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No.166.回天の年、1492年

No.166.回天の年、1492年



明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。

世の中の動きに少し曙光がみられる感じをもってますが、皆さんはどんな感じで新年を迎えられましたか。まだまだトンネルは続くという方もいらっしゃるでしょう。
でも、新しい年に希望をもちたいですね。希望の根っこは小さなものでもいいのです。どんなに小さくても、人は希望がある限り生きていくことができます。困難に立ち向かう力をもつことができます。
実存主義哲学の祖といわれるデンマークの哲学者、キルケゴ―ルは「死にいたる病い」という著書の中で書いてます。“死にいたる病いとは、絶望することである”と。

年が代わる時、なぜか念頭に浮かぶのが1492年という年です。
皆さんは世界史の勉強で、コロンブスの新大陸発見の年、1492年を“ヒトヨアケレバクニガミエ” などといって暗記しませんでしたか。年代を文章や言葉に置き換えることのできる日本語は、実に素晴らしい言語だと思ってます。
「新大陸発見」というのは、“発見された”先住民にとって、非常に迷惑な話しであったことは云うまでもありません。
しかし、この年におきた二つの大きな出来事が、以後の世界の歴史に重大な影響を与えることになったのは間違いありません。二つの大きな出来事の一つが、コロンブスの新大陸発見でした。

話しはそれますが、コロンブスの新大陸発見より70年近くまえに、アメリカまで到達していた中国明代の大航海家がいたという話しを読みました。
皆さんもご存知と思いますが、明の永楽帝に重用され、大艦隊を率いて度々大航海を行った鄭和という艦隊司令官です。
鄭和は雲南地方の回教徒の家に生まれましたが、12才の時攻め込んできた明軍に捕えられ、宦官にされてしまいました。しかしその卓越した能力を永楽帝に見出され、永楽帝の南進政策の先駆けとして、計7回に及ぶ大航海を指揮しました。
鄭和は東南アジアはもとより、インド、アフリカにまで遠征しています。鄭和はアラビア海域を航海した時、回教徒としてメッカへの巡礼を切望しましたが、果たせませんでした。

明朝艦隊の船は500トン級の巨船で、これを70隻から100隻もひきいて遠洋航海に出ていたといいますから、15世紀の中国の造船技術や航海術はヨーロッパ のそれをはるかに陵駕していたといっていいでしょう。
喜望峰を回ってインド航路を開いたヴァスコダガマの艦隊の船はせいぜい120トン程度しかなかったそうですから、鄭和艦隊の巨大さが想像できます。
これだけの巨船と大艦隊をもってすれば、ヴァスコダガマより先に喜望峰をまわって(反対回りですが)大西洋に出てこれを北上し、カリブ海を経てアメリカに到達した可能性はゼロではないのだそうです。特に1421年2月に出発した第六次遠征艦隊は、カリフォルニア沖まで航海したという説もあります。しかし、これらの説は歴史的に実証されてはいません。

でも、想像するとおもしろいですね。
もし、鄭和の艦隊が新大陸を発見して、明朝政府がアメリカの植民地経営に乗り出していたら、世界の歴史はどうなっていたでしょうか。
植民地の中国人は独立を求めて本国政府と戦ったでしょうか。奴隷解放に力を尽くす大統領は出たでしょうか。先住民のインディアンをどのように扱ったでしょうか。中国語が世界語になったでしょうか。

さて、コロンブスがバハマ諸島のサンサルバドル島に到着した1492年を契機として、いわゆる大航海時代が始まります。海洋大国のポルトガルとスペインが植民地獲得競争に邁進します。そして、スペインが西インド諸島に労働力として初めて黒人を“輸入“し、奴隷として働かせ始めたのが1501年ですから、コロンブスのサンサルバドル到着から10年もかかっていません。
アフリカの村々で平和に暮らしていた人々が、奴隷狩りによって異国に連れてこられ、過酷な労働に追い立てられていきます。この奴隷狩りや、奴隷の輸出にスペイン人やポルトガル人は直接手を染めた例は多くありません。奴隷貿易で主要な役割を果たしたのは、アラブの奴隷商人でした。

南米に高度なインカ文明を築いた先住民のインディオの人たちも、スペインの征服者によって悲惨な運命に突き落とされます。信じられないことですが、スペインではインディオが魂をもった人間、つまりキリストの贖罪による救いの対象として認めるかどうかという議論が、教会の聖職者を中心に真面目に行われたのです。
南米で活動していたスペイン人の宣教師の中に、インディオの人たちの悲惨な境遇を改善しようと、献身的な努力をしていた聖ドミニコ修道会の神父さんがいました。名前は忘れましたが、この神父さんは、インディオも魂を持った人間であることを、本国の教会や国王の政府に認めさせるため、数人のインディオを連れてスペインに戻りました。

司教だか大司教を審判長とした審判の場で、神父さんは熱弁をふるってインディオの弁護に努めました。しかし、陪席の聖職者や役人は神父さんの弁論になかなか納得した様子を見せません。理由は、インディオたちの表情には感情というものが見られない、
われわれの言葉を解する理性の痕跡が認められない、等々でした。
幸せに暮らしていた土地を奪われ、収奪の対象としての奴隷と変わらない身分に落とされ、征服者の国に連れてこられたインディオの人たちが、どんな表情をして権力の代弁者に向えばいいのでしょうか。自分たちを過酷な運命に陥れた征服者の言葉に、どうやって興味をもてというのですか。

審議の途中で、審判長の高位聖職者が一段高くなっている席から立ち上がり、床に下りようとしました。その時、彼は着ていた緋の衣の裾を踏んづけ、椅子から転げ落ちそうになりました。これを見たインディオの数人が、お偉いさんの格好があんまり滑稽だったとみえて、思わずくすりと笑いました。
弁護士の神父さんはこの機を逃さず、“皆さん、ご覧なったでしょう。彼らは笑ったではありませんか。笑うことは、神が人間の魂に与えた働きの一つです。動物にはこれがありません。彼らはまさしく人間なのです”
 こうしてインディオの人たちが、人間であることが認められたのです。嘘みたいな話しですが、これは史実です。

1492年は、現在のアメリカや中南米の歴史の始まりを告げた年であり、スペインやポルトガルそしてヨーロッパの歴史にも大きなインパクトを与えた年です。
この年は、アメリカや中南米諸国の歴史、文化、政治経済の濫觴の年といっても過言ではないでしょう。オバマ大統領夫人、ミッシェルさんのルーツも1492年を無視しては、成り立たないのです。

1492年に起きたもう一つの大きな出来事は何でしょうか。
それは、700年に及んだ回教徒によるイベリア半島支配の終焉でした。キリスト教軍による国土回復運動“レコンキスタ”が完成し、西欧のキリスト教社会の国土の一体性が回復した年です。
1492年1月6日、イベリア半島における最後のイスラム王朝、ナスル朝が、2年間に及ぶカスティーリャ王国軍のグラナダ包囲戦に敗れ、北アフリカに落ちていきました。グラナダはキリスト教徒の手に戻り、約700年に及ぶイスラム教徒のスペイン支配は終わりを告げました。

ひとくちに700年と云いますが、どれだけ長い期間であったか、日本の歴史に当てはめてみれば理解がしやすいと思います。
2010年の現代から逆算すれば、700年前は鎌倉時代になります。イスラム教徒が初めてイベリア半島に侵攻したのが718年ですから、日本では奈良時代です。それから1492年までの支配ということは、奈良時代から室町時代も後半の応仁の乱の頃まで、イベリア半島はイスラム圏だったわけです。

わが祖国日本が、700年もの間、異民族の支配下にあったとしたら、どうなっていたでしょうか。繊細で優美な日本文化や、今や世界中に広まりつつあるお寿司や日本料理が発達したでしょうか。天皇制は残ったでしょうか。日本語はどうなったでしょうか。世界に冠たる日本のハイテクは生まれたでしょうか。
日本の歴史で、唯一異民族支配の可能性があったのは鎌倉時代の元寇でしょう。台風のお蔭で元軍が敗退したことになってますが、例え元軍が九州の一部を占拠したとしても、日本を長期間支配することは不可能だった筈です。
当時の日本全土には、よく訓練された武士団がいました。それに元から日本までの補給路が長過ぎます。ジブラルタルを一跨ぎすれば、イベリア半島に侵攻できたイスラム軍とは根本的に条件が違います。

イベリア半島全域が700年間、イスラム教徒の鉄壁の支配下にあったわけではありません。紀元900年代から、北部のアストゥリアス王国、カスティーリャ王国などが徐々にイスラム軍を南に押し返し、キリスト教徒の勢力圏を拡大していきます。イベリア半島を支配したイスラム教徒は、医学、天文学、数学、化学などの学問を高度に発展させたばかりでなく、他宗教に対して非常に寛容でした。キリスト教徒やユダヤ教徒に対して、イスラムへの改宗を強制しませんでした。税金さえ払えば、それぞれの宗教を守ることを認めました。このようなイスラム教徒の寛容さが、イベリア半島の長期支配を可能にしたではないでしょうか。

さて、回天の年、1492年ごろ、わたしたちが住んでいるこのベルギーの辺りは、どうだったのでしょうか。
当時、現在のベルギ-、オランダ、ルクセンブルグなどの地域は、フランスのディジョンに宮廷のあったブルゴ-ニュ公領でした。ゲント、ブル-ジュなどの都市は、フランドルの羅紗産業や通商都市として繁栄し、歴代のブルゴ-ニュ公はディジョンよりもブル-ジュに滞在するのを好んだほどです。  
ブルゴーニュ公領最後の後継者、マリ-ドブルゴ-ニュがブル-ジュ郊外のアートレイク城で落馬して亡くなり、公領はマリ-の夫でハプスブルグ家出身のマクシミリアンが相続します。こうして、現在のベルギ-、オランダなどの低地国家はハプスグルグの支配下に入ります。
余談ですが、マリ-ドブルゴ-ニュが落馬して亡くなったアートレイク城は、その後、ベルギ-の貴族、ドマ-ル家の所有に帰します。そしてこのドマ-ル家のお嬢さんが、聖心女子修道会のシスタ-として日本へ派遣され、東京の聖心女子大で教えたのが、当時の正田美智子さんでした。この話しは前にも書きました。

1492年から8年後の1500年に、ベルギ-のゲントで後世に名を残す偉大な人物が生まれました。神聖ロ-マ皇帝カ-ル五世にしてスペイン王カルロス一世となる人物です。カ-ル五世は、ヨ-ロッパから新大陸まで、“太陽の沈むことなき帝国”を統治した優れた君主でした。彼はゲント生まれですが、育ったのはアントワ-プの手前のメへレンでした。メへレンには、彼の叔母にあたるハプスブルグ家のマルグリットがネ-デルランド総督とし君臨していました。マルグリットはカ-ルの帝王学教育にことのほか熱心だったと云われてます。カ-ル少年は16歳にして、スペイン王カルロス一世としてブリュッセルのカテドラルで即位式を挙げました。

歴史上の偉大な人物 が、わたしたちが住んでいるこの同じ場所で暮らしていたなんて、歴史が身近に感じられませんか。しかも、カール五世は痛風持ちでした。ある時、皇帝はブルッセル郊外のOverijseで痛風の発作に見舞われ、痛みがひどくて歩行困難になり、Overijse村に一泊せざるを得なかったそうです。
ところで、神聖ロ-マ皇帝カ-ル五世を、先月発足したばかりの「ベルギ-痛風友の会」の歴史上の名誉会長に戴くなんて、どうでしょうか。われわれ会員を見る世間さまの目も、少しは違ってくるような氣がしますが。                      

No.167.料理、新しい宗教

167.料理、新しい宗教



テレビの料理番組が盛んですね。
料理番組は日本のテレビだけではなくて、こちらのテレビでも盛んです。ベルギーはケ―ブルテレビシステムなので、ヨーロッパ各国のテレビがみられますが、どこのテレビ局でも必ずといっていいほど、料理番組をやってます。

大体は、シェフや料理の専門家がスタジオでゲストや美人アナ(イタリアのRAIのアナはすごい美人)或いは担当アナを相手に料理を作って見せるものです。正直云って、どれもこれも似たような内容で、余り面白くはありません。
それと、出来上がった料理の試食場面を見るのが嫌いです。どうせ“美味しい”と云うに決まってます。あの場面で、まさか“不味い”とは云えないでしょう。例え、本当に不味くても云えないのです。見ていて気恥ずかしくなります。
以前に、日本の料理番組で試食させられるタレントが、一様に“美味しい”と云うことを批判して、他に云いようがないのかと文句を云ってた評論家の先生がいましたが、
そりゃあ無理な注文というものです。じゃあ評論家先生はなんと云うつもりですか。
“まったりした味“とか”ほっこり感がいい“とか、わけのわからない形容詞をつけて試食の感想を云うタレントもいますが、”美味しい“とか、”旨いっ“のひとことには敵いません。

わたしの好きなテレビの料理番組は、ARTEというドイツとフランスが共同でやっているテレビ局の番組です。この番組にはシェフや料理の専門家は出てきません。スタジオも試食場面もありません。内容は、ヨーロッパの各国の地元料理の紹介です。
その土地でとれる食材を料理して、家族や隣り近所のひとたちと、賑やかに食べる場面はみていて楽しいです。海辺の町ですと、漁から帰って来たお父さんや息子さんが、獲って来た魚介類をお母さんに渡す場面から始まったりします。
わざとらしさもなく、無理に美味しいと言わされる場面もなく、お母さんやお祖母さんが一生懸命つくった伝統料理を、和気藹々と食べる様子は、見ていて気持ちがいいです。しかも、その料理は実に美味しそうです。

いろいろな地方の料理を見ましたが、一つ印象に残っている料理があります。
それは、国の名前は忘れましたが、ある地方の女子修道院でつくられている伝統料理です。まず二人のシスターが、修道院の近くを流れている河に小船を浮かべ、川魚を獲る場面から始まります。網を仕掛けると結構大型の魚が獲れます。大型の川魚といっても、鯉ではありません。これでもわたしは田舎育ちですから、鯉とほかの川魚の区別ぐらいは出来ます。
獲ってきた魚の頭を落とした後、魚の皮だけ残して中きれいにくりぬきます。これはなかなか難しい仕事です。皮を傷つけずに、魚の骨と身を取り出すのは簡単ではありません。でも、シスターたちはこれを上手にやり遂げます。
取り出した魚肉から丹念に骨を取り除き、これに玉ねぎやエシャロット、人参、胡桃、それからその地方独特のハ―ブ、塩、胡椒などを加えてたたきます。たたいた魚肉を
魚の皮の袋に詰めて口を閉じます。
 オーブンでじっくりと焼いた魚に、シスターが別途用意したソースをかけて食卓に供します。実に旨そうで、本当に食べてみたかったです。

最近、ベルギーの雑誌で、「料理、新しい宗教」という記事をよみました。
記事によれば、ベルギーでは料理に興味をもつ人、料理を趣味とする人、或いは料理に情熱を燃やす人が、男女を問わず増えており、この傾向は子供の世界にまで及んでいるそうです。
これまで、お腹がすいたでしょうがなしに何かを作って食べるか、冷凍食品をチンして食べていた人、料理は面倒くさくて出来ればやりたくないと思っていた人等々が、料理教に転向する傾向が顕著なのだそうです。

ブリュッセルのステファニー広場からシャルルロワ通りに入ったところに、“Mmmmh”というちょっと変わった名前の料理学校があります。学校の名前は、言葉に表現できないほど美味しいものをたべて、思わず“むう....“と唸ったところからきているのかもしれません。
この学校は今話題になっており、評判がいいみたいです。時間があったら、習いに行きたいと思ってます。
 授業内容は料理の基本から始まり、季節ごとの料理、各国の料理、お菓子造り、ワイン講座など多岐に渡ってます。また、時々有名シェフの特別授業もあります。

 昨年の学期末に、イタリア語のクラスで、お世話になった先生に生徒一同からプレゼントをすることになりました。いろいろな案がでましたが、結局プレゼントに選ばれたのは、料理学校“Mmmmh”のイタリア料理受講券でした。カレン先生はこのプレゼントをとても喜んでくれました。後日、受講結果をクラスで話してくれましたが、とても楽しい授業で、イタリア料理の基本が大分わかったそうです。

昔は、料理学校といえば料理人を養成するための職業学校しかありませんでした。こちらのお嬢さんは、花嫁修業なるものをしませんので、結婚前に料理学校に通って料理を覚える習慣がないのです。強いて云えば、お母さんの料理を見よう見る真似で覚えるのが、花嫁修業というべきでしょうか。
しかし今や、“Mmmmh”のような素人向けの料理学校がベルギー全土で数10校も開かれていると云いますから、時代は変わったものです。
今や、料理を学ぶことが、ダンスやギタ―を習うこと、あるいはヨガ教室に行ったりジムに通うことと同じ感覚で受け入れられるようになったのです。
この傾向は子供達の世界にも伝播し、料理が子供達の習い事、ピアノやヴァイオリンやバレ-などと同じ項目に入りつつあるようです。
料理学校が、子供達の授業がない水曜日の午後に、子供向け料理講座を開いて結構繁盛しているのはこの傾向を物語っています。

料理だけではありません。ワイン講座も盛況です。
ブリュッセルの調理師専門学校が一般市民向けに開いている夜間のワイン講座など、早く申し込まないとすぐ一杯になります。
わが家の長女は一年間この講座に通いました。その結果、ワインに対する知識、舌の確かさなどの面で、わたしは娘に追い越されてしまいました。
週一回3時間の夜学といえど、専門家についてきちんと勉強すると、こんなにも違うものかと驚きました。まあ、呑み助の父親の血をひいているので、多少の素質はあったのでしょう。
不肖この父親も、若いころ、ワインの道を究めようなどという不遜な思いにとらわれた時期があります。数知れないワインを飲み、本を読み、有名無名のシャト-巡りもしました。それで得た答えは「わからない」でした。「美味しく飲めたら、それが一番」という悟りの心境でした。ただ、ワインの知識や舌の点で、娘には負けないという自負はあったのですが….。

食べる喜び、食卓やテ-ブルの幸せは、万人に共通する喜びではないでしょうか。この喜びは人生の喜びであり、生きることの喜びでもあります。
氣のおけない仲間、胸襟を開いて話せる友人、あるいは自分の一番大事な人と、食卓を分かち合える幸せは、何ものにも代えがたい人生の宝といっていいでしょう。
ただ、この幸せも度が過ぎると顰蹙をかうことがあります。そういう話しが、当地の大衆紙に出てました。
主人公は有名なロシアの大富豪、アブラモヴィッチさんです。アブラモヴィッチさんといえば、イギリスの名門サッカークラブ、「チェルシ-」のオ-ナ-としても有名です。
彼は、世界最大で、これ以上の豪華ヨットはないといわれるヨットを2隻所有しています。

或る日、アブさんはニューヨークの高級イタリアレストランで、新しいフィアンセと前の結婚の時の息子、それに友人3人とで夕食をとりました。
約1時間30分のディナ-の後、お勘定をということになり、レストランのオ-ナ-がいそいそと持ってきたお勘定の合計が、なんと47,221ドル(33,000Euro強)でした。
新聞記者がどうやって入手したのか分かりませんが、新聞には勘定の明細が出ていました。高級レストランなので、各料理のお値段は安くはありません。
海の幸スパゲッティが39ドル、ミラノ風子牛のカツレツが55ドル、トリュッフのカルパチオが200ドル等々です。

