずれにしても、コーヒー(エクスプレッソ)は1ユ-ロときまってますので、お婆さんの健康を祈ってエクスプレッソを飲ませてもらいました。

前にも書きましたが、わたしは何故か旅先で他人さまのお恵みに与ることが多いのです。ラヴェンナの町から離れているサンタアポリナーレインクラッセ教会に行った時も、近くに切符を売ってるTabacchiもなく、帰りのバスの切符がなくて困っていた時(車内では売ってません)、バス停にいた一人の青年が切符(1ユ-ロ)を恵んでくれました。聞けば、青年はウクライナ人でイタリアに出稼ぎに来ており、レストランの下働きをしている人でした。身なりからいっても、余裕のある生活をしているとは思えません。しかし青年は、わたしがいくらお金を返そうとしても頑として受け取らず、途中の停留所でわたしに手をふりながら降りて行きました。

旅先での人々の親切に出会うと、心が暖かくなります。ヴェローナの次の訪れたフェッラーラの町でも、親切な人に出会いました。フェッラーラはボローニアから電車で30分ぐらいの所にある、中世の面影の残る美しい町です。目ざす教会が見つからないので、近くに車を停めて誰かを待ってる感じのおじさんに、道をききました。おじさんは、親切に道の説明を始めましたが、めんどうになったのか、“いいよ、送っていってあげるから乗りなさい”と云って、車のドアを開けてくれました。わたしが“でも、誰かを待ってるんでしょう”と云うと、“いいんだ、どうせあいつは時間通りに来たためしがないんだから”と云って、わたしを目的の教会まで送ってくれました。

いい先生に恵まれ、美女に囲まれた授業の日々はあっという間に終わりました。心優しい人々との出会いもあり、暑い夏のボローニア滞在を爽やかな気持ちで終えることができました。
ベルギーに戻ってしばらくしてから、たまたま行きつけの床屋の前を通りました。すると、店は閉まっていて、扉に張り紙がしてありました。張り紙を読んで驚きました。床屋のおじさん、ダニエルさんが亡くなったという訃報なのです。50代前半のダニエルさんが、体調を崩していたとはいえ、亡くなってしまうなんて想像もできませんでした。人の命にはかなさと、人生の無常を思わずにいられません。合掌  

No.165.“ベルギー痛風友の会”の発足

No.165.“ベルギー痛風友の会”の発足



ついにというか、やっぱりというか、残念ながらというか、わたしもとうとう痛風持ちになりました。
皆さん、痛風とは何であるかご存知ですか。自分が痛風持ちになってから、いろいろ調べました。痛風歴10年とか20年のつわものが綺羅星のごとく居並ぶこのベルギーで、新参者が何を云うかとのお叱りを覚悟の上で、新参者の痛風体験について述べてみたいと思います。

まず、痛風発作の症状です。
わたしの場合は、金曜日に左足の親指の第二関節のあたりがちょっと痛くなりました。土曜日になると痛みが少し増してきて、その部分が腫れてきました。でも歩いたり、車を運転したりといった日常生活には、特に支障はありませんでした。日曜日の朝の乗馬にも、いつもの通り行く予定でいました。その晩はサロンパスなどを貼って寝ました。
ところが日曜日の朝起きてみると、左足の患部が赤く腫れあがり、床に足をつけると痛くて歩けません。右足でびっこを引きながら歩く状態になりました。乗馬どころ騒ぎではありません。ただでさえぎゅっと締まっている乗馬用のブーツなど、履けるわけがありません。あわててクラブに電話をして、その日の乗馬をキャンセルしました。
赤く腫れた親指の関節を見ながら、これがかの有名な痛風というものではないのかという疑念が、黒雲のように湧き起こってきました。

月曜の朝、痛いのをがまんして靴を履き、車で会社に行きました。そして行きつけのジェルボー先生に電話をしてアポを取り、びっこを引きながら診てもらいに行きました。幸い先生の診療所は会社から歩いて5分足らずの所にあります。
ジェルボー先生は、わたしの足を見ると即座に、“これは疑いもなく痛風です”との診断をくだしました。そしてインターンで先生の所にいた若い女医さんの卵に、“ほら、見てごらんなさい。これが痛風の症例だから”と、勉強の機会を与えてました。

先生が書いてくれた治療薬の処方箋を手に、またまたびっこを引きながら薬局まで行きました。先生の所から薬局までと、薬局から会社へ戻る区間はちょっと距離があったので、びっこを引いても靴が患部に触り、これは辛かったです。
会社では家から持ってきたサンダルを履いて過ごしました。サンダルを履いても、患部のある足の先を床につけると痛いので、かかとをつけて歩くようにしてました。
ジェルボー先生が処方してくれた薬は、患部の炎症を抑える薬と、痛み止めの薬、それに痛風そのものを治療する薬でした。
まず、痛みと炎症を抑え、その後痛風治療薬を飲むようにと言われました。言われた通りに薬を飲むと、3日で痛みが消え腫れもひきました。4日めにはジムに行って、何ごとなかったかのように運動をしてきました。