料理の値段はまあまあとして、問題はアブさん一行が飲んだワインの値段です。
一行は、1本5,000ドルのRomanée Contiを3本、これも1本5,000ドルのChateau Petrusを2本、それから有名なシャンペンCristal Rose Magnum、1本5,000ドルを2本飲んでます。これだけで35,000ドルです。しかも若いフィアンセは1本12ドルの水しか飲んでません。4人でよくまあ飲めたものですね。
シャンペンは別にしても、上記のワインは一般ルートではなかなか手に入らないワインです。幻の銘酒とさえいわれてるワインです。
こういう飲み方をして、ワインの真価がわかるものでしょうか。1本2~3ユーロのテ-ブルワインをがぶ飲みしてるのと、大差がないような氣がします。ワインに対して失礼ではないかと思ってしまいます。
高級すぎて手がでない、飲みたくても飲めないお前のやっかみと云われればそれまででですが、食材もワインも太陽の恵み、大地の恵みです。沢山の人の手がかかってます。
別れた二度目の奥さんに、3億5千万ユーロの慰謝料を払って平然としているアブさんですから、5,000ドルのワインなど50ユーロ程度の感覚しかないのかもしれませんね。

さて、これまで料理を食べることにしか興味を示さなった人が、料理を作ることに関心を持ち、これを生活の中に取り入れようとする傾向は、マイホ-ムの建築様式に顕著に現れているそうです。
今や、キッチンが家のなかで最も大切な場所として見られるようになっています。最近のベルギーの新築の家のほとんどが、サロンとキッチンがひとつになっているオープンキッチンスタイルになっているそうです。
これは、ある意味でヨ-ロッパ中世の農民や庶民の家の構造に回帰しつつあると云ってもいいかもしれません。中世の農民や庶民の家では、居間の暖炉に鍋がかけられ、具のたくさん入ったス-プがことことと煮られていました。家族は居間に集まり、鍋から取り分けたスープにパンをひたして食べるのが通常の夕食でした。

ちなみに、仏語で新居のお披露目パーティーをすることを、“Pendre la crémaillère ”といいます。これは“自在鉤をつるす”という意味です。自在鉤は暖炉につるして鍋をかける道具ですから、この言い回しは、中世以来のヨーロッパの家屋の伝統からきているのでしょう。

料理が人々の心をとらえるのは、料理にそれだけの魅力があるからです。料理を作る行為は、画家や彫刻家といった芸術家の行為、あるいはオ-ケストラの指揮者の行為に似ていると思います。
料理をするということは、素材の選択、吟味、組み合わせ、調理法、味付け、煮る、焼く、揚げる、蒸す、出来上がった料理の盛り付け、食べておいしい料理の適温等々、実に多彩な要素を総合的に判断しなければなりません。一流の料理人が芸術家に例えられるのは、しごく最もなことです。

ところでお父さん、最近の傾向として、「料理上手な男が女性にもてる」といわれてますが、どう思いますか。
あるもて男の告白によれば、自宅に招待して手料理をご馳走した場合、初めての招待で75%の成功率、2度目の招待ではなんと95%の成功率を誇っているそうです。
もっとも、女性が男性の招待を受けて彼の家やアパ-トに行くことを承諾した段階で、60%は成功しているんじゃないでしょうか。これに美味しい手料理が加われば、成功率はぐっと上がることは間違いなしです。
だめですよ、お父さん。急に料理を習いたいなんていっても。魂胆が見え見えです。

No.168  ベルギ-の税金物語

168.ベルギーの税金物語



“皆さん、税金は好きですか”なんて聞くと、 “なにをバカな質問を”と答えるのが普通でしょう。世の中に、“税金を払うのが楽しくて、楽しくて“なんていう人がいるとは思えません。税金に夢をもつとしたら、それはある日この世から税金なるものが消えて無くなる夢ぐらいでしょう。

わたし達が税金を払うのは、自分達が恩恵を受けている国の行政の運営に、税金が絶対に必要だからです。でも、“そんなことはわかっているけど、できれば払いたくない”、ですよね。税金に対して、“持っていかれる”という印象がぬぐいきれないのは、一般的感覚ではないでしょうか。

ベルギ-の春は税金の春なのです。長く暗い冬が終わり、新緑と花々が人々の心を楽しませてくれる季節になると、税務署からあの分厚い茶封筒、税金の申告書が郵送されてきます。自分の会社の会計士に申告書を渡して書き込みを頼める人はいいですが、そういうことができない一般市民は、申告書を目に前にして悪戦苦闘することになります。

ところでこの税金なるものが、人類の歴史に姿を現すのはいつごろなのでしょうか。

歴史家にいわせると、税金は人類が文明に目覚めた時期に姿を現してきたのだそうです。「文明と税金」、この意外な取り合わせの謎解きをしてみましょう。

古代社会において、部族間あるいは集落同士の戦い、闘争は、それぞれが生き延びるための手段として不可欠なものでした。それは、食料の略奪、生産手段である土地や狩猟場の獲得、子孫存続のための女性の獲得など、さまざまな理由から人々は闘争に明け暮れていました。やがて、闘争の過程で戦いに長け、統率力があり、武器や食料の保有力に優る者が近隣
の部族や集落を切り従え、一種の国家的単囲の権力構造を造りあげるようになります。

小国家群の間でも戦いは不可欠でした。勝者は敗者の食料、財宝、武器、女性などを根こそぎ略奪し、男子は後顧の憂いを残さないよう皆殺しに、征服地のすべてを焼き払うのが普通でした。

しかしこの「一回限りの収穫」を、長続きのする収穫にかえる方法を考える権力者が現れます。征服した国の住民に生きるための最低限の生産手段を残し、農耕に従事させ、武器や道具や衣類をつくらせ、必要に応じて夫役を課して土木工事を行わせるなどの方が、長期的にみてはるかに大きな収穫を得ることに気づいてきたのです。

残酷な略奪や放火、皆殺しの代わりをつとめることになったのが、税金の起源というわけです。文明度の向上が税金を生み出したのです。

税金、フランス語ではTaxe(女性名詞)またはImpot(男性名詞)、英語ではTax、オランダ語ではBelasting(女性名詞)、イタリア語ではTassa(女性名詞)またはImposta(女性名詞)、ドイツ語ではAbgabe(女性名詞)またはSteuer(女性名詞)と、聞きかじりの言葉を並べてみましたが、語源はどこからきたのでしょうか。

不勉強でゲルマン系の言葉の語源は分かりませんが、ラテン系のTaxeの語源はラテン語の動詞Taxareからきているそうです。意味は、度々叩く、度々触る、攻撃する、叱りつけるなど、税金と同じく楽しそうではありません。

その道の専門家によれば、Taxareという言葉はロ-マ人が日常会話で使っていた擬音語Taxからきているらしいです。これは,ムチ打ちのときに出る音だそうです。ムチをつくる材料にもよるでしょうが、ロ-マ人にはムチ打ちの音が“タッ”とか“タス”と聞こえたのでしょうか。鞭という文字が示すように、こちらのムチは革製なのでこんな音がするのかも知れません。日本のムチは竹や篠竹製が多いので、擬音語は“ビシッ、ビシッ”ですよね。なんだか、日本のムチの方が痛そうに聞こえませんか。

税金の語源がムチ打ちの音からきているといわれると、なんとなくわかるような気がします。ベルギ-のような重税国に住んでいると、毎年、百叩きの刑をを受けている感じがしないでもありません。

ところで皆さん、世界で一番痛いムチを知っていますか。真偽のほどはわかりませんが、ラクダのペニスを乾燥させて作ったムチで打たれるのが、一番痛いそうです。これは、イスラム教徒の男性が他人の奥さんと不義密通をすると、この特性ムチによるムチ打ちの刑に処せられる由です。女性は石打ちの刑に処せられます。

この特性ムチの話は、モロッコに行った時、モロッコ人のおじさんに聞いた話です。ところが、ベルギ-にいる知り合いのモロッコ人何人かに、このムチの話し聞いてみましたが、だれも知りません。そんなのは昔の話で、現代のモロッコではありえないと、一笑に付されてしまいました。

わたしはモロッコには何度か行ってますが、行くたびに現地のガイドさんその他に、特性ムチがあったら見たいと頼むのですが、未だかつて見たことがありません。

またまた余談ですが、日本語は擬音語(Onomatopée)が非常に豊かな言葉です。言語学の分類では、オノマトぺの多い言葉は未開の民族の言葉に分類されるそうですが、日本語は例外とされてます。

日本語の擬音語は、“雨がシトシト”、“雨がザアザア“、”雨がポツリポツリ”とか、“歯がズキンズキン”、“お腹がシクシク”、“枯れ葉がヒラヒラ”、“風がヒュウヒュウ”“小川がサラサラ”“雪がシンシン“などなど、いくらでもあります。日本語の美しさの一つの要因は、擬音語にあると考えたら間違いでしょうか。

余談はさておき、税金の話しに戻りましょう。

皆さんは日本やベルギ-でどんな税金を払ってますか。日常生活で毎日のように払っているのが消費税、TVA、VAT(付加価値税)です。ベルギ-の消費税21%に比べると、日本の消費税5%は本当に安いですね。

でも、日本のような先進国で、間もなく中国に追い抜かれるとはいえ世界第2位の経済大国が、たった5%の消費税で長期的に国の財政の健全な運営ができるとは到底思えません。歴代の政権は選挙が怖くて消費税の値上げを言い出せないようですが、赤字国債の連発より国の身の丈に合った消費税率にする方が、日本の将来のために必要だと思うのですが。

ところで皆さん、ベルギ-のレストランのVATが2010年1月から12%に下がったのをご存知ですか。もっともこれは料理の部分だけで、飲み物のVATは依然として21%です。でも、料理のVAT12%になったのですから、単純計算でも料金が9%安くなってもいいわけです。しかし実際に値下げしたレストランは見当たりません。

これまでVAT値下げのロビ-活動をしてきたHORECA(ホテル、レストラン、カッフェの業界団体)は、消費税が12%になってやっと健全なレストラン経営が可能になったとの見方のようです。でも、ちょっとぐらい消費者に還元してくれてもいいとは思うのですが。

近年の税金の値上がりランクのトップはなんといっても空港税でしょう。格安チケットだと、航空券の値段より空港税の方が高い場合が珍しくありません。空港のテロ対策、安全対策に昔とは比べ物にならない経費がかかるようになり、これを空港使用者が負担するというのは理屈ではわかりますが、高いですね。

野蛮人が文明を解する段階に至って、初めて税金が生まれたと上記しましたが、 中国やエジプトなどの古代文明国の税金はどんなものがあったのでしょうか。

中国では、紀元前9世紀ごろにはかなり整備された税制がしかれていたようです。主な税は土地税、人頭税(14歳から55歳まで)、奴隷所有者や商人への税、船や車への税などでした。

エジプトにも土地税や人頭税がありましたが、エジプトの土地税は独特な発達を遂げました。エジプトの土地税は、他国のように土地の面積に応じて税率が決まるのではなく、土地の生産能力に応じて税率が計算されてました。何故なら、エジプトの土地の生産能力は毎年定期的に起こるナイル河の氾濫によって決まるからです。ナイル河の氾濫後に、土地の生産能力を査定する官僚機構は非常に優れたものであったそうです。エジプトの土地税は「ナイルメ-タ-」というナイル河の水位を測る計量器の数値を土台にして決められていました。

税金は時代の推移と共に、どんどん重くなる傾向は避けられないようです。古代国家やヨ-ロッパの中世の方が、現代社会より税金の総額は低かったのです。

ベルギ-のさる大学の先生の統計によれば、納税者の収入の50%は国の財政に入っているそうです。間接税である消費税、所得税などの直接税、及び社会保障、健康保険などの納税者負担分など入れると、収入の半分は国に収める計算になるそうです。

では、なぜ税金は重くなっていくのでしょうか。

それは近代にいたり、国家が国民の生活のあらゆる部分に関与するようになったからです。例えばヨーロッパにおいて、教育、医療、社会福祉などは、かって国の仕事ではありませんでした。これらは教会の仕事でした。教会は信者(かっては国民と同義語)から10分の1税を徴収する権利を認められていましたので、これらの財源をもとにして、教育、医療、社会福祉などの広範な事業を行ってきました。

ヨ-ロッパの有名な大学の起源は、殆どが教会や修道院の創設に負うといっても過言ではありません。ソロボンヌもオックスフォ-ドもボロー二アも、又ベルギ-のルーヴァンも全て教会が創設した大学です。

国が国民の生活に関与すればするほど、税金が重くなっていくのはやむを得ないことなのでしょう。昨今の世界的な規模の金融危機に際して、国が国民の税金を使って財政出動しなかったなら、結果は重大な形で国民の生活にのしかかってきたはずです。

でも、税金の無駄使いは困りますね。

日本では、新政権による税金の無駄使い撲滅作戦が国民の支持を集めているようですが、このベルギ-にも税金の無駄使いはちゃんと存在します。

前にベルギ-のテレビで、「Travaux  Inutiles(無駄な事業) 」という番組が人気を博していました。これは、途中で放棄されている道路工事、使わないのに建てられた政府関係の建物、設計のミスで入口と出口がなくて使われていない広大な政府関係建物の地下駐車上等々、税金の無駄使いを暴く番組でした。

その後、この番組を担当したレポーターは選挙に出て見事に当選し、今は国会議員になってます。政府の無駄使いに対する視聴者の怒りが、得票に結びついたのだしょうか。

ところで、わたし達が住んでいるベルギ-の税金のシステムはどのように動いているのでしょうか。下記の数字を日本と比べてみて下さい。

ベルギ-国民が所得税として払う金額は、平均すると収入の30%です。つまり、1年のうち4ヶ月は国のために働くわけです。年間所得が32,720ユ-ロ以上の人は50%の所得税がかかりますので、1年の半分は国のために働くことになります。

一方、年間所得が6,040ユーロに満たない人は、所得税が免除されます。所得がこの金額を越える人でも、扶養家族その他の控除がある場合、無税になります。ベルギ-の所得税免除の人の割合は、人口の4分の1にあたるそうですから結構な数です。

ベルギ-で、年間所得が50,000ユ-ロを越える人の割合は、人口の9.5%です。地方別に見ると、フランドル地区が10.5%、ワロン地区が8.2%、ブリュッセル地区が7.7%ですので、フラマンにお金持ちが多いことがわかります。

市町村別にみても、ベルギ-で最も豊かなコミュ-ンの上位3位までが、フランドル地区にあります。豊かさ1位のコミュ-ンの住民1人あたりの年収は、19,820ユ-ロです。

そして、最も貧しいコミュ-ンの上位3位までは、ブリュッセル地区のコミュ-ンです。貧しさが1位のコミュ-ンの住民一人当たりの年収は、7,079ユーロです。

ちなみに、在留邦人の方が多くすんでいるブリュッセル地区のコミューンは、この貧しいコミュ-ンのリストには入ってません。

EUのメンバ-国の中で、ベルギ-は重税国として有名です。

消費税が21%を越える国は北欧諸国だけです。消費税や所得税を合わせて国民が負担する税率のランクでは、ベルギ-はデンマーク、スエ-デンについで堂々3位につけてます。

高所得で有名なお隣のルクセンブルグなどは、税率ランキングでは9位ですからルクセンブルグの人は恵まれてますね。ルクセンブルグでガソリンを入れたことのある方はご存知でしょうが、ベルギ-に比べてガソリンが安いです。これはルクセンブルグのガソリン税が安いお陰です。面積が神奈川県ぐらいしかない小さな国、ルクセンブルグの豊かさと税金の安さは、本当にうらやましい限りです。

当地のある週刊誌で、“ベルギ-の国民的スポ-ツ、それは脱税”という記事を読みました。ブリュッセル自由大学のマウス先生によれば、ベルギ-の年間の脱税額は100億ユーロを越えるそうです。別の推計では200億ユーロを越すとも云われてます。でも、脱税額がどうしてわかるのでしょうか。わかってたら、税務署が黙っていないでしょうにね。

マウス先生がいうには、“ベルギ-人は税金を払うことがことのほか嫌い”なんだそうです。ま、税金を払うのがことのほか好きな国民が地球上にいるとは思いませんが、ベルギ-の人は特別に嫌いなようです。

小国ながらヨーロッパの地政学上重要な地位にあるベルギ-は、長い間外国の支配を受けてきました。ですからベルギ-の人には、税金を外国人の支配者による収奪とみる傾向があるのかも知れません。


税務署というと、なんとなく行きたくない場所の代表みたいですが、この国の税務署の職員の人達はなかなか親切、というのがわたしの印象です。こんなことをいってもいいのかと思うようなことまで、教えてくれます。

例えば、1年間に税務署の査察官が査察できる納税者の数は、納税者全体の0.18%に過ぎないそうです。企業の税務査察は、ベルギ-の企業全体の6.8%にとどまっているとのこと。つまり、専門職である査察官の数が圧倒的に不足しているのです。これでどうやって脱税者を摘発できるのかと、彼は嘆いていました。それに、ベルギ-の銀行は、納税者の預金内容などに関する政務当局の照会事項に答える義務がない由で、査察官の仕事は楽ではないのだそうです。

ま、お父さんもお母さんのヘソクリ査察などはやめた方がいいですよ。お母さんがそのヘソクリで、お父さんの好きなヘルメスのネクタイなどを、誕生日にプレゼントしてくれるかも知れないのですから。                  

No.169.ベルギ-の大司教人事

No.169.ベルギ-の大司教人事



 日本の4月は人事異動の季節ですね。

 人事は会社であれ、お役所であれ、なんらかの組織に属する人にとって重大な案件であり、最大の関心事と言ってもいいのではないでしょうか。

 歴史上大業を成しとげた偉人は、人事の達人でもありました。

 源頼朝が非情な“査定”によって弟の義経を奥州平泉まで追い詰め、これを滅ぼしたのも、武家政権樹立の過程で必要な人事だったのだと思います。当時の公家政権の黒幕、後白河法皇に接近していた義経は、放置しておけば頼朝が目指した武家政権の樹立の大きな障害になったはずです。

 頼朝が日本の歴史上初めて開いた武家政権は、徳川幕府の崩壊まで670年も続くわけですから、頼朝の非情な人事は日本の歴史の一つの礎と考えてはどうでしょうか。

 戦国の英雄、織田信長は旧弊にとらわれない人材登用の達人でした。使えると判断したら徹底的に重用し、権限と報酬を惜しみなく与える人事を行いました。秀吉は信長人事の恩恵を一番享受した部下でした。

 一方、いくら過去の働きがよかった部下でも、今の働きが悪ければ冷酷な処遇をもって接しました。全国統一を目前にして明智光秀によって討たれたのは、信長人事の失敗といっていいかもしれません。

 秀吉や家康も人材登用や人事の面で、優れた才能の持ち主でした。ただ、門地門閥がなかった秀吉は、政権の人事を一から構築しなければなりませんでした。秀吉は、自分が築いた政権の人事の成果を見とどける前に、わずか5歳の秀頼を残して世を去りました。彼は死に臨んで、五大老、五奉行を任命して、秀頼の将来を懇願しています。

 しかし、人事は権力と表裏一体のものです。権力の裏打ちのない人事は効力がありません。秀吉没後の五大老筆頭、家康の行動をみれば、この事実は明らかです。 

 余談ですが、秀吉に重用された石田三成は、関が原の戦いに敗れて東軍に捕らえられ、京都の六条河原で処刑されることになりました。

 刑場にひかれる三成に、見物人が柿をあげようとしました。すると三成は、柿は腹を冷やすので結構だといって断ったそうです。あと数刻で処刑される人間が、お腹の具合を心配をすることもないと思うのですが、三成という人はよほど几帳面な人だったのでしょうか。近年、石田三成に対する評価が非常に高くなってるそうですね。

 三河以来の忠臣軍団に支えられた家康は、人事の面で恵まれていました。井伊、本多、榊原、酒井など、いわゆる徳川四天王と呼ばれる有能な家臣団に支えられ、思い切った政策を実行することができました。

 ただ、家康は信長とちがって報酬の面でケチでした。家臣には徳川家の家臣というブランドを与えるかわり、給与は低く抑えました。 

 今話題のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の原作を読みました。この本は10年以上も前に出版されてますので、読んだ方も多いことでしょう。

 司馬遼太郎さんの書くものは、小説、紀行文、エッセ-など何でも好きでよく読みますが、「坂の上の雲」には感銘を受けました。感銘が高じて、先般の日本出張の折、一日の休日を利用して四国の松山まで行ってきました。

 小説の主人公、秋山兄弟や正岡子規のゆかりの地を訪ねて往事を偲び、名物の「活き鯛めし」などを賞味し、地酒を味わい、夏目漱石の「坊ちゃん」にも出てくる道後温泉に浸りなど、つかの間の休日を楽しんできました。

 「坂の上の雲」を読んで強く感じるのは、明治の日本には実に優秀な人が多かったということです。乏しい政府予算の中から優秀な若者を欧米各国に留学させ、先進国の技術や文化を貪欲に取り入れた明治政府の指導者たちも偉かったと思います。

 言葉もなにもわからない国に送りこまれた留学生たちは、頼りになる辞書など存在しないその当時、留学先の国の言葉を必死になって習得し、その言葉を使って技術や文化を学び取りました。明治の留学生が自分の留学先の国の言葉、英語やドイツ語やフランス語やロシア語などで書いた文章は、その国の人が驚くほどの立派な文章が多かったそうです。

 辞書や文法書があふれている今日、外国語がなかなか身につかないのは、明治の留学生諸先輩に対して申し訳ない気がします。

 「歴史を動かすのは人事だ」という言葉を、どこかで読んだ覚えがあります。

 もし、天才的な戦術家、秋山真之が連合艦隊の作戦参謀に任命されていなかったなら、或いは東郷平八郎が連合艦隊司令官に任命されていなかったなら、小国日本の艦隊が当時の超大国ロシアのバルチック艦隊を破り、日露戦争で勝利をおさめることができたでしょうか。日露戦争の勝利は、明治政府または日本海軍の人事の勝利といえるかも知れません。

 反対の例として、旅順攻略を指揮した乃木希典は、戦術家として無能な伊地知幸介を参謀長にもったため、旅順要塞に戦略的には無意味な攻撃を繰り返し、数万人の日本軍兵士の命を無駄にしました。司令官の乃木が長州なら、参謀長は薩摩からという理由で、伊地知を参謀長に任命した日本陸軍の藩閥人事の失敗例でしょう。

「坂の上の雲」によれば、乃木希典は戦術家或いは指揮官としての能力に欠けており、旅順攻略部隊の司令官の器ではなかったそうです。ただ、彼の高潔にして仁に篤い人間性は、会う者に畏敬の念を抱かさずにはおかなかったため、後に乃木神話が生まれたとは、司馬遼太郎さんの見方です。

 もっとも、「坂の上の雲」を読んだ乃木崇拝者から、司馬遼太郎さんに抗議の手紙が寄せられたそうです。

 人事に関係のある言葉を思いつくままに並べてみます。

 採用、正社員、派遣社員、契約社員、中途採用、平社員、係長、課長、課長補佐、次長、部長、役員、常務、専務、社長、会長、相談役、給与、査定、終身雇用、年功序列、異動、本社、支社、支店、営業所、海外法人、昇進、昇給、抜擢、左遷、窓際、出向、転籍、人事考課、派閥、冷やめし、天下り、年俸、定年、退職、解雇、懲戒免職等々、結構ありますね。

 これらの言葉の列をじっと見ていると、人の喜びや悲しみ、人の一生、社会の縮図などの思いが,言葉の列の間から浮かび上がってきませんか。

 上記の言葉を欧米の言葉に訳すことは可能でしょうが、日本独特の表現もあり、ぴったり訳せない言葉もあります。

 例えば、“窓際“です。窓際を直訳しても本来の意味は伝わりません。ベルギ-人の友達にきいてみたらフランス語にもあるんですね、同じ意味の言葉が。

 それは、“mettre quelqu’un sur une voie de garage”という云い方で、直訳すれば“誰かを 車庫への道におく“という意味ですが、本当の意味は”誰かを閑職に追いやる“という表現です。

 一方、こちらの人事関係の言葉の中には、日本語にはない独特な表現があります。

それは、“promotion sur la canapé”という表現です。直訳すれば“長椅子の上の昇進”という意味です。本当の意味は、女性が女性としての魅力を使って昇進を手にするという意味です。会社にある長椅子などが登場するのは、何を意味しているのでしょうか。

 本題に入りましょう。

 今年の1月中旬のベルギ-各紙、及びテレビで、大きく取り上げられてニュ-スがあります。新聞によっては一面トップの扱いもありました。

 それは、ベルギ-の大司教人事でした。大多数の在留邦人の皆さんにとって、殆ど興味ないニュ-スだったと思います。

 でも、せっかくこの国に住んでいるのですから、この国の人々が多大の関心を寄せる出来事について、門外漢の私達も少しは知っておくのも悪いことではないでしょう。

 国の地方行政単位として、日本では都道府県があり、ベルギ-には10の州があります。これと同じように、カトリック教会には教区制があります。

 ベルギ-の教区はだいたいが州と同じ単位になってます。リエージュ、ナミュ-ル、トゥルネ、アントワープ、ブル-ジュ、ゲント、ハッセルトの7つの司教区があり、この上にマリン-ブリュッセルという大司教区があります。マリンというのは、アントワ-プの手前にあるメヘレンの仏語読みです。

 皆さんはヨ-ロッパ各国を旅行して、各地のカテドラルを見学したことがあるでしょう。カテドラルはその地域を代表する教会ですが、本来の意味は司教座のある教会をさします。カテドラルとは、椅子のことです。司教の椅子は権威のシンボルです。社長や大臣の椅子と同じようなものです。

 では何故、マリン-ブリュッセル大司教の人事が、ベルギ-では重大ニュ-スになるのでしょうか。それは、マリン-ブリュッセル大司教はベルギ-の首座大司教として、ベルギ-のカトリック教会を代表する地位にあるからです。

 日曜のミサに行く人の数は減っているとはいえ、国民の大多数がカトリックのベルギ-で、首座大司教の地位の重みは、我々日本人の想像を越えるものがあります。さらに、首座大司教はローマ教皇によって枢機卿に任命されます。ベルギ-国内の地位は王族の次に位置し、首相よりも上になります。

 ですから、レオナ-ル司教の大司教任命の人事は、正式発表前に駐ベルギ-ヴァチカン大使からルテルムベルギー首相に通告されています。

 こんど77歳で引退するマリン-ブリュッセル大司教、ダンネルス枢機卿の後任として、ロ-マ教皇ベネディクト16世は、ナミュ-ルのレオナール司教を任命しました。

 この人事はヴァチカンが正式に発表する前に、イタリアの新聞記者によってすっぱぬかれ、ベルギ-で喧々諤々たる議論を巻き起こしたのです。

  なぜなら、レオナ-ル司教はベルギーのカトリック教会で、人も知る保守派の代表格の人物だからです。同司教はテレビの討論番組などへ露出度はダントツで、いろいろと物議をかもす発言をするのでも有名です。

 例えば、「同性愛は病気のようなもので、正常とはいえない」という発言をして、同性愛者の団体から抗議を受けると、「同性愛を異常とは云ってない。拒食症見たいなものである」と訂正しましたが、同じ団体から再度抗議を受けてます。

 一方、こんど引退するダンネルス枢機卿は、謙虚でバランス感覚のとれた人柄と時代に合ったリベラルナ考えのもち主で、カトリックはもとより、非カトリックの人達からも広く敬愛されてきました。

 ベネディクト16世が選出された先のコンクラ-べ(教皇選挙)の時、ダンネルス枢機卿は次期教皇の有力候補の一人でした。しかし、枢機卿団の保守派が勝利をおさめ、保守派の筆頭でドイツ人のラッチンゲ-枢機卿が教皇に選ばれました。

 レオナ-ル司教の首座第司教任命には、教皇ベネディクト16世の意向が強く働いたことは、周知の事実と云われてます。その裏話として、若き日の二人、ラッチンゲ-神父とレオナ-ル神父の友情があげられます。二人はロ-マの神学院で学友であり、よく気の合う友人同士でした。

 ラッチンゲ-枢機卿がベネディクト16世として教皇に選出された時、プレスからコメントを求められたレオナ-ル司教は、「最高の人物が教皇にえらばれた。聖霊の恵みに感謝する」というコメントをだしてます。

 司教や大司教、枢機卿までなる人は優秀な人です。レオナ-ル少年も小中高の学業は極めて優秀だったそうです。神学校も優秀な成績で卒業し、ル-ヴァン大学ではへ-ゲルに関する論文で哲学博士の学位をとり、教授になってます。余談ですが、私はルーヴァンの学生だったころ、レオナ-ル教授の講義を聴きにいったことがあります。しかし、あんまり退屈だったので一度でやめました。

 司教の任命権は教皇にあります。しかし、教皇が全世界のカトリック教区の事情を知っているわけではないので、通常はその国の首座大司教や、駐在しているヴァチカン大使が提出する候補者リストの中から選んで任命します。

 今回、ダンネルス枢機卿が提出した自分の後継者候補リストにレオナ-ル司教の名前はなかったと、巷間で云われてます。極秘の候補者リストが外部に漏れるとは思えませんが、同枢機卿とレオナ-ル司教の関係が水と油であれば、巷の噂もかなり信憑性が高いのではないでしょうか。

 ところでお父さん、お父さんのところの人事は大丈夫ですか。日頃の家庭サ-ビスなどきちんとしてないと、年金受給日にお母さんから離婚の辞令が出るかもしれませんよ。辞令なんて、理由なく出るものではありません。日頃の態度を見てる人は見てるんですよ。 

No.170.マグロよ、マグロ、どこへ行く

No.170.マグロよ、マグロ、どこへ行く



 マグロの姿は美しい。体型の優美さ、体の線のあのくっきりとした鮮やかさはどうですか。マグロの美しさに比肩する魚は他にいるでしょうか。

 マグロの目は美しい。あの潤みをおびたぱっちりとした目で、瞬きもせずにみつめられたら、どんな堅物でも陥落するのではないでしょうか。もっとも、水中で暮らすマグロの目が潤んでいるのは当たりまえと云われれば、それもそうですねと答えるしかありません。それに、マグロだけではなく、魚って瞬きしないんですよね。

 聞けば、マグロは一生涯泳いでいると云うではありませんか。眠る時も泳ぎながら眠るなんて、並大抵の技ではできることではありません。マグロは口から海水を取り入れてエラから出しながら、海水中の酸素を取り入れてます。ですから、泳ぐのをやめると酸欠で死んでしまうのです。 過酷な運命を背負いながら生きているというべきでしょう。

 過酷な運命を背負いながらも健気に泳ぎ続けるマグロには、もう一つ過酷な運命が待っているのです。それは、マグロが余りにも美味なことです。美味しいマグロは常に捕獲の対象になっているのです。うっかりしてると、たちまち食べられてしまうのです。

 マグロの美味しさを見出し、マグロとの長い付き合いをへて、今、マグロの美味しさを世界中に広めているのが、わが日本民族です。

 縄文時代の貝塚からマグロの骨が出てくるそうですから、日本民族とマグロの付き合いは半端ではありません。日本人が本格的にマグロを食べ始めたのは、江戸時代からだそうです。そしてこの時代に、マグロを最も美味しく食べる方法を開発しました。それが今や世界的な広がりを見せつつある日本食の代表、鮨なのです。

 マグロを鮨ネタとしておいてない寿司屋を想像できますか。ミシュランの東京版で三ツ星をとった話題のお寿司屋さん「すきやばし次郎」のオーナ-シェフ、小野二郎さんだって、もしマグロがなかたら名人芸といわれる握りの腕の見せ場に困るのではないでしょうか。

 余談ですが、ミシュランが2007年11月にミシュラン東京版を出し、一つ星から三ツ星まで、150店もの店に星の大盤振る舞いをしました。

 結果、賛否両論をまじえ、さまざまな意見が日本のマスコミを賑わせました。批判のなかで多かったのは、“フランス人に日本料理の評価ができるのか”という意見でした。しかし、これは間違っています。優れた料理の真髄にふれる能力は、国籍に関係ありません。おいしいものは誰が食べてもおいしいのです。

 “日本人にフランス料理がわかるのか”と云われたら、皆さんはなんと答えますか。

東京の日本人シェフのフランス料理店がミシュランの星をとってます。本場フランスでも、日本人の料理人が堂々とミシュランの星をとっている時代です。

 “日本料理は日本人にしかわからない”とか、“日本文化は日本人にしか理解できない”、などという狭量なナショナリズムを掲げている時代ではありません  

 フランス料理の世界に君臨するシェフ、アラン デュカスは、日本に来て一番の楽しみは、小野二郎さんの握る鮨を食べることだと云ってます。

 わたしは、個人的にはミシュランの星評価をうのみにはしません。ベルギ-版に関しててですが、どうしても納得できない星評価に対しては、自分の意見を書いた手紙をミシュランに送ります。すると、「ご意見をお寄せいただき深謝いたします。ご意見は次回の評価の参考とさせていただきます」といった丁重な返事が来ます。しかし、未だかつてわたしの意見が翌年度のミシュランに反映されたためしがありません。なめられてるんですかね。もっとも、読者の意見をいちいち取り上げてたらきりがないでしょうけど。

 「すきやばし次郎」には行ったことはありませんが、皆さんの中でこの店に行ったことのある方は、是非感想をお聞かせください。

 同店が三ツ星レストランになった時の毎日新聞の記事によれば、“世界の三ツ星レストランでは例のない地下の店で、メニュ-もなくカードも使えず、トイレも他店と共同という異例づくし”なんだそうです。 

 日本のテレビで、小野二郎さんの日常を追ったルポルタ-ジュを見たことがあります。80歳を越えてなお鮨を握り続ける小野二郎さんですが、常に最高のものしか使わない鮨ネタへのこだわり、お客様に最高の鮨を食べていただこうという徹底した姿勢には感服しました。マグロだって、青森県の大間で一本釣りされる最高級の本マグロを使っているのでしょう。

 ただテレビで、「すきやばし次郎」のおまかせコ-スを食べるお客さんたちを見て、これは自分の行く店ではないと確信しました。とにかく早いのです。一貫食べ終えたと思うと、すっと次は出てきます。鮨は握りたてが一番美味しいとはいえ、あんなに早く出されたら、早食いが苦手な自分にとって地獄の責め苦です。

 しかも、握っている相手が相手ですから、殿様の前に平伏す家来のごとく、“殿、お鮨頂戴いたします”的な雰囲気は、どうも自分には合いません。それに、見てるとビールやお酒を飲んでいる人がいません。“まずビ-ル“なんて云ったら、塩でもまかれるんでしょうか。 いくら名人が握った鮨でも、30分で食べ終える食事は、自分にとって食事とは呼べません。食事はなんといっても、ゆっくり楽しく一杯やりながら食べるのが本当の食事だと思ってます。

 マグロの話に戻りましょう。

 上記した大間のマグロは、かつて築地のセリで一本2000万円の値がついたことがあるそうです。よっぽど美味しいんでしょうね。

 でも、大間のマグロは間違ってもスーパ-の鮮魚売り場には並びません。大間の町の人の口にも入り難いのではないかと思います。この手の高級マグロは、高級料亭か高級寿司店に行かないと食べられないらしいです。

 日本の新聞には首相の動静を報ずる欄があり、そこに首相が食事をしたレストランや料亭の名前が出てきます。鳩山さんも結構高級レストランや料亭で食事をしていますが、高級料亭通いが一番多かったのは森首相でした。森さんはこの件で世論に叩かれてましたね。

 いつも思うのですが、首相や閣僚、政治家や政府高官のメシ代はどこから出ているのでしょうか。まさか国民の税金からではないでしょうね。税金を払う国民が口にできない高価な料理を、国民の税金で彼らが楽しんでいるとしたら、とんでもないことと思いませんか。

 マグロは確かに美味しいです。美味しいばかりか、マグロの目の周囲にちょっぴりある眼肉を食べると、頭がよくなるというではありませんか。幼いころ、マグロの眼肉を食べさせてくれなかった親を恨みます。

 個人的にはマグロの赤味か中トロのあたりが好きです。大トロは苦手す。マグロのトロを珍重するようになったのは、そんなに昔じゃないみたいですね。

 池波正太郎さんの小説「仕掛け人・藤枝梅安」の中にこんな一節があります。

 “当時(江戸時代)料理屋でまぐろなど使うことはめったにない。まして脂身(トロ)などは、魚屋で切り捨ててしまうほどで、筆者が子供のころでも、母が「ねぎまにするから大トロ買っておいで」というので、買いに行くと、魚屋に、「坊や。金はいらねえよ」などと、いわれたおぼえがある”

 大正12年生まれの池波正太郎さんの子供時代といえば、昭和の始めごろでしょう。そのころは、トロなど見向きもされなかったんですね。いまや、トロといえば高級食材の代表格です。そして、上等のトロが取れるクロマグロ、またの名を本マグロが珍重されています。

 最近、このクロマグロ、特に大西洋と地中海のクロマグロの禁輸に関する会議がド-ハで開かれました。新聞情報によれば、この会議は野生動物の国際取引を規制するワシントン条約締約国会議というのだそうです。クロマグロを絶滅の恐れのある野生動物の一種として、クロマグロの国際取引を禁止すべしという提案がモナコから出され、アメリカやEUが支持を表明しました。 しかし、この提案は日本並びに途上国の反対によって否決されました。

 この会議にかかわる一連のニュ-スで知ったのですが、世界のクロマグロの80%は日本人が食べているんですね。これは世界の食の歴史において、稀有な事例ではないでしょうか。世界に数ある食材のなかで、一つの食材を地球上の一国民が80%も消費する例が他にあるでしょうか。

 今回は日本の多数派工作が功を奏して、モナコ提案は否決されましたが、将来はわかりませんね。資源として減少しつつある世界のクロマグロを、80%も食べ続ける日本人に対する風あたりは、今後強まることはあっても弱まることはないのでしょう。いずれ、日本の魚市場からマグロが激減する日がくるのでしょうか。そうなると困りますね。