痛風歴10数年のつわものの先輩に云わせますと、わたし発作など軽すぎて話しにならないそうです。“本物の痛風”発作が起きたら、夜も眠れないほどの激痛に襲われ、治るのに1週間や10日はかかるのだそうです。わたしの場合、夜は問題なく眠れましたし、3日で治ってしまいましたから、痛風を語る資格などないのかもしれません。
痛風という名前が示すように、痛風の発作に襲われると、患部に風が当たっただけでも痛いと云われてます。ちなみに、仏語では痛風のことを”La goutte”といいます。この言葉はもともと水滴という意味ですから、水滴が当たっても痛いところから、病名に転化したのでしょうか。

人は、なぜ痛風になるのでしょうか。付け焼刃で調べた結果は、次のようなものです。人間の体内では尿酸という物質が常に作られ、血液中に存在します。通常、尿酸は尿や汗と一緒に体外に排せつされます。
この尿酸の排せつのバランスがくずれて血液中の尿酸値が高くなり、この状態を放っておくと、痛風になる可能性が高まります。尿酸の結晶が身体の関節部分に蓄積して炎症を起こし、激痛をともなう痛風の発作になるのです。ですから、健康診断などで血液中の尿酸値検査をしてもらい、数値が高ければ尿酸を体外に排除する薬などを飲んで、尿酸値を下げる必要があります。
面白いのは、尿酸値の高い人が必ずしも痛風になるとは限らないことです。また、女性は尿酸の排せつ機能が男性よりはるかに高いので、女性の痛風持ちはまずいません。

尿酸は体内でプリン体と呼ばれる物質が分解されて出来るものです。プリン体は体内で自然に作られる物質ですが、わたし達が日常摂取する食べ物や飲み物にも含まれています。プリン体は全ての食べ物に含まれていますが、不思議と美味しいものに沢山含まれています。かつお節や煮干、干し椎茸など、日本料理のダシや旨みの源は、同時にプリン体の宝庫なのです。
魚の鯵など、生でたたきにして食べるぶんにはいいのに、これを干物にするとプリン体がぐんと増えるのは困ったものです。動物の内臓、特にレバー、魚卵などはプリン体豊富な食べ物です。

ですから、フォアグラ、キャビア、オマールなど、西欧のご馳走にもプリン体が沢山含まれています。痛風が贅沢病などと呼ばれる理由は、この辺にあるのかもしれません。
余談ですが、ベルギー人はフォアグラが大好きみたいです。1980年代にベルギー人一人当りのフォアグラ消費量は50グラムでした。それが今では一人当り250グラムを消費するようになってます。そのために、毎年20万羽の鵞鳥(本当はアヒルと鵞鳥の交配種)が処理されています。鵞鳥の恨みで痛風が増えているかも知れませんね。

お酒類にもプリン体が含まれています。
一番プリン体を多く含んでいるアルコール飲料はビールです。それも、ラガービールより修道院ビ―ルや地ビールの類に多く含まれています。ビールの国、ベルギーに住んでいる身としてこれは辛いところです。幸いにも、ワインのプリン体含有率は低いので救われてます。痛風持ちの理想のアルコール飲料は何でしょうか。それは、焼酎です。焼酎のプリン体含有率はゼロです。

痛風持ちには酒飲みが多いことは事実です。痛風持ちの94%は呑ん衛だそうです。多めの飲酒を繰り返していると、痛風発作がおきやすいみたいです。ビールの消費量の増加と共に痛風患者の数が増えているそうですから、ビールに含まれているプリン体を侮ってはいけません。でも、ビールを毎日しこたま飲んでいる人が全員痛風になるかというと、そうでもないのです。本当に分かりません。
明治以前の日本には痛風はありませんでした。痛風は西欧の人々の病いでした。明治以降、西欧の飲食物が入ってくるようになってから、日本人にも痛風患者がでるようになったのです。

ローマ時代の貴族が痛風に苦しんだ記録が残っています。歴史上の有名人の中にも痛風持ちがいます。マケドニアのアレクサンダー大王やフランスのルイ十四世がそうです。
痛風が一方では帝王病などと呼ばれるのは、この辺からきているうのでしょうか。
小国マケドニアから出たアレクサンダー大王は、大国ペルシャを滅ぼし、エジプトやインドにまで覇権を伸ばす強大な帝国を築きました。マケドニア軍の強さの秘密は、優れた騎馬隊だったと云われてます。アレクサンダー大王は、いつも騎馬隊の先頭にたって敵軍に切り込んでいったそうです。でもその時、大王が痛風の発作に見舞われていたら、馬を駆って敵陣に切り込むことができたかどうか、歴史の謎ですね。
また余談です。
ある時、アレクサンダー大王がギリシャの奇人にして賢人のディオゲネスに出会いました。大王は賢人にむかって“その方に望みの物をとらせるから申してみよ”と云いました。するとディオゲネスは“そうかい。じゃあ頼むが、あんたがそこに立っていると日陰になるからどいてくれないか”と答えたそうです。