 マグロ抜きの鮨や刺身が考えられますか。カレ-ぬきのインド料理、ワインなしのフランス料理、ウォッカなしのロシア料理、唐辛子ぬきの四川料理、ニュクマムぬきのベトナム料理、サフランぬきのパエリア、ニンニクぬきのキムチ、福神漬ぬきのカレ-、トマトぬきのイタリア料理等々、考えられますか。

 とはいえ、われわれ日本人がこれまでのように好きなだけマグロを食べてきた時代は、遅かれ早かれ終わりになるでしょう。マグロ資源は無尽蔵ではありません。資源は大事に使い、さらにそれを育てながら使っていくものです。

 ただ、ちょっとだけ言わせてもらえば、マグロ資源の減少の責任が全てわれわれ日本人にあるのかということです。 皆さんは、当地のちょっと気のきいたフランス料理のレストランで、メニュ-の中に“Sashimi”とか“Tataki ”などという料理名があるのを、見たことはありませんか。わたしはブリュッセルのフランス料理店でこういう料理を注文して食べたことがありますが、材料はまさしくマグロの赤身でした。ベルギ-でもフランスでも、マグロをメニュ-に入れるレストランは珍しくありません。

さらに、われわれ在留邦人の知らない日本レストランや寿司店が、このべルギ-でも雨後のたけのこのように増え続けています。

 さらに、火を通さないものは決して食べないといわれていた中国の人達が、いまや鮨や刺身の美味しさに目覚め、中国におけるマグロの消費量が飛躍的に伸びているとういうではありませんか。マグロ資源の減少の責任を、全部日本人に負わせるような欧米のマスコミの言い方は、ちょと考えてほしいですね。

 ドーハの会議の前後にマスコミを賑わせたのが、過激な行動で知られる反捕鯨団体「シ-シェパード」でした。日本の捕鯨船を攻撃して逮捕された同団体の船長は、英雄気取りでプレスのインタビュ-に答えてました。

 日本のいわゆる科学的調査捕鯨は欧米では評判が悪いです。こちらのテレビでも、日本の捕鯨船が鯨に銛を打ち込む場面、そして銛を打ち込まれた鯨の血が海面を染めていく場面などが、これでもかというぐらい繰り返し放映されます。

 ああいう場面を見たら、一般市民が日本に対していい感じをもつはずがありません。絶滅が心配されている鯨を、「科学的調査」などという隠れ蓑をつかって捕りまくっている日本人はけしからん。鯨がかわいそう等々がこちらの人の感情でしょう。

 この問題でよくわからないのは、何故、日本側は鯨に関する科学的調査の結果を、世界に向かって堂々と公表し、発信しないのかということです。なになに鯨の個体数は前年度に比較してこれだけ増えているとか、なになに鯨は減っているとか、科学的調査のデ-タを基に率直且つ定期的に発表すれば、欧米の感情的な反捕鯨論の沈静化にかなり効果があると思うのですが、どうでしょうか。新聞やテレビで、こういうデータの発表を見たことも聞いたこともありません。

 捕鯨の問題に感情論や食文化論を持ち出すべきではありません。あくまでも、「鯨は人類が共有する海洋資源の一つである」という土台にたって論ずるべきです。感情論はなんの解決にもなりません。“あなた方が鯨がかわそうというなら、われわれ日本人は、あなた方が好んで食べる子兎や子羊をかわいそうだと思います”、といった議論が無意味であることは、だれにでもわかることです。

 「ザ・コーヴ」というアメリカ映画が、アカデミ-賞の長編ドキュメンタリ-賞を受賞しました。ご存知の通り、この映画は和歌山県太地町のイルカ漁を告発した映画です。太地町で伝統的に行われているイルカ漁の現場を、主に隠し撮りで撮影して作製された映画のようです。太地町は伝統的な鯨漁でも有名な町です。

 イルカは人にも馴れやすくしぐさも愛らしいので、世界中どこでもかわいい海の動物として愛されています。「ザ・コ-ヴ」は、かわいいイルカの群れを入り江に追い込み、次々と刺し殺す日本人はとんでもない野蛮人であるとして、広く世界に告発したかったのでしょうか。

 かわいいイルカが時には害獣になる事実を、欧米の人達は知らないようです。以前、長崎県のさる漁場で、漁師の人達が苦労して網に追い込んだブリの群れをイルカの群れが食い荒らしてしまい、地域の漁師の人達の生活に甚大な被害を与えました。漁師の人達はイルカを駆除するためイルカの群を殺しました。この時の映像が欧米に流れ、

“血塗られた日本人”などというバカバカしいタイトルの記事が、ベルギ-の新聞にも出たことがあります。

 太地町のイルカ漁は昔から行われており、この漁で生活をしている人達がいるのは紛れもない事実です。そして、イルカの肉を使った伝統料理もあるようです。それを、外部の人間がイルカがかわいいからという感情論で非難し、告発するのは間違ってます。しかし、イルカが絶滅の危機にある動物なら話は別です。漁はやめるべきでしょう。鯨も同じです。反捕鯨団体が主張するように、鯨が絶滅の危機に瀕しているなら、捕鯨はやめないといけません。鯨が増えているなら証拠を示すべきです。

 日本には鯨やイルカを食べる食文化がある。昔から食べているんだからこれからも食べる、という論理には無理があります。 

 一つの例ですが、織田信長の一武将であった羽柴秀吉が、信長の許可を得て初めて茶会を催した時、招客に点心として白鳥の汁物が供されたという記録があります。また徳川時代には、将軍が食べる正月の膳に鶴の吸い物が供せられるしきたりがありました。上が食べれば下も食べるわけで、昔の日本では白鳥や鶴が食べられていました。でも今は白鳥や鶴は食べませんね。

 鯨、イルカ、マグロと、日本を敵視する包囲網が作られているように感じるのは、思い過ごしでしょうか。ま、日本も国際社会で敵を増やすのは得策ではありませんので、感情論を避け、きちんとした数字を示して話し合い、妥協すべきはする方がいいと思います。例え、マグロの値段があがって食べる機会が減ったとしても。

 ところでお父さん、お父さんの周りに包囲網はできてませんか。会社の上司、部下、ベルギ-人スタッフ、家ではお母さんや子供から好かれ、愛されていますか。周りの空気が読めない人は、それだけでも嫌われますからね。       

No.171.金持ちは罪ですか?

No.171 金持ちは罪ですか?



ベルギ-の南の方にあるシャルルロワの裁判所で、おもしろい判決がありました。シャルルロワ地方裁判所第四法廷で、ジュヌヴィエ-ブ デニスティ-という女性裁判長が下した判決が話題を呼び、さまざまな議論をひきおこしてます。

 ことの起こりは次のような次第です。 

保険業とワインの販売で成功したさる実業家が、シャルルロワの近くのランサ-ルという所に家を買いました。ランサ-ルという所は、どちらかというと低所得者層の多い地区で、実業家が買った家はその地区ではひときわ目立つ大きな家でした。

 実業家は、買った家をリノヴェ-ションするために、ワロン地方政府の補助金制度を利用しました。補助金申請の結果、6172.55ユーロの補助金が認められました。ところが、この地区に住み始めてから、彼は2度にわたってカージャッキングに襲われたのです。1度目はBMWを奪われ、二度目にはJaguarを奪われました。特に2度目の時は、ギャングどもに銃口をつきつけられ、奥さんや子供にまで危害が及びそうになりました。

 実業家はランサ-ル地区に住むことがすっかり嫌になり、別の町に引っ越しました。しかし、ワロン地方政府の補助金交付には、補助金を受けたものはその家に住まなければならないという条件があります。実業家の引越しは、補助金交付の条件に違反するため、ワロン地方政府は実業家に補助金の返還を求めました。

 これに対して実業家は、自分が引っ越したのは自分と家族の生命と財産が危険な状態になったためであり、まわり状況からやむを得ずにとった自衛の措置であるとして、補助金返還を拒否しました。補助金返還拒否を受けて、ワロン地方政府は実業家をシャルルロワ地方裁判所に提訴しました。

 判決がでました。デニスティ-裁判長は実業家の主張を退け、ワロン地方政府の補助金返還要求を認めました。その判断基準として、次のような判決文を読み上げました。「経済的に疲弊し、恵まれない人々の多く住む地域で、Jaguarに乗り立派な家に住んで自己の富裕さを顕示するのは、理性的行為とは思われない」というのが、裁判長の判断基準でした。この判決はヨ-ロッパ各国の新聞は勿論、アメリカの新聞にまで載りました。そして、デニスティ-裁判長には“マダムジャガ-”というあだ名までつきました。

 マダムジャガ-の論理に従えば、ある地域に住んで高級車に乗ることは、犯罪を誘発する挑発行為になるので、高級車に乗ってる方が悪いのです。別の例をあげれば、シャルルロワに住むお嬢さんが、欲しいものを我慢してお金を貯め、念願のブランド品のバッグ買いました。バッグを肩にして浮き浮きと街に出たところ、ひったくりにあいバッグをとられてしまいました。それはブランド品のバッグをもって歩いていたお嬢さんが悪いということになります。必要なものは、ス-パ-のプラスティック袋にでも入れてもって歩きなさいとうことでしょうか。

  豪邸に泥棒が入ったら、富を顕示して豪邸に住んでいる人が悪いのです。宝石店が強盗に襲われるのは、宝石を展示している店の責任になるのです。ス-パ-で万引きをするのは、万引きしたくなるような商品を置いておくからなのです。極論すれば、強盗に入られた銀行は、銀行にお金を沢山置いておいたから強盗犯の犯罪を誘発したのだ、というのがマダムジャガーの論理 になるわけです。

 実業家の弁護士は、あきれかえった判決でとうてい容認できないとして、ただちに控訴しました。

 後日、デニスティ-裁判長がある地元紙のインタビュ-に応じました。記者が、同裁判長の判決文の反響の大きさについて感想を求めました。裁判長は、自分は30年以上も判事を勤めてきた人間であり、司法に携わるものが自分の法的判断をコメントすることは許されないと、回答を拒否しました。ただ彼女は、自分の判決を支持するメ-ルや電話を司法関係者からもらっていると述べました。

 さらにデニスティ-さん自身、シャルルロワに30年近く住んでおり、これまで4回ひったくりにあっている事実を明らかにしました。記者が、ひったくりにあった時は何かブランド品のバッグでももっていたのですかと質門すると、彼女は、自分は宝石などの装飾品を身につけることはないし、ブランド品など持ったことがない、と答えました。

 シャルルロワは、ブリュッセル、アントワープ、リエ-ジュ、ゲントと並ぶベルギ-の五大都市の一つですが、住民一人当たりの所得は、ブリュッセルを除いて最下位です。ブリュッセルには19のコミュ-ンがあるので、一律に比較は出来ません。

 また、シャルルロワの失業率は26%と五大都市中トップです。治安の面では、アメリカのある新聞に、かってのシカゴのようだと書かれたことがあります。この記事にはシャルルロワ市長が抗議しました。

 不思議なのは、シャルルロワ地区の高級車の販売台数がナミュ-ルの倍もあることです。ベルギー最大の富豪、アルべ-ル フレール男爵(超高額納税者として爵位をもらいました)も、シャルルロワ近郊に豪邸を構えてます。金持ちはどこにでもいるということでしょうか。

 シャルルロワ地区の不動産会社社長と高級家具店の店主の話です。

不動産会社社長によれば、この地区の富裕層の中には、不動産取得をキャッシュでやる人が全体の20%もいるそうです。家や土地を買う場合、15年とか20年のロ-ンを組んで、毎月せっせと返済していくのが普通ですよね。それをポンとキャッシュで買うなんて、一般庶民にはとても考えられないことです。

 高級家具店の店主は、お客さまはクレジットカ-ドより現金で支払うケ-スが多いといってます。お金持ちは、お金持ちとしての痕跡を残すのが嫌いなのかも知れません。

 ところで、お金持ちになるのにはどうすればいいのでしょう。

 簡単に云えば、稼いで使わないことです。次のような生活をすれば、お金持ちになれるでしょうか。

 職場は金を稼ぐところと割り切り、職場のつき合いはしない。職場の同僚と飲みに行ったりしない。上司に誘われて行くタダ酒は喜んで行く。職場の冠婚葬祭は知らん顔。職場の誰かの結婚式に招ばれても(多分招ばれないが)行かない。お祝いも出さない。旅行などもっての外。恋愛も結婚(金がかかりますよね)もしない。タクシ-などはこの世に存在しないものと考える。

 昼食は手作り弁当とし、中身はご飯に梅干一個。ちょっと豪華弁当にしたい時は、梅干の代わりに昆布の佃煮を入れる。外食はしない。週末の食事は、デパ地下めぐりをして試食品を食べて済ませる。住まいは西日の当たる4畳半  一間で炊事場と手洗いは共同。風呂は市のスポ-ツセンターのシャワ-で済ませる。ちょっと豪華にいきたい時だけ、銭湯に行くが、これは年に3回を限度とする。

 親兄弟、親戚等のつき合いは極力避ける。甥や姪にお年玉をたかられ危険のある年末年始の帰省はしない。預金は定期預金のみとし、株や投資信託には手を出さない。賭け事は一切しない。唯一の投資は宝くじを買うこと。

 まあ、上記のような生活をしてまでお金を貯める人が実際にいるとは思いませんが、もしいたとしたら、貯まったお金の使い方を知らない人間になってしまうでしょう。こんな生活をしてお金を貯めても、本当のお金持ちにはなれません。

 本当のお金持ちというのは、貯める努力などしなくても、お金がどんどんどんどん入ってくる人達のことをいいます。どうして使ったらいいか分からないぐらい、お金が入ってくる人達こそ本当のお金持ちなのです。

 こういうお金持ちというのは、アメリカのフォ-ブス誌が毎年発表する世界の富豪ランキングに名を連ねる人達です。

 今年のフォ-ブス誌のランキングでは、常連トップのビル ゲイツさんがメキシコの富豪カルロス スリムさんに首位の座を明け渡しています。上位3人は600億ドル以上の資産を持っています。

 余談ですが、ビル ゲイツさんがブリュッセルに来た時、移動のために使った車は、豪華なリムジンではなく普通のミニヴァンでした。知り合いのハイヤー会社の社長がゲイツさんのミニヴァンのドライバ-を勤めました。彼から聞いたのですが、ゲイツさんは非常に謙虚で、ドライバ-に対することば使いも丁寧だったそうです。本物のお金持ちは目立たなくて、謙虚なのでしょう。

 この原稿を書いている今、ベルギ-はこれまで何回も繰り返している政治危機の真っ只中。地元の新聞も政治危機関係の記事で一杯です。記事の中に一枚の写真が載ってました。 それは、国王アルべ-ル二世がラーケン宮を出て、通常の住まいにしているベルべデール宮に向かう写真でした。つまり、勤務を終えて自宅に帰る国王の姿です。 こういう場合、国王が乗った高級車の前には先導車がいて、後ろには警護官やお付の人の車が続くと想像するのが普通です。

 ところが驚いたことに、写真に写っている車は小さなフィアットで、運転しているのはなんとパオラ王妃ではありませんか。王妃の横に大柄な国王が窮屈そうに座っていました。フィアットはパオラ王妃の出身国の車ですが、まさか国王があんな小さな車にのって通勤するなんて夢にも思いませんでした。

 写真を見て驚くと同時に、大変ほほえましく思いました。勤めを終えて帰るお父さんを、お母さんが小さな車で迎えに来たという感じです。

 国王夫妻は、私的な面では一般庶民と余り違わない生活をしていることが想像できます。半端な数字ではない個人財産を持っているベルギ-国王ですが、日常は謙虚で質素な生活をおくっている印象を持ちました。 

 行動様式が国王やゲイツさんと正反対のお金持ちの姿を、フランスのテレビで見ました。

 事業で成功した中国のお金持ちが、フランスのベルサイユ宮殿を模した豪邸を建てた話です。お金持ちさんが得意満面で豪邸の内外をテレビの取材班に披露するのですが、よくもまあこれだけ成金趣味を詰め込んだものよと思える豪邸でした。TF-1のレポ-タ-のコメントには、皮肉と揶揄が一杯入ってました。

 聞いた話ですが、アラブの産油国の王族が宿泊先のホテルのドアボーイにぽいと渡すチップが100ドル紙幣だとか、自分もドアボ-イになりたいです。

 日本ではどういう人をお金持ちというのでしょうか。

田園調布や芦屋に家を持っている人(ちょっと古いですか)。六本木ヒルズなどで家賃が100万とか200万のマンションに住んでいる人。天皇賞で優勝するような馬を何頭も持っている馬主。

 週末に自家用機で海外の別荘に行く人。お母さんから億単位のお金を貰って知らなかったといえる人。ポケットマネ-で球団やサッカ-チ-ムのオーナーになれる人。晩酌でRomanéé-Conti, Château Margaux,Petrus,Hospices de Beauneなどのワインを気軽に開けて飲める人。高級レストランに友人などを招いて、一回の食事でぽんと5万ユーロぐらい使う人。他人の土地を踏まずに何キロでも歩ける人。

 ま、お金持ちの条件は他にもいろいろあるでしょう。当地日本人会メンバ-の皆さんの中で、上記条件の一つや二つを満たす方はおられませんか。是非仲良くさせて頂きたいものです。

「金持ち喧嘩せず」ということばがあります。これは、金持ちは金銭上の利害関係であくせくしないという意味のようです。つまり、金持ちは心の上でも余裕があるということでしょう。

 一方、「金持ちと灰皿はたまるほど汚くなる」ということばもあります。金持ちはケチというか、お金に細かいという意味でしょうか。

 これで思い出すのですが、わたしの行っている乗馬クラブのバ-に時々一杯飲みに来る男で、ギー(ファミリ-ネ-ムは知りません)というブリュッセル自由大学の教授がいます。バ-で飲んでると、おごったりおごられたりが普通ですが、大学教授のギ-は未だかって他人におごったためしがありません。おごりは喜んで受けます。かれは自分の飲み代として一晩5ユ-ロ以上は使いません。

 大学教授という社会的地位がありながら、この“おごりは受けるがおごらない、一晩5ユ-ロ”のポリシーを堅持するのには、かなり図太い神経が必要かと思います。気の弱いわたしなど、すぐにおごってしまいます。この辺が金持ちと貧乏人の違いなのでしょう。

 「金持ちは罪ですか?」という標題ですが、聖書を読むと、金持ちはやっぱり罪なのかな、と思えるようなキリスト様のことばがあります。

 例えば、マタイによる福音書第19章23-26やマルコによる福音書第10章23-26には、「金持ちが天国に入るよりラクダが針の穴通るほうがやさしい」というキリスト様のことばがあります。金持ちに対してめちゃめちゃ厳しいことばですね。

 キリスト様のことばのなかで使われている喩えや比喩は、じつに巧みで的を得ており、ことばに含まれる深い意味を浮き彫りにしてくれます。

 「ラクダが針の穴を通るほうがやさしい」なんて、すごい喩えではないですか。これを聞いたら、たいていの金持ちは絶望しますよ。どうやったって天国は無理です。

 当時のユダヤでは、神様のご加護がある人が金持ちになるという考えがありましたから、キリスト様のことばは、まさにコペルニクス的発想の転回だったわけです。

 思うに、金持ちになること自体が悪いのではなく、その金をどう使うかということではないでしょうか。自分の享楽や邪悪な目的のためにお金を使う金持ちは天国に入れないと、キリスト様は云ってるのだと思います。

 この点、ビル ゲイツさんは途上国の子供を援助する基金を作ったり、その他いろいろな善行にお金を使ってますから、まず天国行きは大丈夫でしょう。

 ルカによる福音書第16章19-31には、贅沢三昧に暮らした金持ちと貧しいラザロの話が出てきます。金持ちは豪華な衣服に身をつつみ、ご馳走を食べ、贅沢な生活をしていました。一方、貧しいラザロは全身が膿みただれ、金持ちの家の門前に横たわり、残飯で飢えをしのぐ悲惨な生活をおくっていました。

 ラザロは死ぬと天使につれられて天国にいきました(聖書にはラザロはアブラハムのふところに入ったと書いてあります)。しかし、金持ちは死ぬと死者の国へ行き苦しみます。 ま、難しい聖書解釈の話はおいといて、俗な云い方をすれば人生の帳尻は必ず合うということでしょうか。

 シャルルロワ地方裁判所の判決は、個人的にはちょっとおかしいと思います。お金持ちであることそのものは罪ではないでしょう。何もしないで親から巨額の財産を受け継いだ人は別にして、今お金持ちになっている人は、他人の何倍も努力をしたり、人知れず辛酸をなめてきたかもしれません。

 お父さんも、お母さんや子供達の知らないところで、大変な苦労をしてしてますよね。休みの日ぐらい、家でぐうたらしていたいですよね。分かりますか、お母さん。

No.172.2000年の奇跡と危機

No.172.2000年の奇跡と危機



 カトリック教会が揺れてます。揺れてるどころか、激震がはしってるといってもいいでしょう。

 震源は教会の一部の聖職者によってひき起こされたスキャンダルです。スキャンダルは、ペドフィリ(Pedophilie)と呼ばれる小児性愛者の聖職者が、地位や活動の場を利用して年少者と性的関係をもったり、これを強要したり、或いは性的虐待を行っていた事実が世界各国で明るみ出てきたことです。ヨーロッパのプレスの中には、このスキャンダルを16世紀の宗教改革以来の大激震と評した新聞もありました。

「Pedophilie」は仏語のスペルですが、他のヨ-ロッパの言葉でもphがfになるか、語尾が変わるぐらいで、語幹は一緒です。「Pedo」はギリシャ語で子供の意味です。小児科のお医者さんをPediatreといいますが、語源は「Pedo」からきています。「Phile」はギリシャ語で愛するという意味です。哲学をPhilosophiaといいますが、これは“知恵を愛する”という意味になります。明治の初期にオランダに留学した西周(にしあまね)が、Philosophiaに哲学という訳語を当てはめました。

 もう一つ余談ですが、東京の四谷にある上智大学を横文字ではSophia Universityといいます。この場合の「上智」、「Sophia」は聖母マリアを称える言葉からきています。カトリックには聖母マリアを称える言葉がいろいろありますが、そのなかに「上智の座」という言葉があります。これは ラテン語の「Sedes Sapientiae」のカトリック教会訳です。直訳すれば「知恵の座」という意味です。上智大学を創設したイエズス会の神父さんたちは、ラテン語のSapientiaより語呂のいいギリシャ語の  Sophiaを大学名にしたのでしょうか。

 生意気にもギリシャ語やラテン語を持ち出してますが、みんな聞きかじりです。昔々の若いころ、中世の古文書を読むために必修でやらされたこれらの言語が、衰退甚だしい脳の片隅に残っていたというだけの話です。 

 ぺドフィリは日本では余り聞かない言葉ですが、小児性愛者は確率の問題でどの国民の間にもいますので、日本にも必ずいるはずです。日本は社会的規制が厳しいので、余り表面に出てこないのかも知れません。これは一種の倒錯的性癖をもつ人間のことで、欧米社会に多いような気がします。

 このぺドフィリが、教会の聖職者のなかにもいました。教会といえども、人間の集まりですから、確率の問題でそういう人間の存在がゼロとはいえないでしょう。しかし人を教え導く立場にある聖職者のなかにペドフィリがいたという事実には、ちょっと引きますね。

 スキャンダルが明るみにでた発端は、アメリカでかってペドフィリの被害にあった人達が、教会や神父を訴え始めたことでした。そしてこの動きはヨ-ロッパにも飛び火し、カトリック国、アイルランドでは、ペドフィリの被害者の訴えにもかかわらず、該当する神父をかばっていた司教が辞任に追い込まれました。ヨ-ロッパ各国でもかっての被害者が次々と名乗りをあげ、訴訟その他の手段でぺドフィリ聖職者の弾劾を始めました。

 ベルギ-も例外ではなく、長い間沈黙を強いられてきた犠牲者が証言を始めました。

そして、とんでもない爆弾が炸裂したのです。あろうことか、ブル-ジュの現職司教が司教に選ばれる前の教区司祭のころから親戚の少年に対してペドフィリ行為を行い、司教就任後もしばらくの間その行為を繰り返していた事実が判明したのです。ブル-ジュの司教は、事実が公表された段階で司教職辞任をヴァチカンに提出し、ベネディクト16世教皇は即座これを受理しました。

 カトリックがマジョリティ-のベルギ-で、ブルージュ司教のスキャンダルは国民に大変な衝撃を与えました。 

 司教とは、キリストの12使徒の後継者とみなされています。ですから、司教に選ばれるということは、その人が揺ぎない信仰の持ち主であり、カトリックの教義に対する深い学識があり、人格の面でも高潔、その身辺が清潔な人でなければなりません。教区の最高指導者として信者のみならず、人々の模範となるべき人物が選ばれます。 ブル-ジュの司教は、今から25年まえに厳しい選考基準をクリアして司教に任命されました。同司教は、ブル-ジュの教区民から寛容で行動的な司教として敬愛されてきたそうです。

 ご覧になった方もおられるでしょうが、毎年キリスト昇天祭にブルージュで聖血行列が行われます。中世の王様や王妃、聖職者、各種職業ギルド、農民、市民がその当時の服装で、ブル-ジュの街をねり歩きます。一種の時代祭りですが、行列の中心になるのが聖血です。聖血とは、十字架上でキリストの身体から流された血ということになってます。ミラノの聖骸布と同じで、真偽のほどは分かりません。

 聖血がどうしてブル-ジュにあるのかについては諸説がありますが、一番流布しているのが次の説です。12世紀に、十字軍に参加したロレーヌ伯にしてフランドル伯のThierry d’Alsaceが聖地エルサレムからクリスタルの小さな容器に入った聖血を持って、ブル-ジュに凱旋したという説です。

 聖血の入った容器は黄金の筒に納められ、ブル-ジュの市庁舎横にある聖血教会に安置されてます。そして、毎週金曜日になると乾いた聖血が液化するとう言い伝えもあります。聖血行列の日、黄金の筒は聖櫃に納められ、これをブル-ジュの司教と聖職者、聖血行列保存会のメンバ-などが担いでねり歩きます。聖血行列のサイトを開けると、問題の司教が司教の祭服をきて聖櫃を担いでいる写真があります。もっとも彼の写真は、ベルギ-の新聞、テレビにでかでかと出ましたので、わざわざサイトを開ける必要はないかも知れません。ちなみに、今年の聖血行列には司教は勿論聖職者の姿はありませんでした。

 今年73歳になるブル-ジュ司教は現在フランドルのトラピスト修道院に隠棲し、教会法による裁きと、西フランドル検察庁の調べを待ってます。地元紙は、ヴァチカンは教会法上最も厳しい処罰を課すであろうと伝えています。それは、司教、聖職者の身分剥奪、俗人として教会から追放されるという処罰だそうです。 

 カトリック教会のスキャンダルに対して、まったく興味のない方もおられるでしょう。木枯紋次郎のように、“あっしにゃは関わりのねえことでござんす”とニヒルなことばを残して、上州路の旅を急ぐ方もおられるかもしれません。

 でもちょっと踏みとどまって考えてみてください。わたしたちは縁あってベルギ-に住んでます。ヨ-ロッパという文化圏に住んでます。

 キリスト教に興味があろうとなかろうと、好きだろうと嫌いだろうと、ヨ-ロッパの歴史、文化の土台の重要な部分を占めているのが、キリスト教、特にカトリック教会の歴史である事実を否定することは出来ません。

 クリスチャンの方は別にして、一般のわれわれ日本人がキリスト教との接点をもつ機会とは、どんな場合でしょうか。

 子供の時、近所の教会の日曜学校に行ったことがある。通っていた幼稚園が教会付属の幼稚園だった。小中高校がミッションスク-ルだったので、校長先生や先生のなかにシスタ-や神父さんがいた。初恋の彼女がミッションスク-ルに通っていて、その制服が忘れられない。大学がキリスト教系だったので、一般教養の科目にキリスト教についての科目があった。チャペルや礼拝堂をのぞいたことがある。カトリックの大学でロ-マンカラーをつけた神父さんの授業を受けた。結婚したい相手がクリスチァンで、彼女に連れられて教会の門を初めてくぐった。長崎に旅行した時、大浦天主堂を見学したことがある。教会で結婚式をあげた等々。ま、日本国内でのキリスト教との接点といえばこんなところですか。

 キリスト教の知識なしに、ヨーロッパの多くの絵画や芸術作品を理解することは困難です。近いところでは、ゲントの聖バ-フス教会にあるファンアイクの傑作「神秘の子羊」だって、キリスト教の知識なしではちんぷんかんぷんの代物です。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂の「最後の審判」やサンピエトロ大聖堂の「ピエタ像」を見ても、作者のダヴィンチやミケランジェロが表現したかった深い意味はわからないでしょう。ヨーロッパの絵画、芸術作品の深い意味など分からなくてもいい、世界の名画や芸術作品をこの目で見ただけで満足、という方もおられるでしょう。それはそれでいいかもしれません。しかし、せっかくヨ-ロッパに住む機会に恵まれたのですから、ヨ-ロッパ文明の地下水的存在であるキリスト教について、ちょっとは理解を深めてもいいのではないでしょうか。

 皆さんが知っているキリスト教には何がありますか。カトリック、正教会(オルトドックス)、プロテスタント、聖公会(アングリカンチャ-チ)などですか。調べるのに、日本のキリスト教系の学校から割り出した方が早いかもしれません。数からいえば、青山、ICU、何々学院系などプロテスタント系が多いですね。聖公会系で有名なのが立教です。カトリック系は上智、聖心、白百合、南山などです。他に受験校で有名な、ラサ-ル、栄光学園などもカトリックです。正教会だけは日本で教育事業に進出してません。神田のニコライ堂は有名ですが。

 どんな宗教でもそうですが、宗祖の教えから必ず分派がでてきます。キリスト教が分かれているように、イスラム教には大別するとスンニ派とシ-ア派があります。世界の回教国では、スンニ派が圧倒的多数派です。イランは数少ないシ-ア派が主流の国です。仏教では、東南アジアの小乗仏教と中国や日本の大乗仏教、これに数知れない宗派があります。

 みなさんの家或いは実家は何宗ですか。わたしの実家は時宗です。時宗は鎌倉末期に一遍上人が開いた浄土宗系の宗派で、本山は神奈川県の藤沢にある遊行寺です。 

 実家の隣が時宗のお寺で、子供のころの遊び場でした。寺の住職の長男で当時大学生だった快然(かいねん、敢えて呼び捨て)に、ゲンコツを喰らったことを思い出します。このお寺の庫裡の裏手に、大きな柿の木が何本か生えてました。ある日、わたしは近所の悪ガキどもと一緒に、ここの柿を盗りに行きました。ところが、運わるく快然坊主(かれは坊さんではありませんでしたが、われわれはこう呼んでいました)に見つかってしまいました。われわれ悪ガキどもは柿の木から飛びおり、いっせいに逃げ出しました。

 寺の後ろは一面のたんぼで、取り入れの終わったたんぼのところどころに稲藁が積み上げられていました。追いかけられた仲間はそれぞれ稲藁の陰に隠れたのに、わたしはひたすら田んぼの間の一本道を走り続けました。大人と子供の足ですからたちまち追いつかれ、涙が出るほど痛いゲンコツを喰らいました。

 今にして思うのですが、なぜ自分は他の仲間たちのように、横道にそれて稲藁の陰に隠れなかったのかということです。人生、王道を行くことだけが正しいのではない、たまに横道にそれるのも必要な時がある、という真理を知るべきでした。

 本稿では横道にばかりそれてますが、本題に戻りましょう。

 キリスト教は1054年まで一つの教会でした。カトリックも正教会もプロテスタントも聖公会もありませんでした。世界史の教科書には、「東西教会の大分裂」と出てますが、1054年にロ-マ教皇とコンスタンチノ-ブル総主教の相互破門とい事件がありました。ローマを中心として西方教会とコンスタンチノーブルを中心とした東方教会の間には、分裂前から文化や言語の違い、教会典礼の違い、神学論争、司祭の妻帯問題、ローマ教皇の首位権の問題など、大きな溝ができていました。

 分裂後の東方教会は、自分たちこそ使徒伝承の正統派教会であるとして「正教会」、「Orthodoxe」を名乗ります。ギリシャ正教会、ロシア正教会、を中心に、ル-マニア、ブルガリア、セルビアなど東欧圏に信徒が多いです。各正教会は独立しており、ロ-マ教皇のように絶対的首位権をもった総主教はいません。十字の切り方が西方教会と反対です。

 プロテスタントは、16世紀始めにルターが狼煙をあげた宗教改革が発端となって始まった新しい教会です。ルタ-はアウグスチノ修道会の修道士として、カトリック教会の内部からの改革を目指しました。しかし、諸侯の政治的目論見や、ローマ教会の腐敗に失望していた民衆の支持を受け、カトリックに対抗する大きな教会運動として発展していきました。プロテスタントは、教皇や総主教のような教会を統一する権威の存在を認めませんので、次々と新しい宗派や分派が出てくるのは避けられません。

現在、世界中にどれだけのプロテスタント系宗派が存在するのか、見当がつきません。プロテスタントはカトリックや正教会と違って聖母マリアの崇敬をしませんし、教会に聖画、聖像の類を置きません。

 幕末に、居留外国人のために幕府が建設を認めた長崎浦上の天主堂に、おそるおそる入ってきた隠れキリシタンたちが、そこにいた外国人神父にした質問は、“あなた方はサンタマリアを敬うか”だったそうです。

 聖公会、アングリカンチャ-チの起源は、イングランド国王の離婚問題です。

イングランド国王ヘンリ-8世は、王妃アラゴン王家出身のカテリーヌと離婚して、愛人アンヌ ブーリンとの結婚を考えました。ヘンリー8世はロ-マ教皇に王妃との婚姻無効宣言を請願しましたが、教皇クレメンス7世はこれを拒否しました。この拒否を受けて、ヘンリ-8世は1531年にロ-マ教会との関係を絶ち、自らを全イングランドの教会の首長であると宣言しました。教皇はヘンリ-8世を破門し、決裂が決まりました。 その後いろいろな紆余曲折はありましたが、聖公会はイギリスの歴史と共に発展し、本国以外ではイギリスの旧植民地国などに信徒が多くいます。聖公会は教義、典礼の面でカトリックに非常に近い教会です。

 今スキャンダルに揺れているカトリック教会は2000年の歴史と、全世界に11億といわれる信者数を擁する、統一した組織をもつ教会としては世界最大の教会です。

 カトリック教会の大きな特徴は、主権をもった国家機構を持っていることです。これは世界のどの宗教にもない特殊性です。ヴァチカン市国(外交上の正式名称:The Holy  See、聖座)と呼ばれる超ミニ国家は、現在172の国と外交関係をもち、大使を交換しています。国連の加盟国が189ですから、大変な数です。アジアの主な国では、中国とベトナムがヴァチカンと国交を樹立していません。

 カトリック教会の歴史をみれば、スキャンダルや腐敗の例はいくらでもあります。清貧、貞潔の誓いを立てた聖職者が妻帯したり、聖職禄を売買したり、教皇が妾に子供を産ませたり、免罪符を売りさばいて私腹を肥やしたり等々、きりがありません。

 歴史上の事実として、教会が腐敗して危機的状況になると必ず聖人が現れわれて教会を建て直してます。13世紀には聖フランシスコや聖ドミニコが現れてます。宗教改革の後には、聖イグナチオがイエズス会を創設し、カトリック教会再建に強力な働きをしています。今回のぺドフィリ騒ぎとは別ですが、現代にもマザ-テレサやダミアン神父のような聖者がいます。

 もし教会に奇跡があるとしたら、カトリック教会が2000年も続いていることが最大の奇跡ではないかと、スキャンダルの歴史を見ながら考えます。 

 ところでお父さん、お母さんとの歴史が今日まで続いたのはのは、お母さんの愛情と優しい心が奇跡を呼びおこしたのですよ。わかってますか。                     

No.173.ベルギ-王室物語

No.173.ベルギ-王室物語



 ベルギ-の政治危機は、特効薬のない慢性の病気みたいなもので、季節の変わり目とまではいかなくても、折にふれてその姿をあらわします。病根を取り除くことが出来ないかぎり、この慢性病はベルギ-という国を今後も蝕み続けることでしょう。

 フラマン語圏とフランス語圏両共同体の対立による連立政権の崩壊、総選挙、政党の新しい勢力分野の確立、長い長い政権交渉の末の連立政権樹立、そしてまた政権の崩壊、わたしたちがお世話になっているベルギ-は、こういう政治危機を何度も何度も繰り返してきました。

 この国に政治危機がおこるたびに、その解決に献身的な努力をする人物、国民が期待の目をもって見つめる人物がいます。それはベルギ-の国王です。

 6月13日(日)にあったベルギ-の総選挙で、N-VA(新フラマン同盟)というフラマンの政党が驚異的な躍進をとげました。この政党は、フランドルのベルギ-からの分離、独立を党の綱領に掲げている政党です。フラマン語圏で3人に1人が分離独立推進政党に票を入れたことになります。選挙前のフラマン語圏の世論調査では、フランドル独立を望む人は全体の18%でした。フラマン圏の圧倒的多数の人々は、ベルギ-国の解体を望んでいませんでした。

 今回の選挙結果にともなうベルギ-の政治情勢の記事が日本の新聞にも出たらしく、心配した日本の家族から電話がかかってきました。

「ベルギ-がなくなるかもしれないんだって。そうなったらおまえどうするのよ。日本に引き上げてくるの?」

「大丈夫だよ。そんなに簡単にベルギ-はなくならないから。万が一フランドルが分離独立したら、ブリュッセルとワロン地方が一緒になって国をつくり、ベルギ-という名前を続ける話もでてるんだから」

「そうかい、わたしたちにはよくわからないけど、おまえもめんどうな国に住んでるんだね。ま、身体には気をつけてね」

 選挙の翌日6月14日(月)から、アルべ-ル二世国王はラーケン宮において、恒例の国王諮問を開始しました。トップバッタ-は先の内閣のルテルム首相です。同首相は連立政権崩壊の際に、すでに国王に辞表を提出してますが、慣例により総選挙後にあらためて辞表を提出しました。国王はこれを受理し、元首相に次の内閣ができるまで通常の政務を処理するように要請します。続いて、上院議長及び下院議長が国王諮問に呼ばれます。