ルイ十四世は有名な美食家でしたから、痛風持ちになったのは分かるような気がします。歴史上の有名人の痛風持ちはまだまだいます。宗教改革のマルチンルター、ミケランジェロ、ダビンチ、ニュートン、ダーウィン、ゲーテやダンテなど、錚々たる顔ぶれです。自分が痛風持ちであることが、なにやら誇らしい気持ちにさえなってきます。
意外なのは、ルターです。彼は宗教改革の狼煙を上げる前には、アウグスチヌス隠修士会の修道士として、人一倍厳しい禁欲の規律を自らに課していたそうです。ルターが修道院でプリン体たっぷりのご馳走を食べ、ビールをがぶ飲みしていたとは思えません。それでも痛風になるのですから、この世界は奥が深いですね。

ミケランジェロが、ローマのサンピエトロ寺院シクスチナ礼拝堂で、天井画“最後の審判”の制作に取り組んでいた時、もし痛風の発作がおきたら、高く組まれた足場の昇り降りだけでも大変だったろうと同情してしまいます。
一方、ダヴィンチ作の“モナリザ”の微笑は、謎の微笑といわれてますが、見ようによっては、“ダヴィンチさん、痛風がおきて大変ね。夕べは眠れましたか”と云ってるような、暖かいいたわりの微笑みに見えませんか。

ニュートンは、庭のリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力という普遍的法則の存在に気がついたと云われてます。その時彼は、痛風の発作で足が痛かったのかも知れません。足の痛い部分にリンゴが当って、“おお痛い”と思った瞬間に、万有引力の存在に気がついたなんて考えるのはおかしいですか。
ダンテはフィレンツェのアルノ河畔で出会った永遠の女性、ベアトリ―チェのお蔭で、痛風の痛みをしばし忘れることができたでしょうか。
ゲーテの書いた「若きヴェルテルの悩み」は、本当は「若き痛風の悩み」だったりして。世紀の大文豪に対して、ちょっと不謹慎ですかね、これは。
いずれにしても、痛風という病いを通して歴史上の偉人たちを見ると、彼らがなんとなく身近な存在に思えてきます。共に同じ病いで苦労した連帯感のようなを感じます。

さる会合で、わたしは日系企業の方々お二人と、一杯飲む機会がありました。日本めし屋に集まったわれわれ三人は、奇しくも同じ病い、痛風持ちでした。従って飲んでいたのは勿論焼酎です。談論風発の話題の中で、痛風の話題も大いに語られました。
その場でわたしは、冗談半分に“ベルギー痛風友の会”を立ち上げたらどうか、という提案をしました。すると、わたしの提案は即、満場一致で可決されたのです。そして直ちに会長選出が行われ、飲み仲間の一人、現法社長のYさんが、これまた満場一致で“ベルギー痛風友の会”初代会長に選ばれました。なにしろ、出席者が三人しかいませんので、全て満場一致なのです。
Y初代会長の痛風歴は10数年に及び、これまで対痛風戦を、薬ではなく焼酎とおでんを武器に戦い抜いてきた歴戦のつわものです。おでんの具になる練り物にはプリン体が少ないのだそうです。Y会長は、最初の発作から5年後に二度めの発作に見舞われ、その時は痛風が膝にきてしまい、駐在していた東南アジア某国で車椅子に乗って会社へ行ってたという豪の者です。
“ベルギー痛風友の会“初代メンバーのひとりは、同じく飲み仲間で現法社長のTさんです。Tさんもわたしと同じく最近初めて発作を経験した新人です。三人に共通しているのは、お酒が好きという点でしょうか。

わが友の会の標語は、“同病相楽しむ”です。われわれは、“同病相憐れむ“などというネガティブな思考は持ちません。病気や身体の不調は誰でも嫌なものです。ともすれば落ち込むこともあります。しかし、そういう状態になったことを嘆いていても、人生になんのプラスにもなりません。
痛風と上手に付き合い、二度め、三度めの発作を避けるための情報交換をしたり、痛風を酒の肴にして笑い飛ばすような、ポジティブ思考で毎日を楽しく過ごしたいのです。
痛風持ちの皆さん、わが“ベルギー痛風友の会”(事務局:kanto@japanpitravel.com)
にふるってご参加ください。月に一度の例会も計画しています。焼酎片手に大いに語り合おうではありませんか。

 本年も「新ベルギー物語」をご愛読頂き、ありがとうございました。皆さん、よいお年をお迎えください。