 この日の国王諮問のハイライトは、なんといっても総選挙最大の勝利者であるN-VAのドウェヴェ-ル党首との会談でした。アルべ-ル二世国王とドウェヴェ-ル党首との会談には、特別な意味合いがあります。なぜなら、同党首は王制廃止論者、すなわち共和制主義者だからです。

 つまり、「おれたちが天下をとったら、あんた(国王)なんかクビだかんね」と、宣言している人間が国王と会談をするわけですから、なんとも変な具合なのです。地元の新聞に、王宮での会談を終えて、国王に見送られて出てくるドウェヴェール党首の写真がのってました。かれは日頃からネクタイをしませんが、この日もノ-ネクタイ姿でした。国王も周囲の人も全員ネクタイ姿なので、かれのノ-ネクタイ姿がひときわ目立ちました。

 通常どんなにラフな格好をしている人でも、王宮で国王と会うとなればネクタイぐらいはするものです。ドウェヴェ-ル党首は王制廃止論者なので、その必要を認めなかったのでしょうか。それとも、太い首まわりりとシャツのボタンをかけるのに苦労するぐらい出っぱったお腹が、ネクタイ着用を難しくしているのでしょうか。同氏の子供たちの証言によれば、パパはフリッツが大好きで、家にチョコレ-トやチップスがあると、全部食べてしまうのはパパなんだそうです。 

 個人的な考えですが、自分の主義主張にかかわらず、面談する相手の社会的地位や立場によって、自らの服装や身なりに注意を払うのは、社会人として最低の礼儀ではないでしょうか。まして、公党の党首の立場にあるわけですから、ドウェヴェ-ルさんももうちょと礼儀を守るべきだったと思います。 

 新聞の見出しは、“ドウェヴェ-ル氏、ノ-ネクタイで王宮へ”でした。そして、7月12日付けの同じ新聞が写真入りで、“ドウェヴェール氏、ネクタイ着用でフラマン共同体祝日式典へ出席”と報じました。確かに、きちんとネクタイをした同氏の写真が載ってました。

 余談ですが、フラマン共同体の祝日は7月11日です。1302年7月11日に「黄金の拍車の戦い」と呼ばれる戦いがありました。この日は、現在のコ-トレイク市の近くでフランス軍とフラマン軍が戦い、フラマン軍が勝利をおさめた日です。つまり、フランス語を話す話す連中をやっつけた日が、フラマン共同体の公的祝日になっているわけです。

 ドウェヴェール党首の次に国王が王宮に召致したのは、フランス語圏で勝利をおさめた社会党のディルポ党首でした。ディルポ党首は、ドウェヴェールさんとちがってすらりとした長身で、トレ-ドマークの蝶ネクタイが似合うなかなかの男振りです。ベルギ-南部の炭鉱地区に、貧しいイタリア移民の子供として生まれ、お母さんは文字が読めなかったと、ディルポさん自身が語っています。

 大学の専攻は化学で、博士号をもってます。頭脳明晰、弁舌爽やかなかれは、社会党のホ-プとして頭角を現してきました。政治家としての資質も、フランス語圏の政治家のなかで群を抜いているといわれてます。いまやディルポ氏は次の内閣の首相候補になっています。もし実現すれば、30数年ぶりにフランス語圏出身の首相が誕生します。

 一つネックになるのが、ディルポさんのオランダ語のレベルです。フラマンの人に云わせれば、かれのオランダ語のレベルは初級の上か中級の下だそうです。ただ、ディルポさんの偉いところは、週2回オランダ語の個人レッスンをとって一生懸命勉強していることです。選挙後の社会党本部での記者会見でも、一生懸命オランダ語を話してました。

 政治危機のたびに重要な役割をはたすベルギ-国王ですが、危機が去ると“のどもと過ぎれば”なんとやらで、政治家や国民の一部に国王や王族にたいする批判、国王の地位の変更を要求する声がでてきます。

 今回の政治危機の前に、国王の権限を大幅に縮小し、国王の地位を純粋に儀礼的役割に限定すべしという議論がフラマン系の政党からでていました。

 同時に、国王夫妻の宮廷費並びに王族に対して支給される国家予算の削減も議論されました。特に、2009年の王室関係費が2008年にくらべて6%の上昇したことが、批判を呼びました。この年のベルギ-のサラリーマンの平均給与上昇率が3.24% だったので、批判が厳しかったようです。

 2009年に国王夫妻、ファビオラ元王妃、国王の3人の子供に支給された国家予選は13,853,000ユ-ロでした。この金額が多いのか少ないのか、比較のしようがないので分かりません。

 ただ比較の対象として、ベルギ-の王制とフランス大統領制を比べてみることができます。2009年にフランス国民はエリゼ宮の経費を含むフランス国大統領制維持のために、国民一人当たり1.66ユ-ロを負担しました。このなかに、サルコジ大統領夫人、カルラ ブルニさんの衣装代や化粧品代が入っているのかどうかは知りません。

 一方、べルギ-国民は王制維持の経費として、2009年に国民一人当たり1.54ユ-ロを負担しました。これを見ると、王制の方が大統領制より12セント安いことになりますね。

 ヨーロッパで一番お金がかかっている王室は、なんといってもイギリスの王室だそうです。イギリスの新内閣は王室経費の8%削減をきめました。エリザベス女王さんもいろいろと大変でしょうね。といっても、王室経費の大きな部分を占めるのは各宮殿の維持費や職員の人件費だそうですから、エリザベス女王さんが朝食のト-スト2枚を1枚に減らすといった個人的節約をする必要はないのでしょう。(ト-ストだなんて、発想が貧困ですね)

 ベルギ-の正式な王室メンバ-は大人が9人、子供が12人で、合計21人です。王室の正式なメンバ-とは、王位継承権の序列につらなる王族をいいます。

 現在の王位継承権の序列は、フィリップ皇太子が第一位で、次が皇太子夫妻の長女、エリザベ-トちゃんです。ですから、ベルギ-の次の次の王位は女王さんが継ぐことになります。ベルギ-の王位継承権は、かっては男子にのみ認められていましたが、憲法改正により男女の別なく長子継承に改められました。

 ヨ-ロッパの王位継承が男子に限られてきた伝統は、4世紀から6世紀にかけて勢力をもってきたフランク族の支族、サリ族の部族法に起源を見ることができます。この部族法は、最初のフランク王となったクロヴィスが、511年に「サリ法」としてフランク王国に公布しました。この法は土地の相続や王位継承から女性を完全に排除しています。ただ、「サリ法」は相続や王位継承だけの法律ではなく、フランク王国内のさまざまな規則や罰則を規定した法典でもありました。その中には、女性を尊重した面白い罰則も見られます。

 女性の手に触れた者:15ス-の罰金
 女性の手から肘に触れた者:30ス-の罰金
 女性の肘から肩に触れた者:35ス-の罰金
 女性の胸に触れた者:45ス-の罰金

当時の1ス-がどのぐらいの価値があったのか分かりませんが、こういう罰金があったということは、女性が大事にされていた証拠ではないでしょうか。別の見方をすれば、痴漢行為を行う不届き者は、フランク王国にもいたということになりますか。

サリ法の伝統はフランス王国に引き継がれ、これがヨーロッパ中の王国に広まっていきました。しかし現在は、サリ法の伝統を守っているヨ-ロッパの王室はありません。

 ベルギ-の正式な王室メンバ-は21人ですが、これ以外にも、王家の血をひく人がいます。例えば、現国王の父親、レオポルド三世は夫人のアストリッド王妃が事故死したあと、フランドルの某州知事のお嬢さん、リリアンさんとできちゃった再婚をしました。この再婚によって生まれた3人の子供はベルギ-のプリンス、或いはプリンセスの称号は許されてますが、王位継承権は持ってません。

 他に、ベルギ-では知らない人がいない王家の血を引く女性がいます。現国王アルべ-ル二世の隠し子、デルフィンさんです。

 デルフィンさんは、現国王が兄のボ-ドワン国王のもとで気楽な弟殿下の身分を享受していたころ、ベルギ-のさる貴族の奥さんとの間にできた子供です。デルフィンさんの語るところによれば、子供のころ、父親のアルべ-ル殿下は家に来てよく遊んでくれたそうです。しかしボ-ドワン国王の急逝により、思いがけなく王位に就くことになったアルべ-ル二世は、デルフィンさんとの関係を完全に絶ちました。親子の縁さえも切ったといわれてます。

 今、結婚してロンドンに住んでいるデルフィンさんは彫刻家、画家として活躍しています。ベルギ-でも何度か個展を開いてます。彼女はベルギ-の新聞にこんな談話を発表しています。「わたしはプリンセスの称号も、王族の身分もいらない。わたしが望むことはただ一つ、父親から娘として認めてもらうことだけ」と。

 アルべ-ル二世は国王となった今、娘、デルフィンさんの願いを簡単にきいてあげることができない苦しい思いを胸に秘めているのかもしれません。

 ところで、国王がまだ六代目というある意味では若いベルギ-王室ですが、その家系はヨロッパの各王室と比べた場合、どのような位置にあるのでしょうか。

 調べてびっくり、ベルギ-王室の家系図は実に膨大にして多岐にわたっています。ここで、ベルギ-王室の家系に連なる歴史上の人物をみてみましょう。

 初代ベルギ-国王、レオポルド一世の姪にあたるイギリスのヴィクトリア女王から現在のエリザベス女王までの2人の女王と4人の国王、フェルディナンド国王から最後の国王マヌエル二世までの5人のポルトガル国王、メキシコ皇帝マクシミリアン妃シャルロット、ハプスブルグ家皇太子ロドルフの妃ステファニ-、フェルディナンド一世国王から最後の国王シメオン二世までの3人のブルガリア国王、ロシア最後の皇帝ニコライ二世の妃アレクサンドラ、ハ-コン七世から現在のハロルド五世までの3人のノルウェ-国王、コンスタンチノス一世国王から最後の国王コンスタンチノス二世までの4人のギリシャ国王、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世、現スエ-デン国王カ-ルグスタフ、現スペイン国王ホアンカルロス、現デンマ-ク女王マルガレ-タ、最後のイタリア国王ウンベルトの妃マリ-ジョゼ、最後のルーマニア国王シャルル二世、最後のユ-ゴスラヴィア国王ピエ-ル二世、現ルクセンブルグ大公アンリ等々です。

 ベルギ-王室は、王制廃止になっている国の旧王室をふくめ、ヨロッパの各王室とはほとんど親戚関係にあるといってもいいでしょう。

 ヨ-ロッパ中に張りめぐらされたこの王室のつながりは、万世一系の皇室をいただくわれわれ日本人にはちょっと理解が難しいかもしれません。天皇陛下や皇后陛下を外国からお迎えするなんて、考えられますか。ヨ-ロッパの歴史は、われわれの想像を超えるほど懐が深いということでしょうか。

  ベルギ-王室の家系図を勉強していて驚いたのは、この膨大にして複雑なヨ-ロッパ王室の源が、たった一組のカップルから出ているという事実です。

 そのカップルとは、現在のドイツに1800年代に存在したサックスコブ-ルゴタ大公国(Duché de Saxe-Cobourg et Gotha)のフランツ一世と妃のソフィ-夫妻です。この大公夫妻こそが、初代ベルギ-国王レオポルド一世の両親であり、イギリスのヴィクトリア女王の祖父と祖母のあたります。 

 フランツ一世のあとを継いだエルネスト一世大公は、たぐい稀なる外交センスと政治的資質の持ち主で、自分の兄弟、姉妹、甥や姪をヨ-ロッパ各国の王位につけることに成功しました。その枝葉が上記した王様や女王様たちなのです。 

 民族の違いをこえて縦横無尽に婚姻関係を結ぶヨ-ロッパの王室のあり方に、国家間のさまざまな利害関係や地政学的思惑が介在していることは間違いありません。しかし、ヨーロッパ全域に網の目のように張り巡らされた王室の婚姻関係に、EUという世界史上類を見ない超国家機構成立に関する秘密の一端を見るのは、わたしの思い過ごしでしょうか。

 未来のベルギ-女王、エリザベ-トちゃんの体内に流れる民族の血が、いくつあるか数えてみましょう。彼女の体には、ドイツ、フランス、オ-ストリ-、イタリア、ベルギ-、ポーランドと、ざっと数えて六つの民族の血が流れてます。エリザベ-トちゃんが将来他民族の夫を持った場合、血の枝葉はさらに広がっていくわけです。

 あの愛らしいエリザベ-トちゃん一人が、こんなにもたくさんのヨ-ロッパの民族を体現しているところに、われわれが逆立ちしても適わないヨ-ロッパの奥深さがあるような気がします。

 ところでお父さん、お父さんの体にはどんな血が流れていますか。なに、顔の彫りが深いといわれますか。でも、単なる奥目でしょう、それは。 

No.174.宮廷の恋物語

No.174.宮廷の恋物語 



 なんとなく華やかな印象を与えるタイトルです。 当たり前のことですが、自分にとって“宮廷の恋”など、未知の世界であり、想像の世界にすぎません。この未知の世界に分け入るためには、どうしても歴史をさかのぼらなければなりません。

 皆さんは、“宮廷の恋”という言葉から何を連想しますか。「源氏物語」ですか、或いは「ベルサイユ宮殿」ですか。わたしはどちらかというと、ベルサイユ宮殿を連想します。昔、宝塚歌劇団のミュージカル「ベルサイユのばら」が大ヒットしましたね。同ミュ-ジカルは1974年の初演から2006年1月の最終公演まで、なんと上演回数が1500回,動員観客数が400万人だったそうですから凄いです。

 「ベルばら」ヒットの秘密は何でしょうか。秘密の一つは、主人公や登場人物の大半が華麗な血筋を誇る貴族や王族だからではないでしょうか。昔から、大衆は高貴な血に憧れます。お金の心配など、生まれてから一度もしたことのないリッチな階層に憧れます。ただし、いくらお金を持っていても成金は憧れの対象にはなりません。
 昔、日本のテレビで「シャボン玉ホリデ-」というバラエティ-番組がありました。番組に毎回でてくる場面に次のような場面がありました。
 ザピーナッツ姉妹が演ずる貧乏長屋の二人娘が、「おとっつぁん、お粥ができたよ」
と呼ぶと、中風でヨイヨイになったハナ肇演ずるおとっつぁんが、「いつもすまないねえ」といいながら、ボロ寝巻きを着て鼻水をたらしながら、破れ障子の向こうから出てきます。ここでどっと笑いが入ります。大衆は、こういう貧乏長屋のヨイヨイおとっつあんや孝行娘には憧れません。なぜなら、貧乏長屋の世界は自分たちにとって未知の世界ではないからです。「ベルばら」の世界が向こう側なら、貧乏長屋はこちら側なのです。大衆は自分たちの世界から隔絶した世界に憧れます。

 宮廷の恋物語を語るとなると、舞台はどうしても16世紀のフランスになります。宮廷文化華やかなりし16世紀のフランスに行かなければなりません。
 フランスの宮廷に華やかさと輝きを与えた王様はフランソワ一世(1494-1547)です。この王様は「女性のいない宮廷は春の来ない年と同じ、美しい花の咲かない庭園と同じ」といって、貴族階級の夫人や令嬢を宮廷に侍らせました。

 フランソワ一世は数ある方言の中からフランス語を王国の公用語に定めた人です。また彼は、神聖ロ-マ皇帝、カール五世(ゲント生まれでわれわれに馴染みの深い人)とヨ-ロッパの覇権を終生争った人でもあります。
 そしてこの王様は、皆さんもよくご存知のロワ-ル地方の有名なお城、ブロワ城、アンボワーズ城、シャンボ-ル城などを築いた人です。
 ルーブル博物館にフランソワ一世の肖像画がありますが、面長で、すっと通った貴族鼻に美髭を蓄え、なかなかの美丈夫です。

 フランソワ一世は当時の王様たちの例のもれず、恋多き王様でした。王の有名な愛人はシャト-ブリアン伯爵夫人フランソワ-ズ(Françoise , La comtesse de Chateaubriant)です。夫の伯爵ジャンは、美貌の夫人が王の目にとまることを恐れ、夫人が宮廷に出入りすること禁じていました。しかし伯爵夫人の噂を聞いていたフランソワ一世は、ある策略を用いて夫人を宮廷に呼び出しました。そして、夫人にひと目惚れしてしまいました。伯爵夫人は夫のある身として、王の求愛を厳しく拒絶してましたが、王の情熱に負け愛人関係に陥りました。そして以後は、王を深く愛するようになってしまったのです。王には妃がいましたので、今でいうW不倫です。
 夫人と王様の関係に嫉妬したシャト-ブリアン伯ジャンは、夫人を殴ったり、剣をつきつけて殺すといったりしたそうですが、王様には敵いません。王様に、“フランソワ-ズに危害をくわえることがあれば、汝の首ははねる”といわれては、どうしようもありません。

 この話には続きがあります。
 フランソワ一世のお母さんルイ-ズドゥサヴォワ(Louise de Savoie)は、息子の愛人を毛嫌いしてました。ルイ-ズは王の関心をフランソワ-ズから別の女性に向けるべく、ある機会に、宮廷に仕える令嬢の中から、アンヌドゥピセロ-(Anne de Pisseleu)という令嬢を王に紹介しました。アンヌはブロンドに青い眼の美しい女性でした。その上に性格が快活で明るく、たちまち王をとりこにしてしまいました。息子が惚れやすい性格であることを知っていたお母さんの策略は、見事に成功しました。それにしても、お母さんが息子の不倫相手を一生懸命探してくるなんて、どうなっているんでしょうね。当時の上流社会には、不倫の概念はなかったのでしょうか。

 女性に惚れっぽい王様は、アンヌとフランソワーズを二人とも愛人としてキープしたかったのですが、フランソワ-ズはこれを拒否し、夫の居城へ帰ってしまいました。しかし彼女は、その後不幸な人生をおくることになります。
 いくら相手が国王とはいえ、他の男を本気で愛した妻を、夫のジャン伯は赦しませんでした。居城にある狭い部屋の窓を黒いカーテンで覆って真っ暗にし、そこに夫人を閉じ込めてしまいました。夫人は生涯この部屋を出ることを許されませんでした。一説では、夫人はジャン伯の刺客によって命を絶たれたともいわれてます。他の女に心を移した王は、もう彼女をかばってはくれませんでした。
 宮廷の恋などといえば華麗な出来事に聞こえますが、中身は男と女のどろどろした愛憎劇なんですね。

 フランソワ一世の跡を継いで王位に就いたのが息子のアンリ二世です。この王様の場合、奥さんも愛人も歴史に名を残した人です。
 まず奥さんですが、アンリ二世の妃はかの有名なカテ リ-ヌドメディチ(Catherine de Médicis)です。イタリアはフィレンツェの名家、メディチ家に生まれたカテリ-ヌは14歳でフランス王の息子アンリと結婚しました。新郎のアンリも14歳でした。
 しかし、イタリアからお輿入れしてきたカテリ-ヌを待っていたのは、夫アンリとの楽しい新婚生活ではありませんでした。
 なぜなら14歳のアンリにはすでに愛人がおり、かれはこの愛人に夢中でした。愛人はアンリより20歳も年上の伯爵夫人ディアンヌドポワティエ(Dianne de Poitiers)でした。ディアンヌは美貌と聡明さと気品をそなえた宮廷夫人のモデルでした。美貌と若さを保つ秘訣は、新鮮な空気と清冽な水だったそうです。彼女は60歳になってもなお、男をひきつけてやまなかったそうですから大したものです。
 ディアンヌは若き国王アンリ二世の愛人として、宮廷に隠然たる勢力をふるうようになります。ま、立場は違いますが、江戸城の大奥で権勢を誇った春日の局みたいなものです。彼女は国王の愛人でありながら、宮廷の婦女子に貞操について講義をしたといいますから、並の神経の持ち主ではなかったみたいです。

 夫の愛人が権勢をふるう宮廷で、カテリーヌの立場は気の毒でした。しかも彼女には10年近くの間、子供が生まれませんでした。不妊を理由に,妃カテリーヌをイタリアに戻すべしという勢力が、宮廷で力を増してきました。
 この時、断固としてカテリ-ヌを擁護したのが、なんと王の愛人ディアンヌだったのです。ディアンヌは政治的な嗅覚の鋭い女性だったようです。
 結婚10年目に最初の子供が生まれてから、カテリーヌは12年間で10人の子供を生みました。このうち7人が成人し、3人がフランス国王になってます。
 夫アンリ二世亡き後、カテリーヌは息子たちの摂政、或いは後見人として王国の政治に関与し、優れた政治的才能を発揮しました。王制時代のフランスで、カテリ-ヌドメディチは最も優れた王妃といわれてます。

 フランス料理の基礎は、カテリ-ヌが嫁入りの時つれてきたイタリアの料理人たちによって築かれたといわれてます。宮廷のイタリア人料理人たちは、食材の新しい調理法や、これまでの料理に洗練された味付けや盛り付けを導入しました。また、ナイフとスプ-ンだけで食べていた宮廷の食事に、フォ-クを使うようにしたのはカテリ-ヌだといわれてます。 
 別件ですが、 フランス語で、フランスの形容詞を“フランセ(Français)”といいますが、昔は“フランソワ(François)”でした。イタリア語が母国語のカテリ-ヌは“オワ”の発音が苦手で、イタリア語の“フランチェ-ゼ(Francese)”をもじって“フランセ”と発音してたのが、宮廷に広まり一般化していったのだそうです。

 カテリ-ヌには一つの欠点がありました。それは、彼女が魔術や星占いに特別な信頼を寄せていたことです。教会で固く禁じられているにも拘わらず、イタリアの魔術師を秘かに宮廷に呼んだり、有名なノストラダムを、息子で国王のシャルル九世の顧問星占い師に任命したりしました。
 ま、権力をもつ者は孤独だということでしょうか。自分の権力を超えた何ものかに頼りたくなるのでしょう。故レ-ガン大統領も、重要な決断の前に星占いの意見を聞いたというではありませんか。

 フランスの宮廷恋物語をたどるなら、本会報の全ぺ-ジを使っても書ききれません。
そこで、場所をロシアの宮廷に変えてみましょう。ロシア宮廷の恋物語を語るとすれば、生涯に20人の愛人をもったといわれる女帝エカテリ-ナ二世(1729-1796)について語らなければなりません。
 エカテリ-ナ二世はドイツの中流貴族の娘、ソフィ-として生まれました。ロシア皇太子ピョートルの妃となったソフィ-は名前をエカテリーナと改め、宗教もル-テル派のプロテスタントからロシア正教に改宗しました。そして、猛烈な勢いでロシア語をマスタ-し、ロシア人以上といわれる完璧なロシア語を話すようになりました。
 彼女の凄いところは、皇帝となった夫のピョートルをク-デタで追放し、ロシア皇帝の実権を握ったことです。粗暴で愚鈍な夫を見限り、帝国の権力を掌握したエカテリ-ナは女帝として権威をふるいます。追放された皇帝は、何者かによって暗殺されました。

 “女性の本当の愛の物語は40歳を過ぎてから始まる”とは、エカテリ-ナ二世の言葉です。そして、この言葉が本当であることを、彼女は身をもって証明します。ある時、近衛兵のなかに美貌の軍曹を見た彼女は、“彼は軍曹にしておくには美しいすぎる、大佐にすべきです”といったそうです。
 この若き軍曹ポチョムキンは、12年後、エカテリ-ナが45歳の時、彼女の愛人になります。ポチョムキンはロシア軍の将校として度々戦塵のなかにいましたが、常にエカテリ-ナへの想いを募らせていました。エカテリ-ナも若く凛々しい将校の姿を、忘れることができませんでした。
 ついに彼女は、ポチョムキンを宮廷の自分の部屋に召し出します。女帝が、ある男性を自分の部屋に召し出すということは、その男性を愛人にするいう意味です。
 エカテリ-ナは新しい愛人の出迎えを、それまでの愛人オルロフに命じます。権力を持つ者は、時には残酷なことをしますね。
 自分の立場が変わったことを悟ったオルロフは、女帝の命令に従いポチョムキンを出迎えます。二人は短い会話を交わしました。
 ポチョムキン「宮廷に変わったことはありませんか」
 オルロフ 「何もありません。わたしはこの階段を降りますが、あなたはこの階段を昇ります」
 この会話の場面は、エカテリ-ナ二世の愛人交代劇の場面として非常に有名です。

 ポチョムキンはエカテリ-ナ二世の愛人であっただけでなく、女帝の政治を助け、ロシア帝国の統治に大きな役割を果たしました。
 面白いのは、女帝の関心が他の男に移ってからは、ポチョムキン自身が女帝の愛人候補を選び、これを女帝に推薦する役目を果たしたことです。昔は、エカテリ-ナが自分で愛人を選んでいたのですが、問題山積の政務に忙殺され、愛人を選ぶ時間がなかったのです。
 愛人選考の手続きは次のようになってました。
 候補者を選考し、女帝に推薦する。女帝の承認を得る。候補者は宮廷付き医者の健康診断を受ける。宮廷の女官長的立場の伯爵夫人が候補者と一夜を共にし、候補者が女帝の愛人としての能力を備えているかどうかチェックします。畏れ入った手続きですが、これらに合格して初めて女帝の愛人になれるわけです。
 こうして見ると、「宮廷の恋物語」などという言葉は正しくありませんね。「宮廷の愛欲物語」といった方が正しいのではないでしょうか。

 ここで、宮廷の愛欲物語とは違った、純粋で爽やかな恋の物語を披露します。
 当地の日系企業の社長H.T.さんはわたしの飲み友達です。一杯飲みながら話してくれたTさんの恋物語は、次のようなお話です。
 大学1年生のT青年は、アルバイトの金を貯めて買った中古バイク、ヤマハの250ccで、夏休みに東北、北海道3週間の旅に出ました。東京を出て6日目に下北半島の大間に辿り着きましたが、折からの雨でバイクの電気系統ガいかれて立ち往生。近くにあった赤電話(1970代の話)で、ポケットにあった唯一の10円玉で下北ユ-スホステルに電話。「もしもし、今晩泊まれますか」「いいですよ」で終わり。電話をとった若い女性、こっちの名前も何も聞かない。ユ-スホステルに着くと案の定、受付のおじさんに、あんた予約ないけど電話したのと聞かれ、さっきしましたがと答えて部屋に入れてもらう。その時、奥の厨房でかいがいしく働いているお下げ髪の女の子をみて、電話を取ったのは彼女に違いないと確信する。食後にT青年は彼女に話しかけ、彼女が京都の大学の一回生で、ユ-スホステル研究会のメンバ-と知る。
 心の中に芽生えるものがあったT青年は、出発間際に勇気を出して彼女の名前を聞きました。でも、電話番号も住所も聞けずじまい。T青年は彼女、Y子さんの名前をつぶやきながら、バイクの調子が悪いので北海道はやめて秋田経由で東京へ帰る。 
 東京へ戻ったT青年は、下北ユ-スホステル気付けでY.K.さんに、“また会いたいです”と書いた絵はがきを送る。絵はがきは、彼女がアルバイトを終えてユ-スホステルを出発するその日に届く。でも、彼女からの返事はなかなか来ません。9月末に、「汚いバイク乗りのTさんへ」と書いた返事がきました。

 10月に、T青年は一番安い夜行バスで京都に行き、彼女と初デ-ト。二人でバスに乗り京都は嵐山へ。彼女が手作り弁当をもってきたことにT青年は感激。でも、後で聞いたら弁当は彼女のお母さんが作ったもの。以後、T青年はアルバイトの金が入ると、夜行バスや大垣乗換えの夜行列車で京都へ、という愛の京都行きを続けます。
 そしてTさんは、現在の会社に入社した翌年に、Y.K.さんと晴れて結婚をしました。プロポ-ズは百貨店のエスカレ-タ-の上だったそうです。
 この原稿を書いている今頃、娘さんの結婚式で日本に行ってるTさんは、「花嫁の父」の大役を勤めているはずです。多分、くしゃみをしながら。

 ところでお父さん、お母さんに40歳過ぎてからの本当の愛の物語など、始めさせてはダメですよ。責任はお父さんにあるんですから。      

No.175.こりないイタリア留学の記

No.175.こりないイタリア留学の記



 “もういい加減にしたら“という声が聞こえてきそうですが、この夏、またまたイタリアに語学の勉強に行ってまいりました。 たった2週間の語学の勉強に行っただけで、留学ということばを使うのはおかしいのですが、自分の心情としては留学したという気持ちですので言わせてください。

 今年はトスカナ地方の小都市アレッゾ(Arezzo)の学校で勉強してきました。アレッゾは、フィレンツェから電車で1時間ちょっと南にさがった所です。アレッゾと聞いて、すぐにある映画の題名を思い起こす方は、相当の映画通です。

 1998年にロベルト ベニーニ(Roberto Benigni)監督、脚本、主演でつくられた「La vita  è bella」(人生は美しきかな)という映画は、アレッゾの町が舞台でした。この映画で、主演のロベルト ベニ-ニはアカデミー主演男優賞を受賞し、カンヌの映画祭でグランプリを獲得しました。 古い映画なので知らない方もいるでしょうが、映画愛好家なら必ず見てるはずです。

 物語は、貧しいユダヤ系イタリア人グイドが、アレッゾの上流階級の美しい令嬢ド-ラと出会う場面から始まります。ドーラに一目惚れしたグイドは、ありとあらゆる機会を捉えて、自分の心をド-ラにわかってもらおうとします。グイドの純粋な愛に心打たれたドーラは、親の勘当をものともせず、町の有力者の息子である婚約者をすててグイドと結婚します。陽気なグイドはド-ラを“お姫様(Principessa)”と呼んで一途な愛をそそぎます。そして二人の間にジョズエという男の子が生まれます。

 しかし、親子三人の幸せな生活は、或る日無残にも打ち砕かれてしまいます。ユダヤ人であるグイドは、ナチスのユダヤ人狩りによって息子のジョズエとともに連行され、強制収容所行きの列車にのせられてしまうのです。ドーラはユダヤ人ではないので連行されませんでしたが、夫と子供と別れることに耐えられず、自ら志願して強制収容所行きの列車に乗り込みます。

 強制収容所という悲惨な状況に置かれても、グイドは天性の陽気さと楽観主義で息子を守り、労働力にならない子供のガス室送りからジョズエを隠し通します。グイドもジョズエも、同じ収容所内の女子棟に収容されているドーラと会うことはできません。愛してやまない自分のお姫様(プリンチペッサ)に一目会いたくて、グイドは頭にスカーフを巻き、腰に布を巻きつけて女子棟に近づこうとします。しかし監視兵に見つかり、銃殺されてしまいます。皮肉にも、そのすぐ後にアメリカ軍が強制収容所を解放するのです。ド-ラは再会した息子のジョズエをしっかりと抱きしめ、グイドと三人での幸せな生活へ思いを馳せるところで映画は終わります。

 映画の前半はむしろ喜劇的構成で、「イタリアのチャップリン」と云われたロベルト べニー二の演技で、大いに笑わされます。しかし、映画の最後は不条理な悲劇で終わります。 それでもロベルト ベニーニ監督は、La Vita(人生)はBella(美しい)といいたかったのでしょうか。彼は、グイドとドーラという二人の男女の愛の純粋さと美しさ、そして子供のジョズエが見せる両親への絶対的な信頼と無垢の愛、これらを人間のもつ普遍的な価値、あるは人生の美として表現したかったのかもしれません。

 学校で授業の一環としてこの映画をDVDで見せてくれました。自分のイタリア語のレベルで、機関銃のようにしゃべりまくる各俳優のセリフを全部聞き取ることなどできるわけがありません。ただ、知らないことばではないので、だいたいはわかりまました。さらによかったのは、映画に出てくる何気ないアレッゾの街角や建物が、自分が毎日通る通学路にある街角だったり、見覚えのある建物だったりするので、映画が非常に身近に感じられたことです。

 ブリュッセルからフィレンツェまでは飛行機で行って、フィレンツェからアレッゾまでは電車で行きました。イタリアには語学の勉強だけでなく、個人的な旅行や仕事などで何度も来てますので、特に困ることや戸惑うことはもうありません。電車の切符は乗る前に駅の黄色い機械に差し込んで、ヴァリデーションすることなども覚えました。これをやらないと罰金をとられます。

 アレッゾで2週間泊まることになる下宿のオ-ナ-は、フンギニ夫人(Signora Funghini)です。日本語に直すとキノコ夫人になります。学校からフンギさんの携帯番号を貰っていたので、出発前から何度か電話で話しをしてました。フィレンツェの駅からフンギニさんに電話をして、アレッゾ到着の時間を連絡すると共に、アパ-トの鍵をどこで受け取れるかを尋ねました。するとフンギニさんは、アレッゾの駅まで迎えにきてくれると云うではありませんか。これまで迎えにきてくれた家主さんなどいなかったので、大変感激しました。

 紺碧の空と、緑濃くゆったりしたトスカナの田園風景を眺めながら、普通列車でとことこと走りアレッゾに着きました。結構重たい荷物をもって駅の階段をあがって駅の正面にでると、上品な中年のイタリア夫人がにこやかに話しかけてきました。キノコとは似てもも似つかないフンギニ夫人でした。お礼をいって車に荷物を積み、助手席に乗せてもらいました。車を走らせながら、フンギニさんとこんな会話を交わしました。
「シニョ-らは、フンギニさんの娘さんじゃないですよね」
「わたしがフンギニですけど、どうして?」
「いやちょっと…….」
「いいのよ。遠慮しないでいってごらんなさいよ」
「電話でお話したときの声の印象では、もっとお年を召した方かと思ったものですから」
「それじゃ、わたしが年寄りくさいということ」
「いやいやそういう意味ではなくて、シニョ-ラがあまりお若いのでちょっと驚いたんです」
「まあ、嬉しいわ。でもわたしの声は年寄りくさいのね。気をつけますよ、これから」
といって楽しそうに笑いました。
 この会話で、一瞬冷や汗をかいたのですが、なんとか切り抜けました。女性と話す時は、世界中どこに行っても気をつけなければならないと、再度肝に銘じました。

 案内されたアパ-トは、寝室が二つもある広々としたアパ-トで、4人や5人の家族が楽々と住める立派なものです。こんな立派なアパ-トに住むのは、苦学生の身分に反するのですが、ま、いまさら代えられないので、フンギニさんにお礼を言って荷物の整理を始めました。外は32-3度の暑さながら、イタリアの建物は屋内に入るとひんやりとして過ごしやすいの助かります。

 学校は、昨年行ったボロ-ニアの学校のアレッゾ分校です。ボロ-ニアの学校の先生や教え方が非常によかったので、同じ学校ながら場所を変えるためアレッゾにしました。月曜の朝、初登校しました。学校まではアパ-トから徒歩15分の距離です。
 指定の時間に事務室に行くと、先客がいました。先客は日本人の女子学生さんでした。わたしの顔をみると、いきなり「日本の方ですか」ときいてきましたので、「そうです」と答えると、地獄で仏に出会ったような顔で「わあよかった、どうしようかと思ってたんです」といいます。

 聞けば、彼女は日本のさる大学で農業関係の勉強をしていて、今回イタリアにアグリツーリズムの研修に来たのだそうです。イタリア語がまったくできないので、この学校で2週間イタリア語を学んでから、同じトスカナ地方の農家に研修に行くとのこと。イタリア語どころか英語もぼちぼちで、学校の事務の人のいうことがよく分からなくて困っていたと、全然困った様子もなく話してくれました。
 20歳の女子大生、翠さんのお父さんは歯医者さん。華奢でどこかのアイドルに似た可愛い顔をした彼女が、手に鋤や鍬をもって田畑を耕す姿など、とても想像できません。もっとも、今時の農作業は機械化されているので、鋤や鍬など手にしないのかもしれませんが。

 学校の事務室で、この時期の在校生の数を聞いて驚きました。なんと全校生が7名しかいません。今まで行ったロ-マ、フィレンツェ、ボロ-二アのどの学校でも、生徒はいつも80人から100人ぐらいいましたので、分校とはいえ30人か40人はいると思ってました。
 生徒数がこれではクラス分けの試験もなく、先生との会話の結果でクラスが決まりました。わたしは中級レベルで翠さんは初級1のクラスでした。わたしのクラスはドイツのニュルンベルクから来た女子大生、カロリ-ヌとメキシコから来た公務員のイヴォンヌの3人だけです。イヴォンヌはよく授業をさぼるので、カロリ-ヌと二人だけの授業の日が多かったです。

 先生のラウラさんは30代前後の女性ですが、非常にいい先生でした。彼女の両親はシシリア出身とかで、黒髪にきらきらした目、生き生きとした表情で、たった二人のわれわれを熱心に教えてくれました。ラウラさんは、大学卒業後に脚本家をめざしてローマの映画専門学校で勉強したそうで、日本映画にも非常に詳しい人でした。渡辺健の大ファンで、隣の教室の壁に渡辺健の大きなポスタ-が貼ってありました。
 ラウラ先生の授業はめりはりがあって、生徒を飽きさせません。どんな小さな質問にも、先生は丁寧に説明してくれます。
 わたしは、文法上や言い回し、単語の意味などこれまではっきりしなかった疑問を、全部先生にぶつけて説明してもらいました。人数が多いクラスでは、生徒一人が先生を独占して質問を続けることは難しいのです。お陰でいろいろな疑問が解消し、今回は今までで一番勉強になりました。イタリア語の世界の入り口に、ちょっと足がかかったような気がしました。

 全校生7名で食事をする機会がありました。わたしのクラスからは、カロリ-ヌとイヴォンヌとわたしの3人、初級1のクラスからは翠さんが1人、初級2のクラスからは、イギリス人の神父ガイとオ-ストラリアから来た女子学生キャロラインが参加し、一応全員参加でした。
 アレッゾの市庁舎前の広場で、ライブ音楽を聴きながら地元の料理を食べました。ここでちょっと頭にきたのは、遅れてきたイギリス人の神父ガイが、まるで当たり前のように英語で話し始めたことです。彼のイタリア語のレベルで、会話についてくるのは難しいことは分ります。しかし、イタリア語で会話をするという申し合わせを、はなから無視する態度が許せません。翠さんだって必死ななって単語を並べて、会話に加わろうと努力しているのです。
 不愉快なのは、世界中の人間が英語をしゃべるのが当たり前といったガイの態度です。彼はこの後ロ-マに行って、2年間の神学修士課程に入るといってます。神学院の講義は全部イタリア語だそうです。彼のイタリア語のレベルと、真剣にイタリア語を学ぼうとしないあの態度では、修士課程などとうてい無理でしょうね。

 学校には課外活動があります。その中にイタリア料理講座があり、参加しました。先生はアリダ センナ-チさんというこの道40年近い大ベテランの女性で、講座は彼女の自宅で行われました。センナ-チさんは、フィレンツェで自分がシェフで旦那さんがサ-ビスを受け持つレストランを経営してきた人です。今は店を人に譲り、旦那さんと悠々自適の生活をしてますが、学校に頼まれて時々料理講座をやるのだそうです。
 メニュ-次の通りです。
     PICI ALL’AGLIONE(ニンニク入りパスタ)
 STRACCETTI DI POLLO CON POMODORI PACCHI(トリ肉の細切りとトマトソース)
    COPPA MARTINI(マルティ-二入りアイスクリ-ム)
 パスタは、粉にオリ-ブオイルと水、塩を少々、それにすりおろしたニンニクを入れて、手で捏ねます。捏ねあがった塊を、本当は冷蔵庫に3時間ほどねかせるのだそうですが今回は省略。塊をちぎって手のひらで丸くします。これを台の上で平たく伸ばし、包丁で細く切ります。切られて紐状になったパスタをゆびで伸ばし、細い麺状にするのですが、これができません。途中で切れてしまったりでこぼこができたりで、均一状の麺ができません。悪戦苦闘しているわたしを見て、先生が“ほらこうするのよ”とやってみせてくれます。先生の手にかかると、指のあいだから長さ太さが全く均一のパスタが、魔法のように出てきます。      
 茹で上がったパスタを先生手作りのソ-スで食べましたが、本当においしかったです。メインのトリ肉料理よりもおいしかったです。

 学校の近くの広場に大きな人物像がたっていました。台座に「Guido Monaco」と刻まれてます。音楽史に詳しい方はご存知かと思いますが、このアレッゾ出身の修道士グイド(992-1050)は、音譜を創始した人なんだそうです。もっとも彼が創り出したのは四線譜で、五線譜にしたのは16世紀末の Anselme de Flandreという人です。名前にフランドルがついてるのは、今のベルギ-のフランダース出身の人なんでしょうか。 余談ですが、モナコというとわれわれはモナコ大公国を思い浮かべますが、本来の意味は修道士です。ドイツのミュンヘンをイタリア語でモナコといいます。ミュンヘンは修道士たちによって造られた町だからです。

 苦学生の身分として外食はほとんどせずに、もっぱら自炊生活をしました。ブリュッセルから持っていったカップラーメンを食べたり、チンすれば結構おいしいインスタントのご飯に、これまた暖めるだけで食べられるカレ-をかけて食べたりしてました。これを自炊と云っていいのかどうか、自分でも疑問には思ってますが。

 他に、アレッゾ駅前においしいピッザの店を見つけ、そこの切り売りピッザをよく食べました。でも、最後は飽きましたね。

 朝食は下宿のすぐ横のバ-ルで食べました。イタリアでコ-ヒ-といえばエクスプレッソのことです。今まで行ったイタリアの各都市では、エクスプレッソは何処でも一杯1ユ-ロでした。でも、アレッゾでは90セントです。地方はまだ物価が安いんですね。バ-ルのおじさんとはすっかり顔馴染みになり、おはようと云って入っていくと、黙ってコ-ヒ-とブリオッシュを用意してくれました。

 アレッゾ滞在中に、わたしは一つの偉業を成し遂げました。皆さんに誇りを持って自慢できる一大金字塔をうち建てたです。それは2週間の間ワインを一滴も飲まなかったことです。というか、アルコ-ルを口にしませんでした。涎が出そうないいワインが溢れているトスカナにいながら、わたしはこの偉業はを成し遂げました。お酒が好きな自分にそれができるかどうか、自分の意思の力を試したかったのです。お酒を飲まない方からみれば、何を大げさなと思われるでしょうが、日頃から意志薄弱に泣いている自分ですので、大目に見てください。

 その代わりといっては何ですが、ブリュッセルに戻ってからイタリアで買ってきたワインをしこたま飲みました。これも大目に見てください。

 ところでお父さん、お父さんも人生で一大決心をしたことがありますか。なに、それはお母さんとの結婚を決意したときですか。その決心が今一大金字塔といえるなら、お父さんのLa vitaは確かにbellaですね。              

No.176.ワイン講座入学の記

No.176.ワイン講座入学の記



 この度、いいトシこいてまた学校に入りました。イタリア語の学校はもう入学していますので、二つ目の学校に入りました。二つ目の学校というのは、ワイン講座です。これで週に2回、夜学に通うことになりました。

 今や、べルギ-の日本人社会において、不肖わたくしめは、働きながら夜学に通う健気な苦学生として、そのゆるぎない地位を着々と築きつつあるのです。

 先般、アジア欧州会議でブリュッセルに飛来された管総理が、当地に働きながら夜学に通う健気な在留邦人がいるとの話を聞き、海外在留邦人の鑑として「国民栄誉賞」の授与について検討するように、秘書官に指示したとかしなかったとか…..。

 その後、日本政府の公的機関からなんのお達しもないところを見ると、総理の指示はなかったと考えていいでしょう。


 自分でもいいトシこいてと思うのですが、トシを重ねるほどに燃え上がるこの向学心、と云えば聞こえはいいですが、要は何でも見たがる野次馬根性を抑えるのに苦労します。ただ、向学心と反比例して脳細胞の働きは低下の一途をたどるという、過酷な現実にも向き合わなければなりません。向学心と脳細胞 の機能低下のギャップに苦しみ、幾夜、枕を涙で濡らしたことでしょうか。

 ワインの勉強を志した本当の理由は、向学心などではありません。わが家の長女ゆきへの対抗心が本当の理由なのです。これでも、ワイン歴、飲んだワインの種類と数、訪ね歩いた数々のシャト-や銘酒の産地など、どれをとってもワインの知識で新参者の娘におくれをとることはありませんでした。

 ところが、一年間ワイン講座に通った娘のワインに関する知識とワインの識別能力が、父親のわたしのそれを追い抜いてしまったのです。これには焦りました。専門家について系統的に勉強をした娘の知識が、わたしが現場で蓄積した生半可な知識など、簡単に凌駕するものであることを思い知らされました。

 これではならじと一念発起、娘が通った同じワイン講座に登録しました。ま、娘への対抗心もありましたが、この際専門家についてワインを一から学ぼうという、謙虚な気持ちになったのも事実です。

  ワイン学のことを仏語で「 Œnologie=エノノロジ-」といいますが、これはギリシャ語の「Oinos=ワイン」からきているそうです。わたしが申し込んだワイン講座は、ブリュッセルはアンデルレヒト区にあるC.R.I.A.(セリア)というフランス語圏共同体政府管轄下の4年制の専門学校が、社会人向けに開設している夜間講座の一つです。セリアには料理、サ-ビス、ホテル、ツ-リズム、などいろいろな学部があります。ベルギ-の有名シェフの中にも、セリア出身の人が何人かいます。

 公立の学校だからかどうか、ワイン講座の一年間の授業料はわずか48ユ-ロです。これに毎回のワインテ-スティング代が7.50ユ-ロかかります。たった7.50ユ-ロで、毎回8種類から10種類のワインをテ-スティングできるのですから、本当に安いものです。

 9月最後の週に第一回の授業がありました。授業は週一回で、18時00から21時30までです。しかし、授業が21時30に終わることはまずありません。早くて22時30、遅いと23時30ごろになります。会社での仕事の後、ろくに食べる時間もなく夕方のミディ駅周辺の渋滞をくぐり抜け、学校にたどりつくだけでもひと仕事です。それから、講義のノ-トをとったり、8種類から10種類のワインのテ-スティングに神経を集中させるのは、結構大変です。

 先生の名前はオディ-さんです。オディー先生の本職は、ス-パ-デレ-ズのワイン仕入れ部長だとか。先生はワインについてしゃべりだすと止まりません。先生のワインに対する情熱、その知識の豊富さと奥深さにはただただ脱帽するのみです。

 先生が時間を気にせずに講義でしゃべり、テ-スティングで各ワインについて詳細な解説を滔々としゃべるので、21時30終了の授業が23時30ごろまで延びてしまうのです。元々、自分の好きな内容の話なので、先生の話を聞くのは楽しいですし、勉強にはなりますが、やっぱりちょっと長すぎますね。

 クラスには男女合わせて40人近い生徒がいます。年齢は若い学生さんから年金生活者までいろいろです。通常、学年末まで残るのは半分ぐらいだそうです。自分も最後まで残りたいですが、どうなりますか。

 生徒の多くは普通のワイン愛好家ですが、中にはレストランの経営者や将来プロのソムリエを目指す人、或いはすでにレストランでワインのサ-ビス係りを務めるセミプロ級の人などもいます。日本人というかアジア人の生徒はわたし一人です。

 この講座は、一年間の授業を受けて期末テストに合格し、上級講座に進級、3年間の講座を終了すると、ソムリエの資格をとることができるのです。わたしも、将来会社をクビになったら、ソムリエで身を立てようかなどと考えないこともないのですが、ま、誰も雇ってくれないでしょうね。

 オディ-先生によれば、先生が若いころ通ったワイン講座に、女性の姿などなっかったそうです。それが今では、クラスの半分近くが女性ですから、ワインと女性の関係も随分変わったものです。

 ワイン学はまずブドウの勉強から始まります。ブドウこそがワインの命です。ブドウの種類(Cépage:セパ-ジュといいます)とその特徴、ブドウが育つ土地の性質及び気候、剪定、枝の張り方、成熟及び収穫の時期、果汁液と発酵、醸造並びに熟成期間、樽の種類などなど、実に多様な項目があります。とても覚えきれるものではありません。

 いいワインには、いいブドウとそのブドウを育てる土地の性質、そして太陽がが絶対条件です。おいしいご飯、おいしい寿司にはいいお米とそのお米を育てる土地と太陽が絶対条件であるのと同じです。

 ワインの命となるブドウ、つまりセパ-ジュの種類は何100種類もありますので、最初から覚えることは諦めてます。ワインを嗜む上で、必要最小限のセパ-ジュを覚えておけばいいのではないでしょうか。

 皆さん(ワインやアルコ-ルを飲まない方、ご免なさい)がこれまで飲んだワインのセパ-ジュ(ブドウの種類)の中で、代表的なものを見てみましょう。

 まず白ワインから始めると、Chadonnay(シャルドネ)と Sauvignion(ソビニョン)が代表的なセパ-ジュです。

 勿論、白ワインのセパ-ジュはたくさんありますが、この二種類のブドウから造られたワインを皆さんは必ず飲んでるはずです。

 シャルドネから見てみましょうか。

 お祝い事にかかせないシャンペンはシャルドネがメインです。それから、ちょっと奮発しないと飲めないブルゴ-ニュの白の銘酒、Corton-Charlemagne, Meursault, Montrachetなどの高級白ワインもブドウはシャルドネです。大金をはたかなくても、ス-パ-で10ユーロ以下で買えるそこそこおいしいシャルドネ種の白ワインがあります。例えば、フランスの南の方のLanguedoc-Roussillonの白やローヌ河地域のMaconの白、或いはロワ-ル渓谷の白などがあります。

 シャルドネ種の白は酸味とアルコ-ルのバランスがとれた安定したワインです。上記の高級ワインなど10年以上の長期保存にも耐える力を持ってます。

 ソビニョンはボルド-の白ワインによく使われてます。軽くて飲みやすいワインです。レストランに行って食前酒に迷ったら、冷えたソビニョンの白を一杯頼むのも悪くありません。ただ、ソビニョンはブドウの名前ですから、いきなりソビニョンをくれといってもだめですよ。“ソビニョン種の白ワインを一杯ください”といえば、レストランのソムリエ氏も“ むむ…、おぬしできるな“と、あなたを見直すかも知れません。ソビニョン種の有名ワインといえば、ロワ-ルのSancerreやPouilly Fuméなどです。ちなみに、シャルドネ種とソビニョン種の白ワインをグラスに注いで並べてみてください。すぐに違いがわかります。シャルドネは琥珀色とまではいきませんが、レモンに近い色です。一方、ソビニョンは水よりちょっと濃い感じの色です。

 ソビニョンは長持ちしませんから、1年か2年以内に飲んだほうがいいです。

 皆さんは、レストランに行って、食前酒としてキ-ルを注文したことはありませんか。キ-ルは白ワインにカシス(黒すぐり)のシロップを加えた飲み物です。これは、フランスのディジョンの市長で神父さんでもあったFélix KIRさんが作り出した飲み物だそうです。

 ここでばらしちゃいますが、キ-ルにはアリゴテ(Aligoté)という種類のブドウから造った白ワインが使われてました。アリゴテ種は大量生産向きのセパ-ジュで、上等なワインはできません。つまり、酸味が強くて口当たりもいまいちな白ワインを飲むために、カシスのシロップを混ぜて飲んだのが事の始まりだったようです。

 それから、キ-ルロワイヤルといって、シャンペンにカシスのシロップを加えるやりかたがありますが、オディ-先生によればこれは邪道だそうです。シャンペンに対する侮辱だそうです。レストランがアペリティフで儲けるために作り出したものと、先生が断罪してます。先生のおっしゃることは、プロとしてごもっともなことなのでしょう。でも、キ-ルロワイヤルが好きな人は、飲んでもいいんじゃないですか。誰に迷惑をかけるわけでもありませんし、レストランも儲かるわけですから。

 ワインといえば、本物はやっぱり赤です。

 赤ワインを造るブドウはこれまた世界中に何100種類とありますので、覚えることは不可能です。ここでは、皆さんが飲んだことのある赤ワインの、代表的なセパ-ジュを見てみましょう。

 皆さん、ボルド-の赤ワインを飲んだことがありますよね。でしたら、次のブドウからできたワインを必ず飲んでます。ボルド-の三大セパ-ジュと呼ばれるカベルネソビニョン(Cabernet-Sauvignon),カベルネフラン(Cabernet- Franc),メルロ( Merlot)の3種類のブドウです。

 カベルネソビニョンはSaint Julien, Paullac, Saint- Emillion, Pomerolなどの有名産地のワインには必ず使われてます。このブドウは大器晩成型で、ゆっくり熟成させるワインに適してます。タンニン分が強いので、このブドウだけで造った若いワインは飲めたものではないそうです。家の建築に例えれば、カベルネソビニョンは土台と骨組みの役割を担うといっていいでしょう。個性の強いセパ-ジュなので、これを補完するために、カベルネフランやメルロを加えます。こうして、ボルド-、特にメドック地方の数々のすばらしいワインが生まれました。この組み合わせにたどり着いた先人の偉業に感謝すべきでしょう。

 カベルネフランはボルド-だけではなく、ロワール地方で広く使われてます。このブドウだけで造られるワインで有名なのが、冷やしておいしい赤ワイン、Saint Nicolas de Bourgueilや Chinon、Saumur-Champignyなどです。皆さんがレストランで会食する時、会食者の選んだメニュ-が魚だったり肉だったりで、ワインの選択に迷う時は、これらのワインを選べばまず間違いありません。タンニン分が少なくてさっぱりしてますので魚に合います。肉料理でも、最近の肉料理はバタ-や生クリ-ムを使わないあっさり系が主流ですので、このワインで大丈夫です。値段も手ごろです。ワインリストの「Loire」のところを見ればみつかります。但し、超高級レストランのワインリストには、これらのワインが載ってない場合があります。その時は覚悟して財布の紐をゆるめるしかないでしょうね。

 まあ、云うまでもないことですが、日本から来られた本社のお偉いさんとか、大事なビジネスパ-トナーを接待する際に、相手をよく見てからワインを選ばないと失敗します。相手がとんでもないワイン通で、ブルゴ-ニュやメドックの本格的な赤などを期待してる場合、冷やしておいしい赤ワインを選んではだめです。将来の出世に響くかもしれませんし、折角のビジネスが旨くいかなくなる懼れがあります。ワインの恨みは恐ろしいです。

 赤ワインのセパ-ジュを語る時、決して忘れてはならないセパ-ジュがあります。それはピノノワ-ル(Pinot Noir)です。このブドウほど不思議なブドウはありません。ピノノワ-ルはシャルドネと一緒になってシャンペンを造ったり、一般向けの安いワインやロゼを造るかと思うと、一本100万円もするブルゴ-ニュのRomanée Contiまで造りだすのです。同じブドウの種類から、どうしてこんなに格差のあるワインができるのでしょうか。

 ピノノワ-ルは、12世紀にシト-会の修道士によってブルゴ-ニュ地方に導入されたと伝えられてます。石灰質が強くて、水はけのよい土地を好みます。Romanée Contiの畑は、地質、水はけ、傾斜、4季の太陽の光の照射角度などが、理想的なのだそうです。ブルゴ-ニュのワインは、ピノノワ-ルだけで造られます。ボルド-や他のワインのように数種類のセパ-ジュの組み合わせをしません。

 ワイン講座で一番難しいのはテ-スティングです。講義の方はノ-トをしっかりとり、先生の配るプリントを予習、復習し、他にワイン関係の本などを読めばだいたいわかります。ところが、テ-スティングだけは本当にわかりません。次の文章を読んで見てください。

「色は洋紅色に達し、香りは熟れた果物、さくらぼの種、すみれの花、トリュッフ、さらに香辛料の香りも感じられる。口の含めば、柔軟で高雅で深い味わいが口中を満たす」Romanée Conti

「豊かな香りが心地よい。薄くバタ-を塗って焼いたりんごの香り、菩提樹、蜂蜜、シナモン、柑橘類の香り。口に含めば、高貴にして寛大な味が広がり、骨組みのしっかりした造りがわかる」Corton-Charlemagne

「色は深いざくろ色。香りは黒すぐり、その奥に革、バニラ, 甘ぞうの香りも垣間見える。」Pauillac

 ワイングラスを鼻先にあて、そして口に含んでみて、上記のようなコメントができないと一人前ではないのです。一つのワインがこれだけ複雑な香りを内包しているのです。さくらんぼはいいとして、何故その種の香りがでてくるんですか。焼きりんごにバタ-を薄く塗ったか厚く塗ったかどうしてわかるんですか。先生によれば、最初はわからないのが当たり前だそうです。絶えずワインの香りかいで、嗅覚の訓練を続けていると、ワインがかもし出す複雑な香りの識別ができるようになるとのこと。

 ワインの色や香り、味を表現することばには、われわれの想像を絶するものがあります。

 白ワインの色:白、緑がかった黄色、レモン色、藁の黄色、金、琥珀、褐色等々

 赤ワインの色:スミレ、黒いさくらんぼ、ざくろ、ルビ-、緋、朱、レンガ、オレンジ、黄褐色等々   

 香り、味は表現が多すぎて書ききれません。定番は果物や花の香りですが、変わったところでは、ピ-マン、玉ねぎ、キノコ、木の下の苔、干草、焼いたパン、胡椒、濡れた犬、猫のおしっこ等々、100以上あります。

 ところでお父さん、お父さんをワインのテ-スティング風に表現するとどうなりますか。「色は藁の黄色から褐色系。脂肪分が強く透明度に欠ける。香りは濡れた犬の香りの奥に猫のおしっこが垣間見える。口中に含む気力もおきず」 よいお年を。